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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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村上春樹のアンチフェミニズム

英国の『ガーディアン』に村上春樹の新作に関するインタービュー記事が載った。その最後の部分を引用する。

He'd also wanted to "delve deeper into how women feel or think" in this latest novel, and admitted that violence and sex had "become more important issues" for him over his 30-year writing career. "These two elements can be described as important doors for entering deep inside the human soul," he said. "Peeling away human skin, chopping off a cat's head ... This latest novel doesn't have such cruel descriptions in it, but there are a considerable number of sex-related scenes.This may be a real turn-off for some people, but it's necessary in this story."

Although 1Q84 has already sold almost 1.5m copies in Japan, Murakami said that "what counts isn't the number of copies a book sells but how the novelist's messages can reach the readers".(guardian.co.uk, Friday 26 June 2009 13.25 BST)

村上はまたこの最新作で女性がいかに感じ考えるか深く掘り下げようと思った。そして、三十年以上にわたる作家としての経歴のなかで、暴力と性が「ますます重要な問題」になってきた。「この暴力と性の二つの要素は人間の魂の内奥に入る重要な扉と言えるのです。」そして「人間の皮を剥いだり、猫の首を切断したり・・・ この最新作にはそんな残酷な描写はありません。でも、非常にたくさんの性的な場面があります。そんな場面は人によってはまったくうんざりさせるでしょう。しかし、この物語には必要だったんです。」と言う。

『1Q84』は日本ですでに150万冊売れているけれど、「本というのは何冊売れたかじゃなくて、作家のメッセージがどうやって読者に届いたかが大切なのだ」と村上は言う。(拙訳)


内田樹

村上春樹が世界的なポピュラリティを獲得したのは、その作品に「世界性」があるからである。 当たり前だね。 では、その「世界性とは何か」ということになると、これについて私はまだ納得のゆく説明を聞いたことがない。 そこで私の説を語る。 村上文学には「父」が登場しない。 だから村上文学は世界的になった。 以上、説明終わり。

と言っている。

もちろん父を持ち出せば、その不在を含めてすべてを説明できる。父をファロスに置き換えれば、壮大な精神分析の伽藍が出来上がる。罰したり許す神にすれば宗教的世界が展開する。

『1Q84』にも滑稽なかたちで父は出てくる。女主人公の青豆は性処理の相手にショーン・コネリーのような禿げた中年の男を選ぶ。また、男主人公の天吾は、母親の乳房を知らない男が吸っているのを赤ん坊のとき見たと信じている。そして、惚けて施設に入っている父親に、自分の本当の父は誰なのかと尋ねる。これも、父の不在には違いない。

村上春樹の世界はいろいろな仕掛けが施してあるので、何か一つのキーワードで謎解きをしようとすると、結局は箱の中身は空っぽだと腹を立てることになる。

この『1Q84』は、性と暴力という普遍的な問題をフェミニズムとカルト教団を通して語るところに工夫がある。ラディカル・フェミニストは性=暴力(すべてのセックスは男の女に対する暴力である)のシステムを信奉している。カルト教団も子供をレイプすることで、(性+暴力)=救済の宗教的秘儀をおこなう。

フェミニストの青豆はさきがけのリーダーを殺すのだが、結局はその暴力が自分に向けられ、拳銃を口に入れて自殺する。

全体の流れとしては、性=暴力のシステムに捕らわれたフェミニストが、優しい淡々とした、人によっては気味の悪い村上的セックスによって救済されるという展開のようだ。

終わりのほうに、青豆がベランダで、天吾がその下に見える公園で、それぞれ二つに見える月を眺めながら相手のことを思い出している場面がある。青豆が月を見ている男が天吾ではないかと思い下に降りていくが、男はすでにいない。これも世界性といえば世界性だが、ハーレクイン・ロマンの世界性である。問題は戯画化されたフェミニズム批判が読者に受け入れられるかだろう。
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2009.06.30[Tue] Post 03:05  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

分権ファシズムと友愛ファシズム(3)

ファシズムに対抗できるのはファシズムだけだと、なかば巫山戯て書いたらどうやら図星だったようだ。

みのもんたがTBS「みのもんたの朝ズバッ!」(2009/6/26)で、朝日新聞のインタビューをふまえて、「民主党のファシズムって何ですか?」とコメンテーターの与良正男(毎日新聞論説委員)に聞いたら、「これはちょっと言い過ぎだ。意味不明だし、あまり使わない方がいい言葉だ。なにを根拠にファシズムなのか」と答えたそうだ。

与良正男さんよ、ファシズムが意味不明なんていまさらなにをおしゃるのだ。その意味不明な言葉を意味不明なまま、職業差別意識まるだしで特定の階層を罵るのに使ったのが丸山真男だということぐらい知っているだろう。そして、丸山はこのファシズムに加担したという疑似インテリゲンチャの階層に、こともあろうか最も加担したジャーナリストを加えていないのだ。

おそらく与良正男さんは、ふだん自分たちが右翼を罵るために使っている言葉を自分たちサヨクに向けられて、何がなんだか一瞬虚をつかれ、あやうく東国原知事をファシストと罵りそうになった。ところが、自分たちこそファシズムがなんなのか知らずにただの差別用語として使っていることに気づいてあわてふためいているようだ。
2009.06.28[Sun] Post 21:13  CO:0  TB:0  ファシズム  Top▲

分権ファシズムと友愛ファシズム(2)

朝日新聞に東国原知事の単独インタビューの記事が載っている。

 宮崎県の東国原英夫知事は25日、朝日新聞の単独インタビューに応じ、「政権与党、政府のど真ん中から変えていく」と述べ、自民党から次の総選挙に立候補することに改めて意欲を示した。
 東国原氏は「自民党は(戦艦)大和だと思っている。社会・経済情勢や国民の感情、世界の動きに臨機応変に対応できる組織体でないといけない」と指摘。次 の総選挙では拮抗(きっこう)する2大政党のどちらかを国民が選択するという状況が望ましいとの見方を披露し、「今のままでは(支持率が高い)民主党が圧 勝してしまう。民主党のファシズムになってしまう」と強調。「これに対抗するために自民党が生まれ変わらなければならない」と語り、自らが次期総裁候補と なることで、自民党を変革するとの決意を示した。
 東国原氏はまた、「国を変えようという大きな目標に対し、知事の権限は微々たるものだった。自分はその限界を超えようということだ」とも語った。(asahi.com6/26)


東国原知事は「民主党のファシズム」という言葉を使っているが、もちろん議会で圧倒的に多数派だからといってファシスト政権というわけではない。もし、全国知事会のマニフェストを受け入れ、実行してくれるならば、民主党でもいいはずだ。しかし、東国原・橋下両知事は必ずしもそうは考えていないようだ。しかも、わざわざ朝日新聞の嫌うだろう「民主党ファシズム」という言葉で挑発したのはそれなりに理由があるだろう。

昼に何チャンネルかわからにけれどワイドショーで東国原知事の問題を取り上げているのを見た。何を言うかとぜんぶ見たけれど、どのコメンテーターも民主党が不利にならないかだけを心配しているのがバレバレでちょっと笑えた。

ニョウボを駅まで迎えにいくので、ひとまずここでおわる。一つだけいっておくと、まず橋下東国原の二人がやらなければならないことは市民派の中田横浜市長を粛正することだ。続きはあとで。
2009.06.26[Fri] Post 15:22  CO:0  TB:0  ファシズム  Top▲

分権ファシズムと友愛ファシズム(1)

東国原宮崎県知事はどうやら本気で「総裁候補にするなら」といったらしい。以下、nikkansports.comからの引用。

東国原氏の卒業した専大で教授職だった松浪氏が「東国原クン」と呼び、「頭を冷やして、顔を洗ってこい」とした23日の発言などに対しては「そん なことを言われた方もいらっしゃるようですが、まあ、どーでしょうかねぇ。1回下野されて、そちらの方が頭を冷やされて、顔を洗われた方がいいんじゃない でしょうか」と切り捨てた。

ただ、国政への意欲は募る一方。「総裁選は党友、党員全員の投票にする。民主党の代表選は国会議員だけ。それを自民党さんは開かれた政党として、 変わったなぁ~と思っていただける」。地方と国の対等な関係を目指す全国知事会のマニフェスト採用と総裁選候補の2点について「自民党がのめば」とした上 ではあるものの、発する言葉は自民党議員のようだった。23日午後の会談後、夜は古賀氏と会食し、再度強く出馬要請を受けたようだ。


どうだろう。かなりファシストの手法を取り入れていないか。「党友、党員全員の投票」というのは小泉首相が使ったファシズムの手法だ。

それから、東国原知事の要求したもう一つの条件が「全国知事会のマニフェスト」の全面採用だ。その中身は「国と地方の税源配分を5対5」「直轄事業負担金の廃止」「権限移譲の推進」の3つで、すべてを4年間で実現してほしいという。これは地方の反乱だ。地方の不満を糾合して官僚が支配する中央政府を打倒するという構図は、うまく流れにのれば、大きな力になる。

民主党は政治任用で脱官僚政治を実現すると言うが、そんな民主主義的なやり方では失敗におわるだろう。これは維新であり、倒幕運動なのだから「藩」のエネルギーを一つに束ねる(ファッショ)ことがひつようだ。なんで宮崎県には高速道路がないのだ、なんで必要がないダム工事に府が費用の半分出さなければならないのだ、という具体的な不満が地方分権の要求となり、結局は官僚内閣制打倒の力になる。(実際地方と東京の格差はないんだけどね)不満の矛先は東京ではなく、中央政府だ。

自民党の長老は東国原知事がお笑い出身だと侮っているが、ヒットラーだってムッソリーニだってエリートではなかった。ただ、東国原知事はお笑いの癖なのかへれへらした態度はやめた方がよい。背筋を伸ばしてみんなの顔を見て話してもらいたい。松浪健四郎への反論で、「下野しろ」といったところは、小泉の「自民党をぶっ壊す」にはおよばないものの、なかなかのものだ。でも、首相になりたいならもうちょっと工夫が欲しい。

心配なのは東国原知事が憂国の士かどうかだ。たんに宮崎県民の市民的利権を考えているだけなのか、それとも国を憂えているのか、そこがこれまでの彼の言動を見ている限りこころもとない。

まず、橋下大阪府知事とコンビを組むこと、それと中田宏横浜市長は信用しないこと。かれはいずれ裏切る人物だ。これまでも市民派の知事がたくさんいたが、どれも使い物にならなかった。橋下知事が初めてのまともな知事だった。この反乱の首領は東国原知事ではなく、橋下知事にやってもらえればもっと楽しかったのに残念だ。

それからこれは以前から噂になっていたことだが、民主党と公明党が連立する可能性があるらしい。これまでは、公明党が学会トップの証人喚問を避けるために、政権与党にすり寄っていると批判されていたが、今回は外国人参政権を成立させるために選挙協力をするという噂だ。いよいよ「友愛ファシズム」は本性を現してきたようだ。

『分権ファシズムと友愛ファシズム(2)』へ

次回は橋下知事の戦略について考えます。
2009.06.26[Fri] Post 03:23  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

桝添首相と東国原総裁候補

麻生首相に見切りをつけた産経は、もっとも首相にふさわしいのは桝添だと、さっそく怪しい世論調査をした。

桝添要一は長妻昭とぐるになって社会保険庁の改革を台無しにした人物だ。口では大きな事をいいながら、現実主義者を気取る猪口才な出世主義者ではないか。年金改革には、社会保険庁の解体と国民背番号制が必要だったことはあきらかだった。

東国原宮崎県知事が、自民党の古賀選対委員長に出馬を要請されて、自民党総裁候補にしてくれるなら受けると言ったらしい。東国原氏は知事として何をしたのというのだ。高速道路はみんな持ってるよ、宮崎県にはないから作って欲しいと陳情したり、宮崎物産展の一日店長をやったぐらいしか知らない。

ふさわしくなくても、勝てればいい。いまは日本の危機存亡のとき、贅沢はいっていられない。しかし、二人のどちらでも鳩山由紀夫の民主党には勝てないだろう。なんとかしないと政権交代ぐらいではすまないような気がする。ひょっとしていま日本にファシズムが必要なのではないか。もちろん「友愛ファシズム」に対抗するファシズムだ。

まあ、そんなことより、次回は、自民党がどうしたら民主党に勝てるか考えてみる。
2009.06.25[Thu] Post 17:04  CO:0  TB:0  政治  Top▲

木下航二の密かな楽しみ

木下航二の名を知る人は少ないだろう。Googleで検索すると917件(6/21現在)にヒットする。その多くは『原爆を許すまじ』の作曲家としてだ。わたしが知っているのは高校の時に教わった社会科教師の木下航二だ。

ウィキペディアには以下の説明がある。

東京府出身。東京府立一中、旧制一高を経て、東京大学文学部東洋哲学専攻卒業。すぐに都立日比谷高校教諭となる。1954年、ビキニ環礁上にて水爆実験が行われ、第五福竜丸が被爆、原水爆反対の署名運動に参加し、「原爆を許すまじ」を独学で作曲した。曲は当時の「うたごえ運動」にのって全国に広まり、翌年に第1回原水爆禁止世界大会で参加者に歌われた。 1960年代後半まで校歌・組合歌など80曲あまりを作曲したが、以後作曲から手を引き、昇進も断り母校にて独自の教材を基に倫理・社会教諭として1991年まで教壇にたった。

最後のところは美談仕立てだが、果たしてそうか。森一郎は後にベストセラーになる『試験に出る英単語』のガリ版刷りを配って、「ソーンダイクはだめだよ」と言っていたが、木下航二の独自の教材なんてみたことがない。多感な高校一年生に倫理の話をするならいくらでも面白く出来たはずだが、そんな授業はいちどもなかった。

それでも憶えている授業はある。朝鮮戦争ではどちらが先に攻撃したかの話や、関東大地震のときの朝鮮人迫害の話は、そのときの表情まで、よく憶えている。けれど、何より忘れられないのは部落問題の授業だ。あいうえお順に全員に部落問題をどう考えるか言わせるのだ。はじめは半信半疑だった生徒も、執拗に席順(アイウエオ順です)に指名していくのを知って、しだいに教室は息苦しい雰囲気が支配し始めた。

たぶん東京に住んでいれば部落のことなどしらないし、知識として知っていても関心はない。それでも、差別は絶対いけないと言わなければならないことはみんな知っている。なかには、すでに社研に入っていたり、父親が共産党員だったり朝日の記者だったりして、どうどうと差別反対の意見をのべる同級生もいたけれど、おおかたは、もぞもぞと差別反対の意見を述べていたように記憶する。

わたしの席順は27番目だったのだが、何を言えばいいのか、たぶん部落問題のことは知らないと正直に答えるべきだったのだが、とてもそんなことを言える雰囲気ではなかった。それで小学生のころ両親の田舎に行ったとき耳にしたことをはなし、差別はやっぱいけないと思いますとまるで幼稚なことを言った。同級生は笑ってくれるかと思ったが、誰もわらってくれなかった。

これは、どう考えても「総括」である。木下先生はたぶん毎年入ってくる新入生に、いきなり「君たちの心の中に差別意識がないか」という問いをつきつけるのを楽しんでいたのではないか。だから、木下先生は最後まで一介の社会科教諭として教壇にたっていたのだ。

というわけで、この一文を『木下航二の密かな楽しみ』とする所以である。
2009.06.21[Sun] Post 23:39  CO:2  TB:0  人権テロ  Top▲

足利事件とDNA鑑定

足利事件の報道はなんだか変だ。

足利事件というのは、栃木県足利市で起こった女児殺害事件で容疑者がDNA型鑑定により有罪が確定したが、再審請求を受け、東京高裁の嘱託による再鑑定でDNA型不一致との結果が出たという事件だが、この「DNA型鑑定で有罪が確定した」というのが変なところだ。

当時DNA鑑定の精度は数百分の一だったが、げんざいは四兆七千億分の一に精度があがったと解説しているが、型が判っている全部の部位の塩基配列を調べるわけではないだろう。それに、いくら精度があがったといっても、血液型の鑑定と同様に、DNA型の一致が犯人だという証拠にはならない。ただ、一カ所でも、不一致なら犯人ではないといえるだけだ。

今回の場合は、より精度の高くなった方法で再鑑定をして、不一致が判明した。精度の低い血液検査の場合とおなじように不一致が無罪の証拠になったのだ。精度の高い再鑑定でDNA型が一致したとしても、相変わらず同一人物の証拠にはならないことは血液型検査と同じだ。

「アゴラ」の『足利事件の一側面』では「検察の理系音痴」といっているが、そんな大袈裟なことではない。ただ、常識がないだけだ。わたしの中学生のころにすでに古畑種基は有名人だったし、血液型の不一致は無罪の証拠になるけれど、一致は犯人の証拠にならないということは常識だった。だから、探偵小説を読んでいて、血液型の一致が動かぬ証拠という結末になるといつも腹を立てていた。

『Blue roses in my life』の記事にアップされた「サンデー・プロジェクト」を見ると、なんだか様子がおかしい。たぶん菅家さんの知的能力につけ込んだ自白の強要などがあったのだ。そのことを隠蔽することを検察警察は重視しているのだ。だから、DNA型一致という証拠にならない証拠のでっち上げを、DNA鑑定の精度の問題にすり替えて、はやめに謝罪をしたのだ。もちろんこの背後には「取り調べの可視化」の問題がある。

それにしても、警察検察を絶対に許さないと言っていた菅家さんがあっさり謝罪を受け入れたのは佐藤弁護士の戦略かしら。ちょっとわからない。
2009.06.21[Sun] Post 02:07  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

『ハッシュ!』橋口亮輔

はじめに私の『ブロークバック・マウンテン』の記事を読んでください。

『ぐるりのこと』を見て、同じ監督のゲイの物語の『ハッシュ!』を借りてきた。冒頭から主題が示される。直也(高橋和也)が行きずりの男と自分のアパートで過ごし、朝、目を覚ます。男はすでに服を着て、冷蔵庫を勝手に開けている。直也がコーヒーをいれようかというけれど、男はいらないと言う。直也は男の携帯番号を聞こうとする。でも、男はデイパックを肩に掛けて出て行ってしまう。直也怒る。

今度は勝裕(田辺誠一)と町でちらっと目があって(これはちょっと定型w)、アパートで朝を迎える。寝ぼけた直也は幸せそうな顔をしながら、隣に寝ているはずの勝裕のほうに手を伸ばすけれどベッドは空である。勝裕はすでに起きていて、まだ下着のまま、やかんが火にかけてある。勝裕が「ごめん、勝手に使って」という。直也は自分でコーヒーを入れる。コーヒー・ドリッパーから湯気がたって、直也はコーヒーの香りに包まれて幸せそう。このあたりはホームドラマの幸せである。

ともかくゲイのカップルがセックスではなく、人との日常的な関係を望んでいるということでは、『ぐるりのこと』とおなじ愛のテーマである。ところが、勝裕は子供が欲しい。アメリカなら養子をもらうと言うことになるのだろうが、自分の子供が欲しければ、誰か女性に生んでもらわなければならない。

そこに勝裕の子供が欲しいという朝子(片岡)礼子)が現れる。子供だけ欲しければ、「シングル・マザー」になればいいのだが、朝子は勝裕の子だねだけではなく、彼との人間的なふれあいもほしいのだ。ここでセックスはできるけれど子供が産めないゲイカップルとセックスはできないけれど子供が産める男女の三人が、優しさとぬくもりと信頼の関係を作っていくというお話である。二人より三人の方が安定していると言えるが、この先どうなるかはわからない。

『ブロークバック・マウンテン』は、『マディソン郡の橋』にまけない凡庸なラブストーリーである。『ハッシュ!』も凡庸なゲイのホームドラマになる危険性はあった。しかし、橋口亮輔はゲイカップルに女を加えて三角関係にすることで、「ゲイにこそ真実の愛がある」的独りよがりを免れ、より普遍的な人間関係を描くことに成功している。

ただ、『ぐるりのこと』と比べると、つぐみ(永田エミ)や兄嫁(秋野暢子)や直也の母(冨士眞奈美)などの熱演が、勝裕直也朝子のかるみのある演技と対照になっており、どちらも『ぐるりのこと』のメタな二重の演技の域には達していない。

とはいっても、すばらしいシーンはある。朝子が勝裕の勤め先に傘を返しに行き、そこで、勝裕に彼の子供が欲しいという。そこにつぐみがやってくる。すると朝子は勝裕に抱いてくれといって遠慮がちに背中に手を回す。もちろんつぐみに見せて、勝裕をあきらめさせるためだ。勝裕もその芝居に答える。しかし、朝子は次第に強く勝裕の胸にしがみつく。勝裕も朝子の気持ちを理解して、朝子をつよく抱きしめる。

二人は恋人同士の抱擁を演じているつもりだ。ところが朝子は突然失神する。観客はその唐突さに驚く。そして、朝子は恋人を演じていたつもりだけれど、ほんとうは誰かに強く抱きしめてもらいたかったのだ。演技ではなく本当の抱擁だったのだ。朝子はタクシー運転手の父親に会いに行くシーンがあった。これまで誰にも抱きしめられたことがないとも告白している。

この突然のラブシーンはアルモドバルを超えている。
2009.06.19[Fri] Post 16:40  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『「食糧危機」をあおってはいけない』川島博之


図書館の新入荷のコーナーから借りてきた。

私たちが知っている一番最近の食糧危機は「自給率が40パーセントを切った」という騒動だ。これは、すぐに農水省の陰謀だと判った。自給率が減ったからと言って食糧危機にはならない。

著者によると食糧危機の起源は以下の三つだったという。
1。 ローマ・クラブの報告『成長の限界』(1972年) 人口増加で食料生産が追いつかなくなる。
2。 レスター・ブラウンの『誰が中国を養うのか』(1995年) 中国の成長でみんな肉を食べるようになり、穀物が飼料に使われ、食糧用の穀物が足りなくなる。
3。 バイオ燃料がパンを奪う。

著者はこれらの危機説はすべて嘘だったと具体的に論駁している。詳しくは本を読んでください。
2009.06.17[Wed] Post 01:48  CO:0  TB:1  図書館の本  Top▲

池田亮司と名和晃平のキューブ

池田亮司(東京都現代美術館)にも名和晃平(原美術館)にも、靴を脱いで入る展示(インスタレーション)があった。ひとまず、床を汚さないためだということでは、伊東豊雄の曲面の模型や横尾忠則の滝のインスタレーションなどと同じである。

インスタレーションというのは作品の空間と観者の空間が連続した同一の空間だということだ。名和晃平のキューブはインスタレーションではなくオブジェであり、外側から内部を覗くことができる。池田のキューブはインスタレーションというよりインテリアであり、その内部で観者は四方から身体を取り囲まれる。ニューマンの大きな作品は、近づいて見ることによって、観者の身体を包み込むような感覚が生まれるというが、池田のキューブはリテラルに観者を包む。

名和晃平の白い壁や床、そして間接照明は無影の空間を作るためだ。そのなかに置かれたキューブ『Air Cell』は中を覗くことで、観者の身体が切り離され、キューブ内部のイリュージョン空間が現れる。そこのところを私のブログ記事『名和晃平』から引用。

 しかし、この作品で、意外に面白いのは、陰影のない等質なデカルト空間とおもえるキューブに、ノイズがあるからだ。接着剤の粒の形や大きさが微妙に違うのである。付着している位置もずれているので、単純な機械的な繰り返しになっていない。そのためコンピュータで作図したような平板さを免れ、キューブの三次元空間が錯視ではなく、どうにか知覚的現実性を保っている。

これに対して、池田亮司のキューブの空間は、観者がその内部にいるので観者の空間から切り離すことは難しい。また、乱数はノイズと違って知覚することはできない。ということは、知覚に基づいた想像的空間のイリュージョンは現れにくい。そこに現れるイリュージョンはせいぜいのところ擬似的知覚(錯視optical illusion)にすぎない。

どちらにしろ、いくら哲学的な言説で飾り立てようとも、オブジェはオブジェ、インテリアはインテリアである。どとらもイリュージョンではなくデザインが問題になる。

『図像に還れ』へ

『伊東豊雄』
『横尾忠則』
『名和晃平』
2009.06.16[Tue] Post 20:38  CO:0  TB:0  -池田亮司  Top▲

『危機突破の経済学』ポール・クルーグマン


クルーグマンがインタゲを放棄したかどうかで、池田信夫と田中秀臣で間で名指しをしないで言い合いをしていた。でも、この本を読めばクルーグマンがバリバリのインタゲ論者であることが判る。

ただクルーグマンが日本にインタゲを薦めるのを躊躇するのはその信頼性に問題があるからだ。2~3年でターゲットに達しない可能性があるだけではなく、そもそも日銀にはインタゲを導入するための信頼性が欠如している。インタゲは名目金利ゼロ状態でも実質金利をマイナスにすることでお金を借りやすくすること、あるいはインフレでお金が目減りするから早く使うようにすることだ。そのためには継続的で安定したインフレが続かなければならない。ところが日銀にはその信頼性がない。

インタゲで重要なことは量的緩和でお金をじゃぶじゃぶにすることだけではなく、みんなが確実にインフレになると思うことだ。そのためには日銀がインタゲを宣言することが必要だ。日銀がゼロ金利解除したときの金利はきわめて低いものだったけれど、インタゲは貨幣量ではなく、インフレ期待が重要なので、いくら低くても日銀はこれから金利を上げていくとおもわれれば、それだけで再びお金はうごかなくなるのだ。

それから、クルーグマンは経済危機の初期にあってはケインズ流の公共投資も効果があるといっている。それともうひとつ、規制緩和で銀行や航空業界やトラック運送業界は良くなったけれど、これからはたとえば環境など規制強化が新しい産業の発達をうながすといっていることが注目される。これは新しい投資や技術のイノベーションを促進するような規制ということで、日本のような既得権を保護するような規制のことではもちろんない。

それからまだある。クルーグマンはこれからアメリカで伸びる産業はヘルスケアだと言っている。少し前に日本では介護が伸びるといって大騒ぎしたことがあったことが思い出される。
2009.06.16[Tue] Post 01:50  CO:0  TB:0    Top▲

『ぐるりのこと』橋口亮輔監督

『ぐるりのこと』は期せずして『おくりびと』の批判になっている。

『おくりびと』も『ぐるりのこと』も夫婦の和解の物語とひとまずは言える。『おくりびと』はベタな和解の物語である。死んだ父親とも和解してしまうという、和解の大安売りである。それにくらべ『ぐるりのこと』にはそもそも誤解がない。誤解がなければ和解もない。

『おくりびと』は登場人物のアイデンティティを求める。過去を説明し、物語を語る。そして、それにふさわしいセットがあり小道具がある。役者はそれにふさわしい演技をし、観客はそれを見て涙をながす。そして、世界はふたたび秩序を取り戻す。

映画はリアリズムである。しかし、倒錯したリアリズムだ。われわれは、演技をしている俳優を見るのではなく、内面をもった登場人物を見る。ところが、『ぐるり』は演技そのものをみせる。下手な芝居という意味ではない。ここでは、映画のリアリズムが演技によって内面を暴くのではなく、表層の演技そのものが内面であるようなリアリズムなのだ。

夫婦の仲直りを木村多江とリリー・フランキーがわざとらしく演じる。そして、その演技がそのままカナオと翔子の仲直りごっこになる。カナオと翔子は、『おくりびと』の夫婦のように誤解が解けて和解したわけではない。ただ、ともかく仲良くやっていこうと、お互いにぎこちなく、仲直りの演技を演技する。

木村多江とリリー・フランキーが翔子とカナオのわざとらしい仲直りの演技を、自然に演技しているということだ。もちろんわざとらしく演技しなければ、わざとら しさは表現できない。だからといって、わざとらしさをわざとらしく演技したらギャグになる。このジレンマを回避するのが映画のリアリズムであり、演技の二重性だ。

死んだ子供のことを思い出して悲しみにくれる翔子が突然地団駄を踏む。その足のアップは、この映画のなかで最も感動的な、演技の二重性をあらわす優れたカットだ。たぶん、上半身がフレームの外にある木村多江は笑っているのではないかと思わせる。もともと地団駄というのは芝居がかった動作である。

演技の二重性が一番良く分かるのは法廷のシーンだ。裁判はもともと演劇的なものだ。裁判官は正義と公平を演じている。犯人は、自分は無実だ、責任能力がない、あるいは、早く殺してくれと極悪人の役を演じる。また、涙を流して情状酌量をあてにする。被害者の家族は泣いたり叫んだり退廷したり、あるいは、遺影を持ち込んで被告を死刑にして欲しいとうったえる。だれもが裁判所ではピランデルロの『作者を探す六人の登場人物』だ。

法廷は劇場空間で、そこで裁判官と検事と弁護士、被告と被害者の家族が競演する。真実ではなく真実らしく見えることが大切だ。法廷内部は写真ではなく、法廷画家のスケッチを使うのも裁判が真実ではなく、真実らしさが重要だからだ。先輩の法廷画家だったと思うが、「もっと悪人面に描いて」とカナオに言う場面があった。二重の演技で裁判の持つ虚構性を批判しながら、動機とか責任能力とか情状酌量とか深層心理とかいった人間心理の紋切り型の解釈を拒絶する。真実は表層にある。

わたしの好きなシーンはラストの和解のシーンだ。カナオが翔子にキスをしようとしたけれど、顔が涙でぐじょぐじょだからキスが出来ないと言って、翔子にティッシュを渡す。翔子が洟をかみ終わるのをカナオは待つのだが、その二人の間の抜けた感じがとてもよい。洟をかんだあと、翔子は唇を近づけるのだが、カナオは唇ではなく、鼻の頭でもなく、その上の鼻梁にちょこっとキスをする。そりゃないだろう、カナオさんとおもうが、まさかハリウッド式のキスじゃ仲直りごっこには似合わない。

『おくりびと』がベタな映画だとすれば、『ぐるりのこと』はメタフィルムである。翔子の兄夫婦がカリカチュアとして描かれているのは、翔子カナオ夫婦と対照させるためだが、そんな必要があったか疑問である。せっかくのメタ・リアリズムがリテラレルになって、映画が凡庸になってしまう。トンカツ屋の息子が翔子の兄のみそ汁に唾を垂らして、そのみそ汁を兄が飲む場面には思わず顔を背けてしまった。ウンコなリアリズムである。

たぶん、映画監督というものは、観客が理解してくれるかどうかいつも不安なのだ。だから説明したくなる。小津安二郎は台詞が不自然になるまで俳優に繰り返させたという。また、イマジナリーラインを越えた不自然な切り返しのショットを使う。そうすることで、映画のリアルなイリュージョンをフィルム表層のイメージに還元し、映画のメタなリアリズムを生みだしている。小津は説明しない。橋口亮輔が小津を超えたとはいわないが、日本映画の伝統を受けついでいくのは、北野武ではなく橋口亮輔だろう。

PS:映画を見たあとで知ったのだが、橋口亮輔はゲイであり、カミングアウトをしているそうだ。そういわれれば、そうだと納得するところもあるけれど、この映画の演劇性を、偽装結婚しているゲイの演技と解釈しては、この映画の面白さは分からなくなる。

これで、『アキレスと亀』『おくりびと』『ぐるりのこと』と夫婦をテーマにした映画を三本続けてみたことになる。
2009.06.12[Fri] Post 14:09  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『池田亮司 +/-』東京都現代美術館

グリッドと数字と音のインスタレーションである。

数字には宮島達男のLED作品にあるような象徴性はない。もちろん意図的にそうしているのだ。そういう意味ではミニマル・アートではなくミニマリズムの一種といえる。

長尺の35ミリフィルム(たぶん)にレーザー光線(たぶん)で乱数(たぶん)を焼き付けた作品もある。プロジェクターで壁にグリッド(格子模様)が映し出されて、下から上へ動いているのも、ディズニーの『ファンタジア』の「トッカータとフーガ ニ短調」(9:22) - J.S.バッハのミニマリズム版なのかもしれない。

これはあくまでもギャグ(『アキレスと亀』w)としてなのだが、ロザリンド・クラウスのエッセイ『グリッド』から引用する。

グリッドが、近代芸術の近代性を宣言する仕方には二つある。一つは空間的なもので、もう一つは時間的なものである。空間的な意味においては、グリッドは芸術という領域の自律性を示す。平面化され、幾何学化され、秩序付けられたグリッドは、反自然的、反模倣的、反芸術的である。・・・・・・・・途中省略・・・・・・・・・
 時間的次元においては、グリッドは、ただグリッドであるということによってモダニティの一つの標識である。(『オリジナリティと反復』小西訳p18)

なお、クラウスはエッセイの中でジャスパー・ジョーンズの『グレイ・ナンバーズ』の図版を収録している。グリッドの四角のなかに数字を描いた油絵具の作品である。

カタログを購入しなかったので、池田亮司の芸術論は知らないが、クラウスなどのポストモダン理論のつぎはぎだろうぐらいの想像はつく。ネットを検索したら、この展覧会のキューレーター長谷川裕子のYoutube動画にヒットした。

どうですか。とても「明晰で」池田亮司の芸術が良く理解できたようなきがしませんか。ところが、注意して聞くといったい何を言っているのかわからない言い回しがたくさんある。彼女の他の池田亮司についての文章から(注)書き抜いてみると、「非科学的抽象絵画を見るような凄まじい密度」、「新しい言語の発表」、「カオティックな情報世界」、「マレーヴィチへの参照」、「膨大なデータを扱うことで、現代に生きる私たちがいま直面しているリアリティをみごとに融合しているすばらしいインスタレーション」等々、彼女が言うデータとかリアリティというのは、現代的な雰囲気があると言っているだけではないか。

これは空間デザインということで、インテリアとしては、昔よくSFの雰囲気を出すために穿孔テープが使われていたけれど、あれと同じではないか。テープが床に溢れていたり、リールがくるくる回っていたっけ。それをもうちょっと斬新でアートっぽいデザインににしたものが池田のインテリアだ。でも、なぜ0/1ではなく、十進法なんだろう。そのほうがデザインとしては洒落ているからか。

それはともかく、池田亮司の作品より長谷川裕子の批評の方がはるかにアートになっている。彼女の喋りには、古舘伊知郎のプロレス中継や、ねじめ正一の朗読に負けない芸がある。ただ、批評としては、池田の作品と同じように雰囲気だけで無内容である。芸術論は美術とデザインを区別しない。

注:どこのサイトが判らなくなってしまった。コピーしておいた自分のファイルから引用しました。
2009.06.09[Tue] Post 23:09  CO:0  TB:0  -池田亮司  Top▲

NHKの天安門事件の報道(2)

前回の記事でNHKが9時のニュースで天安門事件二十周年についてかなり批判的に報道したことを書いた。

ところが、同日(6/4日)、NHKの「クローズアップ現代」が『天安門事件20年 中国・民主化の行方』と題した番組を放送していたことをあとで知った。解説は加藤青延、キャスターは国谷裕子で『天安門事件 空白の3時間に迫る』(クローズアップ現代93年6月3日放送)のときと同じである。

この番組について報じているJ-CASTのニュース「天安門事件『メディアから消滅』 中国の民主化は進むか」によれば、事件当時、共産党青年団機関紙の記者だったジャーナリストの李大同氏は、「当局は天安門事件をすべてのメディアから消滅させ、中国の歴史上なかったことにしようとしている」と言ったという。それに対して、加藤氏の解説は

この点についてスタジオの加藤青延(NHK解説委員)は「改革開放30年の中であの事件が最大の汚点だったことを中国共産党も自覚している。ただ、当時の指導者の判断が正しかったという立場を崩せない。共産党支配の正当性を否定しかねないからだ。しかし、武力制圧の正当性を声高に主張するのも共産党のイメージを悪くするので避けたい。事件を封印したい、人々の記憶から消し去りたいのが本音」と説明する。


天安門事件をすべてのメディアから消滅させるために中国当局に協力したのはあなたたちではないか。恥なしを恥とする。
2009.06.06[Sat] Post 15:30  CO:0  TB:0    Top▲

NHKの天安門事件の報道

「天安門広場の虐殺はなかった」

明日、ニョウボが東京から帰るので、だいどこを片づけた。今回は自分で食事を作ったので洗い物や生ゴミや発泡スチロールがたくさん出た。片づけに小一時間かかった。その間NHKのニュースを見た。

おどろいた事にNHKが天安門事件のことをかなり批判的に報道していた。「クローズアップ現代」で国谷裕子が天安門事件の虐殺はなかったと発言したことはよく知られているが、Youtubeで放送をチェックすると、国谷も解説者も「天安門事件の虐殺」ではなく「天安門広場の虐殺」と言っていることがわかる。

たしかに、虐殺は広場ではなく長安街で起こった。しかし、広場で市民と学生が軍と衝突したと思っている人も多いだろう。私もそうだった。そのかぎりでは、「虐殺は広場ではなく長安街で起こった」というのは意味があるかもしれない。しかし、あの出来事は「天安門事件の大虐殺」であって、「広場の虐殺」でも「長安街の虐殺」でもない。

民主化を求めて天安門広場に集まった学生市民を軍が武力で広場から排除した、排除された学生たちは長安街に集まった。そこを戦車で踏みつぶしたのだ。人間が戦車で踏みつぶされると霜降り肉のようになることを初めて知った。白い脂肪に見えるのは骨なのだろうか。

国谷裕子は「天安門広場の虐殺はなかった」と、あたかも「天安門事件の大虐殺」がなかったかのような印象操作をおこなったのだ。国谷と解説者はしきりに恣意的な編集はしていないとわざわざ弁解しているのは笑えるが、今回の『ジャパンデビュー』の台湾統治にかんする捏造番組のことを考えると、笑ってすませることではない。

そのNHKが、腰が引けているけれど、天安門事件20周年の報道をしたことは、ひとまず注目しておく必要がある。しかも、小泉首相が靖国参拝をしたときNHKの海外放送が中国で切断されたことにいっさい口を噤んでいたのだが、今回は天安門事件報道が中断されたことをテレビの画面が消えるところまで見せて伝えていた。

でも、NHKが反省したなんて考えてはいけない。彼らはこの見返りに、よりバージョンアップした反日媚中の番組を放送するだろう。楽しみに待て。


『NHKの天安門事件の報道②』

2009.06.05[Fri] Post 14:11  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

日朝戦争

北朝鮮の核実験とミサイル発射によって、拉致問題の陰が薄くなったことは否めない。

拉致を営利誘拐ゲームとして考えると言うことは、核問題と切り離して、人質と身代金の交換取引をしようということだ。しかし、北朝鮮が核配備したということになると、事情はことなる。核兵器のほうがカネになると知ったからには、北朝鮮は営利誘拐ゲームから手をひくだろう。誘拐犯が拳銃強盗になったのだ。

それと誘拐ゲームが成り立つのは、人質の人数が少なく、かつ、人質が誰か特定できるからだ。ところが、拉致被害者は数百人場合によっては千人単位でいるらしい。これでは誘拐事件というより戦争である。

日本人は戦争が起きていることを知らないだけだ。不審船を攻撃せず、総連を捜査せず、マスコミの情報操作を許したからだ。ところが、日朝戦争が起きていることを指摘した人がいる。西尾幹二氏だ。かれは自身のブログ(『西尾幹二のインターネット日録』)で書いている。

東京裁判でアメリカ人のウィリアム・ローガン弁護人は、日本に対する経済的圧力が先の戦争の原因で、戦争を引き起こしたのは日本ではなく連合国であるとの論証を行うに際し、パリ不戦条約の起案者の一人であるケロッグ米国務長官が経済制裁、経済封鎖を戦争行為として認識していた事実を紹介した。 日米開戦をめぐる重要な論点の一つであるが、今日私は大戦を回顧したいのではない。 経済制裁、経済封鎖が戦争行為であるとしたら、日本は北朝鮮に対してすでに「宣戦布告」をしているに等しいのではないか。北朝鮮がいきなりノドンを撃ち込 んできても、かつての日本のように、自分たちは「自衛戦争」をしているのだと言い得る根拠をすでに与えてしまっているのではないか。

 

西尾氏は日本の経済制裁が宣戦布告だと言っているのだが、もちろんこれは間違いで、北朝鮮の拉致が日本に対する宣戦布告だったのだ。どちらにしろ、いま、日朝戦争が戦われている。

北朝鮮の核実験が遺憾だとサヨクもウヨクも言っているが、戦争している国が核兵器を持つのは当然である。持たないと言っている日本が変なのだ。

2009.06.04[Thu] Post 16:32  CO:0  TB:0  拉致問題  Top▲

『アキレスと亀』北野武監督

『おくりびと』といっしょに借りてきて、こっちのほうを先に見たのだけれど、何を書いて良いやら批評の言葉がちっとも浮かんでこないので、ほっておいた。

北野武の私小説三部作で、『TAKESHI'S』『監督・ばんざい』そしてこの『アキレスと亀』が最終作ということになる。前二作の主人公は、お笑い芸人と映画監督で、『アキレスと亀』は画家の話だから、北野は自分を画家と考えていることになる。

映画に出てくる絵は北野監督がすべて自分で描いたらしいのだが、できばえは良く分からない。なにしろ、映し出される絵画はギャグなのか批評なのか、コピーなのか一向に判らないからだ。たけしがギャグのつもりでも、現実の美術界そのものがギャグなのだから、とうてい本物にかなうものではない。

いちばん感動したのは、部屋中を赤いペンキで塗る場面と、女房の提案で商店街のシャッターにらくがきをしてみつかり、それを白いペンキを塗って消す場面だ。刷毛でペンキを塗るときの手首の返しはさすがにペンキ屋のせがれだと感心した。

気になったところがたくさんあったけれど、つまらない映画をいくら論じてもしかたないので、やめておく。昔の画廊の亭主も今のギャラリストも、そして売り込み戦略に熱中する美大生もみんな好い加減で、絵画なんて何もわかっちゃいないというメッセージだけは理解できた。

低予算なのかセットが安っぽいのには正直閉口した。
2009.06.04[Thu] Post 01:53  CO:0  TB:0  映画  Top▲

長崎市長は残念に思っている

産経ニュースに、《衆院選「8・9」は避けて 長崎市長が首相あて文書申し入れ》と言う変な記事が載っていた。なんでも、8月9日は長崎市の原爆記念日で重要な式典があるから、次期衆院選の投開票日にしないように政府に申し入れたというのだ。

記事を読んで笑ってしまった。衆院選の投票日が9日と予想したのは民主党の岡田幹事長で、それも、すぐに自民党の古賀選対委員長などが、9日だけではなく、広島の原爆記念日の6日も無理だと発言している。それなのに出張費まで使って東京に出てきたのは、いつも広島の8月6日の陰に隠れている長崎の8月9日をアピールする絶好の機会だったからだ。

それも言うことがふるっている。古賀氏はその日は学校の登校日になるところもあり、学校を投票所に使うことが難しいと言っているのだが、長崎市長は「オバマ米大統領の登場で『核兵器のない世界』への新しい流れが現れ、国際世論の喚起に向けて従来にない重要な日になる。衆院選の日程の決定には格別の配慮をお願いしたい」と言う。

申入書は広島市長と連名だそうだが、近頃、たいていのことは両市が平等にやろうとしているようだ。核拡散防止条約再検討委員会議の準備委員会にも両市長が参加して、両方平等にスピーチしたそうだ。日教組が卒業式の答辞で女子と男子を交替でしゃべらせるようで、なんだか変だ。そんなとこで平等にしてどうする。

今年の8月にデスコト国連総会議長が広島(6日)だけではなく長崎(9日)も訪問すると決まったのは喜ばしいが、長崎市も望んでいる米大統領の被爆地訪問のときはどうする。相変わらず広島々々と、Hiroshimaのことしか言われていない。もし来るとしても2カ所もいくのは無理だろう。

長崎市長は広島市長と表向き仲良く平等にやっている。でも、オバマ大統領の広島訪問のことを考えると夜も眠れない。きっと、2番目に原爆を落とされたことを残念に思っているだろう。どうせ落とすならなぜ一番目にしてくれなかったかとトルーマンを暮夜密かに呪うのである。

わたしはすでに別の記事(注1)で書いたように、米大統領の広島訪問に反対である。「原爆投下は誰もが認める絶対的な悪になっている。そんな悪を認めてもただの宗教的な儀式である。悪ではなく、犯罪を裁かなければならな い。彼らがおこなった焼夷弾や火炎放射器による虐殺こそまず謝罪すべきことだ。かれらの犯した戦争犯罪を、原爆という悪の神学にしてはいけない。」

夏に天皇皇后両陛下がカナダ・ハワイを歴訪し、その際、真珠湾も訪問する予定だという。ひょっとして謝罪するのではないかと危惧している。

注1:『広島に花束なんかいらない』
2009.06.03[Wed] Post 23:32  CO:0  TB:0  人権テロ  Top▲

『1Q84』におけるフェミニズムとメロドラマの研究

少々ネタバレあり。

『1Q84』読了
『BOOK2』の第13章以降、読むのをやめようと思ったのは2カ所、ひとつはカルト集団のリーダーが教理を述べる13章、もうひとつは、これでノーベル賞は遠のいたと思われる14章だ。

でも、それ以外は、『羊をめぐる冒険』を読んだときのように一気に読んでしまったのだから、それなりに面白かったわけだ。もちろん、これまで村上春樹をちゃんと読んだことがないということもある。

ネタバレなしで村上春樹を論じるのは難しい。登場人物の性行動についてちょと触れておく。『BOOK1』の前半を読んだところで、「この小説が成功するとしたら、それはAnti-Feminism小説としてだ」といったけれど、読了したあともこの考えを撤回する必要はないようだ。

女主人公は殺し屋で、大藪春彦流に性処理をする。妊娠と性病をおそれ必ずコンドームを使う。得意の護身術は睾丸蹴りである。
男主人公は予備校の講師で、人妻のガールフレンドと定期的にセックスをしている。人妻は性行為の主導権を握り、嫉妬深い。二回のセックスの中休みに彼女は彼の睾丸をやさしくなでる。

男主人公はいろいろな経緯があって、まだ生理もなく陰毛も生えていない17歳の少女と性交をする。女主人公はマンハントのチームを組んでいた女友達を失い、殺し屋としての最後の仕事に出かける。

そして、二人とも本当の愛を求めている。

第13章はこの未完の物語の一つのクライマックスである。カルト教団のリーダーは、『地獄の黙示録』のカーツ大佐であり、殺し屋はウィラード大尉だ。大佐は善悪二元論のような「パラレルワールド」について語る。

そして、リーダーは殺し屋に言う。

「この1Q84年において今のところ、きみたち二人を同時に助けることはできそうにない。選択肢は二つ。ひとつはおそらくは君が死に、天吾くんが生き残る。もうひとつはおそらく彼が死に、君が生き残る。そのどちらかだ。」

自分が生き延びて愛する者が死ぬか、自分が死んで愛するものを救うか、どちらか選択するしかないと、女主人公にいうのだが、そこのところのジレンマが、まだ未完だからか、わたしには良く理解できなかった。

しかし、そんなことはBOOK3、4が出てから考えればよいことで、ここで重要なことは、スラップスティックで始まった物語がハードボイルドになり、そしてこの13章のエピソードで、物語はハードボイルドからメロドラマになったということだ。

しかし、いったいメロドラマでフェミニズムの原理主義を克服することが出来るだろうか。
2009.06.03[Wed] Post 01:24  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『1Q84』 缶ビールからワインへ

『1Q84』を「BOOK2」の第12章まで読んだ。

男主人公の天吾が缶ビールの二本目が飲めなくて、流しに捨てる場面があった。少し驚いた。

村上の作品で最後まで読んだのは『羊をめぐる冒険』だけだが、憶えているのは主人公が缶ビールを、それもたいていは二缶飲むところだ。一缶ではなく二缶をゆっくり飲んだ至福感は村上の「デタッチメント」な世界にふさわしい。

ところが『1Q84』の主人公は2本目の缶ビールを半分残して、残りを流しに捨てる。

『1Q84』では酔うためには缶ビールのかわりにウィスキーを飲む。そして、カクテルや白ワインも小道具として使われるが、もちろんひとりで飲むためではない。缶ビールはひとりで飲むものだ。

村上春樹は缶ビール二本の世界から出て行こうとしているのだろうか。それともただ年をとっただけなのだろうか。
2009.06.01[Mon] Post 14:10  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

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