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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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《Shaft of Sunlight》と《中心集中》 辰野登恵子論④

辰野登恵子の色彩と空間の閉鎖性を理解するには、マティスの開放的な作品を見れば、面倒な理屈はいらない。それで、《金魚とパレット》や《赤い部屋》をふくめて適当な作品がないか、MoMAの『アンリ・マティス回顧展』(92/93)のカタログをめくっていたら、《Shaft of Sunlight  the Woods of Trivaux》という作品が目についた。

注意をひいたのは、作品そのものではなく、「Shaft of Sunlight」というタイトルの方だった。真ん中の白い帯が「Shaft of Sunligh」ということらしい。そう言われて、はじめて、その絵がなにを描いているか判った。それと同時に、辰野登恵子の《中心集中》の上から棚に差し込む一条の光を思い出した。「光とペンキ」の判別がつかない例の辰野登恵子のトリックのことだ。


《中心集中》Shaft of Sunlight

  左=《中心集中》2010年
             辰野登恵子
           


  右=《Shaft of Sunlight 》
            1917年 Matisse
                






辰野がマティスから着想を得たかどうかは判らないが、両方共、光と影の方向がズレていて、光学の論理に反している。

辰野の方は実はペンキと考えれば、光学に反しているということはないのだけれど、どうしても光と影に見えてしまうところがトリックなのだ。それに、辰野の《中心集中》はfigurativeなのだが、タイトルは抽象的である。それに比べマティスの方はタイトルが「一筋の陽の光 トリヴォの森」とあるのだから、風景画であり、白い帯が光で、黒い帯が影である。

マティスは三年前に《金魚とパレット》で、ピカソの「閉じられたキュビスム」を開かれたキュビスムにしようと試みている。その絵は、グリーンバーグのいう「プリズム的ではない色」、黒と白を使っているのだけれど、基本的には幾何学的造形である。それにも拘わらず、黒い帯を背景に立体的な金魚鉢と赤黄緑の三色が配置されて、開放的な色彩や平面になっている。

金魚とパレット《金魚とパレット》とくらべると、《一条の陽光 トリヴォの森》はより平面的な描写になっており、色彩も黒と白の他に緑と茶のキュビスムの色を使っている。逆光の木立の奥行きと、光の白と影の黒、それと植物の緑と土の茶の平面が、空間の豊なイリュージョンを生み出している。

影の方向が時間と共に変わっていくのは、国立新美術館の『没後120年 ゴッホ展』で見た《秋のポプラ並木》(1884年)にもあったけれど、あの影は、時間の経過で、太陽の方向が変わったものだ。ところが、マチスのこの絵は、時間の経過ではなく、キュビスムの多視点であり、時間ではなく空間の問題なのだ。

キュビスムと平面性の問題はここでは論じない。《中心集中》がなぜ《Shaft of Sunlight 》と比べて窮屈に感じるのか、理屈ではなく、二つの絵を見て感じ取って欲しい。もちろん、ほかの辰野の《新作》とも比較してみて欲しい。そうすれば、《中心集中》が自己に閉じこもって、空間が閉鎖的に見える主な原因は、立体造形を描いているからだと判る。

もっとハッキリした例をあげる。まず、辰野登恵子のHPで以下の二枚の絵を見て欲しい。http://www.tatsunotoeko.com/work.html#


2005年《Bluespacel》          
2007年《March-22-2-7》

《Bluespacel》は更衣室の棚のようにみえるけれど、立体グリッドだ。グリッドについては、ロザリンド・クラウスが、なにやら荒唐無稽な理論を展開している現代美術のキーワードだが、あれは平面的な格子のことだった。比較するために平面的なグリッドの例としてKleeの《隣の家へ》をあげる。(注1)

klee 

(以前のファイルを流用したので、余計なものが付いてきた。《活気づいたものたち》は無視してして下さい。クレーには、他にもっと良いグリッドの例があるのだけれど、《隣の家へ》の方が空間のイリュージョンが分かりやすい。)

辰野の立体グリッドとクレーの平面グリッドでは、どちらに豊な空間があるかは明白だ。平面グリッドのほうが空間のイリュージョンが豊かなのだ。立体グリッドはリテラルな三次元空間を箱のなかに閉じ込めてしまうので、空間の広がりに乏しい。

リテラルな空間というのは、知覚された空間ということで、たとえばジャッドの箱の空間はリテラルな空間である。同じように辰野の立体グリッドの箱も「リテラルな空間」の図像である。絵画に描かれた立体物も、知覚されたものではないけれど、「知覚された立体物」を再現している限り、リテラルな空間のイリュージョンを生み出している。(注2)

辰野は空間と平面にこだわりを持つモダニストだと言われている。確かに《Bluespacel》を見れば、奥行きは浅く、背景は「舞台のカーテン」の近くまでせり出しているけれど、その浅い奥行の空間が四角い巣室によって区切られ、分離されてしまっている。モダニズムはリテラルな遠近法の実の空間を解体し、平面性によってよって、イリュージョンの虚の空間を豊にしたとしたとするなら、辰野登恵子はむしろ反モダニストになってしまはないか。

ミニマリズムから抽象表現主義へ、そして現在の立体造形抽象主義へとモダニズムに逆行してきた辰野が、このことに気づいていないわけはないことは、タイトルの「Bluespacel」(注3)からも読み取れる。辰野は閉塞した空間を開放するためにいろいろな試みをしている。背板をつけない。格子を不揃いにする。二つ前後に並べて、後ろの棚が見えるようにする。棚板を傾げる。ついには側板を取り払う。しかし、徒労である。立体は、たとえそれが描かれたものでも、リテラルネスを強めてしまう。

そして、光のトリックを使った最新作の《中心集中》になる。非物質的な光を使っているからだろう、この《中心集中》は空間を開放することに成功しているようにみえる。しかし、トリックに気が付けば、依然として、そこにはリテラルな空間が支配している。

つづく   次回は「モダニズムの平面化は還元主義ではない」を予定しています。





注1:《隣の家へ》については『パウル・クレー』の記事へ

注2:話が錯綜してしまったけれど、簡単にまとめておくと、彫刻などの立体物はイリュージョンを持ちにくいことはすでに何度もいった。しかし、絵に描いた立体物が立体的に見えるのはもちろん知覚ではなく、イリュージョンだ。しかし、「立体物の知覚」のイリュージョン(想像)なのだ。そういうわけで、知覚された立体物も、絵に描いた立体物も、同じように「知覚されたリテラルな実在物」という性質を持っている。知覚された立体はpresent(現存)しており、描かれた立体はrepresent(再現)されている。
 リアリズムというのは知覚された事物を再現することであり、マネの再現性もダリの再現性も同じリアリズムである。そういう意味もあって、マネは技法だけ優れた凡庸な画家ではないかという疑いを捨てきれない。究極のリアリズムは写真画像なのだ。『マネ論②』を参照

注3:「spacel」はspace+cellの誤植か、それともセル画のcelか判らない。





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2011.01.29[Sat] Post 19:18  CO:0  TB:0  ・辰野登恵子  Top▲

辰野登恵子の「重さ」とテーブル (辰野登恵子論③)

辰野登恵子が自分が描いた事物には重さがあると言っている。どこで読んだのか検索したけれど見つからない。

『辰野登恵子のトリック』で書いたように、立体の事物であれば、重さがあって、平面上に描かれた図形や模様なら重さがない。しかも、重さがあるものは、何かの上にのっかっている。こののっかってるか、のっかっていないか、辰野の《新作》で確かめて欲しい。そうすると辰野の図解的レトリックが見えてくる。

「のっかっている」ということで思い出すのは、テーブルだ。テーブルといえば、セザンヌの静物画である。そして、キュビスムのテーブル平面、マティスの水平のテーブルと垂直の壁や絵画、という具合にテーブルはモダニズム絵画に置いて重要な役割をする。

セザンヌの静物画はリンゴがテーブルから落ちそうだ。でも落ちないのは、リンゴが図形化して重さが無くなっているからだ。キュビスムでは、テーブルの平面は垂直になり、ギターもグラスも平たくなり重さを失う。

マティスはキュビスムに重さを取り戻した。《金魚とパレット》は、テーブルの上に水の入った金魚鉢を置いた。金魚鉢は水準器の役割をしている。《Harmony in Red》は、テーブル・クロスと壁紙の模様を同じにして、テーブルの上には果物が転がしてあり、白ワインと赤ワインの入ったデカンタが水準器だ。窓外の風景は窓枠の額縁に入った絵画に見える。もちろん模様や絵画には重さはない。

空間と平面の探求をしているという辰野登恵子にはテーブルがない。床らしきものに置いてあるのは、箱のようなものを積み上げた《TWINS Ⅳ》と《水位(Ⅲ)》だ。重さはあるけれど、空箱のように軽そうだ。《a halfmoon》は背景から浮いて見える。《on the wall》は文字通り壁に掛けてあって厚みがあり、ピンクの大きい方は細い影できて、少し浮いて見える。

残りの作品は、主題の立体物がキャンバスの上下の端でカットされ、背景の手前に浮いている。三次元の立体が生み出す空間のイリュージョンは、オールオーバーな背景の壁によって閉じられてしまっている。また反対に、背景は前景の立体物に遮られて、セザンヌのテーブルのようには、キャンバスの物理的表面に浮かび上がることができない。

辰野の空間は背景に遮られ、確かに浅い。この浅さはモダニズムの解放された浅さではない。閉じられ、窒息している。たしかに、辰野は空間と平面にこだわっている。グリーンバーグによれば、モダニズムの絵画は、奥行きのイリュージョンが次第に浅くなり、ついにはキャンバス表面に重なる直前まで行く。それが抽象表現主義であり、カラーフィールドぺイティングである。

辰野の画歴はミニマリズムからはじまり、抽象表現主義を経て、三次元の立体造形的絵画へと、まるで、モダニズムの還元の歴史の流れを遡行しているようだ。もちろん、古典大家の歩いて入れる遠近法の空間ではなく、モダニズムの目で見るだけの浅い空間にもどるのだが、その空間は、モダニズムが具象から抽象へと展開するもっとも豊かだった時代の空間とはことなる辰野独自の空間なのだ。

辰野は、《新作》で、たしかに、空間と平面の問題をあつかっている。しかし、その空間は三次元立体の空間であり、平面は図形の平面である。モダニズムの平面とは、テーブルと壁と、そして何よりもキャンバスの物理的平面なのだ。もちろん、そこには絵具がある。

辰野はモダニズムの絵画言語で語っている。明暗よりも色相対比を好んでいる。黒い輪郭線がある。セザンヌのような茶と緑の荒いタッチの背景がある。主題がキャンバスの端で切れている。彫刻的なボリュームや陰影がない。厚塗りの矩形の筆触と擦ったようなタッチがある。ボケによる写真的遠近法がある。しかし、どれもが中途半端で、何の効果もあげていなように見える。背景は壁になって前景の空間を圧迫し、形は色を閉じ込めている。

辰野は、モダニズムの絵画言語でモダニズムを脱構築しようとしているのかもしれない。それが、わたしには「図解的なレトリック」に見える。

そういうわけで、辰野の最終的な評価はできない。ただ、辰野は開かれたマティスとは正反対の閉じられた画家だということだけは確かなような気がする。開かれた空間と平面を理解するのは、わたしの拙い説明よりも、マティスの作品を見れば、たちどころに理解できる。そして同時に辰野の《新作》の閉鎖性もまた容易に理解できると思う。

次回は、辰野登恵子論を書いているときに、わたしの頭にあったマティスの作品、《金魚とパレット》と《Harmony in Red》について述べる。

2011.01.22[Sat] Post 01:27  CO:0  TB:0  ・辰野登恵子  Top▲

『バーネット・ニューマン展』(川村記念美術館)

『ニューマン展』は、去年、見たのだけれど、展評を書かずに放っておいた。書きたいことがなかったわけではない。《アンナの光》はこれまでなんども見ている。見るたびに新鮮な感動を覚えたけれど、それを抽象表現主義の作品として論じる気にはならなかった。

ニューマン論もいくつか読んだけれど、ジップ絵画はあまり見ていなかった。それ以前の作品も見たことがなかったこともあり、あまりよく理解できなかったし、興味も湧かなかった。ジップ絵画を中心に論じた評論もあったが、知覚心理学と神学を結合したような空疎な議論にはとてもついていけなかった。たぶん、ニューマンの言説を下敷きにしているのだろう。

ともかく、常設展示の抽象作品から見はじめた。ポロックの《緑、黒、黄褐色、のコンポジション》は、いつものように、左上に馬のような形がみえて、気になってしょうがない。

キャンバスの形(shape)を繰り返す《Tomlinson Court Park》や《ポルタゴ侯爵》は、自己言及性と考えれば面白い。しかし、立体絵画の方はギャグとしか思えない。

モーリス・ルイスのヴェール絵画《ギメル》があった。『モーリス・ルイス 秘密の色層』展で見たときは、ヴェール絵画が四五枚並べてあったので、色違いのカーテン見本のように見えて、がっかりしたのだが、今回はこの緑の《ギメル》だけだったためか、そこだけがオーラに輝いていた。

ニューマンの部屋にはいった。最初に、アヅキ色の色面を白い線が真ん中で分割している絵がある。

隣の部屋には谷岡ヤスジの「アサ~ッ!」の鳥を思い出させるような絵や、出来損ないのロールシャッハの図版のような絵もあった。

それから、ジップ絵画がならべてある。じっと我慢して見ていると、なんとなくいろいろなオプティカルなイリュージョンが見えるような気がしてくる。紙にプリントしたリトグラフ《18の詩篇》は、李禹煥の作品を彷彿とさせる。

彫刻があった。コルテン鋼の細い柱が三本立っている。ブランクーシの《無限柱》は、そろばん玉のようなものが繰り返されて無限を表わすのだろうが、こちらはただの鉄の棒である。しかし、何も無い分、一層、象徴性が強められているとも言える。

ともかく、ニューマンのジップ絵画を見ることは、一種の拷問だ。無意味な文字列をむりやり覚えさせられているような気がしてくる。

へとへとに疲れて、最後の《アンナの光》を見た。震えるような感動をおぼえた。ニューマンは《アンナの光》で、これまでの自分の作品や芸術論ばかりではなく、ポロックもロスコもデ・クーニングも、そして、勿論評論家たちの言説も、全部まとめてゴミ箱に捨てたのだ。

われわれは、《アンナの光》のまえでは沈黙するほかない。



2011.01.14[Fri] Post 22:28  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

辰野登恵子とマティスのモダニズム (辰野登恵子論②)

本江邦夫の「辰野登恵子論」の冒頭に掲げられた辰野のエピグラム。

「絵画は絵画であり、何かの象徴ではないし、理念的なものでもない」

そして、
BLD GALLERYの『辰野登恵子 新作展』の解説から。

辰野登恵子は74年東京芸術大学大学院修士課程修了後、当初はアメリカのポップ・アートやミニマル・アートの影響を受けた作風の作品を制作していましたが、70年代後半より一貫して平面にこだわり、日本のモダニズム絵画を牽引する存在として大きな足跡を残しています。

何層にも塗り重ねた緑やピンク、水色など豊潤な色彩の中に、円形、方形、花模様、雲形などの形態が浮かび上がる辰野の絵画は、抽象とも具象とも違った奥行きある豊かな空間が広がり、形態と色彩が織りなす緊張感、そして感情豊かな力強い画面からは、絵画を描く行為の本質に真摯に立ち向かい続ける辰野の姿勢が伺えます。


辰野登恵子はモダニストであり、作品には「奥行きのある豊かな空間」と「形態と色彩が織りなす緊張感」があると言う。

たしかに、新作には、三次元の立体物が描かれていて、当然、空間のイリュージョンがある。また、立体物は輪郭線と稜線に囲まれ、その中にキミドリや青やピンクなど今どきの色彩で塗られていて、緊張感とは言わないけれど、それなりに新鮮な感じがしなくはない。

しかし、本当に奥行きのある豊な空間があるのだろうか、あるいは、形態と色彩が織りなす緊張感があるのだろうか。

辰野登恵子はマチスが好きだという。マチスはマネから印象派、そして、セザンヌ、キュビスムへと、ヨーロッパのモダニズムの流れを、アメリカの抽象表現主義に繋げる役割を果たした。マチスの影響下で、それまで線的で閉じていた抽象画が、絵画的で開いた抽象表現主義になっていく。(注1)

辰野には抽象表現主義の時期があったということだが、《新作》の空間は「閉じて」いる。すでに言ったように、広告写真の「ブツ撮り」になっている。モチーフの立体物は、輪郭線と影を兼ねたような途切れとぎれの黒い線で縁どられ、いわばピントが合っている。立体物は、三次元の線遠近法のなかに、きっちりと嵌め込まれている。

それに対して、細かい擦ったようなタッチで描かれた背景はボケて、一種のオールオーバーなカラーフィールド・ペインティングになって、ブツ撮り用の背景紙の働きをしている。背景紙は、立体物の三次元空間を前景の中に閉じ込める。けっして、奥行きのある豊な空間とはいえない。

ポスターになった《室内》や《必然的な丸》の背景は、他の事物らしきものが描かれて、背景紙にはなっていないが、両方とも手前にある曲がったパイプのようなものにピントが合っている。パイプと重なっている背後のものはボケているので、「前ピン後ろボケの遠近法」と、「重なりの遠近法」、それと、「大小の遠近法が」働いて、奥行きのイリュージョンが生まれている。しかし、まさにそれ故にこそ、逆に、前景と後景が分離されてしまっている。

色彩に関しても同様なことがいえる。グリーンバーグの『マチスの影響』(『グリーンバーグ批評選集』)から抜き書きする。


・特にマティスの芸術は装飾的だと批判され、また批判され続けている。

・注目すべきは、マティスがいかに絵具を多様な薄さにして画面に塗り、筆を運び、そうすることで地の白が透けるばかりではなく、息づかせたかということである。

・ピカソの絵は、いかなるものであれ自らを閉じ込めようとするが、マティスの絵はいかなるもであれ自らを開こうとする。

・1914年にマティスがプリズム的ではない色彩を取り入れ始めたーーー途中省略ーーー同じく黒、白、灰色、アース・カラーがプリズム的な色彩そのもののように振舞い始めた。

・マティスは、我々の文化における芸術の議論を悩ますような偽善的な決まり文句、偽りの感情、偽って表現された感情に対して、早くから敵対してきたかのようである。

・マティスは言葉の修辞を拒絶したように、芸術でも図解的な修辞のいかなる痕跡をも遠ざけた。



グリーンバーグの『マティスの影響』を読み返して、あらためてグリーンバーグの批評家としての偉大さが分かる。グリーンバーグはフォーマリストだとか、還元主義者だという批判はあたらない。引用の説明は必要ないだろう。これをひっくり返してやれば、そのまま辰野登恵子の批判になる。

色について、辰野登恵子X会田誠のトーク・ショウで、会田が辰野の絵を見て、「絵の具を喜ばすために描いている感じがする」と言うと、辰野が「色を喜ばすために形があるのかも」と答えた。

辰野もマティスも黒を使っている。辰野の黒い線は、輪郭線であり、ときどき影でもある。どちらにしろ、立体図形を補強する役割をしている。辰野の図形は色を喜ばすためではなく、色を形の中に閉じ込めためにある。それに対し、マティスの黒は色である。太い輪郭線がある。影がある。黒い壁、衣裳、家具、そして髪がある。太い描線は立体を平面化し、外の色と中の色をつなげる色だ。立体を平面にする開放的な色だ。

もちろん辰野はマティスの開放性のことを知っている。だから、辰野はいろいろと工夫をしている。ところが、それが裏目に出て、工夫がトリックに見えてしまうのだ。

トリックとは、グリーンバーグの言う図解的な修辞(illustrational rhetoric)のことだ。本棚の棚板が傾斜していたり、側板が欠けていたりするのは、レトリックである。光とペンキを意図的に混乱させているのも、重さのある石と重さのない平面の区別を曖昧にしているのも、図解的なレトリックだ。そもそも、辰野の写真的な技法からして図解的なレトリックといえる。(注2)

辰野の《新作》が傑作なのか凡作なのかは判らない。辰野はミニマリズムから出発して、抽象表現主義を経て、この立体造形的抽象に至った。抽象表現主義は「ハッキリとした輪郭で描かれ平面化された形体」を克服することでうまれた抽象だ。それを元の平面幾何学的抽象にもどすどころか、さらに立体造形的抽象画に至ったのには、それなりの理由があるのだろう、ただ、わたしに分らないだけなのかもしれない。



注1:『抽象表現主義以後』(グリーンバーグ)参照
注2:「辰野登恵子論①」
                                                                             小林正人と同様に、辰野登恵子についても、古谷利裕と本江邦夫が批評を書いている。藤枝晃雄氏がいうように、論じやすい作家というのがいるのだろう。ひととおり読んだけれど、相変わらず難解だ。どちらも私が見た新作についてではない。                                                               
2011.01.13[Thu] Post 22:29  CO:0  TB:0  ・辰野登恵子  Top▲

ヘンリー・ダーガー

通りすがり
> 2007年当時の話を掘り返すようですみませんが、一体ダーガーの絵のどこがどういう風に飽きるのか、そして例にあげた画家たちとどういう共通点があるのかを説明してくださらないと私としては納得がいきません。ダーガーが好きという立場ではなく、率直に疑問に思ったことです。喧嘩を売っているつもりではございませんので、お答えいただけたら嬉しいです。


通りすがりさんへ コメントありがとうございます。『ヘンリー・ダーガー』を読み返したけれど、あれ以上付け加えることはありません。

他の画家との共通点ということでは、記事を書いた頃、「アウトサイダー画家」というキーワードが流行っていたので、それで括ったということです。(世田谷美術館の「アウトサイダー展」や美術手帖の「ヘンリー・ダーガー特集」など) ダーガーが世田谷美術館で取り上げられていたアウトサイダー画家とは根本的にことなることは、ブログに書いたとおりです。

ヘンリー・ダーガーは、ほかのアウトサイダー画家とは違って、作品の背後にストーリーがあり、そういう意味では、知性のある一流の挿絵画家だけれど、絵画の形式においては弛緩したものを感じるということです。

もちろん挿絵にそんなことを求めるなと言われればそのとおりで、だからこそ、絵画にはいろいろな楽しみ方があるといっているわけです。斎藤環が臨床家としてダーガーの作品をあかずに眺めることに何の文句もありません。

誰にでも、子供の頃、熱心に眺めた挿絵がある。それはたぶん絵画的なものではなく、深層心理的なものに理由がある。あるいは、《モナリザ》を飽かずに眺める人もいるけれど、それは、恋人の写真を繰り返し眺めるのとおなじだ。絵ではなく、モナリザを見ている。フォーマリストとして見ているわけではない。

わたしはひとまずはフォーマリストだ。しかし、形式は内容とあいまって形式なのだ。私がいま、いちばん飽かずに眺めるのはマチスだ。マチスは具象画に留まった。アメリカの画家たちはマティスを抽象画家と捉えていたけれど、マチスの再現性は絵画の平面性に開放感を与えている。

通りすがりの人は画学生なのだろうか、それとも美術愛好家なのだろうか。愛好家なら私の言う事など気にせずに、ダーガーを楽しんでください。すでに映画『非現実の王国で ヘンリー・ダーガーの謎』はご覧になったでしょう。そのうち出るだろう斉藤環のヘンリー・ダーガー論を読めばなおダーガーの世界を楽しめるでしょう。

しかし、あなたが絵画の本当の楽しみを知りたいアマチュアなら、まず、マティスを見ることです。

そして、あなたが画学生なら、こんな質問はしないでしょう。

答えにはなっていないかもしれないけれど、絵について議論するには、絵の良し悪しについての大雑把な了解がなければなりたちません。絵画というのは、最後は、感覚であり、趣味なのだから。
2011.01.08[Sat] Post 21:43  CO:0  TB:0  -Henry Dager  Top▲

辰野登恵子のトリック (辰野登恵子論①)

『辰野登恵子新作展』(BLD GALLERY)を見にいった。辰野登恵子は、藤枝晃雄が発見した作家として、名前だけは知っていたが、作品は見たことがなかった。

そういうわけで、ギャラリーに入るときはちょっと緊張した。最初の印象は「色彩」だった。ちょっと紫がかったピンクや青やキミドリなど、色彩は今風だけれど、固めの絵具を短い筆触で擦ったように重ねた絵肌は、薄塗りのイラスト風絵画が多い中で、むしろ古くさくさえ見えた。

初めて見る人にも、辰野登恵子の絵画がどんなものか、色彩や形態の特徴はすぐに理解できる。しかし、魅力がない。惹きつけるものがない。ありきたりのような気がする。というより、いったい何をしたいのかよく分からない。具象画なら、どんなものでも、その基礎に「再現性」があるわけだが、抽象画家に、何をしたいのかと尋ねることは、あながち不当とは言えない。もちろんその答えは画家の言葉ではなく、作品のなかにあるはずだ。

しかし、そもそも、これは抽象画なのだろうか。何が描かれているのか判別できないけれど、事物を描いていることは確かだ。立体造形といっていい。大きさは判らないけれど、持ち上げたり、運んだり出来そうな感じはする。その意味では具象画だ。

辰野登恵子の新作が通俗的なものに見えるのは、色彩もそうだが、とりわけ、背景が、広告写真の「ブツ撮り」の背景紙に見えることだ。背景の色はやや彩度が低くく、点描のように細かいタッチに加え、ピントを外したようなボカシで、商品が映えるようにしている。さらに、黒っぽい線で輪郭、あるいは影を描き、ブツが背景から浮き出るようにしている。

もう一つ気になることは、立体がペアになっていることだ。ふたつは形や模様が少し異なっているので、どうしても、そこに視線が行き、二つを比較することになる。そして、代わりばんこに立体造形を見る。そうなると、絵画のイリュージョンを楽しむことが出来ない。岡崎乾二郎の二連幅の作品にも同じことが言える。

それでも、なかなか「つまらない」とは言えない。藤枝晃雄が発見した作家ということもある。そうは言っても、つまらないものはつまらない。とくべつ惹きつけられる作品もないので、反対に、はっきりと凡作と確信できるものを除外していくことにした。

最初に《室内》を除外した。『新作展』のポスターになっているぐらいだから、自信作なのだろう。たしかに、奥行きや空間のイリュージョンがあるのだが、ありきたりの絵画言語を使った公募展のスタイルのようにみえる。《室内》を削ったら、他の展示作品がどれも「凡作」に見えてきた。

薄い矩形の箱を積み重ねたようなシリーズもよく分らない。視点が上にあって、下の方に向かって細くなっている。誇張されてはいないけれど、こういう遠近法は、絵画空間を通俗的なものにする。

どんどん除外していって、最後に《emerald 1/2》と《中心集中》が残った。とくに魅力的な作品というのではない。ただ、何んだかよく判らないけれど、ほかの作品とは違うところがあるような気がした。

両作品とも立体は二つペアで描かれているのだが、それが両方とも重なっているところが、他の「二つ」を描いた作品とは異なる。この重なっているところが気になる箇所だ。

カタログがないので、2007年に韓国で開催した個展のカタログと新作展の絵葉書を買ってきた。家に帰って、眺めているうちに、なぜ、残った二作が気になったのか少しずつ分かってきた。

まず、《emerald 1/2》を見る。
一方の直方体が他方の直方体に乗っている。直方体の稜線は少し歪んでいるけれど面と面は90度で接している。石のように見える。石ならば、端に乗っているのだから落ちる。しかし、落ちないのだから、重さのない平面なのだ。青と紫と緑の結晶模様の輪郭線は立方体の稜線と同じ平面上の線に見えてくる。

一番、平面に抵抗するのは、上の立方体の頂点が下の立方体の稜線からわずかに飛び出しているところだ。反対に、一番、立体に抵抗するのは、紫のストライプで、これは、一見すると、立方体の面にそって90度直角に折れているように見えるが、ちょっと、視線をズラしてやれば、同一平面上のストライプになる。上の石と下の石を繋げている、真ん中のストライプは、上の石の垂直の面から、下の石の水平の面へ、さらに、下の石の垂直の面と2回90度に折れ曲がっている。しかし、視野を広げて、五本のストライプを見れば、真ん中のストライプは上と下の面を、同じ平面として、つなげる役割を果たしていることがわかる。重さのある立体と重さのない平面が対立している。

次は《中心集中》である。
これはどう見ても本棚だ。だから、棚板が傾斜していたり、歪んでいたりすると、だれでも違和感を持つ。どんな効果を狙ったのか分からないけれど、棚はたぶん初期のミニマリズムと言われた「平面グリッド」から、2005年の「立体的グリッド」の流れを受け継ぐものだろう。

2005年の立体グリッド《Bluespacel》は、図式的なXYZ軸の三次元の空間であって、たとえばクレーの《隣の家へ》は、平面グリッドの何本かの線を傾斜させることで、家や道の三次元空間のイリュージョンを魔法のように生み出しているのとは、雲泥の差だ。(注1)

辰野の立体的に描かれたグリッドは、矛盾した言い方だが、いわばリテラル(直示的な)なイリュージョンであり、クレーのグリッドのように、平面と立体が共存するような、知覚とイリュージョンの対立和解の弁証法的戯れがない。

それより、《中心集中》の奇妙なところは、本棚が重なっている所に差し込んでいると思われる黄色い光だ。これがよくみると、光の当たっているキミドリのところと、影になっている濃い緑のところがチグハグなのだ。そもそも影のところが緑になるはずはないし、背後の壁は本棚よりも濃いブルーなのだが、壁の光はキミドリではなく黄色のままで、しかも、本棚の影が壁に差している気配はない。

ぼんやり見ているぶんには、どう見ても上から差し込んでいる光であるが、仔細に見れば光ではなく、ペンキであることがわかる。《emerald 1/2》では、「重さのある石」と「重さのない図形」の対立、そして、《中心集中》では、「光」と「ペンキ」の対立、どちらも両立できない対立である。

これは、新式のだまし絵ではないのか。それとも、何かしらの絵画イリュージョンの効果があるのだろうか。辰野の立体グリッドはクレーの平面グリッドのような絵画的効果がないことはすでに述べた。そして、《emerald 1/2》はマチスの《Harmony in Red》の「窓外の風景」と「風景画」の両立性と、テーブルクロスの水平面と壁の垂直面の連続性のような絵画的快感を欠いた、単純なトリックのような気がする。

辰野登恵子の作品には懐疑的である。粗探しをしているようだけれど、そんなことはない。最初にいったように、できるだけいい所を探そうとしたけれど、出来なかったのだ。

もちろん、誤解している可能性はある。辰野のHPを見ると、作品の傾向は、初期からずいぶんと変わってきたようだ。ミニマリズムや抽象表現主義風の時代もあったようだが、藤枝晃雄はおそらく今回の辰野の新作を評価しないだろう。

2011.01.01[Sat] Post 20:49  CO:0  TB:0  ・辰野登恵子  Top▲

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