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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『絵画論を超えて』(尾崎信一郎著)を読む(1)(『絵画の現象学』)


尾崎信一郎の『絵画論を超えて』の帯には「モダニズム/フォーマリズムの方法論的な超克とは何か」とあるのだから、たぶん、『批評空間』の増刊号の特集『モダニズムのハードコア』と同じように、グリーンバーグのフォーマリズムを批判的に検討し、モダニズムのあたらしい批評的展開を目指そうというのだろう。

私の批評理論は絵を見て感じたことを言葉にするということに尽きる。絵に対して、自然で素朴な、日常的な絵画鑑賞の態度をとり、そこに現れた絵画の現れ方を記述する。

通常、絵を見るということは、描かれた主題を見ることだ。リンゴとか風景とか人物を見る。大方の美術愛好家はそうだろう。ところが何が描かれているかではなく、いかに描かれているか、あるいはそれを超えて、色彩や線や構図を鑑賞するハイ・アマチュアがいる。

これはフォーマリズムであり、フォーマリズムの美術批評上の祖はドラクロアを色彩家と称揚したボードレールである。形式(フォーム)というのはあくまでも主題という内容に対する形式である。

ところが、抽象画にはもともと主題がない。主題がないけれど、色彩や線や構成はある。具象画では形式だったものが抽象画では内容になるということだ。もともと、形式と内容は、プラトンのイデアやアリストテレスの形相と質料の議論でもわかるように、相対的なもので、グリーンバーグのフォーマリズムは、絵画の本質は平面性だというモダニズムと絡まって、議論が混乱しているように思える。たぶん、岡崎乾二郎や上田高弘の議論は、私だけではなく、大方の美術愛好家にも難しいに違いない。

私は、絵をまず、具象画と抽象画に分ける。なぜかといえば、絵(picture)とは具象画だと相変わらず思っていることもあるが、それよりも描かれた形体が具象の場合と抽象の場合では見え方がちがうからだ。たとえば、ある曲線が女の尻をあらわしているのと、ただの一本の曲線であるのとでは、当然、現出の仕方が異なる。

具象と抽象の区別は、イリュージョンの視点から三つに分けられる。ピクトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョン、そして、イリュージョンのないリテラルな絵画平面である。津上みゆき()にはこの三つがある。風景のイメージと浅い奥行きを伴った色面の重なり、そしてステイニングの技法で「染められた」支持体の三つが巧みに描かれている。

既にわれわれは、『絵画の現象学』で、具象絵画の三つの層を分けておいた。物理的な絵画、絵画客観、絵画主題のみ三つである。

以上の区分はもちろん明確なものではない。ただ、絵を見るときの補助手段として、ときどきそれらの区分に注意を向けながら絵を鑑賞するというだけの話だ。

そんなふうに絵を見ていると、たとえば、ロスコの抽象画が具象画に見えてくる。たしかにロスコの絵には主題がないけれど、そのうち抽象的な空間のイリュージョンを超えて、具体的な天地創造の広がりが現れるてくる。そういう意味で、ロスコの空間はピクトリアル・イリュージョンと言える。

さて、尾崎信一郎の『絵画論を超えて』にもどろう。第一部第一章のタイトルは「現代美術と自己参照」である。かれは、作品にには二つの意味があるという。一つは意味論的情報、もう一つは統辞論的情報である。

つづく

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2010.09.24[Fri] Post 01:10  CO:0  TB:0  絵画論を超えて  Top▲

村上隆のベルサイユ宮殿の作品展

産経新聞(9/22)にベルサイユ宮殿での村上隆の作品展の記事が載っていた。写真で見ただけなのだが,なかなか面白いインスタレーションになっている。()

村上隆は「重厚なバロック様式と、戦後日本のフラットな世界の衝突を通じて、美の相対化ができればいい」と言っているけれど、村上のフラットはむしろネオ・バロックであり、ベルサイユのバロック様式とは、むしろ調和してみえる。ビーダーマイヤーのインテリアのなかに現代的なデザインの椅子が置いてあるように、違和感がない。

ムラカミのベルサイユ作品展に反対する運動も、この展覧会にぴったりのお祭りだ。一昨年行われたジェフ・クーンズより沢山の観客に見て欲しい。

展示の写真(


2010.09.23[Thu] Post 22:30  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『桑久保徹展』 TWS渋谷

今日の産経新聞に渋谷和彦が『桑久保徹展』の展評を書いている。以下、抜き書きする。

会場全体を使って作品化するインスタレーションや映像など表現が多彩な現代美術にあって、ひたすらゴッホのように厚塗りの激しいタッチの絵画でキャンバスと格闘している若い画家がいる。

近年、薄塗りが多いなかでは、画面の荒々しい筆跡は力強くひときわ印象的。映像や会場全体を使った展示が多いだけに、よけいに目立つ。

多くの作家がインスタレーション(作品を一つの芸術的空間として提示する現代美術の手法)や映像などさまざまな表現を行うなかで、桑久保さんはひたすらキャンバスに向かって制作している。
TWSの北澤ひろみキュレーター(学芸員)は「彼は真のペインター(画家)、今後も注目していきたい」と話している。


桑名はモダニズムの振り出しに戻って絵画を原初から始めようとしているかにみえる。浜辺と湖と向こう岸と空の近景中景遠景の空間の中に、そしてキャンバスの平面と支持体の矩形のなかに、絵具を塗り込め、イリュージョンを描いていく。まことに、「真のペインター」と言うべきだろう。
もちろん、桑久保は完成された作家ではない。むしろ、モダニズムの様々な傾向が具象性のなかで剥きだして争っているように見える。それが、観者の鑑賞位置の二重性となって現れる。細部を見るために近づけば絵具が見える。風景を見るために離れればキャンバスの平面が現れる。

記事には新作の《共同アトリエ》の写真が載っている。国立新美術館の『ARTIST FILE』展に《アトリエ》という同じような作品がある。二つを比べれば、その違いは、画架に載せられたキャンバス絵画を見れば分かる。《アトリエ》では、画面の中央に大きなキャンバスがちょうどこの《アトリエ》の四辺と平行になるように立てられている。キャンバスにはちょうど重なるように背後の風景が描かれているところだ。ということは、この湖の「画中画」の矩形平面が、全体の絵画《アトリエ》の矩形平面の繰り返しになっているということだ。

それに対して《共同アトリエ》では、同じように背後の風景を描いた画中画のキャンバス平面は《共同アトリエ》の平面とは平行になっていない。その左にあるヌード(?)の絵も斜めに立てられているし、その他、浜辺のアトリエには沢山の絵が置いてある。イーゼツに載せてある絵、立てかけてある絵、裏返しになっているキャンバス、絵のないイーゼル、まだキャンバスが張られていないフレームもある。

桑久保がやろうとしていることは明らかだが、二つの絵の違いがどんな効果をあげているのか、《共同アトリエ》のほうが調和的な空間の広がりをあらわしているように見えるが、この小さな写真だけではわからない。《共同アトリエ》のほうが、モダニズムの自己言及性がないぶん、古いスタイルのように思えるが、実作を見なければわからない。

残念ながら、東京まで出かける予定はないが、たぶん、あたらしい桑久保を見ることはできないだろう。


2010.09.09[Thu] Post 02:05  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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