ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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蔡國強 NHK新番組 『たけしアート』

ニキドサンファルにライフル銃を撃って描く、Shooting Pictureがあるけれど、蔡國強は、ダンボールを切り抜いて、その上から火薬を爆発させて、ステンシルのような技法で製作する。まあ、理屈はいろいろ付けられるだろうが、出来上がった作品を見れば、小学生の卒業記念作品以上でも以下でもない。

抽象画にしておけば誤魔化せたかもしれないのに、具象的なモチーフもあって、それだけ一層、悲惨な結果になっている。

NHKにはビートたけしがよく似合う。
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2011.04.29[Fri] Post 22:34  CO:0  TB:0  蔡國強  Top▲

〔5〕美術評論とはなにか:「絵を見ること」と「オブジェを見ること」

絵画論を混乱させているのは、絵を見ることとオブジェ(立体)を見ることを区別しないからだ。もちろん現実の作品はどちらか一方だけということはない。だから議論が混乱する。

小林正人の《LOVE もっとひどい絵を!》は、知覚の対象である三次元の事物だからつまらないと言ったが、だがらと言って、《Love ・・・》が、波打つキャンバス地にヌードや抽象画や顔が描かれているのだから、ジャッドの箱のように、全くのリテラルな客体というわけではない。図柄に注意を向ければ、イリュージョンが見えないわけではない。

たとえば、掃除機にミッキーマウスが描かれているとする。もちろんイリュージョン(図像主題)がみえる。ところが、掃除機は立体であり、知覚の対象、すなわちオブジェだ。見る位置によって様々な面が見える。それによってミッキーマウスも色々に変化する。斜めからみれば、ミッキーマウスは歪んで見える。反対側から見ればミッキーマウスは隠れてしまう。

我々の身体空間と電気掃除機が占めている空間と連続している。だから、ミッキーマウスは電気掃除機の胴体の曲面に張り付いた塗料なのだ。われわれの見る位置によって形を変える。ということはミッキーマウスは図像主題(イリュージョン)ではなく、図像客体(知覚の対象)ということになる。

もちろん、図像客体と図像主題は、画然と分かれているわけではない。また、図像主題はイリュージョンでもあるし、意味でもあるのだから、あわてずにゆっくりと事象を記述していかなければ、容易に迷路に陥るだろう。

詳細な議論はさて置いて、ここでハンス・ホルバインの《大使たち》を見てみよう。

ホルバイン《大使たち》 
この絵で大切な事は、アナモルフォーシスとかメメントモリとかいう図像学的な薀蓄ではなく、正面から見たとき図像主題の髑髏が見えないこと、それと図像客体が、絵画の物理的表面に重なるよう浮いていることだ。そして、左下から見ると、髑髏が現れ、肖像画の床の空間におさまる。これは絵画のイリュージョン空間と、絵画の物理的平面すなわち観者の空間が切断されていることを意味する。

これは、アタリマエのことのようだが、グリーンバーグの空間や平面を批判する世の凡百の美術評論家たちが決して理解出来ないことだ。

マチスあれほど抽象的になりながら、最後まで抽象画を拒否したのは、なぜなのか。


『美術評論とはなにか』 つづく
2011.04.18[Mon] Post 22:39  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔4〕美術評論とはなにか:小林正人の美術とアート

「ライト・ペインティング」についての評論を二つ見つけた。一つは、[TOKYO ART BEAT]にシュウゴアーツの『小林正人ライト・ペインティング』展(2007年)の案内、もうひとつは、古谷利裕のこのシュウゴアーツの展覧会評だ。

ART BEATの方は展覧会案内だから、小林のはなばなしい画歴が書かれている。Light Paintingの箇所を引用

展覧会は新作の「Light Painting」シリーズで構成されます。小林は実態のない光という存在を、絵画として表現することに挑み続けてきました。新作のLight Paintingでは光を題材として捉えるのではなく、光そのものを抽象的に絵画という物質として出現させた、画期的な作品群といえます。美しい銀色の絵画によって構成される空間は、訪れる人々の気配と呼応し、生き生きと輝きを増します。(強調安積)


太字のところの後半が、意味不明だが、たぶん、光をレンブラントやルドンのように描くのではなく、絵画の物理的表面で反射させていることをいっているのだろう。これは、銀色の絵具で描いた抽象画の表面に乱反射させているので、なにやら、「生き生きと輝きを増して」いるように見えるけれど、現象学的に見れば、ツヤのある古典名画に照明の明かりが反射していることと同じことなのだ。もちろん、光の反射によって、絵画の物理的表面が露呈する。

古谷利裕は小林の光については、「手で光をつかむ」と言っている。光を手で掴むって、そりゃ無理だろうと茶化したくなるが、手でキャンバスを銀のメタリックに塗りながら、同時にキャンバスを枠に貼り付けていくプロセスのことを「手で光をつかむ」と言っているらしい。出来上がった作品を見ても、「描く」と「張る」のプロセスが見えるわけではないが、未完成な外見は、たしかに、作品制作のプロセスを暗示している。

古谷利裕は、また、「歪んだ(というより解体された)フレームや、波打つ画布は、(・・・途中省略・・・)支持体を壊滅的なまでに歪ませ、結果として絵画をどこまでも解体して「物」に近づける。」とも言っているのだが、「絵画を見ること」と「物を見ること」の違い、ひいては、「描かれた光」とキャンバス表面に反射した「実在の光」の違いについて触れていないので、たとえフォーマリズム風の視点があるとしても、古谷氏の小林論はたんなる修辞に終わっている。

小林正人は、結局のところ「論じやすい作家」であり、論じやすいのは、小林が「語る作家」「見せる作家」だからだ。藤枝晃雄の『抽象の生成』(『現代芸術の彼岸』p220)から引用。

芸術について語る作家と語らない作家がいるように、プロセスを見せる作家と見せない作家がいる。語る作家、見せる作家、これもまた美術史にとって(とくに説明が容易とはいえぬ抽象芸術においては)好都合な存在である。

本江邦夫の小林正人論(『現代日本絵画』)は、まさにそんな美術評論の代表で、小林の作品を論じているというより、小林の語っていることについて語る美術評論になっている。さいわい、本江氏は小林正人の言葉を沢山引用しているので、その幾つかを孫引きしよう。

最初にある支持体の面に画面が乗っかって、一本の線をひけば、支持体と画面と最低二つの面ができてしまう。絵画が単体ではないんです。支持体の分が、どうしても一層多くなる。僕は、その支持体をなくして、画面だけがパアッとある、そういう存在の絵画を作り出したかったんです。抽象画とか具象画というのではなく、絵画をものとして抽象に存在させたい。言い換えれば、存在することで少しも失墜していない絵画。


もちろん、明るさと光についての言葉がある。

「絵画の子はピュアーアートの空間に出来た《絵画=空》の子で、明るさでできている」 「この明るさは光りとはちがう」 「光は神々しくとも基本的に人間くさい」 「光の中に住み、光を呼吸し、食べながら製作する情熱を、たぶんほとんど光からもらっている。」 「そこがたぶん『空き地』(ハイデッガーのLichtungの訳語らしい)」 「明るさというのはそこで初めて眼に見えるようになる絵画のイデーのことで、絵画になろうとする集まり〔のこと〕だ。」


本江邦夫は、小林の作品を見ることなく、小林の言葉を解釈し、ピエール・ルヴェルディの詩やエミール・ゾラの『作品』を引用し、 ハイデッカーやアリストテレスやプランの哲学に触れながら、文学的哲学的修辞を連ねていく。古谷利裕も、ひとまずは、フォーマリズムの視点があるけれど、作家の言葉を踏まえている点では、本江邦夫と同じである。

小林は、一方では、比喩や象徴を多用しながら哲学的な絵画論を述べ、他方では、絵画の「本質」である平面性やキャンバスの矩形や図像のイリュージョンを破壊するプロセスを見せることで、評論家が論じやすい作家になっている。これがすべて小林のプロモーションの戦略とは思わない。そこには岡崎乾二郎にはない、たしかな技術に基づいた批評性があることは認めなければならない。

しかし、絵画とはあくまでイリュージョンだと思う私には、小林正人のより過激になった近作は、リテラルな知覚の対象であるガラクタにみえるのだ。

つづく                                                                                         
2011.04.13[Wed] Post 00:41  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔3〕美術評論とはなにか:小林正人の美術とアート

銀色に塗ったキャンバスを歪んだ枠に不均等に張って、表面を波打たせた作品《LIGHT PAINTING #3》(2007年)がある。これは一種のモノクローム絵画だけれど、タイトルを見れば、光を描いた抽象表現主義の絵画である。(上から15番目の作品)

実際にはキャンバスの布地が波うっているのだろうが、写真では、その凹凸は描かれたイリュージョンのように見える。ゲルハルト・リヒターのAbstrct Paintingに金属光沢の作品《Abstraktes Bild 717-1》(1990年)がある。


ゲルハルト・リヒター
     ゲルハルト・リヒター《Abstraktes Bild 717-1》(1990年)


リヒターの方は、はっきりとイリュージョンが見える。しかも、二つのイリュージョンが見える。一つはピクトリアル・イリュージョン、もうひとつはオプティカル・イリュージョンだ。ピクトリアル・イリュージョンは、パイプの曲面を描いた絵ということであり、オプティカル・イリュージョンのほうは、あたかもそこに円筒の曲面があるような擬似的な知覚、すなわち錯視のことだ。二つは明確に区別できるわけではない。

オプティカル・イリュージョンは、写真より実見したほうがハッキリ見える。この《Abstraktes Bild(717-1)》は実物を見たことがあるけれど、目がモヤッとして、ピクトリアル・イリュージョンなのか、オプティカル・イリュージョンなのか、あるいは、本当に湾曲した金属面があるのか判別がつかない。

本当に湾曲した金属面を知覚しているのか、頭を左右に動かしてみたが、反射光のパターンは変わらない。ということはそれは絵に描かれたものだ。もちろん、絵だと判っても、相変わらず、金属曲面のイリュージョンは消えなかった。

小林正人の《Light Painting #3》にイリュージョンらしきものが見えるのは、写真だからだ。同じライト・ペインティングの小品《星のモデル #7》をシューゴーアーツの小林正人展で見た。実物を見ると、キャンバスが波打っていて、その曲面に光が反射しているので、頭を動かすと反射する面が変化する。ということで、われわれはイリュージョンではなく三次元のリテラルな事物を知覚していることが判る。

絵画を見るということはピクトリアル・イリュージョンを見ることだ。物理的絵画を知覚することでも、オップアートのようにオプティカル・イリュージョンを見ることでもない。そういう意味で、わたしには小林正人のライト・ペインティングはリテラルな三次元の事物、すなわちガラクタにしかみえない。

どんな文学的なレトリックを並べようと、どんな理論で飾り立てようと、わたしにはつまらないアートにしかみえない。

それなら、評論家たちはどんなことを言っているかGoogleで検索してみよう。



『美術評論とはなにか』④()

2011.04.06[Wed] Post 23:55  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

〔2〕美術評論とはなにか:小林正人の美術とアート

ShugoArtsの《小林正人 LOVE もっとひどい絵を  美しい絵 愛を口にする以上》の展評を書いた。

あのときは、小林正人はイリュージョンを残しながら、絵画を物理的に破壊している一種のミニマリズムであり、事物の知覚がイリュージョンの意識よりも優勢であると書いた。

このとき、展覧会場で、ニョウボとちょっとした言い合いをした。ニョウボはヌードの線が結構描けているというのだ。わたしにはアメリカのピンアップを崩したようにしか見えなかった。そうしたら、ニョウボは、目が離れているけれど、顔もそれなりに目や口などの顔のパーツが、マチスの「へのへのもへじ」の顔ほどではないけれど、おさえるところはおさえていると、なんだか偉そうにいった。それなら、面白いのかと言えば、つまらないと答えた。

小林正人の展評を書いてあとも、ニョウボとの意見の対立は続いていた。そんなときに検索で小林正人の初期の
作品《絵画=空》を見た。説明には「筆を使わず、手で直接キャンバスに絵を描き、描きながら徐々に手製の木枠に固定していく」とあるから、随分まえからこの技法を使っていたことになる。

《絵画=空》というタイトルを見れば、抽象画でもあり、具象画でもあるわけだが、キャンバス平面に塗られた絵具でもあり、青い空に浮かんだ雲でもあるということだ。図像としては自然に着想を得た津上みゆきの抽象画と同じ仲間といえる。ブラシの代わりに手を使っていることや描きながら木枠に固定してゆく技法がどんな効果をあげているのかわからない。写真で見る限り、ごくありふれた抽象画に見える。

それで、《絵画=空》から最近の作品《 LOVE もっとひどい絵を  美しい絵 愛を口にする以上》を見れば、なんでこんな事になってしまったのか、理解に苦しむ。よくみれば、顔やヌードが描かれている。まともだった絵が、破壊されてゴミのように床に落ちている。

もちろん、これは、キャンバスを枠に張りながら手を使って描くという《絵画=空》の技法を極端に押し進めたものだ。手で絵具を伸ばし描いていたのが、絵具を擦りつけて指で擦りつけたり、盛上たり、チューブから直接搾り出したりしている。また、キャンバスも描きながら張っていくというより、反対に、キャンバスを緩め剥がし、枠を壊しているように見える。

《絵画=空》から《LOVE》まで25年経過しているわけだが、小林のその間の作品を見る機会はないけれど、小林がどうしてこんなふうに絵画を破壊したのか、そしてこんな「つまらない」作品を描きつづけるのか、美術評論家の評論を読んでみよう。

まず、ShugoArtsの小林展の解説から。冒頭に、小林正人の言葉「ペアの存在のしかたは、時空を越える“距離=愛”の問題だと思う」が掲げてある。この「=」等号は、《絵画=空》というタイトルでも分かるように、小林正人の絵画の制作意図を表しているのだろう。

また、「作家がペアとよぶ、2点1組を前提に制作された作品を展示いたします。ただしその2つの作品には対比や相似といった外見上の関係性や、2つそろって初めて意味をなすといった内容的な関係性はまったく存在しません。」と言う。作品を2点1組で展示するのは岡崎乾二郎の作品にもあるが、岡崎のペア作品には関係性があるらしいのだが、小林の方は、関係性は全くないといっている。どちらも、目で見るかぎりは、関係性があるのかないのかわからない。理屈の次第だろう。

岡崎乾二郎で思い出したけれど、小林の長いシュールなタイトル《LOVE もっとひどい絵を  美しい絵 愛を口にする以上》は岡崎乾二郎の現代詩のようなキャプションに似ている。現代絵画では、タイトルが重要な役割を果たしていることは知っているが、わたしにはそれは絵を見るためというより、絵を論じるためとしか思えない。

いずれにしろ、小林正人と岡崎乾二郎は、いろいろな理屈を除いてみれば、両者とも反イリュージョニズムであり、方法が違うが、キャンバスを知覚の対象である事物として提示している。

そういう視点から岡崎と小林を比較いしてみると、岡崎はあくまでもジャッドが立体でやったことを絵画でやろうとしているのだが、小林の知覚事物には反芸術のダダの精神があるところに両者の根本的な違いがある。

さて、なんとかここまで書いて、小林正人の作品をShugoArtsのアーティストファイルで眺めていたら、岡崎乾二郎と比較したためか、これまで見えなかった小林正人の魅力があらわれてきた。

次回につづく 『美術評論とはなにか』③  





2011.04.04[Mon] Post 00:06  CO:0  TB:0  美術評論とは何か  Top▲

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