ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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村上春樹 エルサレム賞授賞式スピーチ(2)

『文藝春秋』に掲載された村上春樹のインタービューを、図書館で読んだ。斜め読みだったが、私の村上スピーチの理解はおおむね正しかったとおもう。

そのあとYoutubeで田中康夫が斎藤美奈子の村上スピーチ批判(朝日新聞)についてしゃべるのを見た。なんでも、斎藤は、「壁と卵」の比喩について、卵の側につくなんて総論をいうのは易しい、だれも壁の側につくなんて言うはずはないと村上を批判したらしい。

朝日新聞は読んでいないので、斎藤が何を言いたいのか正確には判らないが、「壁と卵」が「ガザとイスラエル」、「弱者と強者」の比喩でないことは、村上ははっきりと言っている。

そもそもこのスピーチ論争は、村上がイスラエルのガザ攻撃を批判したという捏造記事に端を発している。もちろんそのまえにパレスチナ側が村上のエルサレム行きに反対したということもあった。ところがスクリプトを読んでみると村上が一方的にイスラエルを批判した訳ではないことをしった左翼たちが、スピーチの揚げ足取りをして、難癖をつけている。

壁と卵の比喩も、小説家は嘘つきという文学論も凡庸ではあるが、論点を政治から文学へ巧みにずらす。村上は『文芸春秋』のインタービューで、イスラエル批判をしてイスラエル大統領を不愉快な気持ちにさせたと言っているが、たぶんそれは大統領の誤解だろう。

村上は、また、学生運動やオウム教の正論原理主義について語っているが、スピーチではイスラム原理主義に触れていない。ハマスのイスラム教とイスラエルのユダヤ教を比べれば後者の方が世俗化が進んでいるのはたしかだし、エルサレム賞が単にプロパガンダの賞でないことは、村上春樹自身が授与したことでもわかる。そして、村上春樹は卵の側にたつイスラエルの読者に感謝することで、文学を擁護したのだ。

このことで思い出すのは、中国の文化大革命のとき正論原理主義(造反有理)の紅衛兵の側にたった大江健三郎のことである。彼は今老残の恥をさらして自覚がない。



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2009.03.31[Tue] Post 12:40  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

村上春樹 エルサレム賞授賞式スピーチ(1)(改題再掲)

「エルサレム」を「イェサレム」と書いたためGoogleに検索されなくなったので、もう一度訂正して掲載します。
*     *     *
日本の新聞は、ほとんどが村上春樹がイスラエルのガザ攻撃を非難したと伝えているが、スピーチのスクリプトを読む限り村上氏はイスラエルを一方的に非難したわけではない。今回のことで重要なことは村上が受賞したことではなく、彼が授賞式に出席したことである。
まずはじめに、Palestine Forum Japanの公開状から引用。

If you receive the “Jerusalem Prize” it will contribute to a false image of Israel respecting “individuals’ freedom in society” which will be portrayed and spread by the media. (Don’t legitimize apartheid)

大江健三郎ならたぶん受賞拒否しただろう。次に、ガーディアン紙の見出し。

Murakami defies protests to accept Jerusalem prize

defyはかなり強い意味だろうそれに対してAFPのニュース

【2月16日 AFP】(写真追加)作家の村上春樹さん(60)が15日、イスラエル最高の文学賞「エルサレム賞」の授賞式で記念講演し、イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃を批判し、「欠席して何も言わないよりも、ここへ来て話すことを選んだ」と述べた。

これでは、村上がイスラエルのガザ攻撃を批判するためにエルサレムに来たみたいだ。 ほとんど捏造だ。たしかに、村上春樹はスピーチで言っている。

Any number of times after receiving notice of the award, I asked myself whether traveling to Israel at a time like this and accepting a literary prize was the proper thing to do, whether this would create the impression that I supported one side in the conflict, that I endorsed the policies of a nation that chose to unleash its overwhelming military power. Neither, of course, do I wish to see my books subjected to a boycott. (強調安積)

これはイスラエルのガザ攻撃を批判しているのではなく、自問自答しているのだ。本当にパレスティナ側の言うようになってしまうのかと。そう思われるのはいやだし、小説がボイコットされるのもいやだ。(この自分勝手なところは伏線になっている)

それでも授賞式に出席したのは、みんなが行くな行くなと言ったからで、小説家は天邪鬼であり、自分の目で見、手で触れるものしか信じない。しかし、そうすることは、ガザを圧倒的な軍事力で攻撃するイスラエル側に立つという印象を与え、自分の本がボイコットされるかもしれない危険をあえて冒すことでもある。

そして村上は壁と卵の比喩を述べる。

“Between a high, solid wall and an egg that breaks against it, I will always stand on the side of the egg.” 

村上はこの比喩の意味を二つあげている。ひとつは大江健三郎風解釈で、壁はイスラエルであり、卵はガザの住民だ。しかし、村上はもう一つの深い意味があるという。われわれみんなが脆い卵であり、それぞれにシステムという壁が立ちはだかっているというのだ。ここでも村上はガザとイスラエルの争いではなく、われわれの心のなかにある卵と壁について語るのだ。

そのあと村上は90歳で死んだ父が、毎日、戦争で死んだ味方だけではなく敵のためにもお経をあげていたこと、そして、その父の記憶は消えてしまったけれども、自分の心には父の記憶が生き続けていると言う。もちろんこれは一神教のイスラム教やユダヤ教にたいして、より寛容な仏教のこころを伝えたかったのだろう。

そんなことはともかく村上は文学を擁護する側にはっきりと立ち、イスラエルに感謝する。スピーチの最後の部分。

I am grateful to have been awarded the Jerusalem Prize. I am grateful that my books are being read by people in many parts of the world. And I would like to express my gratitude to the readers in Israel. You are the biggest reason why I am here. And I hope we are sharing something, something very meaningful. And I am glad to have had the opportunity to speak to you here today. Thank you very much  (強調安積)

日本人がこんなすばらしいスピーチができるなんて感動的ではないか。それにしても大江健三郎のノーベル賞授賞式のみすぼらしいスピーチを思い出す。村上は『悪魔の詩』にもふれず、自分の作品がアラビア語に翻訳されていないことにもふれず、ただ自分の作品を読んでくれる人たちに感謝する。

村上春樹は『羊をめぐる冒険』を夢中で読んだけれど、あとはほとんど途中でやめてしまった。最近はほとんど読まない。よまないのは「濡れ場」を読むと気持ち悪くなるからだ。あんな不気味なポルノはない。でも、もういちど挑戦してみることにする。

2009.03.30[Mon] Post 21:56  CO:0  TB:0  村上春樹  Top▲

二つのテロ

いま二つのテロが日本をおびやかしている。一つは国策捜査という検察テロで、二つはネガティブ・キャンペーンというマスコミ・テロだ。

最近のマスコミ・テロの犠牲者は安倍晋三氏だろう。自分たちの左翼的政治目標に邪魔な安倍氏を退陣に追い込むために報道テロを執拗に繰り返した。目下の標的は麻生首相だが、彼のテロをおそれない勇気には感嘆するほかない。

検察テロの現下の標的は小沢一郎で、これは麻生首相が仕組んだものではなく、政権を取ったら確実に天下り法人を廃止するだろう小沢政権を阻止するためだ。だから、これは国策捜査というよりも、官僚たちのテロなのだ。マスコミは「誰が得するか考えれば判るじゃないか」と麻生氏を批判していたが、得するのは政治家ではなく、霞ヶ関の役人だ。与党の大物だって、自分のたちの得になるなら、平気で逮捕するのが検察だ。

佐藤優氏は「青年将校」の跳ね上がりだというが、それは誤解だ。

2009.03.30[Mon] Post 00:07  CO:0  TB:0  政治  Top▲

原辰徳は長島茂雄を超えたか

侍ジャパンがWBCで優勝した。功労者にはMVPだった松坂がいたし、それより岩隈や中島やイチローがいる。でも一番の功労者は原監督だろう。

星野ジャパンの騒動のあと、誰にも歓迎されない雰囲気のなかで、監督を引き受け、「原ジャパン」とネーミングする度胸もなく、「侍ジャパン」なんていうアニメみたいな名前をつけられて、なにか馬子にも衣装のようで、カッコ悪いったらありゃしない。でも、この人ほどカッコわるさが似合う人はいないのかもしれない。

原監督の言語感覚は巨人の監督に就任したときの「ジャイアンツ愛」のキャッチ・フレーズでわかるように、ひとを微妙にしらけさせながら、同時に人を納得させるようなところがある。それでなければ、星野監督でバラバラになった選手たちが原監督のもとで団結するはずはない。

スポーツ新聞には原ジャパンのWBC優勝で、日本の野球界の世代交代が進んだという記事も載っていた。これまで、原が長島を超えることはできないと思っていたけれど、ひょうとしたら、長島を超えるかもしれない。そもそも長島は監督としては二流だった。

長島が監督を解任されたとき、巨人ファンをやめたので、入れ替わりに巨人に入ってきた原のことはチョコレートのCMでしかしらなかった。原が監督になったとき、名前の知らない小柄な選手が何人か活躍しているのをニュースで見た。どうやら二軍から抜擢した選手らしい。そのころ大味な移籍選手ばかりだったので、二軍の生え抜きを使う原監督に好感をもった。

原は監督として長島を超えるかもしれない。何よりも言語感覚が次第に長島に近づいてきた。優勝記者会見で突然、「今日限りでWBCを卒業します」と言った。選手たちは笑わなかった。また、麻生首相に優勝報告に行ったとき、「日本力」と書いた色紙を首相にわたした。「ニッポンの底力」がキャッチフレーズの麻生氏は喜んでいた。

長島世代の私にはざんねんだが、すでに原は長島を超えたのかもしれない。


2009.03.28[Sat] Post 18:59  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

古谷利裕の「知覚心理学的絵画論」(グリーンバーグ3)

「古谷利裕の『セザンヌ論』」からのつづき

古谷利裕氏は、村上隆とセザンヌに共通するのは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの視線の揺れ動きやギシギシとしたノイズの感覚だという。『Melting DOB D』の複数の顔は、同時にみることはできないし、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』は歪んだ空間や形態のために画面全体を一挙に見ることができない。

この共通する感覚を「形式的に見る」ことだと古谷氏は言うが、そうだろうか。複数の顔のパーツがあるというのは、形式ではなく内容ではないか。「人間には目が二つある」というのも内容だ。同じように、テーブルが歪んで見えるのは、テーブルの天板は矩形で水平が「正しい」という図像学があるからだ。あるいはリンゴが転がり落ちそうなのは、それがリンゴであって風船ではないからだ。形式的な色や線や形としてみれば、どんな絵にも歪んだところは少しもない。

わたしは揚げ足取りをしているのではない。具象的な対象の形態や空間が歪んだり、一つの顔に目鼻がたくさんあれば、自然の対象は解体し、そこから色や線や造形が絵画の表面に現れ出ることはある。あるいは、「親指が二本ある手」のように運動の錯視が生じることもある。(注1)そうなれば、古谷氏の言うとおり、視線が揺れ動いたり、引っかかったり、チラチラすることもあるだろう。

しかし、これは絵を鑑賞することだろうか。ただの知覚心理学の実験ではないか。

グリーンバーグが言うように、美的価値は内容から生じるのであって、形式からではない。しかも、形式と内容は相対的なもので、両者を単純に区別できないとすれば、絵を理解するためには、何よりもまず絵をみなければならない。

セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』を見てみよう。たしかに、古谷氏のいうように空間が歪み、事物の形態にも複雑なゆがみが見られる。しかし、「 画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースの動くことはできない」とまで古谷氏は言う。

セザンヌの絵画では、このような視線の異なる次元への移動は決してスムースには行われず、まるで無計画に増築に増築を重ねた建築物 (永井豪の『キッカイくん』の家のような)のなかを移動しているかのように、動いてゆく度にギシギシとしたノイズを産み、今にも崩壊寸前でギリギリ留まっているかのような感じなのだ。(セザンヌの絵画は、不器用ではあっても決して「静謐」でも「堅牢」でもなく、きわめてノイジーだ。)あえて言えば、セザンヌの絵画の「意味」とは、この震えるような「きしみ」にこそあるとさえ言える。

古谷氏はセザンヌが「静謐」でも「堅牢」でもなくノイジーだと、セザンヌ評価の常套句を否定する。たしかに、「筆触のモザイクで埋め尽くした」(グリーンバーグ)セザンヌの作品は、素人目にはノイジーに見える。しかし、この「筆触のモザイク」は、むしろ絵画の物理的表面とイリュージョンの内容との堅牢な結合を示しているとグリーンバーグは言う。どちらの言い分が正しいのか、もう一度作品を見てみよう。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、「筆触のモザイクがは他の作品に比べるとそれほど明確ではなく、タッチとタッチの境界は曖昧に、平面上に広がっている。そのかわり、真ん中に量感のある白い石膏像が描かれている。その代わりいつも描かれている白いテーブルクロスが無い。テーブルやキャンバス画が石膏像を囲んでいる。この大きな四角形は、筆触のモザイクの代わりに、フレームの四角形を繰り返している。そして、これらの四角形の平面が、絵画の四角い物理的表面に重なるように見える。

また、緑の色面が石膏像の輪郭線を越えてテーブルや画中画に広がり、絵画の平面性を強調している。また、小さいテーブルのリンゴとタマネギ、左側の絵にかかれたリンゴと、右上の青いリンゴが四角い透明の面作って、絵画表面にかさなっている。

さらに、この絵の四隅に注意すれば、左上は後ろ向きに置かれたキャンバスの裏地があり、右上には左膝をついた石膏像の絵がある。そして左下の絵に描かれたテーブルクロスが、その絵の平面から抜け出して、絵画の表面に浮き上がっている。同じように、右下にはテーブルの天板が、遠近法を歪めて、この絵の物理的表面に重ね合わせるようにグイッと引っ張りあげられ、伸ばされて、キャンバスの隅に固定されている。

セザンヌの「堅牢」さは、遠近法やデッサンのそれではなく、イリュージョンと絵画の物理的表面との間の緊密な関係であり、その二次元的なもと再現的なものの結びつきが「静謐」ということでもある。

古谷利裕氏のいう「同一平面の複数の次元」から生まれる「震えるようなきしみ」というのは、セザンヌではなく、むしろキーファーの《マイスターシンガー》に当て嵌まる。この絵は新表現主義といわれる激しい情緒を表した絵画だ。絵具を叩きつけ、擦りつけ、なすり付け、そして落書きのようにアルファベットやアラビア数字を殴り書きし、教会や家を子供のイタズラガキように描く。表現主義も象徴主義もアクション・ペインティングもカリグラフィーも、そして「立体視」もなにかも一緒くたにして、文字通り騒音に満ちた絵画というにふさわしい。(記事『デ・クーニング』より)

セザンヌの堅牢性を理解しない者は、モダニズムの絵画を理解しない者である。絵画だけにある絵画の特性は平面性である。平面性は、イリュージョンの奥行きがメディウムの矩形の平面に重なることで現れる。セザンヌは絵具の物質性で絵画の平面性を強調し、テーブルや画中画の四角形でフレームの四角形を繰り返す。そして、奥行きを浅くしたイリュージョンを絵画の物質的平面に重ね合わせようとした。その二つの平面が緊密に関係することでセザンヌの堅牢性(solidity)が生まれる。

『キューピッドの石膏像のある静物』は、それまでの「筆触のモザイク」ではなく、キュービスム的な手法になっている。中央に彫刻的なイリュージョンを持つ石膏像があるけれど、その周りをテーブルやキャンバス画の平面が取り囲んでいる。そして、そのキャンバスや天板が『不思議の国のアリス』のトランプの兵隊ように絵画の表面に向かってくる。この平面はマチスのテーブルや画中画や窓、壁、絨毯になり、それがロスコの矩形の抽象画になり、さらに、ニューマンの「アンナの光」ではイリュージョンの平面と絵画表面の平面が完全に一つになっている。(ステラ のshaped canvasはニューマンと違ってイリュージョンを完全に抹殺している)

この空間のイリュージョンと絵画の物理的平面のあいだの緊張関係は、もちろん古大家の作品にもある。ただ古大家たちはイリュージョンによって物理的な層を隠していたので、イリュージョンと絵画平面との緊張関係が露呈しなかった。ところがモダニズムの絵画は平面性を強調する。平面性というのはキャンバスの物理的特性だから、結果的にイリュージョンと物理的表面の対立を強調顕現させることになった。

そもそも、モダニズムの絵画を見る楽しみは、図像学的に見ることでも、フォーマリスティックに見ることでもない。モダニズムの絵を見ると言うことは、物理的絵画の知覚をとおして図像(イリュージョン)を見、図像(イリュージョン)を通して再びメディウムに帰るという、絵画の三層構造の間の弁証法的戯れに身をまかせることだ。この意味でグリーンバーグはフォーマリストでも、平面主義者でもない。もちろん図像主義者でもない。絵画の三層構造のあいだの弁証法的戯れに美的価値を認める現象学者なのだ。かれが形式を重視するのは、形式そのものに美的価値があるからではない。そうではなく優れた形式というもはイリュージョンと物理的絵画の間の緊張を高め、美的内容を生み出すのに寄与してくれるかぎりである。

古谷氏はエッセイの最後で言っている。
 
 ただ、目の前に提示されてる作品やイメージというものを、丁寧に見て、それを記述し分析することが、現在の「美術」を巡る言説のなかにあまりに欠けている から、それが必要なのだと言いたいのだ。それがなければ、批評はただの知的な饒舌にすぎなくなってしまうし、作品はただ、故人やその時代の「好み」や「気分」や「感情」を代弁するもの、というだけのものになってしまう。

この批評じたいが絵を見ずに書ける言説であり、自己言及性のパラドックスに陥ってはいないか。

つづく

注1:親指は一本という「信念(思い込み)」があるので、二本の親指に違和感(正常な知覚ではないという疑い)を持つか、あるいは激しく前後に動く一本の親指が残像で二本に見えるか、どちらかである。わたしの経験では地と図の交替のように、違和感と運動の錯視が交替におきるようだ。これは二本の指の描き方によるだろう。彫刻では同じようなことが起こるかは知らない。

2009.03.28[Sat] Post 17:39  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

古谷利裕の「セザンヌ論」(グリーンバーグ2)

前回のエントリーでも触れたように、「近代絵画的」にみて、村上隆とセザンヌには共通の感覚があると古谷氏はいう。それは、「同一平面上の複数の次元」を見るときの感覚だという。

我々の視線は(複数の次元を持つ)絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動き続けざるを得ない。(括弧内安積)

顔のパーツが複数描かれた『MeltingDOB』を見ると、そのパーツが様々に組み合わさることで、複数の顔が見えるは、その感覚だという。たしかに、いろいろな組み合わせに注意を向けることはできるが、いったいそれが次元の違いとか、「基底が不安定に揺れ動く」現象といえるのかどうか、その表現の真意を理解するのは難しい。

この「基底が不安定に揺れ動く現象」は、『Melting DOB』の目ではなく、「親指が二本ある手」で考えたほうが解りやすい。二本親指のイラストは、親指が二本あるのではなく、一本の親指が激しく前後に動いて見える。この感覚はオップ・アートの揺れ動きの感覚に似ているが、オップ・アートは抽象的な繰り返しの図形だが、こちらは、親指という具象性が問題になっている。親指は一本である。それが二本あることは、これまでの経験(記憶)と矛盾するので、
視覚(脳)が一本の指が前後にすばやく動いているものとして処理したのだ。抽象的な図形現象と具象的な図像現象と区別しなければならない。

これと似た現象がおそらく『Melting DOB』くんにもあるのだろう。目は正面なら二つだし、横顔なら一つだから、様々な組み合わせが正常な組み合わせになるように、小刻みに変化したり、不安定に揺れ動くことがあるかもしれない。

どちらにしろ、ここで注意しておかなければならないのは、これはあくまでも錯覚(疑似知覚)のレベルの現象で、本来の図像意識の現象ではないということだ。たとえば、モノクロ写真の子供の灰色の肌がピンクに見えるのは、錯覚ではなく、知覚しているのはあくまでも灰色であり、だだそれが存在定立されず中和変容されて、ピンクの肌という意味が志向されているのだ。だから、絵画意識にはちらつきや不安定な揺れ動きは本来的にはない。(注1)

さて、古谷氏は、『キューピッドの石膏像のある静物』を例に、
セザンヌにおける「同一平面上の複数次元」を説明する。それは、DOBくんの顔のパーツが複数あるというイラストの問題ではなく、空間と事物の形態の歪みに起因するものだ。テーブルが手前にせり上がっており、事物は遠近法の空間のなかに納められずにばらばらになっている。

画面上に描かれた事物を図像としてリテラルに追おうとしても、その視線は決して素直にスムースに動くことはできない。・・・・・・・・・(そこに描かれた事物)などに視線は引っ掛かり、さらにそこから別の場所へとズレこんでゆき、あるいはそこから色彩や筆致の次元へと、視線は次々と逸脱してゆき、画面のなかを目が彷徨いつづけることになる。(強調安積)

古谷氏はセザンヌにも、村上氏の「DOB」くんと同じような「同一平面上の複数の次元」への視線のズレと逸脱を認める。ところが、この次元というのが両者ではことなる。村上隆の
『MeltingDOB』では、顔のパーツが無数にある歪んだ大きな顔が、いろいろな組み合わせの顔となって現れる。ということは図像の三層構造では、図像客観や図像主題の次元へ視線が向かうことになる。それに対して、セザンヌの『キューピッドの石膏像のある静物』では、歪んだ空間(遠近法)や歪んだ事物の形態が絵画の統一性を破壊して、造形や色彩や筆致という絵画の形式的物質的な次元に視線が向かうことになる。

古谷氏のセザンヌ分析は、意味がはっきりとしないレトリックを取り除いてやれば、おおむね素朴なフォーマリズム分析といえるわけだが、
『Melting DOB』の反フォーマリズム的な図像的(注2)解釈とは基本的には正反対のものではないか。そうであるならば、なぜ、セザンヌと村上隆が「スーパーフラット」の概念で結びつけられるのか理解するのは難しい。そもそも「スーパーフラット」とは何んであるか古谷氏はどこにもかいてないのだ。

古谷氏の論説を必ずしもよく理解したわけではないし、とくにおわりの方の蓮見重彦風レトリック(?)はわたしには理解できないので、もっと深い意味があるのかもしれないが、私が理解した限りでは、セザンヌと村上隆の作品に共通の感覚があるという古谷氏の主張は間違っていると結論せざるを得ない。

グリーンバーグの「セザンヌ論」を読めば分かることだが、セザンヌは決して古谷氏が書いているような意味でのフォーマリストではない。次回はグリーンバーグの「セザンヌ論」について書く予定だ。

つづく

注1:図像意識と錯覚意識を区別しなければならない。イリュージョンという言葉は両方に使われるから注意が必要です。
注2:古谷氏は「顔という意味」について述べている。グリーンバーグの"homeless representaion"を参照

2009.03.14[Sat] Post 14:44  CO:0  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

水田フル活用と天下り

【頑張れ!石破茂農政改革担当大臣】

産経ニュース(3/13)に『コメの生産調整めぐり農水相発言が二転三転』の記事。 

 米の生産調整(減反)政策をめぐる石破茂農水相の発言が週替わりでぶれている。  米粉米や飼料米などの作付けを増やすために平成21年度から本格化させる「水田フル活用」について22年度以降は白紙の姿勢を見せていたのが、今月に入ると継続を表明。しかし、今週は「継続」の言葉が消えた。  水田フル活用を推進してきた自民党農林関係議員は不信を高め、「石破を相手とせず」との声も出るほどになっている。

  これではいったい「水田フル活用」のどこが争点なのかわからない。新聞というものは肝心なことを書かないので、記事の内容がたいていあいまいである。自民党の農林関係議員というのは農林族のことだから、たぶん彼らの目的は農家の票と農業団体からの献金だ。石破農水相ははじめから減反見直しの考えだったはずだ。農林族の反対は計算済みだったろう。それなのにここにきて二転三転するのは、例によって官僚の陰謀か。

産経ニュースの記事で減反政策をたどってみる。

2009.1.20  「農政改革担当相」石破農水相兼任へ 自給率50%…減反見直し本格化

(「食料・農業・農村施策推進本部」の検討課題は)、食料自給率の50%(カロリーベース)達成や世界的な人口増による食糧難にも耐えられる農業構造にすることを目標に、(1)農地面積の減少を抑えるための規制の緩和(2)担い手の確保や経営基盤の強化(3)減反の見直し(4)農村地域の活性化(5)国際競争力強化や世界貿易機関(WTO)交渉への対応-などを想定している。



規制緩和も減反の見直しもWTOの対応も必要なことはすべて入っている。

 

2009.1.27 減反見直しが最大の焦点 農政改革論議が本格スタート

 石破茂農水相は27日、「食料・農業・農村政策審議会」(農水相の諮問機関)に対し、10年後の農業政策目標などを示す「食料・農業・農村基本計画」の見直しを諮問した。コメの生産調整(減反)見直しが最大の焦点で、審議会は来年3月までに新たな基本計画をまとめる。食料自給率の向上や食の安全・安心の確保策なども議論される見通しで、農政の大転換につながる可能性もある。 ・・・・・・・  減反については、すでに石破農水相が見直しを表明しており、廃止も視野に入れている。


石破氏は今回の農政改革は減反の廃止が目標だと明言している。
 

2009.2.3 石破農水相、「減反選択も排除しない」  

 石破茂農水相は3日の閣議後会見で、コメの生産調整(減反)への農家の参加を「選択制も排除するものではなく、あらゆる角度から検討する」と話し、参加を農家の判断に委ねる「選択制」の導入を検討していることを明らかにした。参加農家には所得補償を行う方向。  価格維持のために行うコメの生産調整は、都道府県ごとに生産目標量を定めてすべてのコメ農家が参加するのが原則だが、参加しない農家もある。価格維持が不参加農家にも恩恵を与えることから、農家の間には不公平感が広がっていた。価格が下がった際に政府がコメを買い上げる政策について農水省は、廃止も念頭に置いている。

ここで初めて「減反選択」という言葉が出てくる。族議員が減反廃止に反対なので減反を選択制にし、そのかわり、減反しない主業農家には価格が下がっても保証はしないが、自由に競争できるようする。現在、減反しない農家も高い米価が保証されている。したがって、生産コストが低い主業農家は、減反するより増産する方が収入が多いことになる。どうやら、それが不公平だと言っているらしい。なんか変だ。
 

2009.2.4 減反見直しへの反発相次ぐ 自民党農業政策基本委員会

 自民党の農業基本政策委員会(西川公也委員長)は4日午前、党本部で会合を開き、コメの生産調整(減反)見直しを含めた政府の農政改革への批判が相次ぎ、次回会合で石破茂農水相を呼ぶ方針を決めた。  出席者からは、石破氏が独自の農政改革プランを示し、農政改革関係閣僚会議や経済財政諮問会議で議論を進めようとしていることに「これから解散・総選挙というときに農政のトップは慎重にやってもらわないと困る。農民の反応を大事にしていただきたい」という意見が出た。また、「諮問会議対自民党の形に持っていこうとしているのか」と官邸サイドへの不満も噴出した。  出席した近藤基彦農水副大臣も、各農家に生産調整に参加するかどうかを判断させる選択制を導入する動きがあることに「表舞台で議論されたことは一度もない。これがたたき台になることは阻止したい」と表明した。

減反選択制が減反廃止につながり、その恩恵を一番受けている兼業農家が競争に負けて廃業に追い込まれることに気づいた農林族が反対している。これは郵政民営化のときに諮問会議と族議員が争ったのとまったく同じことだ。さて、石破農政改革担当大臣は竹中郵政担当大臣のように頑張れるか。ここが見所だ。

 

完全に郵政改革のパターンです。これは農政民営化と言っていいでしょう。これはもうはっきりと郵政民営化のときの竹中大臣と党・官僚の攻防の再現だ。郵政改革より、農政改革のほうが日本にとって何倍も重要なのに、世間はなにも関心がない。

やっぱり官僚の陰謀があったのだ。「水田フル活用」というのは役人が自分たちの利権を守るために族議員に入れ知恵したに違いない。水田フル活用というのはこれまでの減反政策と何も変わらない。ただ、麦や大豆の転作ではなく、米粉用や飼料用のコメを作ると減反補償金の割り増しを払いますよということだ。ぜんぜん、改革になっていないじゃないか。

近頃テレビで盛んに米粉を使ったバンだとか蕎麦だとかのキャンペーンをしているけれど、あれは農水省が自分たちの天下り先のためにやっているのだ。ちぇっ、だまされた。

 さいごに農水省のHPのQ&Aから「水田フル活用」の項目をコピペしておく。

(問6-2)水田フル活用推進交付金の概要いかん。

(答) 1 水田最大活用推進緊急対策は、平成21年を「いわゆる減反政策」から「水田フル活用」への転換元年と位置づけ、水田フル活用が円滑にスタートできるよう、特別の措置を講じるものです。 2 具体的には、20年産の生産調整実施者で、21年産においても生産調整を実施することを約束した農業者に対し、当該農業者の20年産の主食用水稲作付面積に応じて、10a当たり3,000円を支払うものです。

 石破茂農政改革担当大臣 負けるな!

以下は、サンケイの署名記事。コメの安定供給に影響する可能性なんてありません。これは官僚の紋切り型の説明です。

 

2009.2.4 もめる自民、今度は「減反」 農政改革に批判続出 生産調整(減反)政策。

石破茂農水相が3日、生産調整に参加するかどうかを各農家に委ねる「選択制」導入を検討したいと表明したが、自民党はすでに別の生産調整策を打ち出しており批判が噴出した。背景には「政府がコメの価格形成にどこまで関与するか」という農政の基本対立があり、麻生太郎首相は、消費税に次ぐ新たな火種を党内に作った格好だ。(今堀守通、峯匡孝)  「これから衆院選というときに、農政のトップは慎重にやってもらわないと困る。農民の反応を大事にしていただきたい」  4日に開かれた自民党農業基本政策委員会(西川公也委員長)では、石破氏への批判が相次いだ。政府側の近藤基彦農水副大臣ですら「表舞台で議論されたことが一度もない。たたき台になるのを阻止したい」と決意を示す場面もあった。  導入が検討される「選択制」は、減反に参加した生産者に、米価が下落した際に所得補償する。不参加なら生産の上限がなく自由に増産できるが、下落時の補償はない。参加者が少なければ、供給過剰で米価が暴落し、コメの安定供給に影響する可能性もある。


2009.03.13[Fri] Post 14:41  CO:0  TB:0  ワイロと天下り  Top▲

『百年に一度の危機から日本経済を救う会議』高橋洋一・長谷川幸洋

高橋洋一氏はこれまでと同じことを繰り返し主張している。財政政策より金融政策を、量的緩和だけではなくインフレ期待をというのだが、今回はジャーナリストを対談相手に選んで、財務省・日銀ばかりではなく、証券・銀行系のエコノミスト、マスコミ、御用学者を批判して痛快である。

ひとつだけ書いておく。田中秀臣氏が『経済論戦の読み方』で述べた構造改革主義批判には納得できる。しかし、リフレ派が官僚組織の改革は不景気を脱してからでいいという主張には賛同できない。

現在日本社会に閉塞感があるのは、格差のためではなく、官僚の腐敗ためだ。リフレ派の山形浩生氏は官僚が優秀だと擁護している。しかし、リフレ派の高橋洋一氏は官僚は経済学に無知だし優秀でもないという。彼らが金融政策より財政政策を好むのは自分たちの利権の確保のためであり、百年に一度の危機から日本を救うには官僚を退治しなければならない。

もし、政府紙幣が発行されたとしても、役人たちの利権確保のために無駄遣いされてしまうだろう。リフレ政策は官僚内閣制を倒さなければ実行できない。民主党政権ではなおさらできない。
2009.03.12[Thu] Post 14:59  CO:0  TB:0    Top▲

文部科学省が漢字検定協会に抜本的改善を要求

文部科学賞はいろいろな改善を漢字検定協会に要求したらしいが、、もちろん文科省の最終的な目的は天下りの確保だ。産経ニュースに以下の記事。

文科省によると、平成19年度に約2億9000万円で広報業務などを委託した「メディアボックス」には担当社員が2人だけで、調査研究を約600万円で委託した「文章工学研究所」は社員が1人だけ。どちらも検査結果で、委託の必要性が不明瞭(ふめいりょう)と判断された。

でも、これって、天下り法人のまねをしてるだけじゃないか。役人はよくも自分のことは棚に上げて、こんなことをいえるなぁー。

漢検さん、文科組が「俺のしまを荒らすな」と言ってます。やっぱりみかじめ料は払わなくてはいけません。
2009.03.11[Wed] Post 18:07  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

与謝野馨が政策金融改革を否定

寝る前にYoutubeをチェックしたら、与謝野馨が参議院予算委員会で、政策金融改革は誤りだったと、NHKニュースが伝えていた。あわててネットを探したら、asahi.comに記事があった。

 与謝野財務・金融相は10日の参院予算委員会で、小泉内閣時代に政府系金融機関の統廃合や民営化を進めた政策金融改革について、「(改革)当時は世界が順調に成長していくという前提の経済学で、世界が同時に不況になることをまったく想定していなかった。間違いだった」と述べ、改革に誤りがあったとの認識を示した。自民党の西田昌司氏の質問に答えた。(3/10)

岩崎慶市氏が産経のオピニオン欄で与謝野馨が政府紙幣発行を「とるに足らない話だ」と切って捨てたことを賞賛したことについては、すでにブログで批判した。それよりおどろいたのは、ちょうど高橋洋一と長谷川幸洋の対談本『百年に一度の危機から日本経済を救う会議』を読んでいて、その中で高橋氏が財務省は政策投資銀行の完全民営化をやめて、元に戻そうと企んでいると言っていたからだ。

日銀は市場にハイパワードマネーを供給するのを嫌ってCPを直接購入しない。そこで、財務省が政策投資銀行に特定の大企業のCPを購入させている。これは財務省が天下り先確保のために政策投資銀行の完全民営化を阻止しようとしているのだと、高橋氏は言う。政策投資銀行と大企業の両方の天下り先を確保できるのだ。「かんぽの宿」一括売却に総務相が介入するのと同じたくらみなのだ。

与謝野馨は財務省のマリオネットだ。財政通とは聞いてあきれるキシャポッポ。
2009.03.11[Wed] Post 01:08  CO:0  TB:0  経済  Top▲

良い公共投資と悪い公共投資

前回のエントリー『産経新聞は朝日新聞よりアサヒってる』で言い忘れたが、良い公共投資が駄目なのは、悪い公共投資と同じように国債で調達した財源を使うからだけではない。たとえそれが政府紙幣の発行益を財源にしても駄目な理由が二つある。

一つは、岩崎氏「国家の10年先を見据えよ」とか「場当たり策を繰り返すな」とか「効果を基準に政策を絞り込め」というが、将来的にどんな分野が成長するかは財務省が判断できる訳がない。これはただ役人が天下りをしている大企業に無駄な公的資金を注入することになるのだ。

二つは、これは流動性の罠に陥ったデフレ状態という水風呂に今すぐ熱湯を注がなければならないということだ。10年も水風呂に入っていたら心臓麻痺で死んでしまう。チョロ火で追い炊きをしている暇はない。今すぐ熱湯を注げと高橋洋一氏は提案しているのだ。

わたしは構造改革とリフレの間で、いったいどっちが正しいのか長い間迷っていたが、田中秀臣の『経済論戦の読み方』を読んで、リフレ派になりました。それと、池田信夫のストーカー紛いのリフレ批判を読んだことも大きいけれど。
2009.03.10[Tue] Post 19:32  CO:0  TB:0  経済  Top▲

産経新聞は朝日新聞よりアサヒってる

産経新聞が自社の特別記者千野境子を人事院に押し込もうとしていることはすでに書いた。そうしたら、今日(3/8)の産経新聞の『日曜経済講座』に論説副委員長の岩崎慶市氏が「政策はまっとうな議論で」というタイトルで、とてもまっとうとは言えない文を書いている。こんな文章を書くのは岩崎氏が霞ヶ関(財務省日銀)と癒着しているだけではなく、「学部レベルの経済学」(2ちゃんねるで覚えたw)も理解していないからだ。

岩崎氏は財務省の代弁をしているようだ。公共投資だけでは不景気から脱却することができないことは、もはや経済学のコンセンサスになっているにもかかわらず、相も変わらず、悪い公共投資ではなく、良い公共投資があると言い張っている。

これは構造改革主義の「悪いデフレと良いデフレ」の変種であって、恐慌の罠からは今すぐ抜け出すためにどちらも役に立たない。岩崎氏のいうような10年先を見越した構造改革では罠から抜け出すことはできない。罠からは今すぐ抜け出さなければならない。

道路ではなく、羽田空港を拡充しろとか、中小企業支援ではなく、環境新エネルギー技術の研究開発に投資しろとかいうが、その財源を国債発行で賄うなら、マンデル・フレミングの法則で景気刺激の効果は期待できない。もちろん国債を相続税減免や無利子とセットにしても事情はさしてかわらない。

問題はデフレギャップを解消するためには財政政策ではなく、金融緩和政策が必要だが、金利をゼロにしても、デフレ下では実質金利はゼロにならない。それなら日銀がお札を刷って、国債を買えばいいのだが、日銀はバランスシートが悪くなるといって、買おうとしない。だから政府紙幣を発行しようというのだ。

岩崎氏は「政府紙幣」発行に関してはほとんど嘘に近いでたらめをいう。明治の太政官札はむしろ成功した例だと考えられるし、当時は今と違って貨幣制度が江戸幕府からの移行期にあり、幕府幣制と藩札、不換紙幣と兌換紙幣、中央銀行の成立、為替制度の混乱など激変の時代であり、そのことを考えれば、むしろ明治維新は、その財政金融政策によって富国強兵を成功に導いたといえるだろう。それを失敗だったとは財務省日銀の言い訳に与するものだ。そして、岩崎氏は変なことを言う。

いまも政府紙幣は先進国に例のない「一国二通貨」を生むことになり、重要な国家統治機能の一つ「中央銀行の独立性」を破壊しかねまい。

硬貨は政府発行貨幣だから、日本はいまでも「一国二通貨」だ。しかし、交換レートが一対一の固定だから、二通貨制度に見えないだけだ。でも、シニョレッジはそれぞれ自分のポケットに入れている。

「中央銀行の独立性」というのも変な言葉だ。中央銀行の独立性には「手段の独立性」と「目標の独立性」があって、日銀がもっている独立性は手段の独立性だ。岩崎氏がどういう意味でつかっているのか判らない。日本銀行のHPには、政府からのインフレ圧力にまけない独立性だと説明しているが、デフレのままにしておく権利など日銀にはない。いまのままでは、ただ日銀の行益を守っているだけで、国益を損なっている。

「中央銀行の独立性」が国益を損なった例がウィキペディアに出ていたので引用する。

 中央銀行の独立性がもたらした弊害の最悪の事例として、第一次大戦後のドイツにおけるハイパーインフレーションが挙げられる。当時のドイツの中央銀行であるライヒスバンクは政府からの独立性は高く、中央銀行の総裁は終身制であり、議会に罷免権はなかった。
 そのため私企業の手形割引を濫発して通貨が大増発され、1兆倍のインフレが発生。日常の経済活動遂行にも障害が発生した。そのとき政府はハイパーインフレ抑制のためにライヒスバンク総裁の罷免を考えたが、終身制を理由として辞任しなかった。
 その後1923年に総裁が急死し、銀行家シャハトの協力によりレンテン銀行(Deutsche Rentenbank )が設立され、政府が新しい総裁を任命し、新しい通貨のレンテンマルクの発行によりインフレが収束した。

我が国では福井総裁がファンド投資のスキャンダルを起こしたにもかかわらず、政府がインフレ圧力をかけていることを幸いに、日銀の独立性を守るという大義名分で、辞任しなかったのである。

岩崎氏はしきりに政府紙幣の償却のことをいうが、政府紙幣は債券ではないのだから、償却する必要はない。ただ、インフレという形で償却されるのだ。だから、インフレが起きなければそのままほっておけばいいということになる。流動性の罠にはまっているときにちゃんとコントロールすればハイパーインフレがおきることはない。だから、政府紙幣の発行は、日銀が国債を買って焼却(償却ではない)すれば同じことだ。

わたしは素人だけど、岩崎氏が財務省日銀の言い分をそのまま書いているということぐらいは察しがつく。その証拠に

「政府紙幣について『とるに足らない話だ』と切って捨てた与謝野氏」

の写真がデカデカと出ていたことでも判る。産経新聞は朝日新聞よりアサヒってる。
2009.03.09[Mon] Post 22:46  CO:0  TB:0  経済  Top▲

古谷利裕の「村上隆論」(グリーンバーグ1) 

このところ政治の話題ばかり取り上げているけれど、美術のことをほったらかしにしているわけではない。グリーンバーグの”The Collected Essays and Criticism”4巻をアマゾンで買って積んであるのだ。それを拾い読みしているのだが、ますますグリーンバーグのフォーマリズムが「絵画の三層構造」に基づいているという確信を得た。キャンバスの平面と形が「物理的図像」に、浅い奥行きや目で見るだけの空間が「図像客観」に、深い奥行きや歩いて入れる空間、そしてrepresentationが「図像主題」にほぼ対応している。

じつは2chの書き込み(注1)で批判されていた古谷利裕氏の評論『セザンヌと村上隆とを同時に観ること』(Web CRITIQUE)の批判を書き始めたのだけれど、途中でばかばかしくなって放り出してあるのだ。なにしろ村上隆とセザンヌが近代絵画的に共通の感覚があるというのだから、2ちゃんねらーでなくともあきれてしまう。知覚心理学と文学的レトリックで、いたずらに人を驚かそうとしているだけではないか。

光栄にもわたしのブログを古谷氏のブログと比べてくれたブロガーがいて、そのブロガーに言わせると、わたしのブログはつまらないそうだ。たしかに、わたしのブログがつまらないことは認めるけれど、少なくとも絵画を理解するには、古谷氏の修辞より役に立つと思う。以下、途中まで書いた「古谷利裕論」を(一部修正して)コピペしておく。


2chの書き込みで批判されていた古谷利裕氏の評論『セザンヌと村上隆とを同時に観ること』(Web CRITIQUE)を読む。まずは冒頭部分から。

村上隆の「DOB」シリーズの最も完成度の高い作品、例えば2001年に制作された『Melting DOB D』や『Melting DOB E』といった作品を観た時に、セザンヌやマティス、あるいはゴーキーやポロックといった画家の作品と共通する「感覚」を感じないとしたら、その人は絵画を「形式的」に観る能力に欠けているのだと思う。村上氏がそのことをどこまで意識しているのかは知らないが、これらの作品はたんにパロディとか観照とかを超えて「近代絵画」的に相当高度な作品だと思う。

「形式的」とか「近代絵画的」とか言われれば、だれもが、グリーンバーグ流の絵画分析を思い浮かべるが、古谷氏がフォーマリズムやモダニズムでなにを意味しているかはこれだけでは解らない。終わりの方にモダニズムの説明らしきものがあるので、途中を省略して、結論にとぶ。そこにはこうある。

 あらゆる要素が隠されることなく表面に曝されている平面でありながら、複雑に折り重なる複数の異なる次元がひしめき合っていることから、決して視覚によってその全体を一気に把握することができない平面。つまり「スーパーフラット」というコンセプトは新しくもなければ古くもない。それは「近代絵画」の基本的な要素の一つであるのだ。
               
村上隆の「スーパーフラット」は、近代絵画の基本的な要素の一つである平面性(フラットネス)のことだといっている。もちろん、村上氏自身もはじめからそう言っている。それなら、スーパーフラットはフラットとどこが違うか、結論部分を分解すると、以下の三つの点で異なるらしい。

1.あらゆる要素が隠されてることなく表面に曝されている平面である。
2.複雑に折り重なる複数の異なる次元がひきしめ合っている平面である。
3.しかし、視覚によってその全体を一気に把握することができない平面である。

隠されることなく曝されているのに、全体を一気に把握できないとは、意味不明である。これが、絵画鑑賞のときの視線の動きを意味するなら、われわれは全体をぼんやり見るか、部分に注意を向けるかどちらかしかできないのだから、なにもスーパーフラットに限ることではない。

都合が悪くなると「次元の違い」を持ち出すのは批評空間派の常套だが、古谷氏も持ち出す。ところが、古谷氏の「次元」は複雑に折り重なっていて、しかも、ひしめき合っているというのだ。折り重なって、ひしめき合っているなら、同じ次元ではないのか。

また、古谷氏は「同一平面上の複数の異なる次元」について、以下のように述べる。

我々の視線は絵を見ている限り常に動きつづけざるを得ないし、視線が動いている限りは(視線が動く度に)、空間を形づくっている「基底」そのものが小刻みに変化し、不安定に揺れ動き続けざるを得ない。

この説明がどんな知覚現象を説明しているのか、相変わらずハッキリとはしないが、たとえばゲシュタルト心理学の図と地の交替を思い出すが、図と地の交替は不安定な揺れ動きではなく、我々の注意の向け方にも左右されない一定間隔の交替なのだ。しかも、地と図が交替する図形ばかりか、交替しない図形もあるし、交替しにくい図形もある。交替しにくい図形を利用したのが「隠し絵」である。

古谷氏の上記の説明は、図形がちらちらと不安定に揺れ動くオップアートや、二本描かれた親指が、一本の親指が激しく動いているように見えるイラストなどにこそふさわしいだろう。しかし、この揺れ動きは、錯視の現象であり、グリーバーグの言う「平面とイリュージョンの弁証法的緊張」とはなんの関係もないことだ。

古谷氏はその「同一平面上の複数の次元」 がある絵画として、村上の『Melting DOB D』を例に上げて、これがたくさんの目がある顔にしか見えない者は、絵画を「形式的」に観る能力に欠けているという。

もし、近代絵画的な、「同一平面上の複数の次元」ということを理解しない人がこのような絵を描いたら、たんに目がたくさんある顔に見えるか、そうでなければ、目は「目」に見えず、顔にたくさんの発疹ができているようにしか見えないだろう。つまりこの作品は、非常に高度な近代絵画的な目によって制御されて描かれていると言えるのだ。

どうやらわたしは、絵を「形式的」に見る能力に欠けているようだ。わたしには『Melting DOB D』が大小の目や口がごたごた描かれた顔にしか見えない。いろんな顔が見えるのは、ただ知覚の地平の問題であり、注意の問題であって、次元の違いではない。(古谷氏が「次元の違い」で何を意味しているか明確ではないが)もし、グリーンバーグと関係があるとすれば、それはフォーマリズムではなく、おそらく「ホームレス・リプレゼンターション」の方だろう。

古谷氏は「だまし絵」や「隠し絵」と「同一平面上の複数の次元」と比べているが、「だまし絵」と「隠し絵」の違いを把握していないので、言っていることがちんぷんかんぷんになっている。「隠し絵」はすでに述べたようにゲシュタルト心理(地と図の反転など)を利用した絵であり、「だまし絵」は図像表象の階層性を利用した絵である。

だまし絵については「絵画の現象学」の理解に役立つので、少し詳しく述べておく。たとえば、「絵の中の絵」、「『パンを描いた絵②』を描いた絵①」があるとする。その絵に蝿が描いてある。するとその蝿は
1.絵②のパンにとまっている。
2.絵②の表面にとまっている。すなわち絵①のイリュージョン空間にいる。
3.絵①の表面にとまっている。すなわち絵画の物理的表面にとまっているように見える。
4.本物の蝿が絵①にとまっているのと間違える。
5.蝿の形をした黒いシミとしては、すべてのほかの絵具と同じようにキャンバス上の表面に塗られた絵の具である。(注2)
以上は蝿の角度や大きさや影の付き方によってかわってくる。また、額縁が描かれている場合はイリュージョンはより複雑になる。どのイリュージョン空間に属するか曖昧なことももちろんある。このイリュージョン空間の多層性、すなわち絵の中の絵、その絵の中の絵、さらにその絵の中の絵という具合に、理論的には無限に可能である。

「だまし絵」は5.のキャンバスという同一平面上に描かれたイリュージョンの多層性なのだから、「同一平面上の複数の次元」と似ている。しかし、これはイリュージョン空間の入れ子構造の多層性であって、次元の違いを持ち出す必要はない。。実際に『Melting DOB D』を見ても、絵の中の絵という構造はどこにもない。

以上で、古谷氏の村上隆解釈の検討はおわります。次回は古谷氏のセザンヌ解釈についてです。

つづく

注1:記事『2ちゃんねるの美術評論』参照
注2:谷川渥『だまし絵』参照


2009.03.07[Sat] Post 23:24  CO:3  TB:0  -グリーンバーグ  Top▲

『クラウドの衝撃』城田真琴

この本の発行日は2009年2月19日である。IT関連の本の例に漏れずすでにネットで読める以上のことは書いてない。

これまでPC端末に各自持っていたソフトウェア、データ、プラットホームなどのITリソースをインターネット上の仮想コンピュータに移し利用することを「クラウドコンピューティング」という。

最初のメインフレームがPCになってそれがネットでつながる。初めのうちはデータのやりとりをしていたが、そのうちネット上の特定の領域にPCのリソースが集められるようになる。私たちがよく知っているのは、EメールからWebメールへの進化だろう。EメールのときはEメールソフトをインストールして、メールを書いて送信したり、受信したメールをハードディスクやフロッピーに保存していた。

しかし、Webメールの大部分のリソースはヤフーやグーグルの管理するネット上の領域においている。われわれはどのPCからもネットを通じてメールの作業を行える。

自分のパソコンがクラッシュするたびに、保存メールが消えてなくなり、メールソフトをインストールしなおす手間がなくなった。これはブックマークも同じことで、ブラウザーのブックマークは消えてしまうが、Googleのブックマークはなくならない。もちろん検索ソフトはわざわざダウンロードする必要はなく、向こうにあるのだから、検索速度は比較にならないほど速い。これはアマゾンのショッピングサイトも同じことだ。

クラウド・コンピュータを単純にネット上の仮想コンピュータと考えれば、GoogleもAmazonもクラウドといえなくはない。しかし、コンピュータ技術のあたらしいバージョンとしては、これらはクラウドとはいえない。クラウドというのは、たとえば、銀行のメインフレームをネットでつなぐのではなく、メインフレームをそっくりネット上の仮想コンピュータに移すしたものと捉えた方がわかりやすい。

そういう完全な意味でのクラウド・コンピュータはまだない。今はデータをネット上のストレージ(ハードディスク)においておくレンタル・サービスが始まったばかりで、クラウドがブレイクスルーするにはいくつかの問題点があるとおもわれる。

まず、コストの問題がある。Google検索が普及したのは広告収入で、アマゾンはネット販売で収益を得て、利用者にコストがかからないからだ。膨大な数になるハードディスクは一日あたりゼロコンマ数パーセントで壊れるらしいが、これに対処するには、メインフレームのバックアップよりもネットのほうが有利であることが保証されなければならない。とうぜん暗号システムの安全性の問題もある。

ほかにもいろいろあるだろうが、一番重要なことは、これまでのIT進化とおなじように、コストの問題であろう。なにしろ、ネット利用者はネットはただだと思っているのだから。

2009.03.07[Sat] Post 14:54  CO:0  TB:0    Top▲

ワイロと天下り

YOMIURI ONLINEに『小沢代表政党支部、企業献金は小口ばかり…』の見出しで、以下の記事がある。

小沢一郎・民主党代表が代表を務める政党支部が2002年~06年に受けた企業献金は、最高でも1社当たり年300万~200万円にとどまり、大半が小口献金だったことが分かった。
 同じ時期に、準大手ゼネコン「西松建設」(東京)がダミーの政治団体名義で行った小沢代表側への献金は、年1500万~500万円。小沢代表は4日の記者会見で西松側からの献金について、「政党支部で受領すれば何の問題もなかった」と述べたが、実際に政党支部で受ければ、金額的にかなり目立ったことになる。
 政治資金規正法によると、企業が政治家の資金管理団体に献金することは禁じられているが、政治家が代表を務める政党支部に対しては、政党への献金という扱いになるため、献金することができる。このため、多くの政治家は、政党支部で企業献金を受けている。
 政治資金収支報告書によると、小沢代表が代表を務める政党支部「民主党岩手県第4区総支部」(03年9月以前は自由党岩手県第4総支部)は、02~06年に多い年では200社、少ない年で114社から、年間計8890万~4806万円の企業献金を受けていた。最も多く支出した企業の献金額は年300万~200万円。1回当たりの献金額は、多くても200万円前後だった。これらの献金は、東北地方の企業が約7割を占め、建設関係の会社が半数以上だった。大手や準大手のゼネコンは献金していなかった。(3/6)

大手や準大手のゼネコンが献金していないのは、そのかわり天下りを受け入れているからだ。天下り一人受け入れるのに5000万円かかると言われているけれど、それなら西松建設も天下り を受け入れておいた方が安上がりで安全だった。談合システムがどうなっているのか知らないが、西松建設は準大手ということで、官僚の天下りを受け入れるか、政治家に賄賂を送るか、たぶん微妙な位置にいたのかもしれない。

これが国策捜査がどうかは判らないが、官僚の利権(天下り)と政治家の利権(賄賂)のなわばり争いがあることは想像できる。検察は官僚であり、天下りもしているのだから、文部科学省が天下りのいない漢字検定協会に立ち入り検査したように、天下り利権からはずれている賄賂利権を捜査しても霞ヶ関の掟を破ることにはならないはずだ。

日本の行政はすべて天下りにつながっている。これまでも、いろんな出来事の背後に天下りがあると予想した。

1.調査捕鯨への執着は天下り利権の確保にある。

2.社会保険庁のデータ・システムの欠陥はコンピュータ会社への天下りのためである。

3.「かんぽの宿」の疑惑追及は天下り利権復活のための官僚の陰謀である。

4.漢字検定協会へ文部科学省が立ち入り検査をしたのは、協会が天下りをうけいれなかったからだ。(調査は協会への警告である)

1.と4.は当たっていたが、2.と3.は当たっているかどうかわたしには今のところ判らない。でも、まぁ、当たらずとはいえ遠からずだろう。

天下りと賄賂の対立構造はわたしの推量である。防衛利権では天下りと賄賂が棲み分けて、協力しあっているように見えた。このときも天下りは捜査の対象にならなかった。建設利権でも両者はおそらく棲み分けているのだろうが、小沢氏が自民党から出て、野党になったことで、談合システムに捻れが生じたのではないか。ともかく建設業界の天下り利権は守られていくだろう。

2009.03.07[Sat] Post 10:47  CO:0  TB:0  ワイロと天下り  Top▲

小沢一郎第一秘書逮捕

昨日(3/3)のぶら下がりで麻生首相は「個別の案件にはコメントできません」と言っていたが、いつもの笑いがなかった。もちろん法務大臣から報告を受けて知っていただろうに。コメントが終わって帰るとき、右側の頬がかすかに笑っていたような気がする。

2ちゃんねるでは古舘伊知郎がどうコメントするか話題になっていた。「仮にお金をもらったからといって何がいけないんでしょうね」というと予想されていた。

ワイドショウーを久しぶりにいくつか見た。どこがどこの放送局か知らないが、麻生のブレや読み違いにはあれほど大騒ぎしていたテレビ局も、この問題にはほぼ小沢の言い分を認めるような編集コメントだった。献金を受けた政治家は自民党にもいるのに何故この時期に小沢なのか、これは国策捜査だという。鳩山(兄)の言い分と同じだ。マスコミは自分たちで作った親小沢反麻生の世論を守ろうと、なりふりかまわない。

マスコミは検察を国策捜査だと非難するが、そう思えるのは小沢氏がほぼ確実に次期首相になると思われているからだ。しかし、小沢氏を次期首相確実にしたのは、マスコミ自身ではないか。小沢の数々の不正疑惑を意図的に隠蔽し、安倍首相や麻生首相のネガティブ・キャンペーンを執拗に繰り返すことにより、小沢氏を次期首相候補のナンバー・ワンにしたのはマスコミだ。

今回の容疑はたんなる形式犯だというが、そうではない。このちっぽけな不正疑惑の背後にはカネをめぐる巨大なスキャンダルがある。それがきちっと報道されていれば、誰も国策捜査なんて言わなかったに違いない。

だからといって、わたしはこのことで小沢氏を非難しない。麻生首相の漢字の読み間違いを非難しないように、小沢氏のカネ集めを非難しない。不正なカネは受けとらないに超したことはない。しかし、山本夏彦が言ったように、政治家がワイロをもらっても国は滅びないが、正義は国を滅ぼす。

このまま小沢氏の支持率が下がるのを私はおそれる。それではカネのために支持率が低下したことになる。そうではない。小沢の悪は、ワイロを受け取ったことではなく、サヨクの正義と結託したことだ。

われわれはカネの疑惑のために小沢支持をやめてはいけない。そうではなく、かれが国を売ったがゆえに(ちょっと大袈裟W)小沢支持をやめなければならない。

たぶん、マスコミは小沢擁護のチャンスをうかがっている。
2009.03.04[Wed] Post 18:07  CO:0  TB:0  ワイロと天下り  Top▲

「トキを焼鳥にして喰う」鳩山邦夫

鳩山総務相は名コピーライターだ。立て替え予定の旧東京中央郵便局を視察して、「トキを焼鳥にして喰う」ようなものだと言ったらしい。「花より団子」のかわりにいろはかるたに使いたいぐらいだ。

わたしはもちろん建て替えに賛成である。そもそもこういう無駄をなくすことも郵政民営化の目的だったはずだ。貴重な文化財というなら、どこかテーマパークにでも移築すればいい。でも鉄筋コンクリートの建物を移築してもあまり意味はないだろうし、だいいち新築のほうが安上がりだ。引き受け手はいないだろう。写真と設計図、資材の見本を逓信博物館に展示しておけば充分だ。

中央郵便局の建物はよく知っている。子供の頃、切手蒐集をしていて、よく中央郵便局に行ったからだ。そのころ、国電の運賃は有楽町まで子供5円で東京までだと10円だった。有楽町で降りて東京までビル街をあるき、帰りも有楽町まで歩いた。

中にはいるとホールは広く閑散として、客があまりいなかった。とても日本で一番集配数が多い郵便局とは思えなかった。ホールの端に郵趣のコーナーがあり、そこでは文化人切手がまだ額面の八円で売っていた。SPレコードを使った音の手紙のサービスもしていた。

立て替えの話を聞いたとき、いちど行ってみようと思っていたけれど、結局行かずじまいだった。懐かしいけれど、保存しろとまでは思わない。それより、新しい郵便局は、新丸ビルや東京駅といっしょにあたらしい時代の景観を作り出せるのだろうか。そっちのほうが心配だ。
2009.03.03[Tue] Post 11:34  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「拉致はカネで」小沢一郎ネガティブ・キャンペーン

今日(3/2)の産経ニュースに【民主党解剖】第1部「政権のかたち」(1)「小沢首相」は大丈夫かのタイトルでシリーズ記事の第一回目が掲載されている。産経がやっとのことで小沢一郎のネガティブ・キャンペーンを始めたということだ。

記事は「拉致はカネで」の小見出しで始まっている。2月上旬に開かれた民主党支持者の会合での小沢発言ということだが、金をカネとカタカナで書いたところがみそである。これで読者は小沢の不動産スキャンダルをおもいだす仕掛けになっている。

「拉致問題は北朝鮮に何を言っても解決しない。カネをいっぱい持っていき、『何人かください』って言うしかないだろ」

早速2ちゃんは盛り上がっている。しかし、拉致事件を営利誘拐事件と捉えたのは小沢一郎が初めではない。みんな忘れているだろうが、わたしが『なぜ、サヨクは横田早紀江さんを憎むか』で書いたように、拉致を営利誘拐にしたのは安倍晋三だ。くわしくはカテゴリー「拉致」を読んでいただくとして、ひとことで言えば、金正日は「カネ」が欲しいから拉致を認めた。そのことで拉致は営利誘拐になり、賠償金は身代金になった。だから、小沢がカネで解決と言ったのは正しい。

しかし、誘拐犯との交渉の仕方は間違っている。まず、身代金の額は重要なカードだと言うことを忘れている。それと人質は全員一斉解放が原則だ。北朝鮮は核廃絶交渉でも、小出しにして、アメリカの譲歩を引き出しているではないか。

それから、営利誘拐で一番避けなければならないのは、カネで解決することが、さらなる誘拐事件を誘発することだ。しかし、ちかごろ誘拐保険があるので、誘拐犯との交渉の方法も変わってきているようだ。

さいごに、これは国家の主権名誉の問題だということを小沢氏は政治家として心にとめておかなければならない。もちろん武力による救出のオプションもあるということだ。この点に関して自覚がある幹部は民主党のなかに一人もいない。自民党も怪しいものだ。

反麻生がブレなら、反小沢はカネということか。たぶん産経の反小沢キャンペーンは、ほかのマスコミから無視されて、失敗するだろう。

麻生首相はオバマとの会談でも青いリボンを付けていた。

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2009.03.02[Mon] Post 12:41  CO:0  TB:0  拉致問題  Top▲

『経済論戦の読み方』田中秀臣:リフレvs構造改革

この本は新入荷のコーナーではなく、経済の棚で見つけてきた。

田中秀臣氏は『エコノミスト・ミシュラン』を読んで知っている。最近はネット上で池田信夫氏と言い合いをしている。といっても名指しではないので、わたしが勝手にそう思っているだけだ。池田氏は弁護士の小倉秀夫氏とも論争(?)しているが、こちらは池田氏のほうに分がありそうだ。池田氏は小倉氏を病理学的な観察の対象としてはおもしろいと相手にしているが、ストーカーは無視したほうがいいだろう。

ところが、池田氏はリフレ批判になると、自分がストーカーまがいになってしまう。リフレ派は公共投資をすれば総需要喚起できるといっているわけではなく、デフレ下ではほかの財政政策や金融政策と組み合わせれば、すくなくとも短期的には景気刺激に効果があるといっているだけだだ。また、インタゲも闇雲にインフレにしろと言っているわけではなく、日銀はコアCPIなどを指標に適度な(2~3パーセント)インフレ目標を設定しろということで、何もハイパーインフレーションにしろということではない。

池田氏はマクロとミクロは連続したものと考えるのが世界の経済学の常識だといって、マクロ政策であるリフレやインタゲをミクロで(たぶん)批判する。批判しているように素人には思える。(これについては記事『高橋洋一と池田信夫』参照)

『経済論戦』にも『ミシュラン』にもまだ池田氏の名前は出てこない。しかし、「構造改革主義」に対する批判は、「生産可能性曲線」をつかって詳しく書かれていて、『ミシュラン』ではわかりにくかった構造改革派の欠陥もよく理解できる。

池田氏が何故リフレ派に執拗に絡むのか、まさに原理主義的な創造的破壊主義者だからだ。その意味でわたしは池田氏の主張に半ば賛同する。田中氏によれば、驚いたことに健全財政を主張する財務省ばかりではなく、インタゲを否定する日銀も構造改革主義(精算主義)、すなわちデフレこそゾンビ企業を退治するチャンスだと主張していたらしい。もちろん財務省や日銀の構造改革主義は、自分たちの省益行益を守るためであり、池田氏のような原理主義的なものではない。

原理主義者の池田氏がなぜ日銀を擁護するような発言ばかりするのだろう。たぶん、日銀の構造改革主義的な発言にだまされているのではないか。いつも鋭い分析をしてみせる池田氏もリフレ憎しのために目が曇ったと思われる。

これは半昔前(はんむかしまえ)の本だが、いぜんとデフレを脱せない今こそ読むべき本だろう。政府紙幣の発行が良いのか悪いのか判らない人、定額給付金をもらって良いのか悪いのか判らない人、小泉構造改革は良かったのか悪かったのか判らない人、是非この本を読んでくさい。


 

2009.03.02[Mon] Post 01:52  CO:0  TB:1    Top▲

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