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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ミュラー・リヤー錯視

以前コメントをしてくれた岡田武さんから質問があったのでお答えしておきます。

ミュラー・リヤー錯視や二つに交わる線分の間に平行線を入れると、上の線分が長く見える、ポンゾ錯視はご存知だと思いますが、この同じ長さの線分が違った長さに見えるのは知覚でしょうか、それとも知覚による想像でしょうか、あるいはイリュージョンでしょうか。


行き違いになったけれど、前回の『美術評論とはなにか〔7〕』にほぼ答えがあると思います。最後のところは分かりにくかったので、少し書き加えておきました。

まず、純粋な知覚はないということ。知覚というのは常に想像や記憶を含んでいるし、想像というのは記憶に基づいているし、記憶(想起)というのは知覚に基づいている。あるいは、また、絵画を見ると言うことから考えれば、平たい物理的立体の知覚があって、その平面に絵具で描かれた図像客体が見える。これは知覚とイリュージョンが同じ視野の中に共存している。

また、円が球に見えるのは知覚とイリュージョンが融合しているともいえる。さらにそのイリュージョンを内包した知覚を通して図像主題が現れてくる。これはイメージ(イリュージョン)と意味(概念)が合わさったものだ。

まとめると、絵を見ることは、知覚に基づいた想像だということだ。

岡田さんがあげた錯視の例はいわゆる幾何学的錯視と言われるもので、これは、錯覚ではなく知覚と考えてよい。もちろん、一本の線でも、すでに地と図の違いが現れ、ゲシュタルトとしてのまとまりがあらわれるので、その限りでは、イリュージョンではある。しかし、それは、見える通りに見えているのだから、知覚と考えてよい。

もう一つ、通常言われる錯視がある。オップ・アートのチラチラする錯視だ。このチラチラするのはあきらかに知覚ではなく、目の錯覚だ。それは大抵は、チラチラしない状態と交替にあらわれる。チラチラしないほうが知覚で、チラチラする方は錯視(オプティカル・イリュージョン)だ。

このあたりも、実はかなりあいまいで、チラチラするからと言って、単純に視覚的な(オプティカル・イリュージョン)とはいえない現象もある。たとえば、これまでも何度か取り上げた親指が二本ある手が、一本の親指が前後に動いて見えるのは、明らかに、親指は一本だという知識が、二本の親指の代わりに、前後に動く一本の親指のイリュージョンを生んだのだろう。ここには明らかに、モノクロ写真の灰色の肌を桃色の肌に見るのと似たような現象がある。

さて、われわれはここで、「知覚」と「錯覚」(オプティカル・イリュージョン)と「知覚に基づいた想像」(ピクトリアル・イリュージョン)の三つに大雑把にわけることができる。知覚と知覚に基づく想像(図像主題)の区別は私の『絵画の現象学』を読んだ人にはあらためて説明する必要はないだろう。錯覚というのは図像客体とは別のものです。錯覚は準知覚、知覚もどきで、一瞬知覚と間違うこともある。しかし、それはすぐに訂正されて、知覚もどきであることが判る。たとえば、踏切の点滅する赤いランプが移動しているように一瞬みえても、すぐにそれは錯覚だと訂正される例を想い出せばわかるだろう。

この区別は、これまでも述べてきたし、これからも必要に応じて触れていく。立体(彫塑彫刻)でもこの区別はある。たとえば、ジャコメッティの塑像ではハッキリと三つが区別できる。

さて、ミュラー錯視に話を戻すと、これは見える通りに見えているので、間違いなく知覚だ。実はそのことはあまり重要ではない。というのは、絵画は見える通りに見るのであって、二本の線が「本当は」同じ長さだとか、違う長さだとかはどうでもよいことなのだ。

そもそも「本当の」長さとはいったいなんだろう。

本当は同じ長さというのは、物差しではかったり、目を細めて指を立てたり、周りを囲んでいる三角形を隠したりしたときに現れる長さだ。それは絵を通常鑑賞しているときの長さではない。「本当は」同じ長さだということは少なくとも絵を見るときには何の関係もない。絵を見るときは「見かけの」長さをみるのだ。それとも、あなたは、絵の一部を隠して鑑賞するのだろうか。それとも、物差しで測りながら、鑑賞するのだろうか。

物差しで図りながら絵を見る人はいない。美術史家で物差しを使って美術批評を書く人がいる。遠近法とか黄金分割とかむかし流行った方法だ。美術評論は目で見て書くもので、物差しで書くものではない。

絵の中で長さを見るということは、どういう事か、簡単な例で考えてみよう。ここに幾何学的図形の台形がある。上辺が底辺より短い。ところが、この台形がテーブルだとする。脚を付けてもいいし、上にコーヒーカップを置いても良い。するとその台形は矩形に見える。上辺と底辺は「本当は」同じ長さだけれど、上辺は遠くにあるから短く見える。ということは奥行きのイリュージョンが現われたということであり、これが遠近法ということだ。


セザンヌ 赤いチョッキの少年

もう少し具体的な絵画で見てみよう。

セザンヌの《赤いチョッキの少年》は手前の腕が長く見える。しかし、左右の腕は同じ長さだのはずだ。この長さの違いは遠近法の長さの差に収まりきれない。だから、不自然にもみえる。しかし、よく見ると左の前腕はむしろ右の前腕よりも長く見えるような気もする。遠近法の縮小が十分に行われていないように感じるのだ。

それにしても、右の上腕が異様に長い気もする。また、左の上腕が胸飾りの膨らみに隠されて、肩が見えないので、上腕の長さが判らない。また、右手を載せている台と左の肘を突いている台の高さが異なるのも、両腕のバランスを崩しているなどなど、われわれは、セザンヌのデッサンの未熟さを超えた不思議な魅力を感じる、というわけだ。

ここまで述べてきたことで、わかることは、ミュラー錯視などの知覚心理学の知見は絵画鑑賞にも絵画制作にも役立たないということだ。「本当の」長さなど何処にもないのだ。あるとすれば、たとえば、それは左右の腕は同じ長さのはずだという万物の尺度としての人体の比例だ。だから、われわれはヌードデッサンをするのだ。

ところが、数学的関係や知覚心理学や大脳生理学などを持ち出して絵を分析する美術評論家があとを絶たない。社会現象で絵画を解釈するのと大同小異のばかげたことである。絵の外部で絵の内部を説明することは出来ない。もちろん、フォーマリズムに置いては、形式が内容であり、内容と言われる象徴的な意味などはむしろ絵画の外部なのだ。このことは別に論じる。

それよりも、絵画において重要なものは、ピクトリアル・イリュージョンだ。上の例で言えば、左右の腕は同じ長さだということだ。セザンヌのテーブルがせり上がって、林檎が転がり落ちそうなのは、それが水平であるはずの机が傾いているから違和感を生む。同じ青でも空の青と海の青では別の青だ。マチスの室内画は、床や机とは水平のはずで、壁は垂直のはずだ。壁に掛かった絵画の平面は壁に重なったおり、窓の外の風景はずーと向こうにあるはずだけど同じ平面にあるように見えもする。ピカソの女の尻や乳房は、曲線や直線は幾何学的図形で描かれて、それでも、やっぱり尻や乳房や脚なのだ。キュビスムは水平の机が垂直になり、円筒のワイン瓶が平面になる。

ここには、知覚と知覚に基づいた想像の間の弁証的緊張関係がある。具象画には抽象画にはない独自の豊かさがある。だから、ピカソとマチスは最後まで具象画に踏みとどまったのだ。それはピクトリアル・イリュージョンのためだったのだ。

そして、写真が退屈なのは、印画紙の表面をピクトリアル・イリュージョンが支配しているからだ。知覚と想像の緊張関係がないからだ。少年の灰色の肌は、桃色の肌に完全に抑圧されている。このことで、もし権威が好きならば、バルトの『明るい部屋』からの引用を読んでください。

 何を写して見せても、どのように写して見せても、写真そのものはつねに目に見えない。人が見るのは志向対象(被写体)であって、写真そのものではないのである。
 要するに志向対象が密着しているのだ。そしてこの特異な密着のために、「写真」そのもに焦点を合わせることがきわめて困難になるのである。


バルトが志向的対象を被写体と同一視しているのは、必ずしも正確ではないけれど、志向的対象(図像主題)が写真そのものに密着しているというのは、上で述べたことを意味している。わたしはだから写真はつまらないといい、バルトは記号論風図像学に向かった。図像学もまた、美術史の方法であって、絵画の面白さを理解するのに役にはたたない。

ここで、ひとまず岡田さんの質問にたいする答えは終わる。

しかし、沢山の課題が残った。知覚とイリュージョン、立体と平面、知覚空間と想像空間、具象と抽象、文字と絵画などなど、次回は空間について少しだけ考えて見たい。
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2011.05.21[Sat] Post 17:20  CO:1  TB:0  岡田さんへの手紙  Top▲

やっぱり『Chim ↑ Pom』かと、誰もが思ったに違いない。

岡本太郎の《明日の神話》のいたずらをしたのは、Chim↑Pomだと名乗りでたそうだ。なんだ、一番、平凡な結末だ。

このいたずらを聞いたとき、『美術手帖』の読者なら、ほとんどの人はChim↑Pomの名前を思い浮かべたに違いない。私も広島で原爆記念日に空に飛行機で「ピカッ」と描いた集団のことを思い出したけれど、まさか芸術家を自称する者が同じことを繰り返すとは思わなかった。

しかし、岡本太郎財団とChim↑Pomのコラボ説も捨てきれない。いたずら発見のときの平野館長のコメント。

 「みなさんはいたずらとおっしゃるけれど、スプレーを作品に吹き付けたり傷つけたりしたわけではない。『明日の神話』は後世に残すべき作品だと敬意を払ったやり方をしている。ゲリラ的な瞬間芸として、明らかにアートの文脈で行われた行為です。ただ、作品としては斬新さも感じないし、ほめるつもりもありませんが」

 平野さんは苦笑しつつ、岡本太郎が「行動の対象」になったのは理解しやすい、と語る。

 「やったのはおそらく若い人でしょうが、彼らがいま、日本の置かれた状況や不安感、そういうものをモチーフにして、表現をしたいと思うのは当然。それをぶつける舞台として太郎が選ばれた。未来を考えるときに参照されるアーティストだということでしょう」(産経ニュース5/18)


寛容なのはいいとして、『Chim↑Pom』の「ピカッ」への言及がないのは不自然ではないか。そして、犯人が名乗り出たあとの、産経ニュース(5/18)

 東京都渋谷区の渋谷駅構内にある画家、故岡本太郎氏の壁画「明日の神話」の一角に1日、原発事故を連想させるベニヤ板張りの絵が張られていた事件を巡り、アート集団「Chim↑Pom」(チンポム)が18日夜、都内のギャラリーで開いた個展の内覧会で、壁画に絵を取り付けている映像作品と原画を公開、メンバーが「作品として付け足した」と話した。警視庁渋谷書が軽犯罪法違反容疑などで捜査している。

 「Chim↑Pom」は6人組で、平成20年に広島の上空に飛行機で「ピカッ」という文字を描いて騒動になった。今回の絵は「LEVEL7 feat.『明日の神話』」と題され、岡本氏のタッチで壊れた4つの原発建屋が描かれている。メンバーの卯城竜太さん(33)は「(原発事故で)歴史は更新されてしまったので、ヒバクのクロニクル(年代記)に(福島を)付け足した。作品を岡本太郎記念館に寄贈したい」などと話した。


談合したというより、イベント芸術屋どうしの呼吸がピッタリと合ったということだろう。こういうイベントは無視するに限るのだが、「岡本芸術はイベント芸術である」という我が先見の明を自慢したくて敢えて取り上げた。

これからもいろいろな岡本芸術のイベントが企画されるだろう。

2011.05.20[Fri] Post 20:46  CO:0  TB:0  ~岡本太郎  Top▲

また、岡本太郎のイベントか

asahi.comのニュースに「岡本太郎さん作の壁画にいたずらの絵 原発事故描写か」の記事を見て、「やっとはじまった」と思った。

というのは、福島原発事故で水素爆発があったとき、きっと岡本太郎財団(?)が利用するだろう、利用しない手はないと思っていたからだ。岡本太郎記念館の平野暁臣館長の「福島原発を描いたのだろう。繰り返されたら困るが、単なるいたずらではなく、芸術としてやろうとしたのではないか」というコメントを読んでなおさらその感を強くした。

面倒だろうが、私の『岡本太郎≪明日の神話≫特別公開(東京都現代美術館)の美術展評』を読んでほしい。

岡本芸術とはイヴェント芸術なのだ。もちろん平野暁臣館長が企画したわけではないだろうが、内部の協力がなければ、作品を傷つけずにコレだけみごとな据付と仕上がりは無理だろう。

真相は判らないが、『同心町日記』に似たような疑いが書かれていた。『同心町日記』は佐藤忠良やクレー、ゴッホなどの批評が的確で、趣味も似たところがあるので、ときどき覗いている。後半の部分を引用。

作品に直接的な危害が加えられている訳ではないので、これをユーモアとして受け入れるだけの許容が社会の側にあてもよいと思いますが、当事者たちが名乗り出て来て、「作品の収益を被災地に募金する」とか言い出す事態にだけはなって欲しくないです。被災地に送る義援金を集めるのは立派のことですが、被災者をダシにして、自らの行為を正当化しようとするのは、被災者をダシにして、増税を叫ぶ人たちと何ら変わりがありません。それは恐ろしく想像力の欠けた行為となるでしょう。


犯人が義援金を集めるなんて、あまりに岡本芸術にピッタリのイベントなので、思わず笑ってしまいました。











2011.05.14[Sat] Post 22:45  CO:0  TB:0  ~岡本太郎  Top▲

〔7〕美術評論とはなにか:具象と抽象

イリュージョンの観点からもう一度「絵画を見る」ことを整理してみる。

フッサールの「絵を見ること」の三層構造(物理的像、像客体、像主題)の分析は、白黒写真に基づいている。絵をみることは、「知覚に基づいた想像」であり、自由な想像や想起とは異なる。

紙に円が書いてある。これは知覚だ。それがお皿やサッカー・ボールに見えるのはイリュージョン(像主題)だ。しかし、紙に描かれた黒い線が円に見えるのは純粋な知覚とはいえない。閉じられた線分が円に見えるか楕円に見えるかあるいは四角に見えるかは、純粋な知覚を超えたゲシュタルトの知覚である。しかし、ゲシュタルトは立体の知覚でも作用しているので、あえて、これをイリュージョンとはいわない。どちらにしろ、これは幾何学的図形であって自然的対象(像主題)ではない。

それでは円が球に見えるのはどうだろう。あるいは一つの斜辺を共有した二つの三角形が四角錐に見えるのは、イリュージョンだろうか。勿論イリュージョンである。というのは、知覚しているのは、平面的な二つの三角形であり、それが立体にみえるだけだと知っているからである。しかし、これも立体図形であり、自然的対象(像主題)ではない。幾何学的図形には大きさがない。

四角錐がピラミッドに見えるのは像主題である。ピラミッドは自然的対象としての大きさを持つ。四角錐は像客体としての寸法はあるけれど、具体的な大きさはない。フッサールは像客体は知覚、像主題はイリュージョンと考えていたようだが、像客体は知覚とイリュージョンの合いの子のようなものともいえる。そもそも、絵を見ることが、「知覚に基づいた想像」だとしても、どこまでは知覚で、何処からがイリュージョンなのか一義的に決めることは難しい。二つの意識が弁証法的に絡まっていると、誤魔化しておくほかない。

それから、ついでに付け加えておくと、図像客体が立体に見えなくても、三次元の図像主題を表わす(意味する)ことができる。たとえば平面的な赤い円が林檎という立体的な事物を表わす(意味する)ことが出来るということだ。これは、モダニズムの平面性と密接に関わっている。

われわれは、ここまで主として具象画の図像主題すなわちピクトリアル・イリュージョンを扱ってきた。林檎とかヌードとか風景である。オップ・アートのイリュージョンは「知覚もどき」の目の錯覚である。optical illusionにはブリジッド・ライリーのような抽象画がほとんどだが、「親指が二本の手」のような具象画もある。

それでは、抽象画には、オプティカル・イリュージョンがあっても、ピクトリアル・イリュージョンはないのだろうか。もちろん、抽象画には図像主題がないのだから、その意味でのピクトリアル・イリュージョンはない。しかし、ピクトリアル・イリュージョンは「知覚に基づいた想像」ということであれば、抽象画にもピクトリアル・イリュージョンはある。グリーンバーグがいう空間のイリュージョンだ。

次回は、悪名高いグリーンバーグの「空間のイリュージョン」についてです。

『美術評論とはなにか』⑧へ 途中質問に対する回答を飛ばしたので繋がりが悪くなっている。しかし、「絵画の現象学」の理解には役立つと思う。
2011.05.05[Thu] Post 00:39  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔6〕美術評論とはなにか:「知覚」と「想像」

美術評論の混乱の多くは美術評論家が像(絵画や彫刻)を見ることがどういうことか理解していないことに原因がある。

最初に断っておくけれど、この『美術評論とはなにか』ではなるべく専門用語を使わない。それは、この小論がアマチュアの美術愛好家が美術評論家にダマされないようにするのが目的だからだ。それと、美術評論用語を使うと、肝心の絵を見ないで議論のための議論に陥るからだ。

それと、あくまでも「事象そのものへ」が原則であり、作品を見ることに基づいて記述していく。その場合その事象にともなう曖昧さは避けられない。その場合、それはどちらかにきめるのではなく、その曖昧さをその事象の本質的なものとして記述するに留めておくことだ。決して理論を構築してはならない。とくに記号論には気をつけたほうがよい。もし、美術評論を読み始めて、記号論風なことが書いてあったら、すぐに読むのをやめることを薦める。理由はおいおい述べていくが、記号学というのは図像学の現代アート版なのだ。

フッサールの図像意識は、Bild(picture)を見ると言うことだった。さしあって、彫像塑像銅像などの立体像は含まれているが、抽象画は含まれていない。ようするに主題が具象的な絵画や彫刻である。そして、白黒写真を例に図像を物理的図像、図像客体、図像主題の三層にわけた。

たとえば、少年のモノクロ写真がある。印画紙は破ったり燃やしたりできる物理的図像である。図像客体は灰色の5センチの少年で、図像主題は金髪の桃色の肌の120センチの少年だ。ここまでは、わたしの『絵画の現象学』を読んで確認して下さい。

図像は三層になっているけれど、それなら対象がわではなく、意識から見た場合、どうなっているのか。フッサールは図像意識は、「知覚に基づいた想像」だという。林檎を眼前に思い浮かべたり、昨日食べた林檎を思い出したりする想像や想起とはことなる。林檎の絵は、あくまでも、キャンバス上に絵具で描かれた林檎の絵の知覚に基づいて、林檎を想像するのが、絵を見ることだ。

モノクロの少年の写真で知覚しているのは灰色の肌だけれど、見ているのはピンクの肌だ。あるいは知覚しているのは5センチの少年だけれど、見ているのは120センチの少年だ。ピンクの肌や120センチの身長は知覚しているのではなく、想像しているだけだ。もちろん、これは経験の影響を受けているわけで、絵ではなく、「少年」という言葉であっても、肌はピンクで身長は百数十センチという感覚は持っている。

フッサールは図像客体は知覚で図像主題はイリュージョンと考えていたようだが、平面に描かれている図像客体が立体的に見えるのもイリュージョンと考えられる。たとえば、円が球に見えるのは、イリュージョンだが、ハイパーリアリズムで描かれた球が、絵ではなく、本物の球に見えるのは、optical illusion(目の錯覚)である。見る位置を変えて、変化がなければ平面に描かれた絵であり、変化すれば、それは球を知覚していることになる。

optical illusionに対して、図像主題はpictorial illusionであり、知覚している事物に基づいてイリュージョンを見ていることを当の図像意識自身が自覚している。optical illusionは、一瞬知覚のような錯覚を起こすこともあるけれど、それはすぐに訂正され、知覚のように「自己自身を有体的に与える」ものではないこと判る。上のハイパーリアリズムの例も、見る位置を変えなくても、もともと知覚特有の「有体的に自己自身を与える」こと、すなわち、射影を通して現れると言う性質が欠けているので、それが本来的な知覚ではなく、目の錯覚であることは容易に判る。

オップ・アートのチラツキもoptical illusionなのだが、これは抽象画であり、pictorial illusion(図像主題)がない。pictorial illusionがあるもっといい例を上げれば、親指が二本ある手の絵である。この絵は、二本の親指のある手と、烈しく前後に動く一本の親指がある絵が交替に現れる。親指が二本ある手はpictorial illusionであり、一本の親指が動いている手はoptical illusionである。そのような錯覚が生じるのは、親指が二本あることはわれわれの経験に反するからだ。

指が一本に見えることと、灰色の肌が桃色に見えることは、経験が見ることに影響をあたえているという点では、類似の現象である。しかし、類似してはいるけれど、本質的には異なる。指の現象は、地と図のように、pictorial illusionとoptical illusionが交替で現れる。しかし、pictorial illusion(図像主題)の方は、灰色の肌を知覚しながら桃色の肌を「想像」している。

ここに絵画の秘密のすべてがあるのだ。オップ・アートは現象としては面白いかもしれないが、芸術的には意味はない。また、モノクロ写真は、図像の三層構造を説明するのに便利ではあるが、記録として以外は芸術的に殆どゼロである。「知覚に基づく想像(イリュージョン)」という絵画の本質は、写真ではうかがい知れない広い射程をもっている。

「マチスは何故最後まで具象にとどまったか」という問いを掲げておいた。ここでもうひとつの問いをあげておく。

写真はなぜつまらないか。このことを理解出来れば、絵画の面白さも理解できる。


『美術評論とはなにか』⑦()
2011.05.04[Wed] Post 22:51  CO:2  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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