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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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本江邦夫の絵画論を批判する

本江邦夫は大谷有花論(『現代日本絵画』)の中で「絵画は絵画によって絵画である」と同語反復の絵画の定義を述べている。もちろん同語反復の例にもれず、このアフォリズムめいた言葉も意味不明だ。本江は同じ本のなかで「絵画は絵画であり、何かの象徴ではないし、理念的なものでもない」という辰野登恵子の言葉を引用しているけれど、これは常識的なモダニズムの絵画観を言ったもので、本江のような曖昧なところはない。

本江邦夫の絵画論は、美術(史)の文脈を無視した突然のレトリックで驚かされる。『VOCA』2010展の選考評『表面について』もそうだ。冒頭、いきなり、「表面とは、背後も奥行きももたず、それ自身でしかないものを言う」と言い、次の節では「表面は現実であり、現実は表面である」とまるでヘーゲル弁証法のもじりのようなことを言うのだが、そもそも表面というからには、裏面や内面があるはずだが、そんなものには触れられていない。たぶん、ちょっとまえに流行った「表層理論」の借用なのだろう。

本江は、表面はそれ自身でしかないものであり、表面が現実なのだといって、哲学的文学的な修辞を弄し、肝心の絵画の物理的表面についてはなにも語らない。そのかわり、ハムレットの「鏡」の比喩を使ったセリフ「自然にたいして、いわば鏡をかかげる」を引用し、「だから」芸術や絵画が本質的な役割を果たさねばならないし、今回のVOCA展に表面にかかわる仕事が異常に多いのはそのためだと言う。

そして、表面にかかわる芸術は、文句なく写真だというのだが、これは上に述べたハムレットの鏡の比喩を受けたもので、写真は、鏡に写った映像を定着したいという昔からの願いを実現したと言う写真史のエピソードを踏まえたものだ。もちろん写真は真実だということも含意している。

本江邦夫の絵画論は写真論をもとにしていることは『現代日本絵画』の序文を見ると判る。

なぜ絵画なのか。あるいは絵画とは何なのか。答えは今や明白であろう。それは原理的に三次元の二次元への写像ないし圧縮であり(だからといってこれを再現的にのみとらえないでほしい)、と同時に三次元にあって二次元とかかわる、この意味で二つの次元にまたがることを宿命づけられた人間存在にとってまさに必要不可欠の媒体であり、したがって「絵画の死」などという究極の事態などありえないのだ。これを、絵画とともに人類は誕生し、絵画とともに死滅すると言ってもかまわなだろう。


「三次元の二次元への写像」というのは写真のアルゴリズムであり、類似性を媒介に目で見て手で描く絵画のアナログの手続きとは異なるものだ。かれはひたすら写像理論に基づく曖昧な表象文化論を述べる。

絵画が三次元の二次元への写像だと考える本江は、当然、抽象画より具象絵画を支持する。本江は、イリュージョンがなくなり、即物的に支持体と顔料が一体になったオブジェが、グリーンバーグ流モダニズムの最終目標だったというのだが、それは岡崎乾二郎が目指したもので、グリーンバーグが否定したのは、古大家のイリュージョンであって、ポロックやロスコのイリュージョンではない。しかも、それも暫定的なもので、将来目利きが、古大家の作品をあらたなフォーマリズムの視点から見直すかもしれないと言っている。

本江はグリーンバーグに何か恨みがあるかのように言う。

絵画に固有の特質として「平坦さ」(flatness)を抽出し、そこに絵画の自給自足(autarky)を見出したのは、ほかでもないグリーンバーグだった。しかし、残念なことに、彼はこの卓抜なアイデアからイリュジョニズムの否定という、それ自体は今や陳腐な結論しか導きだすことができなかった。絵画の王国を、ある意味で独力で築き上げたこの稀代の批評家にあってもまた、いやだからこそ、絵画の根拠に迫るだけの動機がなかったように思えるのである。


というのだが、グリーンバーグほどに、絵画の根拠、すなわち絵画の三層構造、なかんずく、絵画の物理的層とイリュージョンの層の弁証法に迫った美術評論家はいない。

さらに本江は持論を展開する。

彼(グリーンバーグ)は二次元としての絵画の基本的な機能、すなわち情報伝達の手段もしくは認識の装置としての絵画の側面に目を向けることはなかった。


目を向けなかったわけではない。グリーンバーグはただ「再現性は絵画にコンセプチャルな意味を与えるが、それが作品の美的な価値を高めるのか減じるのかは一概にいえない。歴史的な出来事に言及している からといって、ピカソの《ゲルニカ》が、モンドリアンの非対象絵画より豊かで質が高いとはいえない。」(“Abstract, Representational, and so forth”1954年拙訳)と言っているだけだ。

本江がここで絵画の機能といっているのは、いっとき流行った表象文化論が論じたことで、そんなものはポストモダンの衣裳をまとったカビ臭い図像学の焼き直しだ。

もちろんここで本江がグリーバーグに仮託して藤枝晃雄の悪口を言っていることはわざわざ指摘するまでもないことだろう。それから、ついでに、今、気づいたのだが、『現代日本絵画』(みすず書房¥3800円)のカバーに山田正亮が描いている絵は、オリツキーのパクリといわれても仕方ない気がするけれど。


『大谷有花が絹谷幸二賞を受賞』
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2010.03.31[Wed] Post 23:44  CO:2  TB:0  -本江邦夫  Top▲

『VOCA展』2010を見る

土曜日(3/20)に首都高の渋滞に巻き込まれたので、MOTに行く予定を変えて、上野でVOCA展を見た。「上野の森美術館」の下にある駐車場にとめて、早足に見てまわった。

前のエントリー『VOCA展2010』で、受賞作をパンフレットで見て、「カイカイキキ風の漫画」だと言ったけれど、いつものように、VOCAはさまざまの技法の百貨店である。

もちろん写真を使った技法もある。VOCA賞の三宅砂織の作品は、透明シートに絵を描いてネガにしたり、フォトグラムの技法を併用して印画紙に感光する。佳作賞の清川あさみは、風景写真に刺繍をほどこし、それを写真に撮って、それにまた刺繍をほどこすという具合に、刺繍と写真撮影を繰り返す。多和田有希は、写真の表面を鋭利な道具で傷つけたり、削り取ったりする。三つとも図像表面の面白い効果を狙ったもので、リヒターの《Overpainted Photographs》にあるようなイリュージョンと物理的表面の相克をテーマにしたものではない。

そのほかにも、名和聡子のフォトリアリズム風の肖像画や、利部志穂のインスタレーション/パフォーマンスの記録写真があり、そして、朝海陽子のアマチュアに擬態したストレート写真は、細工や加工するかわりに松井みどりの解説がついている。写真を利用したものだけでもこれだけのヴァリエーションがあるのだから、他は推して知るべしだろう。具象画が復活しているらしいが、復活というよりポストモダンのから騒ぎを無理やり続けているように見える。
2010.03.26[Fri] Post 11:30  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

大谷有花が絹谷幸二賞を受賞

大谷有花が絹谷幸二賞を受賞したと産経ニュースが伝えている。絹谷賞は毎日新聞が主催しているのだから産経ニュースが取り上げるというのはこの業界ではあまりないことだ。(和)のサインがあるのだから、記事を書いたのは、同じ紙面で『VOCA』の展評を書いている渋沢和彦だろう。

渋沢は、受賞者の作品が見られないのは残念である、小規模でもいいから展覧会をして、VOCA展と競え合えばいいと言っている。正論である。両展に傾向の違いがあるようだが、競いあうには、両者のあるていどの質の高さが必要だろう。

両方の選考委員を兼ねている本江邦夫の絹谷幸二賞選評『描く喜びを提示』から大谷有花の箇所を引用する。

この二つ(絵画と書物)を、生来の精妙な感性と透明感あふれるマチエールによって「開かれた本を描いた絵」として一つに結びつけ、宇宙的な別次元をまさに切り開くこと で、描く喜びを提示したところに、大谷有花さんの独創があります。(毎日jp)

本当に大谷有花は独創的なのだろうか。産経ニュースに掲載されている受賞対象作品《黒い本ー花の対話ー》を見ると、開いた本から花が外に飛び出している絵なのだが、これは私たちがディズニー映画でさんざん見せられたアイディアだ。ただ、大谷は「絵の中の絵」のトリックにちょっとした工夫を付け加えて、イラストをあたかも芸術作品に見せている。

まず、開いた本の黒い縁がキャンバスの縁すれすれに近づき、背景の表面と本の厚みのある面とが分離される。この技法はオリッツキーがつかっている。他方、背景とページの表面が同じキミドリに塗られることで、ページの表面とキャンバスの表面が同じ平面に重なる。花は壁の模様になり、ソファーの模様になり、そして、本から飛び出た花が、ソファーの下に潜り込み、ページの間に挟まっている。

もちろん、これらは図像の重層性を利用した一種の錯視であって、目新しいものではなく、グリーンバーグが問題にした絵画の物理的平面と図像空間のイリュージョンの弁証法とは異なるものである。もちろんイラストとして面白い作品ではあるが、本江邦夫の「宇宙の別次元を切り開く」というのはいくらなんでも大袈裟すぎるだろう。

そんなことより、本江邦夫と大谷有花の関係は画家と評論家の関係を超えているのではないか。本江は多摩美の教師として大谷に近づき作品を安く手に入れ、美術館館長として作品を購入し、美術賞の審査員として、第6回 昭和シェル石油現代美術賞で自分の名前を冠した賞を与え、2003年VOCA奨励賞、そして今回は絹谷幸二賞を、それぞれ審査員の一員として与えている。もちろん、目利きと優秀な作家の幸運な出会いなのだろうが、評論家が自分の推薦する画家の作品を購入するというのは、やっぱり疑われてもしかたないのではないか。

まあ、そんなことは実は私にはどうでもいいことだ。私が腹がたつのは、美術展評を書き始めた頃、東京都現代美術館の「ナディッフ」で3800円で購入した本江邦夫の「現代日本絵画」のことだ。たとえば大谷有花の個展をみて、『現代日本絵画』の大谷のところを読むと、チンプンカンプンのことが書いてある。

絵画は絵画によって絵画である。これはつまり、絵画にとって絵画は自己であり他者であるということだ。今日の絵画を真に養っているのは、絵画を超えたもの、いうならばメタ絵画的な容器、いやむしろ母体(マトリックス)あるいは思考の回路であり、「私」とはその最小単位の別称である。これを画家に即して言うならば、絵画とは画面に対する無数の反問であるということかもしれない。(『現代日本絵画』P104)

わしにはまったく理解できなかったけれど、まったくのデタラメとも考えられなかった。なにしろ、彼が自分でかいていることだが、日本の美術界では「絵画の専門家」ということになっているからだ。しかし、いまでは本江の言っていることはまったくの無意味なレトリックだと思っている。

それはともかく大谷有花は、兎のキャラクターやキミドリとピンクの色合わせは、イラストとしてそれなりに完成度が高いし、そういう意味では、同じように漫画的な絹谷幸二の名前をつけた賞にふさわしい。


『本江邦夫の絵画論を批判する』へ
2010.03.24[Wed] Post 22:37  CO:0  TB:0  -大谷有花  Top▲

アンリ・ルソーの「植物遠近法」その1

『ボナールの庭、マティスの室内』展で見たマティスの『リュート』のことは既に述べた。スカートにさした「テーブルの影」の不思議な魅力についてだったけれど、もう一つ目を惹いた作品があった。ルソーの《エデンの園のエヴァ》だ。

何度か順路を戻って《エデンの園のエヴァ》見たが、どこに惹かれるのか判らなかった。ただ、ブリジストン美術館で見たピカソの《生木と枯木のある風景》を思い出した。そのときのブログ記事から引用する。

もう一枚は『巨匠ピカソ』展ではなく、その帰りに寄ったブリヂストン美術館の『都市の表象と心象-近代画家・版画家たちが描いたパリ』展で見た《生木と 枯木のある風景》だ。次の展示室に移る端の壁に掛けてあり、「あれぇー変な絵がある、ルソーみたいだ」と一瞬、思ったけれど、すぐに家がキュビスム風で、 全体が平面的な印象に変わった。切り抜きのような雲、山、家並み、池、草地、樹木がコラージュのように重ねられている。キャプションをみるとパブロ・ピカ ソだった。(「『巨匠ピカソ』展」

ルソーにも平面的なところがあるけれど、ピカソと違って、この作品の魅力は、遠近法と月の逆光の処理、そして葉と葉の重なり具合が微妙にチグハグでありながら、丁寧に塗られた絵具がなんとも官能的なところにある。他にルソーの風景画が二点あったが、どちらも面白くなかった。《エデンの園のエヴァ》の魅力は、ルソーの「ジャングルの絵」に特有の遠近法にある。

建造物なら線遠近法で描ける。遠くのものは小さく、近くのものは大きく描く。しかし、植物は似たような形態の大きなものや小さなものがある。大きいからと近くにあるとは限らない。小さいからと遠くにあるとは限らない。そもそも基準となる直線がなくて、曲線ばかり、枝も葉っぱも絡まっているし、すき間があるし、前後重なりで遠近を表すけれど、その重なり具合もはっきりとしない。しかもルソーは空気遠近法を使わない。近くのものも遠くのものも同じ明確な線と色で描く。前の葉と後ろの葉が同じ平面で接している。

そこにシュールレアリズムのトリックとは違う、不思議な空間のイリュージョンが生まれる。わたしはこれを「ルソーの植物遠近法」と名づけることにする。ジャングルのシリーズのなかでもこの《エデンの園のエヴァ》は植物遠近法の最も優れた作品のひとつである。



『アンリ・ルソーの植物遠近法②』
2010.03.16[Tue] Post 23:13  CO:0  TB:0  -アンリ・ルソー  Top▲

VOCA展2010(上野の森美術館)

VOCA展は明日(14日)からだから、もちろん見ていない。国立新美術館においてあったチラシを見ただけだ。展覧会を見ないで書くなんてずいぶん私も偉く図々しくなったものだ。

VOCA展は06年から3年つづけて見に行った。去年は見に行かなかったので、今年はできれば行こうと思っていた。ところがパンフレットの受賞作を見て、行くのが面倒になった。VOCA賞の三宅砂織や奨励賞の坂本夏子の作品がどちらもカイカイキキ風の漫画なのである。坂本と同じ奨励賞の中谷ミチコの《そこにあるイメージ》は身体性とかいうのだろうが、わたしにはナルシスティックな自画像に見える。

展覧会に合わせて選考委員によるシンポジウム「いま、なぜ「具象」なの?」が開催される。なぜ「具象なの?」なんて子供言葉を使って、「いま、なぜ具象なのか」とちゃんと書かないのか。たぶん同じ手を何度も使うのが、いくらなんでも恥ずかしかったのだろう。それはともかく、なぜ具象なのか、答えはチラシに書いてある。具象のほうが「現実社会への不安」や「時代の空気」を表現しやすいからだ。新表現主義も同じようなことを言っていたのではないか。

具象性とは図像学のためにあるのではない。グリーンバーグが『抽象表現主義以降』で述べた三次元空間のイリュージョンの問題なのだ。

上野の森美術館に社会見学に行きたいのだが、ニョウボが猛反対しているので、たぶん行かないだろう。
2010.03.14[Sun] Post 01:01  CO:0  TB:0  -VOCA  Top▲

ゲルハルト・リヒター 「New Overpainted Photographs」展(後編)

『前編』からつづく

「Overpainted Photographs」は文字通り写真の上に絵具が擦りつけられた作品で、具象画の上に抽象画が重なっていることになる。擦りつけられた絵具が抽象画としてさまざまな程度にイリュージョンを持つ。《フィレンツェ》のシリーズでは、まったく透明な写真の表面に絵具がこびりついているように見えるものもある。あるいはフィレンツェの街並みに沿うように写真のイリュージョン空間の中に侵入しているように見えるものもあるけれど、絵具は写真のツルツルした物理的表面に付着している。

絵具がスキージで擦りつけられているので、なおさら絵具の物質感が強調され、写真の非物質的イリュージョンとの対照が際立つ。こういうところが図解的と言われるのだが、こんどの「『New Overpainted Photographs」では、このスキージの技法ではなく、新しいoverpaintの技法を使った作品がある。正確な方法は判らないが、油絵具の代わりにラッカーを垂らし、墨流しのように模様を作り、そのまま乾燥させて、表面に皺を寄せた作品、絵具を薄く塗って一部をヘラで擦りとったような作品、絵具を厚く置いて上からガラス板のようなもので押しつぶして素早く剥がしたような作品、どれもスキージの作品よりも、写真のイリュージョンと絵具の物質性の対比が顕著である。

中でもボケた写真を使った作品は、付着した絵具にピントが合って、向こうにみえる風景がアウトファーカスになっている。ということは印画紙の物理的表面に付着した絵具が、写真イリュージョンの一番手前にある透明なガラスに付着しているように見えるということだ。実際に見ると、そこにあたかもガラスがあるかのように見える。さらに付け加えるならば、写真の表面に付着した「物理的な絵具」がピントが合った写真の被写体、すなわち「イリュージョンの絵具」になっている。

リヒターは自分の絵が「だまし絵」ではないといっているけれど、「蝿のだまし絵」に似ているところがある。蝿のだまし絵は、絵に描かれている蝿がキャンバスの表面にとまっている本物の蝿に見えるのだが、リヒターの作品は、印画紙の表面に付着している絵具が写真に写った被写体のように見えるということで、ちょうど逆になっている。

リヒターの作品はレトリカルだという、ベンジャミン・ブクローの批判は当たっている。しかし、リヒターの天才は、スキージの技法をたんなるレトリックにおわらせない。リヒターは、スキージ技法で絵具の物質性を露呈させるともに、抽象画にイリュージョン空間与え、さらに、筆を使ってあたかもスキージで描いような大作の抽象画も描く。リヒターのスキージの技法は、断言はできないけれど、ポロックのポードの技法に匹敵する優れた技法になっている。

以上のことは、リヒターのレトリックのいくつかを分析しただけで、リヒターの魅力が何処にあるのか何も語っていない。岡崎乾二郎もまたレトリカルと言えるだろうが、岡崎は反絵画、反イリュージョンに向かっているのに対し、リヒターは断固として絵画のイリュージョンの復活再生を目指しているように思える。

追加:意味不明な箇所修正(14日)


 写真の写実主義と表現主義については『マルレーネ・デュマス』参照
2010.03.11[Thu] Post 22:02  CO:0  TB:0  -ゲルハルト・リヒター  Top▲

ゲルハルト・リヒター 「New Overpainted Photographs」展(前編)

「WAKO WORKS OF ART」のリヒター展は「New Overpainted Photographs」というタイトルだったので、あまり期待していなかった。写真の上に絵具を擦りつけた作品は川村美術館の「ゲルハルト・リヒター -絵画の彼方-」で見ていたからだ。自分で撮ったフィレンツェの風景写真を使ったというoverpaintedの作品は、私には図解的でそれほど面白くなく、実験的な試作品のように思えた。

リヒターの写真をつかった作品は、「絵画とは何か」の解説のようなところがあって、評論家はいろいろ論じられて面白いのだろうが、素人にはその技術やアイディアに感心するだけの作品になっている。写真は、インデックスとイコンの二重の記号なのだが、リヒターはインデックス記号としての写真の物理的表面であるボケ・ブレ・ソフト=フォーカスを模倣することで被写体ではなく、写真そのものをスーパーリアルに再現した。(注1)

このことは「図像の三層構造」で考えればよくわかる。ダゲレオタイプの写真が発明されてすぐにアングルなどのアカデミー画家たちは写真を利用し始めたが、それは写真の「図像客体」ではなく、図像主題を模倣したのだ。当時、写真はまだモノクロだったが、彼らが描いたのは色彩のある絵画だった。それに対してフォトリアリズムがすでにカラー写真が誕生していたにもかかわらずモノクロ絵画を描いたのは、制度的約定的に図像客体がモノクロであることが依然として写真の形式的特徴だったからだ。

もちろんフォトリアリズムは被写体(図像主題)を再現(represent)するのではなく、写真画像(図像客体)を再現するのだから、カラー写真を使ったフォトリアリズムは、図像客体がカラーなのだから、当然色彩絵画になる。その場合色彩はカラー写真特有の色調になるはずだが、実際にはコダックの色調やフジの色調に描いたとしても写真的な面白さはないだろう。むかし、モノクロ写真に彩色したカラー写真があったけれど、中途半端でつまらないので普及するにいたらなかったのは当然である。色彩は写真にとって本質的なものではない。

どちらにしろ、モノクロのフォトリアリズムと異なり、カラーのフォトリアリズムは、図像客体を再現しているのか、図像主体を再現をしているのか区別するのが難しい。たとえば、上田薫の《なま玉子》のシリーズは、「写真みたいな絵」、あるいは「絵みたいな写真」であり、写真とイラストの合いの子になっている。《なま玉子》が「写真みたいなイラスト」に見えるのは、リアルな描写にもあるが、何よりも玉子の黄身が割れた卵のからから落ちる瞬間を「高速シャッターで撮影」しているからだし、「イラストみたいな写真」に見えるのは、フォトショップで処理した広告写真によくみられる階調性に欠けた硬調な描写だからだ。

上田薫のスーパー・リアリズムは写真とイラストの境界領域にあり、単純な写真的リアリズムではないことは、例えば、《オレンジにナイフ》と高島野十郎の静物画のリンゴと比べてみれは明らかだ。高島野十郎は写真的な描写を排し、図像主題のリンゴが目に見える通りに再現しようとしている。そのことが結果的に写真に似た描写になったのだ。(現象学的ではなく自然科学的に言えば、これはわれわれの視覚のアルゴリズムと写真のアルゴリズムが類似していることによっているのではないか)

それにたいして、リヒターは、図像主題(内容)ではなく、写真のボケ、ブレ、アウト・ファーカスなどの逸脱した図像客体(形式)を利用した。これは図像主体のリアリズムではなく、図像客体のリアリズムなのである。ブレ、ボケは写真画像に特有な現象である。だから、それを再現した絵画も写真に見えるのだ。面白いことに、プリントを「雑巾がけ」などしてボカした写真をピクトリアリズムと称した芸術写真の流派がいたことだ。

以上の「フォト・ペインティング」のシリーズはあくまで同一の図像の中の三層構造の問題だが、「Overpainted Photographs」は風景写真と抽象画の二つの別の図像の重なりの問題をあつかている。リヒターは自分にとって風景画と抽象画の区別がないと言うけれど、画集《Firenze》の解説でDietmar Elger は、「リヒターの作品には再現描写と再現に奉仕しない自律的な絵画との境界領域、あるいは、イリュージョニスティックな風景描写と物質性の両者を分かちがたく貫いているさまざまな実在性のレベル」があると言っている。

後編ではこの問題を考えてみる。 づづく

注1:HP『絵画の現象学』の美術評論『写真はインデックス記号か?』を参照
2010.03.08[Mon] Post 21:05  CO:0  TB:0  -ゲルハルト・リヒター  Top▲

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