ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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『1Q84』村上春樹を15章まで読んだ。

昨日(30日)の昼過ぎ佐川急便で『1Q84』が届いた。第15章まで読んだ。セックスと暴力と革命の村上龍的世界のソフトバージョンである。

とにかく、今回は途中でやめないように慎重に読み始めた。村上春樹を読むなら缶ビール二つだとわざわざ町まで降りて買ってきた。

ともかく批評はあとにして、これまでに読むのをやめたくなった箇所を書いておく。

*「人妻のガールフレンド」という言葉を読んだとき。他にも「放尿の音を聞いた」「ブラウスの一番上のボタンをはずす」「用心深さが青豆の身上だった」「そこで十円玉が切れた」など雑な表現が多すぎる(p47)
*女主人公の青豆がシングルバーでマンハントする箇所が、飯島愛が身も蓋もないことを言うみたいでおかしい。女の殺し屋が男をセックス処理に使うなら、やっぱり大藪春彦だ。もっとも英語に翻訳すると、カフカのようにスラップスティックな味が出てくるのかもしれない。(p106)
*青豆がいっしょに4Pをした警察官のあゆみと高級レストランで食事する場面が貧乏くさくてやりきれない。シェフが知り合いだからといって安くしてもらって喜んでいるのもどうかと思うが、そのシェフが味も分からない客がテイスティングでワインを交換させると笑いものにするのは、それだけでまっとうなレストランとは思えない。もちろん高級レストランでの振る舞い方なんて知りませんがね。
一カ所だけその第15章から引用する。「あゆみは腕きき弁護士が重要な契約書を読むときのような鋭い目つきで、メニューに書かれている内容を隅々まで二回ずつよんだ。」これがかの有名な村上春樹の翻訳調なのかな。英作文の問題みたいだ。

これまでのところ性描写には気味の悪さがないかわり、『ノルウェーの森』のような女性向けポルノの楽しみはない(たぶん)。フェミニストに気兼ねしているようなところがあるけれど、村上がこれまでとまったく違った性を描こうとしているのかもしれない。

村上がエルサレム賞のスピーチで述べた「壁と卵」がこの『1Q84』のテーマであることはまちがいない。とすれば、青豆のセックスは壁側のセックスであり、システム化された性ということになる。

と、ここまで書いて、突然すべてを理解した。システム化された性というのはフェミニストの性なのだ。青豆の性は、フェミニストの性を殺し屋の性処理として戯画化してあるのだ。そう考えるとすべて辻褄があう。レストランでの滑稽な振る舞いさえも。そして、もちろん、小説冒頭の女主人公が渋滞した首都高の避難場所から階段を下りるシーンも、パロディと考えれば、ちょっとカフカの匂いがする。

まだ四分の一しか読んでいないけれども、もしこの小説が少しでも成功するとしたら、それは反フェミニストの小説としてだ。そして、それは必然的に失敗するということだ。エルサレム賞のスピーチ以上にサヨクたちの村上バッシングがはじまるだろう。


こうなったら意地でも『1Q84』を最後まで読むことにする。
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2009.05.31[Sun] Post 15:18  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『おくりびと』滝田洋二郎監督

『アキレスと亀』を見たあとだったので、なんとなく見ていてほっとした。映画らしい映画である。山崎努と本木雅弘の老若のコンビも映画の定番だし、広末涼子のぶりっこも適度に押さえられて、夫の本木が初めて死体に触れた日、帰宅して妻の広末の文字通り肌を求めるシーンは、死を恐れる人間のこれも定番シーンなのだが、広末の地がでているのか、たいていの日本の女優がおちいるわざとらしさもなく、顔をほんのり紅潮させて笑うところは、宮沢りえとはちがう魅力がある。

いろいろ難癖をつけるところはたくさんあるのだが、なによりしっくりこなかったのは、この映画の背景にあるとおもわれる差別問題である。給料がいきなり50万円だったり、妻に納棺師であることを隠したり、それを知った妻が家を出たり、友人がそんな仕事をやめろといったり、戻ってきた妻が生まれてくる子供ために納棺師の仕事をやめてくれとたのんだりと、なにをそんなに大袈裟なという違和感がぬぐえなかった。

納棺には何度か立ち会っているが、葬儀社の社員が手際よくやっていたし、母親から湯灌のときに誰それが生前の約束だと誰それの金歯を取ろうとしたまるで落語のような話を聞いたぐらいで、新潟の田舎でも差別なんかなかった。おそらく山形にだってなかっただろう。実際に納棺師の仕事は、戦後葬儀社が考え出した新商品のようだ。結婚式の新工夫に似ている。

そういうわけで、いろいろ伏線を張って、後半はそれこそドタバタと都合良く、妊娠、風呂屋のかみさんの死、納棺師としての夫の仕事を見る、石の心、父の死の知らせ、遺体の引き取りの拒否、社長棺桶をプレゼント、父の死化粧、父の手の中に石、父との和解、そしてもちろん妻との和解、と言う具合に物語は予想どおりに進む。

たぶん、腹を立てる人と涙を流す人に分かれるだろう。ニョウボはシナリオがでたらめだと腹を立てるだろう。しかし、どんなつまらない映画でも、和解があればそれはそれで名作なのである。幸いニョウボはいま娘の出産のため東京に行っている。だから、この映画はひとりで見た。
2009.05.30[Sat] Post 02:40  CO:0  TB:0  映画  Top▲

在日特権と地方参政権

いくら考えても分からないことがこの世の中にはある。外国人参政権もその一つだ。これが在日参政権であることを最近まで知らなかった。

そんなことより理解できないのは、外国人参政権を推進する民主党の鳩山(兄)代表が、「定住外国人は税金を納め、地域に根を生やし、一生懸命頑張っている。(地方)参政権くらい、付与されるべきだ」と述べたということだ。「地方参政権」ぐらいというが、在日特権をあたえたのはその地方自治体だ。

近頃、地方分権が正義のように言われているが、ほんとうにそうか。インターナショナリズムが背後からナショナリズムを破壊しようとしているのではないか。

私が以前、住んでいた町の駅前ロータリーの真ん中に「平和祈念像」という銅像が立っている。横断歩道を渡るたびになぜこんな意味のない銅像を税金で建てるのか不愉快に思っていた。おそらく「郷土出身」の彫刻家に依頼して作ったのだろう。自由の女神みたいのが(まあ、パチンコ屋かラブホテルの看板ですな)トーチをかかげて、その足下に裸の幼児が(まあ、キリストですな)座っている像で、その醜悪さは藤枝晃雄でなくても反吐がでる。

一時は、冗談ではなく、「平和祈念像断固撤去」の署名運動をしようとおもったけれど、めんどくさいしかっこわるいし(なにしろ相手は「平和」だからな)、だいいちそんな暇はないので実行しなかった。たぶん、この面倒臭がったり恰好を気にする保守派の態度が国を危うくしている。

銅像ばかりではない。区立図書館の購入図書もそうとうに偏向している。どういう風にそうなっているのか、わからないが、たぶん、購入図書選定委員会のようなものがあって、そこが偏向した考えの持ち主に支配されているにちがいない。もちろん購入図書希望は誰にでもできるのだから、偏向した図書を優先的に購入させることは簡単にできる。プロ市民が地方自治体を乗っ取ることは簡単だ。

それから、鳩山さんは「相互主義」というけれど、韓国には在日のような特権をもった在韓日本人はいない(というと彼らは自分たちは拉致されたんだというw)。いずれにしろ、外交官特権などとはちがって、参政権や帰化国籍の問題は、国のあり方にかかわるのだから、単純に相互主義で解決できる問題ではない。

政治家は人権平等主義ではなく、現実主義にたって政治を行ってほしい。カルデロンちゃん可愛そうで政治を行ってはならない。日本はもう一度百年ぐらい鎖国して、よく考えたほうがいいのではないか。
2009.05.29[Fri] Post 15:32  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

国立漫画喫茶

民主党の鳩山幹事長が、アニメ美術館建設は漫画喫茶などの民業圧迫の無駄遣いだと言ったのには笑ってしまった。だれが知恵をつけたのだろう。植物に参政権をやろうという人のレトリックとは思えない名演説だ。

でも、郵便局ぐらいたくさんのアニメ美術館を作ればともかく、お台場に一つ作るぐらいでは民業圧迫にはならない。ただの、天下り先き確保の無駄遣いだ。

役人(?)が、このままではアニメは中国や韓国に負けてしまう、国を挙げてバックアップしなければならない、そのためには賞を作ったりして若い才能をそだてなければならない(うろおぼえ)、というようなことをテレビのインタービューに答えていたが、こんな古くさい利権漁りの理屈をいまだ使うとは、いかに役人が腐敗しているかの証左である。

橋下大阪府知事が苦労して芸術助成金を削っていることは『橋下知事の文化行政』に書いた。その一部を引用しておく。

橋下知事は先に ゙「上方演芸資料館」(ワッハ上方)の移転一部廃止を決めたが、引き続き芸術への補助金削減をするらしい。ワッハ上方は横山ノックが知事のときに作られたのだが、吉本興業のビルに高い家賃を払い、仲間うちで理事のポストを分け合うなど、税金を食い物にしていたのだから、これを廃止するのは誰でも思いつくだろう。しかし、高級な芸術の助成を削るというのは、橋下知事の改革もけっこう本物かもしれない。ワッハ上方のときは、既得権益を守ろうとする文化人が改革の邪魔をしたが、今回は文化人の意見を無視するというのもなかなかの戦法だ。それに芸術への補助金を削るのは経済学の原則にあっているのだ。


せっかく地方が「お笑い」の助成を廃止しようとしているのに、国が「アニメ」の助成をしてどうする。

そもそも、落ち目の産業を助成する国家プロジェクトなんていうのは成功した試しがない。第五世代コンピューターも、トロンも日の丸プロジェクトは全部失敗している。最近では、たしか液晶の国家プロジェクトがあった。ソニーが参加しないで、サムソンと組んだけれど、助成を受けたチームも受けなかったソニーも両方とも失敗した。ある程度成熟した産業は、結局生産コストの低い方が市場を支配する。

アニメも同じだ。いくらソフトの独自性と言ったも、中国の安い労働力にかなうわけがない。そもそもジャパンアニメのソフトパワーというが、もとはといえば日本の漫画パワーだろう。漫画家は国の助成なんかもらわなかったし、賞も仲間内の賞だった。ただ、出版社が金儲けのために頑張ったのだ。

芸術になろうとしたのはアニメのほうだ。賞をやったり批評したりと、さんざん、おだてたので舞い上がって、自分が芸術家だと誤解して、なにやらオカルト紛いの説教を始めたアニメ作家もいる。これじゃ、駄目になるわけだ。

アニメを面白いと思ったことは一度もない。若い頃、なぜアニメが面白くないのか、『鉄腕アトム』の漫画とアニメをくらべてみたことは以前にも書いた。それから、みんながもてはやすので『エヴァンゲリオン』をGEOで借りて見たけれど、もちろんつまらなかった。(注)

サブカルチャーとハイカルチャーが等価だなんて大きなお世話だ。どちらも助成なんか必要はない。そんなことをするよりも、著作権法を変えることだ。なぜ、文字情報が引用できて、映像の引用が許されないのか。小説が引用されて、売れ行きが減ることはないように、映像が引用されても売り上げがへることはない。

それから、アニメ美術館のアーカイブ機能はとうぜんネットに任せるべきだし、クリエイティブ・コモンのような運動も進める必要がある。規制を撤廃したほうが、経済への刺激効果はずっと大きいと思う。

注:http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-294.html
2009.05.28[Thu] Post 21:00  CO:0  TB:0  経済  Top▲

『1Q84』村上春樹


テレビをつけたら、「報道ステーション」で村上春樹の『1Q84』が都内の大型書店で先行発売されたというニュースをやっていた。古舘の隣に座っているアシスタントが、村上春樹のことを、エルサレム賞の授賞式で、ガザの人々を壊れやすい卵にたとえて、イスラエルを非難した村上さんといっていた。そして、授賞式で「壁と卵の比喩」を話している村上氏の映像を流した。

なんども言うが、これは明らかな嘘である。たしかに、イスラエルの圧倒的な武器によるガザ攻撃を非難してはいる。しかし、あのスピーチを全文読めば分かるように、かれはイスラエルを非難するためにイスラエルにいったのではない。「エルサレム賞を拒否しないのはイスラエルの側につくことだ」というパレスチナ側の脅迫を拒否し、文学の側に立つためにエルサレムにいったのだ。

村上氏が一方的にイスラエルを非難したような「捏造記事」を書いたのは朝日新聞だった。訂正することもなく、なにがなんでも「朝日」は嘘をいいつづけるつもりらしい。

『1Q84』をアマゾンで予約注文した。『海辺のカフカ』に挑戦したのだが、途中で挫折していた。それなら4000円も払えば、いくらなんでも、読むだろうと予約した。それに、話題になっているうちに読んで、感想文を書きたいと思っている。 配送予定日は 2009/5/31 - 2009/6/2だ。

ひさしぶりに見た古舘伊知郎は、芸にいっそうの磨きがかかっていた。


『村上春樹のエルサレム賞スピーチ』へ

「『1Q84』におけるフェミニズムとメロドラマについての研究」へ
2009.05.27[Wed] Post 23:51  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『日本の美術館名品展』(東京都美術館)3:ボッチョーニ

ウンベルト・ボッチョーニ:『カフェの男の習作』

この作品を見て、デ・クーニングの『女』を思い出した。新聞紙が貼り付けられているところは総合キュビスムであるが、「男」を三角や四角や半円に分解しているのはむしろ分析的キュビスムである。最初見たとき、男の顔には見えなかった。目や鼻や口が一つの顔としてまとまらず、ばらばらの図形に見えたからだ。 それで、グリーバーグがデ・クーニングの『女』シリーズの具象性について言った「ホームレス・リプレゼンテーション」(帰する所なき再現性)と言う言葉が、『カフェの男』にも適用できるようなきがした。

そういうことで、デ・クーニングの『女1』を見直してみれば、女の顔は怒りの表情をあらわしているわけではなく、大きな目やむき出した歯や黒い二つの点になった鼻の穴がペインタリーな「抽象的な目的」のためにあることがハッキリと納得できた。

キュビスムの『カフェの男の習作』をとおして、デ・クーニングの『女1』の抽象性を発見したということだ。

2009.05.26[Tue] Post 22:33  CO:0  TB:0  -ウンベルト・ボッチョーニ  Top▲

『日本の美術館名品展』(東京都美術館)2:ピカソ

パブロ・ピカソ:『ドラ・マールの肖像』

国立新美術館の『巨匠ピカソ』展(08年)で別の『ドラ・マールの肖像』を見た。それは直線的だったけれど、今回の『ドラ・マールの肖像』(徳島近代美術館所蔵)はちょっと円みがあってイラスト風で、分かりやすい肖像画である。 国立新美術館では、ほかに、パステル・カラーで描かれた『マリー=テレーズの肖像』も見た。どれも、横顔と正面の顔が合わさった女の肖像画である。

これらは肖像画は、もともとはキュビスムの多視点描画から来ているのだが、それが立体の平面への解体というモダニズムの意味を失って、単にピカソのシンボルという図像学的意味になっている。

ピカソは、赤塚不二夫の漫画に出てくるピカソのキャラクターを自ら作った。村上隆のキャラクターDOBくんのようにいろいろなバージョンがある。ピカソが自作を模倣しはじめたということだ。もちろんピカソは「これはポップだ」と言い張ることもできる。いずれにしろピカソは堕落の道を歩み始めたように思える。

ピカソは顔のもつ魔力をキュビスムによって解決することはできなかった。しかし、マチスは「へのへのもへじ」によって顔の象徴性表情表現を克服した。その意味では、ピカソはマチスを超えることはできなかった。

2009.05.25[Mon] Post 23:20  CO:0  TB:0  -ピカソ  Top▲

『日本の美術館名品展』(東京都美術館)1:セザンヌ

印象に残った作品を箇条書きにしておく。

ポール・セザンヌ:『水の反映』

この絵は横浜美術館の『セザンヌ主義』でも見た。東山魁夷の白馬のいる湖畔の景色とくらべるまでもなく、『水の反映』は傑作である。緑と茶と黒と、筆触の違いだけで、岸辺と水面を描いている。岸辺の樹木は斜めの筆触で、まるで木々のざわめきが聞こえるようだ。それにたいして、水面に反映した樹木は縦と横の筆触のモザイクで静謐に描かれている。樹木の反映と透明な水面と、そして絵具の平面とが、セザンヌ的な「堅牢さ」生み出している。

2009.05.24[Sun] Post 23:53  CO:0  TB:0  -セザンヌ  Top▲

田原謝罪、家族会の人権テロに屈服する

田原総一朗が横田めぐみ死亡発言を家族会に詫びた。以下、毎日新聞(ヤフー)から。

 北朝鮮による拉致被害者の安否についてジャーナリストの田原総一朗氏がテレビ朝日の討論番組で「外務省も生きていないことは分かっている」などと発言したことを巡り、拉致被害者家族会と支援団体「救う会」は22日、田原氏からおわびの文書が届いたと発表した。
 文書は「乱暴な言い方でご家族や関係者のお心を傷つけたことをおわび申し上げます」と記されている。これに対し、家族会などは「『乱暴』などという表現ではすまされない人命軽視の暴言で、重大な人権侵害」とする共同声明を出した。(5/23強調安積)

ついに家族会は人権テロリストになってしまった。これではカルデロンちゃんがかわいそうだと言ってるウスラサヨクと同類である。横田早紀江さんは憂国の士だと思ったから支持していたのだ。これでは駄目だ。苦しいのは分かるが、安易な人権テロに走るのではなく、もっと毅然としてもらいたい。

しかし、サヨクは家族会を批判するが、悪いのは家族会ではなく、「遺骨は偽物だからめぐみさんは生きている」という奇妙な論理を振り回している政府なのだ。いや、もっと悪いのは、はじめに誘拐ゲームを協力ゲームにしなかった金正日だ。出し惜しみをして、安倍氏に強硬策をとられて、あわてて協調戦略に転換したけれど、それも小出しにしたので、家族会側の不信をまねいてしまった。

サヨクは、生きている人質はみんな返したのに身代金を払わないのは卑劣だと、家族会を非難しているが、その非難はあたらない。家族会は真剣にゲームをプレイしていたのだ。五人の拉致被害者を帰さないという裏切り戦略が今回のゲームで一番すぐれた手だったのかもしれない。だからこそ加藤紘一や親北朝鮮の人たちはこの手(戦略)をこぞって非難するのだ。

もちろん子供たちが殺される危険はあった。しかし、これを誘拐ゲームと考えれば、人質を殺しても何のとくにもならない。人質を安全に返してこそ身代金が手に入る。だから、子供たちは人質であるかぎり安全ともいえたのだ。もちろん犯人が合理的に行動したばあいだ。

金正日は合理的にふるまった。身代金を受け取らずに五人の人質をいったん返したのも、寺越さんや日本人妻の一時帰国などの成功体験があって、比較的恵まれた人たちなら、子供たちを人質にしておけば帰ってくると高をくくっていたのだ。ところが家族は裏切り戦略をとった。

これは最良の戦略だった。ところが、遺骨鑑定で最悪の戦略を選んでしまった。そして、今回の人権テロへ。

つづきは次回。

『横田めぐみ死亡説』へ
2009.05.23[Sat] Post 17:33  CO:2  TB:0  人権テロ  Top▲

『ネオテニー・ジャパン---高橋コレクション』(上野の森美術館)

都美術館の『日本の美術館名品展』のあと、上野の森美術館の『ネオテニー・ジャパン---高橋コレクション展』を見た。

高橋コレクションの大半は『美術手帖』の特集で取り上げられたことがある美術家だ。ミズマや西村や原美術館などで見たことがある作家も多い。日本にもやっとアメリカのようなコレクターが現れたということか。

タイトルの「ネオテニー」というのは、本来は「幼形成熟」ということで、変態する動物が、変態せずに幼生のまま生殖可能になることをいうのだが、ここでは、変態のしない哺乳類の子供が親から乳をもらったり保護してもらうために可愛いい姿形や仕草をしているという、動物行動学上の俗説(?)のことを意味している。

「ネオテニー」が「かわいい」ということなら、それはなにか特別の美的価値にかかわることではなく、「オタク」や「スーパーフラット」や「クールジャパン」と同じようにファッションである。「KAWAII」は東京ブランドのキーコンセプトで、ちょっと古いけれど、セレブが来日すると渋谷の「109」でかわいいファッション・ブランドを買って帰るというトピックスをテレビで見たことがある。

「ネオテニー」がファッションならいずれ古くなる。会場を一巡して失望した。いま、まさに旬の作家を集めたのだろうが、すでに古めかしく感じられる。会田誠の『大山椒魚』はイラストで、名和晃平の『Pix-Cell』はおおきなビーズ細工に見えてしまう(注1)。東京都現代美術館で見たもの派、具体、ハイレッドセンターの展示や、原美術館の現代アートのコレクションを思い出す。

村上隆の『Mr.DOB』が天井から吊してあった。「ダッコちゃん」を思い出してギョッとした。

編集者と作家とギャラリストと批評家と美術愛好家がコレクターのまわりに集まって、「上野が日本現代アートの聖地に」(産経新聞)なった。高橋コレクションにはたしかに勢いがある。しかし、その華やかさの背後にすでにがらくたが見える。「海外の目も注目」(産経新聞)しているそうだが、いかにも古めかしい表現ではないか。

高橋氏はコレクションのために美術館を作るという。その美術館が日本の現代美術の聖地になるのか、それとも風俗資料館になってしまうのかわたしにはわからない。でも、せっかく日本に出現した新しい起業家タイプのコレクターだ。これまで一億円を投資したという。それが百億円の価値になることを期待してやまない。そのためには・・・・・


注1:会田の『書道教室』や名和の『Air--Cell』は好きである。

会田  誠:http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-139.html
名和晃平:http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-68.html
2009.05.23[Sat] Post 02:53  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

『中岡真珠美展』(アートフロントグラフィックス)

この展覧会を見たわけではない。昨日、上野の森美術館に『ネオテニー展』を見に行って、無料でおいてあった産経新聞をもらってきた。そこに「(和)」の署名で『中岡真珠美展』の評が載っていた。ちょっと変な感じがしたので、産経ニュースから引用する。

白い画面上にピンクや薄いブルーの淡い色彩が浮遊する。さわやかな風が吹いているようだ。作者は風景そのものを描くのではなく、気になる風景を写真に収め、それをモチーフにキャンバスにアクリル絵の具で描く。
たとえば「relation-ship」。全体がピンクなどの淡い色彩に包まれている。目をこらすと、画面中央にうっすらと三角形の白い色彩が見えてくる。金沢の兼六園を描いたもので、白い部分は松に施された雪つりだという。事物の色彩を解体し、再構成して抽象的な世界を構築しているのだ。
画面に筆跡を残さないのも特徴。漆に似た樹脂の塗料を用いて、塗った塗料をみがき、滑らかな表面を形成。工芸的な個性を加えている。


写真の代わりにスケッチにして、技法を染み込みにすれば、そのまま津上みゆきの評に使える。絵画制作も評論執筆もどうやらマニュアル化しているようだ。たぶん、これはグリーンバーグが「十丁目のタッチ」の克服を目指したという『ポスト・絵画的抽象』のマニュアル化なのだ。

現代絵画はいまだグリーンバーグの呪いから逃れられないようだ。
2009.05.21[Thu] Post 22:59  CO:0  TB:0  -中岡真珠美  Top▲

『ブレードランナー』リドリー・スコット監督★★★

『「意識」を語る』の記事で、『ブレードランナー』のことを思い出した。それでゲオでDVDを借りてきた。三種類あったけれど、そのうち二枚を借りてきて、最初の劇場公開版を通しで見て、あとは結末の部分や変更されたところを適当に見た。(バージョンによる違いはWikiを見て欲しい)

ヴァージョンの違いは、レイチェルの寿命が4年なのか永遠なのかの違いと、デッカード(ハリソン・フォード)が人間なのかレプリカント(7型)なのかの二点の違いだ。この映画がカルト・ムービーになったのは、バージョンがたくさんあることにくわえ、シナリオの変更でいろいろと矛盾が生じたため、マニアが蘊蓄をかたむけるのに好都合だったからだ。

ロボットが意識をもてるかどうかの問題は、基本的に感情があるかどうかの問題に還元されている。

レプリカントかどうかのテストは、道徳に関する質問をして瞳孔の変化を見るという嘘発見器のような方法で、質問というのが、「砂漠でひっくり返った亀がいる、君はどうするか」といったようなものだ。最後に母親のことを質問しよとした試験官はレプリカントに殺される。(レプリカントには母親の記憶がない)

*慰安婦用に製造された女性用レプリカントも「数年たてば感情が生まれるらしい」という台詞。
*「レイチェルに記憶を与える」とタイレル博士の台詞。
*感情表現のないロボット人形が出てくる。
*レイチェルがピアノを弾く(ピアノが弾ける女性の記憶が与えられている)。
*デッカードはレイチェルに恋をする。レイチェルも変な感じ・・・・・デッカードはキスをしようとして途中でやめる(レイチェルその気なし)・・(数日後?)・・ふたりキスをする(レイチェル冷感症)・・・・・デッカードはレイチェルに"I want you"と言えという。・・・・・レイチェルは言う(ちょっと気分が出てくる)・・・・・ふたりSEXをする(たぶん)・・・・・くだらん(僕の感想)
*レプリカントのバッティ(ルトガー・ハウァー)が自分の寿命が尽きたと知って、**星雲の思い出を語りながら、デッカードの命を救う(良心が芽生えたということ)

など、結局のところ「良心」とか「愛」の感情が人間の証みたいな話になっていて、レプリカントに「我思う故に我在り」と言わせてみたり、液体窒素のなかに手を入れても平気みたいなシーンもあったけれど、結局、最後は意識の問題ではなく、愛する人がもうじき死ぬから哀しいとか(これは『ある愛の詩』)、これまでの人生を捨てて新しい人生をはじめる勇気があるか(これは『マディソン郡の橋』)など、けっこうありきたりのラブ・ストーリになっている。しかし、そう思って見れば、SFの舞台背景がラブストーリーに似合って、なかなかの佳作ともいえる。

リドリー・スコットのSFとしては、人間と区別できない『ブレードランナー』のレプリカントより、機械と生物のハイブリッドの『エイリアン』のほうが、シガニー・ウィバーとのあいだに微妙な恋情のようなもの(禁断の愛だw)が生まれたようで、わたしは『エイリアン』の方がすきである。
2009.05.18[Mon] Post 17:16  CO:1  TB:0  映画  Top▲

『レイプレイ』はチャイルド・ポルノか

ポルノが有害かどうかについての論争は、ほぼというより完全に決着がついている。アメリカではポルノ解禁後、レイプが85パーセントも減少しているという。アメリカのキリスト教原理主義の雰囲気がこの数字を認めようとしない。

それなのに児童ポルノが規制強化の方向なのは、児童ポルノを制作するために児童誘拐の犯罪がおこなわれているからだ。大人のポルノ出演者はいるが、子供は強制しなければならない。アメリカでは年間数千の単位で児童が性的目的のために誘拐され殺されているという。

単純所持を罰するのも、需要がなくなれば供給もなくなるという理屈だろう。

しかし、児童ポルノのアニメは、実写ではないのだから、児童を虐待しているわけでも、誘拐してくるわけでもない。それに、『レイプレイ』はみていないのだが、オタクやロリコンのポルノはそんな暴力的なものとは思えない。むしろ日本アニメのロリコンポルノを普及させれば、アメリカのチャイルド・レイプは減るかもしれない。

日本は圧倒的に強姦が少ない国である。そのかわり電車の痴漢は日本にしかいないという。こんなことをいうと田島陽子に「ほらね、男はみんなそうなんだよ」と言われそうだが、どうかんがえたって、強姦より痴漢のほうがましだろう。目くそ鼻くそだけどネ。

ガーディアンがイギリスの国会議員が『レイプレイ』弾劾の演説をしたと伝えているが、相変わらずの日本人蔑視である。従軍慰安婦問題のときもそうだが、白人は自分たちの性文化が日本ほど成熟していないことをどうしても認めたくないようだ。








2009.05.17[Sun] Post 02:51  CO:0  TB:0  人権テロ  Top▲

写真家星野道夫

昨日、駅までニョウボを迎えに行こうと階下に降りてテレビをつけると、星野道夫のことをやっていた。

外出の支度をしながらチラチラと見ただけなので、番組内容はよく分からないのだが、「自然」や「人」という言葉がしきりに耳に入る。誰だからわからないのだが、本がいっぱい詰まった書棚に囲まれて、胡座をかいて、星野道夫のことをロマンティック(?)に語っている。なんだか変だなぁーと思ったけれど、支度ができたので、テレビのスイッチを切って、家を出た。

星野が熊に襲われて死んだとき、カメラ雑誌の編集者に、「ネイチャーフォトグラファーなら仕方がない」と言って、顰蹙を買った。今、ネットで検索してみると、星野が自然を甘く見ていた、事故は避けられた、いやそうではないミチオは自ら死を選んだのだ、というような不思議な論争が続いている。

私がテレビを見たときの違和感は、「写真家は被写体について語る特権があるのか」ということだ。もちろん見たものについて語る権利はある。しかし、写真家にとって見ることは写真に撮ることだ。写真にとれないものについて語るのは写真家の仕事ではない。すべては写真の中にある。

語る画家がいるように、語る写真家もいる。フォト・ジャーナリストはストーリーにぴったりの被写体を探す。それは写真ではなく、挿絵だからだ。現場にいたことの臨在証明だ。それは戦争でも自然でも環境でも同じ事だ。

星野道夫の事故のあと、書店に並べられた写真集を見た。どれも凡庸なネイチャーフォトのように見えた。そして通俗的な文学趣味の言葉がちりばめられていた。

戦争と政治を追いかけた長井健司も同じだ。かれもまたストーリーに従って傑作写真をものにしようと、戦乱の地を駆けめぐった。そして、ミャンマーでデモ隊に襲いかかる兵士(なんという紋切型)を撮影(shoot)しているところを撃ち殺された。

長井さんを英雄にし、星野さんの神話つくろうと知人や友人たちは語り継ぐ。しかし、長井さんはスクープ映像を撮ろうとして、ピューリッツァ賞の被写体になってしまい、星野さんは自然との交感を夢見ながら、その自然に食いちぎられて命をおとした。これは英雄譚でも神話でもない。もちろん悲劇でも喜劇でもない。メロドラマなのだ。


わたしは寡黙な写真家が好きである。本橋成一は数少ないそのひとりである。

2009.05.16[Sat] Post 03:10  CO:0  TB:0  写真  Top▲

『相笠昌義』のアクセス数

昨日の日曜日(5/10)に、突然、相笠昌義のアクセスが増えた。検索したら、つくば美術館で、4月25日(土曜日)から『日常生活-相笠昌義の世界展』を開催されていることがわかった。でも、日曜日に突然というのは、きっと「新日曜美術館」で取り上げられたに違いないと、八時からの再放送を見ることにした。ついでにこれまで五秒しか見ていないカンサンジュさんの活躍振りをついでにネタにしようという魂胆もあった。

ところが、うっかり見るのを忘れていた。気づいたときは八時四十分をすぎていて、あわててテレビをつけると岸田劉生の『麗子像』が映し出された。ニョウボが麗子像をどこで見たのか思いだそうと騒いでいるうちに、カメラが切り替わって、話をふられたカン氏が「いろいろな顔があって、・・・・・」と言ったとたんに、ニョウボが「気持ち悪い、ナニ、この声、誰なの、まえのひとは替わったの(壇ふみの名前が出てこないw)、知らなかった、誰なの」と騒ぎだした。

わたしは「えっ、知らないの」と驚いて見せたものの、なんと答えていいのかわからない。ニョウボは知らないというので、しかたなく、ぼそぼそと「カンサンジュっていうんだ」とつぶやいたけれど、ニョウボは聞き取れなかったらしく、「なに、それ!」と言う。わたし「だから、東大の教師らしい」、ニョウボ「気持ち悪くないの」、わたし「いゃー、気持ち悪いよ」、ニョウボ「じゃ、見なければいいじゃない」、わたしは「うん」と言ってテレビを切った。

という具合にニョウボは「気持ち悪い」という基準で、次々とテレビ番組を規制する。久米、筑紫、古館から始まって、それからNHKはほぼ全員気持ち悪いそうだ。NHKで気持ち悪くないのは、9.11のときの手島龍一と週刊子供ニュースの池上彰、それと最近では天気予報の半井小絵がお気に入りである。なんでも服装がちぐはぐなところがなかなかいいというのだ。

「気持ち悪がる」のは勝手だが、私までテレビを見るのを規制するのは行き過ぎではないか。

『相笠昌義 日常生活展』へ

追記:ニョウボから抗議があった。半井さんもアゴでちょこっと頷くからきらいだそうだ。それでも、七時のニュースは武田真一アナウンサーが「夕食に何を食べているのかわからない」ところが、半井小絵の「はんじもん」のようなコーディネイトとペアになると笑えるのだそうだ。それから安藤優子はスポーツ選手が出てくるとベタベタと体に触るから嫌いだとか、増田明美の声は絶品だとか、国谷祐子はあの真剣そうな目つきが「本当に真剣ならかなりいかれとるー」目つきだそうです。あとは自主規制でカット。
2009.05.12[Tue] Post 00:10  CO:0  TB:0  -相笠昌義  Top▲

横田めぐみさん死亡説

田原総一郎が「横田有本死亡説」を「朝生」で述べたらしい。以下、産経ニュース。

 ジャーナリストの田原総一朗氏(75)がテレビ朝日の番組で、拉致被害者の横田めぐみさん=拉致当時(13)=と有本恵子さん=同(23)=について死亡を前提とした発言をしたとして、家族会と支援組織「救う会」は11日、田原氏とテレビ朝日に抗議文を送付した。  田原氏は4月25日のテレビ朝日の「朝まで生テレビ!」で、拉致問題交渉が難航する背景について、「2人は死亡した」と主張する北朝鮮側に対し、日本側が生存を前提に交渉しているためと説明。「外務省も生きていないことは分かっている」と発言した。(5/11)

すでに私のブログ記事『なぜ、サヨクは横田早紀江さんを憎むのか』で詳細に述べたように、私も横田めぐみさんは死亡していると思う。拉致を誘拐ゲームと考えれば、北朝鮮にとって横田さんを返すという手が最良の手だったはずだ。それまで、金正日は合理的なプレーヤーだった。だから、返さなかったのではなく、返せなかったのだ。

拉致問題を営利誘拐ゲームにしたのは安倍晋三副官房長官の功績である。そのことを決して忘れてはいけない。くわしくは上記の記事を読んでください。

それから、今の最良の手は、横田めぐみさんの問題は棚上げして、他の被害者全員の解放を求めて強攻策を続けることだ。そして、営利誘拐ゲームとして交渉をつづけることだ。

もちろんわたしは横田早紀江さんの憂国の情を支持するのだが。

カテゴリー「拉致問題」へ

PS:おかげさまでこの記事へのアクセスは増えているのですが、リンクした『なぜ、サヨクは横田早紀江さんを憎むのか』をクリックしてくれるひとが少ないようです。ネットでは田原総一郎への非難ばかりですが、冷静になって、私のこの記事を読んでください。サヨクもウヨク。いま、読み返しても我ながらよく書けていると思います。訂正するところはほとんどありません。
2009.05.11[Mon] Post 22:16  CO:0  TB:0  拉致問題  Top▲

斎藤美奈子と永江朗

山形浩生が永江朗を揶揄したことで斎藤美奈子のことを思い出した。

永江斎藤二人の合評「甘い本 辛い本」がネットで読めるけれど、まあ、ひとまずポイントを押さえておくといった対談で、結局はどこか物足りない批評になっている。これは、なんの根拠もないことだが、たとえば、「千夜千冊」を書いた松岡正剛のような編集者出身の批評によく見られる特徴ではないだろうか。編集会議の雑談のようなもので、なるほどと思わせながら、よく考えると中身が何もない批評だ。二人とも編集者出身だし、そういえば椹木野衣も『美術手帖』の編集者だった。

『妊娠小説』は編集者経験を生かした斎藤美奈子の良いところが出た評論だが、その同じ斎藤氏が朝日新聞に書くとなると、永江氏と同様に逆上してか、あらぬ事を口走る。わたしが言っているのは村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチについての斎藤のコメントのことだ。わたしは『村上春樹 エルサレム賞授賞式スピーチ(2)』を書いたあと、わざわざ図書館に行って朝日新聞の記事を探して読んだ。斎藤は以下のように村上の「壁と卵」の比喩を批判する。

 先日エルサレム賞を受賞した村上春樹氏は、スピーチで「壁と卵」の比喩を用いた。 「もし硬い、高い壁と、そこに投げつけられて壊れる卵があるなら、たとえ壁がどんなに正しく、卵がどんなに間違っていても、私は卵の側に立つ」  この賞を受けること自体の是非は問わない(それでもイスラエルのガザ攻撃に反対ならば受賞を拒絶すべきだったと私は思っているけどね)。その比喩で行く なら、卵を握りつぶして投げるくらいのパフォーマンスを見せてくれてもよかったのに、とも思うけれども、小説家にそれを望むのは筋違いな話かもしれない。  ただ、このスピーチを聞いてふと思ったのは、こういう場合に「自分は壁の側に立つ」と表明する人がいるだろうかということだった。作家はもちろん、政治家だって「卵の側に立つ」というのではないか。卵の比喩はかっこいい。総論というのはなべてかっこいいのである。


たしかに「壁と卵」の比喩は上出来とはいえない。しかし、村上は総論を述べるためにエルサレムに行ったわけではない。そうではなく、パレスチナの脅迫を断固として拒絶し、文学を擁護するために行ったのだ。イスラム原理主義者が村上の著作をボイコットするということが何を意味するか斎藤美奈子は分かっているのか。

それから、斎藤美奈子はフェミニストらしいが、ハマスが女性や子供をどれだけ抑圧し利用しているか知らないはずはない。
2009.05.10[Sun] Post 15:47  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

『科学の落とし穴』池内了(晶文社)


これはトンデモ本である。もちろん図書館で借りてきた。

読んだことはないが、池内了の名前だけは知っていた。新聞雑誌でよく名前をみるからだ。宇宙物理学が専攻だというから、ひょとしてホールトン・アープのことが書いてあるかと思って、読んでみたが、とんでもない。正真正銘のトンデモ本だった。

何しろ最初のトピックスが『技術革新四十分の一の法則』という面白くも可笑しくもない思いつきが書いてある。これはなんとか我慢して通読した。あとはパラパラめくってみた。「市民と科学」とか「公正な科学」とかあるからカルスタとかPCのたぐいなのだろう。

『IPCCの統合報告書の警告』では「自分の生き方を見直すことが重要である」と地球温暖化の「(疑似)科学の落とし穴」に、そのまんま、はまちゃってる。また『監視社会のゆくえ』では、監視カメラを監視するカメラが必要になるような監視社会になっては困るから、その第一歩である住基ネットに反対だと、できの悪いSFのようなことをいっている。

「監視社会」というのは、たぶんフーコーのパノプティコンから出てきた話だろうが、あれは監獄の話であって、しかも、一望のもとに監視することよって、服役者に制限された自由を与え、社会復帰のための訓練もできるようにしようとするものだ。

それに、監視社会というのは、住基ネットで生まれるものではない。われわれはすでに銀行やビデオレンタルや図書館では、電子情報で管理されているのだ。ネット社会よりも社会主義の密告制度のほうがずっと恐ろしい監視社会なのだ。著者はいったいキューバで五人組のような監視システムや検閲があることをしらないのだろうか。

あとがきを見たら、この本が著者の三冊目の「科学時評集」だと書いてあった。ご冗談でしょう、池内さん。
2009.05.09[Sat] Post 14:59  CO:0  TB:0    Top▲

永江朗の不思議

永江朗氏が思想も節操もないことは大竹伸朗との対談で判っている。しかし、わからないのは、週刊朝日の書評で高橋氏の窃盗事件と小泉改革を結びつけると言いながら、格差問題を持ち出さなかったことだ。朝日は格差を生んだのは小泉改革だと言っていた。それなら、泥棒は富の再配分だから、格差是正に有効だろうに。

『山形浩生が永江朗を批判している』へ
2009.05.08[Fri] Post 13:06  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

津上みゆき(2)

津上みゆき(1)からつづく

津上みゆきは自分の作品は風景画だという。あらためてカタログの写真を眺めてみれば、たしかに、風景画に見えなくはない。空や雲や木や山や海があるようにも見える。

ニョウボが津上みゆきの作品を見て、山本直文やモーリス・ルイスを思い出したのは、彼らが同じように下塗りのしていない綿布に薄く溶いた絵の具を染みこませて描く「soak stain」の技法を使っているからだ。同じように、soak stainの技法を使った画家にヘレン・フランケンサーラがいる。風景のスケッチをもとに描く津上の作品は、自然からインスピレーションをえて描いたヘレン・フランケンサーラのカラー・フィールド・ペインティングに似ているのは頷ける。

カラー・フィールド・ペインティングの説明を英語のWikipediaから引用する。

In 1960 the term Color Field painting was used to describe the work of Frankenthaler. This style was characterized by large areas of a more or less flat single color. The Color Field artists set themselves apart from the Abstract Expressionists because they eliminated the emotional, mythic or the religious content and the highly personal and gestural and painterly application.

カラー・フィールド・ペインティングは、抽象表現主義にあった情緒的神話的宗教的な内容を排除し、絵具の塗り方も、あまり個性的ではなく、タッチもストロークもめだたないように、そして絵画的(painterly)描写にならないようにした。そのためには、soak stainの技法が効果的だったと思われる。

それで、津上みゆきの作品を見ると、染み込みの技法ばかりではなく、色を塗り重ね擦ったようなストロークのあとがあり、どちらかと言えば、ペインタリーな開放性のある絵画表面になっている。その意味では、津上はカラー・フィールド・ペインティングとは言えないだろう。

さらに、津上は、風景との類似を残すことで、カラフルな画面に象徴性を与え、情緒的精神的な内容を生みだそうとしているのかもしれない。もちろんそんなことが成功するわけはなく、ただ、津上の制作上の哲学めいた饒舌によって台無しになっている。

津上はスケッチを見せ、実作との「関係性」を示す。そして言う。

「描くだけではなく、記憶をドローイングに起こしたり、文字に書き留めたり、脳裏に焼き付けたりもします。そうすることによって、イメージは反復し増幅します」
「そうした様々な景色の断片の在り様は取捨選択され、改めて手繰り寄せられた時、あらたにひとつの風景が立ち上がり、絵画として誕生」する。(加藤洵のカタログ解説から)


そして、出来上がった作品には、《View - "Cycle"26Feb.-10Apr.,05〈Way〉》2005年や、《View - at 2:30a.m.,15 Mar.,08》2008年など、時間の経過や瞬間を示すタイトルがつけられている。だからといって、われわれは滲みや擦りつけられたよなストロークに時間を読み取る義務はない。

津上はタイトルの解説をする。

“View”とは、「それは、さまざまな観点と切り口で世界を解き明かそうとする生き方である」(同上)

画家がいくら深遠なことを言っても、作品のほうがスカスカ(2ちゃんねる)だったらなにもならない。(もちろんスカスカだと断定しているわけではない。作品と作家の言うことは区別しなければならないと言いたいだけだ。)

たぶん、津上はsoak stainの技法のスカスカな絵画表面の欠点を克服するために、綿布をパネル貼りにして、油彩やアクリルを薄く溶いたものばかりではなく、顔料、膠、水彩、油彩、鉛筆、パステルなど、染み込み以外の方法も使って、絵画の物理的表面を多層多様にしようとしている。また、風景を一種の「ホームレス・リプレゼンテーション」として利用することで、画面に空間のイリュージョンを与えようともしている。しかし、それでも「soak stain」のスカスカ感を克服することができず、そのかわり芸術論でごまかそうとしているのではないか。優れた作品というものは、観者ばかりではなく、作者もまた沈黙させるものだ。

おそらくフランケンサーラを支持するグリーンバーグは堕落したフォーマリストなのだ。グリーバーグの優れたモダニズム論は、かれの『セザンヌ』に展開されている。それは浅い奥行きのイリュージョンと物理的絵画の間の弁証法的緊張として見事に分析されている。セザンヌの技法は、染み込みではなく、薄塗りと筆触のモザイクと塗り残しなのだ。津上氏はセザンヌに影響を受けているという。ならば、お節介だが、もういちど、グリーンバーグの『セザンヌ』を読み直すことを薦める。
2009.05.06[Wed] Post 01:15  CO:0  TB:0  -津上みゆき  Top▲

津上みゆき(1)

津上みゆきについての批評文を二つ引用する。(強調安積)

では色面と柔らかな形とからなる純粋な抽象絵画なのか、たしかにあるものはバッハのゴールドベルク変奏曲を、またあるものはモーツァルトのディ ヴェルティメントを連想させる音楽性を内包している。またあるものからはジャズファンにはチャーリー・パーカーの綺羅らかな音色、熱をもった官能性、つま り身体が火照るような熱気を感じられるかもしれない。
音楽にたとえられる美術には、どこか時間性、インプロヴィゼーションという表現が相応しい即興的な勢いがある。また美しい色彩が単純に美しい音色 を連想させることもあるだろう。しかしこれはあくまで音楽を好み憧れる者が考えることだ。食に関心の高い者には、甘い香りやビターな隠し味、とろけるよう な、口当たりの良いといった言い表し方をするかもしれない。優れた作品はそれが絵画であれ音楽であれ、人間の五感に訴えかけてくるようだ。(広本伸幸『TOKYO ART BEAT』)

だからかもしれない、津上みゆきの「風景」とおぼしき作品いやむしろヴィジョンはことごとく「View」と題され、自然界に放たれた無数の矢のごとき視線ないしは目くるめく閃光の織物のように、どこか輝きをおびたエネルギー体として立ち現れる。あえていうなら、それは画家の五感(セザンヌのいうpetite sensationかしら?)にたいして生成し生動し、いわば旋回する風景とのさまざまな出会い、しかも断片的で刹那的なそれの、画家の存在すべてを託した、まさに一期一会ともいうべき一瞬の抱擁かもしれないのだ。(本江邦夫『現代日本絵画』)


ふたりとも、共感覚のつもりか「五感」を持ち出しているが、その中に視知覚がはいっていないようだ。麻薬でも飲んで目をつぶって書いたにちがいない。

それにくらべて、2ちゃんねるの『山田正亮問題』の津上みゆきに関するコメントはちゃんとしている。以下、スレッドの抜粋。


山田正亮問題
663 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/02(火) 04:50:05
大谷有花より津上みゆきのほうが格上になっちゃったかな。
664 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/02(火) 08:23:43
絵は津上のほうがマシだね
665 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/02(火) 08:30:14
http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/07/miyuki-tsugami-tagboat-article.html

繰り返しになるが以前は画家津上みゆきをルネッサンス期ヴェネツィア派の画家から
プッサン、ドラクロア、マティス、ロスコ、ウォーホルと連なるコロリスト(色彩画家)の
系譜に位置づけていた。しかし画家本人が主張するようにセザンヌを目指す風景画家
として位置づけるべきかもしれない。描かれた風景は色彩に溢れ、我々の風景を眺める
視覚の働きそのものに変化を与えてくれる。それは人工的な色彩の氾濫する都市に
生活するものにとっては、新鮮な空気のように必要とされるものだ。
666 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/04(木) 18:59:12
こまったもんだな
667 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/06(土) 14:57:48
コンポジションの継承について一番良く分かっていない本江が
"継承"を語っている点についてw
668 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/10(水) 20:56:32
こまったもんだ
669 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/12(金) 18:52:28
ほんとにな
670 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/22(月) 02:16:19
こまったもんだ ・・・について

色彩派(画家)というのはそうであるものとそうでないものの2種が存在する。
しかし構成派(画家)というものは言葉そのものの存在が必要無いくらい画家として必須の
条件である。津上とやらも大谷とやらもそれを評価する評論家もその部分の理解と実践ができていない。

しかし画家本人が主張するようにセザンヌを目指す風景画家として位置づけるべきかもしれない。描かれた風景 は色彩に溢れ、我々の風景を眺める視覚の働きそのものに変化を与えてくれる。

全体的に馬鹿馬鹿しい評価なのは笑いをこらえた上で、よく読んであげると全くの支離滅裂な文章であることに気づく。
一節すらもまともな言葉が使えていない。
一体何を学んできたのか。

まぁ恐らくは"抽象"という意味も理解していないのだろう。


というような心情が(こまったもんだには)込められています。
671 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/22(月) 18:00:59
>>670
解説ありがとう。
上すべった言葉を浪費する美術評論家って多いよね
672 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/22(月) 22:16:26
マティス、ロスコ、ウォーホルと連なっちゃいかんわな

3人とも"各世界"の巨匠あるいはお騒がせ者といったところだろうに

誰も教えてくれなかったんだろうな。
学術員ってのは年号とかしか知らんのだろう。

それにしても文化の発展は世の中そのものも変えるほど
影響力があると思うのだが
こういったシーンを見るにつけ聞くにつけ本当に厳しくなってると思う。

色彩派のゴッホは貧苦にあえぎながらなんと言ったか
「自分の絵は売れなくても良い 後進の画家の助けになれば良い」

こころせよ!
1円の重みと純血を!

673 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/23(火) 01:52:27
津上の絵は説得力あるだろ、
華のない絵を描いてる有花はただの下手糞だが、
674 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/23(火) 02:01:04
しかし、広本の文章って酷いな、

読む相手をバカにしてるんだろうな。
675 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/23(火) 12:15:18
津上の絵は出来不出来の差が激しすぎる
3割程がいい絵だと思う
676 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/24(水) 02:09:52
津上に対するコメントをあちこちで拾い読みしたが
ロスコだのステラだのニューマンだの
馬鹿な評論ばかりだな。
抽象表現主義に間違いは無いが、ロスコやステラやニューマンが表現したのは
心に広がりゆく"永続性"だろ。

むしろデクーニング、マザーウェル、ホフマンあたりのフィールドで勝負しているわけだから
それらと比較し、未熟さを指摘した上で支援するべきだな。
津上さんは僅かだが良いものは持っている。しかしいっぱいいっぱいかな。伸びしろは疑問。

時代を担うとか、そういった表現は や め て く れ
677 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/24(水) 02:11:16
津上さんのは必要とされる"コンポジション"が無いのだよ。
単色であろうが何色使おうがね。
だからスカスカ こころに響かない。

http://www.gaden.jp/yamaguchi/2003/031117.htm
良作に入るこの作品も煮え切らない。前に進みたいなら偉大な先輩たちが何を表現したのかを
評論家の言葉でもなく、タイミングの悪いインタビューでもなく、作品から学ぶことだ。

例えば、カンバス一番右下の半円の内側に黒い輪郭線を加え
中央の黒玉の左下部分に指先ほどの濃いめの赤くややつぶれた円状のものを配置する(重ねる)。

そうしてはじめて(例えば)"萌芽"というようなタイトルも正しいコンポジションのうちに
冠することができよう。"View"じゃ寂しいよ。
678 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/24(水) 02:11:48
以下の作品(あくまで一例)は作家の可能性を開く道しるべになるだろう。

magnum opus / hans hofmann
http://www.artrepublic.com/prints/9468-magnum-opus.html

Elegy to the Spanish Republic No. 110, / robert motherwell
http://www.guggenheimcollection.org/site/artist_work_md_116_1.html

gotham news / willem de kooning
http://arthistory.about.com/od/from_exhibitions/ig/action_abstraction/jm-aa_08_09.htm

マザーウェルはあえて実験段階の作品が分かりやすいだろう。
679 名前: わたしはダリ?名無しさん? [sage] 投稿日: 2008/09/24(水) 12:14:41
マザウェルとでは教養が違いすぎる
比べるのもかわいそうだ
680 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/27(土) 07:21:44
>>679
自明の理w

抜粋おわり
津上みゆき(2)へづづく
2009.05.03[Sun] Post 21:47  CO:0  TB:0  -津上みゆき  Top▲

『アーティスト・ファイル2009』(国立新美術館)

津上みゆきの名前は2ちゃんねるの「山田正亮問題」の板で知った。国立新美術館の『アーティスト・ファイル』に名前を見つけたが、都合がつかなくて行けなくなった。にょうぼが東京へ行くついでに見てきてもらった。

津上の作品を見て、目黒美術館の『丸山直文---後ろの正面』展を思い出したそうだ。綿布の白っぽい感じが似ていると。膠と顔料、それにアクリルを綿布に染みこませるメディウムのおもしろさはある。パネルに張った綿布に膠を使えば、アクリルを水で溶くより滲みは少なくなる。

しかし、風景からインスピレーションを得ているというわりに、表面のメディウムと空間のイリュージョンの緊張はそれほど感じられなかったという。

写真や立体作品はカタログだけで、作者の意図が推測できるけれど、絵画なかんずく抽象画は実際に見ないとハッキリしたことは言えない。ひとまず、にょうぼの目は信じるほかない。以下、彼女の感想文だ。



*     *     *



『ARTIST FILE 2009』を見るために国立新美術館へ行く。せっかく65歳になったのに特典はなく入場料は娘と同様千円。不満。

最初の展示室で大平實の大きな作品を見る。昔、大工さんが家を建てるときのちょうなの木くず、そんなものが材料となっている。その木くずを同じ方向に並べてさしこみ、方向を変えてまた別の面に差し込んでいる。鳥の羽に似ているようで、それにしては不揃いで、魚の鱗に似ているかなと思ってもよけいにでこぼこ不揃いである。あるいはまた民族工芸のようにも見える。「地上の雲」は両端に穴があいている。わたしがこちらから覗くと、あちらの穴から娘が顔を出して、あかんべーをしてよろこんでいる。娘に似合っている作品でした。

石川氏の作品はなんの技法も加えない素直な写真で、だからますます写真とはいったい何なんだろうと思いながら、さっさとこの展示室は通り過ぎる。

次の金田氏の作品。これにはなんの意味があるのかな、と題を見ると、ちゃんと書いてありました。「悔やみを固める」「インヂィアン・イエローは手についた花粉の色」「夜が少しずつ降りる」など。題を見ると、なーるほどと納得したから、大急ぎで次ぎへ。

村井進吾氏。やはりアートは配置が大切なんだろうなーと感心しました。

齋藤芽生氏の作品は目をつぶってパス。(カタログを売っている横でおみくじも販売していました)

津上みゆき氏の部屋に入ると、同じサイズの作品がずらりと並んで展示されている。その色彩になぜかほっとしました。でも、これって、単品で見てそれでもほっとさせる作品かどうかな、と考えてしまう。どうせ購入するなら、まとめて全部お買い上げのほうがいいかも。重なった色も滲んだ色もおおげさではなく、淡いやさしさもあるけど、しっかりとしているから、だまされたという感じもなく。作品のもとになるものは風景画だときけば、なるほどと思わないわけではない。ガラスケースに後生大事にスケッチブックが展示してあるのにはちょっと文句をつけたくはなったけど。
(会田誠氏が抽象画の描き方を知りたいなら、これは参考になるかも)

宮永愛子氏の作品には昭和のたんすに思い出をそっと詰めてあるのかな?  娘が興味を持ったのだから、やはりこれは「隣のトトロ」系かな。娘は携帯で写真を撮って叱らました。 「消せとは言われなかったよ」と。なんで写真を撮ることがそんなにいけないことだと言われるのかという疑問はないようです。ほんと、なんでだめなの? 著作権だ、なんだと、ともかくうるさい世の中ですね。さすがの娘もおみくじは引きませんでした。幸いです。


以上
2009.05.02[Sat] Post 16:30  CO:0  TB:0  ニョウボ  Top▲

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