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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『グラン・トリノ』のヤノヴィッチ神父

この映画がなんとかばらばらにならずに済んだのは、クリストファー・カーリー(ヤノヴィッチ神父)のキャスティングだろう。赤毛でそばかすのアイルランド人で知られているということだが、これが彼の初めての映画出演である。

神学校を出たばかりで、生のことも死のことも何もしらないとウォルト(クリント・イーストウッド)に悪態をつかれるのにぴったりのキャスティングだ。その見るからに愚鈍そうなむくんだ容貌が、あまりうまいとは言えないクリント・イーストウッドの悲しみと怒りの表情を名演技に見せている。

近ごろの助演賞はどうも主役をくってしまうような演技に与えられるようだけれど、クリストファー・カーリーはちゃんとイーストウッドを引き立てていた。なぜ一つも賞をもらわなかったのだろう。演技ではなく、素地のままだとおもわれたのだろうか。
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2009.10.31[Sat] Post 22:33  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『グラン・トリノ』クリント・イーストウッド監督★★★★★

ネタバレ注意!

久しぶりに映画を見て泣いた。

ギャングたちにレイプされたスーが帰ってくる。それを見たウォルトは黙って自宅に帰り、台所の戸棚を拳で壊す。ひとりで暗い居間のソファーに座っていると、涙が右の眼から一筋落ちる。ダーティー・ハリーが涙を流すなよと思ったけれど、もちろんこんなところで僕は泣きはしない。

そこへ神父がやってきて、二人で話す。ウォルトが神父に君がタオだったらどうすると訊く。神父は「私がタオなら復讐する、あなたと一緒に奴らを殺します」という。ここでも我慢できた。

そのあと、ウォルトは神父にビールを勧める。これまでも薦められたことがあったけれど、神父は断っている。でも、このときは神父は飲むと答える。このあたりでちょっと涙腺があぶなくなった。

神父は後ろにあるクーラーからビールを出して、二缶をウォルトに渡す。ここまでは我慢できた。そして、自分のためにも二缶だして、一つをテーブルにのせ、もう一つの缶のプルリングをあける。ここで涙があふれてきた。かってこんな真情あふれるシーンがあっただろうか。

あとは、背広の仮縫いに行き、床屋でひげを剃ってもらい、懺悔をして、タオを地下室に閉じこめて一人で復讐に行く。涙が流れないように瞬き(まばたき)をこらえた。

笑えるところもある。何十年ぶりに懺悔に行き、くだらないことを懺悔するが、朝鮮戦争で子供を殺したことは懺悔しない。そのことを知っている神父は懺悔をうながすのだが、ウォルトはさっさと懺悔聴聞室を出て行ってしまう。神父はあっけにとられている。ウォルトは女房の願いを叶えるために懺悔にきたのであり、神を信じているわけではない。ウォルトの遺言書には家屋を教会に寄付すると書かれていた。

それなのに、ウォルトはモン族のギャングに一斉射撃されて地面に仰向けに倒れると、大の字ではなく、両足を閉じ、両腕を広げて十字架のように倒れる。そうしたら、袖口からながれる血が右の手のひらを伝わって流れ落ちた。聖痕である。やりすぎだろうと笑ったら、涙がぽろぽろ落ちた。
2009.10.28[Wed] Post 00:54  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『そして、私たちは愛に帰る』ファティ・アキン監督(2)

『そして、私たちは愛に帰る』ファティ・アキン監督(
上記のブログ記事を読んでから下のドイツのテレビ放送を見てください。





この映画『そして、私たちは愛に帰る』が政治的な意図を持った映画だとは気づいていたが、これほど非道いとは思わなかった。ネオ・ナチによるトルコ人迫害ばかりではなく、トルコ人によるドイツ人いじめも隠していたのだ。これではメロドラマどころか、まるで人権平等教のプロモーションビデオだ。

ガストアルバイターという名の外国人労働者は、トルコ人だけではなく、スペイン、イタリア、ギリシャからも来ていた。この三国はEUに加盟したけれど、トルコは未加盟である。もちろんトルコはイスラム教国であり、キリスト教の三国とは宗教的な違いもある。そんなこともあってかトルコほどの問題は生じていないようだ。

同じEU加盟国でも東欧のキリスト教国からの移住労働者もまた別の問題を生んでいる。詳しくは調べてみるが、移民問題の失敗は、文化的な問題を人権平等主義イデオロギーで解決しようとしたことにある。多文化主義も同化政策もともに人権平等主義イデオロギーに根ざしたものだ。

今必要なのは穏健なる排外主義であり、「百年の鎖国」なのだ。
2009.10.22[Thu] Post 12:52  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『ダークナイト』 クリストファー・ノーラン監督★☆

何が何やらちんぷんかんぷんのうちに終わってしまった。ジョーカーが悪者でバットマンが正義の味方という予備知識を頭に入れて、どっちがどっちか間違わないように注意して見たけれど、話が複雑過ぎて結局何もわからなかった。

『スターウォーズ』も善と悪の戦いが描かれているらしいのだが、なにが善でなにが悪なのか、冒頭のナレーションを何度聞いても、ただそう決まっていると言うだけで、結局、お姫様がいる方が正義だと言うことぐらいしかわからなかった。

ところが斎藤環氏が『VOICE+』の「『虚構』は『現実』である」というエッセイで『ダークナイト』の悪の分析をしている。

1980~90年代のハリウッド映画には悪しき「心理学化」(もしくは「心理主義化」)があった。人はトラウマゆえに怪物化 し、悪をなす。どんな悪者も、その根拠となるトラウマを隠しもっているという考えだ。しかし、そういう心理主義化は近ごろあまりみられなくなったと斎藤氏はいう。

たとえば、『羊たちの沈黙』のレクター博士は、完全な知性をもちながら、まったく内省を欠いた存在であり、彼の「悪」には根拠というものがない。それゆえレクター博士には「ためらい」が存在しない。これは言い換えるなら、「内省」と「根拠」を欠いた存在は、その存在自体が「悪」だと言う。

しかし、『ダークナイト』でジョーカーが耳まで裂けた口の由来を告白し始めたとき、また心理主義化ではないかと厭な予感がしたけれど、結局、そうではなかったと斎藤環氏はいう。

第1の「告白」でジョーカーは、子供のころの凄惨な思い出を語る。酒乱の父親が母を刃物で刺し殺し、その場で自分も父親に口元を裂かれたのだ。しかし第2 の「告白」では、話がまるで違う。その傷は、借金がかさんで身も心も傷ついた妻を笑わせるために、自ら切り裂いてみせた、というのだ。一体、どちらが真実 なのか。
  もちろん、どちらもデタラメだ。強いていえば、ジョーカーはここで、自らの悪意がちゃちなトラウマなどに根拠づけられるものではないことを高らかに宣言しているのだ。
  実際、ジョーカーには根拠がない。彼には指紋やDNAのレヴェルに至るまで、あらゆる過去の痕跡がない。彼には世俗的な欲望すらない。自ら金にも権力にも 興味がないとうそぶき、札束を積み上げて火を放ちさえする。彼が望むのは、人々が--とりわけバットマンが--その良心ゆえに葛藤し、苦悶する姿を眺めることのみ。これほど純粋に無根拠な悪が、かつて描かれたことがあっただろうか。少なくとも、ハリウッドのメジャー大作では前例がないように思われる。


ここで斎藤氏は大げさな物言いをしているが、悪を心理学化するかわりに神学化をしている。悪が無根拠ならば善もまた無根拠であり、根拠がないということは自由だということだ。善と悪は相対化され、気まぐれと偶然に犯される。暴君『カリギュラ』は気まぐれで人を殺し、気まぐれで人の命を助ける。

斎藤環は「これほど純粋に無根拠な悪が、かって描かれたことがあっただろうか」という。無根拠な悪は狂気である。ジョーカーの自我は崩壊しているのか。そうではない。たしかにかれの告白はデタラメだ。しかし、デタラメにも意味があることを発見したのはフロイトだ。ジョーカーは相変わらず神経症的な世界に住んでいる。

札束を積み上げて火を放ったからといって世俗的な欲望がないとか、自ら金にも権力にも興味がないとうそぶいたからといって、そのまま信じてはいけない。精神科医であれば常識であろう。斎藤環氏は、神経症だけではなく、統合失調症もまた了解可能であることを、ラカンに学んだという。無根拠な悪とは了解不能な悪であり、それは善と同じように、過去の経験(トラウマ)によって説明することはできない、人間の自由な投企なのだ(サルトルですw)。

この映画は善悪の相対性や悪の無根拠性を描いているのだろうか。私にはただ神経症の症候を並べただけの破綻した物語にしか思えなかった。

【追加】 コーエン兄弟監督の『ノーカントリー』に殺すか殺さないかをコインの裏表で決めさせる殺し屋がでてくる。もともとは、奪われた麻薬の代金を取り戻すための殺人だったのが、そのうち殺人そのものが目的になる。金を横取りした男に金の在りかを言わなければ殺すと脅し、殺してしまったら金の在りかが判らなくなるにもかかわらず、自白しないからと言って殺してしまう。そしてその男の女房を殺しに行った殺し屋は、いつものように、コイン投げで決めようと提案するが、女房は拒絶して、「殺すか殺さないか決めるのはあなただわ」というのだ。それで殺し屋は、コイン投げずに、女房を殺す。それは女房を殺すと夫に約束したからだというのだ。根拠のない悪は善に近づく。
 『海辺のカフカ』に出てくる猫殺しのジョニー・ウォーカーは、楽しみのためではなく、猫の魂で音の聞こえない笛を作るために猫を殺す。もう猫を殺すことに飽きたけれど、これは決まりだからやめるわけにはいかない。自殺も許されていない。このシジフォスの苦役から自由になるために猫探しのナカタさんに殺してくれと頼むという話がでてくる。
2009.10.21[Wed] Post 01:53  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『ザ・シャウト/さまよえる幻響』 イェジー・スコリモフスキー監督★

こういう映画はなかなか楽しめない。呪術とか超能力とか奇跡とか、そういうものを信じたくなるものがわれわれの心の中にあることは認める。しかし、そう言うものが映画というリアルなメディウムで描かれても、カルトの超能力を見せられたようでなんともしらけるばかりである。こんなものが人間の隠された原始心性だなんて言わないでくれ。
2009.10.14[Wed] Post 23:35  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『アフタースクール』 内田けんじ監督★★

けっきょく最後まで分かったような分からないような判然としない気分で見おわった。出だしからして、常盤貴子の子供の父親が大泉洋なのか堺雅人なのかわからない。と思っていたら、どちらでもないことがだいぶ後になってやっと判った。常盤貴子のアパートにうろうろしている変な男たちが刑事だとはしばらく判らなかった。

どうも、近ごろ俳優の顔と名前を憶えられないので、登場人物の区別が容易ではない。着るものが変わったり、表情が違うと誰が誰だか判らなくなる。最初に出てきたポルシェの神野と学校教師の神野は似ているのでどっちがどっちか判らないとしばらく思っていたら、同一人物だった。

それに、シナリオがわざと混乱するように書いてある。やくざものマフィアものの定型を使って誤解するように仕組んである。まあ、前半は妊婦の陣痛騒ぎなど昭和のドタバタ劇を見ているようで退屈なのだが、後半はそれでも何とか見ていられる映画になっている。ともかく、老人には不親切な映画だ。

先日見た『4 Months, 3 Weeks and 2 Days』もシチュエーションの曖昧なまま進行していくが、主な登場人物が三人で、俳優の顔も区別できる。会話にもわざと混乱するような仕掛けはないので、映像に身をまかせることの快感に浸ることができる。『アフタースクール』はドタバタとメロドラマがうまくかみ合っていないので、チグハグなまま終わってしまう。

最後の方の教室での探偵と教師の対決の場面はギャグなのかマジなのか判らない。たぶんこの映画は探偵と神野の騙しあいではなく、神野と木村の友情を主題だったはずが、そうならなかったのがこの映画の最大の失敗である。

それに常磐貴子の演技が下手なこともあって、恋と友情の三角関係が台無しになっている。

内田けんじの評価は前作の『運命じゃない人』を見てからにする。
2009.10.14[Wed] Post 10:40  CO:0  TB:0  映画  Top▲

麗子と直子の不感症

『ノルウェイの森』の直子も三島由起夫の『音楽』の麗子も不感症である。直子は性交痛をともなった不能であり、麗子は性交可能であるがオルガスムを得られない。

『音楽』は精神科医汐見と不感症の患者麗子をめぐる物語である。作者の三島由紀夫は精神分析を研究しており、患者の麗子も精神分析の知識を持っている。そういうわけで、汐見と麗子は作者三島の操り人形になって精神分析ごっこをすることになる。教科書どおり転移現象などもあって、めでたく麗子の不感症の理由が判るという、ちょっと出来の悪いパロディ風の娯楽小説になっている。

いささかリアリティに欠けるとしても、麗子はいちおう治癒し、オルガスムスを得られるようになるが、それに比べ『ノルウェイの森』の直子の不感症は最後まで謎のままだ。東京でワタナベと再会してからの直子は離人症的なところがあるように描かれているけれど、他方では直子の誕生日に一度だけ挿入ができて、ワタナベは「それまでに聞いたオルガズムの声の中でいちばん哀し気な声」を聞くのだ。

直子の病が器質的なものであれば、その心理的な理由を探ることは無意味なことだけれど、一度はワタナベとのセックスに成功するのだから、直子の不感症は心理的なものだとも考えられる。以下、療養所でのワタナベと直子の会話。

「どうして私濡れないのかしら?」と直子は小さな声で言った。「私がそうなったのは本当にあの一回きりなのよ。四月のあの二十歳のお誕生日だけ。あのあなたに抱かれた夜だけ。どうして駄目なのかしら?」
「それは精神的なものだから、時間が経てばうまくいくよ。あせることないさ」
「私の問題は全部精神的なものよ」と直子はいった。「もし私が一生濡れることがなくて、一生セックスができなくても、それでもあなたはずっと私のこと好きでいられる?ずっとずっと手と唇だけで我慢できる?それともセックスの問題は他の女の人と寝て解決するの?」(下巻P185)

おかしなジレンマである。好きだということは相手に欲望を持つということだ。ワタナベは直子に欲望を持っている。しかし、直子は性交不可能だから、手と唇で満足する。他方、直子は濡れないのだから、ワタナベくんに欲望を感じていない。それなら、好きでもない相手に「性的サービス」をするのはなぜか。直子が言うとおり、ただ、自分が死んでも、自分のことを忘れないで欲しいだけなのか。それとも愛があるからなのか(w)。

もちろん精神的な愛もある。欲望があっても不能ということもある。直子は「私の問題は全部精神的なものよ」と言う。しかし、はっきりした理由は判らない。ただ、直子は「私はただもう誰にも私の中に入って欲しくないだけなの」といって自殺してしまう。直子の姉も自殺している。直子の父親は、自分の弟も自殺しているので、姉娘の自殺は遺伝的なものかもしれないといっている。

直子の不感症は心理的なものでも生理的なものでもなく、存在論論的不感症だと言えばもっともらしいが、統合失調症としか思えない。そう思ってワタナベと直子が初めて寝る日のところを読み返して見ると、村上は明らかに直子を統合失調症として描いている。

 直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことや、学校のことや、家庭のことを彼女は話した。どれも長い話で、まるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気なりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるBの話なり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもどこまでもつづいた。終わりというものがなかった。(上巻P81)

直子は四時間以上ノンストップでしゃべりつづけ、そして彼女の話はどこかでふっと消えるようにおわった。直子の話は隠喩的ではなく、換喩的だ。

 直子は唇をかすかに開いたまま、僕の目をぼんやり見ていた。彼女は作動している途中で電源を抜かれてしまった機械みたいにみえた。彼女の目はまるで不透明な薄膜をかぶせられているようにかすんでいた。(上巻P84)

疎通性障害の表情である。統合失調症が人と人との情緒的コミュニケーションに齟齬を来すとすれば、エロティックな関係にも影響を与えるだろうことは想像できる。しかし、村上春樹は内面描写はしないので、それはどんなものなのか分からない。

ワタナベは直子が精神を病んでいるのを知りながら、フェラチオをしてもらい二度目の射精をしたあと、とんでもないことに、直子の下着の中に手を入れて濡れているか調べるのだ。これでもワタナベくんはやさしいと言い張るのか。

服を着てからワタナベは言う。

「それから君のフェラチオすごかったよ
直子は少しあかくなって、にっこり微笑んだ。「キズキ君もそう言ってたわ」
「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」と僕は言って、そして笑った。(下巻P186、強調:安積)

やれやれ、と言いたくなる。最初読んだとき、強調文字にしたところを「すごくよかったよ」と間違って読んだので、ワタナベが「ずっと手と唇だけで我慢できるよ」という意味で直子に言ったのかと思ったけれど、よく見たら「すごく良かった」ではなく「すごかったよ」だった。いったいヴァギナが濡れない女のフェラチオを「すごい」って、なにがどういう風にすごいのか。こんなことを不感症の女にいうことがやさしさなのか。キズキとのセックスを当てこすったとしか思えない。

ところが、直子も負けてはいない。にっこり微笑んで「キズキ君もそう言ってたわ」と挑発に乗ると、さらにワタナベが調子に乗って「僕とあの男とは意見とか趣味とかがよくあうんだ」という。キズキは、直子の不感症が原因かどうかわからないけれど、自殺している。そして、キズキの自殺が直子の発病の原因ではないけれど、すくなくともきっかけだろうに、二人でこんな会話をするなんてちょっとおかしくないか。直子だけではなく、ワタナベも精神が病んでいるのではないかと疑われる。もちろん村上フアンにはこういう会話がたまらなく好きなのかもしれないが。

「すごいフェラチオ」と言えば、アダルトビデオのフェラチオだろう。ポルノ女優は感じてもいないのに「すごいフェラチオ」をしているではないか。アダルトビデオでいつも疑問に思うのは、女が男の乳首を舐める性技だ。どうしてあんな、擽ったくさえない、無意味なことをするのだろうと思っていたら、村上の女たちはしきりに男の乳首を愛撫する。たぶん村上はアダルトビデオのファンなのだろう。昔のブルーフィルムやピンク映画にはそんなシーンはなかったような気がする。これもフェミニズムの影響かもしれない。

もちろん、ワタナベくんが直子の口唇愛撫を「すごい」とほめたのは、直子の心を開こうとしているのかもしれない。神経症なら、フロイトの患者アンナ・O嬢のいう「煙突掃除」のような効果があったかもしれない。しかし統合失調症の直子の反応はただ感情の鈍磨をあらわしているだけだ。

神経症は、抑圧された「物語」が歪められ象徴化されバラバラになって表に出てくる。それを患者と分析者で再び「物語」に組み立てる。それに対して統合失調症には「物語」がないのだ。世界は様々な感覚知覚が「統合」されたものだ。その統合する力が、弱くなったのが統合失調症だから、もともと統合失調症には物語はない。

直子は第五章のワタナベくんへの手紙に自分の壊れた世界について述べている。

『公正』なんていうのはどう考えても 男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの『公正』という言葉がとてもぴったりとしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになれるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なので、つい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるとか、正直であ るかとか、普遍的であるかとかね。

・・・・・・・途中省略・・・・・

私たちはたしかに自分の歪みにうまく順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みがひきおこす現実的な痛みや苦しみをうまく自分の中に位置づけ ることができなくて、そしてそういうものから遠ざかるためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむし、他人から苦しめ られなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが『歪んでいる』ことを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。そとの世界では多くの人は自分の歪みを意識せずにくらしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にそ の部族をあらわす羽根をつけるように、歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。(上巻P177~184)


直子には病識があるということだ。古井由吉の『杳子』も統合失調症の話である。わたしの同一性はうしなわれ、共同主観性はあやふやになる。世界が壊れ、現存在の了解性がなく なる。『杳子』だけではなく、統合失調症をテーマにした作品はたいていはこの壊れた世界を描いている。したがってそれは否定神学ならぬ否定人間学であり、具体的な人間の葛藤が描かれているわけではない。(注1)

ラカンのようなポストモダンの精神分析者は神経症ばかりではなく、統合失調症も理解できると思いこんだ。症状の中に隠された物語を求めるのではなく、症状の壊れた構造から、思いつきの形式的なメタファーで本来的世界を再構成しようとする。当然それは思弁的なスコラ哲学になる。

『ノルウェーの森』は「100パーセントの恋愛小説」だというが、あるのは100パーセントのセックスだ。愛というのは意味の過剰だが、直子にあるのは意味の欠如であり、美が理解できないように愛も理解できない。愛の不可能性ではなく、性交の不可能性があるばかりだ。

ワタナベは冒頭の回想場面で「直子は僕を愛してさえいなかった」というが、そうではなく、ワタナベは「僕は直子を愛してはいなかった。ただやりたかっただけだ」と言うべきではなかったか。

このポルノ風小説をなんとか恋愛小説として最後まで読ませてしまうのは、とこどころに挿入されている人生論じみたご高説やアフォリズムと、適当に配分された登場人物の自殺が、なにか深い意味があるようにおもえるからだ。

それと統合失調症の直子に健康な緑を対比させただけではなく、PTSDのレイコを二人の間に置いたことが構成上効果をあげている。レイコはレズビアンの少女にレイプされたトラウマでPTSDになり、直子と同じ療養所に入り、直子のルームメイトになる。レイコは直子とワタナベのあいだの通訳の役割を果たし、直子が自殺したあと、療養所を出て社会に復帰することを決意する。そして友人の音楽教室を手伝うために旭川に行く途中、東京に寄って、直子の代理を果たす形で、ワタナベとセックスをする。と言う具合に三島の『音楽』よりも娯楽性が高いけれど、そのぶん「もて男」ワタナベ君の自慢話になっている。

純文学として評価できないけれど、ソフトポルノとして女性が読むのはそれほど目くじらをたてて怒ることもないだろう。個人的にはレズビアンのレイプシーンよりも、療養所での直子とワタナベのシーンのほうが読んでいて薄気味が悪い。

いったんはこれで終わります。


注1:三島由紀夫『音楽』と古井由吉『杳子』は昔読んだだけなので記憶はあやふやです。『音楽』は再読するつもりはないが、『杳子』はもういちど読んでみるつもりだ。
2009.10.12[Mon] Post 03:02  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『バスキア』ジュリアン・シュナーベル監督★☆

『潜水服は蝶の夢を見る』が面白かったので、シュナーベルの第一回監督作品の『バスキア』をみた。画家が映画を作るととかく構図にこだわったりするけれど、シュナーベルはそんなこともなく、映画の中で使われるバスキアの作品も本物かどうかしらないが、北野武の『アキレスと亀』の絵のようにギャグなのかマジなのかわからないような駄作ではなく、バスキアのちゃんとした落書き風作品になっていて安心して見ていられる。

それはともかく、この映画が楽しめない理由はテーマが、成り上がり者の苦悩と芸術家の苦悩のどっちつかずになっていることだ。もちろん複数のテーマが絡まった映画というのはあるけれど、それはたいていの場合、メインの主題とサブの主題があって、サブがメインを押しのけては映画の流れがギクシャクしてしまう。

そういうわけで、恋人との確執も、利用されているというアンディ・ウォーホルとの関係も、いったい社交界の問題なのか、それとも芸術の問題なのか曖昧なままである。もちろんバスキアが二つを共に苦悩するのはいいのだが、監督のシュナーベルが二つの間でどっちつかずの演出をしているのが映画を楽しむ邪魔になっている。映画というメディアは批評と鑑賞(没入)が共存できるまれな芸術なのだ。

バスキアの落書き芸術はジャズのようなもので、知的な作業ではなく感覚で描くものだから、創作に行き詰まれば麻薬を使うほかない。創作が感覚なら鑑賞も感覚になり、作品はファッションになり流行になる。そして流行を決めるのはコレクターたちの社交界だ。

エド・ハリス監督の『ポロック』もコレクターたちの世界が出てくるが、テーマはあくまでも新しい絵画芸術への苦しみだ。それは感覚の苦しみではなく、知的な挑戦だった。それに比べバスキアの芸術はしょせんは上手な落書きにすぎなかった。

この映画のつまらなさは畢竟バスキアの芸術のとつまらなさに重なるような気がする。
2009.10.01[Thu] Post 01:25  CO:0  TB:0  映画  Top▲

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