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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『その土曜日、7時58分』シドニー・ルメット監督★★

シドニー・ルメットの作品は『十二人の怒れる男』が名高いが、わたしはアル・パチーノが主演した『狼たちの午後』や『セルピコ』が好きだ。『その土曜日、7時58分』も犯罪映画だと思って借りたけれど、期待に反して、シリアスではあるけれどただのホームドラマで、ずるずると泥沼にはまっていくだけのつまらない映画だ。

もちろん、これが犯罪映画のパロディであることは分かるのだが、冒頭のベッド・シーンからして、倦怠期の夫婦が別天地で新しい生活を始める夢を語るという退屈さ、途中から早送りしながら見た。シドニー・ルメット監督も八十過ぎて、さすがに映画感覚が衰えたのだろう。最後に父親が息子を殺すのだが、それが復讐なのか救済なのか、てんでカタルシスのない欲求不満の残る映画だった。それでも黒沢明の晩年よりはましだ。

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2009.09.28[Mon] Post 01:29  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『そして、私たちは愛に帰る』ファティ・アキン監督★☆

この映画がドイツで高い評価を得たのは、たぶんアクチャルな問題をあつかっているからだ。シナリオはいろいろたくさんのことが盛りこまれているけれど、どのエピソードもテレビドラマのように紋切り型であり、登場人物もその役割を義務的にはたしてるようにしかみえない。トルコとドイツの和解、あるいはトルコのEU加盟推進の映画に間違われそうな映画である。

しかし、映画の主題は、ガストアルバイターの父とドイツで生まれ育った息子のトルコ人としてのアイデンティティーの問題である。父は殺人を犯して、トルコに送還される。息子は父が殺したトルコ人売春婦の娘をさがしにトルコへ行く。かれはドイツ人でもないトルコ人でもない、中途半端なアイデンティティを感じている。

結末は、息子が人殺しの父との和解を暗示して終わるのだが、そのあたりは『パッチギ』よりも、どういうわけか『その男ゾルバ』を思い出した。父アリを演じたトゥンジェル・クルティズがゾルバのアンソニー・クインに似ているだけではなく、異文化の接触を描いているからだろう。

ドイツで『そして、私たちは愛に帰る』が高い評価を得たのは、『パッチギ』が賞を総なめにした日本の永住外国人の問題とおなじように、ドイツではかってのガストアルバイターやイスラム国家のEU加盟などのトルコの問題が一種のタブーになっているからだろうか。

この映画ではネオ・ナチのトルコ移民の襲撃が出てこないし、ドイツ人の大学生が見ず知らずのトルコの過激活動家を助けるというのも、カルデロンちゃんに同情する日本人みたいで、ドイツにも「自分だけ良い子」はいるらしい。とにかく死が二つあるけれど、全体がおとぎ話のように甘いのである。

ドイツの保守系の雑誌『フォーカス』の“melancholisches Melodram ”という評言が一番的確だとおもわれる。
2009.09.26[Sat] Post 00:48  CO:0  TB:0  映画  Top▲

村上春樹をめぐる夫婦喧嘩

村上春樹をめぐってニョウボと対立している。はじめは『羊をめぐる冒険』についてだった。

わたしが初めて読んだ村上春樹は『羊をめぐる冒険』だ。面白くて最後まで読んだ。村上の「デタッチメント」な感覚が心地よかったのだ。もちろん中途半端な結末には不満が残ったけれど、次々に現れる課題に淡々と身を任せることの陶然とした、缶ビールをゆっくりと飲んだときのような気分が心地よかった。ゲームの結末にさしたるこだわりはなかった。

ニョウボに薦めたけれど、彼女は読む前から「そんな厚いのきっとつまらない」となかなか手にとらない。読み始めれば、きっと夢中になるだろうと、くりかえし薦めた。しぶしぶ読み始めたけれど、文句ばかり言って、ちっとも読み進まない。そのうち静かになったから、夢中で読んでいるのかと思ったら、放り出してあった。

そのあと、わたしは『風の歌を聴け』や『1973年のピンボール』、それと短編集も買ったけれど、どれも気取りが鼻について読み通せなかった。片岡義男の方が軽ろみがあって好きだった。

そのうち片岡義男はじきに消えたけれど、村上春樹は『ノルウェーの森』がベストセラーになった。わたしもよんだけれど、なんだか薄気味が悪くなって、それ以後村上を読むことはなかった。ニョウボにも『ノルウェーの森』を薦めることはなかった。

ところが、娘が読んでいたりして、ニョウボも話題のために読んだらしい。その後も『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』なども娘に借りて読んでいた。わたしは『ノルウェーの森』のあと村上は手に取らなかった。

それで、話は『1Q840』飛ぶ。
『1Q84』はブログのネタのために読んだ。すばらしい作品とは言わないけれど、結構おもしろく最後まで読んだ。しかし、ニョウボは断固として読むのを拒否した。わたしは、『ノルウェーの森』を再読し、『海辺のカフカ』も読んだ(感想はカテゴリーの「村上春樹」)。

ごたごたと家庭の事情を書いているが、まあ、個人的な日記のブログだから許して頂くとして、ともかくニョウボはののしりながらも『ノルウェーの森』をもう一度読み始めた。読んだが良いが、相変わらずの悪口雑言、直子が「深いの、とっても深いの」と同じことを二回繰り返すだの、なんで直子が上着のポケットでうはなく、ツィードの上着のポケットに手を入れるだの、ワンレングス(?)の髪を蝶のヘア・ピンで留めているのが気に入らないだのと、言いがかりをさんざん言っていた。

それは、直子をショート・カットの緑と対照的に描こうとしているからだと言っても、そんなの対照ではなくて、ただ類型化だ、村上春樹は女がわかっていないし、女だけではなく、そもそも人物のデッサンが下手なのだ、と言われれば、たしかに男の永沢と突撃隊も対照的な男として描いているのだろうが、カリカチュアライズされているぶん、なおいっそう皮相な類型化に陥っている。

恋愛小説として駄目なら、ポルノ小説としてはどうかと聞いてみたが、「ぜんぜん駄目よ」とのご託宣、ポルノ小説なら谷崎潤一郎に限るそうだ。というわけで村上春樹は恋愛小説としてもポルノ小説としても駄作だというのがニョウボの結論らしい。

おおむねニョウボの意見には賛成だけれど、ただそのぜんぶ駄目なところが『ノルウェーの森』が恋愛小説でもポルノ小説でもない、まったく新しい「性文学」にしているのではないか。この小説でまともなセックスはレイコとワタナベのセックスだけだ。二人の間には愛も倒錯もない。男が奪うのでもなく、女が与えるのでもない、まったく平等な互酬的性の饗宴があるだけだ。

直子とは愛の証を求めてのセックスだ。そして失敗する。もともと直子はワタナベを「愛してさえいなかったからだ」 緑とのセックスは、緑が婦人雑誌の特集で読んだ、妊娠中の妻が浮気しないように夫にしてあげるいろいろな性技だ。もちろん緑には情熱らしきものがあっても愛という面倒なものはない。愛は直子に任せているのだ。

わたしはニョウボに『チャタレイ夫人の恋人』を読めば、村上の性の新しさが分かるといったけれど、村上のつまらなさは『チャタレイ夫人』を読まなくても判るわよ、それより谷崎の『猫と庄造と二人の女』を読んでご覧なさい、薄いからすぐ読めるわよ、普通の男と女がみごとに描かれているからと反論された。

わたしは『猫と庄造と二人のおんな』を読んだが、ニョウボはまだ『チャタレイ夫人』を読んでいない。
2009.09.23[Wed] Post 23:53  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『潜水服は蝶の夢を見る』ジュリアン・シュナーベル監督★★★★★

久しぶりに映画らしい映画を見た。

障害者を主人公にしながら、NHKの障害者番組のような猫なで声の偽善がない。記憶と想像の世界に閉じこめられたと言えば、超現実的な幻想や深層心理の象徴的なイメージのカーニバルになるのが現代映画の通弊だが、この映画はあくまでもリアリズムに徹している。カメラもシナリオも節度があって、ほとんど崇高の美に到達している。

この映画を見て思い出したのはフェリーニの『8 1/2』だ。構造に類似性がある(ような気がする)。形式的な分析は『バスキア』と『夜になるまえに』を見てからにする。
2009.09.19[Sat] Post 15:29  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『マッチ・ポイント』ウッディ・アレン監督★★☆

TSUTAYAの宅配レンタルにしたら、見るのが忙しくて、評を書く暇がない。これからはよっぽど面白くなければ映画の評は簡単にする。

魔性の女(famme fatale)が妊娠したら男に女房と別れろと迫るとはどういうことだ。そしたら、男の方が猟銃持ち出して、しかも、強盗に見せるために女の隣人も殺すというのは、女も男もよくわからん。もちろん両方ともギャグなのだろう。思わず笑ってしまった。

ウッディ・アレンの笑いは吉本のインテリ・ヴァージョンじゃないだろうか。


2009.09.18[Fri] Post 18:51  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『Into the Wild』 ショーン・ペン監督★★

アメリカやドイツでは高い評価を得ているようだが、わたしにはよく分からなかった。「荒野」というのは、イギリス文学の「階級」に対応するようなアメリカ文学のテーマだ。映画にもソローなどの名前が出てくる。

最後に毒のある野草のために主人公は死ぬのだが、それが自然の復讐なのか、あるいは彼が望んだ自然との合一を意味するのかわからない。

文明と俗物的な家族を拒否して家をでるのだが、旅で出会う人たちはみんな素朴親切で、老いたヒッピーとの交流もある。アラスカを目指してのロードムービーの体裁をとっているが、最後まで本当の目的地がわからない映画である。

たぶん『イージー・ライダー』を懐かしむ世代の支持を得たのだろう。
2009.09.15[Tue] Post 21:14  CO:0  TB:0  映画  Top▲

映画のナレーション (『光の雨』 高橋伴明監督(2)☆)

この映画の最大の欠点は全共闘世代の根拠のない選良意識と懐古趣味だ。たぶん彼らは特攻帰りの特権を要求しているのだ。

大杉漣の失踪で監督が変わり、全共闘世代ではない萩原聖人が監督になる。大杉漣は自分がかって過激派にいたことをしっているらしき人物から謎の手紙を受けとったことや、「総括の援助」につながっていく暴力シーンをうまくとれないことなどがあって突然失踪する。そのあと過激派のことを知らない新しい荻原監督は本当は凄惨なリンチをグロテスクにならないように、むしろ淡々と撮って行く。

監督の失踪はいかにも唐突である。失踪の形式的な意味は、『光の雨』を前半と後半に分け、前半の全共闘世代の監督から後半のポスト全共闘世代(?)の監督へ交替したということなのだが、それにしても失踪はいかにも唐突である。ただ、当時の過激派の運動が全共闘世代に深い傷跡を残したという感傷的な自己愛の表現にしかなっていない。

失踪の前に、大杉監督が裕木奈江に当時何をしていたか聞かれ、ノンポリで麻雀ばかりしていたと嘘を言う場面があるのだが、なぜ嘘を付いたのか。葉書の文面は脅迫だったのか。暴力シーンになぜそれほどにこだわりがあるのか。そんなことをすべて曖昧にしたまま失踪する。

監督が変わったあと、若い役者たちは殺人者を、むしろ楽しんで演じ、無事撮影はおわる。前半で仲間を殺す気持ちが分からないと言って、リンチの演技に尻込みしていた若い役者たちが、後半では殺人者を淡々と演じていたけれど、それは、過激派のリンチ殺人には、全共闘世代が思っているほど深い意味があるわけではなく、ただの日常的な出来事であることを示しているのだ。

最後の原作者の立松和平のナレーションはせっかくの高橋伴明監督の工夫、すなわちメイキングという「メタ映画」を二重化することで映像を相対化する工夫を、台無しにしている。ナレーションは映像に対する暴力であり、彼の訛りはなおいっそう純朴という名の暴力なのである。

マイナス星ひとつで、星一つ半★☆
2009.09.15[Tue] Post 00:49  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『マンガノゲンバ』(NHK)のやらせ

漫画家唐沢なをきの妻よしこさんが『からまんブログ』で、NHKのやらせ取材を批判している。

して、『マンガノゲンバ』の取材、放送を中止してもらった理由ですが、この番組の取材、ほんっっっと~~~~に不愉快だったからです。びっくりしました。 なんというか、インタビューが誘導尋問的なんですよ。ディレクターさんがなをさんに質問し、それになをさんが作画しながら答えるというところを撮影してたんですが、なんか、このディレクターさん、勝手に頭の中で「ストーリー」を作っちゃってるんですよね。唐沢なをき像というか。

なにしろ、ディレクターの思いどおりの答えじゃないと「そうじゃなくてー」と言ってやり直しをさせるらしい。このことで思い出すのは、『松井冬子と上野千鶴子』の記事で書いたNHK ETV特集『醜いもの 美しいこと~日本画家 松井冬子の試み~』のことだ。

(松井冬子の)対談相手は上野千鶴子氏(東京大学大学院社会学部教授)、山下裕二氏(明治学院大学文学部教授)、布施英利氏(東京芸術大学准教授)で、三人とも、松井芸術の神髄を聞き出そうとするのだが、そのとってつけたような質問と、とんちんかんな応答で、お気の毒に三人はバカ丸出し状態だ。(『松井冬子と上野千鶴子』)


「とってつけたような質問」や「とんちんかんな応答」になったのはかれらの責任ではなく、NHKのディレクターが「そうじゃなくてー」と駄目だしばかりしたからだ。

そのなかで上野千鶴子はNHKのディレクターのシナリオに積極的に協力しているのがわかる。映像というものは被写体の真実ではなく、むしろ制作者側の虚偽を暴く。面白いからそこのところを『松井冬子と上野千鶴子』から引用する。

松井氏の美貌にたいして上野氏の知性と言いたいのだろうが、そうは問屋がおろさない。二人の知性は似たり寄ったり、スピーカーのそばにマイクロフォンを置いたように、お互いの**が増幅して困った事態に陥ってる。いつのまにか上野氏はカウンセラーになって、自分の理論どおりに松井氏に答えさせようと、「その答えじゃ満足できない」と言い出す始末。上野氏はメモをみながら質問しているのだから、あらかじめ打ち合わせをしているはずだが、松井氏そんなことはすっかり忘れている風で、上野氏の質問が理解できないのか意味不明の答、二人の会話はいっこうにかみ合わない。上野氏も臨機応変に質問すればいいのだが、ジェンダー理論は敵をののしるには便利でも、味方を理解するのは不得意のようだ。(『松井冬子と上野千鶴子』強調安積)

上野千鶴子が「その答えじゃ満足できない」と言ってるのは、自分の理論に合わないからではなく、ディレクターのシナリオに合わないという意味だったのだ。

NHKの「やらせ」はETVだけではない。『激流中国』も『ジャパンデビュー』も言うまでもなくやらせである。不思議なのはなぜこんなヤラセの番組を放送して犯罪にならないのかということである。

日曜美術館が大変なことになっている。山下菊二の特集だったが、これでは中国制作の反日宣伝番組だ。イラストをドキュメンタリー絵画と称して、歴史的真実の記録のごとく見せかけている。油断していたらカンサンジュンさんがあらわれて「悩む力」の抜粋みたいなことを言いだした。あわててテレビを消した。
2009.09.14[Mon] Post 16:55  CO:0  TB:1  NHK  Top▲

『イースタン・プロミス』デヴィッド・クローネンバーグ監督★★

クローネンバーグの暴力的なところは私の好みではない。この映画も冒頭から西洋カミソリで首を切るシーンから始まる。そのあとも身元を判らなくするための指の切断や、公衆浴場での刃物を持った血だらけの乱闘などがあって、気分が悪くなった。早送りでとばしながらなんとか見た。

MI5の潜入捜査官の話なのだが、こういう話はさすがにハリウッドの方がすぐれている。アクション映画の背景にラヴ・ストーリーなどを絡ませるというのはよくあるのだが、この映画では赤ちゃんを巡るヒューマン・ストーリーが前面に出てしまって、犯罪映画としては焦点がぼけたものになっている。

潜入捜査官のニコライのジレンマや、看護婦のアンナがロシアのマフィアと渡り合うところなど、ハリウッドの犯罪アクション映画に慣れた観客には違和感が残るだろう。

ロシア・マフィアのボスのDNA鑑定をして、赤ちゃんの親であることを証明できれば、母親が未成年だったので、レイプ容疑で逮捕できるというのは、なんだか騙された気がする。アル・カポネは脱税で捕まえたそうだけれど、『アンタッチャブル』はちゃんと会計責任者を確保するための銃撃戦があったけれど、この映画では係官がボスのところに行って、理由も言わずに血液採取していくのだ。

この映画を見る気になったのは、ニョウボが書類を整理していたら、『週刊文春』の破いた『シネマチャート』のページが出てきて、四つ星二人、五つ星三人と高評価だったからだ。ちなみに五人の評価をあげておく。

品田雄吉 ☆☆☆☆

中野  翠 ☆☆☆☆

芝山幹郎 ☆☆☆☆☆

斎藤綾子 ☆☆☆☆☆

 おすぎ  ☆☆☆☆☆

コメントも絶賛にばかりで、三人が公衆浴場の「全裸アクション」を褒めている。ずいぶんと欠点が目に付いた映画だが、私には欠点に見えたところが映画通にはたまらない魅力なのだろう。

追加:
赤ちゃんの物語の裏側に、犯罪映画の定型である気の弱いボスの息子(ゲイ?)が出てくるのは良いのだが、最後のところで、父親から赤ん坊を殺すようにいわれて病院から盗み出したのいいけれど、運河に投げ捨てることができないで泣いているところへ、ニコライ(捜査官)とアンナ(看護婦)がやってきて、赤ん坊をわたすように説得する場面は、いまどきテレビドラマでも見られないようなチープな映像である。
2009.09.11[Fri] Post 02:21  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『歩いても 歩いても』是枝裕和監督★★★☆

父と子の確執を描いた家庭劇なら、どうしても小津をおもいだす。是枝監督もオズにならないように注意しているのだろう、台詞回しもカメラアングルもオズとはずいぶんと異なる。

父親役の原田芳雄はどう見ても老人には見えない。ミスキャストである。座敷や縁側に座っているところや診察室の椅子に座っているところがどうも様になっていない。気むずかしい老人の威厳と弱さがどうもチグハグにみえる。

母親役の樹木希林は キネマ旬報やブルーリボンの助演女優賞を受賞している。たしかに、うまいとおもう。次男の良多が母の樹木希林に、もう兄が助けた男に来てもらわなくても良いのではないかというと、母は、ずーと来てもらいますと憎しみをこめて言う。また、夜、部屋に入ってきた蝶が長男だと狂ったように追いかける場面は、父とは違ってのんびりしているように見える母の突然の「狂気」に観客は驚くのだが、これらは樹木希林の演技のうまさだけではなく、是枝監督のシナリオのうまさもある。

母親は是枝監督の母親がモデルらしいのだが、私の母にそっくりだし、たぶん他の観客もそう思うだろう。是枝監督は『母べえ』なんかとちがって昭和の母親の普通の姿をみごとに描いたのだ。

樹木希林が死んだ長男が帰ってきたのだと部屋に迷い込んだ蝶を追いかける場面で、私は自分の母親を思い出した。小学生の夏休み、お盆の頃だったとおもうが、夜、部屋に大きなカナブンが飛び込んできた。わたしは昆虫は苦手だったので逃げ回っていたが、母は「わー」とか「ほらっ」とか言って、大騒ぎでカナブンを捕まえると、戦争で死んだ兄の誰それが帰ってきたんだとひどく興奮してカナブンを仏壇においてお経をあげていた。私は母が狂ったのかふざけているのかわからなかった。

樹木は俚諺をまぜて世間話をする。「結婚するなら生き別れよりも死に別れ」という言葉も私の母がよく使っていたのを聞いた。地方ではかって「直す」という習慣があったからだろう。母は「親孝行したいときには親は無しといってなぁ、親は大切にするもんだ」とも言っていた。












2009.09.10[Thu] Post 00:19  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『光の雨』 高橋伴明監督★★☆

若松孝二監督の『実録・連合赤軍』と間違って借りてきた。これはちょっとした拾いものだった。

この映画は、立松和平原作の映画『光の雨』に出演する若い役者たちと、かって過激派だった監督を主人公にした映画だ。メイキング映画の形式をとっており、『光の雨』は映画の中の映画と二重になっている。それだけでなく、「メイキングの中のメイキング」とメイキングもまた二重になっている。

カメラが三台ある。一台目はこの『光の雨』の映画監督高橋伴明のカメラ、二台目のカメラは劇中劇の映画監督大杉漣のカメラ、そして三台目はメイキング・ビデオの萩原聖人のビデオ・カメラだ。

大杉連監督は立松和平の小説『光の雨]』を原作に映画を撮っている。その大杉漣監督の『光の雨』の制作過程を撮ったのがこの高橋伴明監督の『光の雨』、すなわちメイキング映画である。ところがもう一人荻原聖人が大杉監督に頼まれてメイキング・ビデオを撮っている。

高橋監督のカメラは他の二台のカメラを写すけれど、その二台に写されることがない。その限り高橋監督のカメラは特権的なカメラだ。反対に大杉漣監督のカメラは他のメイキングのカメラを撮ることがない限りでは同じように特権的なカメラなのだ。
また、荻原のメイキングはあくまでも大杉監督の『光の雨』のメイキングであり、高橋監督の『光の雨』のメイキングではないのだから、荻原監督のカメラは大杉監督のカメラを写すが、高橋監督のカメラは写さない。

高橋監督の映画『光の雨』は、高橋監督のカメラで撮った映像だけで作られているのではなく、三台のカメラが撮った映像を編集されて作られていることになるが、その編集が実に巧みに行われて、こういった映画にありがちなギクシャクしたひとよがりなところはない。

通常のメイキングならば、役を演じている俳優と素顔の俳優が撮られているのだが、『光の雨』のメイキングでは、劇中劇の役もその役を演じる俳優も、どちらも演技で、出演者の山本太郎や裕木奈江のプライベートの素顔が撮られることはない。

映画の「形式」というものに注意をむければ、劇中劇の狂気の演技と素人俳優の演技の交替や、ロングとアップの切り替え、狭い室内でのカメラの移動ズームなどは映画を見ることの楽しみを与えてくる。ところが「内容」はどうも楽しめない。

最初は赤軍派の狂気が理解できないと言っていた山本(森恒夫)や裕木(永田洋子)が狂気の演技にのめり込んでいく。監督の失踪のあと出演者が居酒屋で飲み会を開く。そこで監督が失踪したのは自分たちのせいだと、謝罪自己批判総括とだんだんエスカレートしていくのは、映画の前半のクライマックスのつもりだろう。

そのあと監督が荻原聖人に変わって、みんな「総括の援助」に参加して、十数人を殺し、あさま山荘事件で全員逮捕される。後半は劇中劇によって薄められた暴力が繰り返されて、光の雨の中の死者たちの行進(?)にナレーションが入り、最後には立松和平のなまった声の感傷的なナレーション、そして日教組演出の卒業式答辞のような男(森恒夫役の山本)と女(永田洋子役の裕木)が交替してのスピーチだ。

男も女も盛大に殺して、連合赤軍の「山岳ベース」は一足先の「男女共同参画社会」の理想郷だ。
2009.09.03[Thu] Post 16:54  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『ゼア ウィル ビー ブラッド』ポール・トーマス・アンダーソン監督★★★

ダニエル・デイ=ルイスはこの映画でアカデミー賞の主演男優賞を受賞した。アカデミー賞ばかりでなく、2007年のアメリカの映画賞の主演男優賞を独り占めにした。

ダニエル・デイ=ルイスは『マイ・レフトフット』でもアカデミー賞主演男優賞をもらっている。下手な俳優ではないことは確かだが、とくだんに上手というわけでもない。そもそも映画俳優は素材なのであって、舞台役者のように演技するものではない。監督が俳優の持ち味を生かす。たとえば三船敏郎は黒澤明監督の映画に出ると、彼の大げさな演技もいくぶんコミカルで風格のあるものになる。

ダニエル・デイ=ルイスの演技は「熱演」である。『マイ・レフトフット』の演技も熱演だった。しかし、映画には熱演はふさわしくない。推測だが、これはアメリカの大学の演劇科で教えるような正統的な演技ではないか。映画俳優の演出という点ではハリウッドの監督より日本の監督の方が断然優れている。

ともかく、暴力的なシーンは苦手である。拳銃で頭を撃ったり、撲殺したりするシーンは目を覆う。最後のボーリング場の殺人も不必要に残酷だと思えるが、無神論者が原理主義の聖職者を残酷に殺すシーンが必要だったのだろうが、いったい、無神論者を罰そうとしているのか、原理主義者を罰そうとしているのか、それとも両者ともども地獄に落ちていくのか。キリスト教原理主義者が人口の半分以上を占めるという米国で、こんな映画を撮ることがどんな意味を持つのか理解するのは難しい。

ドラマとしては十分に楽しめる。しかし、映画の「官能美学」はない。
2009.09.01[Tue] Post 00:54  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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