ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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トップランナー松井冬子

「松井冬子」のアクセスが二三日まえから増えている。検索したら、NHKの「トップランナー」に松井冬子が出演することがわかった。以前、ちょっと松井冬子のことを批判的に書いたことがあって、あれはまだ美術展評を書き始めた頃で、ずいぶんとムキになって書いたものだと、アクセスが増えるたびに、ひやひやしていた。

そういうことがあったので、あれから4年経っているし、松井がどんなふうに変わったか、ちょっと番組を覗いてみた。

さすがに、容色の衰えは隠せないけれど、以前ほどのぎこちなさはなくなっている。とくに、しゃべりが良くなった。フェミニズムもそれなりに身についてきたようだ。ただ、出席番号が男が先なのに疑問を感じたとか、男が女性ヌードを描くのはおかしいとか、ちょっと言うことが陳腐すぎる。上野千鶴子が難しいので田嶋陽子に鞍替したのかな。

パリで個展を開いたそうだが、女性評論家が日本画だけれど普遍的なテーマがあると褒めていた。これを聞いたらドメステックな会田誠は悔しがるだろう。

松井冬子は芸大日本画科の伝統と権威の上にフェミニズムやPCをのせて、ジャポニスムによる世界進出の戦略を立てている。それに対して、会田誠は、廃れてしまった芸大伝統の裸踊り《よかちん》を芸大の女子学生にやってもらったビデオ作品《よかまん》を作った。こちらのほうがはるかに脱ジェンダー的だと思うのだが、それはあくまで日本村での話だろう。

テレビで紹介された作品は新しいものはなかったけれど、作品の「コンセプト」の説明は随分と上達したようで、四年間の修練がうかがえる。ただ、ひとつ気になったのは、内臓が見える絵の説明で、「お前たちの見たいのはこれだろうという気持ちだ」と言ったのは、「特出し」ストリップ嬢が助平な観客をバカにするセリフのようで、あまり上品とは言えない。もっともこれは上野千鶴子直伝のキメ台詞なのかもしれないけれど。

とにかく、松井冬子の成長を見ることは喜ばしいことだ。

他の松井冬子の記事は松井冬子のカテゴリーを御覧ください。



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2010.08.29[Sun] Post 14:39  CO:0  TB:0  -松井冬子  Top▲

マネ論④ 『ボストン美術館展』のマネ

マネはもちろん凡庸な画家ではない。

三菱一号館美術館の『マネとモダン・パリ展』には、《扇を持つ女》の広角レンズの遠近法や、《街の歌い手》の衣装の布地や、《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》の白と黒など、面白い作品もあったけれど、感動するというにはどこか物足りなさが残った。上手だけれど、モダニズムの絵画としてはごく普通に見えてしまうのだ。たぶん、モダニズムの祖といわれているぐらいだから、マネの新しさは現代絵画では絵画が絵画であるための常識みたいなものになっているのだ。

もちろん写真の影響がある。マネの目はカメラのレンズになって対象を見る。人物たちのこちらを振り向いたような視線はスナップ写真のカメラ目線だろうし、明るいところは飛んで暗いところは潰れているのは硬調のプリントだし、日常的な背景の中のヌードは、現代の芸術写真の紋切り型になっている。

今回、いちばん感動したマネの作品は、『マネとモダン・パリ展』ではなく、『ボストン美術館』で見た《ヴィクトリーヌ・ムーラン》だった。会場に入った正面に《ヴィクトリーヌ・ムーラン》とベラスケスの《ルイス・デ・ゴンゴラ・イ・アルゴテ》の肖像画が並べてあった。その前を通りすぎて、はじめに、ティントレット、ヴァン・ダイク、レンブラントの肖像画を見た。それからもどって、正面のマネとベラスケスの肖像画をみた。

二枚の肖像画の視線が私を捉えた。二人は同じように顔をやや左側を向けて、観者の方を見ている。男は不機嫌そうにこちらをにらみ、女の方も打ち解けた視線ではなく、防御的な放心したような視線を観者にむけている。しかし、われわれが見るのはそんなモデルの内面的なものではなく、顔の明暗と筆触の面の作り方なのだ。レンブラントはマネのように大胆であり、マネはレンブラントのように繊細なのだ。マネの顔は平面的に思えるが、よく見れば、光の部分と影の部分の境界線がかすれたような筆触によって巧みにモデリングがされている。

ベラスケスは近くから見ると絵画であり、遠くから見ると写真に見える。『プラド美術館展』の記事で、「ヴェラスケスは写真のように退屈である」と書いた。《エル・プリモ》が持っている本のページは細かい文字がぎっしりと印刷されているように見えるけれど、近づいてみると、ただ灰色の絵具が薄く塗ってあるだけだ。今回の『マネ展』に展示されている《エミール・ゾラ》が持っている本のページも灰色の絵具がベラスケスより大胆に濃淡をつけて塗られている。たぶん、図像が印刷されているのだろう。ベラスケスとマネの差はこの本のページの描き方の差なのだ。

フランス・ハリスの《男の肖像》を見たはずだけれど注意を引かなかった。ところが、いまカタログで《男の肖像》をみたら、なんと、まるでマネのまねをしたような大胆でストロークの長い素早い筆さばきなのだ。カタログの解説から引用する。

ハルスの作品は19世紀後半から20世紀前半にかけてのモダニズム芸術の運動とのあいだに、いくつかの共通点が認められることを鑑みれば、近年になってこの画家が美術の歩みを予告した存在として見なされていることは何らの不思議ではない。(『ボストン美術館展』カタログp44)


たしかにそうだろう。当時も高い評価を得ていたという。しかし、わたしにはまったくつまらない肖像画にしか見えない。このハルスのつまらなさは、かっては斬新であったものが陳腐になった時のつまらなさだ。これと同じ陳腐さが、私が今現在マネの絵に感じる不満なのである。

もちろんわたしの目が節穴だという可能性のほうが大きいのだけれど。






2010.08.23[Mon] Post 01:53  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

藤枝晃雄と高橋洋一

高橋洋一がTwitterでつぶやいている。

ジャーナリストといいながら、役所や企業の広報誌には書くとちょっと微妙。その役所や企業の提灯持ちと宣言したと受け取られかねない。それも一つのポジションであるから開示しておけばいいという考えもあるけどね。(

役所や企業の広報誌にあきらかに役所や企業の文章を自分の名前で載せる人がいるけど、これって典型的な便宜供与だよね。(


藤枝晃雄が、画廊のカタログに文章を書く学芸員について同じようなことを『現代美術の不満』の中で言っている。美術品も商品なのだ。そういう批評家のことを藤枝氏は「美の商人」とよんでいる。



2010.08.22[Sun] Post 18:31  CO:0  TB:0  -藤枝晃雄  Top▲

会田誠の記号論⑤

USTREAMで『会田誠+三潴末雄トークショー 』を見た。音声が悪くて三潴氏の声がほとんだ聞き取れない。会田氏の声もマイクロフォンが口から離れると聞こえなくなる。聞き取れた範囲で《1+1=2》について書く。

北京のミズマのギャラリーで、まるで山ごもりのように毎日ゼロ号の筆で《灰色の山》を書いていると、ストレスがたまる。そんなとき、たまたま安い油絵具を見つけたので、ストレス発散のために描いたという。だから、この絵は一種のアクションペインティングだ。やるとスッキリするそうだから、グラフィティ・アートでもあるわけだ。

これは流行遅れの描き方だといい、会田誠が大学に入った頃、持てはやされていた作家として、ジャスパー・ジョーンズとラウシェンバーグ、それと、ジム・ダインの名前もあげている。当時、芸大では現代アートをやってはいけないという雰囲気があったそうだが、すでに述べたように、《1+1=2》はジャスパーの数字やジム・ダインの色彩に影響されたのかもしれない。

いずれにしろ、シンボルや数字ではなく、数式を描いたところに会田の工夫がある。会田はこれまでは《美少女》《桑田》《書道教室》と漢字を使ってきたが、《1+1=2》では、欧米人も理解できるアラビア数字を使っただけではなく、それを数式の形で用いたのは、文字から象徴性を排除するためもあるけれど、ドメスティックと言われる会田誠の海外マーケットの開拓のためでもある。

もちろん海外マーケットの開拓に熱心なのはギャラリストの三潴氏のほうであり、会田氏はドメスティックと言われることに屈折した気持ちを持っている。三潴氏が、「デュッセルドルフのKunsthalleのディレクターが《1+1=2》を見て、これなら売れると言った」と言い、「わたしもいい作品だと思う」と付け加えていたけれど、会田氏は首をふって否定していた。もちろんこれは会田氏のほうが正しい。

会田誠は自分がニューヨークっ子に生まれたかったと言った。漢字はドメスティックである。それなら英語を使えばいい。でも「LOVE」なんて恥ずかしい。しかたないから数字にする。第一、《美少女》は漢字でなければ興奮しない。《書道教室》は習字のお手本だから面白い。英語では習字の手本が持つ抑圧の制度がわからない。だから会田はニューヨークに生まれたかったと言ったのだ。荒川修作のようにニューヨークへ行って英語を使ってもニューヨークっ子にはなれない。

会田誠の最高傑作は依然としてドメスティックな《書道教室》である。











2010.08.18[Wed] Post 02:11  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠の記号論④

理屈はさておいて、《1+1=2》を見てみよう。モニター上で繰り返し見ていたので、数式が目について、なかなか抽象画としてみることができない。色は左の「1」がオレンジっぽい赤、次の「1」は青、そして「2」は黄色を主体とした色である。二つの「1」はモデリングがされ立体的に見える。「2」は平面的ではあるが、黄色い下半分は縁取りがしてあり、厚みがある。背景は平面的な色面抽象で、数字は背景から浮いて見える。とくにイコール記号「=」は暗い色で輪郭が描かれ、その外側が明るい色で囲まれていて、際立ってうきあがてみえる。

《1+1=2》と色合いが似た作品にジム・ダインの「ハートの絵」がある。こちらは紙に水彩で描いたように滲んでいるけれど、《1+1=2》と同じ赤黄青を基本にしたありきたりの色調である。それはともかく、ハートは心臓の形をデザイン化した類似記号であり、愛の象徴なので、色や形によっていろいろな象徴的意味を表現できる。東京都現代美術館所蔵のジム・ダインの《冬のロマンス》は暗鬱な色彩のハートである。

ジム・ダイン

ところが、数字は弁別的差異の記号なので、赤い「1」も青い「1」も同じ1である。もちろん数字にも象徴性を持たせることはできる。たとえば、「8」は幸運を「4」は死を意味するというようなぐあいにだが、《1+1=2》のように足し算の式のなかで使われた場合は、数学的な操作のための抽象的な量の概念をあらわすだけだ。

ここで重要なことは、類似記号の絵を鑑賞しているときは、形と色を一緒に見るけれど、文字を読んでいるときは、弁別的差異だけを見て色を見ていないことだ。もし文字の色や形の細部に注意を向ければ、弁別的差異を見ることは難しく、文字はすらすらと読めなくなる。

ロラン・バルトが、『美術論集』の中で、エルテの女の体を利用したアルファベットは、「いってみれば、二重の視覚を実践する。見る者は、好みのままに、女か文字を知覚する」と言う。《1+1=2》も、好みのままに足し算か抽象画のどちらか一方に注意を向けることができる。すでに書いたように、会田誠は、どちらか一方が優勢にならないように配慮しながら描いている。キーファーのように言葉ではなく、数式にしたのも、表現性を減らすためだろうが、観者の視線は色面や造形的要素の構成よりも、どうしても、算数の式を見てしまう。もちろん、数字の色や形に注意を向けることができるけれど、会田自身が言うように、抽象画としても、あまりに古臭く、魅力がない。

ここまで陳腐だと、ニューペインティングのパロディだというのは本当かもしれない。これについては次回に。


2010.08.12[Thu] Post 02:08  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

『画商の「眼」力』長谷川徳七著

この本はたまたま図書館で見つけて借りてきた。どっちみち画廊亭主の自慢話だろうと思ったのだが、佐伯祐三贋作事件のことが書かれていたのでどんな嘘八百が書かれているか確かめるのも一興と借りてきた。

ぜんぜん面白くなかった。この手の本は自分に都合の良いことばかり並べるものだが、なにしろこの吉薗佐伯贋作説には都合の良いことはひとつもないのだから、ただ、俺は美術界の大物だと自慢しているだけの退屈な本である。

ことの仔細は落合莞爾の『天才画家<佐伯祐三>真贋事件の真実』に詳しいけれど、あいにくと絶版らしい。さいわい、落合氏のHPに吉薗周蔵の残した資料にもとづく『佐伯祐三:調査報告』があるので読んでください。

しかし、こんな本が公立の図書館に並べられているとは不思議な世界である。どういう選定基準なのだろう。




『画商の眼力』の佐伯祐三真贋事件についてはブログ『読書日記』に詳しい。

2010.08.08[Sun] Post 00:54  CO:0  TB:0  -佐伯祐三  Top▲

会田誠の記号論③

会田が数字をもとに抽象画を描いたのは、思いつきだと前回、書いたけれど、もちろんそんなことはない。会田は文字を主題にした作品が《1+1=2》以前にも、《美少女》と《桑田》と《書道教室》と三つの作品がある。これについては、『会田誠の美少女』ですでに書いた。該当の箇所をコピペしておくので、もう一度読んで欲しい。


    文字と絵画

 「アートで候。」展で、会田のこれまでのビデオ作品を編集したものが上映されていた。コタツに入ったビン・ラディ ン、縄文式怪獣の雲古、女装した会田を犯す会田など、あまり上等とはいえないギャグの中で、唯一笑えたのが、〈美少女〉という文字を見ながら会田が全裸で 自慰行為をしているビデオだ。

 マシュー・バーニーとアート・リンゼイは、自分たちの「オナニー・ショー」を自然再生のメタファーだなんて主張 していたらしいが、会田のパフォーマンスは、名辞を実物の代わりにするという定番のギャグだ。レストランでビフテキを注文したら、ビフテキと書いた紙が皿 にのせて出て、客がそれをナイフとフォークで美味しそうに食べたという話だ。

 文字(言葉)を見て興奮するということは分からないではない。中学生の頃に辞書をめくりながら興奮した憶えがあるだろう。アダルト・ビデオはそういう文字を使ってタイトルを付けている。しかし、文字を大きくするとよけいに興奮するのだろうか。

 絵ならそういうこともあるだろう。ピンナップは、見開きでは満足せずに、三つ折りの綴じ込みにしたり、等身大のポスターにしたりする。大きいほうが興奮する(らしい)。

 しかし、文字は大きく書こうが小さく書こうが同じ意味だ。明朝体で書こうがゴシック体で書こうが美少女は美少女だ。絵だってほんとうは文字と同じだ。 《大山椒魚》の大きい美少女でも《滝の絵》の小さい美少女でも、美少女は美少女だ。現象学的に言えば、図像客観が大きくても小さくても、図像主題は指示対 象の現実の大きさに見えるということだ(HP『絵画の現象学』参照)。

 ところが、実際は、大きい美少女の絵が好まれるは、絵は言葉と異なり、類似によって対象をあらわすアナログ記号だからだ。線や色の違い、あるいは全体と 部分の関係などが対象の現れ方に影響する。大きさの違いは、我々の絵を見る視線の動きを変えるし、そもそも、等身大の美少女の絵は身体感覚(触覚)を刺激 して美少女のイリュージョンを強める。

 アナログ記号の絵では、美少女とそうではない少女との違いは連続的だが、デジタル記号の言葉では離散的 だ。言葉は差異のシステムに基づいて約定的に概念を示す。もちろん文字も差異に基づいている。〈大〉と〈犬〉と〈太〉は、点の有無と位置が弁別的である。 二項対立ではないが、差異のシステムを作っている。しかし、差異のシステムは大と犬と太が別の言葉をあらわす記号として使用できるというだけで、差異自体 が意味を生み出すわけではない。言葉と概念の結びつきは恣意的なのだ。(といっても、差異のシステムと概念があらかじめ別々にあって、それがあとから組み 合わされるわけではない。また文字言語と音声言語の関係についてはここでは述べない。文字は必ずしも音声を通して意味に到達するわけではない)。

 文字はシステムあるいは構造だから、〈犬〉の点の位置を変えると意味が変わる。しかし大きさを変えても、意味はかわらない。大きさは弁別的ではない。もちろん、色も字体も運筆も大きさと同じように弁別的ではない。

 しかし、文字はすべてが言葉(の意味)に回収されてしまうわけではない。文字は依然として図形であり、象徴機能を持っている。

 会田は、そのことを文字を大きくすることで見せてくれた。以前に描かれた《桑田》と今回の『アートで候。』展の最後を飾っていた《書道教室》だ。二つの作品は文字を大きくするという点では、同じ方法なのだが、その表現するところはまったく違っている。

 桑田は多義的な言葉である。十ポイントの活字ならば、「クワタ」と読むのか、「ソウデン」と読むのか判らない。通常、文字は文章の中で言葉(読み)と結 びつく。「桑田、メッタ打ち」とあれば、クワタと読み、「桑田変じて滄海となる」とあれば、ソウデンと読む。ところが、会田の《桑田》は、文脈ではなく、 大きさと色で読み(意味)と結びつく。赤い縁取りした活字体で大きく「桑田」とあれば、スポーツ紙の一面の見出し文字だ。だからこの文字は、クワタと読ん で桑田真澄のことなのだ。そして、もちろん赤い色は敗戦投手の色だろう。

 《桑田》では、大きさや色という絵画的なものが、文字の言語的なものを方向付け(投錨:バルト)る。しかし、《書道教室》では、文字の図形的絵画的なものが、文字の言語的なものを抑圧し、文字と言葉の結びつきを壊している。

 《書道教室》は巨大である。《桑田》は、まだ、全体が見える。しかし、《書道教室》は大きすぎて読めない。一階に降りる階段の横の壁いっぱいに掛けてあ る。ひょいっと見ると、この看板が目に飛び込む。あんまり近くて何がなんだか判らない。目が図像意識から文字意識に切り替わらない。少し、離れて全体を見 渡したが、絵だか文字だか判らない。

 正方形の白い板に、正方形の文字が、たてよこ、同じ間隔で二つずつならんでいるので、四つの文字がバラバラ になって、読む順番がわからない。「教書室道」とも読めるし、「書室教道」とも読める。あるいは「教道室書」とも「書道教室」とも読める。意味が一瞬、解 らない。目がまわる。アクリル板をカットした文字は、本物の看板のようみえる。レディ・メイドかもしれない。 「道」の字の「しんにゅう」を見ていると、 なんだか不愉快になってくる。これは習字のお手本なのだ。〈書〉〈道〉〈教〉〈室〉の文字は、習字の教則本の「正しい」運筆を示して、曰く「汝、斯くの如 く書くべし」と。文字は法であり、掟である(バルト『エルテ または 文字通りに』)。しかし、その法を述べる文字が看板屋のレタリングなのである。たし かに大きい文字は暴力である。しかし、大きな声で、むなしく叫ぶだけである。

 文字は弁別的な特徴によって言葉あり、図形的な特徴によって象徴 となる。《美少女》は赤い大きな漢字である。漢字はもともと絵だったのだから、記号の背後に図像がある。たぶん、会田は美少女の文字にフェティッシュな欲 望を感じているのかもしれない。あるいはまた美少女の文字を高く掲げて、見上げているのだから、美少女教の信者かもしれない。しかし、フェティシズムを持 ち出せば、何だって説明できるのだから、面白くない。《美少女》のビデオは、絵ではなく等身大の文字を見ながら全裸で自慰行為をする間抜けな会田誠です と、すなおに受け取るのが、つまらないギャグにたいする礼儀だろう。



言葉は、音声言語でも文字言語でも、その物理的条件に依存しない。ソシュールが言葉は質料ではなく形相だと言ったのはそういう意味だ。それなのに大きくて赤い色に塗られた《美少女》の文字に向かって自涜行為をしているのがギャグになっている。

《桑田》は《美少女》と同じレタリング文字である。レタリングは語の本来的な意味に影響を与えないが、語の使用文脈をあたえることがある。バルトが映像に付けられてキャプションが投錨の役割をすると言ったが、このレタリングも投錨の役割をしている。《桑田》はスポーツ紙の見出し文字のレタリングなのだ。

《書道教室》は筆で文字を書く事を教える塾の看板文字がコンピューターのフォントで書かれているというアイロニーである。

そして、《1+1=2》は弁別的差異のシステムをデコンストラクションして、文字を単なる図形にし、それを立体化したり、デフォルメして抽象画風飾り文字を作っている。

クレーも文字記号を利用した抽象画を描いているが、象形文字や象徴、文字の部品のような線分を用いて成功している。しかし、会田の《1+1=2》は、文字をデフォルメして抽象画の中に隠した絵画的イリュージョンを欠いた失敗作である。会田の文字を使った作品で一番面白いのは依然として《書道教室》ではないか。

2010.08.07[Sat] Post 15:10  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠の記号論②

グーグルで「1+1=2」をブログ検索をすると以下のブログにヒットする。上位のブログから「1+1=2」にかんする部分を書き出してみた。

ほかに油彩画「1+1=2」という作品があり、これを表現主義的に荒っぽい筆致で描いている。またそれは同時に数字を描いたジャスパー・ジョーンズの作品の引用、またはパロディでもあるのだろう。(mmpoloの日記

これは、表現主義の作家のような大胆なタッチで厚塗り下絵の具をぐりぐりと広げ、「1+1=2」の文字を描いたものである。原色の絵の具をチューブからひねり出しブラシで大胆に混ぜ合わせた画面は色彩が豊かで目にまぶしい。この作品は今回2点展示されている「みんなといっしょ」シリーズのタッチにも通じるいびつな曲線が印象的だ。「みんなといっしょ」シリーズは、作家自身が、いわゆる「芸術家」が個性的なタッチを持っており、それが世間でもてはやされるのに対して、自分にはそうした個性が無い、ということをテーマに制作し続けているシリーズである。(思うこと

東京芸大油絵科出身の会田が四半世紀ぶりに描いたという油絵が「1+1=2」は原色の絵の具自体が歓喜のあまり踊っているようなアンフォルメル。(江森盛夫の演劇袋

ニューペインティングと言われるような
アメリカの抽象美術をイメージした作品。
その意味とは・・・
よく見ると描いてあるのがわかる、
「1+1=2」。
下らな過ぎて、面白い。
つまり、時代遅れのスタイルの作品を
日本人がいまだに有り難がっている風潮への
ウィットに富んだ皮肉。(ロマンチック遊戯

流行遅れのかき方。80年代。ニューペインティング。(プラムコーポ)これは会田誠のミズマのトークショーでの発言

油彩1+1=2「なんだか泣けてくる。荒っぽい厚塗りでかき消されたような数字が、人間の横顔のようでもあり、骨にもみえる。それを否定しつつ、原理というか原則・原点、あるいは実体に戻るという宣言でもある……」(My Last Fight

「1+1=2」 フォーヴだ。油絵の具の匂い。チューブから絞られたまま、弛められても混色されてもいない生の絵の具が画面上でなすられている。チューブの口で固まった黄 色い絵の具塊もそのままに。あきらかに隣に展示された「灰色の山」の神韻さを打ち壊す作用。後述のように「灰色の山」をネンザさせる目的か。(てぺいの釣行記とか

特に「1+1=2」は作品を観たときには、普通の抽象にしかみえなかったのに、タイトルを知ってあらためて見返して、作品意図が分かったときに正直ヤラレタと思ってしまいました。(Art☆Holic ←凡人墨客→




「mmpoloの日記」さんが、数字を描いたジャスパー・ジョーンズの作品の引用、またはパロディであると書いているけれど、私にはまったく違うものに見える。ジャスパーの数字は国旗や地図のように平面的なものだが、会田の数字は立体的に描かれ、浅いけれど三次元の奥行きのイリュージョンもある。それよりも大きな違いは、ジャスパーの数字は活字体なので、一文字でもはっきりと数字であることが判り、会田の数字のように容易に抽象的な形体に退化しない。

ほかは、多くはフォーブ、表現主義、荒っぽい厚塗り、アンフォルメル、ニューペインティング、豊かな色彩が目に眩しい、歪な曲線など、肯定的な積極的な評価が多いのだけれど、それに対して、「プラムコーポ」さんが書いている会田自身の「流行遅れのかき方。80年代。ニューペインティング。」の発言に沿ったニューペインティングのパロディという解釈もある。

会田誠には、日本画の大家たちのパロディ作品がある。これらは具象画であり、どこがパロディになっているかひと目で判る。この他に、岡崎乾二郎の抽象画作品のパロディがある。これは浅田彰を批判するキャプションでパロディであることを明示していたし、キャプションがなくても、パロディであることが明らかだった。ところが、《1+1=2》はどこがニューペインティングのパロディなのか判らない。確かに表現主義的なところがあるといえばあるけれど、『会田誠の記号論①』で述べたように、折衷的ではあるけれど、モダニズムの正統な方法に従って制作しているように思われる。

これは推測だけれど、会田は『美術手帖』(2008年5月号)の座談会「先生、僕に『絵画』を教えてください!」で抽象画の描き方を教わっているぐらいだから、この《1+1=2》も結構まじめに描き始めたにちがいない。ところがうまくいかなかった。会田も座談会でも質問している通り、抽象画はどこから手をつければいいのか難しい。そこで、たぶん思いつきだろう、抽象でもあり具象でもある数字から描き始めた。そして失敗した。

抽象画わからないという会田誠もさすがに自分の抽象画《1+1=2》が下手くそだと言うことぐらいはわかる。そこで会田は、《1+1=2》の下手くそ具合が、何でもありのニューペインティングにちょっと似ているところ(?)があるとばかり、ニューペインティングのパロディだという弁解を思いついたのではないか。

会田誠は弁解が多すぎる。つづく。


会田誠の抽象画』へ

2010.08.01[Sun] Post 02:12  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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