ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『たみおのしあわせ』岩松了監督★★★☆

変な映画だ。近ごろよくある映画学校の卒業作品のようだ。岩松監督の15年ぶりの映画だということで、テレビドラマではない映画らしい映画を作ろうとしたのだろうか。

カメラで気になったことをいくつかあげておく。もちろん監督は意図的にやっているのだ。

民雄が見合いの相手のヒトミを駅に見送りに行ったシーン。ヒトミが結婚を承諾して、すぐに電車に乗って、ドアが閉まる。ここで切り返しがあるのだが、普通はカメラは電車の中からヒトミの肩越し、あるいはひとみの視線でドア越しに民雄を写すだろう。ところがカメラは反対側のホームからロングで撮る。カメラはヒトミの視線ではなく第三者の視線なる。ここで一瞬観客の意識が切断される。カメラは固定されている。電車が動いて左に消えると、走り去る電車の方ではなく、正面のカメラの方を呆然とみている民雄が薄暗いホームに佇立している。この後、父にヒトミが結婚承諾してくれたことを報告するために、民雄は夜道を走って帰る。このロング・ショットは美しい。

居間の真上からの俯瞰が出てくる。カメラのフレームが部屋の矩形と平行にならず、カメラが揺れ動く。そのときは、映像がちらちらして不快なだけなのだが、あるとき切ったはずのクーラーが動いているのを不思議に思った父がクーラーの方を見上げると、カメラが引いて、暗闇の中に穴が見える。天井裏の穴から誰かがのぞいているのだ。この俯瞰のフレームのズレや揺れはただ見にくいだけで、それが誰かが天井から覗いていることの「伏線」になるとは思えない。なんの効果もないただ見にくいだけのカメラ・ワークだ。

もうひとつ。
民雄とヒトミの結婚式の控え室で、父伸男とヒトミの会話が鏡をはさんでおこなわれるシーンがある。ところがこの二人の視線が映画の文法からはずれているのだ。父は左側に、ヒトミは壁の鏡に映っている。ところが二人はお互いに見つめ合っているのではなく、ヒトミは鏡のなかのカメラを見ている。鏡を使おうが使うまいが、ヒトミがカメラを見ているときは、父の視線はカメラの視線と完全に一致するのだから、手や足など目の前にかざすことができる身体部分以外はフレームの中に入ることはできない。それどころか父は鏡の中のヒトミではなく、フレームの右側の外にいるヒトミをみているのだ。父親の視線を基準にすれば、当然ヒトミは、直接父の視線を見ていなければならないのに、鏡の中のカメラをみているのだ。しかも、父の視線に答えるのではなく、カメラの視線に答えている。これはイマジナリー・ラインの違反とは比較にならないほど大きな違和感を生む。このあと、どこからか突然フレームの中に飛び込んできたヒトミが伸男に抱きつく。

異化効果がねらいなら、あるていど成功している。しかし、伏線のはりすぎで、せっかくの大団円もギャグになってしまった。父と息子の愛情を描いた映画は沢山ある。岩松了監督もこれまでにないやり方で息子と父の物語を作ろうとした。半ば成功し、半ば失敗したように思える。

この映画は二度見るように作られているのかもしれない。★三つ半は暫定的な評価だ。




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2009.08.30[Sun] Post 21:59  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『ザ・マジックアワー』三谷幸喜監督★★☆

三谷幸喜が舞台演出家ではなく、映画監督になったつもりで撮っている。カットも切り返しも移動も多い。クレーンを使うのが古き良き時代の映画だと思っているのか、上がったり下がったり、高所恐怖の私は見ていてめまいがする。

そのかわり、セットが段ボールと発泡スチロールで作ったようにベコベコである。映画はリアリズムだから、セットがセットに見えると、それは本物のセットに見えてしまう。舞台ならベニヤ板で作った木も、本物に見えなくても、それは本物の木を意味する。町並みのセットは「映画中映画」(劇中劇)のセットだからセットに見えて良いのだと言い張っても、どうしても映画のリアリズムが邪魔して、落ち着いて映画の世界に入れない。頭が混乱してくる。

このことは俳優の演技にも言える。佐藤浩市はこの映画の主人公「村田大樹」と、劇中劇の殺し屋の「デラ富樫」の二つの演技をしなければならない。ようするに佐藤浩市は「上手な演技」と「下手な演技の上手な演技」の二つを演じ分けなければならないわけだ。ところが、映画の表層的なリアリズムは「下手な演技」と「下手な演技を上手に演じたもの」との区別ができない。

しかも、さらに混乱するのは、佐藤浩市が演じる「村田大樹」と村田大樹が演じる「デラ富樫」の切り替えが妻夫木聡監督の「カット」で行われるのだが、「村田大樹」の演技自体が演劇的に演出されているので、どこから村田でどこからデラなのかメリハリがない。もちろんその行き違いが面白いというのだろうが、残念ながら成功していない。もともと佐藤浩市という役者は大根なのだが。

おそらく、三谷幸喜はウッディ・アレンが『カイロの紫のバラ』でやった映画の世界と現実の世界の往来ではなく、映画と演劇の形式上の違いを利用して、そこから生まれるチグハグの面白さをねらったのではないか。『カイロの紫のバラ』があくまでも想像世界と現実世界のパラレル・ワールドの対立なのにくらべ、『ザ・マジックアワー』は映画と演劇の「芸術形式」の齟齬だから、ウッディ・アレンより三谷幸喜の試みはより大胆なモダンニズムへの挑戦といえる。

映画と演劇の違いはその文法にあるのではなく、映画のリアリズムと演劇の象徴性の表現の相違にあるのだ。映画の技法をいくらまねしても、映画のリアリズムを理解しないかぎり、退屈な作品が生まれるだけだ。

初期の映画は舞台劇を観客席から撮ったようなものだが、それが次第にカメラが舞台の上にあがるようになった。クローズアップは演劇では不可能な映画の技法で、これは舞台化粧ではなく、ハリウッドのメイクアップの革新によって可能になった。とうぜんこのことは三谷幸喜も知っているわけで、佐藤浩一が車の中で目尻に陰をつけるのは、彼が舞台化粧をしているのだ。そのあと機関銃の取引に行き、物陰からあらわれるのだが、目に隈ができていて、笑うべきところだろうが、笑い損なってしまうのは、くすぐりにしか思えないからだ。

引用、パロディ、オマージュ、盗用など盛りだくさんだが、映画と演劇の融合には失敗したようだ。
2009.08.28[Fri] Post 17:21  CO:0  TB:0  映画  Top▲

ワタナベ君とチャタレイ夫人(1)

『ノルウェーの森』と『チャタレイ夫人の恋人』の構造は似ている。

『ノルウェーの森』の主人公ワタナベ君は不感症の直子と健康な緑との三角関係で、チャタレイ夫人は不能の夫を捨てて、健康な森番のメラーズを愛する。

ワタナベは、自殺したキズキの恋人直子と東京で再会する。二人のあいだに愛らしき感情が生まれ、一度は完璧なセックスに成功するけれど、再び不能の状態になる。直子はワタナベに手淫と口唇性技で射精を手伝う。他方ワタナベは緑とポルノ映画を見たり、キスをしたり、セックスについて冗談を言い合いながら、友達ごっこする。

緑とのじゃれ合いは欲望と愛情にかわっていく。反対に、直子が療養所に入ることで、二人のセックスレスの愛情はしだいに曖昧になっていく。緑との関係をレイコに手紙で知らせるけれど、はっきりとは直子と別れるとはいわない。ワタナベくんは恋愛の駆け引きにおいていつも受け身であり、自分から積極的に振る舞うことはない。いうならば無責任なのだ。ワタナベくんは、性的野心なんかないふりをして女性に近づく。あるいは、永沢の恋人ハツミとは当然寝ると読者に思わせておいて肩すかしをくわせるたりする。(思う方が悪いんだがW)

肝心の直子の性交恐怖症の「理由」については、叔父と姉が自殺していることにふれているだけで、おそらくこのラブストーリーの一等重要な鍵であるはずのことに、直子がレズビアンであることをにおわせるだけで、ほとんど何もふれない。この小説の瑕疵とも言うべき構造上の欠陥を読者が見逃してしまうのは、ワタナベ君の「固くて太い」魔法の杖が、いずれ直子の性交恐怖を癒すとにおわせているからだ。村上春樹がいつも読者を騙すと言う意味なら、蓮見重彦が「結婚詐欺」と言ったことは正鵠を得ている。

ところが、ワタナベ君は性交不可能な直子から性交可能な緑に乗り換え、しかも緑とは性交せずに、直子と同じように「手コキ」で射精する。と言うことはワタナベ君は、愛とは「挿入」ではないと言いたいわけで、「手コキ」をさせることで直子と緑を同等に扱っているつもりなのだ。

いったい、これは、ワタナベ君の優しさなのだろうか、それとも自分勝手なエゴイズムなのだろうか。女性の性的欲望に無頓着な点では、ワタナベ君はたしかにエゴイストなのだが、直子はワタナベ君のものを口に含むのだし、緑は自分の下着を汚してもかまわないと言う。そもそも、挿入を拒否するフェミニストもいるわけで、手コキはむしろ女の男への暴力でもある。

村上春樹は物語の構造をいつも開いておく。開いておくというと聞こえがいいが、いつも二重の解釈ができるように曖昧にしておく。というより話は逆で、解釈しようとするから、曖昧にみえてくるのだ。ワタナベくんは、ただ、ああ言えばこう言ってるだけだ。

そして、ワタナベくんの決意とは関係なく、直子は自殺する。ワタナベくんは直子を救えなかったからか、あるいは直子に逃げられてしまったからか、悲しくてどうすることもできなくて、教科書どおりに一人旅にでて、夕方の浜辺で涙を流す。そして、慰めてもらったのか癒してやったのか、直子の形見の服を着た十九歳年上のレイコと四回交わる。

レイコとワタナベのセックスは、二つの役割を交代に演じながら、一種の互酬性が成り立っている。レイコは年上の女と十七歳の女の子を、ワタナベは初な少年と性技にたけた大人の役割を分担し、慰めと癒しを交換する。

レイコが旭川に旅発ったあと、ワタナベは緑に電話して、「世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会ってはなしたい。何もかも君と二人で最初から始めたい、」と調子のいいことを言う。それまで放っておかれた緑は「あなた、今どこにいうの?」と静かな声でいう。それでも、ワタナベ君、懲りもせず、その緑の問いを「僕は今どこにいるのだ」(傍点つき)と、まるで自分のアイデンティティーを問うように、「僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼びつづけていた。」という文でこの小説は終わる。

やれやれ、と思うでしょうが、これで話が終わったわけではない。小説の結末は小説の冒頭の悪名高き飛行機のシーンの「直子は僕のことを愛してさえいなかった」という回想につながっている。やれやれ。

最終的な評価はさておいて、この小説が多くの読者を獲得したのは、ソフト・ポルノだからだろう。ポルノの通例にもれず、ここには性に関する批判的考察もなければ、男女の深い心理分析もない。ただ若者の背伸びしたセックスの駆け引きをおもしろおかしく描いた風俗小説にはちがいない。

問題はそこから何か新しいものが生まれたかどうかである。小谷野敦は藤堂志津子の冷徹な男女の心理描写を例にワタナベ君の優男ぶりを批判しているけれど、そもそも、『ノルウェーの森』には、藤堂志津子の男女間の階級や年齢や社会的地位の差から生じる心理的軋轢の分析のようなもの一切ない。

むしろ、そんなものがないのが村上の世界なのだ。それは、レイコとワタナベの性交場面によく表れている。ここには年齢も性別も階層もこえた、お互いにいたわり合った「優しい」セックスがある。

さて、そのことを確かめるために、おなじ不能の問題を扱った『チャタレイ夫人の恋人』と比較してみよう。このロレンスの小説は、階級や性の解放や機械文明が主題なのだが、ある意味では、性における「優しさ」がテーマでもある。

つづく



2009.08.25[Tue] Post 02:47  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

ロバート・キャパの新たな疑惑

ニューヨーク・タイムズのART&DESIGN欄に“New Doubts Raised Over Famous War Photo”(8/17)の記事があった。ロバート・キャパの《兵士の死》のことだ。

ほぼ四分の三世紀後の今でも、スペイン戦争を撮ったロバート・キャパの写真《兵士の死》はもっとも有名な戦争写真であるとともに、多くの批評家がこの銃撃の瞬間を撮った写真はヤラセだと主張したことで、もっとも論争の種になった写真だ。さて、スペインの研究者(José Manuel Susperregui)が新しくだした本(“Shadows of Photography,”)で、《兵士の死》はキャパの崇拝者やその追従者たちが言い張るような時と場所と方法で撮られたものではないと主張している。


Susperreguiは、キャパが同じ場所で撮った写真の背景をE-mailを通じて探してもらったところ、Espejoに同じ風景があるとの返事があった。そこはキャパたちが通過した時期には戦闘は全くなかった。

キャパの《兵士の死》がヤラセであることはすでに明らかになっている。あれは報道カメラマンのために行われた模擬演習のときに、余ったフィルムで撮った「記念写真」だ。《兵士の死》の他にも、弾にあたって後ろに倒れる兵士を全く同じアングルで撮った写真が残っている。この写真はニューヨーク・タイムズにも載っている。

演習の場所が前線ではなかったと言われると、スナイパーに撃たれたといい。同じアングルで同じ場所で連続して二人が狙撃されたところを偶然に撮るなんてありえないといわれると、機関銃で撃たれたといったらしい。

キャパが積極的に嘘を言ったわけではない。かれは《兵士の死》がヤラセかどうか尋ねられると、いつもどちらともつかぬ曖昧な返事をしていたそうだ。

スペインにいっしょに行ったジロータローによれば、キャパは臆病であり、前線に出ることをおそれていたと証言している。模擬演習ではジロータローが積極的に兵士に頼んで「演出写真」をキャパに撮らせている。岩波書店から出ているキャパの写真集には大砲を撃つまねをしている兵士の写真が載っている。

キャパは《兵士の死》で文字通り名誉と金と女を手に入れた。だからキャパは本当のことが言えなかった。かれは《兵士の死》がヤラセではないことを証明するために、戦場で「兵士よりも前に出る」といわれる勇敢な報道カメラマンになった。そして《ノルマンディ上陸作戦》のような傑作を撮り、第一次インドシナ戦争を取材中に地雷を踏んで死んだ。

記事は、相変わらず真実は誰にもわからないといったロマンティックな物言いで終わっている。いいかげん《兵士の死》はフェイクだったと認めてあげてたほうが天国のキャパは喜ぶだろう。《兵士の死》がなくてもキャパは偉大な戦場写真家なのだ。
2009.08.20[Thu] Post 00:03  CO:0  TB:0  写真  Top▲

ジャクソン・ポロックの問題(2)

『ジャクソン・ポロックの問題(1)』からつづく

抽象画を批判する言葉に「壁紙」というのがある。壁紙というのは左右上下のない連続模様ということなら、このポロックの作品《無題》は壁紙ではない。

《無題》を眺めて思い浮かぶのは、小学生の「図画工作」だ。図工の先生が自分でまずやってみせる。画用紙に色をいろいろ塗って、そのあと黒いエナメルペイントを垂らして作る。気の利いた小学生ならそれなりに面白い作品ができあがる。

小学生の絵とポロックを比べることは無知もはなはだしいと言われそうだ。たしかに、この《無題》にもモダニズムの平面性や奥行きのイリュージョンとの格闘がある。ドリッピングは、キャンバスの物理的表面を顕在化する。

しかし、ドリッピングの技法は偶然を利用した手法なので、筆で描く手法とちがって、だれがやってもそこそこには支持体の物理的表面が露呈する。そういう意味では、小学生の作品にだって物理的表面と奥行きのイリュージョンはそこそこに生まれる。そういう意味では、小学生とポロックに違いはない。

違いがあるとすれば、それは、この《無題》がポロックの絵画の深層心理的な表現主義から表層的な抽象表現主義への移行、ひいてはアメリカの抽象画の文脈に収まっていることを示す作品だということだ。

ポロックの50年代のオールオーバーなポード絵画は、この《無題》よりも技法的に洗練され大きなキャンバスを使っているので、小学生にはとても無理だろう。それに、《無題》では色面とドリッピングされた絵具の表面が分離しているが、50年代の作品は絵画平面と浅い奥行きの空間は融合している。そういう意味では小学生に限らず、他の画家が模倣しようとしてもなかなか難しいといえる。

確かに難しいけれど、それはどちらかといえば職人の手業にちかい技巧的な難しさで、だからといって、わたしにはそれほど感動をともなったイリュージョンを呼び起こすわけではない。

とは言ってもポロックを理解するのをあきらめたわけではない。セザンヌの面白さだって理解するのに50年かかった。ポロックだって、そのうち分かるかもしれない。ただ、残念なことに日本ではポロックの主要な作品を見ることができない。ポロックは動かすと絵の具がはがれるおそれがあって、運搬が難しいそうだ。
2009.08.16[Sun] Post 19:55  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

ジャクソン・ポロックの問題(1)

村上春樹の『1Q84』の影響もあって、しばらく絵画について書いていない。芸術の秋も近いことだし、すこしずつ絵画についても書いていくつもりだ。



  『日本の美術館名品展』(東京都美術館)4:ジャクソン・ポロック

Jackson Pollock《無題》
Jackson Pollock 《無題》(1946年) 富山県立近代美術館



ポロック問題と名付けるべき問題がある(わたしが勝手にいっているだけだが)。ポロックを理解できる人間と出来ない人間がいる。セザンヌに関しても同じ事が言われる。会田誠はセザンヌが分からないという。セザンヌのどこがすごいのか、なぜ、そんなにいろんな言葉がくっついてくるのか分からないと会田は言う。私にはポロックがそういう画家だ。

グリーンバーグは評論「『アメリカ型』絵画」のなかで、デ・クーニングの分かりやすさは、ポロックを理解できない人々を安心させると言っている。これはもちろん「浅い空間のイリュージョン」にかかわることなのだが、技法から見れば、具象性の処理の仕方と筆のタッチの問題だろう。

デ・クーニングが分かりやすいのは、抽象画の成立の流れのなかで、古い絵画制度を残しているからだ。それに対してポロックのオールオーバーな絵画は、全くといっていいほど、それが具象画の制度であろうが抽象画の制度であろうが、それまでの古い絵画制度と縁を切っている。

川村美術館にポロックの《緑、黒、貴褐色、のコンポジション》(1951年)がある。これはドリッピングあるいはポード絵画なのだが、どこがおもしろいのか私にはわからない。左上に馬のような形がみえるのだが、デ・クーニングの「女」とちがって、壁のシミが偶然にそう見えるのと同じで、なんの感動もない。

おなじように浅い奥行きのイリュージョンも見えるのだが、それは「知覚心理学的な立体視」であって、ロスコやニューマンの具体的な図像主題のイリュージョンではない。

ポロックの革新性は頭では理解できるのだが、どうしても描かれた絵画としての訴えるもの、すなわち、わたしがいつも言っている《物理的絵画、絵画客観、絵画主題のあいだの弁証法的戯れ》が、ロスコやニューマンのようには無いような気がする。

それで、この富山県立近代美術館所蔵のこのポロックの絵をみた。まだ、オールオーバーなポード絵画以前の習作的な作品である。下層の絵画は構成的であるし、なにか動物のようなものも描かれている。その上からエナメルがドリッピングされている。ドリッピングとペインティングの混交重層のように見える。ここから上層のドリッピングだけがキャンバスの全面を覆って行き、ポード絵画が生まれた。芸術の純粋化というモダニズムの流れだ。

ポロックがこの絵からポード絵画に至ったことを思えば、岡崎乾二郎や津上みゆきなどの試みも意味のあることなのかもしれない。

『ジャクソン・ポロックの問題(2)』へ
2009.08.15[Sat] Post 00:51  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

村上春樹とサド侯爵(2)

『村上春樹とサド侯爵(1)』からつづく

『1Q84』の暴力は曖昧である。「さきがけ」はリーダーではなく、リトルピープルに支配されている。リトルピープルはピープルだから、ビッグ・ブラザーのような独裁者ではなく、民主主義の仲間かもしれない。だからこそ、青豆はリーダーを殺すことを躊躇したと考えればつじつまがある。

リーダーは、天吾を救うか青豆自身が生き延びるかの二者択一を青豆に迫る。そして、青豆は天吾をすくうためにリーダーを殺し、自らの死を選ぶ。リーダーを殺したのは暗殺者としての任務ではなく、天吾への愛のためだ。

『1Q84』の暴力は「愛のジレンマ」としてあらわれるが、『海辺のカフカ』の暴力は「暴力のジレンマ」としてあらわれる。暴力に抗するための暴力だ。

「暴力のジレンマ」は、『第16章』のジョニー・ウォーカーとナカタさんの対決のなかに現れる。猫の言葉が分かるナカタさんは、ひとに頼まれて、猫のゴマを探している。ジョニー・ウォーカーは猫の魂で笛を作るために猫を殺す。殺すために集めた猫のなかにゴマがいる。ジョニー・ウォーカーはナカタさんの目の前で猫の腹を割いて、切り取った心臓を口に入れる。次々と殺して最後にゴマを殺すという。

そしてジョニー・ウォーカーは言う。「私が猫たちを殺すか、あるいは君が私を殺すか、どちらかだ」と言う。ナカタさんは暴力を止めさせるために暴力を行使しなければならない。

ラスコーリニコフは、「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社 会道徳を踏み外す権利を持つ」(wiki)と、金貸しの老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てる。それにたいして、ジョニー・ウォーカーはただ笛を作るために猫を殺すという。

「いいかい、私がこうして猫たちを殺すのは、ただの楽しみのためではない。楽しみだけのためにたくさんの猫をころすほど、私は心を病んではいない。というか、私はそれほど暇人ではない。こうやって猫を集めて殺すのだってけっこう手間がかかるわけだからね。私が猫を殺すのは、その魂を集めるためだ。その集めた猫の魂を使ってとくべつな笛を作るんだ。そしてその笛を吹いて、もっと大きな魂をあつめる。そのもっと大きな魂を集めて、もっと大きな笛を作る。最後にはおそらく宇宙的な大きな笛ができあがるはずだ。しかしまず最初は猫だ。猫の魂を集めなければならない。それが出発点だ。かくかように、ものごとにはすべからく順番というものがある。順番をきちんと正確にまもるのは、つまり敬意の発露なんだ。魂を相手にするというのはそういうことだからね。パイナップルやメロンなんぞを扱うのとはわけが違う。そうだね。」
「はい」とナカタさんは返事をしたが、実のところさっぱりわけがわからなかった。

ジョニー・ウォーカーのいうことは、混乱している。ラスコーリニコフの理論は目的は手段を正当化するという合理主義の哲学であり、明晰な理論である。しかし、ジョニー・ウォーカーの言う「物事の順番」というのはわからない。そもそも笛を作るためになぜ猫の魂が必要なのだろうか。

ジョニー・ウォーカーが説明をすればするほど事態は謎に満ちてくる。笛の音は自分には聞こえるけれど、普通の人には聞こえないという。なぜ、笛をつくるのかジョニー・ウォーカーにも分かっていない。かれは生きることに疲れた。年齢を忘れるくらい長く生きて、猫を殺すのにも飽きてしまった。

「・・・・。 しかし生きている限り、猫を殺さないわけにはいかない。その魂を集めないわけにはいかない。順番をきちんと守って1から10に進み、10まで行ったらまた1に戻る。その果てしない繰り返しだ。」

ジョニー・ウォーカーはシジフォスの不条理を生きている。自分から止めるわけにはいかない。自殺もできない。誰かに頼んで殺してもらわなければならない。それが決まりだ。

思い出すのはサド侯爵だ。うろ覚えだが、サドの作品に、心臓を切り取ってヴァギナに挿入する場面があった。神が存在しなければすべてが許される。ジョニー・ウォーカーはナカタさんの目の前で猫の腹を切り裂き、心臓を取り出して、言う。

「ほら、これが心臓だ。まだ動いている。見てごらん」
 ジョニー・ウォーカーはそれをしばらくナカタさんに見せてから、当然のことのように、そのまま口の中に放り込んだ。そしてもぐもぐと口を動かした。何も 言わずに、それをじっくりと味わい、時間をかけて咀嚼した。その目には焼きたての菓子を口にしている子どものような、純粋な至福の色が漂っていた。それか ら口もとについた血糊を、手の甲でふき取った。舌の先で丁寧にくちびるを舐めた。
「温かくて新鮮だ。口の中でまだ動いている」

ジョニー・ウォーカーは楽しみのために猫を殺すのではないと言うが、彼は十分に楽しんでいる。
食欲が性欲のメタファーなのは村上春樹に限らないけれど、村上ほど食事をセックスの導入に使う作家はいない。ここでは食べることがそのまま性交になっている。

犬を食べていいなら猫だって食べていいはずだ。村上はポルノグラフィーをソフトにするように、カニバリズムをソフトにする。

「猫捕り」が猫を捕獲して、実験動物にしたり、三味線にしたりする。猫を三味線にするのは昔からだ。しかし、ジョニー・ウォーカーは三味線にするのではなく、猫の魂で笛を作るためだ。そして、その笛の音は普通のひとには聞こえない。ここのあるのは読者を混乱させるための謎々と象徴と寓意の混交物で、ただの思わせぶりにすぎない。

「猫殺し」を殺すことが許されるだろうか。たぶんナカタさんには許される。ナカタさんは小学生のとき先生の暴力で気を失い、それがもとで知恵遅れになった。彼は無垢の「白痴」なのだ。かれは猫と話ができる。かれは猫に名前をつける。そのお話ができる猫が目の前で殺されていく。

殺されるのはただの野良猫ではない。ナカタさんの友達の猫だ。ジョニー・ウォーカーはナカタさんを問いつめる

「まず、君は私を恐怖する。そして私を憎む。しかるのちに君は私を殺す」

ナカタさんにジョニー・ウォーカーを憎む理由がある。憎悪は「人殺し」を正当化できない、ただ、動機にはなる。しかし、ナカタさんは恐れおののくばかりで、憎しみはない。ナカタさんは無垢の「白痴」だからだ。そのかわり読者のなかに殺意が芽生える。

ジョニー・ウォーカーはシジフォスの苦役から解放されたいと願う。しかし、自殺はできない。それが決まりだ。その掟がどこからやってくるのかわからない。殺してくれと頼まれて殺すなら、それは嘱託殺人だ。しかし、憎悪をもって殺せば、殺人罪である。

「私が猫たちを殺すか、あるいは君が私をころすか、どちらかだ」とジョニー・ウォーカーは言うが、この二者択一は奇妙である。もちろん、暴力には暴力しかない。しかし、猫を殺すのを止めさせるためにジョニー・ウォーカーを殺す必要はない。怪我をさせれば十分だ。

猫たちを救うためにジョニーを殺す必要はない。殺すためには憎悪が必要だ。嘱託殺人ならジョニーの不死の運命にたいする同情が必要だ。ナカタさんには憎悪を同情もない。無垢なる「白痴」ゆえに、悪魔のジョニー・ウォーカーの誘惑に負けただけだ。「白痴」のナカタさんに罪はないというのが村上春樹の弁護論だ。

『第16章』は村上春樹の『罪と罰』になりうるだろうか。日本文学の中で、これほど深く宗教的問題を描いた小説はない、とひとまずは言える。しかし、それが成功しただろうか。意見は二つにわかれるだろう。

わたしもどちらかに決めかねている。『第16章』は、ジョニー・ウォーカーがナカタさんを、じつに巧みに、ジレンマに追い込んでいく。しかし、子細に読めば、わたしが上で分析したように、あからさまに破綻した論理を歯切れのよい文体にのせて誤魔化しているだけのようにおもえる。

それにもかからわず、『16章』は楽しめる。「暴力のジレンマ」も、まったくの仮構とはいえない。しかし、ほかの章はつまらない。父親殺しのテーマはとってつけたようだし、突然近親相姦を暗示するようなシーンも何か深い意味があるように見せる小道具以上のものではない。『罪と罰』はラスコーリニコフが老婆を殺したあとに物語が始まる。そこに救いのテーマが現れる。

しかし、ナカタさんの罪と罰は、エディプスの神話のメタファーのなかに紛れてしまう。

暴力と性のテーマは、『1Q84』のリーダーと青豆の対決よりも、『海辺のカフカ』のジョニー・ウォーカーとナカタさんの対決の中によくあらわれていることはたしかだ。
2009.08.11[Tue] Post 22:31  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹とサド侯爵(1)

性と暴力といえばマルキ・ド・サドだろう。

『1Q84』の評論はこの本を含めて、まだ本格的なものはでていない。ほとんどが春樹ファンクラブの会報か村上ワールドの攻略本の類だ。

村上のファンには、いろいろ蘊蓄をかたむけられるし、突っ込みどころまんさいだったりして、楽しみ方がたくさんあるようだけれど、端的に文学作品としての評価がない。

カルト教団とフェミニスト暗殺団をとおして、性と暴力が描かれているのだが、それが小説として成功しているかどうか、ということは、読んでおもしろく、同時に深く考えさせる物語になっているのかどうか、評論ならそこのところを書いてほしい。

暗殺団の世界は少し雑だけれど戯画化されていて楽しめなくはない。それにくらべ、カルト教団の世界は児童虐待が性暴力として描かれているだけで、内ゲバやテロの暴力は曖昧に描かれているだけで、結局はカルトのリーダーとフェミニスト青豆の対決は「愛のジレンマ」の二者択一の問題になっている。

この対決がドストエフスキーの『大審問官』の対決ではなく、映画の『地獄の黙示録』のカーツ大佐と暗殺者のウィラード大尉の対決を思い出させたのは、片方が暗殺者であり、もう片方のグルがそのことを知っており、自分の死を覚悟しているという状況が似ているからだ。

二巻までの物語の流れからみれば、宗教カルトとフェミニズムカルトは相打ちになって、リーダーの聖性はふかえりの秘儀によって天吾に伝えられ、どうやら幼なじみの天吾と青豆の二人の初恋が、次第に、センチメンタルなすれ違いの純愛物語になっていく。このあたりの展開はちょっとどうなんだろうと思うが、村上春樹には二人の性と愛の関係をどう展開するかの秘策があるのだろうか。

いまのところ、この物語の主題ははセンチメンタルな「愛によって世界を救えるか」という携帯小説になっている。

つづく
2009.08.08[Sat] Post 17:42  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『マイ・サマー・オブ・ラブ』パヴェル・パヴリコフスキー監督★★★☆

出だしは田舎道をモナがエンジンのないオートバイでいく。そこへ馬に乗ったタムジンがやってくる。道が画面の左側に伸びて、右は丘の斜面になっている。二人がならんで進むさまはドンキホーテとサンチョパンサのようだ。

イギリスの階級の対立があらわれていて、むかしの「怒れる若者」の時代を思い出す。

短編小説のような落ちがあって、映画としては少し古くさい。日本ではこんな映画は作れないだろう。階級、宗教、家族など何もない村上春樹の世界のポジなのかもしれない。たまにはこういう映画を見るのもわるくない。

2009.08.07[Fri] Post 00:48  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『ワルキューレ』ブライアン・シンガー監督☆

こんな駄作を見たことがない。冒頭のトム・クルーズが負傷するところからして駄目である。どこもかしこも駄目なので、どこが悪いか言うことさえできない。たぶん監督が映画を愛していないからだ。

それにトム・クルーズの演技がひどい。祖国(Vaterland)への愛がいっこうに感じられれない。ただの軍部の派閥争いにしかみえない。それと、暗殺を決行するとき妻と別れるシーンにしらけてしまった。『ラストサムライ』で俳優として何を学んだのだ。

シュタウフェンベルク大佐はなぜ自爆をテロをしなかったのだろう。

トム・クルーズにはやっぱり『トップ・ガン』の笑顔が似合う。
2009.08.06[Thu] Post 00:59  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『007/慰めの報酬』マーク・フォースター監督★★★

冒頭のアストン・マーチとアルファ・ロメオのカーチェイスは、スピードが速すぎて皮肉なことにかえってスピード感がない。前作の『カジノロワイヤル』と同じような追跡シーンもあったが、これも前作ほどではない。

タキシードは相変わらず似合わないが、ジャケット姿には驚いた。映画情報のサイトによると、主演のD.クレイグは今回のボンドはショーン・コネリーではなく、スティーブ・マックイーンを目指したそうだ。

なんてことをいう。女に未練たらたらなマックイーンなんているものか。はじめの方にウィスキーを飲むシーンがあるのだが、スコッチでもなしバーボンでもなし、ぜんぜん様になっていない。スティーブ・マックイーンをまねるなら『拳銃無宿』にかぎる。

2009.08.04[Tue] Post 00:07  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『チェンジリング』クリント・イーストウッド監督★★★

クリント・イーストウッドには同じように児童誘拐(性的虐待)をあつかった映画『ミスティック・リバー』がある。これはイーストウッドの最高傑作だったが、こちらの『チェンジリング』は母親の愛情が主題の普通の映画だ。

アンジェリーナ・ジョリーはアカデミー賞の女優主演賞にノミネートされているというが、セクシーな女優が地味な母親役でイメージチェンジを計ったという、日本の映画界でもよくある話以上のものではないようだ。もちろん母親役をやって映画賞をもらうというのは日本映画界と同じように大女優への道なのだろが、アンジェリーナ・ジョリーがそれに合格したがどうかは疑問だろう。

『ミスティック・リバー』は性的虐待がはっきりしたテーマだったが、『チェンジリング』はそのことははっきりと表にでてこない。もちろん母親の愛情がテーマにちがいないのだが、話題がいろいろ変化するので、見ていてどうも散漫な印象を受ける。シングル・マザーの問題、警察の腐敗、抑圧装置としての精神病院の問題、法廷もの、死刑囚の心理などなど、クリント・イーストウッドの映画にいつもある復活復讐のテーマはぼやけている。事件が発覚して、アンジェリーナだけではなく、他の患者も解放されるところは少しカタルシスがあるが、あとは息子の生存を信じている母親の物語にところどころ上司の恋心がはさんである。

これがイーストウッドの最後の作品だという噂もあるが、これが最後では少し寂しい。復活復讐のアクション映画をもう一本撮って欲しい。でも『ミスティック・リバー』以上の映画は無理だろう。それなら止めておいたほうがいい。





2009.08.03[Mon] Post 18:50  CO:0  TB:0  映画  Top▲

特集 「村上春樹『1Q84』を読み解く」(『文学界』八月号)

文学界の村上春樹特集を読んだ。以下の評論家が寄稿している。


加藤典洋 「『桁違い』の小説」、 清水良典 「〈父〉の空位」、 沼野充義 「読み終えたら200Q年の世界」、 藤井省三 「『1Q84』の中の『阿Q』の影  魯迅と村上春樹」


藤井省三の村上春樹論は文藝春秋社の『世界は村上春樹をどう読むか』で読んだ。中国との関わりを論じたもので、そういう村上解釈もあるのかと思った。

今度の藤井氏はカルト集団「さきがけ」のリーダーはヤマギシ会に所属した中国文学者新島淳良がモデルではないかと想像をたくましくするのだが、なんでも中国と結びつける藤井氏のやり方は『ノストラダムスの大予言』の解釈のようで、ちょっとドンデモになっていないか。

ほかの三人も少しトンデモ風である。それぞれ強調するところは異なるが、「父の死」や「父の空位」や「父親殺し」が『1Q84』のテーマだと言っている。たしかに、カルト教団やフェミニストの殺人集団の物語なら父や神や超越者がモチーフになってもおかしくない。

青豆たちはチャイルド・レイプやDVの被害者を救うために、加害者に保険を掛けて殺す。しかし、罪と罰の問題は生じないようだ。最後の仕事で、カルト教団のリーダーを殺すのだが、それはリーダーが世界を救済するために、自分を犠牲にするらしいのだが、そこの理屈は私にはよく分からなかった。ともかく、『地獄の黙示録』の対決よりリアルに描かれている。青豆がリーダーに施す整体術が性行為による男と女の戦いの様相をていするところは、村上春樹の独擅場である。

さきがけのチャイルド・レイプの性的秘儀は教祖の超越性を次に引き継ぐため(らしい)のだが、それもカルト教団の善悪二元論の教理だから、わたしには理解できないし、興味もない。だから、「空気さなぎ」、「パシヴァ=レシヴァ」、「マザ=ドウタ」などなどの言葉は思わせぶりなだけで、謎解きをする気はおきない。

『猫の町』という小説が出てくるが、その話を聞かされても、他人の夢の話を聞かされて、その解釈を強要されるようで、ただ不愉快なだけだ。ほかにもチェーホフの『サハリン島』やドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、それから『平家物語』などが出てくるのだが、それがどんな意味があるのか判らない。たぶん評論家の商売繁盛のためだろう。

ドストエフスキーの『大審問官』の教理問答が「さきがけ」の教理と関係があるらしいが、どんな関わりがあるのか私にはわからなかった。大審問官は言う。人々は自由な信仰には耐えられない。奇跡を望む。しかし、イエスは常に奇跡を起こすことはできない。そこで、われわれ聖職者が奇跡の代わりに秘蹟をおこなうことで人々にパンを与え、天国を約束したのだということではないか、わたしには聖職官僚の擁護論としか思えない。

「さきがけ」の善悪相対論と性行為の秘蹟がどうつながっているのか、青豆は納得したようだが、わたしには解らなかった。加藤、清水、沼野の三人の論者も父=神の図式は持ち出すのだが、それはカルトの中では近親相姦という形でしかあらわれていないのではないか。

『1Q84』で描かれるフェミニズムもカルト教団も性と暴力が融合した原理主義なのだが、殺人集団のフェミニズムの暴力性は、フェミニストは怒るだろうが、まあ、わからないことはない。でも、教団の方はSFファンタジーの世界で、荒唐無稽としかおもえない。

フェミニストたちは戯画化されているけれど、カルト教団については(性的秘儀をふくめて)、笑いが欠けている。現実のカルト教団オウム真理教には、まったくの自己戯画化があって、自称宗教学者たちを思いっきりからかっていたではないか。

普通に読めば、「父の不在」とか「王の暗殺」など、そんな大げさなことではなく、わたしの最初の印象「スラップスティックで始まった物語がハードボイルドになり、そして、ハードボイルドがメロドラマになる」というのが依然として正しい読み方のような気がする。

むかし菊田一夫の『君の名は』という「すれ違い」のラジオ・ドラマがあって、放送時間になると女風呂ががらがらになると言われた。ためしにその時間に女風呂をのぞいて見たけれど普段と変わらなかったような記憶がある。昭和の豆知識ね。
2009.08.01[Sat] Post 00:54  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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