ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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〔22〕遠近法:マティス《ニースの大きな室内》 藤枝晃雄

パノフスキーによれば、遠近法というのは、理想と秩序という世界観を表わす。そして、空間は、消失点に向かって「吸い込まれる」ような奥行き感覚を生み出すというのは紋切り型の絵画観賞だ。もちろん、ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》やホッベマの《並木道》には深い奥行きのイリュージョンがある。しかし、そんな遠近法的奥行きは死んだ空間であり、吸い込まれるような空間のイリュージョンが絵画の芸術性とは思えない。

藤枝晃雄がマティスの《ニースの大きな室内》の評論で、設計された空間ではなく、生きた空間について述べている。まず、遠近法に注意しながら、《ニースの大きな室内》を見て欲しい。




はじめにジョン・ジェイコブスの言葉を引用して、われわれは「モデルの目の高さに向けて直接窓を見ている」、一方、室内は肘掛け椅子や化粧テーブルなどが上から「直接、見下ろして」おり、窓の外の風景と室内が異質な空間として描かれているという。

ところが、峯村敏明が、この開かれた窓にによって仲立ちされた二つの異質な空間について、「高い位置から平面的に捉えた手前の空間が、ねじれるようにして窓外の透視空間に吸い込まれてゆく」と言う。この「室内が平面的で窓の外が透視空間だ」と言うことに対して、藤枝晃雄は、それとはまったく反対の見方をすれば、この絵画の特徴を理解できると反論する。

手前の空間が、俯瞰されているが、床の勾配が急になっており、そのために平面的ではなく立体的になっている。窓の外は通常の視点から描かれている点で透視空間をもつといえなくはない。見るものと女性の間には距離間があるが、それはまさに手前の空間が平面的ではないからである。だが、女性の後ろでは海の上に空が幾何学的に積み重ねられていて手前の空間よりもはるかに平面的である。透視空間の視点によって描かれながら透視空間が拒まれているのであって、そこに手前の空間が「吸い込まれてゆく」のではなく、その逆、すなわち手前の空間を積極的に作り出し、画面を見るものの手前に広げている。


「透視空間なら、海、空は立ち上がり、空の色彩がカーテンへ、鏡、化粧テーブルへと結びついてゆく」けれど、そうなってはおらず、この絵の線や色彩や形がどのような空間を産み出しているかを説明したあと、藤枝晃雄は次のように結論する。
「この作品でマチスが表しているのは、人間とか事物の関係からさらに、これによって成り立つ室内の、不可視の空気なのである。」「『ニースの大きな室内』で、画面はわれわれ見る者の手前に進出する」「そこには深さがあり、空気に満ち膨張した室内=空間があり、それがわれわれに開かれている。ここでは、西洋の伝統が逆転されて息づいている。」

「西欧の伝統」というのは、ここでは消失点を持った線遠近法の奥行き空間のことであり、それが逆転されて消失点のない空気に満ちた室内空間が息づいていると言う。

これは、グリーンバーグの言う、浅くなっていく空間のイリュージョンと関わることだと思われるが、そのことは別の機会に。





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2011.10.31[Mon] Post 23:32  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

「遠近法について」の訂正

【〔21〕美術評論とは何か:遠近法について】にコピペの間違いで、段落が前後してしまいました。訂正してお詫びいたします。

なお、これは岡田さんへの回答ではありません。
2011.10.28[Fri] Post 23:56  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

ルソーの植物遠近法について

エルヴィン・パノフスキーは『〈象徴形式〉としての遠近法』の中で、遠近法は世界が理性的で秩序だったものだということを象徴していると言っている。そうすると、我々は遠近法で描かれた絵を観賞するとき、その理性や秩序の美を感じればいいのか。

それならレオナルド・ダ・ヴィンチの《最後の晩餐》はどうだろう。弟子たちの大袈裟な身振りはともかく、部屋の空間は、ウソ臭いし、第一わたしにはちっとも面白く無い。その遠近法の分析図を見せられても、それがどうしたという他ない。もっと、分かりやすい例はホッベマの《並木道》だ。この作品は中学の図画工作の教科書の載っているから誰でも知っているにちがいない。人が作った並木道だでれど、直線的な建造物ではなく、樹木や泥道が消失点に向かって遠くまで続いているのは美しいといえば美しい。しかし、これもひどく人工的な風景に見えはしないか。

巧みに遠近感が描かれているからといって、絵画が面白くなるわけではない。私がこれまで面白いと思った遠近法の絵をブログから二つ挙げ、ブログの一部を引用する。



ゴッホ《草むらの中の幹》  『没後120年 ゴッホ展』



一番、ゴッホの風景画の秘密がよくわかるのは、最晩年の《草むらの中の幹》(1890年)だ。

この風景画も近景中景遠景で出来ている。ど うもゴッホは遠視ではないかと思われるほど、近景が大雑把に、遠景が細かく描かれている。上にあげた風景画はどれもその傾向があるけれど、《草むらの中の 幹》は草地のゆるやかな斜面に木の幹が左の二本の太いものから右上へ五六本並んでいる。キャンバスの上の縁に沿って、小道があり、白い花を咲かせた潅木が 奥の方にみえる。樹木の上部の枝葉はどれもキャンバスの上の縁で切られている。このことが、小道からの斜面を奥のほうまでつづく下草の広がりをより魅力的 なものにしている。




アンリ・ルソー《エデンの園のエヴァ》 『ルソーの〈植物遠近法〉』



ルソーにも平面的なところがあるけれど、ピカソと違って、この作品の魅力は、遠近法と月の逆光の処理、そして葉と葉の重なり具合が微妙にチグハグでありな がら、丁寧に塗られた絵具がなんとも官能的なところにある。他にルソーの風景画が二点あったが、どちらも面白くなかった。《エデンの園のエヴァ》の魅力 は、ルソーの「ジャングルの絵」に特有の遠近法にある。

建造物なら線遠近法で描ける。遠くのものは小さく、近くのものは大きく描く。しか し、植物は似たような形態の大きなものや小さなものがある。大きいからと近くにあるとは限らない。小さいからと遠くにあるとは限らない。そもそも基準とな る直線がなくて、曲線ばかり、枝も葉っぱも絡まっているし、すき間があるし、前後重なりで遠近を表すけれど、その重なり具合もはっきりとしない。しかもル ソーは空気遠近法を使わない。近くのものも遠くのものも同じ明確な線と色で描く。前の葉と後ろの葉が同じ平面で接している。

そこにシュールレアリズムのトリックとは違う、不思議な空間のイリュージョンが生まれる。わたしはこれを「ルソーの植物遠近法」と名づけることにする。ジャングルのシリーズのなかでもこの《エデンの園のエヴァ》は植物遠近法の最も優れた作品のひとつである。




ここで、我々は遠近法に関する何らかの結論をだそうというのではない。ただ、優れた遠近法というのは、理想や秩序の象徴ではなく、むしろ、空間の不連続や捩れのようなものを表わすのではないか。ここで、われわれは、例によって、マチスと藤枝晃雄に解答を探すことになる。

つづく

2011.10.28[Fri] Post 23:11  CO:0  TB:0  -アンリ・ルソー  Top▲

「大きさについて」孫と遠近法 岡田さんへの手紙

遠近法との関連で、ポンゾ錯視、ミュラー錯視、恒常性などについて、具体的な図例を知りたくて検索をしていた。オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョン、図形と図像、図像客観と図像主題などが関わっているらしいことは推察できる。図像客体の十センチの少年が一メートル数十センチの図像主題に見えるのは、経験的に少年の身長がどのくらいか知っているからだ。絵に描かれた抽象的形体には大きさがないけれど、抽象彫刻には大きさがある。写真に撮れば大きさがわからなくなる。傍らに人が立てば大きさは判る。(線)遠近法と大きさは密接に関係していると言われるが、どう関係しているのか、なかなか理解出来ない。

以下のサイトを見つけた。私がやってみたかった実験を代わりにやってくれている。ひと通り試して欲しい。


『大きさの恒常性』

『ポンゾ錯視


個人差はあるだろうが、多くの人は解説に書いてあるとおりに見えるはずだ。試しに、遊びに来ていた五歳の孫娘にやってもらった。すると面白いことが起きた。予想できたことだが、一番ハッキリと「イリュージョン」が見えたのは『大きさの恒常性』のケーキだ。ケーキの背景を消すと、私にはもともと大きく見えた遠い方のケーキが、相変わらず少しだけ大きくみえた。孫には判らないようだった。そもそも離れている二つの大きさを比べるのは、それがたとえ図像でも難しいのではないか。

ポンゾ錯視の方は、正三角形と逆三角形では、不安定だけれど、ほぼ解説通りに見えていたようだが、具体的な遠近法で描かれた線路のような図例では、上の赤い線の方がはっきりと長く見えるだろうという予想に反して、ケーキのときほどハッキリとはしなかった。初見のときは、ハッキリと上の線が長く見えていたのだが、背景を消したり、場所を移動させたりしていたら、どちらが長いか分からなくなってしまったらしい。ところが、突然、孫娘は両手の人差指をモニターの前に平行に立て、その間から赤い線を見ようとした。たぶん、二本の線を遠近法的な図像ではなく、客観的な線分として見ようとしたのだ。でも、上手くいかかなかったのだろう。すぐにあきらめて、判らないと言った。

これは、「大きさの恒常性」のケーキの例で、同じように背景を消したり、位置を変えたりしても、元に戻せば、大きさも元のとおり大きく見えるのとは、随分と違っている。ケーキが大きく見えるのは線遠近法とは関係がないのではないか。手前のケーキを隠しても、あるいは隠せば、なおさらケーキは大きく見える。マグリットの部屋いっぱいのリンゴと同じ事だ。

たとえば、二階建て家の横に屋根まで届く人間を描けけば、遠近法とは関係がなく、それだけで、人間が大きく見える。あるいは家が小さく見える。もちろん、それが写真であれば、人間が尺度になって、家が小さく見える。ヴェラスケスの《エル・プリモ》は大人であるが、子供の背丈に見えるのは体つきが小人だからだ。

手を離して、遠近法の空間のなかで二つのケーキを見ると、理論的には縮尺の逆数を掛けただけケーキが大きく見えるはずだが、実際はそれほど大きくはみえない。大きさを比較しようとすると、大小の差は縮まる。それはたぶん、知覚している図形(図像客体)の客観的大きさが図像主題の大きさに影響を与えているのではないか。

もう一度、ポンゾ錯視に戻って、図像ではなく、正三角形を使ったポンゾ錯視の図形について考えてみよう。この図形は全くの平面図形であり、遠近感はないように見える。解説の説明から引用。

この錯視は、1928年にポンゾというイタリアの心理学者が考案したものです。これはしばしば遠近感にからめて説明されます。例えば三角形の2辺が、遠 くへ伸びている線路だと想像してみて下さい。すると、最初の図形の場合、上が地平線の方向になります。その線路の間に置かれた2本の棒が同じ長さに見えた としたら、実際は遠くにある方(上)が長いわけですよね。このような遠近感が錯視をひき起こしているというのです。


確かに水平線に伸びている線路だと想像すれば、奥行きの感覚が生じることは確かだ。しかも平行な線路がだんだんと狭くなって行く。そして上の線が少し長く見える。しかし、二本の線に注意を向けると、奥行き感は消えて、三角形は線路ではなく、もとの平面図形の三角形にもどる。重要なことは、元の三角形に戻っても、上の赤い線の方が長く見えることだ。線路と見立てたほうが長短の差が大きいようにも思えるが、確信はない。

三角形は無理やり、地平線に消える平行線(線路としては枕木がない)に見えなくはないけれど、そこに同じ(ぐらい)の長さの平行線を水平に描けば、遠近感(奥行き感)は減少する。二本の線の長短を比較しようとすると三角形は全くの平面図形になる。それでも、上の線が長く見えるのは、ポンゾ錯視が遠近法の奥行きの影響ではないとも言えるのではないか。上の線が下の線より狭いところに嵌めこまれているから、長いように見えるだけなのかもしれない。

ここまで執拗に繰り返せば、分かる人には分かったろう。多くの人は知覚と図像の違いを理解していない。三次元の知覚の世界では事物は遠くにあると小さくみえる。距離と大小は連動している。ところが図形では大きさと距離は関係していない。紙に描かれた二本の線は、どちらも紙の表面にある。だから見ている人から同じ距離にある。二本の線で紙を破って、別々のして、片方を遠くに、もう一方を近くのおいてみれば、遠くの線は近く線より短く見える。紙に描かれた二本の線は実在している。

紙の上の同じ長さの二本の線は同じ距離にある。ところが、長短二本の線があると、短い線が遠くにあるように見える。あたり前のことだが、同じ長さの二本の線は遠近感のイリュージョンを作らない。少し長く見えるのは遠近法のせいではない。奥行き空間のなかに二本の水平線を書いても、遠くにある線が長く見えることはない。反対に遠近感を阻害するように働く。遠くにある線が長く見えるなんて都合の良いことは生じない。だから、線路の枕木の間に赤い線をおいても、それは線路の奥行きの空間に収まらずに、浮き出て見える。そもそも枕木は同じ長さにみえない。遠くにある枕木が短く見える。というより、短く描くことで遠くにあるかのようなイリュージョンを生んでいる。同じ長さに見える代わりに、奥行きがあるように見るのだ。

話が混乱しただろうか。現実の知覚では三次元の空間を見ている。遠くにある者は小さく見えることを知っている。絵画では逆に小さく描かれたものが遠くにあるようなイリュージョンを生むのだ。ポンゾ錯視は遠近法とは異なる現象のようだ。しかし、遠近法の影響は受けていると思われる。

以上の現象の理解には、たぶん相当に工夫された心理学者の実験が必要だろう。たとえば、ポンゾ錯視やミュラー錯視がどの程度遠近法に影響を受けているかを解明する実験方法は私には思いつかない。ミュラー錯視の遠近法説は相当に怪しいと思う。(見ればわかるとおり、部屋の内部の空間と建物の外部の空間とは、別の空間である)

こんな些細なイリュージョンのことは本当はどうでもいい。われわれの関心は「絵画を理解」することだ。実際の絵画鑑賞は見えるとおりに見ればいい。もちろんそれがオプティカル・イリュージョンなのかピクトリアル・イリュージョンなのかは絵画の観賞に重要な影響を与える。そして、これは、岡田さんには秘密だが、実は絵画の空間イリュージョンの問題につながっている。

一部というか半分以上文脈がおかしくなっていると思いますが、これはわたしの絵画の理解が不完全だということもあるが、それよりも、絵画そのものの問題が神秘に満ちている所為だと、一応理解してもらえればありがたい。






大きさと奥行きの関係はどうだろう。

全くの無地の白い紙の左下に、正面向きでも後ろ向きでもいいから人物像を描き、右上にそれより少しちいさい人物像を描いたら、どう見えるだろう。道や建造物がなくても遠近感奥行き感を感じるだろう。

2011.10.22[Sat] Post 22:22  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

『写真はインデックス記号か?』(再掲)

ホームページ『絵画の現象学』の評論『写真はインデックス記号か?』を転載しておく。これはまだ、図像客体と図像主題の類似と図像主題と被写体の類似の違いをハッキリとは理解していない。注意して読んでください。
 

     『写真はインデックス記号か?』

 これはバルト批判のつもりで書きはじめたものだが、中途半端に終わってしまった。バルトは写真を記号学的に分析すると言いながら、記号学的修辞で飾り立てた古典的な図像学を開陳している。彼の映像の修辞学と称するものは、広告写真のイコノグラフィーである。広告写真と宗教画は同じ目的をもっているのだ。

*  *  *

 写真の本質は「それはかってあった」だと、バルトはいう。写真は常に実在を示すが、絵は、ケンタウロスであろうが、リンゴであろうが、「それはかってあったもの」ではない。もちろん絵も、今そこに存在するがごときイルージョンを呼び起こすことはできるけれど、「それはかってあった」ものではない。ラスコーの洞窟画は、写真に負けない迫真性をもっているし、そこに描かれている野牛は、「かって存在していた」と考古学者は推測するだろう。しかし、その野牛は想像上の動物かもしれないし、たとえ存在したとしても、そこに描かれているとおりの、具体的な個体として、その野牛が存在したわけではない。図像の迫真性と対象の実在性とは別であり、絵は実在に達することはできない。
 絵は、それがどんなリアルな写生画でも、絵筆によって描かれたものであり、画家の想像力がしみ込んでいる。それにくらべ、写真はいわば指紋であり、いくらボケていても証拠になる。ネス湖の恐竜も空飛ぶ円盤も、そして雪男も、写真があるから実在するというわけだ。
 天使は写真に写らない。写真に写るのは眼にみえるこの世の事物だけである。したがって、すべての写真の被写体は存在する。これは写真である。ゆえにこの被写体は存在する。この三段論法によって、写真は魔術になる。たんなる描写のリアリズムを超えて、写真は、実在を付与する呪術的リアリズムとなる。
 写真は誕生したときから特権的な図像であった。たとえば、ダゲレオ・タイプは、鏡に写った像を、そのままガラス板に定着したように思えたし、また、写真を撮られると、自分の表皮が剥がされて、寿命が縮まると、おそれる者もいた。これは写真画像が、絵画とくらべてよりリアルで迫真的であったことはもちろんだが、それよりも、写真が機械的化学的操作で生み出されたからである。写真師が、まるで手品のように、暗箱から写真をとりだす。写真の魔力は、リアルな迫真的描写ばかりではなく、逆説的なことに、写真が反魔術的な科学的データだということから生じたといえる。
 記号論者のパースは、写真が絵画の仲間ではなく、足跡指紋の仲間だと考える。まず、記号をイコンとインデックスとシンボルの三つに分け、絵をイコン(図像)に、写真をインデックス(刻印)に、そして、言語をシンボルに分類する。インデックスとは対象と実在的連関のある記号のことである。写真は足跡のように直接の接触によって出来るわけではないが、事物に反射した光が、レンズを通しフィルム上に結んだ像を、銀化合物で写し撮ったものだから、写真は事物の薄膜を剥ぎ取った光のインデックスなのである。
 たしかに、写真の起源はインデックスである。ニエプスが世界ではじめて撮った窓外の風景は、影絵のように階調性に欠けていたし、同じ頃、イギリスのタルボットは、銀化合物を塗った紙の上に、直接、木の葉やレースをのせて、フォトグラムを作っていた。後にマン・レイが再発見するフォトグラムは、写真がイコンではなく、インデックスであることを示している。
 たしかに、写真が証拠になるのは、インデックスだからだ。しかし、それだけでは写真の魔力、不在のものを眼前に髣髴と呼び出す魔力を説明することはできない。もちろん、インデックスにも対象の姿かたちを示す図像性がある。砂浜に付いた足跡は左右凹凸が反転しているけれど、足に似ているし、紙に押した手形は、二次元だけれど白黒二階調の手の形をしている。しかし、どちらも写真の特徴である陰影濃淡の階調性はない。これはデスマスクを見れば、なおはっきりする。白い石膏のデスマスクは実物の大きさ凹凸を正確に再現しているけれど、それがいったい誰なのか、鼻や顎などの部分々々の特徴をくらべて、かろうじて推測できるだけで、まとまった一人の顔として認識するのは難しい。しかし、写真なら、誰だかすぐに分かる。ほくろも傷もある、一人の特徴ある人間の顔として記憶も出来る。写真には他のインデックスとは違う陰影濃淡があり、知覚されたものと同じ階調性がある。写真は、絵画がながいあいだ望んでいた、イリュージョニズムを実現したハイパー・リアルな図像である。写真はインデックスでもあるし、イコンでもあるのだ。
 写真の真理は二重である。一つは図像、すなわちイメージとしての真理であり、いっさいの前提なしに一枚の写真を眺めるときに現れる真理、写真のリアルで細密な再現表象の真理であり、被写体が、あたかもそこに存在するかのように現出していることである。もう一つは光学的化学的な真理、すなわちレンズの屈折や、感光乳剤の化学反応の真理であり、画家の手ではなく、まったく物理化学的な過程で作られた画像の客観性である。後者のインデックスの科学的真理は、本来は脱魔術的なもので、イコンの図像的魔力に反するのだけれど、化学がまだ魔法から抜けきらなかった時代に、写真を撮ったり、撮られたりする写真実践の繰り返しの中で、歴史的に沈殿した制度として、イコンとインデックスが一つに融合して写真の真理となったのである。
 バルトはこの写真の真理を「それはかってあった」だと言うのだが、それは自分の母の写真を見て、母を追慕しているのであり、バルトの母親を知らない者は、そこに過去を見るとはかぎらない。日常の生活では、写真はたいてい過去ではなく現在を示している。パスポートの顔写真は写真を撮った三ヶ月まえの顔ではなく、いま現在の顔だし、観光ポスターのエッフェル塔は、いまパリに立っているエッフェル塔である。もちろん写真に過去を見ることもある。たとえば、被写体の人物がすっかり変わり果てた姿をしていたり、写真そのものが古びたセピア色だったりすれば、「それはかってあった」という意識が伴うだろう。古いアルバムを見れば、まだ若い頃の自分や家族たちに出会うわけだし、また、その中の一枚の写真に没入するなら、過去意識は薄れ、その写真の中の〈今に〉生きることになる。写真の時間意識は、さまざまに変容するのであって、バルトがいうように、写真の本質が「それはかってあった」だとは一義的にいうことはできない。
 絵画をふくめた図像一般の時間構造は、基本的に今と過去と過去完了(場合によっては未来完了)である。たとえば、ダヴィッドの「ナポレオンの戴冠式」は、美術品としてルーブル美術館にいま展示されている。そこには過去の出来事があたかもいまそこで行われているかのごとく、迫真的に再現されているのだけれど、そこに描かれている〈出来事の過去〉の他に、絵画には、絵筆のタッチという別の種類の過去がある。恐竜の足跡が、恐竜の歩行の軌跡であるように、タッチは画家の手の動きの軌跡であり、画家の手の運動を記憶している。したがって、「ナポレオンの戴冠式」には、ダヴィッドが絵を描いた時間と戴冠式が行われた時間のふたつの過去があることになり、絵画のタッチは、いま、知覚されている絵の具という物質であり、この今の知覚対象を媒介にして過去が志向されているのだから、〈絵画制作の過去〉は現在完了であり、戴冠式そのものは絵画制作より前の過去、すなわち過去完了ということになる。
 ところが、写真にはこのタイム・ラグがない。もし、「ナポレオンの戴冠式」が写真なら、写真制作と戴冠式の時間は同時であり、シャッターが押された瞬間に、乳剤が感光し、戴冠式の画像が定着する。しかも、写真の表面には、絵筆のタッチのような、偶然的なものはなく、印画紙の表面はなめらかで、乳剤が感光した痕跡はどこにもない。したがって、写真の過去は単純過去であり、絵画のように過去が二重構造にはなっていない。
 写真の真理は二重であり、写真と絵画を分けるのは、写真が単純なイコンではなく、インデックスでもあったからだ。ところが時間構造の分析では、イコンであるはずの絵画にはインデックスの複合過去があり、インデックスであるはずの写真にはインデックスの複合過去がないという反対の結論に達した。いったい写真にインデックスの真理を認めたのは間違いではなかったのか。
 写真を含めた図像の時間性は複雑多岐にわたっており、図像には、知覚はもちろんのこと、想起や想像や記号意識などが複雑に絡みあい、個人的な写真経験だけではなく、百六十年の写真の歴史が沈殿している。純粋な視線などというものはないし、見ることを完全に純化することも出来ないけれど、写真の真理をしるために、まず、写真の特権を剥奪し、写真と絵を区別しないことである。写真とは、印画紙の表面に現れた図像のことであり、それ以外のもの、現像やプリントの過程、カメラの構造原理などは、いっさい根拠を持たない。あたかも写真をはじめて見た人間のように写真を見ること、ラスコーの洞窟の住人のように写真を見ることから始めなければならない。
 写真はインデックス記号ではない。幸いというべきか、コンピュータの画像処理の発達で、写真の証拠能力がなくなってきた。写真が証拠になるのではなく、写真のほうが、真理であるために、証拠が必要になったのだ。
 ゲルハルト・リヒターは、写真がインデックス記号ではなく、ただ、写真様式で描かれたイコン記号だということを示しているのだ。

もう一度、確認しておくと、図像記号というのは、知覚している図像客体がそこに現出した図像主題を指示することだ。そこに現れた図像主題が誰を指示するかは別の問題だ。写真はダイレクトに図像客体が図像主題を貫徹して実在の人物に的中しているという確信がともなう。










2011.10.19[Wed] Post 15:38  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

 岡田さんへの手紙 ⑦

岡田さんの反論の中に図像主題に関する誤解があるようなので、HPの『写真はインデックス記号か?』を転載しておきます。図像の三層構造が必ずしも明確に分けられるわけではない。図像主題は実在するとは限りません。ケンタウロスの絵はケンタウロスを示しています。まあ、そんなことより、写真について語るなら写真をよく見なければなりません。肖像画と肖像写真の比較、知っている人と知らない人、ゲルハルト・リヒターのピンぼけやブレたフォトリアリズム、一度もあったことない有名人の写真。モノクロとカラー写真のリアリティーの違い。「写真と模写とコンピュータ加工」を繰り替えした作品。森村泰昌の仮装のセルフポートレイト、写真を撮った写真、まだいくらでもある。
 
岡田さんは「あるいは、マンガの図像であるサザエさんは江利チエミや 星野知子、 浅野温子 、観月ありさを模造再現しているとでも言うのでしょうか。」と言っていますが、たしかに「摸造再現」というのは誤解を招くことばです。これはフッサールが考えていた図像が写真や写実主義の絵画だったからです。だから絵画を制作する立場から、「図像客体と図像主題の関係」と「絵画とモデルの関係」を混乱してしまったのだ。このことは、図像記号は類似によって自分以外のものを指示すると、何度か注意を促している。図像客体が図像主題に類似いるのと、図像主題がモデルと類似しているのとは、まったく別の「類似」だ。図像の類似は内在的関係すなわち志向的関係(笑い)で、モデルとの類似は外敵関係である。両者は独立に存在する(外的知覚の対象)もので、例えば、双子が類似しているようなものだ。後者の類似が本来の意味での類似である。サザエさんの例では、江利チエミがサザエさんを模倣している、演じているのだが、必ずしも外見が似ている必要はないし、少なくとも図像記号の関係ではない。これは、演劇のイリュージョンと役者に関する昔からある難問だ。たとえばハムレットとハムレット役者の関係だ。我々はハムレットを見ているのか、それともハムレット役者を見ているのか。それに、サザエさんをラジオドラマにしたらどうなるか、知覚することしかできない絵画の問題で行き詰まっている私には、とても手におえる問題ではない。目で見なければ、見えない絵画について、見ないで論じる人が多いのは、嘆かわしいことだ。

それから空間の問題になると岡田さんは逆上するようだけれど、わたしは、空間についてまとまった考えを述べたことはない。ポロックのときも、ただ首を振ると奥行きのイリュージョンが見えると言っただけなのだが、突然、叱られた。それに対して、わたしは『首振り立体視』というブログで答えた。
2011.10.19[Wed] Post 15:24  CO:0  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

遠近法について(岡田さんへ6)






















右図は岡田さんのブログ「『見える通りに見る』ということ」からコピペした。遠近法とポンゾ錯視を合わせた図像ということだ。図像には以下の説明がついている。

この単純な図柄において、私だけでなく多くの人に奥行き知覚が為されているだろうという推測は、次のことによっても補強できます。私はこの絵に重ねた、コピペによって作った、赤い二本の線の上が下より、長く太く感じられるのです。
そしてこのような私の知覚はポンゾ錯視として一般的に認知されている錯視だからです。


二本の赤い線の上が下より、長く太く感じられるというのは良い。さらに私には上の線が明るく彩度が高いようなきもする。しかし、なぜ、これが錯視だと思うのだろう。錯視に特有な感覚はない。錯視だというのは岡田さんが、この二本の赤い線はコンピューターでコピペしたことを知っているからだ。「客観的に」同じ長さの線は、異なった背景風景の中に置いても同じ長さに見えるはずだという思い込みがあるから、違って見えるのはイリュージョンだと思うのだ。しかし、長さや大きさ、彩度や明度や色相が環境によって、違って見えるのは、異常な知覚ばかりではなく、正常な知覚の場合もある。もちろん図形や図像だけではなく、三次元の知覚空間でも起こるだろう。どちらにしろ、それが、オプティカル・イリュージョンの場合は、正常な知覚ではないという意識をともなっている。イリュージョンを一瞬正常な知覚と間違うことはあるけれど、すぐに訂正されるのが普通だ。

もちろん、ポンゾ錯視といわれる現象はある。しかし、通常の絵画を鑑賞する態度では、そのことに気づくことはない。見えるとおりに見えればいいのだ。ところが、ポンゾ錯視の実験は観賞ではない。比較判定する科学的態度なのだ。もちろん物差しで測ることは禁じられている。どちらが長く、あるいは短く見えるかを判定する。鑑賞者ではなく、被験者なのだ。

前回、述べたように、ポンゾ錯視と遠近法の長短は別の現象なのだ。岡田さんは、図形と図像を意図的に混同させている。そのために、岡田さんは図形と図像のどちらにもとれるイラストを用いる。しかも、二本線のない遠近法用のイラスト(A図)と二本線の描いた錯視用のイラスト(B図)を使い分ける。

A図はハの字の平面的な図形にも見えるし、奥行きのある遠近法的な空間にも見える。しかし、一本道の図像性はそれほど強くない。ようするにどちらにも見える。ところが、赤い二本線を描き加えたB図は、ほとんど遠近法的奥行きは消える。もちろん、A図の記憶があるし、三角形に注意をむければ奥行きは見える。ところが、被験者として図をみると、二本の赤い線は奥行き空間から外に出て、ほとんど平面図形に見える。遠近法が二本の線の長さに影響を与えるどころか、二本線が遠近法的奥行きのイリュージョンを壊してしまうようにさえ見える。

もしこの絵(図像)が一本道なら、道幅との比率でみれば、上の赤い線は下の赤い線と比べて、二倍の長さに見えてもいい(意味する)はずだが、そんな風には見えない。図形の客観的な長さが、一本道という図像の遠近法的空間の長さに見えないからだ。具象的な遠近法の空間では大きさはどんな風に見えるか以下の絵を見てほしい。

 『 科学講座』 (http://www.i-kahaku.jp/learn/kouza2004/kagaku1.html

後ろの自動車は本来の遠近法では小さく描けば、同じ大きさに見えるのだが、同じ大きさに描いてあるので、逆に後ろの自動車が二倍近く大きく見える。しかし、どこか違和感がある。同じ車種の乗用車は同じ大きさなのだから、遠くにあれば、小さく見えるはずだ。それが反対におおきくなっているので、これは正常な遠近法ではないことになる。道路は線遠近法で描かれていて、奥行き空間のイリュージョンは強くでている。しかし、車は同じ大きさ(たぶん)なので、遠近法の奥行きイリュージョンを弱める働きをする。そのため、同じ長さの枕木が並んでいる線路のように遠近法的空間は安定してはいない。 この不安定さを解消するには、そういう大きな広告用の張りぼてだと思いこむか、車種を変えて、乗用車の代わりに同じ大きさの大型ダンプカーにでもするほかない。 
 
B図に戻ってみよう。二本の赤い線は抽象的な図形であって、枕木や自動車のように具体的な長さや太さをもっているわけではない。 それは平面上の長さであり、イリュージョンの奥行き空間の中の長さではない。現実の空間では、同じ長さの棒は、遠い方が短く見える。知覚は棒の遠近を認識している。紙に描かれた二本の線は、短い方が遠くにあるわけではない。同じ紙の平面上に描かれているのだから、距離は同じだ。しかし、人間などの具象的対象なら小さければ遠くに見える。しかし、これも、床や歩道など遠近法的空間の中に描かれていなければ遠近感は生まれない。もちろん実際に描かれていなくても、想像上の床でもかまわない。もし、そうでなければ、二人の人物は別々の空間にいることになり、両者の遠近関係は生じない。
 
まだまだ、遠近法について書くことはたくさんありそうだが、ひとまず、途中だけれど続きは次回へ。

追記:岡田さんはB図に奥行き感覚があるといっている。しかし、これは遠近法の奥行き感とは別の感覚ではないか。遠近法は、あくまで具象性の問題のような気がする。もちろん、それがポンゾ錯視に影響を与えている可能性はある。ポイントは自動車の絵は違和感があること、それからポンゾ錯視には通常だれも気づかないということ。この二つが絵画には重要だと思う。
2011.10.17[Mon] Post 00:36  CO:2  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

岡田武さんへの返事(5)

『美術評論とは何か』の〔16〕で掲載した図をもう一度見て欲しい。


ミュラー錯視






左の窓を描いた直方体は、常に透視図法で描いた二階建てのビルに見えるけれど、右の窓を消した図形では、立体的な直方体と平面的な六角形とが交替に現れる。両方とも平面に描かれた線分を「知覚」している。そこに図形あるいは図像が現れる。図像が安定的に現れるのは、それが具象的な対象だからだ。輪郭線だけの直方体の図形は、平面的な六角形にも見えるけれど、具体的な二階建ての建物の図像のほうは、日常的な風景の経験があるので、常に立体的な二階建ての建造物に見える。色や陰影がついていれば、いっそうピクトリアル・イリュージョンは安定的具象的に見えるだろう。

(この六角形と直方体の交替現象はオプティカル・イリュージョンというよりも、ゲシュタルトの問題のような気がする。陰影をつけても下図の円の場合ほどイリュージョンの感覚が強くなるわけではない。直方体は具象的な箱ではなく、抽象的な形体であり、建物のように具体的な大きさはない。この辺の問題は、抽象画と密接な関係があると思われる。)

下の図は『陰影による奥行き知覚』であり、通常は上から照明が当たっているように見える。上部が明るい円は凸に、下部が明るい円は凹にみえる。


ところが、下図の「hollow face 錯視」では、マスクを表(凸上)と裏(凹下)から写真にとって平面にすると、どちらも凸の顔に見える。平面ではなく、実物のマスクを裏側から見れば、両眼視差などのために凹に見える。単眼視などすれば、凸のオプティカル・イリュージョンがみえることもある。もちろん誰でもやることだが、「首振り立体視」(①~③)(運動視差のこと)をすれば、イリュージョンは消えて、凹面に見える。





ここで重要なことは、「陰影による円の凹凸」が不安定なことである。とくに凹の円は凸に見えることがある。また、凸の円が浮き上がって見えることなどから、「陰影による円の凹凸」がオプティカル・イリュージョンだということが判る。さらに、写真ではなく実物のマスクの凹面はもちろん凹面に見えるのだが、ときには凸面に見えたり、浮き上がって見える。これは、もちろんオプティカル・イリュージョンが見えているのだ。それに対して、写真に撮った凹面のマスク(図像ということ)は、凸面のマスクの写真と同じように安定して凸顔に見えるし、錯視のように浮き上がって見えない。(注1)

オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンは異なる現象だ。オプティカル・イリュージョンは錯視的知覚であり、あくまでも知覚の仲間である。それに対してピクトリアル・イリュージョンは図像意識であり、想像の仲間だ。(注2) 図像意識とは「知覚に基づく想像」であり、自由な想像とは異なる。何度も繰り返しているが、モノクロ写真の「図像客観」は、灰色の肌をした5cmの少年だが、われわれが見ている「図像主題」は、ピンクの肌をした身長120cmの少年だ。

ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンの違いを「色」で考えてみよう。緑の円をしばらく見たあとに、白い壁を見るとピンクの円が見える。これは網膜の生理的現象であって、モヤッとした錯視的知覚である。知覚であるから確かにピンク色の円が見えている。それに対してモノクロ写真では、知覚をしているのはあくまで灰色だけれど、それをピンクの肌として見ている。それは知覚した客観的図像の存在定立を中和化して、線や色や形ではなく、図像主題(意味)の少年を見ている。知覚している図像客観を超越して、図像主題を想像志向する。

絵画は言語と似ている。言葉も絵も、自分自身ではない他のものの代わりを(stand for)する記号だ。我々は文字を知覚している。しかし、文字を見ているのではなく、意味を見ている(記号意識)。文字は弁別差異のシステムだから、差異が弁別できれば、如何様に書いても意味が分かる。音声でもジェスチャーでも構わない。絵画も知覚している。しかし、文字と同じように絵具や線を見ているのではなく、林檎だとか人物だとか具体的な対象を見ている(図像意識)。絵画は弁別的差異の記号ではなく、類似によるアナログ記号だから、線や色や形の微妙な違いで、ピクトリアル・イリュージョンは様々に変化する。絵画の秘密は、この知覚に基づく想像ということにある。自由な想像のように観者の勝手にならない所が、むしろ、絵画の豊かなイリュージョンを生み出す。

イリュージョンが、そうでないのにそう見えるということ、あるいは、あたかも知覚しているように見えるということなら、ピクトリアル・イリュージョンはイリュージョン(錯視)ではない。絵画は平面上の線や色や形の「知覚に基づいた想像」であり、図像主題というのは「意味」でもあるのだ。

さて、図像客観と図像主題の違いをもう一度確認しておきたい。実際の絵画を見るときは二つが截然と分かれているわけではないし、オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンも同様である。知覚と想像が混じっているのだ。しかし、現象学的還元をして、ということは、意識の志向的対象に注視するのではなく、対象を志向している意識の方に注意をむけながら、対象がどんなふうに現れるかを見れば、知覚と想像とイリュージョンの違いが見えてくる。モノクロの写真の少年の図像客観は肌は灰色で身長は10cmだが、図像主題の少年は肌がピンクで身長が120cmぐらいに見える。灰色ではないことは、たとえば、白黒の広告写真で、モデルが身につけている商品(装飾品など)だけがカラーでプリントされていると、モデルの肌はピンクではなく、灰色に見えるので、不気味な感じがする。一部がカラーなので、モノクロ写真ではなく、カラー写真として見られるのだ。それで肌の灰色が灰色に見える。

前々回の「線路」の絵を見て欲しい。「一番手前の枕木と五番目の枕木はどちらが長いですか」と問われたら、たぶん同じ長さだと答えるだろう。しかし、「一番目の黒い線と五番目の黒い線はどちらが長く描かれていますか」と問われたら一番目の線が長いと答えるだろう。前者は図像客観、後者は図像主題である。図像客観は知覚している線分で、図像主題は同じ長さの枕木だ。遠くにあるので、短く描かれている。この場合、われわれは図像客観と図像主題を比較的自由に切り替えることができる。

それに対して、正常な知覚と錯視的知覚は自由に切り替えられない。ポンゾ錯視の例(Wikipedia)を見てみよう。



下の黄色の線は線路の内側にあり、上の黄色の線は線路の上に橋渡しされているので、遠近法的空間としてみれば、明らかに上の黄線のほうが長い。しかし、図像主題の遠近法的空間ではなく、図像客観の平面的図形として眺めた場合はどうだろう。上の黄線のほうが長く見えるような気がするけれど、確かではない。目を細めて日本の線を比較すれば、同じ長さに見えなくはない。黄線は目立つので、線路の遠近法的空間から図像表面に浮き上がって見えるような気もする。そうなると同じ長さに見えてくる。赤い平行線は、二本の黄線が同じ長さであることを示す補助線のつもりなのかもしれない。しかし、生憎、赤い補助線は平行に見えることもあるし、下のほうが狭くなっているように見えることもある。その場合は、下の黄線が短く見えているということだ。これも、ポンゾ錯視の一種なのかもしれない。しかし、二本の黄線は「本当は」同じ長さなのか、それとも下の黄線が短いのか我々には判らない。

二本の線が同じ長さだということは、物差しで測るか、重ねて見るしかない。二本の線が離れていたり、角度がことなると、長短は余計に曖昧になる。

ポンゾ錯視がオプアートのように、ハッキリと錯視的知覚(オプティカル・イリュージョン)と判るなら都合が良いのだが、残念ながらポンゾ錯視もミュラー錯視もチラチラしたり、浮き上がったりするようなものではない。上の黄線のほうが色が濃く太く見えるけれど、それが知覚なのか錯視なのかは、やはり測定するなり、近づけて比較するなりしなければ判らない。

われわれはミュラー錯視やポンゾ錯視を否定しているのではもちろんない。様々な視覚実験から、客観的に同じ長さの線分が背景や周りの図形の影響を受けて、異なる長さに見える「錯視」があることは間違いない。しかし、われわれは通常の絵画の観賞では見えるとおりに見るのであって、客観的長さはどうなのかは関心がない。もし、その錯視現象がチラチラしたり、浮き上がって見えたりして、逸脱した知覚(オプティカル・イリュージョン)であると判ったとしても、それはただのオプ・アートということである。もちろん、ポンゾ錯視を認知できるよう工夫した実験装置をインスタレーション・アートだと主張して、美術館に展示することはできる。

以上は暫定的な分析である。現象学とは常に暫定的であることを覚悟する学なのだ。我々にとって重要なことは、知覚と錯視的知覚と「知覚に基づいた想像」である図像意識を区別することである。絵画を見るということには、この3つの意識作用に立ち会うことなのだ。

次回は「遠近法」について。

注1:『奥行き知覚と行動 : 陰影とハイライトが奥行き知覚に及ぼす効果』(井上浩義 熊本大学学術リポジトリ)が参考になる。
注2:ブログ記事『絵画の現象学』参照〔http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-707.html〕



2011.10.13[Thu] Post 22:05  CO:0  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

岡田武さんへの返事(4)

前回、われわれは、知覚とオプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンを区別した。といっても、三つは明確に区別できるわけではなく、具体的な作品では二つあるいは三つが入り交じっていることが多い。例えば小林正人の《LOVE》がそうである。

彫刻などの立体では、知覚が強く働き、イリュージョンはなかなか見えてこない。モノクロ写真の人物は等身大に見えるし、肌はピンクに見えるけれど、ミニチュアのフィギュアはミニチュアに見える。鉛の兵隊と夢中に遊んでいる子供には、兵隊は等身大(ピックトリアル・イリュージョン)に見えている。立体でもオプティカル・イリュージョンが見えることはある。ジャコメッティの《頭蓋を欠いた頭部》の頭蓋が盛り上がって見えたのは、もちろんオプティカル・イリュージョンだ。(これは、人間の頭蓋骨は凸だという経験が影響を与えているので、ピクトリアル・イリュージョンも共働している)

わたしが「立体遠近法」と名付けたイリュージョンがある。ニキ・ド・サンファルの《ナナ像》や東京都写真美術館の地下展示室にある「アーケードの模型」がそうなのだが、知覚空間では、遠くのものは小さく見えるのに、さらに小さく収縮させることで、遠近感を誇張する方法が立体遠近法だ。「立体遠近法」については私のブログ記事『ニキ・ド・サンファル展』に詳しく書いてある。

5年前に書いたものだけれど、すでに立体的遠近法を「錯視的知覚」(オプティカル・イリュージョン)、絵画の遠近法を「図像的想像」(ピクトリアル・イリュージョン)と区別している。「錯視的知覚」とはおかしな言い方だけれど、立体遠近法の知覚と通常の奥行きの知覚と比べて見れば、その違いはハッキリしている。立体遠近法の空間は正常な知覚ではないという感覚が伴うのだ。我々が奥行きを知覚するのは、線遠近法のほかに、輻輳角、水晶体の調節、両眼視差、あるいは重なりあいとか、なかんずく、知覚空間で重要なのは身体感覚で、見る位置を移動すれば、見える側面た重なり具合も変化し、これも奥行き感覚には影響を与える。知覚ではこれらが統合されて奥行き知覚が生じるのだが、それらが互いに齟齬をきたすと、それを解決するために擬似知覚が生じる、それが錯視的知覚なのだ。

オプティカル・イリュージョンは、すでに述べたように平面に描かれた図形でも生じる。オップ・アートの錯視はチラチラしたり、回転運動のイリュージョンが生じるけれど、これが、通常言われるオプティカル・イリュージョンだ。そんな激しい変化ではないオプティカル・イリュージョンももちろんある。図地反転の「ルビンの盃」は図形と図像の中間であるが、図と地の現象自体はオプティカルな現象である。

知覚心理学は様々なイリュージョンを区別している。ここでは「絵画を見る」視点から、奥行きを例に、「知覚」と「錯視」と「図像意識」、対象に即して言えば、「事物(自然)」と「図形」と「図像」の見え方の違いを整理しておく。まず、知覚と図像意識の奥行きは安定している。現実の並木道も廊下も線遠近法的に見える。並木道や廊下を遠近法で絵に描いても安定的に奥行きがあるように見える。チラチラしたり、二つの現れ方が交替に現れたりはしない。

しかし、事物にも図像にも奥行きのオプティカル・イリュージョンが現れる。事物の知覚では、既に述べた「立体遠近法」の誇張された奥行きがそうだし。また、図像では、両眼立体視がオプティカル・イリュージョンだ。事物(彫刻)と図像(絵画)が合わさったようなオプティカル・イリュージョンもある。ジャコメッティの胸像は、頭部が左右に胸部が前後に押しつぶされて板状になっている。それが十字に組み合わされているので、ぐるりと視線を移動させると平面と立体の組み合わせでオプティカル・イリュージョンが生じる(と思われる)。また、シュテファン・バルケンホールの木彫は荒削りの木肌に彩色をして絵画のような像を作っている。ジャコメッティやバルケンホールの彫塑の知覚とオプティカル・イリュージョンと(図)像イリュージョンは、見ることによって区別できる。

立体遠近法というのも、実は立体と平面の合成によるオプティカル・イリュージョンである。そもそも絵画の奥行きを表現する遠近法を彫刻に適用したのがニキ・ド・サンファルの《ナナ像》だ。

図像(絵画)のイリュージョンは安定したピクトリアル・イリュージョンだということはすでに述べたが、立体視ではなく、通常の絵画にもオプティカル・イリュージョンが現れることがある。たとえば、ハイパーリアリズムで描かれた林檎が浮き上がって見えることがある。これは明らかに錯視的知覚(オプティカル・イリュージョン)である。われわれは、それが正常な知覚ではないことを了解しているし、知覚の生理学に反している限りオプティカル・イリュージョンは不安定な現象なのだ。それに比べ、セザンヌの林檎は浮き上がっては見えない。常に安定してそこにある。

次回は、我々の主題であるピクトリアル・イリュージョンについて述べる。












2011.10.04[Tue] Post 01:34  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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