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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『復讐・運命の訪問者』★・『アカルイミライ』★☆黒沢清監督

『復讐・運命の訪問者』(前編)が『復讐・消えない傷痕』(後編)と同じ監督の作品とは思えない。前編がつまらないのは、シナリオが黒沢ではなく、高橋洋だからか。どちらにしろ黒沢清の前編と後編では映画の撮り方がまったく違うのだ。ネットを調べたけれど、『運命の訪問者』の批評はほとんどなかった。

『アカルイミライ』はどうしようもない映画だ。ムカツイたりキレたりする若者の話だろう。ムカツイたりキレたりするのは構わない。でも、「深い意味なんかないんだよ」式の解釈を要求する思わせぶりが多すぎる。そう思うのは映画を愛していないからだというだろう。たしかにそうだ。主人公にはまったく感情移入ができない。まるで三面記事を読んでいるように退屈だ。

唐揚げが小さいというのも、クラゲ川いっぱいに流れていくのも、アンテナを壊すのも、面会室の階段も、白いシャツを着たチーマーの行進も、どれもわたしには魅力を感じない。たぶん斉藤環や宇野常観ならうまい解釈を見つけてくれるのだろう。しかし、いくら内容を深く解釈しても表層の形式に魅力がなければ映画は退屈だ。

DVDを返却する前に、もしかしたらと面会室の階段を数えてみたらやっぱり13段だった。もちろん何の意味もないけれどね。


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2009.12.23[Wed] Post 23:03  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『復讐・消えない傷痕』黒沢清監督★★★★

冒頭、覆面の一団が川べりに浮いた小屋の見張りを拳銃で撃って、何か大きな白い箱を奪って、駐車してあるワンボックスの車に載せて走り去る。その間、カメラは反時計回りに180度ぐるりと回転して、静止したカメラのフレームの外に車が走り去るまでの長回しだ。なかなかの職人技で、無理なフレーミングは一つもない。

拳銃の音がまるで運動会のスタートピストルのようにパン・パンというのはなんとかならないものかと思うのだが、撃たれた方も子供の西部劇ごっこのように倒れるのを見ているうちに、黒沢ワールドに引き込まれていく。

『トウキョウソナタ』では、母親が働かないのはおかしいとか、三ヶ月でドビッシーが弾けるわけがないとか、劇中劇はきらいだとかさんざん文句を言っていたニョウボも、『復讐・消えない傷痕』は気に入ったらしく★四つだそうだ。気に入ったのは、冒頭の長回しのところ、オープンカーで町中を走り回り、吉岡が段ボール箱にワザとぶつかるところ、温泉に行って吉岡と安城が石を投げて桜の木に当てっこするところ、それから小笠原を殺すのを邪魔しようとする愛人文江を何度も引っ張っては襖にぶつけるところ、2度目に行ったときにまた現れた文江を簡単にパンと撃ち殺してしまうところなど、やってることがガキっぽくてゴダールみたいで気に入ったそうだ。

わたしが気に入っているところは、服飾学院の生徒の美津子が課題の背広を作るために安城にモデルになってもらい採寸するところだ。死んだ女房に義理立てしてか他の女を避けている安城は自分の部屋ではなく、公園に行って採寸してもらう。胴囲、裄丈、股下、渡り幅、首回りとはかっていくのだが、カメラは安城の顔を写さない。安城の背中や手のアップ、足の間から美津子の顔だけが見える。もちろん美津子は安城に好感を抱いている。

このシークエンスで、おそらく問題になるのは、木の枝が風に揺れて葉叢がざわめくカットが挿入されていることだろう。もちろんこれは安城が殺された女房のことを思い出して復讐の念を新たにしているということだろうが、このカットがなくても安城の妻への思いは軽く握った拳にあらわれてはいないだろうか。それとも、風に揺れる枝のカットがなければ、安城の事務的ともいえる静かな復讐行為の奥にある激しい怒りはあらわせないような気もするし、ちょっと古臭い象徴的映像のような気もする。

男の友情をえがくのが映画だと勝手に思っているのだが、その意味ではこの映画は安城と吉岡組長の奇妙な友情を描いた正統的な映画である。そして美津子の採寸のシーンや、最後に安城が死んだ吉岡のオープンカーに乗って走り去るのはちょっとしたパロディになっているのかもしれない。

そうそう忘れていた。ニョウボが好きなシーンがもう一つあった。。吉岡組が誰かの息子に焼きをいれるシーンがあるのだが、レンガで顔をしっかり殴れない子分に、組長が「この(レンガの)角っこやれ」と指示するところが面白かったそうだ。

『トウキョウソナタ』黒沢清監督★★★☆の記事へ

2009.12.16[Wed] Post 23:18  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『トウキョウソナタ』黒沢清監督★★★☆

黒沢清の映画は、大井武蔵野館で見た『ドレミファ娘の血は騒ぐ』が初めてだった。映画通たちが絶賛していたけれど、わたしにはどこが面白いのかわからなかった。

黒沢清の名前は現代思想系の雑誌でよく見かけるようになったが、興味がなかった。『トウキョウソナタ』はカンヌ映画祭の『ある視点』賞を受賞したと言う事で、TSUTAYAの宅配で借りた。テンポが遅いのは、たぶん「フィルムの官能性」というよりも「フィルムの暴力性」ではないかと思えるのだが、それでも、そう覚悟してみれば、それはそれでまたひとつの映画の楽しみ方なのかもしれない。

冒頭のシーンからして、違和感がある。テーブルから新聞が風で舞い上がり床に飛んで落ちる。居間のガラス戸が開いていて、天気雨の雨が吹き込んでる。小泉今日子が濡れた床を雑巾でふいて、いったんガラス戸を閉めるのだが、また、開けて、雨に顔を濡らす。これからのこの家庭で起こることを暗示しているのだろうが、なんだかなぁという感じ。こんな感じが最後までつづき、なかなか映画を楽しめない。異化作用といわれればそうかもしれない。それでも不思議に記憶に残るシーンがたくさんある。

どこが面白いというのか、ためしに「トウキョウソナタ 批評」でググって見たら(12/5現在)、上位6位までに三つのブログに以下の文章があった。

*この映画にはロングショットがほとんどない。黒沢清の映画にロングショットが無い、という信じられない事実に我々はどう対処すれば良いのか。(映画研究塾 2位)

*映画史上、既に名匠の一人として稀有な創作能力と実績を持つ映画作家であっても、「トウキョウ」の一語を冠するタイトルを持つ作品を作るとなれば大いなる覚悟が必要である。ましてその作家が日本人であり、かつその新作がホームドラマであるというならば。(飄々批評宣伝 5位)

*取ってつけたような役所広司の強盗の役回りはただただキョンキョンをこの海に連れ出すためだけであるかのようだ。(佐藤秀の徒然幻視録 6位)


蓮實重彦の劣化コピーとまでは言わないが、おそらくかれの影響を受けたブロガーたちだろう、『トウキョウソナタ』に高い評価を与えている。「役所広司の役回りはキョンキョンを海に連れ出すためだけだ」という佐藤氏の指摘にたいし、映画研究塾さんが同じことを、「役所広司というマクガフィンに家の外へ連れ出された妻」と表現している。たしかに、この役所広司の強盗には違和感を持つ人が多いだろう、1位と4位のブロガーがこのシークエンスを批判している。

*佐々木の家に忍び込んだ泥棒(役所広司)と佐々木の妻(小泉今日子)のストーリーはなんで急にこんな唐突な話をいれるんだろうという不信感が噴き出す。この取って付けたようなエピソードはなんなのだ?(Lacroix 1位)

*役所広司演じる強盗が出てきた瞬間からこの映画は完璧にぶっ壊れてしまう。全く修復不可能なほど。ストーリーも完全にストップ。(東京漂流日記2.0 4位)


かくのごとくGoogle検索の上位で意見が割れているけれど、「映画美学」からみれば、あきらかに、あとの二人の批判は的外れである。もともと黒沢清監督はそういうふうに作っているのだ。これは一種の白昼夢になっており、小泉今日子が白馬にまたがった王子様に助けられるという夢が叶えられなかったという、いわば劇中劇だ。この劇中劇は、夫がトイレで拾った大金を着服しようと思うけれど、結局遺失物BOXに返却する逃走劇と平行している。劇中劇だということは、小泉今日子と役所広司が桟橋で芝居がかった台詞回しをすることでもわかるだろう。(注)

だからと言って、この役所広司の強盗のシークエンスが「官能的(ソンタグ)」かどうかはまた別の問題である。ストーリーをストップさせるとか唐突だとかいう言い分にも理はゼロではないだろう。映画技法などの形式批評もまたジャルゴン化する恐れはある。

もちろんジャルゴンがわるいのではない。悪いのはジャルゴンのために作家が作品を作りはじめることだ。そのけっか作品は批評家と作家の共同制作になる。この現象は、映画より早く現代美術でおきたのだが、それは、美術にはコレクターという芸術の投資家がいたからで、それに対して、映画は長いあいだ娯楽のままであり、面白くなければ観客を動員できなかったから、なかなか芸術になれなかったのだ。

映画は高級文化ではなく大衆文化のものと見なされてきたために、頭でっかちの連中からかまわれずにすんだのだ。(『反解釈』ソンタグ)

ところが形式批評が映画を芸術にした。芸術になれば、観客を動員しなくても映画が作れる。世界中の映画愛好家が集まって支えてくれる。賞も貰える。補助金もでる。雑誌が特集を組む。大学に映画学科ができる。教授になる。学生が映画を研究する。そして、現代アートと同じように、自分の作品を自分で論じる監督が誕生する。

北野武の『監督・ばんざい』はそのことを自虐的に描いた映画だが、もちろん成功したとは思えない。映画はいま自己言及性という遅れてきたモダニズムの苦しみを苦しんでいるということではないか。

役所広司の強盗のシークエンスは、三谷幸喜風のところがあるが、それでも、小泉今日子が「もう帰れません」といって、車をオープンにして走りだすところや、仰向けになって波に洗われているのをクレーンで真上から撮るショットや、浜辺で朝日に顔が照らされるシーンはとても美しいと思うけれど、どこか取ってつけたようなチープな感じは否めない。

『トウキョウソナタ』の評価はともかく、黒沢清が北野武とは比較にならないほどの才能の持ち主であることはわかった。これも上記の三人のブロガーのおかげである。

注:帰宅した夫の作業服や顔が汚れているのに、妻の服装は乱れても濡れてもいない。帰宅した家は強盗に荒らされた跡がない。

『復讐・消えない傷痕』黒沢清監督★★★★の記事へ
2009.12.08[Tue] Post 01:26  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『DEATH NOTE』大場つぐみ原作

「ブックオフ」で『デス・ノート』を一巻から十巻まで買ってき読んだ。前回、買いに行ったときは見つけられなかったので、今回は店員に場所を訊いた。漫画を読むなんて久しぶりだけれど、3時間かけて読んだ。

取り立て感想はない。映画版は、キラの藤原竜也の魅力が生かされていなかったが、Lの松山ケンイチのキャラが楽しめた。漫画版はキラもLも魅力がない。Lの目の回りにクマができているのには興ざめである。

宇野常寛は九十年代の古い想像力を代表する主人公は『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジで、ゼロ年代の新しい想像力を代表する主人公は『DEATH NOTE』の夜神月だという。「いじけて引きこもる」碇シンジに「受け入れて立ち上がる」夜神月が対照されているわけだ。

いったい「サブカル批評」はこんなことばかりやっているのだろうか。漫画に人生論なんていらない。面白かったら面白いところを、つまらなかったらつまらないところをきちっと教えてくれるのがサブカル批評の役目ではないか。

というわけでいくつか感想を述べておく。まず、Lがキラと相打ちの形で死ぬ映画の結末のほうが断然面白い。悪を倒すために自分の命を犠牲にしたのだが、それは女子供でも(もちろん差別してます)できる自爆テロではない。死神を欺くための賭なのだ。それも賭に勝とうとも負けようとも、自分は確実に死ぬ賭なのだ。この賭はLの強さであって、弱さではない。

サブカルチャーは強いだけではヒーローになれない。正義の味方であるにこしたことはないが、それだけでもヒーローの資格がない。ヒーローになるには、安心感がなければならない。はらはらどきどきさせてはならない。こいつが現れると、何となく観客がほっとする。こういう映画のヒーローに例えば『アンタッチャブル』のショーン・コネリーがいる。

もちろんカポネ役のロバート・デ・ニーロに、俳優として位負けしないと言う意味ではない。ショーン・コネリーが演ずる老警官の死を覚悟した知恵と身のこなしが、観客に心地よい安心感を与えてくれるということだ。そう言う意味では、映画でLを演じた松山ケンイチはみごとにヒーローを演じている。それにくらべ、漫画のLもライトもヒーローではない。

漫画で安心してみていられるヒーローといえば「ゴルゴ13」だろう。ヨツバの役員のなかにいるキラを始末するためにミサの「色香」を使うのは、いかにもベタで、面白くない。それより、ヨツバに狙われたELF保険会社の重役がゴルゴにヨツバの内部にいると思われるキラの殺人を依頼するほうが、ずっと面白いだろう。ヨツバの役員七人があつまった会議中にゴルゴが隣のビルから、狙撃する。もちろん、そのまえに誰がキラかわかるような仕掛けをしておくのだ。

漫画版がつまらないのは、何よりも話がだんだん複雑になってきて、つじつまを合わせるために、「DEATH NOTE」の使用規則がどんどん増えてくることだ。しまいに死神にもいろいろ掟があって収拾がつかなくなっている。漫画なんだからもっと楽しくわくわくさせてほしい。

それにしても、サブカル批評家は、根拠がないとかトラウマだとか、あるいはセカイ系だ、決断主義だ、ヒキコモリだ、データベース消費だ、動物化だと、神学論争に熱中していったい何をいいたいのだ。でも、こんなことぐらいでは驚かない。美術評論なんてもっとヒデェんだから。
2009.12.03[Thu] Post 22:51  CO:0  TB:0  漫画  Top▲

『1Q84スタディーズ BOOK1』 JAY RUBIN 若草書房

小谷野敦の『村上春樹は私小説をかくべきである』を読むために購入した。小谷野氏の『ノルウェーの森』論は『反=文芸評論』をアマゾンで買って読んだ。小谷野氏による村上の「悪口」には異論もあるが、おおむね納得できる。

ほかの「村上本」を図書館で借りて、いくつかの村上春樹論を読んだけれど、なるほどと思ったのは内田樹のものだけだった。内田氏は村上文学の世界性は父が登場しないことだというのだが、たしかに村上文学のデタッチメントな感覚はそういうところから来ていると言える。しかし、その父の不在が否定神学的論理によってサブカル批評になる恐れもある。

『1Q84スタディーズ BOOK1』にもサブカル批評とおもわれるものがある。井桁貞義はロシア文学、なかんずくドストエフスキーと比較することで、また、酒井英行はフェミニズム批評を適用することで、「物語の構造」を見つけては、そこに作者の意図や主張を読みとるというまったくのサブカル批評の手法になっている。

もともと村上自身がドストエフスキー的テーマやフェミニストの視点を取り込んでいるのだから、それを見つけたと言っても何の自慢にもならない。村上はさまざまな人物がそれぞれの物語を持ち寄る「総合小説」を書きたいというのだが、『1Q84』はむしろシミュレーショニズム(椹木野衣)で書かれたサブカル文学で、リーダーと青豆の対決にしろ、シングル・バーのマンハントにしろ、パロディーというより出来の悪いギャグとしか思えない。

それに比べ小谷野敦は村上の寄せ集めた「物語」にはだまされない。小谷野は物語の表層にとどまる。構造を探らない。そして引用されたものではなく、引用されなかったものから村上を理解しようとする。小谷野は村上がファンタジー物語をシミュレイトすることで、自分のリアルな物語を隠しているのではないかと推測している。

そう言うわけで、小谷野は村上が自伝小説、私小説を書くべきだというのだ。

小谷野敦は天吾がふかえりのパジャマの匂いを嗅ぐ場面に触れているのだが、いかにもエエカッコシの村上春樹としては違和感があった。小谷野氏は田山花袋の『蒲団』に比しているのだが、これが村上の私小説的な側面なのかどうかは私にはわからない。でも、小谷野敦の言うとおりなのだろう。そうでなければ、この唐突な感じは理解できない。
2009.12.01[Tue] Post 16:40  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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