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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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〔9〕美術評論とはなにか:具象彫刻の像客観(知覚)と像主題(想像)

絵画であろうが、彫刻であろうが、具象的作品では、我々は像客観を見ている(知覚)のか、それとも像主題を見ている(想像)のか、ハッキリと区別することはできない。観者は知覚と想像の間を揺れ動いているけれど、前回言ったように絵画では像主題が強く、彫刻では像客観が強い。

彫刻の例で考えてみよう。木村賢太郎の《七つの餅》は図像客観が図像主題を圧倒している。石の硬さとか餅のように柔らかい線は知覚されている。ロダンの《考える人》は、その大きさと不自然なポーズのため、像客観が観者を圧倒している。もちろんイリュージョンがゼロではないけれど、観者の知覚空間を鋳物の像が占領支配している。

彫刻でイリュージョンが見える例を考えて見よう。彫刻を見ている(知覚して)ときは、観者の空間と作品の空間は連続しているので、彫刻像の大きさは観者の身体が基準になる。だから、《金日成》の銅像は大きく見えるし、鉛の兵隊は小さく見える。もちろん、子どもが鉛の兵隊で夢中に遊んでいるときは、大人の大きさに見えている。

没入しなくても、小さな塑像が実物大に見える例をあげよう。ジャコメッティの《四つの小像》だ。これについては以前、『ロスコとジャコメッティ』で書いたのでそこから引用する。

立体のイリュージョンについては、没頭しなくても像主題が容易に見えるのはジコメッティの『四つの小像』です。あれはほんとうにマッチ棒のように小さい像でしたが、自分の知覚的身体を消去しなくても、ふつうにみれば、そこにミニチュアではなく、等身大の人間が現れます。まさに三層構造なのです。これは、簡単なことです。小像がミニチュアではなく、遠くにいる人物に見えると言うことです。現実の知覚でも、遠くに小さく見える人物はちゃんと等身大に見えるでしょう。これはもちろん遠近法という知覚世界の構造があるからで、像ではなく、通常の知覚です。しかし、ジャコメッティの小像は違います。小像は遠くではなく目の前にあるのです。だから像客観(Bildobjekt)は小さく見えます。そして、像主題は等身大に見えます。

小像のBildsujetが大きく見えるのは、二つの理由があります。一つは、遠方からみたようにボリュームがなく、かつ滲んだように細部が省略されていること、もう一つは、小像は一つではなく、四つ並べているということです。これで、お互いどうしが大きさの尺度(人間は万物の尺度です)になって、等身大の人間(像主題)があらわれるのです。


基本的には、図像の三層構造の像客観と像主題の違いで説明していますが、知覚と想像の違いということでは、現在と基本的には、同じ考えです。ただ、少し修正したい点がある。それは、ジャコメッティの彫刻には「正面性」があると言ったことと関連している。

絵画的彫刻あるいは絵画の立体化の問題です。小林正人は絵画と彫刻の折衷を試みている。



『美術評論とはなにか』⑩へ()

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2011.06.30[Thu] Post 23:11  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔8〕美術評論とはなにか:彫刻の知覚とイリュージョン

彫刻は知覚が優勢で、絵画はイリュージョンが支配的なのは、彫刻が立体で、絵画は平面だからだ。藤枝晃雄が『現代彫刻再考』の中でそのことに触れている。

彫刻が絵画より現実的であるということは、そのミィディアムが平面芸術に比べて、イリュージョンをもちにくい性格を帯びているからである。つまり、それは物理的にはわれわれを圧倒するかもしれないが、不充分なものであるとき、我々の眼と意識を虚ろなものにする。一方、絵画は本来的にミディアムとしてイリュージョンを有しやすく、枠組みがより明確であるために外形上、作品となりやすいが、ただ底質な作品となれば芸術としての悲惨は強大である。(『現代芸術の彼岸』P100)


彫刻は事物で、絵画は図像だということだ。彫刻は手で触れることが出来るけれど、絵に描かれた事物は手で触れることが出来ない。彫刻は立体なので、観者が見る位置を変えれば、それまで見えていたところが見えなくなり、見えなかったところが見えてくる。彫刻の空間と観者の身体空間は連続した同一の空間に所属している。インスタレーションは、観者が実際に作品空間に入り込んで知覚空間を体験する。

それに比べ、絵画のイリュージョン空間と観者の空間はキャンバスの物理的表面によって、切断されている。観者と同一の空間に属するのは、物理的絵画すなわち絵具の塗られたキャンバスである。グリーンバーグが絵画のイリュージョン空間を「目で見るだけの空間」と「歩いて入れる空間」に分けたけれど、歩いて入れる空間というのは、われわれの想像的身体で入れると言う意味であって、現実的肉体で歩いて入るわけではない。

反対に、彫刻のイリュージョンを見るためには、彫刻の空間を観者の身体空間から切り離してやれば良いことになる。周囲を暗くして、作品にスポット・ライトをあてるとか、まわり囲むとかすればイリュージョンは現出する。作品に「没入」するのが一番正しい鑑賞の仕方だが、生憎、知覚が働いているときは、絵画のイリュージョンを見ているときと違って、なかなか没入するのは難しい。

次回は、彫刻の錯視について。『美術評論とはなにか』⑨へ



2011.06.24[Fri] Post 01:12  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔11〕美術評論とはなにか:木村賢太郎 《七つの祈り》 (東京国立近代美術館常設展示)

今回は、東京に行って、いくつか展覧会を観てきたので、「ピカソの肖像画」で知覚錯覚想像を考えることはお休みにして、木村賢太郎の《七つの祈り》を例に「知覚とイリュージョン」を考えることにする。



《七つの祈り》は、発表当時(68年?)だったと思うが、週刊誌のタウン欄のモノクロ写真を見て、固い石で柔らかい餅を作るのが面白いと思って、記憶に残っていた。

だいぶ後になって、近代美術館の庭にあることに気づいたけれど、わざわざ近寄って見ることはなかった。それでも、彫刻の事を考えるときは、いつも思い出す気になる彫刻だった。それで、今回のクレー展を見に近代美術館に行ったついでに、そばまで行って確かめて見た。木村賢太郎の《七つの祈り》とあった。

たしかに、硬い石を削って磨いて柔らか餅のようした石を七つ重ねてある。タイトルの「七つの祈り」は抽象彫刻にありがちな象徴的なもので、七つあるものなら何でも付けられるタイトルだから、意味が無いと言えば意味が無い。

《七つの餅》というタイトルで、木村賢太郎の同じような作品が小学館ビルにあるそうだが、どちらにしろ餅の像ではなく、餅のように見えるだけだ。想像ではなく、実在の事物を知覚している。

それなら、柔らかさはどうだろう。石の硬さは知覚しているけれど、形の柔らかさは想像しているのではないか。石の硬さは手で触ってみればわかるけれど、形の柔らかさは分からないというなら、それは間違っている。触覚と視覚は同じ知覚の仲間だし、形の柔らかさも触覚で判るものだ。

この辺りのことは、あまり深入りしても仕方がないけれど、簡単に整理しておく。彫刻の素材の硬さも形の柔らかさも知覚(視覚と触覚)している。その彫刻を写真(絵)に撮れば、石の硬さも、形の柔らかさも写真に写っている。だから目で見ることが出来る。しかし、手で触ることはできない。手で触れれば、彫刻の硬さではなく、知覚している印画紙あるいはキャンバス地の材質感を触知するだけだ。

これは、彫刻では事物の知覚が優位で、絵画では想像(イリュージョン)が優位だということだ。絵画(写真)で見ているのはイリュージョンなので、手で触れることはできない。

彫刻が分かりにくいのは、イリュージョンを持ちにくいからだ。(彫刻塑像の知覚とイリュージョンについてはブログ『ロスコとジャコメッティ』を参照)若い頃、ロダンがつまらなくて、ブランクーシやアルプの抽象彫刻が好きだった。今、思えば、具象彫刻のほうが抽象彫刻よりイリュージョンを持ちにくかったのかもしれない。国立西洋美術館で、はじめて《考える人》や《カレーの市民》を見たときの失望感、そして、《地獄門》を見たとき、自分には芸術がわからないのではないかという苛立ちで、その場を去りがたく、グズグズと《地獄の門》を見ているフリをしていたのを今でも思い出す。

木村賢太郎の《七つの祈り》の硬い石が柔らかさを表わすのは、イリュージョンではないかと思ったが、石の硬さと形の柔らかさは知覚なかで共存しており、観者の空間と作品の空間は連続した知覚空間であり、彫刻のイリュージョン空間が現出することはないように思えた。

固いもので柔らかいものを表現するというのは、、草間弥生の《ソフト・スカルプチャー》の男根と共通した面白さがあるだけのような気がする。

知覚とイリュージョンは多層的複合的であり、図像の三層構造と同じように、明確に分けることはできない。絵や彫刻を見るということは、この曖昧さを見るということでもあるのだ。彫刻について図像学やモデルや造形的なことをいくら語っても、知覚とイリュージョンについて語らなければ、彫刻の評論とは言えないだろう。

次回は彫刻のイリュージョン空間について











2011.06.23[Thu] Post 00:59  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔10〕美術評論とはなにか:ピカソの肖像画を見る〈知覚、錯覚、想像〉

前回の記事で、ピカソの《ドラ・マールの肖像》を見ると約束した。そのあと『ピカソ展』のカタログを繰り返し見ている。会場ではチラッとチラツキが見えたのだけれど、カタログではなかなかチラツキの錯視が見えない。実作では横顔と正面の顔がチラチラと交替するような気がしたのだが。

picasso ドラ・マールともかく、知覚、錯覚、図像主題を気にせずに、顔に注意を向けよう。なかなか視線が定まらない。顔がどう見えるか。大雑把に言うと、三つの分かれる。

(1) 横顔と正面やや右からの顔が合わさった顔
(2) 二人の顔、右半分の顔の向こう側から横顔がのぞいている。
(3) 一人の顔(ドラ・マールの肖像)

(1)は、いわゆる図像客観で、知覚だ。図像客観を見るのは結構難しい。物理的図像(キャンバス地や絵具)を見るのはモニターではなお難しい。

(2)は、二つの顔が別々の平面にあるように視える。見えない人は、片目で首振り立体視をすると(たぶん)ハッキリと見える。これは錯視である。

(3)は、正面の顔が主で、横顔が従になる。少しチラツキが見える。(1)は、そのままの歪んだ顔を見るのだが、(3)は人の顔を見るのだから、むしろ、(2)と拮抗状態になり、チラツキになって見えるのかもしれない。

細部をよく見ると、ということは、図像客観として見ると、右からの横顔の目が左目になっている。正面の顔の目も下瞼とまつ毛が横顔の右眼になっている。図像主題としてみれば、それほどの違和感がない。気がつかないほどだ。

視線は黄色い顔から黄色い右手に、そして同じ黄色に塗られた左手に移動する。右手の指はバラバラで、左手には右手の手のひらが付いている。

顔や手は、表情を持ちやすく、観者の視線を強く惹きつけるので、モダニストたちはその処理に苦労した。それをもっとも大胆に解決したのがピカソとマチスだった。

ピカソとマチスは観者の視線を顔と手から自由にしたのだ。

下のマチスの《紫のロープ》とピカソの《ドラ・マールの肖像》の顔と手を比較してください。《紫のロープ》は小さいので、画集かネットで自分で探してください。




紫のローブ














2011.06.17[Fri] Post 23:25  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

ピカソの肖像画を見る

前回のブログに対する岡田武さんからのコメントを以下転記


懇切丁寧なご教示ありがとうございました。
目の錯覚と錯視、知覚、それにイリュージョンがそれぞれ別のもということを初めて知りました。
ミュラーリアーの錯視を持ち出したのは、私の理解では錯視とは目に係わる錯覚のことで
あり、計れば同じ長さの二本の線が違って見えるこの目の錯覚とは、なんらかの要因で現
れた知覚であると。つまり錯覚とは客観的事象とは異なる知覚であると思っていました。
そしてイリュージョンの本来的概念は「錯覚」と訳されます。オプティカルイリュージョンは光学的錯覚。ピクトリアルイリュージョンは絵画的錯覚であり、これらは知覚の多様性から計られるものであると思っていました。
 それから絵を鑑賞する際の物差しの問題ですが、私は鑑賞者であると同時に作り手でもありますから、その際、物差しは必需品です。実際の物差しはもちろんですが観る時、作る時には指針となる尺度がどうしても必要です。そしてその精度を絶えず疑いつつ、その精度を維持するよう心がけています。
ちなみに「見える通りに見える。」と仰いますが、ミュラーリアーの錯視の強度に地域や文化によって差があるという統計データをご存知ですか。図らずも私のブログ、(約3ヶ月前より始めた未熟なブログではありますが、)「リアリティとオリジナリティはこれからも有効か?」「知覚というもの」で取り上げていますのでよかったらお立ち寄りください。
これからもご教示よろしくお願いします。

ブログの『知覚というもの』を読みました。まず、岡田さんの絵の見方は私とは随分と違っています。正直に言うと誤解があります。岡田さんの誤解は大まかに三つに分けられる。哲学的問題と知覚心理学の問題と絵画鑑賞の問題の三つです。本当は三つ目の絵画鑑賞、すなわち「絵を見ること」という一つの問題なのだが、岡田さんが理解しやすいように分けて考えます。

1 哲学的問題:「知覚というもの」で書かれているのは「クオリア」問題である。これは私が『茂木健一郎』で詳しく書いたのでそれを読んでもらえばいい。ただここでは、共同主観性の問題だということだけ指摘しておく。

2 「錯覚とは客観的事象とは異なる知覚だ」というときの客観的とは何か。目で見た長さが主観的で、測定した長さが客観的だという根拠は何だろう。それはわれわれの態度の違いであり、前者は測定に基づく科学的態度であり、後者は鑑賞的な態度に現れる長さなのだ。「錯視の強度」については、「純粋な知覚はない」と言ったことを思い出して欲しい。地域や文化によって「錯視の強度」が違うというのも、文化相対主義から見れば、さして驚くことではない。そんな大げさなことを言わないでも、例えば熟練した大工さんなら、我々より(認知実験したときは)錯視の強度は低いと思われる。それは大工さんは鑑賞的態度ではなく、行動的関心で長さを見る訓練をしているからだ。たぶん「錯視の強度」の差が顕著に現れるのは、識別実験をしたときではないか。被験者は科学態度をとろうとするからだ。

何れにしても、鑑賞的関心で見ているときは、「見える通りに見ている」のだ。たとえば、線分ではなく、時間の長さは、ストップ・ウォッチで計られた五分と五分は同じ長さだが、ウォーホルの《エンパイア》を見ている五分と、ディズニー映画を見ている五分と比べれば、あきらかに《エンパイア》を見ている五分の方が長く感じる。もちろん二本の線分は同時に見ることができるが、二つの時間を同時に体験することは出来ないというかもしれない。しかし、線分だって、いろいろ条件を変えて、時間を前後させて提示する事は出来る。重さなら、秤を使わずに、例えば綿一キロと鉄一キロのどちらが重く感じるか鑑賞的関心と行動的関心で比較事件することができる。この辺りの議論には、あまり深入りをしても仕方ない。ただ、鑑賞的態度で絵を見ているときは見える通りに見ていることを確認すれば十分だろう。

それから、作る立場での物差しの利用ですが、設計図を描くなら別ですが、絵画を描くときは、まさに岡田さんが言うように、物差しを使ってひいた線を「見える通りに見る」ことによって修正されるわけだ。わたしは、物差しを使うなといっているわけではない。絵を描く側も鑑賞する側も、最終的には「見る」ことを根拠にしなければならないのだ。

ただ、物差しを使うことは、制作する画家も鑑賞する観者も、鑑賞的関心ではなく、科学的行動的関心で絵画を見る危険がある。物差しを使って絵を見るのは、大抵は美術史の研究家だし、岡田さんが「精度を維持する」と言っているのも、まさに自然科学的態度のことなのだ。(ハイデッガーは自然科学のexakt(精密)と哲学のstreng(厳密)を区別する) もちろん、岡田さんの作品をみていないので、これは推量しているだけだが。

3 さて最後に「絵画鑑賞」の問題だが、前回はセザンヌの《赤いチョッキをの少年》を例に絵画の線の長さとは何か具体的に見た。今回は、岡田さんが指摘してくれた知覚、錯覚(目の錯覚を含む)、絵画的イリュージョンの違いを考えて見たい。この三つは厳密に区別出来るものではなく、その境界はあいまいであり、いくつかの志向的層が重なっていることもある。一番重要なの知覚と絵画的イリュージョンの違いであり、なんども繰り返すが、絵を見ることは知覚に基づいたイリュージョンを見ることだ。自由な想像ではなく、知覚に基づいた想像ということに、総ての絵画の神秘がある。

まず、知覚と錯覚とイリュージョンの違いを理解するに好都合なピカソの絵を使って説明しよう。

次回につづく、下のピカソの肖像画《ドラ・マールの肖像》を見てください。小さな写真では分らないかもしれません。2008年の国立新美術館のピカソ展で見たときに初めて気づいたことです。




picasso ドラ・マール 

2011.06.05[Sun] Post 23:17  CO:5  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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