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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『芸術闘争論』 村上隆著

最初の村上の芸術論『芸術起業論』は読んでいる。その後のニコニコ動画の連続講義『芸術実践論』も幾つか見た。そして、今度の『芸術闘争論』は図書館で借りてパラパラと読んだ。

村上は自分の目指すものは「現代美術」や「アート」ではなく、世界に通用する「西洋式ART」だと言う。日本は「悪い場所」だからと言って、何もしない人間の怠惰と自己欺瞞こそがいちばん「悪い」。あるいは、現代美術のゼロ地点はデュシャンの《泉》だとも。カタカナの「アート」も「悪い場所」も「ゼロ地点」も椹木野衣の用語だろう。それなら、村上のことは椹木に聞くのが手っ取り早い。さいわい、YOMIURI ONLINE(2/7)に椹木野衣が『芸術闘争論』の書評を書いている。

椹木によれば、村上は世界のアート・シーンのトップ・プレイヤーとして体験してきた時代の変化や新しい構造、その渦中でアーティストとして生き延びていく秘訣を、惜しげもなく披露している。それは自慢話でも、マーケッティング戦略でもなく、村上の「野望」は、欧米によって主導され、価値判断そのものを支えてきたルールを改変し、主導権を握ることにある。

村上は、『芸術起業論』で世界のアート・シーンに受け入れられるためには、西洋美術のコンテクストに位置づけられなければならないと言っていた。ところが、この『芸術闘争論』では、自分たちで世界のアートのルールを変えようと主張している。そのためには自分一人ではかなわない。このままでは、欧米ではアニメ漫画のジャポニスム、国内ではオタクのパクリで終わってしまう。

村上隆は『芸術闘争論』はスーパーフラットという言葉を使わない。それは、所詮、ジャポニズムだ。まず、オタクやアニメの内向的私小説的な貧乏根性をやめることだ。予備校美大公募展日本画のシステムを解体し、世界の現代美術のルールを学ぶことで、西欧のハイアートの世界に打って出る。そうすることで世界の現代美術のルールを変えようというのだ。

そのためには、ギャラリーがアーティストと客の間を仲介する日本の現代美術の制度を解体しなければならない。「客⇔ギャラリー(画廊)⇔アーティスト」ではなく、ギャラリーとアーティストの間にエージェントを入れる。エージェントは権利管理だけではなく、新しいマーケットの創造もする。その「ギャラリーとエージェントとアーティスト」をまとめた会社が《カイカイキキ》である。

椹木野衣の言に反して、『芸術戦闘論』は村上のマーケティング戦略を書いた本であり、そのことは『芸術起業論』から一貫している。椹木は書評の結末で、「芸術の真価を問うのは未来の人の手に託されている」と、村上の「夢」に触れている。しかし、そんな要領の得ない話ではなく、村上隆がマーケティング戦略に従って企画制作した村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》について、椹木野衣が東京新聞(7/2)に『裸体画論争を現代化』を書いている。

以下は、椹木野衣の『裸体画論争を現代化』についてブログに書いて、結末をどうしていいのか分からなくなって、下書きのまま放っておいたものを引用する。

ロンドンのガゴシアン・ギャラリーの個展に出品予定の村上隆の新作《黒田清輝へのオマージュ。『智・感・情』TONY+カイカイキキ工房》が日本のカイカイキキギャラリーで展示された。

この作品について椹木野衣が『裸体画論争を現代化』という美術評論を東京新聞で書いている。「裸体画論争」とは、黒田清輝がフランスから帰って裸体画《朝妝》を発表したとき起きた「芸術か猥褻か」という論争のことだ。

黒田清輝といえば、図工の教科書に図版が載っていた《湖畔》を思い出すだろう。中学生の私にも、湯上りの浴衣姿の女が色っぽいということぐらいの知識はあった。しかし、《湖畔》は色っぽいというより、ひどく「いやらしい」絵に見えた。そのときは、性のことばかり考えているからだと思ったけれど、今、見ても猥褻な感じがする。日本画の浴衣姿の女とはちがって、糊が付いていない浴衣の胸がはだけているところが猥褻に感じるのだろう。

黒田清輝にとって、西洋の女性を油彩で描くということは、日本女性とはことなる肉感的な女性を描くことであった。黒田はアカデミズムと印象派の折衷的な絵を描いていたラファエル・コランから印象派を学び、帰国後も印象派風のヌードを描いていた。しかし、この《智・感・情》では、コランのアカデミズムの影響を受け、理念的なものを表現しようとしているのだろう。

《智・感・情》は、黒田が初めて日本人をモデルにした裸体画だ。この作品は《湖畔》と共に、1900年のパリ万博に出品されたが、海外での評判は《智・感・情》のほうが高かったという。《湖畔》は団扇やキモノなどジャポニスムの小道具が描かれてはいるが、フランス人にとってはごく平凡な外光派の作品に見えたろう。

《智・感・情》の方は、当時のフランスのオリエンタリズムの文脈の中で受容されたのではないか。全くのヌードであり、背景もなく、日本人であることは容貌と体つきから推察できるだけだ。両側の女性は、黒い髪を垂らしたり、手を顔の近くに持ってきて、多少は、淫靡の印象が無くはないけれど、真ん中の《感》は、理想化され、エロティックな雰囲気はなく、西洋の女神と日本の仏像を折衷したような象徴性をもっている。

右の《智》は、左手が印を結んでいるように見え、左手を額にあてて、何か思案をしている仕草だ。右の《情》は、少しうつむき加減で、ほどいた長い髪が顔に掛からないように右手でおさえ、顔をしかめ、左手は股間に持ってきている。これらの仕草や表情は日本人には「猥雑な」印象を与えるのだが、西洋人にはどう受けとられたのだろうか。

《智・感・情》はパリ万博で銀賞をもらっているのだから、世界の文化シーンのパリで一級の芸術品であることを認められたと、椹木は言うのだが、たぶん、それは、モダニズムに影響を与えたジャポニスムではなく、エキゾチシズムとして受けとられたのではないか。

それなら《智・感・情》は芸術か猥褻か。




椹木は 『裸体画論争の現代化』というタイトルで、「芸術か猥褻か」の問題設定をしたけれど、『芸術闘争論』の村上の立場から見れば、《黒田清輝へのオマージュ》は、明らかに、「ジャポニスムか西洋式ARTか」の問題設定なのだ。「芸術か猥褻か」の問題設定は、黒田清輝の場合だって間違った問題設定であり、《智・感・情》はフランスに持っていけば、ひとまずはアカデミズムのヌードの基準は満たしていると受けとられたろう。それにもかかわらず、モデルは黒髪の日本人であり、感情の表現も合わさって、ジャポニスムとして受け入れられたと想像される。

同じことは《黒田清輝へのオマージュ》にも言える。オタクの味付けをされているだけに、なおいっそうジャポニスムなのであり、もしそれが「西洋式ART」として受けとられるとしたら、それは多文化ポップの日本部門としてであり、それは結局のところジャポニスムに帰着する。

話は変わるけれど、黒田の《智・感・情》と村上の《黒田清輝へのオマージュ》を改めて比べてみると、何かと悪口の言われる黒田だけれど、百年前に既にオタク風のヌードのイラストを描いていたことは、やっぱり驚嘆すべきことではないか。

誤字脱字は明日なおします。おやすみなさい。





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2011.09.30[Fri] Post 02:07  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

岡田武さんへの返事(3)

ミュラー錯視の強度は文化背景によって異なるという実験結果から、それなら「ハの字」に奥行きを感じない人たちもいるのではないかと言う。このあたりの論理はちょっと飛躍していて難しいので、その箇所をそのまま引用する。

 ミュラーリアーの錯視が現れる理由付け「大工製環境の仮説」は統計調査により導かれたとされています。つまり文化背景によって錯視の強度に違いがあるという統計です。ミュラーリアーの錯視と同じ理屈付けされるポンゾ錯視、すなわちこの単純な図柄「ハ」の字にそれを置き換えると、赤い線が異なって知覚されない文化的背景を持つ人がいるということになります。このことはこの絵、「ハ」の字を見ても奥行き知覚が起こらない人がいるということを意味しています。そして我国には遠近法が輸入されるまでこうした奥行き表現を持つ絵は無かったという事実に行き当たるのです。たとえば平安の絵師達は寝殿造りの廊下はずっと平行であり「ハ」の字には描かなかったのです。


もちろん、文化背景によって錯視の強度が違うことはあるだろう。知覚の理論的負荷とか文化相対主義とか言われる考え方だ。しかし、個人差だってある。あるいは、同一人物でも、比較するときの態度の違いでも結果は違ってくるだろう。鑑賞的態度と認知的態度では結果はことなる。二本の線だけに注意をむけるように訓練すれば、より「客観的に」長さを比較できるようになると思われる。鳶職人がビルの屋上から下を見て、違う階から出した標識の大小を、一般の人より正確に識別するというテレビのバラエティ番組を見たことがある。

現実の知覚では、輻輳角や両眼視差などが働いている。それに比べ、図形と図像では輻輳角の違いも両眼視差も働かない。したがって、立体感は「正常な」奥行きの知覚ではない。同じ平面に書かれた図形図像は同じ輻輳角を持つ知覚であり、両眼像差もないので、視点を動かしても現れ方が変わるということはない。知覚の三次元空間の奥行きは、網膜上の映像から言わば構成されたものだけれど、実在が射影を通して現れているのであり、視点を移動させれば、事物の別の面が見えてくる。したがって、そうは見えない図像図形の奥行きは知覚ではなく、イリュージョンだということだ。

鑑賞者にとって知覚とオプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンの違いは重要である。彫刻のような立体は、観者と作品が同じ空間に属しており、基本的には知覚の対象だ。「図形」か「図像」かの違いだ。すでに、ポンゾ錯視が平面的な三角図形の中においた場合と、遠近法的なイリュージョン空間においた場合では、長短あるいは大小の見え方が違うことをわれわれは知っている。もちろん、図形としての枕木の長さはだんだんと短くなるけれど、図像としての枕木の長さは変わらない。

図形の奥行きと図像の奥行きは見え方が異なる。下図を見て欲しい。左側はミュラー錯視を遠近法で説明しようという図だ。矢印が内側に向いているのは室内のコーナーで、矢印が外側に向いているのは建物の外側のコーナーだ。前者は奥に遠ざかっており、後者は手前に近づいている。だから、もし二つの線が図形として同じ長さなら、遠ざかっている室内コーナーの線の方が遠近法的図像として長く見えるというのだ。しかし、室内と屋外は別の図像空間に属しており、室内の高さと二階建ての高さを比較することに何ほどの意味があるのか分からない。いわんや、図形の線分の長さを比較してどうしようと言うのだろう。これこそ「見える通りに見れ」ば良いだけの話ではないか。心理学者が発見するまで誰も気づかなかったのだ。

それより、ここでは、図形と図像の見え方の違いのほうが大切である。右側の図形は左の図像の内装や窓などを消して、線だけの図形にしたものである。左の図像では奥行きのイリュージョンが安定的に見えるけれど、右の図形では奥行きのイリュージョンは、あらわれ方が非常に不安定で、交替は、どこに注視するかで変わるような気がするし、自分の自由にならないような気もする。一番右の図は立体的な「直方体」にも、変な格好の「六角形」にも、さらに、その六角形の右側が少し遠ざかるようにも見えなくもない。

ここで、もう一度整理しておくと、知覚とオプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンの3つを大雑把に区別することが出来る。

岡田さんが『「見える通りに見る」ということ』で論じているのは、現実の知覚と図形と図像の違いについてといえる。そして、岡田さんは。すでにいったように、文化相対主義あるいは言語相対主義の考え方で、虹がなんしょくに見えるかは、文化(言語)によると考えているようだ。

以下続く




ミュラー錯視





















図像をお借りしたしたサイトは以下の通りです。

「両眼視差」「ポンゾ錯視」(Wikipedia)
「錯視とトリックアート入門」(http://www.geocities.jp/sakushiart/index.html)
「科学講座」(http://www.i-kahaku.jp/learn/kouza2004/kagaku1.html)




2011.09.22[Thu] Post 02:39  CO:2  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

岡田武さんへの返事(2)

最初に「現象学的還元」について述べておきたい。

岡田さんは、「そして『現象学的還元がされていない』事柄は総て間違いになってしまいます。」と書いている。これはちょっと詭弁のような気がする。たしかに、相手の知らないことを持ちだして議論をすすめるのは卑怯だとは思う。しかし、わたしは現象学の議論をしたわけではない。なるべく個々の具体的事例に関して説明をする努力をしている。ある波長の光が赤に見えるというのは、科学的態度ではまったく正しい。同じように、ポンゾ錯視と言われる現象も存在する。しかし、この錯視は「見えるとおりに見る」態度には現れてこない。この錯視が発見されたのは、「見えるとおりに見た」長短と「測定する態度」で比べた長短と比較してみてはじめて判った現象だ。(比較の手段はいろいろあるだろう、ポンゾ氏がどうやってこの錯視を発見したかの仔細は知らない)

現象学的還元をしていないから間違いだといったわけではない。いろいろな誤解があるけれど、それはたぶん現象学的還元をしていないからだと、私の考えを付け加えただけだ。それを、あたかも哲学の知識を持ちだして議論を有利に進めるために、通俗的な弁論術(相手の知らないことを持ちだしてけむにまく)を使ったような印象を与えるのはいかがなものか。

ともかく、「現象学的還元」と言う言葉は使わないようにする。そんなものはなくてもわたしは議論を進めるのに一向に不便はしない。まず、絵を見て議論をするようにしたい。もちろん岡田さんも、本で読んだ美術史や心理学の知識はあくまで絵を見るための補助的なものにして欲しい。そうでなければこの論争も不毛なものに終わるだろう。

幸い、岡田さんは『「見える通りに見る」ということ』(http://manji.blog.eonet.jp/art/cat8382308/)を書いている。読んで欲しいと言っているのだから、私の「見えるとおりに見る」に対する反論だと思うのだが、残念ながら、何を言いたいのか分からない。イリュージョンの問題だと思うが、すでに言ったように、オプティカル・イリュージョンとピクトリアル・イリュージョンは異なる意識なのだ。といっても、これは複雑な問題なので、あわてず、少しずつ述べていく。(すでにくり返し述べている。赤とピンクは区別できる。しかし、どこに境界があるかは曖昧であるし、個人差もある)

最初に「ポンゾ錯視」の例をあげている。『「見える通りに見る」ということ』の図を見てください。奥行きを感じるだろうと岡田さんは言う。まあ、感じなくはない。それはいいけれど、岡田さんはおかしなことに、「カテゴリーは抽象画でも具象画でもいい」と言うのだ。何度も繰り返しているように、わたしは二つの問の答えを見つけるために美術評論を書いている。一つは、マチスとピカソは、抽象画に影響を与えながら、なぜ、本人二人は、具象画に止まったかということ、そして、もうひとつは、写真は、なぜ、すぐに見飽きるのかという二つの問だ。

具象画と抽象画の問題は重要な問題だ。岡田さんは、抽象でも具象画でもかまわないと言いながら、じつは、三角図形にもまっすぐ伸びる道路にも、どっちともとれる絵を描いている。なぜそんなことをするか理由はわからないけれど、たぶん、遠近法との関係だろう。ポンゾ錯視は平面図形の三角形を使っても現出するが、それでは遠近法的奥行きが生まれない。そこで、一本道に見えるように、地平線を加え、頂点の部分を一部欠落させている。さらに、両側の線の下部に線を書き加えている。これは、振動を示す漫画的手法で、自動車で走っているイメージなのだろうか。

そんなに遠近法的奥行きを示したかったら、なぜ、なぜ並木道にしなかったのか。あるいは自動車を描かなかったのか。このあたりから岡田さんのいうことが良く分からなくなる。岡田さんは「ハの字の絵」にポンゾ錯視のために二本の赤い線を描くのだが、どういうわけか通常のポンゾ錯視の図と違って、左右にずらして描くのだ。いずれにしろ、岡田さんは線路のようなハッキリとした線遠近法の絵ではなく、平面的な三角図形にも見える図を用いている。

そして、ポンゾ錯視は遠方過大視という恒常視(注1)がはたらくから、ハの字が奥行き空間に見えるという。遠方過大視というのは、三次元の知覚空間で起こることで、図像で遠方過大視が生じるためには、すでに、奥行きのイリュージョンがなければならない。しかし、すでに述べたように、奥行きのない三角図形でもポンゾ錯視は生じる。また、平面的な三角図形でも、奥行き空間のイリュージョンらしきものが現出する。ようするに、奥行きのイリュージョンが現れたり、消えたりする。もちろん、これもいろいろな条件に依存する。たとえば、三角形の頂点の内角が小さいほど遠近感がつよくなる。

岡田さんが、なぜ、具象にも抽象にも見える図を使ったかは、これで分かる。遠近法の奥行き空間のイリュージョンとポンゾ錯視は密接な関係があり、ポンゾ錯視(ミュラー錯視)は、文化的背景によって(実は被験者によっても)、強度に差がある。なかには錯視が見えない人もいると思われる。ということは、赤い線が同じ長さに見える文化的背景を持つ人がいるということになると言う。「このことはこの絵、「ハ」の字を見ても奥行き知覚が起こらない人がいるということを意味する」と強引に結論する。(注2)

だから遠近法のイリュージョンが見えにくい単純な図形ではなく、安定した遠近法のイリュージョンが見える一本道や線路などの具象画にしなかったのだ。それでは、具体的な線遠近法で描いた風景なら、ポンゾ錯視はどう見えるかを確認しておく。ここには、じつは、図像の重要な問題が隠されているのだ。


これはよく使われる「ポンゾ錯視」の作例である。下の二本の線を注視すれば、ポンゾ錯視が見えるが、図は平面的である。

しかし、頂点に注視すると、そこが消失点になって、奥行きのイリュージョンが見られる。二本の線はボンヤリとするが、ポンゾ錯視は見える。とくに上の線は濃く見える。









この図はWikipediaからコピペした。明らかに上の黄色の線が下の黄色の線よりも長く、彩度が高く見える。

次に赤い二本の並行線が黄色い線を挟む。黄色い線はほとんど同じ長さに見える。あるいは、赤い線は平行線ではなく、下が狭くなっているようにもみえる。それにともなって、下の線が上の線より短く見える。

黄色い線に注視するとき、二本の黄色い線は、線路の遠近法空間から分離され、画像表面に浮き上がって見える。

ここで、図像客体と図像主題を区別しておく。二本目の枕木と五本目の枕木はどちらが長いか。もちろん線路の枕木だから、同じ長さだ。それなら、二番目の線分(枕木)と五番目の線分(枕木)はどちらが長いか。遠近法のイリュージョン空間ではなく、平面的な図形として見れば、二番目の線分(枕木)がもちろん長い。前者は図像主題(意味)の長さで、後者は図像客観の長さである。

図形と図像の違いは、枕木ではなく、線路についても言える。図形としては二本の線はだんだんに接近して、先に伸ばせば、交差しているが、線路(図像主題)としては平行線なのだ。

具象的な遠近法のイリュージョン空間から見れば、上の黄色い線は下の黄色い線の二倍以上の長さに見えてもいいのだが、黄色い線は線路の奥行きイリュージョンの空間ではなく、この画像の表面に浮いているから、そうは見えない。それでも弱い錯視がみられるのは、背後の線路の図形に影響を受けているからと思われる。

ポンゾ錯視が平面図形でも生じるけれど、遠近法のイリュージョン空間では、より強く錯視があらわれることは、下の遠近法の絵画の例で見ればはっきりと分かる。遠くの自動車は近くの自動車の二倍の大きく見える。道路や周りの遠近法的風景を隠してやれば、ほぼ同じ大きさに見えることは言うまでもない。




絵画的イリュージョンと視覚的イリュージョンは異なる。われわれに重要なのはもちろん絵画的イリュージョンである。イリュージョンが「そうでないのにそう見える」ということなら、ポンゾ錯視はオプティカル・イリュージョンでさえないのだ。なにしろ、ポンゾ錯視は「見える通りに見ている」からだ。

さて、以上はピクトリアル・イリュージョンについて述べた。次回は『見える通りに見る』の後半部を読むことをとおして、日本画の遠近法について述べる。



注1:遠方過大視の恒常性については、図像客体と図像主題の大きさ、及び知覚空間での事物の大きさを含めて検討しなければならないが、ここでは、具体的事例に応じて論じておけば十分だろう。

注2:ミュラー錯視を遠近法で説明する理論がある。ちょっと強引すぎる。ここでは、具体的例による理解以上のことはひつではないだろう。





岡田さんへ:間違いや誤解が沢山あるでしょうが、質問反論はしばらく待ってください。





















2011.09.15[Thu] Post 22:05  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

岡田武さんへの返事(1)

三ヶ月も返事を書かずにごめんなさい。いつも、的確な質問ありがとうございます。以下、岡田さんのコメントを転載させて頂きます。


 ご丁寧な返事、ありがとうございました。
私が安積様の文章に、興味をかき立てられたのは、知覚と錯覚とイリュージョンに、あえて異なる意味を与えることにより見出される絵の要素を問題にされているのではないかと考えたからです。私の理解では、用語の問題として、錯覚やイリュージョンは知覚に含まれ、「錯覚という知覚」であり、これに関しては対立する語句として、区別するようなものでは無いと思っています。
 又、私の誤解への指摘、眞にありがたいのですが何分、私はフッサールを読んだことが無く、「現象学的還元がされていないから」といわれても困ってしまうばかりです。そして「現象学的還元がされていない」事柄は総て間違いになってしまいます。
 図像学や色彩心理学を持ちだされ、これらは絵の面白さ、良し悪しとは当然の如く関係は無いと断言しておられますが、それには一定の論拠が必要でしょう。私は図像に内在した意味性こそ重要な絵の要素であると考えています。たとえば信貴山縁起絵巻の面白さは、かなりの割合で図像の意味性に拘っています。
 又、赤の赤さを理解するには赤を見なければならないということですが、赤を理解することと赤さを感じることとは別の次元ではないでしょうか。その赤がアナタが見ている赤と同じであるかという保証は、理解としての赤という言葉をおいて他には無いでしょう。赤という言葉が赤の同一性を保証しないのでは無く、同一性を保証するのは唯一、赤という言葉のみであると、私は思っており、それが絵を語る上で重要な視点ではないかと考えています。信念とは、ある事柄についてもたれる確固とした認識ないし考えであるから、それは上記同様、理解の範疇です。クオリアはもう一方の次元の感覚の問題であろうかと思います。
 ブログ『養老孟司』を拝見しました。養老孟司氏のことは何も知りませんのでコメント出来ませんが、ただ、ソシュールはシーニュの持つ作用を絵の記号に当てはめようとした訳ではありません。むしろ絵の記号を一般記号として、意味作用を司る言語記号と分離したのであり、そのことが私が疑問に感じる点です。


重要な問題点がほぼ網羅されているところを見れば、私の駄文も岡田さんの頭の中の整理には役だったのだと、喜んでいます。さて、質問は以下のように纏められると思います。

0 知覚と錯覚とイリュージョンの区別が曖昧だ。誤魔化しているのではないか。
1 現象学的還元なんて訳分からんことを持ち出すのは卑怯だ。
2 図像学や色彩心理学は絵の良し悪しに関係がないというのは間違いだ。絵巻物の面白さは図像の意味の豊かさにある。
3 赤という同じ言葉が赤の同一性を保証する。クオリアの問題。
4 記号論の問題

最後の記号論に関する質問の意味が分かりにくいけれど、他の4つの疑問はわかる。これまでのブログでも触れていると思うのだが、もう一度いっしょに考えて見たい。

たぶん、これはフォーマリズムの問題に帰着して、議論はかみ合わないだろう。それでも、無駄ではないでしょう。




2011.09.06[Tue] Post 00:36  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

『3・11後の現代アーティストたち』三瀦末雄(東京新聞8/19)

東京新聞に三瀦末雄が『3・11後の現代アーティストたち』を寄稿している。

いっとき、ジェンダーとか身体とか多文化主義の展覧会がはやったけれど、この百年に一度千年に一度の大災厄を、ギャラリストの三潴氏が利用しない手はない。「Chim↑Pom」のように、ストレートに福島原発事故を題材にして、売上の一部を寄付するのがプロモーションとしては、手っ取り早い。でも、それでは、ただ「3・11」の災害を主題するだけで、「3・11《後》」の芸術の意味を問うことにはならない。

三瀦氏は95年の阪神・淡路大震災の経験から始める。

地震の破壊力の壮絶さに「殲滅」という漢字の意味を文字通り体験した。長田地区の焼けただれたアーケードの鉄骨に布切れがひらひらとはためく光景を見た時、強烈な印象のアンセルム・キーファーの作品もこのリアリティの前には力を失うと思った。しばらくの期間、リアリティを喪失したアートが白々しく感じられ、作品を見る気力をなくした。


アドルノは「アウシュヴィッツの後詩を書くことは野蛮である」と言ったけれど、キーファーは、アウシュビッツをテーマに作品を制作した。リアリティが実在性なら、絵は現実にかなわない。しかし、絵画には現実に勝る表現の真実がある。たとえば、丸木夫妻の《原爆の図》は阿鼻叫喚の地獄図であり、ピカソの《ゲルニカ》はメカニカルな非人間性の表現である。

そして、キーファーは絵画表面の物質的破壊によって、アウシュビッツの「殲滅」を表現する。それは、図像だけではなく、絵具や文字や写真や事物をコラージュしたおどろおどろしい作品なのだが、それでも、三瀦氏は、長田地区で見た俳句的な静寂の風景のリアリティにはかなわないという。

三潴氏が「3・11後」をアーティストたちに問うのは、アートの表現が現実にかなわないということではない。事実、三瀦が問いかける作家は、O JUN、池田学、堀浩哉、宮永愛子などだが、誰の作品も地震や津波を直接描いたものではない。三瀦は現代アーティストたちに主題の意味を問うているのではなく、「3・11後」に絵を描くことの意味を問うているのだ。

アドルノよりサルトルの「飢えた子どもを前にして文学は無力だ」と言う言葉を引用したほうが三瀦氏の問の意味は分かりやすいかもしれない。しかし、冷戦が終わった今、こんな社会主義リアリズム丸出しの言葉が有効だろうか。問われたアーティストたちも、何やら要領の得ない答えをモゾモゾと言うばかりであり、問うた三潴氏も、「アートは無力だ、などど嘆く前に、誠実に作品を制作し続けることが望まれる。それが必ずや復興のへの手掛かりになるーそう信じている。」と、分かったような、分からぬようなことを言う。

しかし、これが美学ではなく、倫理学の問だとすれば、逆に、絵画も無力とは言えない。三潴氏はキーファーにリアリティがなく、白々しく感じるというけれど、その誇張された神話的記念碑的表現が、多くの人にホロコーストへの否定的感情を呼び起すのも事実であろう。同じように《原爆の図》は反核運動に役立つし、社会主義リアリズムは労働者の団結を、一時的ではあるが、強めるだろう。

しかし、「3・11後」の意味が分からない。まさか、瓦礫の片付けをしたり、原発の冷温停止を手伝うのではあるまい。それとも、「なでしこジャパン」のように勇気を与えたいのか。どちらにしろ、アーティストたちは無力を嘆いてはいない。嘆いているフリをしているだけだ。「Chim↑Pom」は素直に便乗商法をしているだけだけれど、三瀦氏にはギャラリストとしての気取りの美学があるように思える。


2011.09.03[Sat] Post 23:52  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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