ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

『project N 熊谷直人』展(東京オペラシティ)

最初の印象は、千代紙のデザインだった。滲んでいるように見えるが、ステイニングの手法ではなく、キャンバスに油彩とアクリル絵具で丁寧に描いているようだ。パステルカラーの明るい色は他の色と混じり合うところでも、かすかに濁りながらも、相変わらず明るい。不透明色の白を使って巧みに透明感を生んでいる。

樹木や花や森をモチーフにしたというのだが、植物や自然のイメージを使った抽象画は、「project N」の山川勝彦や国立新美術館の津上みゆきがいるが、熊谷直人の淡い色彩の作品が一番デザイン風ではないか。そのまま本屋のカバーかネッカチーフに使えそうだ。

佐山由紀のカタログの解説は、たしかにそう言われればそうだと、その緻密な分析には納得できるのだが、だからと言って、それはミクロの分析であって、我々のマクロの視線を捉えて離さないような魅力があるようには思えない。

絵肌や筆触や混色の繊細さは必ずしも絵画的イリュージョンの面白さを意味しない。このことは、マチスの一見雑に見える筆触や塗り残しや配色が、絵画の物理的表面とイリュージョン空間との弁証法的緊張をもたらしていることでも理解できるだろう。

スポンサーサイト
2010.02.28[Sun] Post 16:46  CO:0  TB:0  -熊谷直人  Top▲

『ルノアール - 伝統と革新』 国立新美術館

ポーラ美術館で見たボナールの裸婦に欲求不満が残っていたところ、ルノアール展が開催中だと知った。『ルノアール+ルノアール展』(Bunkamuraザ・ミュージアム08年)で見た『陽光の中の裸婦』や『ぶらんこ』の印象が強く残っていたこともあって、国立新美術館にルノアールを見に行った。

千住博は「ルノワールが王道だ」と言っていたけれど、たしかにルノワールはすぐれた技法の持主といえる。しかし、その技法で何を描いているかというと、童顔の豊満な肉体の、誰もが知っているルノアール調の女性をたくさん描いている。ニョウボは「ルノアールは東郷青児だ」というのだが、今回の展覧会でも、東郷青児ほど図案化されているわけではないけれど、着衣でもヌードでも、これほど同じ調子の人物画を並べられると、どうしてもイラストや挿絵にみえてしまう。

ルノアールは情感豊かな世界を表現しているので、絵画の内容が形式的なものを抑圧してしまい、それだけ色などの絵画の面白さが伝わってこない。はじめは丁寧に見ていたのだが、途中からルノワールのロリータたちに飽きてしまい足早に会場をあとにした。

ルノワールは印象派のブーグローではないか。

ポーラ美術館でマチスの「テーブルの影」をもう一度見にいくつもりだ。
2010.02.23[Tue] Post 22:40  CO:0  TB:0  -ルノアール  Top▲

テーブルの影:『ボナールの庭、マティスの室内』(ポーラ美術館)

ボーラ美術館の『ボナールの庭、マティスの室内』を見に行った。川村記念美術館の『Matisse et Bonnard』展(08年3月)は海外からの美術館の協力を得ていたけれど、こちらはポーラ美術館の所蔵品が中心で、そんなに良いものはなかった。ニョウボはボナールの赤が見たいと言っていたけれど、赤はマチスの『リュート』があるきりだった。

ボナールの裸婦は、川村美術館で見たのと比べると、それほどの魅力がなかった。写真を使ったというデッサンは、アングルやルノワールの裸体よりおそらくリアルに描かれているのだろうが、貧弱な胸や尻はリアルというよりデッサンの稚拙さに見えてしまうのは、絵画もまた制度であることを免れないということだ。アングルのヌードはなめらかな肌で絵具を隠しているのだが、ボナールの肌は、川村美術館で見たヌードの白い絵具は肌の輝きに見えたのだが、こちらのヌードは白の絵具が露出し、肌の輝きには見えない。もちろん絵具が見えるということではむしろモダニズムともいえるのだが、ルノワールの絵具の隠蔽と露呈の緊張関係とくらべるとどうしても稚拙見える。そう考えるとルノアールは絵具と色と自然のイリュージョンが緊密に重なりあって、印象主義が単純な感覚のリアリズムではないことがわかる。

それよりも、この展覧会で一番印象に残ったのはマチスの「リュート」である。もちろん、壁とテーブルの天板と絨毯の赤と、植物と椅子の緑が補色対比になっている。天板の赤が横板にはみ出し、テーブルは壁と平行になっていないのは画面に立体感と動きを与えている。それはいいとして、テーブルがリュートを弾く女のスカートに影を作っているのだが、それが妙に目を引くのだ。もっともはじめはそれがテーブルの影とはきづかなかった。他には影らしきものもないし、花瓶にもスカートにも陰影はなく、モデリングが施されていないからよけいに気づかなかった。

しかも、その影は丸く膨らんでいるはずのスカートにまるで四角い板のように張り付いている。スカートの襞の線が薄い黒の絵具でほぼ垂直に三本ひいてある。スカートの裾は薄い紫で、影はその紫に少し黒を混ぜて薄く雑に塗ってある。

その影が机の影だと思ったとたんその影は輝き始めた。赤と緑の対比が輝くのではなく、裾の紫より少し濁った紫がキャンバス表面で輝いてみえるのだ。ところが、家に帰ってカタログの写真を見ると輝きは消えている。写真はどうしても彩度が高くなるので、影の紫の要素が強調されているような気がする。それに縮小された写真では絵具の物質的なタッチが見えにくいという理由もあるのだろう。それに、実物はもっと灰色に見えたような気がするけれど、それは「スカートの模様」ではなく、「机の影」という図像主題が影響を与えたと思われる。

ニョウボはこのスカートの四角い紫が机の影だとは気付かなかったそうだ。そのせいか影は裾模様とほぼ同じ紫にみえたそうだ。しかし、四角い紫がスカートの模様でも机の陰でも、どちらでも絵画価値は同じだということが形式主義ならば、形式主義は間違っているのではないか。わたしには、そのやや暗い紫が机の影に見えた途端、奇妙なことに、机の影は、スカートの上にではなく、まるでキャンバスの表面上にあるような「イリュージョン」が生まれる。もちろん物質的な絵具はキャンバスの表面にあるのだが、キャンバス上に投げかけられた影はもちろん絵具ではなく、イリュージョンだ。

『リュート』はマチスの傑作とは言えないのだろうが、マチスの秘密を知るにはもってこいの作品だ。色彩対比のことは知らないのだが、はじめは赤と緑の対比に目がひかれるけれど、机の影によって、スカートの紫と女の髪の緑の対比が強くなるように思われる。マチスは紫の使い方がとても上手いのだ。『リュート』はポーラ美術館の所蔵品だから、この展覧会でなくても見られるはずだから、ぜひ一度はポーラ美術館で『リュート』を見てください。

もう一度繰り返しておく。わたしが「図像に還れ」と主張するのは、図像学のためではない。そうではなく、何が描かれているかがどう見えるかに影響を及ぼすからだ。『リュート』の例で言えば、四角い紫がスカートの模様なのか、それとも机の影なのかで、その四角い紫の見え方が違ってくる。これはグリーンバーグの”homeless representation"の問題でもある。
2010.02.19[Fri] Post 02:14  CO:0  TB:0  -マチス  Top▲

『ゼロサムネイル』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)③

サムネイルは画像などを縮小して元画像の代わりに目録やファイリングに使うアナログ(類似)記号のことだ。岡崎乾二郎の『ゼロサムネイル』は、小さいゼロ号のキャンバスに描かれた抽象画の原画であり、ほかに代わり(stand for)をする大きなオリジナルの作品があるわけではない。そういう意味ではこれはサムネイルではない。去年の川村記念美術館のロスコ展には『テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型』が展示されていたが、その模型の壁には展示する予定のシーグラム壁画の縮小絵画が掛けてあった。これが縮減模型すなわちアナログ記号としての「サムネイル」である。

それにしても、『ゼロサムネイル』はタイトルの勝利である。タイトルを見るとなにかデジタル時代の新しい芸術におもえる。サムネイルは弁別的差異のシステムによるデジタルな記号ではないが、類似によるアナログ的な目印徴表としての記号性がある。小さいから近くで見る。作品の間隔が離れているので一つずつ見る。パ レットナイフで擦りつけた絵の具の盛り上がりが見える。小さくても図像(picture)なら実物大のイリュージョンが現れるだろうが、絵の具を擦りつけた、「死んだ余白」のあるゼロ 号の抽象画はゼロ号の汚れたキャンバスに見えるだけだ。(注1) 彩度、色相、 明度などの色彩対比は弱く、中心も周辺もない。評論家たちはそれを開かれた構造というけれど、むしろ、おおきなオールオーバーな抽象画の一部を切り取った「生地の見本」のようにも見える。一つ一つはつまらない抽象画だけれど、たくさん並べれば、いろいろな抽象画の見本を並べたカタログとしての面白さがうまれる。このあたりが岡崎乾二郎の図画工作の工夫があるところだ。

大きな二連三連の「組絵画」にも工夫はある。『ゼロサムネイル』にはアナログ記号の差異があった。擦りつけた絵具の色や形でそれぞれのサムネイルが識別できたけれど、組絵画のほうは似たような色や形で、アクションでもなくドリッピングでもなく、ブラッシュ・ストロークでも線描でもなく、ただパレット・ナイフ(?)で塗りつけたようで、どれも同じような「絵具で汚したキャンバス」にしか見えない。イリュージョンのない退屈な四角い事物である。そういう意味ではモノクローム絵画よりもはるかにポスト・モダンのミニマル・アートに近いといえる。

ところが、岡崎は同じような抽象画を二枚並べることで、失った絵画の諸関係を回復しようとする。てっきり別々の制作した絵を組み合わせたのかと思ったのだが、じつは二つの絵ははじめから関係性をもって描かれているらしい。祭壇画の二連三連の絵画は宗教的物語(ヒストリー)を語っているのだが、抽象画には物語はない。だから岡崎の二連の抽象画は物語でつながっているのではなく、色や形の形式の関係があるというのだが、それならそうと、その関係がどんな効果やイリュージョンを生み出しているのかネットで検索したブログから引用してみよう。(古谷利裕も岡崎論をたくさん書いているけれど相変わらず難解なので失礼)


物質の抑揚、垂れをともなう描かれた場における具体的なノイジーな表情に一方で捕らえられつつも、二つの画面を行き交いながら、激しく我々の知覚は揺れは じめ、安定した受容は不能となろう。果てし無い不確定の知覚の中、それは1対1の対応に終始する二枚の絵ではなく、果して自在なイマジネーションの渦中で 輝く仮想の面を見てしまう。関係性と決定的な断裂を持ちながら、単体としても存在しつづける絵画。(artscape『動揺する知覚の中でみる官能』天野一夫)(ママ)


柔らかく閉じたブロック状の筆致のディプティックが美しく、あるいはより初期の、色彩や形態、マチエールといった諸要素が一対の作品間で対位法のようなネットワークを つくりだす2002年の作品にもクラクラさせされる。つまり2002年の段階で目も眩むような構造的な対応関係が頂点に達し、次の段階で柔らかな筆致が内 側に巻き込むようにして色彩が個別の単位性を強め、さらに近作に至っては、こうして個別の単位性を強めていた色面が鋭いエッジを持ちながらねじれ、多方向 に開かれていく。色彩も同様に、これまでの岡崎作品にみられるような諸力の均衡状態とは異なる、突き抜けるような彩度の高さを持つことで、作品の裏側に あって絵画の諸パラメータを結びつけていた構造の編目を内破するかのようにも見える。(童話日記『MOTコレクションの岡崎乾二郎』kosuke ikeda)


知覚が激しく揺れるとかクラクラするとか、オップ・アートならそういうこともあるだろうが、そもそもオップ・アートの運動感覚は、隣接した連続模様から生じる錯視であって、岡崎の二連絵画にそんな運動感覚は生じないが、造形も構図も構成もない不定形の似たような抽象画を交替に見れば、たしかに眩暈ぐらいはするだろう。あるいは、色相対比や彩度・明暗対比などを利用すれば視覚的な効果を強めることもできるかもしれないが、それも同じ視野に隣接した場合だろうし、そもそも岡崎の作品は色彩対比も弱く、反幾何学的な抽象画なので、とても対位法や多声楽的空間など持ち出す余地はないだろう。もちろん絶対音感があるように絶対色感というものがあって、同じ視野領域ではなく、別の離れた絵画の中にある二つの色彩や形態が記憶や残像を介して響きあう可能性が絶無とは言えないけれど、もしそういうものがあったとしても、それは知覚心理学的な錯視現象であって、絵画的なイリュージョンではないだろう。

たしかに岡崎乾二郎は浅田彰の言うように世界の美術史の文脈の中で仕事をしようとしていることは認めなければならない。ジャッドは絵画でも彫刻でもないステンレス製の箱で絵画的イリュージョンを抹殺したけれど、岡崎はキャンバスに絵具を塗るという絵画を絵画の本質に還元することで、めでたく絵画からイリュージョンを排除したのだが、あとに残ったものは「絵具で汚れた平たいな事物」というリテラルなものだったのだ。

それを会田誠は山口晃とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館)に出展した『浅田批判』(岡崎作品のパロディ)で揶揄したのだが、そんなことにお構いなく、岡崎はさまざまな細工を引き続き施している。まず、抽象画を二枚組にするだけではなく、二枚の間隔を狭くしたり広くしたり、あるいは壁のコーナーに90度向かい合わせたりして、あたかも観者の視線の動きが重要な意味を持つと思わせている。また、三連の組絵画のキャンバス・サイズが異なるのは、三作品は内容(物語)の関係ではなく、支持体の形式(大きさ)の関係だといっているわけだが、キャンバスの間隔の違いも、キャンバスの大きさの違いも、作品の外部にあるもので、いわくあり気な反芸術であって、結局のところ作品が「絵具で汚れた平たい事物」であることを露呈するのに役立つだけだ。

もうひとつ付け加えると、タイトルの問題がある。抽象画には自然的対象が描かれているわけではないので、タイトルを付けるのは難しい。番号をつけたり記号を付けたり日付を付けたりする作家もいる。イメージをあらわすタイトルをつける作家もいる。制作意図をあらわすタイトルもある。岡崎のタイトルは文章や句になっている。『ゼロサムネイル』には日めくりカレンダーや禅問答のような短いものがついている。「組絵画」には現代詩のような長い文章がついている。

これらのタイトルは表題というよりキャプションだろう。三連の「組絵画」には、死者、天の光、肉体もなく翼も必要ない魂、言葉ではなく眩しい光が地上へとどく、空の国は地上より美しい等々、宗教的神話的な言葉を使っているが、ただの連想ゲームのようにおもえるし、あるいは作者が作品を眺めながら自動速記をしたのかもしれないけれど、そんなことは岡崎乾二郎の勝手で、三つのキャプションは、ただキャプション同士がなにやら関係ありそうに見せているだけで、作品の説明にはなっていないし、上述した抽象画のタイトルの類型のどれにも当てはまらない。

おそらく岡崎は祭壇画と聖書物語の親密な関係を脱構築(?)するために、抽象画に現代詩もどきのキャプションをつけただけで、キャンバスの大きさが異なるのが作品の外部であるのと同じように、キャプションもまた本来は作品の外部にあるのだ。もし、タイトルやキャプションが意味を持つとしたら、それは一枚のタブローではなくインスタレーションの類と言うことになる。岡崎は絵画をキャンバスと絵具に還元しながら、キャプションという作家の詩もどきの告白によって、ありもしない作品の深層の意味を裏口から密輸入している。

同じことは表題やキャプションばかりではなく、作家の理論についてもいえるのだろうが、あいにく岡崎理論には不案内で、そのうえ美学に疎いときているので、これ以上のことはわからない。作品を見ての感想は以上のとおりだ。岡崎理論についてはおいおい勉強するが、上で引用した二人の評論は岡崎理論に基づいたものだろうから、彼らの理論にはあまり期待はできない。

ひとまずこれで、おわり


注1:「会田誠の浅田批判」
2010.02.09[Tue] Post 00:58  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

『あかさかみつけ』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)②

『あかさかみつけ』は絵画と彫刻の合いの子だ。オブジェでありながら、台の上に置かれるのではなく、絵画のように壁に掛けてある。レリーフ・コンストラクションや立体絵画というのはピカソのコラージュ以来たくさんある。ピカソの『バイオリン』やタトリンの『レリーフ』それからシュヴィッタースの『メルツ絵画』など壁に掛けられた作品は基本的には正面から見るように出来ている。ステラの『アカハラシキチョウ』や『モスポート』も同様に絵画の平面性を保っている。さまざまの形に切り抜いた板が彩色されて、壁の面に並行して重ねられている。(注1)

ところが『あかさかみつけ』は、「切り起こし」風の技法を使い、たとえば板に半円の切り込みを入れて、それを起こして、面が壁と垂直、あるいは斜めになるようにするなどの加工を組み合わせて、切り抜いた実の面と、切り抜かれた虚の面を組み合わせて、正面性のない立体を作る。そして角度の異なる面の裏表を別の色に塗っている。

そして、この立体は小さくて、しかも壁に掛けてあるので、体を移動させずに、頭を動かすだけで、見る角度を大きく変化させることができる。すると上に述べた平面的な立体絵画と違って、実の面と虚の面、裏面と表面、面と面の縁(ふち)の線の関係がさまざまに変化して現れる。

モダニズムはキャンバス平面から穴を穿つイリュージョン空間がどんどん浅くなり、ついには奥行きはキャンバスの平面に重なる。そしてさらに絵の具が盛り上がり、事物が張り付けられ、事物が飛び出してきて、上記の立体絵画になる。立体絵画はたとえ正面性があろうとも、立体であるかぎり塑像彫像とおなじようにイリュージョンは持ちにくい。抽象的なコンストラクション であればなおさらそうであり、その究極的な反イリュージョニスティックな絵画がジャッドのステンレス製の箱を壁に設置したミニマル・アートである。

このイリュージョンを持ちにくいというレリーフ・コンストラクションに「切り起こし」を思わせる技法を使って、岡崎は擬似的なイリュージョンを生んでいる。平面の板を切り起こすと、切り抜かれた面が透明な平面としてあらわれる。ボリュームもマスもない彩色された面と切り抜かれた透明の面との組み合わせ、それと、さらに視点の移動によって擬似的なイリュージョンを生み出してい る。切り起こしが、もとの一枚の板にもどろうとして、実と虚の面がズレていたり、表面のはずが裏面の色になっていたりして、ちぐはぐなイリュージョンに似た錯覚が生じているということだ。

岡崎乾二郎はたしかに欧米の美術史の文脈のなかで仕事をしようとしていることはみとめないわけにはいかない。しかし、絵画がついに壁に据え付けられた四角い箱になって、いっさいのイリュージョンを捨ててしまった今、絵画と立体のキメラをつくることにどれほどの意味があるのかは疑問ではある。岡崎理論と言うものがあるらしいが、それがどんなものであっても、展示された作品をすなおに見れば、けっきょくはちょっと面白い図画工作なのである。

注1:ピカソは『巨匠PICASSO』展(国立新美術館)、 ステラは川村記念美術館、 タトリン、シュヴィッタースは『20世紀美術探検』(国立新美術館)

『ゼロサムネイル』につづく
2010.02.02[Tue] Post 17:49  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。