スポンサーサイト上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。 新しい記事を書く事で広告が消せます。 『Art of our time』世界文化大賞展(上野の森美術館)絵画部門(2)ザオ・ウーキーとアンゼルム・キーファーの謎 スポンサーサイト
『Art of our time』世界文化大賞展(上野の森美術館)絵画部門(1)
ピエール・スーラージュの反イリュージョニスム
最初の廊下のところに二枚の具象画が掛かっている。一枚はホックニーの《スプリンクラー》で、東京都現代美術館でなんども見ている。もう一枚はバルテュスの《横顔のコレット》で、これは未完だそうだが、この二作品については、今、とりたて言うことはない。 第一室にはいると、おおきな抽象画が並べてあるのを見て愕然とした。どれもこれもひどくみすぼらしく見える。美術館の地下倉庫にまぎれこんだようで、以前、東京都現代美術館でみた現代アートの所蔵展を思い出した。もちろん、絵画だけのこっちの展示のほうが、立体作品と平面作品が混じった現代美術館の展示よりましだが、どちらもアウラが欠如している点では同じだ。 もちろんこれは誇張なのだが、そのありがちなつまらない抽象画に一瞬ひるんだことはたしかだ。抽象画嫌いのニョウボは勝ち誇ったように部屋の真ん中にたって、ぐるりと眺めてから、スーラージュの黒い二枚組の絵の前に立って、「出来た!」と言った。何が出来たかと思ったら、立体視が出来たというのだ。ヤレヤレ このスーラージュの《絵画,1987》は絵画ではなく、工芸品に見える。木組みの厚い板に彫刻をして、黒い漆を塗った調度品といえる。黒い油絵具はキャンバスの側面まで塗られているので、一枚の板に見えてしまうのだ。また、油絵具は光沢があり、微妙に光を反射して、漆を塗った表面を磨いたようにも見える。もちろん美しい美術品だ。 実際は油絵具で描いた表面と油絵具の凹凸が重なって出来ているのだが、近づいて見ない限り絵画ではなく「もの」に見える。この「ものに見える」というのは、現代絵画の重要なキーワードなのだが、現象学的に見れば、いくつかのレベルが区別できる。 たとえば、この展覧会に展示されているアントニ・タピエスの《大きなスレート》はモノにみえるのではなく、ものそのもの、まさにイタズラ描きをした土壁そのものです。それにたいして、スーラージュの《絵画,1987》は絵画的なイリュージョンがない工芸品としてのモノだ。また、川村美術館にあるステラのシェイプト・カンヴァスやレリーフの作品も「ものに見える」のだが、これはまた別のはなしである。 帰って、カタログを見ると、スーラージュの言葉、「私の絵画は意味ではなく、ものなのだ。」が引用されていた。ついでに、ウィキペディアの仏語版を検索したら、これもなるほどと思えるスーラージュの言葉をみつけた。 Je ne représente pas, dit-il, je présente. Je ne dépeins pas, je peins (わたしは再現しない、提示する。私は描かない、塗るだけだ。) これは現代絵画の挫折と失敗を表した美しい言葉だ。 つづく 細野豪志(静岡五区)静岡県に引っ越して、やっとのことで住民票を移した。今度はこっちで投票することになる。選挙区は静岡5区だそうだ。5区から誰が衆議院議員の選出されているのか、さっそく、ネットで調べたら、前回の衆院選で当選したのは民主党の細野豪志だった。名前の前に「あの」とつけようとしたけれど、やめておいた。ついでに見た山本モナとの写真は様になっているじゃないか。これで、次の選挙で落とすようでは静岡県民の民度が分かるというものだ。 麻生追討の宣旨(2)
麻生内閣打倒が本格化してきた。予想通りだから、もちろん、麻生支持をやめないつもりだ。漢字が読めないのはかまわない。読めたって新聞記者のように無教養なのもいるではないか。
麻生を支持したのは外交防衛の観点からだった。論文問題で田母神航空幕僚長を処分するのはかまわないが、国会で発言させないとか、退職金を返還しろとか、村山談話に反するとか、 それと対馬買い占めに関する記者会見のコメントは、韓国を刺激しないための配慮だと思うが、その後、麻生が何らかの指示を出したとは聞いていない。APECでは拉致家族会の青いリボンを付けていたのは殊勝だが、あまりはしゃぎすぎて、排出権取引やIMF出資で外貨をむしりとられないようしてもらいたい。 景気対策の議論がかしましいが、こんどの金融危機で世界が滅びるわけではない。地球温暖化で世界が滅びるわけでもない。地球を救いたいなら温暖化防止ではなく、人口を減らすことだ。少子高齢化だからと言って、何を大騒ぎしているのか。かって、日本は人口増加のためにアジアを侵略しなければならなかった。移民もした。それがやっと人口が減少していくという。めでたいことではないか。これで、日本はやっとのことで自立のチャンスがやってきたのだ。 少子高齢化はチャンスだ。30年待てば、団塊の世代はおおかた死んでくれる。それまでは少し我慢してくれ。そうすれば、人口ピラミッドも正常な形になるだろう。理想を言えば、引き続き人口を減らしていくことだ。小人口に適した経済構造にしていくことだ。 一千万人移民受け入れなんて狂気の沙汰だ。せっかくの人口減少がもったいないじゃないか。人口を増やしてどうする。そんなの環境破壊の原因だ。この移民一千万人構想というのは自民党の中川秀直氏が言っているらしいが、彼はたしか霞ヶ関解体を主張する上げ潮派だった。どういう訳か、小池百合子を連れて中国に挨拶に行った。移民でトヨタが世界一になっても日本人は幸せにならないぞ。 自民党も捩れていて、何がなんだかわからなくなってきた。それに、こんどの国籍法改正にしても、自民党のなかにも、官僚のなかにも、とんでもない人権利権屋が隠れているようだ。男女共同参画社会というのも人権利権であることを誰も指摘しようとはしない。 わたしはもともと市場原理主義者である。しかし、こんどの政局を地球温暖化と世界金融危機の眼鏡で眺めていると、どうも鎖国主義者に傾いていくようなきがする。ともかく、民主党が衆院で多数をとることだけは避けなければならない。多数をとれなければ、霞ヶ関改革はできないが、人権利権が跋扈することもないだろう。公明党が漁夫の利を得るのも困るけれど。ともかく、政界再編が起こるような選挙結果が望ましい。 江田憲司氏は民主党が勝ったほうが政界再編が起こりやすいといっているが、はたしてどうか。 『森山大道 ミゲル・リオ=ブランコ写真展』(東京都現代美術館)森山大道にはよほど縁がある。見るつもりもないのに森山大道によく遭遇する。『カルティエ現代美術財団コレクション』展で見たし、清澄白河のギャラリー村を見学にいってたまたま森山の『ハワイ』を見た。今回は川村記念美術館の帰りに、東京都現代美術館に寄ったら、『ネオ・トロピカリア:ブラジルの創造力』展との同時開催で、ブラジル人のミゲル・リオ=ブランコの東京と日本人の森山大道のサンパウロの二人展を見た。 ただ、森山大道にはスタイルがある。今回のサンパウロの写真では、むかしとくらべて、ずいぶんとおとなしくなっているが、相変わらず粒子の粗い硬調のダイドー節である。好きな人にはたまらないのだろうが、わたしには退屈なものに見える。 いろいろな加工したり、自分のオリジナルな調子をつけくわえさえすれば、写真がめでたく芸術になるわけではない。去年の『VOCA』展で蜷川実花は、例のマゼンダのフィルターをかけた(?)ような造花の写真で賞をもらっていた。そして、いまやアーティストとして活躍していることはご存じの通りだ。 森山大道は芸術家を通り越して、いまや神格化されている。去年の八月に青弓社から『森山大道とその時代』がでたことはすでに書いた。各年代ごとの森山についてかかれた批評・評論を集めたものだが、私の写真評も所収されている。そのとき、なにを書いたかよく覚えていないのだが、森山のマンネリズムを皮肉るようなことを書いたら、編集者に削除したほうがいいとアドバイスされた。スタッフが全部チェックしていて、変なことが書いてあるとクレームがくるそうだ。それに熱狂的なファンがいて、爆弾を仕掛けられると冗談めかして言われた。 それなら『森山大道とその時代』 は森山の賞賛ばかりかというと、そうではなく、ちゃんとした森山大道批判も収載されている。それも1960年代の章に収められている藤枝晃雄の『世界を等価値に見る』だ。藤枝氏の文章は、美術の基礎知識に欠けるわたしには難解だけれど、たぶん賞賛ではなく批判だろう。原稿依頼は森山氏とポップ・アートの関係を考察することだったという。冒頭の部分を引用する。 人工のイメージを現実としてとりあげる点において、森山大道は、ウォーホールをはじめとする、ポップ・アーティストと似かよっている。しかし、ウォーホールのとり上げ方がその現実の質を問題としないのにたいして、森山はそれを重視するのである。 バルトは、ポップ・アートは繰り返すことで、高級文化を破壊し、価値の転倒を行うという。ウォーホールは写真や商品のコピーや模造品を複数作って、ギャラリーに並べた。しかし、たとえば、洗剤の箱(ブリロ)の模造品のインスタレーションは、なにも、デュシャンの便器のように、価値の転倒・破壊を意図したわけではない。藤枝氏は「この作品は『普通のものが普通でなく見える』というよりは『普通のものがほとんど普通のまま見える』ことを示している。」と、別の美術評論(『現代芸術の彼岸』)で述べている。 この通俗性、平凡さ、繰り返しによって芸術の質を取り去るポップの手法は、マリリン・モンローやケネディ夫人のイメージをシルクスクリーンで複写した作品にもいえる。ここでは有名人やスターは偶像崇拝されるでもなく、偶像破壊されるでもなく、ただ、固有名詞と結びつけられた陳腐なアイコンとして、繰り返し複写されている。そのことで芸術を否定する。ポップ・アートを陳腐化する。 これがウォーホールが「現実の質を問題としない」の意味であるとするなら、森山が「現実の質を重視する」という意味もおのずから明らかであろう。森山もウォーホールと同じように複写する。しかし「かれの複写は、あるものをただ写して、その数を複数化するものではなくて、森山の解釈というべきものなのである。」(『森山大道とその時代』p32) また、ウォーホールは、すぐ飽きてしまうような通俗的なものを添加することで、芸術の質を取り除く。それにたいして、森山は、「相手が自然であれ、人工物であれ、かれは、それをかれの世界のなかに、主観的な質として把握し、作品化するのである。」(『森山大道とその時代』p42) 藤枝氏はふれていないが、この主観的な質というのが、「アレ、ブレ、ボケ、硬調」を特徴とする森山節なのではないか。もちろんこれは演歌であり、くり返されれば飽きてしまう通俗的なものだ。ウォーホールの通俗性が芸術の質を取り除くためだとすれば、森山の通俗性は写真に擬似的な芸術の味付けをするためである。これは、写真が絵画を真似ることで、芸術もどきになろうとする擬態である。 ひとは、写真を論じることに夢中で、写真がpictureであることを忘れている。 ロスコとジャコメッティヒドラさん 『モーリス・ルイス展』の記事に長いコメントありがとうございました。返事が長くなったので、記事の欄に載せます。 フッサールは図像の三層構造の分析を具象画をもとに行っています。歩いて入れる空間のイリュージョンがあるロスコの絵画は、具象画だと思っています。目で見るだけで歩いて入っていけない空間は、それが具体的な大きさを持つ生活世界ではないからです。もちろん大きさの基準はわれわれの身体です。想像的身体も大きさを持っています。知覚の身体と想像の身体は違うのです。それから没入と空間のイリュージョンの問題は複雑なので、もう少し待ってください。 抽象画のイリュージョンのまえに、彫刻とイリュージョンの問題を考えてください。彫刻はなかなか像に見えないという話はしました。彫刻を見るときわれわれはなかなか知覚を超越する(注1)ことができないので、ミニチュアはミニチュアに見えてしまいます。没入して自分の知覚的身体を消去しないと像主題が見えないということです。ドイツ語では便利なことに立体でも平面でも(彫像でも図像でも)Bildを使えます。 立体のイリュージョンについては、没頭しなくても像主題が容易に見えるのはジコメッティの『四つの小像』です。あれはほんとうにマッチ棒のように小さい像でしたが、自分の知覚的身体を消去しなくても、ふつうにみれば、そこにミニチュアではなく、等身大の人間が現れます。まさに三層構造なのです。これは、簡単なことです。小像がミニチュアではなく、遠くにいる人物に見えると言うことです。現実の知覚でも、遠くに小さく見える人物はちゃんと等身大に見えるでしょう。これはもちろん遠近法という知覚世界の構造があるからで、像ではなく、通常の知覚です。しかし、ジャコメッティの小像は違います。小像は遠くではなく目の前にあるのです。だから像客観(Bildobjekt)は小さく見えます。そして、像主題は等身大に見えます。 小像のBildsujetが大きく見えるのは、二つの理由があります。一つは、遠方からみたようにボリュームがなく、かつ滲んだように細部が省略されていること、もう一つは、小像は一つではなく、四つ並べているということです。これで、お互いどうしが大きさの尺度(人間は万物の尺度です)になって、等身大の人間(像主題)があらわれるのです。 ジャコメッティの胸像も、小像ほどわかりやすくありませんが、この知覚の距離と、イリュージョンの距離を巧みに使っているように思えます。このことは次回に。 注1:知覚している物質的彫刻を中和変容して、主題を見ること。 『モーリス・ルイス 秘密の色層』 川村記念美術館
モーリス・ルイスの《ヴェール絵画》をながいあいだ見たいとおもっていた。上田高弘が『モダニストの物言い』の中でルイスについて書いた言葉を読んだからだ。ちょっと長いけれど引用させてもらう。 美は目に見えるが、崇高は目に見えるものを超えたものだ。われわれは数学的に大きなものや力学的に強大なものに崇高性を感じる。それは自然を見ることではではなく、物自体を感得することだ。ニューマンは自分の絵を近づいて見てほしいという。川村美術館にある《アンナの光》を初めて見たときは、そのハードエッジな赤い色面の強度に圧倒され感動した。近づけば赤い空間がわれわれの身体を包み込み、焦点が定まらず、身体感覚が麻痺したようなめまいを感じる。これを崇高な感情だと言えなくはない。 一度目は、《アンナの光》は圧倒的な強度をもって崇高である。しかし、二度目は、アウラを失って、リテラルな赤い壁が眼前に立ちふさがるばかりだ。また、ルイスの半透明のヴェール絵画は色と光が交差して美しい。しかし、その自然的形象の暗示と反物質的透明性のために完全に没入することはできない。両者には、逆の意味で、マイケル・フリードのいう「抽象性」が欠けているのだ。ニューマンはイリュージョンの完全な抹殺によって、ルイスは具象性への譲歩によって、ともに「抽象性」の強度を弱めていると思われる。 「抽象性」を強めるためにニューマンはジップを描き入れたが成功しなかったと思われる。また、ルイスが《アンファールド》や《ストライプ》の絵画へと移行したのは、抽象性の問題を解決するためなのかどうかは判らないが、ヴェール絵画の美しさやイリュージョンを失ってしまい、むしろ抽象性が減少したようなきがする。 抽象の強度を高めることによって、具象性を止揚(アウフヘーベンです)したのはロスコである。ロスコの絵画は抽象画に見えるがじつは具象画でもある。ロスコの矩形は、抽象的な図形ではない。左右二本の垂直線と、上下二本の水平線に囲まれた矩形は、キャンバスの矩形の中に描かれることによって、円でも三角でも四角でもなく、この世で最も中立的な絶対的な図形になる。 ロスコの矩形を見つめれば、光がかすかに射した広がりのイリュージョンが我々を包み込む。ロスコの四角形は天地創造であり、すべての存在者をささえる大地なのだ。グリーンバーグは絵画の空間を目で見るだけのイリュージョンと歩いて入れるイリュージョンを分けたが、ロスコの空間は我々をのみこむ、没入のイリュージョンを生む。 「没入」するには特別の構えと能力が必要だと、上田氏は『モダニストの物言い』の《暗い部屋》の章で述べている。だとするなら、私がルイスの《ヴェール》画に没入出来ないのはわたしの能力不足かもしれない。いずれにしろ、絵画に「没入」するということは、鑑賞者の主観的態度ばかりではなく、絵画の構造の問題にも深く関わっているようなので、いずれ考えてみたい。 『ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情展』(国立西洋美術館)
予想どおりの絵だった。といってもつまらなかったという意味ではない。思った通り感動し、思った通り面白かったという意味だ。室内画ということで、十七世紀オランダのフェルメールと二十世紀アメリカのホッパーと並べるとそれぞれの時代と社会を表していて面白い。光と人物の描き方にも、それぞれのやり方で「写真的なるもの」の影響があるようだ。
三人の絵にはそれぞれに物語や雰囲気がある。ハンマースホイは北欧の象徴主義の作家だという。しかし、この象徴主義というのがわからない。心の内面や精神を表すのが象徴主義だというなら、表現主義だって心の内面を表している。 美学や美術史の本を読めば、いろいろ説明してあるが、何度読んでもわからない。それが絵画だけではなく文学や音楽を含めた党派的な芸術運動らしいことはおぼろげに理解できる。しかし、アナログ記号である絵画について述べようとすれば、とたんに話は難しくなる。 同じ人間の内面を表すにしても、表現主義は激しい感情を激しい色彩や形態で表現するのにたいして、象徴主義はもっと間接的な手段で人間の精神性を暗示すると言われても、イヴ・クラインのブルーは象徴主義で、ロスコの赤茶は表現主義だとは、すぐにはがってんがいかない。 ニューマンの「ジップ絵画」は崇高を表しているという。これは象徴主義なのか表現主義なのか。カントによれば、崇高とは自然の対象の中にあるのではなく、われわれの心の中にあるという。そうであるなら、具象画であれ、抽象画であれ、感情や精神や超越的なものを象徴したり表現することは出来るということだ。 ハンマースホイの静謐な室内には神が棲んでいる。と言うことはできる。しかし、これはレトリックにすぎない。絵画の真理は、絵画が表現するものや象徴するものの中にあるのではなく、物理的絵画の中に、色や線や形のなかに現れてくるのだ。そう思って、フェルメールとハンマースホイとホッパーの三人の室内画を比べて見れば、また違う絵画の楽しみを発見できるだろう。 村上隆と小室哲哉村上隆『ニッポンを主張せよ』(NHKクローズアップ現代) 《クローズアップ現代》で『ニッポンを主張せよ』という村上隆の姿を追った番組が放送された。そのホームページに番組の解説があったので、それをコピペさせてもらう。 アニメやマンガをモチーフにした絵画やフィギュアを発表し続けるアーティスト、村上隆さん46歳。その作品はアメリカで今年、日本の現代アート史上最高額となる16億円で落札。ルイ・ヴィトンから5年間にわたってデザインを依頼されるなど、世界で最も"売れている"芸術家だ。"オタク文化"と呼ばれる日本のサブカルチャーがなぜ欧米でアートとして高い評価を得ているのか。そこには欧米のアートシーンを研究したという村上さんの確かでしたたかな戦略が秘められている。日本が欧米で理解されるためには何が必要なのか、日本が欧米と勝負するためには何が足りないのか。村上さんのアート論の中には、閉塞的な日本社会への挑戦的なメッセージが込められている。 日本から世界にメッセージを発信し続ける現代アートの革命児に国谷キャスターが迫る。 (NHK『クローズアップ現代』11月11日放送)
それで思い出したのは、10年間は転売しない条件付きで売った作品を、契約に反して、英国のオークションに出品した不動産会社を訴えて、勝訴した事件だ。作品は、直径約1・5メートルの円形絵画「フラワーボール ブラッド(3-D)5」で、価格は約6800万円だったそうだが、ずいぶんと高値ではないか。村上氏は自分の作品が投機の対象にされたくないといっているが、そもそもイラストに6800万円という値段は最初から投機商品としての値段だろう。 だからこそ、村上氏は10年間の転売を禁止したのだ。すぐにオークションにかけて、50万円にしかならなかったりしたら、それこそ詐欺といわれるだろう。商売人を自称するだけにその辺の目端はさすがにきく。 村上氏は美術バブルがはじけても、自分の商品は大丈夫だと、いかに自分が優れた商品を制作しているかを力説するのだが、コンピューターを並べた工房や、従業員が大作を分業で制作している風景は、バブルそのものだ。他にもアメリカに同じような工房を持っていると言っていたし、青山にも店舗を構えたという報道があったような気がする。 小室氏の借金は18億円だったそうだが、村上隆の多くの作品も不良債権化しているだろうから、処理は早いほうがいい。所詮はイラストなのだから。 天明屋尚展「闘魂」 ミズマアートギャラリー
久しぶりに東京にやってきて、ミズマアートギャラリーで天明屋尚展を見た。ミズマはなんど来ても、場所がわからなくなる不思議なギャラリーだ。
天明屋尚は東京現代美術館の『 「日本画」から/「日本画」』展で見たはずだが、あのときは町田久美と松井冬子が印象に残って、天明屋のことは記憶にない。でも名前だけはそこらじゅうで見て知っていた。 二階のギャラリーに入ると三方の壁に絵が掛けられているが、どこか変である。同じ部屋で、同じように日本の伝統文化と現代風俗をミックスしたような山口晃や山口藍のイラスト画も見たのだが、天明屋の絵は、両山口にくらべて、どこかとってつけたようなところがあり、たとえば、ガンダムやFIFAのポスターに見られるのと同じちぐはぐな感じがする。 戦士がまたがった牛は甲冑に身を固めているのだが、どうしても民芸品の牛のように見えるのは、もちろん意図的にそう描いて、挑発しているのだろうが、そうであるなら尚更のこと、コミカルとシリアスの案配を巧みに処理する技巧が必要なのではないか。 ウィキペディアを見ると、天明屋は「権威主義的な美術体制に対して、絵で闘うことを宣言し(た)武闘派」だというのだが、そこに描かれた男たちはゲイ雑誌の挿絵のようにみえる。褌をした裸の尻はとても正視にできないようなヤクザな猥褻感がするし、入れ墨は肉襦袢のようだ。 裸の男が二本の長い日本刀を両手に高く掲げている構図は、私の美的感覚を逆なでするのだが、私のその感覚こそが、天明屋が戦おうとしている権威主義的感覚だというかもしれない。しかし、この構図のほうこそ使い古されたサブカルチャーの反権力の図像ではないか。結局のところ彼は権威主義的なジャーナリズムの美術制度に守られて、海外のジャポニスム向けの戦略を展開していることになる。これでは、「権威主義的な美術体制」と戦うことはできないだろう。 麻生追討の宣旨たわむれに、朝日新聞が「麻生追討の宣旨を下した」と書いたら、すぐに日経が朝日の宣旨に応じたのには驚いた。 日経は昨日の朝刊で、「解散先送りへ」と早期解散がないことを認め、中川秀直が解散は任期満了までないと言ったことをベタ記事で書いている。ところが今日の朝刊の二面に『解散先送りの代償』というシリーズの第一回で、 「お友達」重視 党内に亀裂も の見出しで、公然と麻生内閣の倒閣運動を始めた。しかも、安倍内閣打倒で成功をおさめた「お友達内閣」というフレーズを使ってのネガティブ・キャンペーンだ。「お友達内閣」という言葉は彼らの一種の符丁になっており、媚中反日が糾合するための合い言葉だ。 「お友達内閣」でなぜ悪いのか。志を同じくするもので「徒党を組む」のは当たり前のことだ。もし、政治的な志が異なるのに友達というだけで大臣にしたら、そのときこそ「お友達内閣」と非難すべきだろう。 派閥人事こそが、「みんなとお友達内閣」なのだ。それが可能だったのは、55年体制以降、自民党は政治理念を同じくする政党ではなく、野党を含めた利権分配の政党になってしまったからだ。そのなかで、良い悪いは別にして、初めてまともな国家観を掲げた政治家が安倍晋三だった。 だから安倍氏は自分の理念実現に都合の良い人事をしなければならなかった。しかし、いささか人を見る目がなかった。友達を選んだことではなく、無能な人間をえらんだことが失敗だった。安倍氏は朝日を甘く見ていた。 官邸スタッフに政治任用の補佐官を採用したことが、各省庁出身の秘書官をないがしろにして、お友達を重用していると、官僚のサボタージュにあった。また、総裁選を戦った保守派の麻生を外務大臣にしたにもかかわらず、おなじ総裁候補だったけれど、ハニートラップ組の谷垣禎一を入閣させなかったことがアサヒの怒りをかったと思われる。 おどろくことに、安倍内閣が『戦後レジームからの脱却』のために、教育基本法の改正、国民投票法成立、防衛庁の省への昇格、そしてもちろん公務員制度改革という大仕事をたった一年でやりとげた。官僚がもっとも反対したのは公務員制度改革であり、アサヒがもっとも反対したのは憲法改正のための国民投票法である。安倍首相が官僚とマスコミの挟み撃ちにあいながらも『戦後レジームからの脱却』を少しでも押しすすめられたのは「お友達内閣」(少年官邸団)だったからだ。 麻生首相が「お友達重視」だというのは何事かと思えば、首相の側近が早期解散を見送るように説得し、それを麻生が受け入れたのはお友達重視だというらしい。これはもちろん嘘である。麻生はご祝儀相場で冒頭解散に打って出ようとしたが、世論調査の結果が思わしくないので解散を先送りしただけである。 与党の多くも早期解散を望んでいるというが、これも日経の嘘である。公明党は知らぬが、自民党の大多数は、選挙をすれば半分は落選と言われる状況で早期解散を望むわけがない。日経自身が昨日の朝刊に、中川秀直は任期満了まで解散はないと予想していると書いているし、今日の朝刊には、細田幹事長が早期解散で大勝利できると本当に信じていたと業界団体の会合で自分の誤りを認めている。あわてて事務所を開いた議員は、ただ政局を読み違えただけだ。 それにもかかわらず、日経は何とか麻生内閣をおとしめようと、 以下のように書く。 実際、「お友達」重用があだになった例はつい最近に見られた。安倍晋三元首相のケースだ。 「安倍政権は『お友達』に汚染されていた。麻生政権も汚染されつつある。」。町村派幹部の一人はあえて激しい言い回しで、麻生氏を批判。政権を途中で放り投げた安倍元首相と似ているとの見方を示した。安倍氏は盟友を重用しすぎて、危機管理や調整が困難な問題で指導力を発揮できず、党内の人心が離反。「お友達内閣の限界」と揶揄された。 なにがなんでも麻生内閣を「お友達内閣」にしたいらいしい。でも、これじゃ、牽強付会どころか、捏造記事だ。記事にはちゃんと署名しましょう。 それにしても、なぜ彼らはそんなに麻生に解散させたがるのだろう。国民に信を問うて、ねじれ国会をただしてから、この危機に対処しろというけれど、参議院は解散がないのだから、ねじれ国会をただすと言うことは、衆議院選挙で民主党が多数派になるということだ。アサヒはいまなら民主が勝てると読んでいるわけだが、それなら同じように麻生は負ける戦を避けて、任期満了までに態勢を立て直す権利があるというものだ。それが議会制民主主義における議員議院内閣制だ。 とにかく、麻生にたいするマスコミのネガティブ・キャンペーンが始まった。いまのところ互角の戦いだ。幸いというか、ほんとうは困ったことなのだが、麻生は、安倍内閣のときように官僚を敵にまわしてはいない。安倍は官僚のサボタージュとマスコミのネガティブ・キャンペーンの挟撃によって潰されたのだ。二正面作戦は無謀なことは麻生首相はよく知っているとおもう。しかし、油断は禁物。マスコミには一億の愚民どもがついている。 麻生首相vs朝日新聞朝日新聞は今日の社説で依然として解散総選挙を主張している。民意を問えというが、いったい何について民意を問えばいいのだろう。目下の争点は経済対策だろう。しかし、麻生の「追加経済政策」はオールド・ケインジアンの財政政策だし、そもそも麻生の「生活重視」は小沢の「生活第一」のまねだろうから、小淵政権のときのような失敗を繰り返さないように、両者で話し合えば良い。 このまえの予算委員会で麻生と中川(酒)が胸に青い拉致家族の会のバッジを付けていたけれど、あれはあきらかに朝日新聞に対する嫌がらせだと、わたしは勝手に理解している。麻生は拉致問題にそれほど関心があったとは思えないが、たぶん中川昭一に言われて青いバッジを付けているのだろう。二人が並んで、仲良くしているのを見ると、なんかチンピラがやっとマフィアのメンバーになれて、祝杯を挙げに、二人でキャバレーに出かけて、じゃれ合っているようにみえた。なにを隠そう、わたしはそれ以来麻生・中川(酒)コンビのファンである。 もう麻生自民と小沢民主のどちらに投票するかの問題に関心がなくなった。今度の選挙の争点は官僚内閣制の打破でもなく、経済の問題でもなく、外交防衛そして国家のあり方が問われる選挙なのだ。そして、それは目下の枠組みから言えば、自民と民主の対決ではなく、麻生中川(酒)と朝日新聞の対決として現れている。そういう視点でこれからの政局を見ると面白いだろう。 麻生の所信表明の「御名御璽」はあきらかに朝日にたいする挑発であり、ギャグなのだ。 明日につづく。 |
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