ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「両眼視差」と「首振り立体視」 【首振り立体視③】

【首振り立体視①】
【首振り立体視②】



知覚世界は三次元だ。これは両眼視差によるものだという。たしかに片目を閉じると遠近感は減少する。

両眼視差を利用したものにステレオ写真がある。ステレオ写真は立体的に見えるけれど、どこか薄ペラだ。ちょうど「ポップアップ絵本」のように、開くとキリンとか象が立ち上がる絵本だ。

それは、前後に重なった二つの対象の距離が比較的離れていて、左目と右目の写真で、重なり具合のズレがハッキリしているところが強調されるからだ。昔のステレオ写真はクラウスも指摘するように、ことさらにそういう景色を選んでステレオ写真を撮っている。

それなら、ステレオ写真と現実の知覚とどこが違うのか。ステレオ写真にはない知覚世界の生き生きとした空間感覚は何処から来るのか。いろいろあるだろうが、重要なのは身体性である。

ステレオ写真では我々の身体は、写真の図像世界の外にある。それに対して、知覚では、我々の身体は知覚世界の中に嵌めこまれている。だから、知覚では頭を動かすと今まで見えていたところが見えなくなり、見えなかったところが見えてくる。写真ではそうはならない。写真で知覚しているのは印画紙で、図像空間はイリュージョン空間なのだ。我々の身体空間と物理的図像(印画紙)の空間は連続だが、写真図像のイリュージョン空間とは切り離されている。

事物は射影をとして現出する。見る位置を移動すれば、今まで見えなかったところが見える。手を伸ばせばテーブルの灰皿に触れる。届かなければ、歩いて行って触ることができる。さまざまな運動感覚を伴って現れる射影を同一の事物の現れとして構成するのが知覚である。

両眼視差は空間的な視差だが、運動感覚による視差は時間的な視差だ。時間的視差は当然片目でも作用している。これは、映画と静止画を比べてみれば判る。動画も静止画も単眼視である。動画を見ているときは、われわれはカメラの視点になって、動画の世界の中に入っている。身体はカメラボディと合体している。だから、ハンドカメラが烈しく揺れると、我々は眩暈を起こし、時には嘔吐さえする。フライトシュミレーターでは運動感覚を与えるために動揺装置があり、訓練パイロットは映像世界をほとんど現実の知覚世界のごとく体験する。

ところが、突然、動画がとまったらどうだろう。観客は映画の世界から観客席に放り出され、スクリーンの矩形が現れ、画質が低下する。このことで判るように、キネステーゼは知覚でも動画でも作用している。知覚世界は空間的視差と時間的視差の両方によって生きた空間を生み出しているとひとまずは結論づけることができる。

ところがここで奇妙なことが起こる。単眼視の動画ではキネステーゼが働いて、映像が現実世界のように体験する(ヴァーチャル・リアリティ)のに、両眼視の立体動画では、現実感覚よりも、むしろステレオ写真のような錯視の感覚が強まる。『アバター』を見た観客の多くが気分が悪くなったのは当然である。

最後に写真を考えて見よう。写真には、両眼視差もキネステーゼもない。しかし、奥行きも立体感もある。三次元の空間がある。これが遠近法であり、遠くのものは小さく見えるとか、重なっているものは、隠している方が手前にあるとか、他にも、陰影法や明暗法などもある。

われわれは平面的な網膜像を三次元に変換するアルゴリズムを進化させてきた。そのための重要なデータが両眼視差や運動感覚(キネステーゼ)なのだが、それだけではなく、眼球のレンズのピントやボケを調節する筋肉の感覚や、あるいは、自然の風景や事物の形、大きさ、色などの経験もフィードバックされている。(注1)

画家は知覚世界を平面的に見ることによって、遠近法を学んだ。それを光学的にやったのが写真だ。だから、写真は三次元に見える。首を振ると、間違って知覚のアルゴリズムが作動することもある。手前の事物と後ろの事物がチラチラと反対の方向に動き、あたかも知覚しているが如き空間のイリュージョンが生じる。

東京都庭園美術館の『ロシア構成主義のまなざし』(01年5月)で見たロトチェンコの写真は、陰影がハッキリとしていることもあるのだろう、となりの作品に視線をうつすときに、首振り立体視がしきりと見えたけれど、写真も絵と同じ図像なのだから、条件がそろえば、首振り立体視が現れても不思議はない。

話が少し錯綜したが、たしかに対象(獲物)までの距離を測るのには両眼視差が一番有効だけれど、それだけでは、生きた空間を体験することはできない。ステレオ写真よりも一枚の写真の方がリアルだし、『アバター』よりも小津安二郎の『東京物語』に生きた空間がある。

我々は四つの空間を区別できる。知覚空間、錯視空間、絵画空間、想像空間の四つだ。四つは截然と分かれているわけではないけれど、すべての根源は知覚である。

この中で、絵画がいちばん誤解され、議論が混乱している。絵画意識は知覚に基づいた想像意識だ。文字意識も知覚に基づいている。両者とも、知覚されたものが知覚されていないものを意味している点で記号の仲間だ。ただ、絵は類似によって、文字は弁別的差異のシステムであり、学習によって指示対象を意味する。

そういうわけで、文字は、金釘流でも丸文字でも「りんご」は「りんご」を意味する。りんごの絵も、カラヴァッジョとセザンヌでは同じリンゴを意味する。アイコン記号(絵文字)ならたしかにそうだ。リンゴとブドウが区別出来れば済む。しかし、絵画はそうではない。如何に描かれているかが重要だ。カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴは別のリンゴなのだ。

類似によって対象を意味する点では、絵文字も絵もおなじだが、絵文字は代用(stand for)だけれど、絵は代用ではない。絵文字は思い浮かべても同じ意味を指示するけれど、絵はシニフィアンではない。思い浮かべても絵画の十全な意味はあらわれない。現れるのは、カラバッジョのリンゴとセザンヌのリンゴの特徴だけだ。そういう意味では絵は記号性が弱いのだ。

小説を読んでいて、文字のことは忘れ、ストーリーを辿っていることに気づくことがあるだろう。われわれは文字をみているのではなく、意味を見ている。文字は透明な記号である。

それに対して、絵は意味の代用ではないから、絵を見続けなければならない。図像学というのは絵をデノテーションやコノテーションの意味に還元し、絵画をイラストレーションにしようという間違ったこころみだ。

文字意識も図像意識も、共に知覚したものを中和変容し、意味を志向する作用だ。文字意識は紙の上のインクのシミを超えて、意味を志向し、絵画は平面上の線や色を超えて、イリュージョンを見ている。ともに、知覚しているものの存在措定を宙ぶらりんにしている。

それなら、なぜ絵画は見続けなければならないのか。これは、写真と比べてみればよくわかる。写真は物理的図像、図像客体、そしてイリュージョンの図像主題を超えて、そのまま外部の被写体にまで一直線に志向する。もちろん印画紙や階調の具合、モデルの灰色の肌に注意を向けることができるが、それは無理矢理であって、結局は実在のモデルを見てしまう。写真は文字(言葉)と同じように透明なメディウムだ。

もちろん、古大家たちの再現的な絵画は、写真と同じように、外部の指示対象を直線的に志向する。絵画の三層構造を貫いて主題に達する。それにたいして、モダニズムの絵画は、物理的絵画や図像客体の層を隠そうとはしない。絵具やキャンバス表面の平面性がみえるのだ。

マチスに《赤い部屋》《Harmony in Red》という作品がある。壁紙とテーブルクロスが赤くて同じ花模様で、テーブルは壁と同じように垂直にキャンバス表面に重なって見える。左の窓から外の緑色の景色が見える。しかしこの景色も、橙色の窓枠が額縁の役割をして、まったくの風景画に見える。ということは、奥行きの深いはずの景色が、風景画になって、赤い壁とおなじ平面にせり上がってくる。

これは錯覚ではなく、図像客体と図像主題のあいだの弁証法的緊張関係だ。たとえば、テーブル・トップは大抵は水平だから、ひとまずは、水平に見える。しかし、テーブルクロスが壁紙とおなじ模様なので、テーブル・トップは壁紙と同じように垂直に見える。窓外の景色についても同じことが言える。

以上のことから二つの暫定的な結論を得ることができる。

1)絵画は、知覚に基づく想像なのだから、絵画の真理は、絵画を見ている時だけ現れる。俳句などの言葉の芸術は、頭の中で作れるが、絵画は頭の中で描くことはできない。

2)マチスの《Harmony in Red》のイリュージョンは、錯視ではなく、具象的対象のpictorial illusionである。オップアートのチラツキや、首振り立体視は錯視であって、マチスの絵画的イリュージョンとは区別しなければならない。優れた画家は、クレーにしてもマチスにしても、みんな、具象画に留まった。わたしはロスコも具象ではないかと思っている。

これで、ひとまずこの小論を終りにする。




注1:ついでに、上で述べたボケについて書いておくと、望遠レンズで背景をぼかしたポートレイト写真の人物が、浮き出て見えることはよく知られている。ボケた対象は人物よりも遠くにあるため、ピントがあっていないと目が判断するからだ。

【補】・遠景が絵のように見えるのは、両眼視差が働かなくなるからだ。
   ・片目は、両目よりハッキリと首振り立体視ができる。
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2010.12.27[Mon] Post 01:50  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

「お題」 村上隆と松井冬子の日本画

昨日、松井冬子の記事にアクセスが増えた。松井がテレビ出演をするとアクセスが増える。でも、今回は違うらしい。参照元は、Google検索からではなく、空白になっている。

それで思い出したことがあるので書いておく。

ブログ記事『松井冬子の自画像』で、「他者」とか「お題」とか松井の言語感覚はおかしいと言いがかりをつけたことがある。ところが、『美術手帖(11月号)村上隆特集』に『芸術新潮』連載の辻惟雄と村上隆のコラボレーション企画『ニッポン絵合わせ』の記事が出ている。辻が出した「お題」に村上が絵で答えるという企画だ。

どうやら、日本画の世界では課題のことを「お題」と言うらしい。お題と言えば、宮中歌会始の「お題」で判るとおり、短歌俳句などで使う言葉だ。

歌は、第二芸術論を持ち出すまでもなく、芸術ではなく芸事だろう。そうであれば「お題」を出して「絵合わせ」をして遊ぶ日本画もまた第二芸術ということになる。

そうであれば、日本画に対する大方の疑問も解決する。彦坂尚嘉がブログで日本画に関して身も蓋もないことを言っている。

ついこの間までは、日本画と言うと東山魁夷とか、平山郁夫が有名であったが、
今日では松井冬子が日本画を代表するようになるだろう。
もちろんもう一人、村上隆がいるが、この二人の時代になったと言うことだ。

もっとも東山魁夷・平山郁夫から、
松井冬子・村上隆に、代替わりしたと言っても、
それほどに彼らの絵画の本質が、激変したわけではないのである。

東山魁夷の絵も《6流》で、ローアートで、グリーティング・カードの様なひどいものであったから、特に時代の変化を嘆く必要は無いと言える。



鶴太郎画伯も絵手紙(グリーティングカード)だろう。

お題があるのは日本画だけではない。ちかごろ、「洋画」にもコンセプトというお題があって、それに従って作品をつくる。コンセプトと言えば、聞こえが良いが、それは自己言及的なものや、PCやジェンダーやポストコロニアリズムなどのスローガンである。さらに、それらの理論についての理論があったりと、どちらにしろ、作家が自分で自分に「お題」を出すところが、日本画とは違う。

美術展があると、必ずと言っていいほど、作家がトーク・ショウや対談をする。日本画家も同じようにトークショウをするようになった。お題も自分で出している。そういう意味では、日本画と洋画はボーダーレスになったと言うのは正しい

因みに、村上隆の絵合わせの作品図版が美術手帖に転載されているが、彦坂尚嘉はとうぶん村上の評価をあらためる必要はなさそうだ。








2010.12.26[Sun] Post 01:56  CO:0  TB:0  -松井冬子  Top▲

『青田真也 Shinya Aota』 (青山|目黒)

ギャラリー『青山|目黒』の案内メールで青田真也を知った。普段はあまり案内状を熱心に見ないのだが、今回は、添付してあった写真を見て、興味を持った。

HPの写真をまず見てください。

青田真也

下の写真は、近頃、よくあるインスタレーションだ。田中功起のテーブルトップの作品にも、サッカーボールをテーブルの上に一つ置いた作品があったけれど、インスタレーションというものは、取立て面白いものではない。

ところが、上の静物画風の写真はどこかヘンなのだ。理由もなく胸騒ぎがする。全体にモヤッとして、ソフトフォーカスのような気がするけれど、ピントが合っている。壁が白く陰影がなく、露出オーバーのような気がするけれど、そうではなく、将棋の駒やママレモン、漫画雑誌の文字やラベルが剥がされているからそう見えるだけだ。

なによりも、レコード盤やママレモンの表面の反射がなく、マットなのは、一種のピクトリアリズムのようだ。全体に実在感が希薄で、事物が図像化している。中でも一番絵のように見えるのは蚊取線香だ。

絵のように見えるということは、この写真がピクトリアリズムだということではなく、個々の被写体そのものが図像になっているということだ。もちろんこれが写真だということもある。けれど、立体を写真にとっても立体に見えるのだから、この写真の被写体が図像に見えるのは、写真だということだけではなく、個々の立体作品自体の質が問題になっている。

案内状の解説に、「今回展示するのは既製品を用いた立体のシリーズです。全ての素材の表層全体が薄く数ミリほど削られ、それらが元々「~である」という証拠であるはずの情報が剥がされています。」とある。なるほど、それで作品の表面がマットで、光の映り込みがない。

ギャラリーに行って実物をみた。予想通り素晴らしかった。写真(picture)が絵(picture)に見えても、ある意味で当たり前なことだが、三次元の立体が絵に見えるのだ。

ひと通り見て、一番、絵画的に見えたのはポリエチレン製(?)の黄色いバットだった。地球儀もいいのだが、台座が少しジャマになった。サッカー・ボールは縫い目や模様が少し残っている。それに比べると、バットは丸い棒で、白い壁を背景にして、陰影もほとんどない。頭が少しぐらい動いても、絵に描いたバットと同じように、見え方に変化がない。そういうわけで立体のバットが絵に見えるのだ。

表層を数ミリ削るということは、ラベルや表面の情報を剥がすことでもあるが、頭を動かしたり、見る位置を少しぐらい移動させても、文字や模様がなく、色彩が一様なので、絵と同じように、それほどの変化が生じない。

さらに重要なことは、削ることで表面をマットにすることだ。光の反射や映り込みをなくし、立体感を除去することだ。たとえば、ジェフ・クーンズの《風船プードル》は表面が金属光沢なので、鮮明な映り込みがあり、観者の動きに連動して映り込みの映像の箇所が移動する。そのことで、表面が球面であることが強調されてしまう。

青田の作品が、立体を平面にすることなら、もともと平面の表面を削ってもあまり意味がないことになる。実際に地図の表面を削った作品があったが、面白いイリュージョンは現れない。このことで、思い出すのは、ラウシェンバーグがデ・クーニングのデサンを消しゴムで消した作品である。これは、「抽象表現主義」という父親を殺す儀式だったということらしいが、そんな精神分析的な解釈をするまでもなく、絵画が絵画であるためのイリュージョンを消しゴムで消して、ただの矩形の紙にしたコンセプチャルなミニマリズムと考えるのが妥当な解釈であろう。ラウシェンバーグがその後、制作した《コンバイン絵画》は事物を使った立体絵画で、もちろん立体はイリュージョンを持たない。

《地図》の隣に、壁のペンキをキャンバスの矩形に剥がして、合板のボードをむき出しにした作品があった。グリーンバーグが白いキャンバスでも壁に掛ければ、絵になると言ったことを踏まえれば、この作品は、白い下塗りの絵具を剥がして支持体の生地をむき出しにして、一切のイリュージョンの余地を排除した究極のミニマル絵画といえる。

そもそも、彫刻は絵画に比べてイリュージョンを持ちにくいメデュウムだ。立体では、キネステーゼ(運動感覚)が作用するので、どうしても知覚意識が働く。それは、観者の身体空間と作品空間が連続しているからだ。彫刻のイリュージョンを見るためには、照明とか囲いとか、何らかの手段で、作品空間と身体空間を切り離して、観者は自分の身体のことを忘れて、作品に没入しなければならない。

没入しなくても、イリュージョンが見えるのは、これまでこの「美術展評」で見てきた作品の中では、ジャコメッティぐらいで、なかでも《四つの小像》は傑作と言える。ブロク記事『ロスコとジャコメッティ』から引用する。

立体のイリュージョンについては、没頭しなくても像主題が容易に見えるのはジコメッティの『四つの小像』です。あれはほんとうにマッチ棒のように小さい像でしたが、自分の知覚的身体を消去しなくても、ふつうにみれば、そこにミニチュアではなく、等身大の人間が現れます。まさに三層構造なのです。これは、簡単なことです。小像がミニチュアではなく、遠くにいる人物に見えると言うことです。現実の知覚でも、遠くに小さく見える人物はちゃんと等身大に見えるでしょう。これはもちろん遠近法という知覚世界の構造があるからで、像ではなく、通常の知覚です。しかし、ジャコメッティの小像は違います。小像は遠くではなく目の前にあるのです。だから像客観(Bildobjekt)は小さく見えます。そして、像主題は等身大に見えます。

小像のBildsujetが大きく見えるのは、二つの理由があります。一つは、遠方からみたようにボリュームがなく、かつ滲んだように細部が省略されていること、もう一つは、小像は一つではなく、四つ並べているということです。これで、お互いどうしが大きさの尺度(人間は万物の尺度です)になって、等身大の人間(像主題)があらわれるのです。


そして、別の方法だが、イリュージョンが容易に現れる立体は、青田真也の作品だ。

以上、フォーマリズムの立場で青田真也を分析した。しかし、もうひとつ別の解釈がある。それは、案内メールの解説に手際よくまとめられているので、引用する。

限りなく原型に近いにもかかわらず、肝心の手がかかりがごっそりと抜け落ちたそれらの立体からは、以前に一度会ったのは間違いないのに、どこでお会いしたのか、ついぞ名前が出てこない人に突然再会したのにも似た経験をします。
そして何よりも、凡庸な日用品達の薄皮一枚の下には、眩い色味や豊かな質の機微に溢れていて、既視感と常に背中合わせでありながら、他にはない視覚体験を提示しています。


ニョウボも《ドラえもん》を見て、子供の部屋に転がっていたドラえもんの「不随的記憶」が蘇ったと言っていたけれど、それはおそらくは、削っていないドラえもんでは蘇らなかった記憶なのだろう。それは、何よりも、立体が絵になる(図像化)という事があるからこその想起なのだ。

既視感ということであれば、田中功起にもある。両者の既視感の背後には日常性が横たわっているようだけれど、芸術文化論よりも、まずは重要なフォーマリズムの分析を試みた。芸術文化論についてはいずれ論じたい。



PS:『青田真也 Shinya Aota展』はギャラリー『青山|目黒』で12月27日まで開催しています。今年の見た展覧会では一番面白かった展覧会です。『カンディンスキーと青騎士展』と『青田真也展』は是非みてください。


青田 真也:Shinya Aota

2010.11.27.sat - 12.27.mon

青山|目黒 東京都目黒区上目黒2-30-6

※ open : 11:00 - 20:00 close : 日,祝 

行くなら昼間がいいでしょう。ギャラリーの正面はガラス張りで、光が充満して作品の陰影が薄くなります。





2010.12.21[Tue] Post 01:07  CO:0  TB:0  青田真也  Top▲

『カンディンスキーと青騎士』展(三菱一号館美術館)

この展覧会の一番の目玉は《印象Ⅲ(コンサート)》(1911年)だろう。

しかし、私が一番つよく惹きつけられたのは、《コッヘル---まっすぐな道》(1909年)だ。

《印象Ⅲ(コンサート)》は、シェーンベルクのコンサートに行って、その印象を絵画化したものだという。彼は共感覚の持主だったそうだが、多くの評論家がカンディンスキーの『芸術における精神的なもの』の絵画理論にもとづいて評論を書いている。たいていは、形態と色彩の心理学を文学的修辞に書き換えたものだ。

画家の絵画論ほどアテにならないものはない。自分で描いて、自分で言っているのだから、間違うはずはない。以前にも書いたけれど、岡本太郎が「芸術は爆発だ!」というので、彼の絵を見たらやっぱり爆発していたなんてことがあった。

《印象Ⅲ(コンサート)》はまったくの抽象画とはいえない。グランドピアノや観客や柱らしきものが識別できるからだ。しかし、これがコンサート会場を描いたものだと知らなければ、それらの対象を識別するのは難しい。

わたしは、この絵がシェーンベルグのコンサートの印象を描いた作品だと言うことを知っていた。実際に見れば、抽象画あるいは具象画、どちらにも見える。どちらか一方が、正しい鑑賞の仕方ということはないだろう。ちなみにニョウボは抽象画だと思って見ていたそうだ。

カタログの解説からの引用。

この絵における、右上から画面半分を覆いつくさんばかりに圧倒的な黄の色面。これが、カンディンスキー個人の芸術の進展においてのみならず、近代絵画の歴史において決定的な一歩を記すものであったと言っても、20世紀絵画のその後の展開を見れば過言ではないであろう。今もこの絵がもたらす新鮮な驚きと他に類のない視覚体験が、この作品の重要性を私たちに訴えかける。


おそらく、キュビスムなど抽象画の萌芽期という時代背景を考えれば、音楽を色と線で表現するというのはたしかに画期的なものだったにちがいない。

黄色の色面について述べた箇所を引用。

とはいえ、黒と白、その他の幾つかの色を重要なアクセントとしつつも、圧倒的な面積を占めて全体に浸透せんとする黄色こそが、この絵に破格の大胆さと鮮烈さ、流動性を与え、この絵画の平面を、強度を持つ色彩の発現の場としている。黄色はコンサート会場を支配していたであろう音楽の聴覚的な印象を示しているのであろうか。カンディンスキーは『芸術における精神的なもの』のなかで色彩が精神に及ぼす作用について述べ、黄色が「観者に向かって、時には圧倒せんばかりに迫ってくるその作用」、「輪郭を飛び出し、周囲にその力を撒きちらす作用」を持つと記した。彼は色彩をしばしば音響とのアナロジーにおいて語ったが、「その強烈さが高まるとき、黄は、しだいに高く吹き鳴らされるトランペットの鋭い音色が、とくに際立つ、ファンファーレの音色のように、響く」と述べている。(Y.H.)


色彩の象徴的意味なら、ゲーテの色彩論にもあるとおり、特段珍しものではない。津上みゆきの《View》の色彩にも様々な象徴的意味を読み取ることはできる。いかし、《印象Ⅲ》は《View》と比べると形と色の部品が関係を持ち全体の構成を作っている。色相差も明暗差もあり、形態や線も変化に富んで、アンバランスとバランスがどちらか一方にかたよることもなく、いわば動きのあるバランスを作っている。

これは、「バウハウス」時代の幾何学的な構成に繋がっていくような抽象だ。バランスだとか色彩のリズムだとか象徴性だとか、アマチュアが考えるような表現主義的な抽象画になっている。勿論これは誇張なのだが、そう感じたのは、この絵のまえに見た《コッヘル---まっすぐな道》があまりにも強い印象を与えたからだ。

《コッヘル---まっすぐな道》は第二室『ムルナウの発見---芸術総合に向かって 1908-1910年』に展示されていた。反対側の絵を見ていて、振り返ったとき、その絵が目に飛び込んできた。絵の大きさからみて、随分と離れた位置なのだが、筆触の細部が見えないだけに、いっそうその単純な色面と奥行きがイキイキと見えた。

試しに近づいてみたけれど、離れてみたほうがはるかに良い。第二室の展示作品は、厚塗りの短い筆触で、印象派とフォーヴィスムを混ぜたような、色彩豊な絵が多いのだが、離れてみると主題の細部が消え、色彩がバラバラになって、抽象画のようになる。それに比べ《コッヘル---まっすぐな道》は輪郭線をハッキリと描き、その中を一色で平面的にぬっているので、構成が単純で、遠くから見ても、画面がバラバラになることはない。

画面の中央に空色の道が濃青色の三角の山の方に真っすぐ伸びている。空色の道の両側に補色の黄色い畑があり、その上に、左側は三角の赤い丘、右側は茶と赤と緑の畑、そしてその畑の向こうにオレンジの家がある。全体に平面的でキュビスムの影響がみられる。奥行きを表わすはずの道は途中で切断され、セザンヌのテーブルのようにキャンバス表面にせり上がって見える。

ところが、離れてみると、道や畑や山、そしてオレンジ色の家が、浅いけれどきちっとした奥行きの中に収まって、決して平面的な描写にはなっていない。また、みどりやオレンジや空色を使って、赤青黄の三原色を巧みに配色しているのは、カンディンスキーの鋭敏な色彩感覚を示している。なかでも、青い山につながる空色の道は、この派手な色彩の画面を安定させている。

第二室の中で、《コッヘル---まっすぐな道》は特異な作品である。他に似たような作品があるのかどうかしらないが、このあとカンディンスキーは表現主義的な抽象から、バウハウス時代の幾何学的抽象へ、そして、パリ時代の有機的抽象へと展開していく。残念ながら、バウハウス時代とパリ時代のの作品は本展では展示されていない。しかし、カンディンスキーの作品は、《コッヘル---まっすぐな道》が製作された1909年前後のまだ具象性が残っている作品が優れているのではないか。

抽象画には表現主義とキュビスムの流れがあると言われているが、カンディンスキーは二つの流れに影響をうけながら、最終的には、精神的なものを表現する抽象画に進んでいったのだ。そのカンディンスキーの抽象画への歩を余す所なく示して、『カンディンスキーと青騎士展』は、今年いちばんの展覧会だった。




2010.12.12[Sun] Post 14:56  CO:0  TB:0  --カンディンスキー  Top▲

ポロックの空間の秘密  【首振り立体視②】

【首振り立体視①】



前回のエントリー
でポロックの空間について書いた記事に岡田萬治さんという方からコメントを頂いた。

岡田さんには幾つかの誤解と思い込みがあるようだが、ここでは細かいことは省略する。

まず問題のポイントは、頭を動かしたり、歩きながら画像を見ると現れる立体視があるかどうかということだ。岡田さんは、Youtubeを見ても立体視が見えないという。見えないだけなら、個人差もあるだろうから、それはそれでいいのだが、見えるはずがないと言われると、見えるわたしは困惑するばかりだ。

「首振り立体視」、ひとまずこう名づけておくが、これはわたしの目の錯覚ではないかと最初は思ったが、例によってニョウボに確かめたら、奥行きが見えるそうだ。(ぜんぜん、証明にならないがw)

立体視というより、三次元視と言ったほうがいいのだが、たしかに両眼視差によって三次元視は生じる。しかし、すべての三次元視は両眼視差のためではない。

ポロックの三次元視が両眼視差によって生じるわけではない。我々は交差視も平行視もしていない。それは準知覚であって、「知覚の三次元」でも「図像意識の三次元」でもない、あたかも知覚のごとく見える「錯視の三次元」である点では、両眼視差による立体視と同じだ。

この三つの現象は、思い込みなしに、ということは現象学的還元をしてみればということだが、それぞれハッキリと区別できる。もちろん折衷的でどっちつかずの三次元感覚もあるが、それはそれで中間的な現象として把捉できる。

何事も絵画を論じるならば、まず、絵画を見ることから始めよう。ポロックの「首振り三次元視」に好都合な静止画集“Top Twenty Jackson Pollock Paintings”がYoutubeにある。それを見てみよう。





ひと通り見て、いちばん三次元視がうまくいく静止画を選び、首を振らずに見てみよう。たとえば《Number22》がある。具象画の遠近法的奥行きではないが、絵画的な空間のイリュージョンがある。

具体的な事物がないのに、どこからこの三次元感覚が生じるのか。いろいろあるだろうが、もっとも重要なのは絵具のかさなり、もうひとつ副次的に重要なのは曲線だ。

二つの線が交差しているとき、上にある方が手前に見える。それから曲線があれば、それは大抵は凹んでいるか、あるいは盛り上がっているかのどちらかにみえる。もちろん凸と凹が交替して見えることもある。

その他、地と図の関係(注2)や前進色と後退色の影響もありそうだが、解像度の低いYoutubeの画像では、はっきりしたことは判らないし、どちらにしろ、「首振り立体視」では副次的な役割しか果たしていない。

首を左右に振ってみよう。すると比較的浅かった奥行きが深くなり、交差した線は二次元の平面上で重なっているのではなく、三次元空間を離れて交錯しているように見える。頭を右に動かすと、前の線が左に動き、後ろの線や色面が反対側に動いたような錯視が生じる。

この絵では、筆で描かれた黒い線やドリッピングの黄色い細い線が浮き上がって見える。特に黒い線は静止状態のときは、沈んでさえ見えたのに、動いたとたん浮き上がってくる。

この錯視が両眼視差によるものではないことは、片目で見ても同じ現象が起きることで、簡単に証明できる。

それでは、どうしてこんな錯視が生じたのか。それは、電車に載っているときに近くの電信柱が後ろに動いていくのに遠くの家は電車についてくる現象と同じだ。片目をつぶって、鉛筆を二本、目の前に距離を少し離して立てる。そして、頭を左に動かすと、近くの鉛筆は右に、遠くの鉛筆は左に動くように見える。これは錯視ではなく、相対的な運動ということだ。(正確には相対的うんどうではなく、視線の角度の違いだ)

しかし、絵画では交差する二本の線は同じ平面に描かれているのだから、頭を動かしても、上で述べたような現象は起きないはずだ。実際に起きていないことが、起きているように見えるから錯視なのだ。

それなら、頭を動かすと何が起こるのか。それは、網膜の像がずれるということだ。網膜像は眼球の動きや頭の動きに連動して、絶えず変化している。それなら世界が揺れ動いたり、チラチラしても良いはずだが、そうはならない。「脳」が網膜像の動きを、対象のうごきではなく、眼球や頭のうごきとして処理している。

実は、この眼球や頭の動きは三次元の空間や事物の立体性を構成するための重要な運動感覚(キネステーゼ)なのだ。三次元の知覚に両眼視差が働いているのは確かだ。その左右の異なった網膜像を脳が三次元立体として処理している。もちろんこれは交差視も平行視もしているわけではないから錯視ではなく、知覚だ。

もちろん、三次元に見えるのは、両眼視差だけが理由ではない。片目でも、両眼視ほどではないが、奥行きは知覚している。それは、事物の重なり具合であり、焦点より遠いところと、近いところのボケであり、大小の遠近法である。眼帯をしていて、どちらが近くにあるかわからないとき頭を動かして、重なり具合を確かめて、どちらが前か後ろか確かめた経験があるだろう。

頭を動かすより、動画でカメラを移動させたほうが、「首振り立体視」がハッキリ見える(たぶん)のは、列車の窓外の景色の流れに近いからだ。絵画は平面だけれど、浅い空間のイリュージョンがある。それが横に移動すると、その浅い絵画空間にたいして、「脳」が、まちがって、三次元空間を知覚した時のプログラムを実行してしまうのだ。

この「首振り立体視」はポロック特有の現象ではない。線や図形が重なっている絵画なら大なり小なり「首振り立体視」ができる。例えば、カンディンスキーの幾何学的抽象は比較的よく三次元視ができるほうだが、ポロックほどではない。ポロックが特別なのは、おそらく、絵具が盛り上がって、線の重なりがリアルに見えることも関係しているのだろう。(注1)

以上のことは、ポロックの評価とは直接関係はない。しかし、首もふらずに静止画を見ていると、浅い絵画的イリュージョンが少しずつ深くなっていくようみえる。ときに、チラチラと錯視らしきものがあらわれるもする。それは、いくら観者が動かないつもりでも、眼球は動いているし、頭は揺れているからだ。たぶん、首振り三次元視が絵画的空間に影響を与えていることは間違いない。

本物のポロックを見て見なければ、なんとも言えないけれど、Youtubeでポロックの絵をみながら繰り返し「首振り実験」をしたので、次第にポロックの絵画的イリュジョンが見えるようになってきた気がする。

ポロックを見るために、アメリカまでいく元気はない。

注1:デ・クーニング《発掘》(1950)はもともと面を立体的に重ねているので、「首振り立体視」をすると屋上屋を架すの感じになる。
注2:ポロックのポード絵画には図と地はないと言われているが、全くないわけではない。

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2010.12.11[Sat] Post 19:57  CO:1  TB:0  絵画の現象学  Top▲

ポロックが易しいというなら、自分でやってみろ。【首振り立体視①】

ニューヨーク・タイムズ(12/3)に、スティーヴン・マケルロイ記者の“If It's So Easy, Why Don't You Try It.”の記事が掲載されている。

死後の名声とオークションでの高値にも拘わらず、生前も今も、ポロックの作品はでたらめなエネルギーの無秩序な爆発で、彼は天才でもなんでもないという批判が繰り返し行われている。

それに対して、美術史家でキュレーターのヘレン・ハリソンが“The Jackson Pollock Box”を作った。数枚の小さいキャンバスと紙、ブラシと液体のアクリル絵具を入れたスクイズボトルが入った「ポロック・キット」だ。

これを使って、ポロックのポーリング絵画に挑戦してもらえば、ポロックがデタラメにやったわけではなく、バックグラウンドもあるし、テクニックの修練もしたし、これまでの絵画を踏まえた上での革命的な作品であることを理解してもらえるとヘレン・ハリソンは言う。

ポロックが易しいと思って、やって見ると難しいのは、ポロックがデタラメをやっているわけではなく、ちゃんと絵具をコントロールしているからだ。ポロックのポード絵画は、絵具をランダムに撒きちらす“アクション・ペインティング”ではない。画布を目で見ながら、もちろん偶然を利用しながらも、しっかりとポーやドリップやスプラッシュをコントロールしているということだ。

われわれが真似の出来ないポロックの秘密とはなんだろう。

ポロックをYoutubeで検索したら面白い映像があった。55秒ぐらいから注目。カメラが右に移動すると、立体視が現れてくる。



この立体錯視をはじめて見たのは、ウィーン美術アカデミー名品展(損保ジャパン美術館2006年)で、ローベルト・ルスの≪ベンツィンガー・アウの早春≫の木立の枝を見たときだ。同じような現象は2008年の『世界文化大賞展』のザオ・ウーキーとアンゼルム・キーファーの作品にも見られる。

この錯視はスティーブン・ピンカー(『心の仕組み』)の「壁紙ステレオグラム」の立体視やオップアートの錯視と同じ仲間で、いわば準知覚であり、絵画イリュージョンの「知覚に基づいた想像」とは別のものである。

ポロックはこの立体視を生み出す秘密というより「コツ」を知っていたのではないか。これを解明するのは「知覚心理学」の役目だが、少なくとも錯視というものは、ブリジット・ライリーのオップ・アートで判るように、むしろ絵画の楽しみを台無しにするものだ。

もちろんポロックのポード絵画には空間のイリュージョンがある。ポロックの立体視が、本来の空間イリュージョンにどのような影響を与えるか実際にポロックの絵の前に立って、首を振らずに、鑑賞してみなければならない。

ロスコとニューマンの傑作が川村美術館で見られるし、個展もあった。けれど、ポロックの代表的な作品は日本で見られないし、個展もまだないことが、ポロック理解の妨げになっているような気がする。わたしのように「ポロック知らずの評論家気取り」が多いのではないか。


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2010.12.08[Wed] Post 20:42  CO:1  TB:0  絵画の現象学  Top▲

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