ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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村上春樹VS小谷野敦 「もてる男」と「もてない男」

小谷野敦が『新潮45』に『日本人からセックスを奪ったのは誰か』というエッセイを書いている。もてない男には性体験のチャンスはないし、意を決して買春しても「童貞ED」のために失敗するという話を敷衍して、「妻だけED」や「夫だけ冷感症」の話を書いている。

小谷野氏は、「夫だけ冷感症」の女性が浮気をしたり、テレクラや出会い系で相手を捜しても、責める気にはならないと言う。もし、自分がEDになったら、谷崎潤一郎が松子夫人にいったように、「外で遊んできてもいいよ」と妻に言うつもりだそうだ。

谷崎は夫人に「外で遊ぶ」といったのはたぶん役者買いのようなことだとおもうが、小谷野氏はいったい妻にどこで遊んでこいというのだ。「もてない男」や「童貞ED」がいるように、「やってもらえない女性」や「浮気冷感症」もいるということにどうして思い至らないのだろう。

小谷野氏は村上春樹の『ノルウェイの森』を「モテ男小説」だという。そして、そこらじゅうで引用されているけれど、「美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞというやつに、どうして感情移入できるか、」と罵るのだけれど、本当にワタナベ君はそんなにもてるのだろうか。直子も緑もレイコも美人なのだろうか。

東京で一年ぶりに再会した直子は、見違えるほど痩せていて、「そして直子は僕がそれまで考えていたよりずっと綺麗だった」と書いている。また緑のことは同級生だということもしらなかったし、初めて話しかけられたときに「髪の長かったときの彼女は、僕の憶えている限りではまあごく普通の可愛い女の子だった。」と感想を述べている。そして、レイコの第一印象も「いくらか世をすねたところのある親切で腕のよい女大工みたいに見えた」ということだ。

ワタナベくんはモテ男ではないとおもう。もてない男が一生懸命もてようと努力しているのだ。小谷野敦はセックスは風邪薬だという。物語の結末でワタナベくんが得た結論も、ちょっと大騒ぎしすぎるけれど、同じだとおもう。

ところで、村上春樹の妻と小谷野敦の妻はどちらが美人だと皆さんは思いますか。
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2009.07.26[Sun] Post 02:56  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

亀山郁夫の『1Q84』論

亀山郁夫が『新潮45』に『神の夢、または《1Q84》のドストエフスキー』を書いている。

亀山氏は『1Q84』にドストエフスキーと同じように「父親殺し」のテーマがあるという。もちろんそれは神の沈黙や神の代理人にかさなるテーマである。これが村上の作品が世界文学たりえる理由だ。内田樹が村上文学の世界性は「父の不在」だということの裏返しだ。

いま『1Q84』が手元にないので確認できないが、ふかえりは父親らしいカルトのリーダーにレイプされたと暗示されている。とすれば青豆はフカエリの代わりにふかえりの父を殺したことになる。しかし、これはエディプス・コンプレックスとはいえない。ふかえりが殺すなら母親であろう。もちろんエディプス・コンプレックスなんて嘘っぱちだと思っている。

ドストエフスキーの「大審問官」の主題があらわれるのはもちろんカルトのリーダーと暗殺者青豆との対決のなかだ。たしかに善をなすために悪が必要だと言うのだが、学生運動がカルト集団になり、リーダーが教祖になって性的秘儀を行う理由はちょっとわからない。もっとも分からないのがカルトの教理だが。

私は、殺し屋青豆とリーダーの対決のところで『地獄の黙示録』のカーツ大佐と殺し屋ウィラード大尉の対決をおもいだしたのだが、とくに大審問官のことは思い出さなかった。性と暴力のテーマはフェミニズムの戯画化としては巧みに表現されてはいるが、カルト教団の性と暴力の表現は中途半端におわっている。

リーダーの述べる教理も何か特別の深い意味があるとは思えない。カルトの教理なんて何の意味もないことはオウムで判っていることだ。村上は『アンダーグランド』でインタビューをした被害者にいったい何を聞きたかったのだろう。そんなところに神の不在証明をもとめても無駄だろう。

村上春樹は『大審問官』をわかりやすくした小説を書きたいと言っている。『1Q84』はその試みの一つらしい。続編があるのかどうか判らないが、これまでのところ、成功しているとは思えない。「大審問官」のなかに、折檻された小さな子供が寒い便所の中で「神様助けてください」と泣き叫ぶ話が神の不在証明として出てくるが、『1Q84』のレイプはそのことを暗示しているのかもしれない。
2009.07.24[Fri] Post 02:19  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『ノルウェイの森』再読(5)

ワタナベ君の両天秤を確認しようともういちど読み返した。緑のアパートを出たあと電車で帰るときワタナベが何をしたか憶えている人はいるだろうか。夕刊を買って電車の中で読むのだ。もちろん読めるわけがない。読んでも頭に入らない。ワタナベ君はちょっとだけ動転している。

これを読んでワタナベ君をいい人だと思う人もいるだろうし、「ちぇっ、ワタナベの奴またやってらあ」とにがにがしく思う人もいるだろう。まあ、そんなことはともかく、ワタナベ君はじつは両天秤をかけていなかったと言い出すのだ。緑と自分は愛し合っているというのだ。ついさっきまで、曖昧戦略をとっていたのに、電車の中で、「じつは緑を愛しているのです。直子への愛は別の形の純粋な愛なのです。」と言いだす。

それでレイコに手紙を書く。両天秤ではないということをわざわざ直子に言うひつようはない。直子に伝えるべきことは、ただ一つ、もう自分が待たないということだけだ。直子に直接言わないのはしかたない。でも、このレイコへの手紙がレイコへのラブレターになっているのは、さすがにワタナベ君である。

直子はワタナベとは分かれるとレイコに伝え、自殺してしまう。ワタナベは悲しんで一人旅にでて、浜で泣いていると老いた若い漁師が慰めてくれる。療養所をでて旭川へ行く途中レイコはワタナベを訪ねてくる。直子の形見分けの服を着たレイコと二人で直子の葬式をしたあと、二人は四回交わる。

筋だけかけば三文小説だ。紋切り型を集めて、そこからまったく新しい世界を作り出すこともできる。『ノルウェイの森』がそうかどうか判らない。判断停止、しばらく待て。
2009.07.23[Thu] Post 00:51  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『ノルウェイの森』再読(4) (ワタナベくんの両天秤)

なぜ、ワタナベは緑の手で射精したことをレイコに手紙でしらせたのか。

それまで、「直子=レイコ=ワタナベ」と「ワタナベ=緑=緑の恋人」の二つだった三角形が、緑が恋人と別れることによって、「直子=ワタナベ=緑」の一つの三角形になる。というよりもワタナベが直子と緑の二人を両天秤に掛けることになる。

直子はワタナベとの初体験のときは、濡れたしエクスタシーも感じた。しかし、二回目は濡れることもなく、挿入も不可能だったので、手でワタナベの射精を手伝う。直子に対する愛のためなのか、ワタナベは性処理のためのナンパはやめている。しかし、同級生の緑と知り合い、物干し台でキスをしたり、緑の部屋で一晩過ごしたり、ポルノ映画を見たりして、得意げに友情ごっこをしているうちに、お互いに欲望(と愛情)が高まっていく。緑はそれまでのボーイフレンドと別れることでワタナベに愛を告白する。ワタナベも緑が好きだという。

さあてさて、盛り上がった二人の運命やいかに。緑はワタナベに抱いて欲しい。ワタナベは直子のことがあるのでそうは簡単にいかない。緑は「わたしならやっちゃうけどな。」と言う。

「そしてやっちゃてから考えるけどなあ」
「本当にそうする?」
「嘘よ」と緑は小さな声で言った。「私もやらないと思うわ。もし私があなただったら、やはりやらないと思う。そして私、あなたのそういうところが好きなの。本当に本当にすきなのよ」

そして、緑は下着を脱いで、そのなかに手を使って射精させる。緑が胸やあそこをさわりたいかと訊ねたけれどワタナベは我慢する。

ワタナベは挿入を我慢して緑の手で射精することで、直子に義理立てをし、同時に緑も大切に思っていることを示したのだ。しかし、ワタナベが緑の胸もあそこさわらず、緑の手で我慢しているのは、緑を大切に思っている証だと緑は考えているのだが、それはまったくの嘘である。ワタナベは自分の欲望の充足だけを考えて、緑の欲望のことなどひとつも気にしていない卑劣漢である。

ワタナベは男と女のゲームにさんざんつきあって緑を誘惑したあげく、「ねえ、私は生身の血のかよった女の子なのよ」といって、雨の中ずぶぬれになって緑と抱擁する。そして、緑の部屋で胸や、たぶん濡れているだろうあそこをさわってほしいと遠回しにいっているのに、さわってやらず、ただ、緑の脱いだ下着に射精する。

緑はワタナベが自分の下着に射精した大量の精液をみて満足する女として描かれている。それだけか、そのあと緑は買い物に行きワタナベのために食事を作り、「沢山食べていっぱい精液を作るのよ」と言う。腹が立つので引用はやめる。自分で読んでくれ。フェミニストでなくても腹が立ってくる。

冒頭の「なぜ、ワタナベは緑の手で射精したことをレイコに手紙でしらせたのか。」の答えは次回です。
2009.07.19[Sun] Post 01:43  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』の高級レストラン

七月十七日の『産経抄』(MNS産経ニュース)に『1Q84』を枕にしたコラムが載っていた。

▼「まずい」と文句をつけて、突っ返すことができるものといえば、テイスティングの機会があるワインが挙げられる。発行部数200万部を突破した超のつく話題の長編小説『1Q84』のなかに、こんな場面がある。
▼主人公の一人、青豆が、友人とフランス料理店のテーブルにつくと、知り合いのシェフが、サービスだと、高級ワインをもってきた。前日に訪れたさる高名な政治家が、味にクレームをつけたワインだが、実はなんの問題もないと、シェフはいう。
▼「ほんとうはワインのことなんてろくにわかっちゃいないんだ。ただ人の手前、かっこうをつけるためにいちおうクレームをつけるんだよ」。全体は奇想天外な物語なのに、細部は驚くほどリアルに描かれている作品だから、このエピソードも、作者の村上春樹さんの見聞に基づいているに違いない。


このあと、『産経抄』のコラムニストは、麻生首相にクレームをつけた自民党議員を、このワインの味にクレームをつけた客になぞらえているのだが、それはともかく、私はこの場面を、ワイン通ぶった客の俗物性(レトロな言葉だ)を批判した場面だとは思わなかった。

そうではなく、どちらかといえば、

青豆は相手にショーン・コネリーのような禿げた中年男(あきらかに父のイメージだ)を好み、女性警察官が男から受けとった金で、知り合いがシェフをしてい る有名レストランで格安で食事をする。しかも、シェフはワインのわからない客が知ったかぶりで交換させたという高級ワインを、その客をわらいものにしなが らサービスするところは林真理子のエッセイの世界である。(『ノルウェーの森』再読1


とブログに書いたように、フェミニズム批判として読んだ。フェミニストの敵であるらしい林真理子のセレブ自慢のひとつに、有名レストランでメニューにない料理を出してもらうというのがある。これはまだいい。自分が特別扱いされて喜びたければ喜んでいればいい。しかし、シェフだろうがボーイだろうが、レストランのスタッフが他の客の悪口をいうのを聞いて喜ぶというのはいかなる魂胆か。他の客の悪口を自分に言うということは、自分の悪口も他の客にいっていることではないか。(これは郭などで、他の客を野暮だと悪口をいう手練手管に似ていないか)

『産経抄』は、「このエピソードも、作者の村上春樹さんの見聞に基づいているに違いない」と褒めている。たしかに村上春樹がやっていたジャズ喫茶はマスターと客が私的な会話をするのがウリの店だったようだが、それならなおさら他の客の悪口を言うのは、営業上まずいというだけではなく、客商売の道義に悖ることぐらい知っているだろう。

ともかく、この場面を読んだとき、非常にいやな感じがしたけれど、読み進むうちに、これはフェミニズム批判なのだと思った。なにより、相棒のあゆみが男から受け取った「売春代」で、シェフを知っている高級レストランに行って、味のわからない政治家が換えさせた高級ワインを格安で、その政治家の悪口をシェフが言うのを聞きながら飲むなんて、青豆の批判としか考えられないからだ。

フェミニストには売春を支持する一派もいるらしい。かれらに言わせると結婚こそ男性による女性の性搾取であり、それにくらべると売春は性的サービスに対する代価をそのつど受け取るのだから、男女は平等になるという(本当にこんなこと言ってるかどうかしりません。いま、私が勝手に考えた理屈です)。それなら、あゆみが代金をもらったのもフェミニズムの教理に反しないことになる。

しかし、そうだろうか。青豆たちは自分の性欲処理のために男を利用したのだから、むしろ代金を払うのは青豆のほうではないか。そうじゃない、むこうだって満足を得ているのだから、すで代価は与えている。セックスなんて相互オナニーのようなものだ云々、フェミニズムの議論なんて大抵は神学論争のような屁理屈である。議論してもはじまらない。

わたしには『1Q84』のテーマはカルト的なフェミニズムの暴力性をメロドラマの純愛で浄化することだとおもっていた。しかし『産経抄』のコラムを読むとそうとばかりいえないようだ。村上春樹はどうやら色男の手練手管に思った以上に長けているようだ。そうおもうとエルサレム賞のスピーチもそうとう怪しくなってくる。

村上には日本の近代文学の「誠実の主題」が隠されている。


2009.07.17[Fri] Post 23:09  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『ノルウェイの森』再読(3)

『ノルウェイの森』を読了した。

『ノルウェーの森』の第四章の出だしは、大学解体を叫んでいる同級生が単位をとるのに汲々としているのを軽蔑して、主人公のワタナベは授業に出ても出席の返事をしなかったというところから始まる。

つまらないことを自慢していると思ったら、なんと言うことだ、これはじつは手練手管だったのだ。ワタナベが授業のあと、レストランで昼食を食べていると、さっそく女の子が声をかけてきて、「ねえ、どうして今日授業で出席取ったとき返事しなかったの?」ときく。ワタナベが「今日はあまり返事したくなかったんだ」と答えると、女の子は、『今日はあまり返事したくなかったんだ』とワタナベの返事を繰り返し、「ねえ、あなたってなんだかハンフリー・ボガート見たいなしゃべり方するのね。クールでタフで」という。ちょっとどころか大いに笑える。女性を小馬鹿にしているような気もするけれど、まあ、どっちもどっちということか。

これがポルノなのか純愛物語なのかはさておいて、よくわからないことが二つある。ひとつはワタナベくんの童貞喪失のことにいっさいふれていないことだ。あれほど女性の中への射精にこだわる男が、たとえ愛していなくても初めての経験について何も語らないのは不思議である。

キズキが死んだ後、ワタナベはある女の子と仲良くなり半年のあいだ関係が続いたが、彼女は何も訴えてくるものがなかった。東京の大学に入学し、彼女と別れることになる。女の子は言う。

「あなたは私ともう寝ちゃったから、私のことなんかどうでもよくなっちゃったんでしょう?」と彼女は言って泣いた。
「そうじゃないよ」と僕は言った。僕はただその町を離れたかっただけなのだ。でも彼女は理解しなかった。そして我々は別れた。東京に向かう新幹線のなかで僕は彼女の良い部分や優れた部分を思い出し、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れることにした。


女に紋切り型の愁嘆場を演じさせ、自分は自分で紋切り型の反省の台詞を言う。ワタナベくんは最初から性経験豊富な色男なのである。東京で永沢といっしょにナンパした女に対する邪険な態度もすでに立派な色男である。

こんな男を主人公にした小説を、なぜ女は夢中で読むのだろう。自分は直子や緑の側の人間だと思っているのだろうか。

もう一つ分からないことは、ワタナベが緑に手で手伝ってもらい、緑の下着に射精したことを、わざわざレイコに手紙で報せたのは何故かということ。もちろん深い意味はない。手練手管だ。

次回につづく。
2009.07.16[Thu] Post 01:10  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『小説から遠く離れて』蓮實重彦 『ノルウェーの森』再読(2)


小谷野敦の『反=文藝評論』の副題は『文壇を遠く離れて』で、これは蓮實重彦の『小説から遠く離れて』から取ったものらしい。この本は一度読んだことがある。バルトの詐欺的な構造分析の手法を真似たものだろう。説話的構造の分析と称して、意味と構造をごっちゃにした、結局は何を言いたいのかいっこうにわからない饒舌にただただ感心するばかりで、結局は途中で読むのを止めてしまった。

冒頭、井上ひさしの『吉里吉里人』と村上春樹の『羊をめぐる冒険』の比較分析をしている。はじめの部分を読み返してみたけれど、今更ながら感興がわかない。比較といわれても、『吉里吉里人』はなにしろ数ページ読んだだけで、そのユーモアを気取った政治漫画風のお笑いにおそれをなして読むのをやめた。

ともかく『吉里吉里人』も『羊をめぐる冒険』も「依頼と代行」による「宝探し」の物語だと蓮實氏はいう。そして「テクストとしての小説の言葉は代置や交換をかたくなにこばんでいるが、構造としての物語はむしろそれを歓迎する。」(『小説から遠く離れて』p25)と続けける。

「小説の言葉」が代置や交換をこばむのは、それがコノテーションに汚染されているからだ。それに比べ「構造としての物語」が代置変換が可能なのは、それが意味の希薄化した構造だからだ。

そもそもレヴィ・ストロースの構造主義の間違いは、差異のシステムとしての構造と、意味の分節化としての構造をごちゃ混ぜにしてしまったことだ。確かに言葉(シニフィアン)と意味(シニフィエ)は密着しており、コインの裏と表のようではあるが、両者の関係はあくまで恣意的だ。

レヴィ・ストロースの『親族の基本構造』は音韻論を社会制度に適用したものだが、親族の呼称の弁別差異のシステムを発見したわけではなく、ただ、親族制度のなかに数学的関係を発見し、その意味分析をしただけだ。

差異のシステムである音韻論は「おじ」と「おば」が異なる言葉(記号)として使用可能だということを説明するが、実際にどの音韻の組み合わせを「語彙」として使うか、そしてそれが実際にどんな意味なのかは約定的慣習的にきまる。耳の不自由な者にとって慣れ親しんだ手話は音声言語よりはるかに生きた言葉なのだが、それは彼らにとって、音声より視覚イメージを使ったほうが、差異のシステムの操作が容易だからだ。

構造が記号と意味のアマルガムであることは変形(生成)文法を見ればわかる。単純な規則で文の構造を変換したり、文の要素に別の要素や文を代入して、普遍の構造を導き出す。

構造には表層構造あり、それを変形した深層構造がある。同じように、表層の意味があって、深層の意味がある。そして、この表層がシニフィアン(意味するもの)に、深層がシニフィエ(意味されるもの)になる。この方法を作り出したのは構造主義ではなくフロイトの精神分析だ。構造主義と精神分析が親和的なのは偶然ではない。

まだ、途中だが『ノルウェーの森』には幾つもの三角構造が出てくる。始まりは「直子とキズキとワタナベ」のトリオ、キズキが自殺して、その代わりレイコが入ってきて「レイコと直子とワタナベ」になる。レイコの過去には「レイコと十七歳のレズの子と夫」の三角形があり、レイコは離婚している。東京の寮では「永沢とハツミとワタナベ」、大学では「ワタナベと緑とそのボーイフレンド」の三角形がある。ほかに三角形ではなく寮の同居人である「突撃隊」との対関係がある。この「もてる=もてない」の二項対立は他の不安定な三角構造の支柱の働きをしている。

おそらく、構造主義者ならば、この三角構造を変換し代置することで、いくつもの表層的な三角構造の深層に、たとえば、ポストモダンの衣装で着飾ったエディプスの三角形なんぞを持ち出したりするのかもしれない。しかし、小説を読む楽しみは、絵を見る楽しみと同じように、ひたすら表層に身を任せることだ。素直に読めば、『ノルウェーの森』の三角形は「情痴の三角関係」だと判る。

もちろん、まだ、最後まで読んではいないのだが、『ノルウェーの森』と比較すると、『1Q84』は情痴小説からなんとか抜け出そうとしているようには見える。

いま、『ノルウェーの森』の九章までよんだ。もう少しで終わる。

2009.07.15[Wed] Post 01:05  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『ノルウェイの森』再読(1)

今度は最後まで読むぞと意気込んで読み始めたけれど、第三章まで読んで、ほうりなげたくなった。村上は愛のあるセックスと性欲処理のセックスは別だと言いたいのだろうが、その紋切り型の女性蔑視の描写には閉口する。

この性欲処理としてのセックスは、『1Q84』では、青豆のシングル・バーでのマンハントとして、女性側から戯画的にえがかれているわけだが、青豆は酔って前後不覚のときに肛門性交され、女友達の女性警官は手錠を使ったSMプレイの最中に誤って殺される。

青豆は相手にショーン・コネリーのような禿げた中年男(あきらかに父のイメージだ)を好み、女性警察官が男から受けとった金で、知り合いがシェフをしている有名レストランで格安で食事をする。しかも、シェフはワインのわからない客が知ったかぶりで交換させたという高級ワインを、その客をわらいものにしながらサービスするところは林真理子のエッセイの世界である。

ほかにも、男を誘うために、ブラウスの第一ボタンをはずしたり、ヴァージニア・スリムをすったり、胸が小さいと嘆いたりと、これはどう見たってフェミニズム批判というより、女性差別ではないか。挙げ句の果てに、女性警官は殺され、青豆は拳銃を口にくわえて自殺するのだ。いったい、村上春樹は男に性欲処理を認めて女には認めないというのだろうか。

小谷野敦は性は風邪薬だという。対症療法であって治療薬ではないということだ。女にだって風邪薬を飲む権利はある。

『ノルウェイの森』をまだまだ読みます。第四章は大学紛争のことが書いてあるのだが、大学解体を叫んでいる同級生が単位をとるのに汲々としているのを軽蔑して、主人公は授業に出ても出欠の返事をしなかったと、つまらないことを自慢している。やれやれ。
2009.07.11[Sat] Post 23:00  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『反=文芸評論』小谷野敦

昨日アマゾンに注文しておいた『反=文芸評論』が届いた。さっそく読んだ。まったく小谷野敦の村上評は正しい。

「『モテ男小説』を粉砕せよ!」なんてびっくりマークが付いていると、キワモノみたいだが、そうではない。そのことは、『藤堂志津子と日本のリアリズム』のセックス論を読めばわかる。

性は「もてない男」の視点から、暴力は「いじめの体験」から出発しながら、小谷野氏は普遍に達している。村上春樹は批評は読まないと言っているようだが、この小谷野氏の批評は読んでいるのではないか。『1Q84』は小谷野の批判に対する反論のようにみえる。成功しているとは思えないけれど。

『ノルウェイの森』はニョウボが東京から持ってきてくれた。再度挑戦する。

ところで、素朴な疑問だが、村上春樹は「もてる男」なのだろうか。写真で見る限りどちらかというと小谷野氏タイプのような気がする。それに、IVYなのか西海岸なのかしらないが、ファッションがぜんぜん似合っていない。アイロンの掛け方は上手らしいが。といっても誰も見たわけではない。こうやって女をだますのだ。小谷野氏も学んだほうがいいと思う。

柄谷とか蓮見とか、文芸評論というものがおもしろいと思ったことはないけれど、これは読んで得した気分になる評論集だ。かねがね変だなあと思っていたことがちゃんと何故変なのか書いてある。




2009.07.11[Sat] Post 01:29  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹論を十冊借りてきた。

図書館で村上春樹論の本を十冊借りてきた。

1 『文壇アイドル論』斎藤美奈子(岩波書店) 「村上春樹 ゲーム批評にあけくれて」

2 『村上春樹にご用心』内田樹(ARTES)

3 『世界は村上春樹をどう読むか』柴田・沼野・藤井・四方田・・・編(文藝春秋)

4 『群像日本の作家 村上春樹』評論集(小学館)

5 『村上春樹とアメリカ』吉田春生(彩流社)

6 『イエローページ 村上春樹1・2』加藤典洋(荒地出版社)

7 『謎とき 村上春樹』石原千秋(光文社新書)

8 『MURAKAMI 龍と春樹の時代』清水良典(幻冬社新書)

9 『村上春樹はくせになる』清水良典(朝日新書)


小谷野敦の『反=文藝評論』(新曜社)を借りにいったのだけれど所蔵していなかった。仕方ないので開架式にある村上春樹論を十冊借りてきた。『反=文芸評論』所収の「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」には、村上の性について書かれているらしいので、読んでみようと思ったのだ。

ずいぶん前に小説を読む習慣はなくなっていた。なんとかがんばって読んでいた芥川賞も読まなくなった。最後に夢中になって読んだ小説は『羊をめぐる冒険』である。村上のほかの短編や翻訳を読んでみたが、おもしろくはなかった。『ノルウェーの森』は話題に乗り遅れないように読んだが、精神を病んでいる女性とのセックス場面が薄気味悪くて我慢できずに読むのをやめた。

それ以来、村上春樹には手を出さなかった。ノーベル賞やカフカ賞の騒ぎも関心がなかった。ところが、今回のエルサレム賞のスピーチが的はずれな批判にさらされているのを知って、それなら新しく出る『1Q84』を読んで見ようという気になった。

それで、ともかく久しぶりに小説を読む楽しみを味わえた。村上春樹をこんりんざい読むまいと思ったのは『ノルウェーの森』のセックス描写のためである。それが『1Q84』の性描写にも似たような薄気味の悪さがありながら、ともかく最後まで読んだのだから、それなりの理由がある。それを分析するつもりだ。

『ノルウェーの森』は東京にあるので、ニョウボに今度持ってきてもらう。『反=文芸評論』はアマゾンに注文した。在庫があるというのだから直に到着するだろう。
2009.07.08[Wed] Post 02:07  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』の性と暴力(1)

村上春樹がエルサレム賞の授賞式に出席したことを非難されたとき、私は大江健三郎ならガザの子供たちの側に立って授賞を拒否しただろうと書いた。もちろん村上春樹を支持してのことだ。(記事『村上春樹のジレンマ』

村上春樹の最新作『1Q84』のテーマが「性と暴力」だと聞いて、同じように大江健三郎を思い出した。わたしと同世代ならたぶんみんなそうだろう。

もちろんこのことで村上春樹と比較されるのは、中上健次なのだが、あいにくほとんど読んでいない。『枯木灘』など、いくつかの作品を読もうとしたことはあるが、人間の性(サガ)とか業とか血とか心象風景とか、文体の工夫があるのだろうが、性と暴力が人間の魂(深層心理)の表現あるは象徴であるがごとき、そのあまりに古めかしい文学的図式に閉口して、どれも途中で投げ出した。(村上春樹の批判者が中上健次の支持者とほぼ重なるのは偶然ではない)

大江健三郎の性と暴力と言えば、『セブンティーン』や『性的人間』だ。両方とも半世紀ちかく前に読んだので記憶は定かではないが、『性的人間』は痴漢の話だったように憶えている。電車の中で女の尻を触ることが実存の証であるというサルトル(?)風の行為哲学の実践という荒唐無稽な話である。痴漢のところまで読んで、あきれてあとは読んでいないので、結末はしらない。

『セブンティーン』は自涜行為とテロを結びつけたもので、ナイフがペニスの象徴になっているのはいうまでもない。たしかにこれは大江の初期の傑作の一つだとおもうが、天皇を超自我とする右翼のテロの図式性は、連合赤軍の神なきリンチの図式性と重なって見える。どちらもマッチョな男根中心主義なのだ。

村上春樹は性を脱記号化する。性行為が自分以外のものを意味しない。性からすべての象徴性と内面性を剥ぎ取る。村上の性描写が薄気味が悪いのは、それが性行為以外の何ものもあらわさないからだ。

また、村上は性からできるかぎり暴力的なものを取り去る。小谷野敦は

「巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている「喪失」だの「孤独」だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公 の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と「寝て」くれて、かつ二十代の間に「何人かの女の子と寝た」なぞと言うやつに、どうして感情移入で きるか」(Wikipediaから孫引き)

と言う。もちろん、もてない小谷野氏がもてる男をやっかんでいるのだが、感情移入ができないのは、それだけではない。村上の主人公が、持てることを、自慢話にならないように、自慢しているのが腹立たしいのだ。俺にはちゃんと判っているぞ、というわけだ。

もちろん小谷野氏は正しい。しかし、村上の「性」には自慢話以上のものがある。男がもてるということは、性のおいて女と男が対等になれるということだ。男と女が受動性と能動性をいわば相互に贈与しあうことによって。

このことは一種の通俗性としてあらわれる。『1Q84』でも、主人公の天吾は「人妻との週一回の定期的なセックス」をする。人妻なんてAVビデオみたいで、自慢にもならないけれど、ふたりは、缶ビールを二本のむように、会えば二度セックスをする。この二度のセックスというのは、情熱的でもなく、さりとて事務的でもない、二人の充足した性的関係をあらわしている。あるとき人妻の夫から「もう妻はあなたにあいません」という電話がある。二人の関係は都合良く終わり、次の女性が現れる。

このセックスをばかばかしいと思うか、それとも缶ビール二本飲んだときのような心地よい気分になれるかで、村上的世界の好き嫌いがわかれるのではないか。

村上春樹は、『1Q84』のたくさんのセックス場面はひとをうんざりさせるかもしれないけれど、必要なものだったと、ガーディアンのインタービューに答えている。さて、他のセックス場面を見ていこう。

つづく
2009.07.04[Sat] Post 01:10  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

シモン・ペレス大統領の怒り

村上春樹がエルサレム賞授賞式で、イスラエルの圧倒的な軍事力によるガザ攻撃を非難した。そのことで、イスラエル大統領のシモン・ペレスが怒ったと村上春樹自身が『文藝春秋』のインタービューで言っていた。しかし、それは大統領の誤解だと、以前の記事に書いた。村上が一方的にイスラエルを非難し、パレスチナを擁護したわけではないからだ。

この本を読むと、パレスチナのアラファトはテロによって無差別にイスラエルの民間人を殺害し、イスラエルの報復を受けることで同情を買い、欧米やイスラム世界からの援助で私服を肥やしていることや、イスラエルがいかに民間人から犠牲者をださないように戦っていることもよくわかる。それにもかかわらず「暴力の連鎖」とか「双方の暴力」と言われてイスラエルは非難される。

2002年にハマスの拠点であるジェニンの難民キャンプを攻撃したときも、もっとも危険と言われた拠点にかかわらず、自国兵士にはリスクのあるけれど、民間人に被害が少ない作戦をとった。空軍や重火器も使わなかった。作戦終了時点でのパレスチナの死者52人、ほとんど武装しており、イスラエル側の死者は23人だった。(国連の調査では26人が武装) またこのことで、戦死したイスラエル兵士の遺族が、軍がリスクの大きい作戦をとったということで、政府を裁判所に訴えたということだ。

それにもかかわらず、欧米のマスコミはパレスチナ側の虚偽情報にもとづいて、『ジェニン大虐殺』だといってイスラエル非難をした。

こんなことがあれば、大統領が村上の発言に怒ってあたりまえだ。村上のスピーチには「暴力の連鎖」や「双方の暴力」という喧嘩両成敗的なところがあるけれど、この本の著者はそういう宥和的な態度が圧政とテロを生むと言う。独裁者は国民を恐怖政治で支配し、彼らの不満を外国に向けるための教育をする。独裁国家とは妥協ではなく、自由と民主主義が必要だという。

この本の著者はソ連でユダヤ人の移住の権利を求める政治運動で9年間の収容所生活を経て、イスラエルに移住した。ネオコンのバイブルだそうだ。ネオコンは本来は自由と民主主義を重視するリベラルな思想なのだが、ブッシュ政権の産軍複合体の利権と結びついてしまったことで誤解を受けている。

この本を読まなくても、たとえば防御フェンスは人権を考慮しながらテロの被害を最小にする最良の方法であることはすぐに解るではないか。だれだって、あの高い塀を見たら驚くだろが、アメリカとメキシコの国境にあれと同じ塀ある。






2009.07.03[Fri] Post 03:20  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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