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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『あかさかみつけ』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)①

東京都現代美術館に『特集展示岡崎乾二郎』を見に行った。岡崎乾二郎については、以前会田誠の『浅田批判』を論じたとき、浅田彰と椹木野衣の対談『新世紀への出発点』での「岡崎乾二郎はスーパーフラットである」という発言に触れたが、そこの部分を引用する。

 

椹木―しかし岡崎さんにしても、なかなかそういう構図に治まりにくい感じもありますよね。「あかさかみつけ」なんて、ある意味ではスーパーフラットじゃないですか。

浅田―逆に言えば、村上隆というのは岡崎乾二郎のポップ化なんですよ。

椹木―センスの違いがあるとはいえ、スーパーフラットなものに可能性があるとしたら、それは案外、岡崎乾二郎だったりするのだと思う。

浅田―まさにそう思いますよ。しかしそれがまったく国際的に評価されない。日本人の分際であいつは物を考えている、けしからん、と。

だから、そういう段階では、世界市場に勝手に勝利しているアニメやゲーム、あるいはそれらを再流用した「スーパーフラット・アート」よりも、世界の 美術史を踏まえて考え抜きながら真の意味でスーパーフラットな表現を模索している岡崎乾二郎みたいな存在を応援したくなるわけです。

この対談を読んで意味がわかる人がいるだろうか。ふたりとも岡崎が「スーパーフラット」だということでは一致しているけれど、このスーパーフラットという語でお互いに何を意味しているのか曖昧である。

スーパーフラットは村上隆のキャッチコピーであって、昔の浮世絵の平面性ではなく、漫画やアニメの平面性のことだろうが、実際にはオタクのフィギュアまで含めたポップ・ジャポニカのことであり、フジヤマ・ゲイシャの焼き直しだ。平面性といってもグリーンバーグとは関係がなく、ただエキゾチシズムとしてもてはやされているのではないか。岡崎の国際評価が低いのは、ジャポニカ風の味付けがないからで、なにも絵画の平面性を考えぬいているのが日本人の分際で生意気だと思われているからではない。

浅田彰と椹木野衣のふったりは、ポップだとかフラットとかの言葉を交換して、あたかも高級な芸術論をかわしているつもりになっている。彼らが作品を見ているとは思えない。そもそも芸術論というのは作品を見ずに作品を論じる無駄話のことで、そんなものを読んでも時間の無駄だ。作品を見てみよう。

小さな『あかさがみつけ』や『ゼロサムネイル』が壁にずらりと並べてあるのを見て最初に浮かぶ感想は小学生の図画工作の展示だ。図工の先生が、あらかじめ製作方法を説明して生徒に作らせ、面白いのとつまらないのを捨てて、平凡な作品を選んで並べれば、こんな展示になるだろう。並べてみると、それなりにおもしろい展示になっているは、その平凡さの背後に反美術的態度がうかがわれるからだ。

 『岡崎乾二郎②』へつづく
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2010.01.31[Sun] Post 21:41  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

中山正樹の『BODY SCALE』(2)

「『現代芸術研究会』中山正樹」からつづく。

中山正樹の『BODY SCALE』シリーズの真ん中の作品を見てみよう。前回に批評した作品と同じ『四角』というタイトルだ。一目見れば、レオナルド・ダ・ヴィンチの 『ウィトルーウィウスによる人体比例図』の引用だと判る。四角い枠の中で人間が両手両足を広げて枠の四隅を押さえている写真が壁に立てかけてある。そして人体の代わりに、木の枝で×印に斜交いが入った四角い枠の実物が同じよに壁に立てかけてある。

写真と実物は重なるように置いてあるので、写真の枠(図像客観)は実物より小さいことが判る。また人物が枠の中で手足を広げているので、枠(図像主題)は人物と同じ大きさであることもわかる。観者は手足を広げて、その実物の枠と自分を重ねることで、写真の人物の大きさを測ることができる。

ここでも「BODY SCALE」(人体尺度)は有効なのだが、前回のシリーズと比べると面白くない。この作品の写真は「得体の知れないオブジェ」がいったい何なのかをイラストしており、オブジェとそのオブジェの制作過程の写真と並べた一種のプロセス・アートになっている。このように記録手段として写真を使った作品は数おおくあるが、大抵はつまらないのは、知覚と想像、図像客体と図像主題の相克が露呈していないからだ。

この作品も例外ではないのだが、ダ・ヴィンチの『人体比例図』を引用したにもかかわらず、人物は服を着て後ろ向きでぜんぜん美しくないところはギャグになっていて、笑えるといえば笑えるのが救いである。『円、三角、四角』もそうなのだが、中山正樹の作品には日本の美術家にはめずらしい上質な笑いがあり、そういう意味では中山は貴重な存在である。



追記:『円、三角、四角』について言い忘れたことがある。写真と絵画の三層構造は基本的には同じなのだが、写真の図像意識は図像主題を超越して対象の実在を志向する擬似知覚の信念が生まれる。このことは知覚されている鉄枠と、「想像」されている図像主題のL字型の人物との連続を容易にする。このことについては私のHP『絵画の現象学』の中の美術評論『写真はインデックス記号か?』を参考にしてください。

2010.01.27[Wed] Post 01:19  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

「現代芸術研究会」中山正樹(1)

「現代芸術研究会」に入会した。研究会のことはいずれ報告することにして、研究会のHPに写真が載っている中山正樹の作品について感想を述べる。

左の『BODY SCALE(円、三角、四角)』を見て驚いた。写真を使ったコラージュやインスタレーションは数多くあるが、これほどみごとに「図像の三層構造」を利用したインスタレーションは初めて見る。

タイトルの「BODY SCALE」の意味は身体の物差しのことだろう。この作品(例を『四角』にとる)には基準となる身体は三つある。まずL字型に腰を曲げた人物の図像客体の大きさ。それと図像主体の人物の大きさ。図像客体の人物の大きさはプリントの大きさに比例する。キャビネ版なら人物は10センチぐらいだし、広告看板の人物なら5メートルより大きいのもある。図像主題の人物は「意味」なのだから、キャビネ版でも広告看板でも、子供なら120センチうぐらい、大人なら170センチぐらいに見える。人物ではなく、得体の知れない生き物のばあい、大きさがわかるように、比較するものといっしょに写真を撮ることがある。

この作品の腰を曲げた人物の図像客観の大きさはわからない。作品の実物ではなく、作品の写真を見ているからだ。通常は作品を見ているときは大きさの基準となる「BODY SCALE」がある。観者の身体だ。だから作品を観者といっしょうに撮れば、図像客体の大きさは判ることになる。

作品は鉄の四角い枠の欠けた左上の部分に写真がはめ込まれていて、ちょうどL字の人物が左上の欠けたところを補って四角の形を完成させている。写真に注意をむけているときは図像意識が作動し、われわれは図像客体ではなく図像主題の170センチの人物を見ている。通常の写真を見る態度である。図像意識は想像意識のなかまであり、写真の空間は観者のリアルな空間から切り離されたイリュージョンの空間である。

鉄の枠に視線を移せば、図像意識は知覚意識になる。事物を知覚すると言うことは、その事物が存在する空間と私の身体の空間が連続しているということだ。フレームの大きさは観者の身体の「BODY SCALE」で測られる。

以上は、写真と鉄の枠を別々に見ている。でも観者は写真と鉄枠を別々に見ることはない。全体を視野にいれながら、写真や枠の部分に注意を向けながら鑑賞する。フレームを知覚しながら写真へ視線を移動すると、知覚意識が持続したまま写真の物理的層があらわれ、図像客体が知覚される。プリントの大きさの人物である。この大きさは作品の実物を見なければ判らない。

反対に、図像意識で写真の図像主題の人物を見ながら、鉄枠に視線を移動させると、鉄枠はリアルさを失って図像化され、鉄枠の寸法は、観者の身体ではなく、図像主題の「BODY SCALE」で測られることになる。

『四角』のプリントは展示場の天井の高さから推測して、たぶん等身大なので、図像客体と図像主題の大きさに違いがないことになり、ということは観者の身体と同じ寸法ということになり、鉄枠は知覚されているときも、図像化されたときもあまり大きさに変化がないとおもわれる。しかし、図像化された鉄枠の実在は希薄化していることは変わりない。それに比べ、真ん中の『三角』の図像客体は『四角』の図像客体の半分以下なので、たぶん図像化された三角のフレームは身長の二倍に大きく見えると思われる。ということは、観者のリアルな身体を基準にしたときより、図像主体の「イリュージョン」の身体を基準にしたときの方が二倍大きく見えるということだ。

実物を見ていないので最終的なことは言えないが、おそらくそんなにとんちんかんな分析ではないだろう。現象学的還元という方法は、知覚しながらではなく知覚を想像しながら、知覚の本質を記述することがある程度できる。
もちろん、それが可能なのは『BODY SCALE』にコンセプチャルな側面があるからだが、しかし、おなじ写真を使ったジョセフ・コスースのコンセプチャル・アート『1つおよび3つの椅子』は見ることが不要なのとはちがって、『BODY SCALE』は見ることを要求する作品なのである。

絵画の奥行きのイリュージョンについてはしばしば語られるが、「大きさ」というものが絵画においても彫刻においても重要だということを忘れがちだ。中山正樹の『BODY SCALE』は大きさの問題だけではなく、平面と立体、絵画と写真、知覚と想像などの問題を含んでいると思われる。

注:見直していないのでわかりにくいところがあるとおもいます。わたしのHP『絵画の現象学』を読んでください。長い間放ってあるので広告が邪魔をして読みにくくなっています。そのうちブログに引っ越すつもりです。

『中山正樹(2)』へ









2010.01.26[Tue] Post 00:52  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

高村薫の「ロスコ論」

NHKの『日曜美術館』で「ロスコ」の再放送をやっていた。テーマはロスコというより高村薫だった。高村の小説『太陽を曳く馬』にはロスコやニューマンの作品が言及されている。

高村薫のロスコ論は文学的哲学的修辞なのだが、近頃の美術評論によく見られる手法なので批判しておく。以下、引用は日曜美術館のHP『この人が語る 私の愛する画家 村薫 私とマーク・ロスコ』からである。

高村はまずロスコの抽象画にはいっさいの意味が剥ぎとられているという。ここでいう「絵画の意味」とは差し当たって具象的な主題のことで、非対象絵画である抽象画には「意味」がないという。「意味が剥奪されている」とは大げさだけれど、ようするにリンゴやヌードが描かれていないということだ。

巨大な画面に赤や褐色などの少数の色が塗られただけの「ロスコ・スタイル」と呼ばれる作品たち。一切の「意味」がはぎとられ、一目みただけでは「何だこれは」と言うしかない不思議な世界である。・・・・・省略・・・・・「何も意味せず、何かの図形でもない純粋抽象」であるロスコの絵画に寄せる村の深い共感は作家としての創作のモチーフと重なってくる。「意味」から自由になること。


たしかに抽象画に具象的対象は描かれていない。しかし、抽象画にも象徴性や表現主義的な内容はある。たとえばイヴ・クラインのブルーにも象徴的意味がある。もちろん従来の図像学をそのまま適用することはできない。それは解釈されるのではなく、直感される。こういった感覚はカントの崇高からはじまっている。美が形式的な調和なのにたいして、崇高は形式を超えた数学的な大きさや力学的な強度なので、具象画より も抽象画に親和性がある。フリードリヒの風景画の崇高がニューマンのジップ絵画の崇高さになる。遠近法を失った代わりにキャンバスが大きくなる。

もちろんカントの崇高の美学が宗教的なものと結びついていたように、抽象画の崇高が宗教的な経験と解釈され、超越や神秘、さらに瞑想や悟りとなる。ニューマンも作品に宗教的なタイトルをつけ、ロスコのシーグラム壁画は、そのデザインの類似によって曼荼羅にくらべる批評家もあらわれる。

絵画鑑賞を宗教体験風に語ることは、絵画が絵画であることと何の関係もないただの言葉遊びにすぎない。カンサンジュンさんが「絵の前にたつと自分がなくなるようだ」と言うけれど、同じことが高島野十郎の『蝋燭』を見てもいえるだろう。ちかごろ、西田哲学の主客未分化の純粋経験を持ち出す哲学的な評論を目にするが、彼らは大抵は知覚と想像の区別ができていないので、絵画が「知覚に基づいた想像」であることを理解していない。絵を見ていないのだ。

高村薫は抽象画の意味を作家の深層心理に求める。作品は作家の主観の表現なのだ。

村の最新作「太陽を曳く馬」に登場する画家はみずからの住まいの壁を赤一色に塗り込める。そして彼はその作業の中で不可解な殺人を犯す。人はなぜ描き、なぜ殺すのか。難解で答えのない問いに挑む村薫。

というわけで、見ることで絵画の真理を問うべき批評が、作家の深層心理の分析になってしまう。ロスコはシーグラム壁画をテート・ギャラリーに寄贈することを決めたあと自殺する。なぜ自殺したのか。高村氏は川村美術館のシーグラム壁画を前にうろたえる。ロスコの自死の謎を解こうと言葉を探すのだが、無駄である。結局のところ高村氏は「生命の手ざわり」といい、カンさんは「安らぎや懐かしさ」(ja.wikipediaから)といい、ともにありきたりの癒し系の印象批評を述べることしかできない。

いつも繰り返していることをまたここで繰り返しておく。絵画の真理は物理的図像(Das physische Bild)→図像客体(Das Bildobjekt)→図像主体(Das Bildsujet)の三層構造のなかにある。三者のあいだの弁証法的緊張の中に現れる。高村薫氏やカンサンジュン氏の述べている表現主義的価値は絵画の真理とはなんの関係もない。このことは、同じ言葉が音楽についてもいえることで判るだろう。もちろんロスコの作品に「生命の手ざわり」や「安らぎや懐かしさ」を感じるのは間違っていると言うわけではない。そうではなく、そんな批評は絵画の面白さを理解するのに役にたたないと言いたいだけだ。

絵画の面白さを理解するには、絵画の三層構造に注意を向けてくれるような幾分かのフォーマリズム批評がひつようなのだ。スーザン・ソンタグが『反解釈』(ちくま学芸文庫)のなかで言っている。

最良の批評とは(まことに希少なものだが)、内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。


これがまさにグリーンバーグがフォーマリズム批評でやろうとしたことである。(注)


注:記事『グリーンバーグの抽象と具象』を参照
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-430.html
グリーンバーグは『フォーマリズムの必要性』の追記でいっているようにフォーマリストではない。
2010.01.19[Tue] Post 23:32  CO:0  TB:0  -マーク・ロスコ  Top▲

『アバター』 ジェームズ・キャメロン監督

旧臘、『ターミネーター4』と『エイリアン・イン・キューブ』をTSUTAYAの宅配便ではなく、GEOのレンタルで借りてみた。両方とも途中で見るのをやめた。

『ターミネーター』も『エイリアン』も監督がジェームズ・キャメロンのものが面白い。第二作の人間的なターミネーターより、第一作のターミネーターの方が悪役に徹しておもしろい。『エイリアン2』はシガニー・ウィーバーがパワー・ローダーに乗って「come on!」と叫んで戦うところはゾクゾクする。

そのジェームズ・キャメロン監督の3D映画『アバター』が劇場公開されている。ネットで予告編を見たが、なんだかデズニー映画みたいでがっかりした。3Dでみても同じことだろう。

むかし、赤と青のセロファンのメガネをかけてみる立体映画があったが、すぐになくなった。こんどの3Dは新式だというが、赤青フィルターのかわりに偏光フィルターや液晶シャッターを使っただけで、見にくいことにはかわりなく、たぶん遊園地の出し物としてしか成功しないだろう。

二枚の写真を使ったステレオ写真がリアリティのないことからわかるように、モノや空間が三次元に見えるのは両眼視差だけではない。モノが立体に見えるのは私たちの身体空間とモノが連続的な空間に存在するからだ。3D映画もステレオ写真とおなじように、映像の想像空間と観客の身体空間は分離されており、同一空間に見えるのは錯覚なのだ。フライトシュミレーターの映像は2Dで、そのかわり動揺装置で映像空間と身体空間の連続性を生んでいる。

3Dにしてわざわざ見にくくする必要はない。『007カジノ・ロワイヤル』の冒頭アクションや『インディ・ジョーンズ』のトロッコのシーンを思い出せば分かるように、面白い映画は2Dでも面白いのであって、わざわざ3Dにするひつようはない。

半世紀まえにセロファン・メガネをかけて大井金星座で立体映画の西部劇を見た。もっか冥土の土産に『アバター』を3Dで見るかどうか思案中である。
2010.01.10[Sun] Post 18:39  CO:0  TB:0  映画  Top▲

ゴジラとイチロー

鷲田康が週刊文春(2010/01/07)に『イチローと松井秀喜「訣別」の真相 』という記事を書いている。

ニョウボは松井ファンのイチロー嫌いだ。去年の松井は膝の故障で活躍できなかったけれど、ワールド・シリーズでMVPを獲得したのでニョウボは大喜びである。上京のおりにはどうやら駅の売店でスポーツ紙を買って御殿場線の中で読んでいたらしい。白髪の老婆が御殿場線でスポーツ新聞を読んでいるなんて不気味だ。『阿房列車』の愛読者がなんてことだ。

松井が表紙になっているからと言って『Number』の741号をアマゾンで買ったけれど特集号ではない、写真が少ないと怒っていた。週刊文春は新聞の広告を見て買ってきた。

長島が引退して以来プロ野球に関心がないけれど、イチローが天才の変わり者だと言うことぐらいはしっている。だから、大リーグに入っても日本から遠路はるばる取材に行っている記者のインタービューにまともに答えないと聞いても、ニョウボのようにとくにイチロー嫌いにもならなかった。

ところがイチローがたんなる変わり者ではないと思うようになった。それはヤンキースに入団した松井秀喜の人気が高まり、インタービューに丁寧に答える松井を見て、イチローが急に態度を変えたからだ。新聞記事になりそうなことを喋るようになった。あれほど嫌っていた日本のプロ野球ファンにリップ・サービスをするようになった。イヤな奴である。

そのころからイチローは大リーグ引退後に日本のプロ野球界のボスになる野望を抱き始めたのだろう。幸い、松井は日本球界とは縁が切れている。かわりに俺がボスになる。天才だものイチローにはそのぐらいの資格はある。そのことは勝手にやればいい。松井をおとしめてまでやるのはやっぱり卑劣ではないか。

週刊文春の鷲田康の記事によれば、05年のシーズン終盤に共通の知人をかいしてイチローから松井に「この大会(WBC)が本当に世界一を決めるものなのか、不透明な部分が多いし、簡単に参加を決めない方がいい。少なくとも出場するかどうかは、二人で歩調を合わせて決めよう」と言うメッセージが届く。このメッセージのことは知らないが、当時イチローははっきりとしない態度を取っていた。松井の方はあきらかに大リーグのレギュラーシーズン第一で、WBCは出たくないという雰囲気だった。

結局はイチローは出場し、松井は辞退した。そしてイチローはキューバ決勝前夜、王監督主催の決起集会で、「出なかったヤツらを見返してやろうぜ!」と異様なハイテンションで叫んだそうだ。もちろん松井にたいする当てこすりだろう。松井はそれ以来チームが対戦するときにイチローに挨拶にいかなくなった。

松井はジャイアンツとは縁を切っている。大リーグに行くとき渡辺社長とは喧嘩している。多摩川では練習をしない。背番号55は大田に譲られた。それに比べ、イチローは渡辺社長にすり寄った。WBCで韓国に敵意をむき出しにして、日の丸を掲げた。そして今回の「ジャイアンツ球場で自主トレ」の報道である。若手選手のコーチまで頼まれたという。

ひとつ分からないことがあった。星野仙一が第2回WBCの監督の第一候補になったとき、イチローが「WBCはオリンピックのリベンジの場ではない」と言って、事実上星野案を潰したことだ。たしか星野は将来はジャイアンツの監督という含みで、渡辺社長が強くWBCの監督に推していたのではなかったか。

しかし、これで理由が分かった。星野監督案は潰したけれど、かわりに原が監督になっている。だから、渡辺社長の機嫌をそこねることはなかったのだ。イチローはおそらく全日本の候補選手の星野嫌いを知ってあのような発言をしたのだろう。それで若手の信望も得て、すべてがうまくいったのだ。星野と松井を追い落とし、ジャイアンツ球場で若手を指導してイチローにはもはや敵なしである。テレビは連日イチローのはしゃいでいる様子を伝えている。唯一のリスク要因は渡辺社長の寿命だろう。

いま、隣の部屋でネットを見ているニョウボが何か言っている。なんでも、イチロウーが松井の打席でマウンドに立たしてもらうようにワカマツ監督に打診したらしい。この発言を記者に伝えられた松井は、「僕もイチローさんの打席でマウンドに立ちたいです」と答えたそうだ。どうやらこの勝負はイチローの勝ちのようだ。

いま、イチローはもう一人の一郎と同じように絶頂にある。だれも止めることはできない。

2010.01.08[Fri] Post 17:40  CO:2  TB:1  ニョウボ  Top▲

『東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン~』 松岡錠司★

松岡錠司はこの映画で第31回日本アカデミー賞(2008年)最優秀監督賞を受賞したということだが、退屈なあまり途中で見るのをやめた。マルチタレントとして成功した美大生の自慢話にしか思えなかった。

読んではいないのだが、たぶんリリー・フランキーの原作は自慢話にならないように書いてあるのだろうが、そういう配慮が映画化するとかえって自慢話になってしまうのではないか。

たとえば内田百には自慢話のようなところがひとつもないけれど、ボケ気味の黒沢明が映画化すると自慢話になるようなものかな。
2010.01.07[Thu] Post 16:13  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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