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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『トランスフォーメーション』(東京都現代美術館)☆

現代アートだって面白いものはある。泉太郎高柳恵理田中功起などは美術かどうかは別にして、それなりに楽しめる。

そういう事もあって、ひょっとしたら面白いものが発見できるのではないかと行ってみた。ニョウボが何の展覧会かと聞くので、「現代アートだ」と正直に言うと、いつものように、グズグズ言うので、「これが最後だ。つまらなかったら、現代アートには二度と行かない」と約束させられた。

見たあとのニョウボの感想は「どれもこれもふるくさい、どこかで見た感じがする」というものだった。たしかに古くさい。もっとも彼らが最初にやったのかもしれないけれど。

そもそも身体性というテーマからして古くさい。変身ならばギリシア神話からあるわけで、それをDNAや人類学で装いをこらしても、新奇なのは須臾のこと、翌日には古臭くなっている。

そのかわりに、作者の意図を評論家や学芸員が解説してくれる。観者は作品を見るかわりに、評論家の解説を読む。解説は現代アートの図像学事典だ。

これでは、水戸芸術館の『マイクロポップ展』(松井みどり)のほうが、泉太郎と田中功起が見られただけマシだったとニョウボは言う。

帰りにまだ時間があったので、三菱一号館の『カンディンスキーと青騎士展』に行った。あまり期待していなかったのだが、今年一番の展覧会だった。そのことは次回に。





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2010.11.30[Tue] Post 22:42  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

Art Inflation: Macy's Murakami (NYTimes11/24)

村上隆の《Kaikai and Kiki》がメーシー百貨店の感謝祭記念パレードの気球になった記事がNYTimesに出ている。

タイトルの「Art Inflation」は、アート価格の高騰のことだが、「Inflation Art」という言葉に掛けている。インフレーション・アートというのはアメリカのマンガやアニメで体が膨らんで風船みたいに浮いたりして面白がるぎゃぐである。

アート・インフレーションは村上隆の高値に対する皮肉だろう、記者のDave Itzkoffは当然ベルサイユ宮殿の村上隆展のことは知っているはずだが、そのことには一言も触れていない。随分と悪意に満ちた記事である。

以下、記事の要約

Kaikaiは、兎の格好をした子供のキャラクターで、Kikiは、牙をむき出しにした三つ目のイタズラ小僧である。気球の完成式では、村上は神式に二度お辞儀をして、二回かしわでを打った。セレモニーのあと、インタービューに現われた村上は、ぼさぼさの髪を後ろでダンゴに結んで、元気いっぱいだった。

村上は言う。カイカイキキはテレビ番組のプロモーションでもないし、朝食用コーンフレークの広告キャラでもない。二人は村上の芸術の奥義をみんなに伝える遊び心に満ちた親善大使なのだから、メーシーのパレードで目立とうなんて思わない。ただ、当日の朝の天気が心配なだけだ。

“I was thinking about sunshine,” と村上はbroken Englishで言った。以下そのブロークン・イングリッシュ。“Tomorrow the report is a little bit rainy. But I already talk with my feng shui master in Taiwan, and he already take care about that.”(記者は典型的な侮蔑的日本人観の持主である)

そのあと、パレードの責任者が電話インタビューに答える。気球のキャラクターは、子どもが見てすぐに分かるSpongeBob SquarePants and Dora the Explorerのようなフィギュアを選択するのだが、07年のジェフ・クーンズのウサギ、08年のキース・ヘリングのハートなどハイアートも選んでいる。そして、村上隆に今年のパレードの気球を依頼した。(ベルサイユ宮殿の展覧会でも、村上隆の先にジェフ・クーンズの展覧会が開催されている。)

村上は、ルイ・ビトンのバッグとカシオの時計のデザインだけではなく、サイケデリックなアニメキャラの風船彫刻でもよく知られている。

しかし、村上は言う。(自分は単なるデザイナーではなく)《Kaikai&Kiki》はいろんな意味で、自分の作品の背後にある美的哲学を表象しており、彼らは、可愛らしく且つ怖く、現代的であるとともに且つ過去と結びついている。彼らは、エクセントリックな美なのだ。(このあたりは最後のオチに繋がっている)

複雑な形なので、浮かぶために十分なヘリウムが充填できるか心配だったけれど、無事浮いたので良かった。明日の朝、パレードを生で観る子供たちも、テレビで見る数百万の子供たちも、たぶん、村上隆の名前は聞いたことはないだろう。

可愛らしさと邪悪さが混じり合ったカイカイキキはメーシー百貨店のコンセプトにあわないとパレードの責任者は認める。いろいろ話に聞いていたところでは、ちょっとグロテスクな感じがしたけれど、出来上がったのを見ればそう悪くない。

結局のところ、メーシーの基準は子供たちがそれが何だか判るかどうかではなく、子どもが気に入るかどうかだ。

子供連れの親は、「これが何の気球か知らない。カンフーパンダならしってるけど、こっちのはポケモンのキャラクターじゃない。いいにくけれど、男の子たちはこういうピンクのはなんでも本当に嫌いだわ。」と言った。

以上要約終わり

外国語なので、必ずしもニュアンスを理解している自信はないが、記者が皮肉を言っていることはうかがえる。

『美術手帖』のインタービューで、村上は「猿回しの猿に徹する」と言っている。イサム・ノグチがコンスタントな評価を受けなかったのは、日本人としてのキャラクターを放棄したからだ。「僕の場合は猿である立場をいっさい変えず、『はい、回って』と言われたら、くるっと回るだけ」(『美術手帖』11月号p90)と言っている。その言葉どおり、村上は「花のぬいぐるみ」を着てパレードに参加するとおどけているが、村上の魂胆は、Dave Itzkoff記者に見抜かれているようだ。

猿が哲学を論じてはいけない。

この記事の背景に、ニューヨークのパリに対するライバル意識があるのだろう。『美術手帖』の大特集やベルサイユ宮殿のデモ騒ぎを見て、日本人は村上が世界的なアーティストだと思っているかもしれない。村上自身も自分は世界的な美術史の文脈の中で評価されていると自慢しているけれど、自分たちこそアートの本場だと思っているニューヨークの新聞が村上をあまり評価していないことを知っておくのも悪くは無いだろう。

日本人蔑視をべつにすれば、村上芸術に対するDave Itzkoff記者の評価は妥当なところだろう。
2010.11.27[Sat] Post 22:24  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

《総力特集 村上隆》 美術手帖(2010年11月号)

ベルサイユ宮殿の村上隆をみると、パリ万博の有田焼を思い出す。あの大きな有田焼の花瓶はベルサイユ宮殿でも、きっと村上の作品と同じように栄えたにちがいない。

ヘラクレスの間の《Tongari-Kun》もすばらしいが、《Flower Matango》はとりわけ鏡の間のシャンデリアに調和して、その豪華さに負けていない。《Matango》の円とバロックの楕円の曲線がハーモニーを奏でている。

このことを、カルティエ現代美術財団で村上隆個展を企画したディレクターのエルベ・シャンデスは、「ベルサイユ宮殿の特徴、つまり、巨大で、強烈で、作品が装飾の海に埋もれてしまいそうになところをよくつかみ、その文脈の中で自分のポジションを巧みに確保していたと思います。」(『美術手帖』p32)と述べている。

それなら、ジャポニスムという観点からはどうだろう。有田焼はたぶんシノワズリの範疇であり、フランスの近代美術に影響を与えたジャポニスムは浮世絵だった。

村上隆のスーパーフラットは、もちろん、浮世絵ではなくマンガのフラットな描写のことだ。このスーパーフラットは浮世絵の平面性のようにモダニズム絵画に影響をあたえたようなものではなく、この展覧会を見る限りでは、色面をcoating(塗装)したように滑らかに仕上げた表面のことのようなきがするけれど、実際には、スーパーフラットというのは、現代日本のポップ・アートの図像学と言ったところなのだ。

それにしても、『美術手帖』の写真を眺めれば、ずいぶんと見窄らしい作品もある。なかでも《Kaikai Kiki》や《Superflat Flower》などは、すくなくとも日本人の目には、色彩が安っぽく見えるし、キャラクターのデザインはとても魅力的とは思えない。

とはいっても、ベルサイユ宮殿も夜にシャンデリアに蝋燭を灯せば豪華な雰囲気にもなるだろうが、昼間の「鏡の間」はそうとうにチープなインテリアだ。そういう意味では村上とベルサイユ宮殿はやっぱりぴったり調和する。

村上隆はベルサイユ宮殿を「万博の日本館」にしたのだ。






2010.11.26[Fri] Post 00:37  CO:0  TB:0  -村上隆  Top▲

上村松園(NHK日曜美術館)

随分と古い話で申し訳ないが、日曜美術館で上村松園の特集をみた。

日本画のことは、国立新美術館の『横山大観ー新たなる伝説へー』(2008年)の展評に「大観はつまらなかった。約束にしたがって、大観がつまらないのではなく、そもそも日本画がつまらないというのが結論である。」と書いたように、あまり興味がなかったけれど、上村松園をどんなふうに鑑賞するのか、参考のために覗いてみた。

第3回内国博覧会に出品した作品《四季美人》は、15歳の少女が描いたとはとても思えない。天才ではないかと思えるのだが、どうも納得できないところが残る。

松園の孫が松園の「画狂」ぶりをかたっているけれど、紋切り型の芸談以上のものではない。瀬戸内寂聴が「女の業」について語り、マトモな線一本も描けない山本容子が出てきて、松園の線について薀蓄を傾けたところで、何故、松園に不満なのか判った。

線が死んでいるのだ。というより天才と思えた《四季美人》も、画塾で先生のお手本をもとに勉強して描いた図案だから、上手ではあるけれど、魅力に欠けるのだ。

もちろん、歌舞伎役者が形を学んだあとに自分の芸をみがくように、松園もまた自分の画風を生み出そうとしたのだが、残念ながら北斎のような天才ではなかったということだ。

だからと言って松園の作品が駄作だと言っているわけではない。日本画というものがそういうものだと思って見れば、また洋画とはちがう楽しみ方があるのだ。



2010.11.12[Fri] Post 14:26  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『没後120年 ゴッホ展』 国立新美術館★★★★

英語の副題“The adventure of becoming an artist”が示すとおり、ゴッホの画歴を6つに分けて展示してある。

ゴッホの技法の変化や発展が、影響を受けた画家の作品やゴッホの習作や模写を並べて、分かりやすく展示してあった。これまでのゴッホ展のなかで一番優れた企画だったような気がする。ゴッホの技法についてはカタログに任せるとして、面白いと思った作品を挙げておく。

展示室Ⅰの最初に二枚の絵が並べてある。最初期の《秋のポプラ並木》(1884年)と最晩年の《曇り空の下の積み藁》(1890年)である。後の方は我々がよく知っている絵具の乾かないうちに短い筆触で塗り重ねていく印象派風の作品である。もちろんゴッホらしい絵は後者のなのだが、どういうわけか《秋のポプラ並木》に惹きつけられた。

よくよく見ると、影の向きか違うのだ。並木と橋の欄干と人物の影の方向が違うのは、たぶん、時間とともに太陽が西に傾いたからだろう。ホックニーにも、釣人の影の方向が異なる絵がある。ホックニーはキュビスムが空間の多視点なら、自分のは時間の多視点だというようなことを言っていた。

《秋のポプラ並木》には時間の流れがあるということになるけれど、。それはともかく、並木の影に柵があるのだが、並木には柵が描かれていないのも可笑しい。この絵がどこか気持ちの良さを与えるのは、ポプラの木立の線が微妙にズレていて、それが遠近法の奥行きの中に繰り返されているのがなんとも言えない心地良いリズム感を与えるからだ。

また、並木の手前に橋を渡る修道尼がいて(?)、並木の突き当たりに家があって、その家が人の顔に見える。なんか、突然名画鑑賞みたいになったけれど、ゴッホをフォーマリズムの観点から批評するだけの知識が私には欠けているし、今、カタログの写真を見ても、展覧会で見た感動はよみがえってこない。

忘れないうちに印象を書いておけば、ゴッホは風景画がとても良いということだ。《秋のポプラ並木》もそうなのだが、ゴッホの風景画には、どうもうまい言葉が浮かんでこないから、しかたなく使うが、ゴッホの風景画には「いやし」の効果があるような気がする。見ていると心が休まる。

小林秀雄のゴッホとは別のゴッホがいる。このゴッホに気づいたのは、今回のゴッホ展にも来ている《サン=レミの療養院の庭》をはじめて見たときだ。(注1) 庭の花盛りの樹木の間に明るい草地が広がり、その向こうに木々の幹が見える。木々の青い陰の中に白いベンチがあり、小道が右下の隅から左上のほうに伸びている。草の黒い線、曲がった木の幹の繰り返し、赤や白や黄色の花と緑の葉、そしてその間に見える青い空が短い筆触で描かれている。われわれの目は、木立の間に見える明るい草地とその向こうに小さく見える立木に魅惑される。

他の「癒しの」風景画を挙げておくと、《ヒバリの飛び立つ麦畑》《糸杉に囲まれた果樹園》《サント=マリ=ド=ラ=メールの風景》《緑のぶどう畑》などがあるけれど、一番、ゴッホの風景画の秘密がよくわかるのは、最晩年の《草むらの中の幹》(1890年)だ。

この風景画も近景中景遠景で出来ている。どうもゴッホは遠視ではないかと思われるほど、近景が大雑把に、遠景が細かく描かれている。上にあげた風景画はどれもその傾向があるけれど、《草むらの中の幹》は草地のゆるやかな斜面に木の幹が左の二本の太いものから右上へ五六本並んでいる。キャンバスの上の縁に沿って、小道があり、白い花を咲かせた潅木が奥の方にみえる。樹木の上部の枝葉はどれもキャンバスの上の縁で切られている。このことが、小道からの斜面を奥のほうまでつづく下草の広がりをより魅力的なものにしている。

このゴッホの近景中景遠景の空間を見事に描いているのが《サント=マリ=ド=ラ=メールの風景》である。近景の乱雑に描かれた藪、中景のぶどう畑(?)の畝、そして遠景の城のある町、ぶどう畑と町の間に道があり、小さな人物が見える。道はやや右下がりになっており、広角レンズと望遠レンズを合わせたような不思議な空間を生み出している。

これ以上ゴッホの風景画の魅力を分析することは、カタログの写真では不可能だ。本物を見た時の感動が思い出せない。でも、ゴッホの「癒し」の魅力は遠視的な遠近法の空間と短い線描の筆触と色彩にあると、ひとまず言えるのではないか。

それから、蛇足だが、モネの展示作品《ヴェトゥイユ》は湖と教会のある町と丘を描いた平凡な構図の風景画なのだが、ゴッホ以外では、この展覧会でいちばん面白い作品だった。確かな理由はわからないけれど、近景中景遠景の処理が巧みである。



2010.11.08[Mon] Post 23:36  CO:0  TB:0  ゴッホ  Top▲

『小林正人 LOVE もっとひどい絵を  美しい絵 愛を口にする以上』① ShugoArts

hiromiyoshiiで泉太郎を見たあと、ShugoArtsの小林正人を見た。小林の名前は聞いたことがあるが、作品を見るのは初めてだ。

ギャラリーに入ったけれど、初めは何が展示してあるのか分からなかった。床においたままの作品もあり、まだ、準備中のように見えた。「ヘタうま」か「落書き」の類かとも思った。

ひととおり、足早に見た。どうもヘタウマでも落書きでもないようだ。金と銀の絵具を使っているのだが、ただの灰色と黄色にしかみえない。豪華でも悪趣味でもない。あきらかに意図的にやっている。

銀色や金色の絵具が、銀や金に見えるためには、金属の反射や布地の光沢でなければならない。小林の金と銀は、キャンバス地に擦りつけられ、引き伸ばされ、盛り上がっているだけで、図像は描かれていない。それでも、なんとなく、顔やヌードが見えるような気もする。

金属光沢の銀色一色に塗られた抽象画がある。木枠からはずされて、キャンバス地が波うっている。わたはどういうわけか、前の日に川村記念美術館で見たニューマンを思い出した。そして、小林正人を理解した。

これは一種のミニマリズムではないか。抽象表現主義はピクトリアル・イリュージョン(図像主題)を削っていって、最後はキャンバス表面ぎりぎりのところまで奥行きのイリュージョンが浅くなった。しかし、、オプティカル・イリュージョンは残る。グリーンバーグが白いキャンバスでも壁に掛ければ絵画になるといったように、平面なら、何も描かれていなくても、オプティカル・イリュージョンが現われる。

この最後に残ったイリュージョンをさらに消すために、四角い平面を組み合わせて立方体にしたのがジャッドのミニマリズムだ。立体は容易に知覚するだけのリテラルな物体になる。おなじように、岡崎乾二郎は、絵具を擦りつけた小さなゼロ号のキャンバスを並べて、観者が抽象画ではなく、リテラルな平たい立体を知覚するように展示する。

それに対して、小林は抽象画を木枠から外すことで、キャンバスの矩形を崩し、表面を波打たせる。すると、観者の見る位置によって、銀色に塗ったキャンバス表面の反射が変化するので、観者の知覚が作動し、イリュージョンが消え、リテラルなキャンバス地の事物性が現れてくる。

具象画のほうも同じように、リテラルな事物として、物質的な絵具が露呈するような仕掛けが施されている。もちろん、キャンバス地は木枠から外されているけれど、ひとまず、顔やヌードの主題が判別できる限り、ピクトリアル・イリュージョンがあり、リテラルな事物にはならない。

そこで、小林は、絵画の物質性を露呈させるために、主題を消すのではなく、主題を残して、何を描いてあるのか、かろうじて判るようにする。いわば、絵画を脱構築する。線がない。明暗差がない。色の境界がない。色彩のリアリズムがない。筆触がない。

そして、顔や人体の部品が似ていない。下手である。いや、下手というのとちょっと違う。ヘタウマや落書きは確かに下手だけれど、ちゃんと主題が描かれている。ただ、それがナチュラルではないというだけだ。ところが小林の絵は、下手とか上手いとかいうのではなく、そもそも顔やヌードの主題が描かれているのではなく、たとえば、壁の汚れやシミが人の顔や体に見えるように主題らしものが見えるだけなのだ。

下手な絵はいくら下手でも、絵が描かれているのだが、壁のシミが顔に見えても、それはあくまでもals obであり、本来的に見えるのは絵ではなく、壁のシミなのだ。この意味では、デ・クーニングの《女》のシリーズは「ヘタウマ」であり、「壁のシミ」ではない。

ここで、「壁のシミの逆説」が起こる。壁のシミがあたかも顔に見えることにより、すなわち顔のイリュージョンが汚れた壁の知覚を抑圧するのではなく、むしろ,汚れた壁の知覚を顕在化する。小林の《LOVE》は、キャンバス地を木枠から外して平面を歪めるとともに、顔や人は、あたかも顔や人に見えるだけで、本当は絵具の汚れなのだということで、この二つで、絵画のリテラルな事物性を現出させたのだ。

小林正人は、岡崎乾二郎が《ゼロサムネイル》でやったことを、まったく別の方法でやったわけだ。



つづく
2010.11.04[Thu] Post 02:03  CO:0  TB:0  小林正人  Top▲

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