ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『沈まぬ太陽』若松節朗監督★☆

日本映画が終わったことを象徴しているような映画だ。これでは韓流に負ける。

そもそも経営者が悪で労働組合が善という図式は時代錯誤だろう。日航の問題は天下りと労働組合が国営企業を喰物にしたという話だ。そのことは今回の日航再建の騒ぎでみんな知っている。外国企業に売り渡すのが一番良かったのにやっぱり今回も改革は中途半端なものになった。ナショナル・フラッグだから潰せないと前原大臣がいったのには笑ってしまった。

労働組合は安全をたてに待遇改善を要求し、天下り経営陣はナショナル・フラッグだといって私腹を肥やしていた。そのことを知っているわれわれには恩地の苦悩がいっこうに理解できない。

『白い巨塔』の田宮二郎演じる財前五郎には野望があった。頓珍漢な正義感を振り回す渡辺謙は田宮二郎にはとてもかなわない。あのころまだ日本映画は輝いていた。
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2010.05.31[Mon] Post 23:46  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『桑久保徹』②補遺:絵画の解体

『桑久保徹』ARTIST FILE 2010(国立新美術館)①からの続き

『桑久保徹』①で気付かなかったことがある。大きな壺の絵に小さな人物が描かれているので、いったい壺が巨大なのか、人物が妖精なのか、視線がまごつくと書いたけれど、これは観者と作品の距離をコントロールするための桑久保の仕掛けたトリックだ。壺は大きく描かれているので観者は離れて見る。すると人物は小さいので良く見えないので、近寄って細部を見ようとする。そうなると、今度は知覚が作動し物質的な絵具が現れて、かわりに絵画的なイリュージョンが後退する。

このことは、「湖」のシリーズについても言える。近景中景遠景の風景を見渡すには離れてみなければならない。離れてみると空間の広がりが見えるけれど、その空間の中に描かれている小さな事物は色の切片のように散らばって、キャンバス表面に浮いてみえる。何が描かれているのか近づいてみると、絵具の盛り上がりが現れて、物理的絵画の知覚が顕在化する。

見る距離によって、作品の見え方が違う絵画に点描法絵画がある。例えば、スーラの絵画は離れて見れば主題や奥行きが見えるけれど、近づけば文字通り色彩の点に解体してしまう。スーラの絵は鑑賞するための適当な(正しい)距離がある。桑久保の作品も近くでみるときと離れてみるときでは違って見える。しかし、桑久保の作品は、『桑久保徹』①で述べたように、どちらが「正しい」距離とは言えない。どちらも安定した絵画的イリュージョンが画面に統一を与えてくれるわけではない。

会田誠の《灰色の山》は、離れてみれば灰色の山で、近づけば細部の粗大ごみが見えるという昔からあるイラストレーションの手法であり、桑久保の「メタ絵画」の手法とは異なる。

絵画を見るということは、まず、物理的絵画を知覚し、その知覚したものを、そこに存在するものとして措定せずに、中和変容する。知覚したものを想像したものの如く受け取るのが絵画を見るということ、すなわち図像意識とは知覚意識に基づいた想像意識ということだ。スーラの絵は近づいて見れば、知覚意識が強まり、離れてみれば図像意識が強まる。ところが桑久保の絵は近づいても離れても、知覚と想像が争って、バラバラに見えるのだ。

桑久保が意図的に「絵画の解体」を目論んだとすれば、それはなかば成功したと言える。大きなキャンバスなら遠くから見なければならない。その中に小さい事物が描かれてあれば、近づいて見なければならない。近づけば盛り上げた絵具が見える。離れれてみれば、小さな事物はキャンバスの表面に散らばって見える。そして絵画はばらばらになって解体する。

この解体した絵画を離れてみれば抽象画に見える。それならば、桑久保の「湖の風景」はデ・クーニングの『女』と同じように「帰する場所なき再現性」として、抽象的役割も果たしていることになる。もちろんこの「再現性との戯れ」(グリーンバーグ)が目下のところ成功しているとは思われないけれど、会田誠の《1+1=2》の再現性との戯れよりも、可能性を秘めていることは間違いないだろう。刮目して待て。

2010.05.30[Sun] Post 23:45  CO:0  TB:0  -桑久保徹  Top▲

『桑久保徹』①ARTIST FILE 2010(国立新美術館)

奇妙な絵だ。最初の壁に《壺》の絵が上下二段に並んでいる。アマチュアが描いたようにも見える。壺の上に人が乗っている。人が小さな妖精のようにも見える。あるいは反対に、壺が巨大に見える。どちらかわからない。いろいろな壺を描いていろいろなタイトルを付けているているけれど、おもしろような気もするし、つまらないような気もする。良く分からない。

次の広い壁に並んだ絵もかわった絵だ。ちょっとみただけでは、何が描かれているかわからない。少し離れてみると湖の風景のようだ。手前の岸がキャンバスの下半分を占めている。その上に波打ち際があり、その上に向こう岸の街や山が見え、さらにその上には空がある。正確に言うと「そういうふうに見える」というだけなのだが。

細部を見ると細かい事物が無数に描かれているのが判る。絵具を細かく盛り上げて描いているので、筆触というより、刺繍あるいははり絵やモザイク絵のようでもある。あるいは、そうではないようにも見える。絵具の小片を張り合わせたモザイク模様に見えるけれど、風景にまとまらない。どうやら描かれている事物が浜辺の上に置かれているのか、浮かんでいるのか、あるいはキャンバスの上にあるのか、あるいは絵具の塊なのか、それともちゃんと近景中景遠景のなかに収まっているのかなかなかわからない。

事物がばらばらで、絵具がばらばらで、線がばらばらで、色がばらばらで、かろうじて遠近法が空間をまとめているところに、桑久保のオリジナリティがある。カタログの小さな写真をみると、物理的な平面とイリュージョンの空間が面白く戯れているようにみえるけれど、美術館の実物を見れば、華やかな色彩にもかかわらず、すぐに見飽きてしまう、図画工作なのだ。

わたしにはこの絵画をつまらないと断言することはできない。ひょっとしたら、まったく新しい絵画なのかもしれない。ただ私には絵画表面をいじくりまわした絵にしか見えないことも本当だ。そういう意味ではVOCAに推薦すれば受賞まちがいなしの作品である。次の作品に期待しよう。



[追記] - 学芸員の平井章一が、カタログの解説で桑久保の描法やマチエールがゴッホを想起させるとか、白や赤、黄のなどの取り合わせがベルギーの画家アンソールを彷彿とさせると書いているけれど、わたしにはまったそんな連想は生じなかった。たとえ外面的な技法色使いが似ているとしても、ゴッホやアンソールとは似ても似つかない絵画であるところに、桑久保の絵画の不思議さがある。

『桑久保徹』②



2010.05.28[Fri] Post 12:34  CO:0  TB:0  -桑久保徹  Top▲

マネ論① 芸術新潮5月号「マネ特集号」

 『ふしぎなマネ』というタイトルで三浦篤という美術史家がマネについて書いている。なんの役にもたたなかった。

マネがモダニズムの父だということは、たとえばアングルとくらべればすぐにわかる。しかし、その平面性や筆触分割やモデルの日常性は、私にはむしろ退屈なものに感じる。これまでマネの作品は幾つも見ているが感動したことがあまりない。いつも、ああ、これがあの有名なマネの作品かという感想で終わってしまう。たぶん、それはわたしの鑑賞力のせいだろうとおもう。それにしても、美術史は絵画を見るのに何の役にも立たないとあらためて思った。

そもそも、この芸術新潮と言う雑誌はどんな雑誌なのか。木下直之が男性裸体彫刻について『股間若衆』という文章を書いているけれど、猥褻の変遷みたいなことばかりでちっとも面白くない。プロならば、記号論など駆使して表象文化論の芸でも展開してほしいものだ。

1400円は高かった。ともかく三菱美術館の『マネとモダン・パリ』へ行って素直にマネの作品を見てきます。
2010.05.28[Fri] Post 01:39  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

会田誠個展「絵バカ」展評:渋沢和彦(産経)VS西田健作(朝日)

朝日新聞の文化欄に西田健作が『会田誠個展』の展評を書いている。産経の渋沢和彦の展評のタイトルは「『深読み歓迎』の遊びとユーモア」で、本文中にも「絵バカ」の言葉はでてこない。それにくらべ、西田健作の展評のタイトルは「馬鹿らしさ貫き本質を突く 会田誠が個展「絵バカ」開催」であり、「絵バカ」のコンセプトを前面にだしている。

渋沢は曲がりなりにも絵を見て展評をかいているが、西田のほうはオープニング・レセプションの『よかちん』のパフォーマンスの見聞と会田のインタビューをもとに記事を書いている。『よかちん』というのは旧制高校のノリで裸踊りをしながら歌う芸大伝統の数え歌のことで、今はうしなわれつつあるこのパフォーマンスをしたのは以下の理由だと、会田は言っている。

 「『よかちん』は、絵描きはバカなぐらいがいい、屁(へ)理屈より手を動かせという近代洋画以降の教えを体現していた」と会田。コンセプト重視の西洋とは正反対のこの考えは、国際競争力の無さから滅ぶべくして滅ぶ、とみる。


「近代洋画以降の教え」というのは黒田清輝以降の芸大の伝統のことなのかとも思うが、会田はたしか黒田を批判していたはずなので、その辺の事情は私にはわからない。そういうわけで、ちょっと意味不明だが、現代芸術の流れから考えてみれば、屁理屈ばかりで手を動かさないというのは、たぶん、デュシャン以降のオブジェやミニマリズム、それからコンセプチャル・アートなどのことを言っているのだろう。もちろん、具体的には『アートで候』展で批判した浅田岡崎のことだ。

そうであるならば、オープニング・レセプションのパフォーマンスではなく、会田が手を動かして初めて制作した抽象画についていささかの感想を述べなければ、今回の個展の批評とは言えないだろう。

西田健作は今回の個展のもっとも重要な作品について触れないかわりに、パフォーマンスで芸大の油彩科の女子学生が裸で「一つよかちん」のかわりに「一つよかまん」と歌ったのはジェンダーフリーだと言いたげなことを書いているが、ずいぶんと古めかしいパフォーマンスではないか。もっとも、会田の抽象画も同じように古めかしい気がするけれど。


『会田誠の抽象画』へ





2010.05.22[Sat] Post 00:32  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠の抽象画 『会田誠個展』(ミズマアートギャラリー)

産経新聞の文化欄に渋沢和彦がミズマの『会田誠個展』の展評を書いている。難しいアート理論を振り回すこともなく、『会田誠個展』に行ってみたくなるような簡潔な記事になっている。

ただ、一つだけ文句を言えば、新作の《1+1=2》については少し誤解があるようだ。そこの箇所を引用する。

 別の大作の新作「1+1=2」は会田のイメージとは大きくかけ離れている。オレンジ、ブルーなどの油絵の具を厚く塗りたくり、心の内面を表現するような表現で鮮烈。会田といえば前述の作品のように緻密(ちみつ)な作品で知られるだけに珍しい。近くで見るとまるで何が描かれているのか判別しないが、離れると1+1=2の数字の形が現れる。「灰色の山」とは対比的な作品といえるだろう。

これは会田の初めての抽象画なのだ。

会田は上野の森美術館の山口晃とのふたり展『アートで候』(2007年5月)で岡崎乾二郎の抽象画をパロって、浅田彰を批判をした。そのあと、2008年5月号の『美術手帖』の座談会「先生、僕に『絵画』を教えてください!」で彦坂尚嘉、辰野登恵子、古谷利裕を先生に呼んで、生徒の会田が抽象画を教わる企画があった。会田は岡崎を先生に頼んだが断られてので、古谷(岡崎の弟子?)をかわりに頼んだと言っていた。そして二年後の同じ5月にその成果を問う抽象画《1+1=2》を発表したということになる。

うろ覚えだが、会田が先生たちにしきりに聞いていたことは、美少女ならわかるが、抽象画はいったいどこから始めればいいのか分からないということだった。先生たちの答えは、適当にやれば良いと言うひどく曖昧なものだった。会田が辰野の抽象画を「本棚みたいな絵」というのに対して、辰野は「空間」がどうのこうのと言っていたけれど、話はあまり発展しなかった。

さて、会田が抽象画《1+1=2》を描く取っ掛かりにしたのは、グリーンバーグの「帰するところなき再現性(homeless representation)」である。デ・クーニングは「女」の表象を、津上みゆきは「風景」の表象(representation)を利用している。それに対して会田は記号の表象(representation)から始める。

数字は弁別的差異として数学的概念を表象している。しかし、同時に幾何学的あるいは彫塑的図形として抽象的な役割も担っている。グリーンバーグは「抽象表現主義の最良の成果のいくつかは、早くから再現性と戯れることによってえられたものだ」と言っている。果たして、会田の戯れは成功したのだろうか。写真を見る限り成功したようには思えない。(注1)

辰野が座談会で言った「空間」は果たしてどうなっているのか、新聞の小さな写真ではわからない。また、会田は岡崎の抽象画をつまらないと言っているのだから、自分の抽象画は面白いと思っているわけだ。たしかに色彩は岡崎の彩度の低い色彩よりも鮮やかで面白いと言えるかもしれない。しかし、どこか津上みゆきの色彩に似ていないか。もちろん会田の作品は油絵具の厚塗りで筆触が残っている。それにたいして、津上のはアクリルや日本画のメディウムを綿布にステインの手法で描いたものだ。ふたりとも、ピンク、黄色、橙、青、緑、そして、写真でははっきりしたことはいえないが、ところどころに黒をきかせる配色は、どこか通俗的ではないか。しかし、実物を見なければ、やはり、なんともいえない。

もちろん、個展には行くつもりだが、期待はできない。会田は、『アートで候』展で岡崎をパロった作品のキャプションに「浅田彰は下らないものを褒めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どうのようなかたちで取るのだろうか。」と書いた。執念深い浅田のことだ、この絵を見たらきっと一言おちょくるだろう。不謹慎だが、ちょっと楽しみだ。

私には、会田の最高傑作は依然として《書道教室》である。

注1:クレーには、アルファベット、象形文字、図形、そして、それらの断片を組み合わせて、「記号と絵画」の問題を探求した傑作がある。 『パウル・クレー』へ



「会田誠個展『絵バカ』展評:渋沢和彦(産経)VS西田健作(朝日)」
2010.05.19[Wed] Post 22:51  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

『ジオメトリック・イメージズ』東京オペラシティコレクションより

いつだったか、東京オペラシティアートギャラリーで風景画を集めた日本画の所蔵展があった。岩絵具で描いた大作がおおかったように記憶しているが、あまりのヘタクソに文字通り呆然としたことがある。こんどの抽象画の所蔵展はそれなりに評価されている作家の作品で、呆然とするほどの事はないのだが、それはただ抽象画はヘタがバレにくいということなのかもしれない。どちらにしろ、猪熊弦一郎の楽しい抽象画を見たばかりの目には、陳列されている抽象画はどれも退屈に見えた。

たとえば、斎藤義重の合成樹脂(?)を使った段差と溝のある抽象画は国立近代美術館や東京都現代美術館で見たときは、ちょと面白いと思ったし、山田正亮のストライプの絵はここのギャラリーでみたのだが、なかなかおしゃれに見えた。ところが、今回、見たときは、ほかのたくさんの抽象画といっしょに間を詰めてぞろぞろ並べてあるからか、どうも魅力的には見えない。

上田高弘は抽象画を見るときはある構えが必要だと言っていたけれど、その構えがなかなかとれない。なぜか、たぶん、イリュージョンが見えないからだ。斎藤の作品は立体的だから、もともとイリュージョンがあらわれにくいし、山田正亮の作品はストライプ絵画ではなく、ストライプ模様のネクタイ生地にみえてしまう。

たしかにいろいろな技法がある。理論がある。いや、あるらしい。その技法や理論が分らなければ、抽象画はわからないのでは困る。野田裕示は、支持体と絵画の関係を追求しているという。キャンバスの一部が切除されている。キャンバの上にキャンバスの切片が貼りつけられている。絵具の下塗りが蒔絵のように研出しされている。こういう技法は反イリュージョンの方向に作用する。イリュージョンがなければ、絵は余計にみすぼらしくみえる。

ジオメトリックな抽象画はどうしても模様化パターン化してしまう。そうならないためには、カンディンスキーのように音楽性を求めたり、クレーのように記号と図形の融合を試みたり、ミロのように有機体の象徴性を利用したりしなければならない。どんな理論があっても、絵画はイリュージョンがなければ、ただの平たい事物なのだ。

もし、ロスコの小品をこの幾何学的抽象の展覧会に展示したらどうだろう。やっぱり天地創造の空間の広がりがみえるだろうか。そんな想像をしながら、なんだか愉快な気分になってギャラリーをあとにした。
2010.05.12[Wed] Post 23:51  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『アバター』 ジェームズ・キャメロン監督★☆

TSUTAYAのDVDで見た。もちろん3Dではない。

ジェームズ・キャメロンは『ターミネーター』を見てファンになった。『エイリアン』もリドリー・スコットではなく、キャメロンが監督をした『エイリアン2』の方が好きだ。ところが『ターミネーター2』では、ターミネーターが人類の味方になって、しかも、感情や良心まで持ち始めたのにはがっかりした。映画は悪役が魅力的でなければ面白くない。『タイタニック』も敵役が紋切型なのはいいとして、愛する女性のために犠牲になるというクライマックスが歌舞伎みたいにテンポが遅くなるのは、映画としては失敗だろう。

文明人が未開人を略奪するというPC的状況を背景にしたラブストーリーと考えれば、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』のパクリといってよい。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』では北軍の兵士が結婚するのがインディアンの娘ではなく、インディアンとして育てられた白人女性だというのは差別ではないかと批判があったけれど、『アバター』では地球人と肌が青く尻尾がある、身長3メートルの異星人のナヴィとセックスをする。最初は、地球人ジェイクとナヴィのハイブリッドで、ナヴィの容姿をした遠隔操作用の肉体のアバターを通してだが、ストーリーの最後では、アバターではなくジェイク本人がナヴィの娘とセックスをする。

女性上位なのはジェイクが下半身不随だからだろうが、それならアッチの方は大丈夫なのかと心配になるが、ナヴィ族はヒーリングの超能力をもっているので、あれはセックスではなく治療の儀式だったのかもしれない。

それはともかく、いくら似ているからと言って、尻尾のある身長3メートルの異星人と交尾をすることが、果たして可能なのだろうか。もちろん獣姦だってあるのだから、尻尾があって肌の色が違って少し大きいだけの、しかも、言葉も話すナヴィ族と交尾したからといって異常性愛とは言えないわけだが、どこか釈然としない。

これが人種差別反対のメッセージであることもよく分かるのだが、それだけいっそう釈然としない。
2010.05.10[Mon] Post 02:11  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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