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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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山形浩生が永江朗を批判している。

山形浩生氏がHPの『最近の噂』で永江朗氏を批判している。久しぶりの山形節で溜飲を下げた。

永江氏が『週刊朝日』に『百年に一度の危機から日本経済を救う会議』(高橋洋一と長谷川幸洋の対談本)の書評をかいた。わたしもこの本を含めて高橋氏の本は三冊、アマゾンで買って読んでいる。現在の日本がやらなければならない経済政策や政治改革について素人にもわかりやすく説明してある本だ。構造改革とリフレ、財政政策と金融政策、ミクロとマクロがバランスよく論じられていて、読んだあとは素人でも経済がとてもよく分かった気になる。

ところが、永江氏はサヨクの受けをねらって、高橋氏の窃盗事件と小泉改革をつなげてみせようとする。風が吹けば桶屋が儲かること事もあるだろう。それならそれで、ちゃんとした芸を見せるのが売文稼業のモラルというものではないか。

asahi.comの記事はすぐに読めなくなるらしいので、リンクしない。山形氏の文を読めば、永江氏の正体は十全に判る。これ以上的確に永江の正体をあらわにした文章はない。短いので全文引用させてもらう。

こんな、対象となる本と読者と媒体を愚弄する、書評どころかおちゃらけにもなってない代物 を書き散らせるとは、永江朗もずいぶんえらくなったものよ。永江としては時事ネタにからめた気の利いたユーモアのつもりなんだろう。でも中身が「どこかできいたような話」というが、この本に挙がった提案が「どこかできいたような話」でなかったときに、少しでも評価できてましたか? それを「どこかできいたような話」にしたこと自体が、高橋のこれまでの活躍による大きな功績であることもまったく理解できていない。「下司な勘ぐりしようと思って読んだけど当てがはずれた、中身もよくわかりませんでした」というだけの代物を書評原稿として出されるなんて、自分たちが永江にどれほどなめられているか、『週刊朝日』書評欄はわかっているのか? 競争のない安楽なぬるま湯だとまで言われて……。一言言ってくれれば永江に赤痢級の下痢を起こさせるくらいの競争はすぐ提供するぞ。それをあんな原稿を突っ返しもせずにありがたく掲載してしまうとは。もはや雑誌として最低限の自負も矜持もなくしたか。(2009/4/24, id)


永江氏については以前、『大竹伸朗(3)』の記事(注1)で批判したことがあるけれど、かれは美術だけではなく、経済のことも無知なんだ。永江氏はたしか文芸批評もしていたような気がする。


注1:大竹伸朗インタビューby永江朗(『ユリイカ』11月号)

『永江朗の不思議』へ
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2009.04.28[Tue] Post 22:22  CO:0  TB:0  美術評論  Top▲

鳩山由紀夫はカルトか

鳩山由起夫は永住外国人に参政権を与える理由として、「日本は日本人だけのものじゃない」と言ったことを批判されて、記者会見で以下のように反論した。

 「私がニコニコ動画で発言したことが大変、話題になっている。国民に大いに議論してもらいたい。これは大きなテーマ、まさに愛のテーマだ。友愛と言っている原点がそこにあるからだ。地球は生きとし生けるすべての者のものだ。そのように思っている。すべての人間のみならず、動物や植物、そういった生物の所有物だと考えている。この中でそれぞれが自立しながら共生していく世の中を、どうやって つくっていくかということが、ある意味での日本、世界に生きる人々の最大のテーマになるのではないか。今日までに、世界は弱肉強食に行きすぎたと。その前 は、日本は依存に行きすぎたと。依存でもない、弱肉強食でもない「自立と共生」をいかにうまくマッチさせるか、バランスをとるか、それが友愛の精神だと 思っている。(産経ニュース)

おいおい、鳩山さんは今度は植物にも選挙権をあたえるつもりらしいぞ。
2009.04.26[Sun] Post 10:01  CO:0  TB:0  人権テロ  Top▲

広島に花束なんかいらない

産経ニュースに関西大学教授・木村洋二の『米大統領ヒロシマ献花へ導け』の紙面批評が載っていた。

 4月5日、オバマ大統領は「核兵器を使用した唯一の核保有国として、アメリカには(核廃絶に向け)行動する道義的責任がある」と表明した。非戦闘員の 婦女子まで一瞬の間に焼き殺した原爆投下は明らかに「戦争犯罪」である。昭和20年9月18日、最初に抗議の声をあげた朝日新聞は「発行停止」とされた。 これによって日本のメディアは去勢されたといってよい。日本政府すらアメリカの原爆使用に対していまだ公式に抗議していない。殴られたり脅されたりしてペ コペコする人間は信用されない。主権国家も同じである。  平等と相互信頼をベースにした国際社会の実現に向け、新しい国家理念の再構築が急務である。そのためにも、オバマ大統領にぜひ「広島に花束を」献(ささ)げてもらいたい。

なんだか変だ。

アメリカ大統領が広島に来ることは反対である。そのまえにすべきことがあるのではないか。

原爆投下は誰もが認める絶対的な悪になっている。そんな悪を認めることは、ただの宗教的な儀式でしかない。悪ではなく、犯罪を裁かなければならない。彼らがおこなった焼夷弾や火炎放射器による虐殺こそまず謝罪すべきことだ。皮を剥がれて頭蓋骨の置物にされたものもいるのだ。

かれらの犯した戦争犯罪を、原爆という悪の神学にしてはいけない。まず、東京空襲の虐殺に謝罪しなければならない。そうすれば、広島に献花するのを許してやろう。

 

2009.04.25[Sat] Post 15:18  CO:0  TB:0  米中同盟  Top▲

『最低の人間』

なんだか変だ。

鳩山総務相が草薙剛を「最低の人間」と言ったことを撤回したというのだ。

まず朝日

 鳩山総務相は24日の閣議後会見で、公然わいせつ容疑で逮捕された草なぎ(弓へんに剪)剛容疑者を「最低の人間としか思えない」とした発言について、「地デジ(地上デジタル放送)に影響があることを強く懸念してはらわたが煮えくりかえり、言ってはいけないことを言った。『最低の人間』と言ったことは取り消す」と述べ、撤回した。
 総務省や鳩山氏の事務所に「最低などと言える立場か」「いまの政治の方が最低だ」といった苦情が寄せられていた。


つぎに産経

 鳩山邦夫総務相は24日午前の記者会見で、公然わいせつの現行犯で逮捕された「SMAP」の草なぎ剛容疑者を「最低の人間だ」と批判した23日の自らの発言を撤回した。
 草なぎ容疑者は地上デジタル放送推進のメーンキャラクターを務めており、鳩山氏は「はらわたが煮えくり返り、言ってはいけないことを言った。人間が人間を評価することはできない。『最低、最悪の行為だ』と言い換える。反省して出直してもらいたい」と述べた。鳩山氏の発言には、「言い過ぎだ」といった抗議が総務省に寄せられていたという。


微妙にニュアンスが違うが、「言ってはいけないことを言った」ことと、それが「最低の人間」だということは一致している。

でも、「最低の人間」というのは言ってはいけないこととは知らなかった。「そんなことするやつは最低の人間だ」とはよく言うじゃないか。人間として最低だという意味だ。人間には品格というものがある。卑しい人間もいるし高貴な人間もいる。それは精神によるのであって出自によらないことは、人類に共通のミームだろう。

ニュースもいくつか見たのだが、例によって朝日より産経の方が鳩山総務相の発言のニュアンスを正確に伝えている。正確だというのは、鳩山氏の発言の「変な感じ」をよく伝えているという意味だ。

産経だけが書いている「人間が人間を評価することはできない。『最低、最悪の行為だ』と言い換える。」の鳩山氏の発言は、この訂正騒ぎがの背後に「なんだか変なこと」があったことを想像させる。そもそもファンが怒っているのは「人間」ではなく「最低」という表現の方だ。それを「最低の人間」を「最低の行為」に言い換えても、最低と言うことでは同じではないか。ということは、「人間」と言ったことがいけないらしい。

おそらく人間を最低や中ぐらいや最高に分けるのは差別だというのだろうが、差別というものが出自で決まるものだとするなら、これは差別ではない。評価なのだ。人間の評価はその人間の行動の評価のことだ。それなら人間の評価も行動の評価もおなじことだ。

だからここで問題になるのは、酒に酔って全裸になったことが、最低の行為だったかどうかということだ。もちろん草薙氏の行為は最低でも最悪でもない。笑ってすませばいいことだ。阪神優勝で道頓堀に全裸で飛び込んだタイガースファンがいたではないか。彼らが送検されたという話は聞かない。

地デジ切り替えの責任者である総務大臣として、地デジのイメージキャラクターの愚行に腹を立てるのはわかるが、「最低の人間」だとか「最低、最悪の行為」だとか、「かんぽの宿」で味をしめたのか、少し大袈裟にすぎる。だからといって、「言ってはいけないことを言った」なんて神を冒涜したような神妙な顔でいうのは、なおさら奇っ怪である。

どうやら、人権テロの臭いがする。

2009.04.25[Sat] Post 03:03  CO:1  TB:0  人権テロ  Top▲

売国奴加藤紘一

かって、山本夏彦が「売国奴」という言葉を復活しろと言った。わたしも売国奴は売国奴と罵りたいのだが、やっぱりそこまでの勇気がない。何しろ人生の大半を右翼と言われるのを恐れて生きてきたからだ。

しかし、この男だけは何のためらいもなく「売国奴」と言える。産経ニュースに以下の記事。

   加藤元幹事長「首相は傲慢」 ぶら下がり取材の態度を批判

自民党の加藤紘一元幹事長は24日、TBSの番組収録に出演し、麻生太郎首相が首相官邸で毎日、番記者に対して応じている「ぶら下がり取材」について「傲慢(ごうまん)な態度だ」と批判した。

加藤氏は、21日夜のぶら下がり取材の映像をノーカットで視聴したと言及。同夜、首相は、「(靖国神社の)真榊料を納めるか、自分で行くかの理由を朝日新聞に説明する必要は感じない」などと述べていた。加藤氏は「若い記者かもしれないが、国民の代表として聞いている。首相は目線が高い」などと苦言を呈した。(強調安積2009.4.24)

嘘を言ってはいけない。いつ、朝日の記者が国民の代表になったのか。ただの中国の代弁者ではないか。麻生さんは「朝日新聞に」ではなく「中国に」説明する必要は感じないと言ったのだ。、さすが工作員の加藤さん、麻生首相の発言の真意をたちどころに読みとっている。

加藤紘一は売国奴売国奴である。(訂正しました4/25w)


加藤紘一についてはカテゴリー『拉致問題』の記事をご覧ください。
2009.04.24[Fri] Post 14:59  CO:0  TB:0  拉致問題  Top▲

3.5島論を支持する

産経ニュース(4/21)に『キッシンジャー特別講演』の記事があった。見出しは以下。

キッシンジャー氏『北の拉致は世界で最も不当で悲惨な事件』 岡山で講演

 【北朝鮮問題】北朝鮮問題による日本人拉致問題は、世界で最も不当で悲惨な事件の一つだ。日本人拉致の映画を観て、日本の方の連帯の強さを汲(く)んでいかなければならないと思った。北朝鮮の核兵器開発も日本や近隣諸国の大きな問題だ。だからこそ6カ国協議を支持する。

記事を読んで笑ってしまった。キッシンジャーはジャップが拉致されたからといって、同情なんかするわけがない。内心喜んでいるのだ。日本人は、どうしてこんなカネの亡者の国際学者が好きなんだろう。

この記事を読んで、すぐにクリントン(女)の横田夫妻との面会を思い出した。「母として会う」と言う台詞はわたしの勘繰りでは、キッシンジャーのアドバイスだったに違いない。キッシンジャーはクリントン(男)と共謀して米中秘密同盟を結んだのだ。キッシンジャーはコカコーラをはじめ米企業の中国進出の口利きで大金を稼ぎ、クリントン(男女)は中国から莫大な迂回献金を受けているのだ。

さて、日本はどうするか。このままでは日本はなくなる。まず、日本は独立することである。そのためには麻生さんの「自由と繁栄の弧」のかけた北の部分ロシアと同盟を結ぶことだ。忘れてはいけない。ロシアは腐敗してはいるけれど、形式上は一党独裁の国ではない。中共よりはましな国だと思わなければならい。

かって、中国が豊かになれば自由な国になると言ったノーテンキな財界人がいた。残念ながらそうはならなかった。そのかわり狂った二大強国が日本を挟み撃ちにしている。(大東亜戦争はまだ終わっていない)

そこで「3.5島返還論」である。中国で失敗したのだから、残るはロシアだけである。ロシアを豊かにして、自由と繁栄の国になってもらう。ほかに日本が生き延びる道はない。

もちろんロシアは卑劣な国である。隙があれば襲ってくる国だ。核を持たずにロシアとつきあうのは危険だ。しかし、他に選択肢があるのか。このままでは日本は滅びるだろう。パールハーバーの奇襲よりも、「3.5返還論」のほうが日本の独立のためには役立つようなきがする。でも、日独同盟になっても困るけれど。

もちろんあらゆる外交の前提は核武装である。ソ連にアメリカの核よりも日本の核のほうが脅威にならないと思いこませることができる外交官はいないだろうか。

麻生さんがロシアを「自由と繁栄の弧」の北端だと考えていればたいしたもんなんだけれどなぁー
2009.04.22[Wed] Post 18:54  CO:0  TB:0  米中同盟  Top▲

神田日勝とダイアン・アーバス(改題)

コメント欄の禁止IPに「JP」の文字が紛れ込んでいました。管理人の私もコメントが書き込めないので気づきました。コメントを下さった方にはお詫び申し上げます。タイからのコメントに返信しようとしてわかりました。理由が解るのに一時間も掛かってしまいました。もう大丈夫です。

タイからコメント下さったぐりぐりももんがさんへの返信をこちらにコピペしておきます。

ぐりぐりももんがさん コメントありがとうございます。 神田日勝は知りませんでした。ネットで検索すると、ポップ風の作品はちょっと中村宏を思い出させます。逆遠近法や平面的な空間のとらえ方は面白いとおもいますが、実際に見ないと作品の善し悪しはわかりません。気になるのは、例えば神田日勝美術館のHPにある『家』(1960年)は、「古びて崩れかかった家」の「デザイン」になっているようなところがあります。剥がれた板、割れた窓、傾いた壁、転がった一斗缶やブリキ類などが芝居の書き割りのように見えます。でも、構図というのは線や色やタッチの形式的なものとの関係で生きもするし、死にもするのだから、写真だけでうかつなことは言えません。 神田日勝の名前は憶えておきます。機会があれば本物をみたいと思います。

すべての写真は記念写真です。特権的な瞬間を記録に残しておきます。だから、わたしの好きな写真家は、ジャック=アンリ・ラルティーグとダイアン・アーバスです。ラルティーグは快楽の、アーバスは苦悩の記念写真を撮ったのではないでしょうか。

カンサンジュンさんは一度『朝生』で見て、その無内容なところが丸山真男そっくりなので、それいらい避けています。でも、少し前に『悩む力』の新聞広告で吉永小百合の推薦の言葉を読んでしまったし、先週の日曜日にはチャンネルサーフィンをしていて、偶然『新日曜美術館』でカンさんを見てしまいました。ふだんはいやなものを見たときは高橋名人なみのスピードでチャンネルを変えるのだけれど、このときばかりは呆然と為す術もなく数秒にわたってカンさんの口元を見つめてしまいました。 というわけで、カンさんのことはあまりよく知らないのでコメントできません。図書館にはカンさんの本がたくさんあるけれど、たぶん暇があっても読まないでしょう。わたしは丸山真男を思い出させるものはすべて嫌いです。これについてはいずれ書きたいとおもっています。

2009.04.21[Tue] Post 12:26  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(2)

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1)から 

意識の研究家は、一人称の意識と三人称の意識をわけて、一人称の主観的な意識を客観的な物理的現象に還元しようとしたり、三人称の意識に主観的な直接性を求めたりと、問題をいたずらに混乱させている。

コギトの主観性によって、一人称と三人称を分けるのではなく、一人称と二人称の相互主観性から始めなければならない。一人称は二人称より先にあるわけではなく、一人称の主体性と二人称の客体性とは一種の鏡像観関係であり、私が鏡像を見るということは鏡像が私を見ることでもある。鏡にはわたしのコギトも映っている。一人称と二人称はコギトと客体性を互酬する。わたしはわたしの身体を相手の視線にさらすことにより客体となる。客体になることで相手に主体性を分け与える。一人称と二人称は常に交代しながら我々として共にあるのだ。これが相互主観性だ。

根元的なのは相互主観の了解性である。相互主観の「我と汝」から一人称の意識と三人称の意識が発生する。物質から生命が生まれ、生命から意識が生まれた。生命を物理現象に還元しようとするなら、意識を生命現象に還元しようとするのは順当だ。

生命の自然科学的解明はすすんでいる。機械論と目的論の対立も進化論で解消できた。しかし、一人称の意識と三人称の意識を統合する理論的枠組みはできていない。言語学も心理学も精神分析も生理学も大脳理論もどれもこれもうまくいかない。一人称の意識と三人称の意識の領域を確定しなければならない。

相互主観性の世界では、あなたが私と同じように意識を持っていると思っているし、あなたも私があなたと同じ意識をもっていると思っている。これは判断推論の問題ではなく、根元的な信念(Urglaube)である。

相互主観性の了解性ではなく、自然的態度から「哲学者のゾンビ」のような混乱した問いが出てくる。三人称の意識は直接アクセスできないのだから、そんな問いをたてても無意味なのだ。また、ニューロンの発火パターンや量子脳論も物理的生理的現象の理論なのだから、意識の直接性を解明することはできない。

このことはクオリアの問題を考えて見れば分かる。赤色は波長625-740nmの光の色だが、いったい私とあなたは同じ赤の赤さをみているのか。逆スペクトルで、私の赤はあなたの緑ではないか。これは「哲学者のゾンビ」の問いと同じように決して答えられない問いだ。

相互主観性の世界では、あなたはゾンビではないように、あなたの見ている赤と私の見ている赤は同じ赤さなのだ。私が「赤い玉を取って」といえば、あなたの色彩が逆スペクトルでも、ちゃんと赤い玉を取ってくれる。

ニューロンの発火パターンの研究が進んで、色とニューローンの発火パターンの相関が、光の波長の相関と同じようにハッキリしたしよう。そのときある人に赤い色を見せたら、緑の発火パターンが生じたとしても、そのひとが赤を緑に見ているとは主張できない。光の波長と同じことだ。

「哲学者のゾンビ」問題も「人工知能の意識」問題も一人称の意識と三人称の意識の領域を確定しないことから生じた混乱だ。まずはコギトから始めよう。デカルトのようにコギトの明晰性を判断推論の出発点にするのではなく、フッサールの現象学的コギトの了解性から始めよう。そうすれば意識の疑似問題はほとんどなくなるだろう。

PS:クオリアについては記事『茂木健一郎』を参照してください。その記事の「PS」をコピペしておきます。

クオリアの哲学上の問題は、「わたしの見ている赤とあなたが見ている赤と異なるのではないか」という方法的懐疑ではなく、「自分の見ている赤とあな たの見ている赤は同じ赤である」という原始信念(Urglaube)の問題なのだ。これは他者、歴史性、言語(コミュニケーション)、身体性の問いであ り、ひいては相互主観性の問題なのである。

2009.04.19[Sun] Post 22:47  CO:0  TB:0    Top▲

「『壁と卵』は何の比喩か」福島敏雄(産経ニュース)

やっとのことで新聞に「壁と卵」比喩の正しい解釈がでた。それにしても遅すぎる。

村上春樹が「壁と卵」の比喩でイスラエルを批判したというのは、朝日新聞の捏造記事なのだ。そのことを福島氏はハッキリと指摘すべきだ。

「村上春樹 エルサレム賞受賞スピーチ(3)」で書いたように、「エルサレムに行けば、イスラエルのガザ攻撃を認めることになり、行かなければ、エルサレム賞が政治的プロパガンダだというパレスティナの言い分を認めることになる。」 このジレンマを回避するためにかれは「壁と卵」の比喩を使った。

村上は文学の政治的利用を拒否した。大江健三郎になりたくなかったのだ。大江は日本のタブーなのか。それともただの恥部なのか。

「『壁と卵』は何の比喩か」福島敏雄(産経ニュース4/18)
2009.04.19[Sun] Post 00:00  CO:0  TB:0  文学  Top▲

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(1)


山形浩生氏の解説はいつも身も蓋もない。しかし、『意識を語る』は山形氏の解説よりも本文の方が、さらに身も蓋もなく明快だ。意識の問題をどう設定すれば良いのかいろいろ提案している。もちろん答えがあるというのではなく、問うことで問題の所在を明らかにする。

まずコギトがある。自己意識があることは誰も反対しない。また、目の前にいる他人も意識を持っている。日常的な態度では、自我と他我はいつもペアになっている。

コギトの自己意識は明晰だ。しかし睡眠時の意識は明晰とはいえない。フロイトの無意識もある。思い出に浸る自己もある。

他人の意識は直接与えられるわけではない。人形振りという寄席芸がある。人間が人形のように動いて見せる芸だ。泥鰌掬いを踊る。意識のない人形に見える。もちろん芸がおわればもとの人間にになる。

反対のことも言える。ASIMOが一生懸命走っている姿には半分意識が生まれている。もちろんASIMOが人型ロボットだからだ。走行している車には意識がない。

動きや形が生命や意識を生む。物質が生物になるのは現象的には形と動きを通してだ。石ころか生物か判らない形をしたものを見つけたら蹴飛ばしてみる。転がっていけば石ころだし、あわてて逃げ出したら生き物だ。動かなくても左右対称ならば、生き物の死骸かもしれない。そして解剖したりして研究する。自己複製とかホメオスタシスなどの生命の定義がうまれる。定義をしたからと言って、われわれの生命の理解が変わるわけではない。

意識も同じことだ。「人形振り」は意識がないように見えるけれど、踊り終わってふつうに動いて喋り始めれば意識のある人間だ。意識があると思っても、解剖して内部が機械ならロボットだし、血や肉があれば人間だ。

こんなことが言えるのは、生物(動物)にしか意識が生じないという暗黙の前提があるからだ。もちろんこれは日常的な感覚では正しい。三人称の意識は動作や姿形や表情を通して与えられる。だから、人型ロボット(レプリカント)には意識が生まれる。もちろんあとでロボットだと判ることもある。それでも人間に見えることもあるし、ロボットに見えてしまうこともある。それでいいのだ。

三人称の意識は本来そういうものだ。意識現象と物理現象の相関をニューロンのレベルだろうが量子力学のレベルだろうが、研究したければ、勝手に研究すればいい。ただそれがうまくいっても、わかるのは相関関係だけだ。色と光の周波数との対応関係がわかっても、赤の赤さは分からない。意識のクオリアは意識に直接与えられるほかない。意識は常に「あるものについての意識」であるとともに、その「意識についての意識」である。

ところが「意識学者」は第一人称の意識の直接性を三人称の意識に持ち込もうとする。もともと物理的現象の知覚によって「間接的に」与えられる三人称の意識に直接性を求めるのには無理ある。あるいはむしろ無意味である。それにもかかわらず、かれらは二つの問いを発する。

ひとつは、「哲学者のゾンビ」の問題だ。ゾンビというのは、外から見えれば、言葉を話したり、涙を流して悲しんでいるのだが、言葉の意味や悲しみのクオリアをまったく意識も理解もしていない人間のことだ。もちろんこれは疑似問題で、わざわざゾンビにすることはなく、他者は私と同じように意識の直接性を持っているかと問えば良い。

もう一つは、「人工知能の意識」の問題。これは非ヒトガタ(人型)コンピューターのことで、通常はいくら高度な計算能力を持っていても、あるいはチェスが強くても、意識があるとは思わない。HAL型では意識を持つことはない。姿形(すがたかたち)動作が人でなければ、人工知能に「感情移入」できないからだ。ここで意識というのはたんなる計算能力ではない、意志の自由や創造性などのことだ。これは意識の直接性とは別の問題だ。ちなみに人型ロボットの鉄腕アトムには良心回路が組み込まれている。

一番目の問題と二番目の問題をあわせたものがレプリカントの問題だ。もし、人間と全く区別できないのなら、意識があるということだ。わざわざ区別する必要はない。映画『ブレードランナー』では、レプリカントか人間か判定する鑑定人がいるのだが、そうだとすれば、これもやっぱり最初に書いた生物か機械かの区別の問題になる。映画の展開はよく憶えていないが、たしか、鑑定士がレプリカントの疑惑のある女を愛するという話だったような気がする。それならどっちにしろ意識があるということだ。

「哲学者のゾンビ」や「人工知能の意識」の問題は、一人称と三人称の意識を区別して、一方を他方で説明しようとすることから生じた混乱なのだ。

「『意識』を語る」スーザン・ブラックモア著(2)へつづく
2009.04.18[Sat] Post 02:21  CO:0  TB:0    Top▲

Jim Lambie『アンノウン・プレジャーズ』展(原美術館)

原美術館の展覧会に行ったわけではない。産経新聞の文化欄の「くらくらっ ランビーの魅力」の記事を読んで、『Melting Point』(東京オペラシティアートギャラリー2007年)のジム・ランビーの展示を思い出したのだ。

『Melting Point』は三人の展覧会だったが、他の二人は忘れたけれど、ジム・ランビーの展示はよく憶えている。大きな展示室の床にカラーテープを貼って、ぽつんぽつんとオブジェが置かれている。インスタレーションというのか、空間デザインというのか、あるいはインテリアというべきなのか判らないが、カラフルで綺麗だとは感じたが、ただそれだけのものだった。

ところが、産経の記事を読むと、表題からして「くらくらっ」と題してある。ほかにも、「非日常的な刺激」「館内に入った瞬間、目がくらんだ」「なんかへん」「目がおかしい」と続く。カラー写真を見ると、たしかに床に白黒のストライプ模様が描かれていて、オップアートの錯視ようにチラチラして見える。

オップアートの運動を伴った錯視は、たぶんスティーブン・ピンカーが『心の仕組み』で述べている「壁紙ステレオグラム」と類似の錯視なのだろう。これはブリジット・ライリーの作品でも分かるように平面上の繰り返し模様を見るときに現れる錯視で、もちろんオプティカルなイリュージョンであって、ピクトリアルなイリュージョンではない。

原美術館の展示風景の写真を見ると、切断されたような椅子の断片が、ジャンクアートのように積み重ねられているのが見える。もちろんこれは想像だが、椅子の欠損した部分のイリュージョンが見えたりするのかもしれない。もしそうなら、それもオプティカル・イリュージョンである。

立体的な作品に現れるイリュージョンは特殊なものである。通常は立体作品は知覚されるだけで、イリュージョンが現出しにくいからだ。それは、立体が観者の眼球の運動や視点の移動に応じて変化する現象を通して、同一な実在として知覚されるからだ。立体はなによりもまずリテラルなものとしてあらわれる。

絵画は、反対に、リテラルな物質として知覚されたものが実在としてではなく、中和変容より存在措定が無効にされて、類似性によって絵画主題が現れてくる。絵画はまずなによりも「意味」としてとして現れる。

建築も立体であるかぎりリテラルなものであり、イリュージョンがあったとしても、オプティカルなそれである。ポストモダンを自称する建築家たちは、建築と絵画をリテラルな物体として括り、そのデザインやコンセプトについて飽きずに論じ続けている。

原美術館の庭や納戸にかって芸術だった立体作品やインスタレーションが息を潜めている。そしてまた新たなインテリア作品が収蔵品のリストに加わるのだろうか。
2009.04.11[Sat] Post 22:43  CO:0  TB:0  -ジム・ランビー  Top▲

プロジェクトJAPAN(2)

『プロジェクトJAPAN』(1)からつづく

『プロジェクトジャパン』を最後まで見たと書いたが、ネットを見ると、どうやら見たのは前半だけだったようだ。どちらにしろ我慢は限界に達していたので、後半を見てもすぐに見るのをやめたろう。

ブログ検索をすると、上位のブログはほとんどが感動派で、批判派はぽつりぽつりといるぐらいだ。

ここまで書いて、あとは馬鹿らしくなって、ほっておいた。そしたら、今日(4/11)の産経ニュースに以下の記事が出た。

Nスペに「李登輝友の会」が抗議声明
2009.4.10 20:38

このニュースのトピックス:メディア倫理
 NHK総合テレビが5日に放送した「NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー 第1回『アジアの“一等国”』」の内容が偏向していたとして、日本李登輝友の会(小田村四郎会長)は10日、福地茂雄NHK会長あてに抗議声明を出した。

 番組では、日清戦争後の日本による台湾統治について、一等国を目指して統治の成功を海外に誇示したものの、日台間の格差と同化という矛盾を抱え、やがて皇民化運動で日本文化を強制した-などとした。

 この放送に対し、声明は「日本が一方的に台湾人を弾圧したとするような史観で番組を制作することは、公共放送として許されるべきではない」とした。

 NHK広報局は「歴史を振り返り、未来へのヒントにしたいという番組の趣旨を説明し、理解していただきたいと考えています」としている。



あわてて検索して見ると、だいぶまともな記事が増えてきたけれど、相変わら大江健三郎流の「自分は良い子史観」の記事が沢山ある。これは史観の問題ではない。良心の問題なのだ。

2ちゃんねるに「気持ち悪い」という書き込みが多くあったが、この気持ち悪さはどこからくるのだろう。

NHKは『激流中国』で、中国のクレームを受け入れて放送を中断した。そしてどうみてもやらせと思われる映像を挿入して放送を再開した。こんどの『プロジェクトJAPAN』は明らかな捏造番組だけれど、中国の意向通りに作ってあるので、平然と放送を続けるだろう。

恥なしを恥とする。廉恥心のない人間は哲学的ゾンビのように気味が悪い。

カテゴリー「NHK」へ

2009.04.11[Sat] Post 16:57  CO:1  TB:0  NHK  Top▲

ゴミが、ジャップが!




ちょっと感動的な映像ではないか。「韓国は嫌いだ」とか「暴力はいけません、あいたたた」「現行犯でーす」と言ってる弁士は品がないし滑稽なのにくらべ、韓国の若者は無知に根ざしているけれど愛国心という狂気に身をまかせている姿は美しくさえある。

それにしても気になるのは、この映像を撮ったのは誰なのか、なかなかカメラアングルが巧みで、とても素人とは思えない。弁士が「はーい証拠撮りました」と言っているのも怪しい。

だからといって、この若者の行動を肯定しているわけではない。とんでもないことだと思っている。しかし、それは野次馬たちのいうように暴力がいけないと言うのではない。そうではなく、この韓国の若者はしきりに「韓国人、ゴミ言うとった」と警官に訴えていたが、その執拗さは尋常ではない。「きいとった」「きいてみろ」「きいてよ」と、まるで韓国の悪口を言うやつに暴力をふるう権利があるかのごとくだ。

若者は、三人の警察官を一人ひとり指を指しながら、日本人かどうか言わせて、最後に自分が韓国人だと言う。なぜこんなことをするのだろう。韓国人として誇りを持っていることはわかる。しかし、それだけだろうか。

「半ちょっぱり」と言う言葉をはじめてしったのは李恢成の『砧 をうつ女』を読んだときだが、そのときいらい在日には共感をもっていた。韓国文化特有の「火病」のこともソウル・オリンピックのボクシング事件まで知らなかった。でも、この韓国の若者の奇妙な宣言はアイデンティティーや火病の問題ではなく、たぶん在日特権の要求宣言なのだ。

わたしはつい最近まで在日特権があることを知らなかった。在日特権というのは法的な特権ばかりではなく、行政上の特権やマスコミによるさまざまな特典など盛りだくさんのパッケージになっている。もちろん差別もパッケージの中に入っている。

おそらく、在日特権は三国人特権から生まれたのだ。三国人特権は戦後の主権のない日本でかれらが享受した特権であり、それが人権利権や歴史問題で巧みに補強されて今日まで残っているのだ。最初は彼らが日本人を差別したのだ。

この差別と特権の堂々巡りは、NHKの『プロジェクトJAPAN』のような嘘で固めたプロパガンダ放送で解決することはできない。大げさな言い方だが、日本人も韓国人も自分たちの歴史を世界史の中で理解するようにしなければならない。

それから若者が未成年なら顔がみえる映像はよくないのではないか。でも、韓国のことだから、安重根のような英雄になるのかもしれない。あるいは、半ちょっぱりだから無視されるのかもしれない。

タイトルの『ゴミが、ジャップが!』はこんなこと言われたら日本人だって怒るだろうというコメントがあったので借用した。こんなこと言われても怒る日本人はいない。相互理解は難しい。
2009.04.11[Sat] Post 00:16  CO:0  TB:0  政治  Top▲

検察テロの費用対効果

二つのテロ』のエントリーで、検察テロについて述べた。

そこで、小沢第一秘書逮捕は国策捜査ではなく、自分たちの天下り利権のためだと書いた。堀江貴文氏も外国特派員協会のスピーチで、検察は費用対効果を常に考えて捜査起訴すると言っている。巨悪を眠らせないなんて嘘だ。無名な人間より、有名な人間を捕まえたほうが、企業はびびって、こぞってヤメ検を顧問にするというのだ。

高速道路を百キロオーバーの無名人を捕まえるより、一キロオーバーの有名人を捕まえた方が効果がある。世間を騒がせている有名人を捕まえるのは一罰百戒ではなく、あくまでも検察を辞めたあとの天下り利権のためだ。

佐藤優氏は、時代のけじめをつけるためとか、リークによって世間の捜査への期待をまず盛り上げるとか、青年将校の独走とか、しきりに国策捜査説をひろめているが、検察を買いかぶりすぎた。堀江氏のいうように、検察はただ費用対効果を考えて、ターゲットを決めているだけだ。

2009.04.08[Wed] Post 17:05  CO:0  TB:0  ワイロと天下り  Top▲

テロ朝と人権テロ(「全国土地改良事業団体連合会」改題)

毎日jpに以下の記事が出た。「全土連」というのは初めて聞く名前だ。

放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送と人権等権利に関する委員会(放送人権委、委員長・竹田稔弁護士)は30日、徳島県の土地改良区横領事件 を伝えた昨年7月23日のテレビ朝日系「報道ステーション」で、重大な放送倫理違反があったと認定。決定内容を放送するようテレ朝に勧告した。「放送倫理 違反」で「見解」より重い「勧告」を出したのは05年、愛知県の産婦人科医院への行政指導を報じたNHK名古屋放送局のローカルニュースに次いで2回目。

問題とされたのは、徳島県の阿南東部土地改良区の横領事件を伝えた際、全国土地改良事業団体連合会(全土連)の会長を務める野中広務元自民党幹事 長の映像を使い、そのあと評論家が「政治力で新たな事業を改良区に与えている」などと発言した点など。放送後、野中氏は放送人権委に「事件と全土連が関連 があるかのように作為的な報道がなされた」と申し立てていた。

放送人権委は、放送内容は真実と信じる相当な理由があったとして野中氏の名誉棄損は否定。一方で映像は「一部の視聴者に、あたかも申立人(野中 氏)が政治力で膨大かつ不要ともいえる事業を持ってきたという認識を生じさせた」とし、安易、短絡的と批判した。さらに古舘伊知郎キャスターが「(補助金 が)じゃぶじゃぶ使われているきらいがある」と発言した点も「裏付け取材の範囲を超えている」と判断した。

野中氏は「今回の勧告は大きな意義がある」と評価。

テレビ朝日は「勧告を真摯(しんし)に受け止め、放送倫理や人権に十分配慮してまいります」とコメント、30日の同番組内でも古舘キャスターが同様の発言をした。(強調安積3/30)


ネットウヨは、「またテロ朝」だといって、お詫びの放送が、誰も見ていない早朝5時だったことを非難している。しかし、もともとの番組を見ていないが、どうも変な感じがする。そもそも「土地改良事業団体連合会」という名称が変だ。

横領事件のことを検索しても、この団体のことはよくわからない。テレ朝が横領事件の背景として、全土連のことを報道したのだろう。会計係だという普通のおばさんが6億円も簡単に横領したのだから、いい加減な金の流れだと想像がつく。暴力団にも流れていたらしい。

番組をみていないが、土地改良事業団が公益法人なら補助金を貰っているはずだ。そうなら天下りもいるかもしれない。視聴者も関心を持つし、それなら会長には説明責任があるだろう。もちろんきちっと取材すべきだとは思うが、映像を使っていけないとは言えないだろう。

そもそも食糧難の時代ならともかく、減反している時代に土地改良とはなんだろう。

もし、名誉毀損や人権侵害があったなら裁判に訴えるべきだろう。それを放送人権委員などという何の法的根拠もないところが判断するのか。 BPOという団体自体が怪しくないか。

いろいろ検索していたら、農水省のHPで「全国土地改良事業団体連合会に対する補助金等の概要」という資料を見つけた。そのリストのトップが「人権問題啓発推進事業」であり、平成19年度交付実績が2,643千円、そしてその事業内容が「人権問題に対する正しい理解のための啓発活動を行う。」とある。

さらに検索を続けていたら、突然、石井紘基代議士刺殺の文字が飛び込んできた。この事件のことは当時新聞週刊誌で読んだが、石井氏が土地改良事業団を告発していたことはしらなかった。ブログ「永田町異聞」に要領よくまとめられているので、それを引用させて頂く。

「自民党費を全国の改良区が補助金で肩代わりしている」と、民主党の石井紘基(故人)らが全国約7200の土地改良区理事長らを業務上横領、補助金適正化 法違反(目的外使用)の容疑で各地検に告発した。しかし、検察は「改良区のために支出されており、流用には当たらない」として不起訴処分にした。全国の土 地改良区をまとめる先述の全国土地改良事業団体連合会が、実は補助金の還流組織の役割を果たしていたことが容易に想像できる。

野中氏はこのことがあったから放送人権委に訴えたのだ。しかし、ここで問題にしたいのは、公益法人の腐敗のことではない、「人権擁護法」のことだ。すべてが「人権」というキーワードでつながっていく。野中氏は人権擁護法の積極的な推進者だったはずだ。2ちゃんねらーは、テロ朝テロ朝と騒いでいるが、人権テロのことを忘れてはいないか。

だんだん怖くなってきた。
2009.04.06[Mon] Post 12:17  CO:0  TB:0  ワイロと天下り  Top▲

NHK新番組・プロジェクトJAPAN(1)

こんな非道い偏向番組は見たことはない。特定のイデオロギーにもとづいたプロパガンダ番組だ。平和主義を唱えればどんな嘘も許されるのか。これでは九条の会の宣伝番組だ。

この番組の詳細な批判は2チャンネルなどのネットにまかせる。とにかく最後まで見た自分を褒めたい。

一つだけ言っておくと、朝鮮を植民化したのではない、侵略併合したのだ。植民主義というのは世界史のなかできちっと定義されている概念だろう。

それから、たぶん2ちゃんねらーも気づかないだろうから、もう一言。
番組は、李朝の高宗がハーグの平和会議に送った密使が宿泊したデ・ヨング (De Jong) ホテルを映して、そこを記念館にして管理している韓国人にインタービューしている。日本が不当な朝鮮支配をした印象を強めているが、高宗がどんな暴政をしていたか、奴隷制度をふくめてなにも説明せずに、ただ密使を愛国者として描くのは東アジアの歴史を歪めるものだ。高宗はなぜ日本の保護を嫌い、ロシアに保護を求めたのか、国を愛しているなら、まず、民を慈しんだらよかろうに。

NHK新番組・プロジェクトJAPAN(2)へ
2009.04.04[Sat] Post 21:14  CO:0  TB:0  NHK  Top▲

村上春樹 エルサレム賞授賞式スピーチ(3)

村上春樹のジレンマ

「卵と壁」の比喩のことで、村上春樹バッシングが続いている。

エルサレムに行けば、イスラエルのガザ攻撃を認めることになり、行かなければ、エルサレム賞が政治的プロパガンダだというパレスティナの言い分を認めることになる。

これは大江健三郎にはジレンマにならない。大江にとって「政治と文学」の問題はサルトルの「飢えて泣く子のまえで文学は何ができるか」のまんま停止してしまっている。(たぶん)

村上はこのジレンマを「卵と壁」をガザとイスラエルの比喩ではなく、個人の内面の問題にずらし、文学を擁護することで、ジレンマを回避した。

パレスティナ側はイスラエルが文学賞を政治的に利用していると言うけれど、エルサレム賞はこれまでの積み重ねがある賞であり、その歴史で賞の価値が決まってくるのだ。文学賞を政治的に利用しようとしているのはむしろイスラムパレスチナ側である。

多くの人は、スーザン・ソンタグがエルサレム賞のスピーチでイスラエルを非難した勇気を讃えているが、彼女もまたイスラエルを一方的に非難したわけではなく、「文学と真実」についての考えをめぐらしている。

ソンタグは受賞式のあとすぐにガザ地区に入ったそうだが、村上はエルサレムにとどまって町に出た。このことで、左翼は、また、村上を非難するのだが、いったい、どちらがこの戦争の真実に近づけたのかは容易に言うことはできない。村上はエルサレムの人たちとの会話で、強制収容所の生き残りが「石けん」と呼ばれて、差別されていることを知る。

2009.04.03[Fri] Post 01:38  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

古谷利裕と岡崎乾二郎の「視覚心理学的絵画論」(グリーンバーグ4)

これまで三回にわたって、古谷氏の批評文『セザンヌと村上隆を同時に見ること』ついて述べてきたが、正直にいうと、うまくいかなかった。というのは、わたしのせいもあるが、古谷氏の論も混乱しているからだ。

繰り返すがグリーンバーグはフォーマリストではないし、モダニズムはフォーマリズムのことではない。モダニズムは、絵画の物理的層、すなわちメディウムをイリュージョンによって隠さずに、むしろ積極的にそれに注意を向けたのだ。平面性というのは何よりもまず支持体の物理的形状のことであり、これが空間のイリュージョンと緊張関係におかれるのだ。

しかし、古谷氏の絵画分析は、絵画的pictorialなものと視覚的opticalなものを含めたイリュージョンと絵画のメディウムの間の弁証法的緊張に留意することよりも、もっぱら視覚的なものをフォーマリズムの立場から分析しているようだ。もう一度、『セザンヌと村上隆とを同時に観ること』から引用する。

しかし実はこの絵は、全体を一挙に観ることは出来ないように描かれている。(無理矢理、全体を一挙に見ようとするならば、「絵具のこびりついたカンバス」という物質として見るしかない。勿論、この絵にはそういう次元もある訳だ。)我々の視線は、ある時は、描かれたある事物ともう一つの事物との対応関係を見ていたり、またある時は画面のなかをリズミカルに動きまわる筆致の動きを追っていたり、ある時は白から緑、緑から黄色、黄色から赤へと微妙なニュアンスで変化してゆく色彩の震動を感じていたりするというような、視線の「動き」として、部分と部分、要素と要素を動きながら繋いでゆく、見るという行為の「持続」によって、この絵を捉えてゆくしかないのだ。

ここで、岡崎乾二郎氏を思い出した。かれの自作へのキャプションを引用する。(注1)

「ディプティック(二幅対)の絵画作品。右と左のキャンパス間には、複雑かつ厳密な呼応関係が見出される。たとえば色彩やマティエールの異なる同一形態の反復。あるいは一方のキャンバスに「図」として現れた筆触が、もう一方では、おなじかたちの「地」としてあらわれるなど。左右のキャンバス間の呼応関係を追い求めるように視線の往還を繰り返すうち、観者は、個々の筆触が置かれた位置、物理的な枠組みとしてのキャンバスといった「場所の固有性」を、識別することが困難になるようなめまいに見舞われる。」

同じような視覚心理学的な現象の記述がみられる。古谷氏はセザンヌについて、岡崎氏は自作の二幅対について。ついでに両者の作品を比較する。

古谷利裕の作品:http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/kaiga.html
岡崎乾二郎作品:http://kenjirookazaki.com/#/jp/1/1/

どうだろう、似ていると言えば似ているし、似ていないと言えば似ていない。古谷氏の作品は抽象表現主義とアンフォルメルと自動速記(オートマティスム)の模倣。岡崎氏の方は何だか良く分からないところが独創的に見えるが、アクション・ペインティングを小分けにして箱に詰めたお土産品のようだ。

絵画の神髄は、視覚的な効果ではなく、絵画的なイリュージョンとメディウムの弁証法的な戯れにこそある。

「図像に還れ」

つづく

注1:『わたしいまめまいしたわ』展だったと思う。今、カタログが見つからないので確認できない。
2009.04.02[Thu] Post 01:26  CO:0  TB:0  絵画の現象学  Top▲

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