ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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江田憲司『麻生政権打倒 私は決意した』(超人大陸)

『超人大陸ライブラリー』に江田憲司の『麻生政権打倒』という動画がアップされている。録画されたのは、総裁選のすぐあとで、まだ世論調査の結果は出ていないときだ。江田は麻生支持率が70%ぐらい行くだろうと予想して、とんでもないと、麻生政権打倒を叫んでいる。

江田氏は、橋本首相の秘書官として行財政改革に取り組んだ。しかし、選挙に負けて、結局、橋本に殉じて役所を辞めた。それなのに麻生は、経済企画庁長官として、医療費負担増の問題を大蔵省と厚生省の間で調整しようとしなかったにもかかわらず、責任をとらなかった。しかも、小泉内閣の総務大臣として郵政民営化に反対し、地方交付税削減で、地方を疲弊させたのは麻生「あんた」じゃないか。それを、橋本行革の失敗に学ばないのはバカだといって、今また総理大臣としてバラマキをしようとしている。麻生はトンスケ、ポンスケだ。官僚のいいなりで、官僚たちは麻生総理を大歓迎しているという。

江田氏の怒りには私怨が混じっているのではないか。江田氏は責任をとってやめたというが、橋本内閣の行財政改革に対する反省がない。麻生が官僚のいいなりだったというのなら、橋本と江田は官僚にだまされたのだ。中央省庁の改編をしたけれど、構造的な政官業マスコミの腐敗構造はまったくそのままだったのではないか。

わたしが言っているのは、橋本氏のODAスキャンダルのことだ。あれは単純な浮気の話でもハニートラップの話でもない。ODAというのは、世界銀行やアジア開発銀行を含めて外務省財務省の利権であり、援助金は、中国の幹部にピンハネされ、一部がリベートとなって日本の政界に逆流し、その腐敗を親中反日のジャーナリストたちは報道せず、中国情報局の手下となって、売り物の言論をまき散らして、おこぼれに預かっている。これほどあからさまな政官業マスコミの癒着があるだろうか。

これは宇野首相の三本指のまぬけな話とは違うのだ。その背後には外務省の海外援助利権がある。かれらが、橋本の愛人が中国の工作員だと知らないわけがない。勘ぐれば、チャイナ・スクールが知っていて彼女を通訳として送り込んだとも考えられる。外務省が政府の要人の通訳に悪名高い中国人女性の通訳を使うなんて考えられないことだ。

江田氏はこのことがおかしいと思わなかったのだろうか。気がつかなかったというのか。それなら露見した現在はどう考えるのだろう。だまされたと思わないのだろうか。それとも英雄色を好むとほほえましく思っているのだろうか。

江田氏は橋本氏が責任をとったいうが、ほんとうにとったのか。江田氏は通産省に戻ることもなく、三年無職だったというのだからたしかに責任を取ったといえる。しかし、橋本氏は再度総裁選に挑戦したり、歯科医師会などからのヤミ献金にかかわってきたのだ。

また、江田氏は麻生氏が官僚の言いなりだというが、安倍内閣の外務大臣として、外務省の言いなりにならず、「自由と繁栄の弧」の政策を進めたのだ。胡錦濤主席温家宝首相が国会で演説をしたときは国会議員達がスタンディング・オベーションをしていたのに、インドのシン首相のときは議席は空席がずいぶんとあった。そして新聞の扱いも胡錦濤にくらべ地味なものだったが、もちろんこれは政官マスコミの腐敗の象徴なのである。

江田氏は政官業マスコミ御用学者の腐敗構造が分かっていない。何事も私憤では真の政治改革ができないことは小沢と小泉で経験しているのではないか。私憤がないということでは江田よりも高橋洋一に期待する。

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2008.10.31[Fri] Post 01:40  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

『たけしのTVタックル』VS『たかじんのそこまで言って委員会』

この前の日曜日、テレビをつけるといきなり『たかじんのそこまで言って委員会』が映し出された。一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。Youtubeでこの番組のことを知り、静岡で放映されないのを残念に思っていた。それがいきなり飛び込んできたので驚いたのだ。

静岡第一テレビで放映されたらしいが、番組宣伝のようなものは何もなかったような気がする。そのせいか視聴率は二パーセント台で、これでは東京進出にはまだ時間がかかりそうだ。

お笑い芸人が司会している討論番組という意味では、東京の『TVタックル』に比べられるが、面白さではだんぜん『たかじん』のほうだろう。『たかじん』はウヨクの立場を旗幟鮮明にしているが、『タックル』は各政党の国会議員をならべるなど中立を装っているが、『朝生』と同じようにサヨクである。

『たかじん』のサヨク役は田嶋陽子で、『タックル』のサヨク役は大竹まことである。前者は一応はカルスタとかジェンダーで理論武装しており、後者は庶民の怒りを代弁しているつもりである。どちらもあんまり頭が良くないので、レトリックが拙く、何を言いたいのか判らなくなることがしばしばあるのはご愛敬。

それでも、田嶋氏は、三宅氏をはじめとしたレギュラーがこてんぱんにいじってくれるので救われている。というより、ウヨク的番組での自分のサヨク的役割を心得ている。それに比べ大竹氏は昔の怒りの小金治のように、一人で怒っているけれど、だれもつっこまないばかりか、自民側も民主側も、ごもっともですとニヤニヤと笑うばかり。両方の番組のレギュラーである三宅久之は田嶋氏とは喧嘩をするけれど、大竹氏には何もいわない。そればかりか、「大竹さんはすごい、わたしが地方へ講演なんかに行くとみんな大竹さんのこと褒めていますよ」と持ち上げたりする。気色悪いやい。

もっと悪いのはたけしだ。庶民の怒りをからかうのがたけしの芸ではなかったか。しかし、たけしは大竹の怒りになんのつっこみもいれない。ぼそぼそ聞こえないダジャレらしきものをつぶやいているばかりだ。番組の後、たけしとまことの二人は、タバコをすいながらその日の反省をするのだが、「こまっちゃたね」とか「なんだっていうんだろうね」とか、結局はTBSのワイドショーのパターンに終わっている。

『たかじんのそこまで言って委員会』は過激すぎて東京では放送できないそうだ。宮崎哲弥にいわせると、大阪には政治部がないが、東京には政治部があって、そこが圧力をかけるという。そもそもたかじん本人が日テレで放送するなら番組をおりると言っているらしい。

司会者としてたけしとたかじんを比べれば、東京人としてはざんねんだけれど、たかじんに軍配を挙げざるをえない。それにサブ司会者の辛坊治郎とのコンビが、たけし阿川のコンビより呼吸がぴったりで、見ていて小気味がよい。

大竹まことや古舘伊知郎の「庶民の怒り」ばかり見せられている東京人はますますバカになっていく。そういえば、橋下大阪府知事は『たかじん』出身であり、かれがあらゆる利権と戦えるのは、おそらくこの番組で鍛えられたからだろう。このまえの道路建設のための土地収用で、抵抗する幼稚園側に対して「子供をだしにするな」といったのは、まったく正しい。でも、かれらには一億の愚民どもがついていることを忘れないように。
2008.10.27[Mon] Post 01:33  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

麻生と小沢 In China

麻生首相が日中平和友好条約締結30周年記念レセプションで行ったスピーチは、媚びず皮肉らず、挨拶の形式は守って、言いたいことはちゃんと言っている。外務省の役人もやろうと思えばやれるじゃないか。スピーチの内容はもちろん、彼の態度振るまいがなかなかよろしい。生まれは良いけど育ちが悪い麻生の面目躍如である。

それにわざわざ北京にいったのではなく、ASEMのついでに胡錦濤主席と会ったというのがうれしい。しかも、北京に行く前に印度との安保共同宣言に署名するというのも愉快である。それにくらべ小沢は、訪中直前に、胡錦濤に会わせないぞと脅されて、民主党議員によるウイグル人の人権活動家による国会内での勉強会を中止させたのだ。めでたく謁見を賜って、「前例のないサービスに感謝したい」と胡主席に媚びへつらった。その場面をテレビで見たが、テロ特措法延長を頼みに来たシーファー米大使に対する虚勢をはった横柄な態度と似たような卑しさを感んじた。

よって、《麻生>>>>小沢》です。

2008.10.25[Sat] Post 14:37  CO:1  TB:0  名称未設  Top▲

日印安保共同宣言

印度のシン首相と日本の麻生首相が安保共同宣言に署名した。これは安倍内閣の外相として麻生が進めてきた「自由と繁栄の弧」作戦の一環だろう。わたしは大東亜戦争継続論者だから、印度にはインパール作戦で果たせなかった約束があると思っている。インドは自分たちで独立した。だから、遅まきながら日本はインドの経済発展に協力したいとおもう。

子供のころ、新聞や雑誌で繰り返し象のインディラとネルー首相の話を読まされた。なぜ、そんなに有り難がっているのか、子供心にわざとらしいと思っていたが、いま思えば、まだ進駐軍に支配されていた貧しい時代だったのだ。近頃の中国のパンダ外交商売と比べれば、やっぱりインディラのお返しをしなければならない。

日本人もいい加減に気づいたらどうか。テロ国家指定解除は21世紀のハルノートなのだ。すでに中国とアメリカは同盟を結んでいる。日本は日本として生き延びなければならない。でも、今回は戦争はやらない。脱亜脱米、そのためには武器なき大東亜戦争を継続しなければならない。

ニコニコでTBSラジオを聞いていたら、『アクセス』(?)という番組で、武田一顕という記者が、麻生の「自由と繁栄の弧」は「中国はずしでしょ」と言っていたが、そうではない。これまでが少し中国と韓国に深入りしすぎたのだ。東アジア共同体なんて不可解である。ヘンな奴と無理してつきあう必要はない。喧嘩をする必要もない。ほっといてくれということだ。ふつうの隣人としてつきあおう。なんなら、竹島だって尖閣だってくれてやる。そのかわり核を持つ。お願いだから、ほっといてくれ。

上野動物園のインディラの式典にワンマンの吉田首相も参列した。小沢はシン・インド首相との会見をドタキャンした。というわけで、「麻生>小沢」です。

(追記)上野のインディラは朝日新聞で、井の頭公園の花子は読売新聞が協賛したらしい。「NPO法人日印交流を盛りあげる会」のHPにインディラ物語がのっている。やっぱりわざとらしかったのだ。

2008.10.23[Thu] Post 14:27  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

TVタックル『官僚の暴走を許すな』

TVタックルを久しぶりで見た。高橋洋一がお目当てだったが、ほかのゲストの江田憲司と猪瀬直樹がおもにしゃべって、高橋洋一はあまりしゃべらなかった。猪瀬氏はすぐにモラルを振り回すので、道路公団民営化以来あまり信用していない。江田氏はいつものように麻生批判をしていた。麻生は橋本政権の経済企画庁長官として何もしなかった。官僚のいいなりで、官僚たちは麻生総理を大歓迎している等々。

江田氏の言うことは正しい。麻生は首相就任のとき、省益より国益、官僚バッシングばかりしてもしょうがない、役人を使いこなせと言っていたが、やっぱり役人のいいなりだ。タックルでは文部省や社保庁の役人が国会議員に対してふてぶてしい態度をとっているシーンが映し出されていたが、道路公団民営化推進委員会における内田副総裁の見苦しい態度を思い出す。内田は後に逮捕されるのだが、役人というのは全員が内田みたいな人間らしい。まじめな役人もいるというが、わたしは信じない。テレビカメラのまえで自分たちの腐敗をあれだけ堂々とさらけ出せるのは、官僚が国益よりも省益、省益より自分の天下り先確保を大切にしていることを、麻生が黙認しているからだ。

麻生首相では霞ヶ関の改革は無理だろう。だからといって、社保庁の解体に反対する民主党にも任せられないし、困ったなぁ。でも、今回は棄権という選択肢はない。安倍晋三の復活も橋下大阪府知事の国政転身もむりだし、やっぱり選挙後の政界再編に期待するほかないのだろう。

年金問題で桝添も長妻もなぜ国民背番号制を持ち出さないのか不思議だ。これしか解決法はないのに。

というわけで政界再編を期待して「麻生<小沢」としておきます。
2008.10.20[Mon] Post 23:05  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

『なぜシリコンバレーではゴミを分別しないのか?』瀧口範子著


シリコンバレー在住の著者が『日経パソコン』のオンライン版に書いたコラムをまとめたものだから、話題は古い。パソコンをあまりいじったことのない人にはためになるかもしれない。文章も平易だから、すぐに読める。ハリウッド在住の事情通が書いた映画雑誌のレポートがあるけれど、ハリウッドの映画界のかわりに、シリコンバレーのIT業界をレポートしたものと思えばよい。

一番面白かったのは、ローレンス・レッシグが研究対象を著作権から、政治プロセスの腐敗に変えたという話だ。レッシグが腐敗の問題に気づいたのは著作権がどんどん延長されていくのは、たんに著作権者の欲得だけではなく、政治の腐敗が原因だと気づいたからだそうだ。このような腐敗は政治の世界だけではなく、学問の世界にも報道の世界にもあるという。

レッシグのクリエイティブ・コモンズの活動は、山形浩生氏や池田信夫氏のブログを読んで知っていたが、レッシグが腐敗の問題に研究対象を変えたというのは初耳だ。そういえば、池田信夫は著作権延長の問題を政界放送界学界の腐敗としてとらえているけれど、山形浩生は創造性や販売戦略の問題としてしか捉えていない。二人はクルーグマンのことでも喧嘩をしているようだが、どうやらレッシグ理解に関しては、池田氏の方が山形氏より正しいようだ。

2008.10.20[Mon] Post 18:35  CO:0  TB:0    Top▲

藤枝晃雄『絵画論の現在』




今、藤枝晃雄の『絵画論の現在』を読み返していたら、「アンリ・マチス『ニースの大きな室内』」の章に「重苦しいテクスチュアがあれば、情念とか精神の表現がなされているというのは、誤った観念である。」と言う言葉をみつけた。これは、薄塗りや表面処理の粗雑さのためにマチスの作品を否定する美術評論家たちに向けられた言葉だけれど、桜井浜江の作品にこそこの言葉はふさわしいのではないか。

『絵画論の現在』を読むと、藤枝晃雄は単純なフォーマリストではなく、むしろ絵画の三層構造を認める現象学的批評家であることが判る。現象学的美学は表現主義と間違われるが、そうではなく、むしろフォーマリズムに近い。情念や精神は三層構造に基づいて表現される。物理的図像、図像客観、図像主題のそれぞれが情念や精神をあらわすことができる。だからわれわれは表現に目をむけるのではなく、表現以前の絵画/図像の三層構造に注意をむけなければならない。情熱ではなく赤い色を見なければならない。知恵の木の実ではなく、リンゴを、赤い円を、赤の絵具を見なければならない。現象学的還元とは絵画の三層構造に注意を向けることだ。絵が表現する情念や精神を読みとるのではなく、絵そのものを見ることだ。これが藤枝氏がいつも言っている「絵を見る」ということだと思う。

新日曜美術館は桜井浜江の人生に焦点をあわせていた。絵画が作家の主観の表現ならば、作家の人生を知るのも役立つかもしれない。しかし、絵画そのものを理解するのには何の役にもたたないだろう。

『絵画論の現在』はブログを始めるときに図書館で借りて読んだ。そのときはあまりよくわからなかった。それが上田高広の『モダニストの物言い』を通して藤枝晃雄の『現代芸術の彼岸』を読み、それまでちんぷんかんぷんだった現代芸術を理解する取っ掛かりを掴めたようなきがして、あらためてアマゾンで購入したのだ。わたしにとって、図像の現象学を絵画の現象学にするのにやくだちそうだ。また、具体的な作品論なので、アマチュアの美術愛好家にも楽しめるだろう。是非購入して繰り返し読んでもらいたい。
2008.10.20[Mon] Post 01:55  CO:0  TB:0  -藤枝晃雄  Top▲

桜井浜江

新日曜美術館で『地の底から湧き上がる力 灼熱の女流画家 桜井浜江』を見た。のっけから、壇ふみが身をよじって嬌声をあげたのには驚いた。壇ふみもそろそろ交代の時期だろ。それはともかく気になったことを一つだけ書いておく。

桜井浜江の絵は下手にみえる。もちろん本物と比較して下手に見えるといっているのではない。どんな下手な絵でもテレビ画面で見ると少しはマシに見えるものだが、桜井の絵はただただ下手に見える。

はじめはちょっと面白そうに見えた。『雪国の少年達』や『壺』は色も構図も平面的に処理された空間も魅力的に見えた。しかし、そう見えたのはNHKのカメラマンが絵をちらちらと見せたから、だまされたのだ。『壺』はなんどか繰り返し見せられたけれど、見るたび、不愉快といっては言い過ぎだけれど、だんだんと気が滅入ってきた。

抽象と具象を組み合わせたような風景画は、色彩も形も構図も奥行きもどれもちぐはぐで、何をやりたいのか分からないのではなく、むしろ作家の意図が生のまま画面を支配しているようにおもえる。

また、壺や樹のシリーズ、なかでも『樹(二)』は、抽象と具象の曖昧さではなく、絵具と絵具で描かれた主題の境界が消され、絵を見る楽しみが台無しになっている。 絵を見るということは絵の具という物質を知覚しながら、その絵の具を超越してイリュージョン(Bildsujet)を見ることなのだが、この『樹(二)』は、絵具もイリュージョンも見えない。見えるのは絵具がそのまま事物になった陶器や樹木の表面なのだ。われわれは、壺や樹木のイリュージョンではなく、陶片や木肌のフェイクを知覚していることになる。

桜井は絵具で絵を描いているのではなく、絵具細工で陶片や木肌を作っている。

もちろん本物の絵を見れば、絵具のマチエールが見えて、壺や樹木のイリュージョンが現出するかもしれない。しかし、それでもやっぱり絵画の三層構造の弁証法的緊張(注1)はないだろう。本物を見ずにこんなことを言うのは不当だけれど、抽象と具象を折衷した緊張感のない風景画や、絵画の表面と事物の表面を混乱させた絵(注2)はときどき見かけるから、たぶん私の推測はそれほど間違ってはいないだろう。

 

注1:絵画の三層構造については私のHP『絵画の現象学』をごらんください。

注2: たとえば吹田文明の《復活の日》は十字架の木材の木肌がそのままそこにあるように見える。

2008.10.19[Sun] Post 02:46  CO:0  TB:0  -桜井浜江  Top▲

上杉隆『ジャーナリズム崩壊』


図書館の新入荷のコーナーで上杉隆の『ジャーナリズム崩壊』を見つけたので、借りてきて、読んだ。どうも前回アップした私の記事を訂正しなければならないようだ。上杉氏が朝日新聞のコラボラトゥールのように見えると書いたのはまったく私の間違いでした。

上杉氏の論旨が不明確で、メディアによって微妙に態度を変えているように見えるのは、おそらく上杉氏がジャーナリストとしての分を守ろうとしているからだ。そして、NHKや朝日新聞を批判するときも、取材への対応や取材対象との癒着、あるいは記者の特権意識などを批判して、その報道内容には立ち入らない。ようするにジャーナリズムの形式的なモラルを問題にして、その思想信条を問題にしないのだ。

大連合を画策した読売新聞の渡邉 恒雄や安倍内閣のサポーターになりはてた産経新聞の阿比留瑠比記者を批判するが、中国のエージェントと化した朝日新聞をそのことで直接批判することはない。たとえば、NHK番組改変問題での朝日新聞の本田雅和記者の書いた記事を「誤報」だというのだが、これはどうみたって誤報ではなく、捏造された宣伝ビラの類だろう。

もちろん、そのあと上杉氏は、本田雅和の記事は単純な誤報ではないと、「過ちは過ちである。いくら特定の政治家が憎かろうと、虚偽の事実に拠って記事を書いてはいけない。それはもはやジャーナリストの仕事ではなく、政治活動の領域に入ってしまっている。」と付けくわえている。

しかし、よく考えてみるとこの文章はおかしくはないか。嘘を書くことがなぜ政治活動なのだろう。嘘をつくのは泥棒の始まりであって、政治活動ではない。嘘が政治活動になるのは、その嘘が政治目的のためにつかれた嘘の場合だろう。そうならばその政治目的を明らかにしなければ、この事件の意味を理解することはできないではないか。

さらに上杉は「つまり本田雅和記者も、政治目的のために『大連立』を模索した渡邉恒雄読売会長と逆の意味で、同じプレイヤーとなってしまったのだ。」(太字安積)というのだが、この「逆の意味」がわからない。いったいどこが逆なのだろう。これは逆と言うよりも、政治的目的を達成するための異なる手法というべきである。渡邉はジャーナリストではなく、政界フィクサーであり、ほらは吹くが嘘はつかない。しかし、本田は受験に役立つ朝日新聞の記者であり、真実を伝え公平で客観的な報道すると信じ込ませて、欺いたのだ。両者に逆なところは一つもない。

上杉はおそらくサヨクとウヨクの対立軸を逆の意味でといったのかもしれない。しかし、それは逆ではありません。サヨクのフィクサーもいるし、ウヨクの嘘つきもいるのだ。上杉氏がどうもうさんくさいのは真実ではなく、サヨクとウヨクの間でバランスをとろうとしているからではないか。

この本の最大の欠点はニューヨーク・タイムスを新聞の理想のように崇めているところだ。昔よくいたアメリカかぶれのようで、読んでいてつらいところがある。ジャーナリズム批判に関しては、新聞より週刊誌、週刊誌よりネットを好むわたしには特にあたらしいことはないけれど、しらずしらず上杉氏の取材したものを拝借した記事を読んでいたのかもしれない。しかし、彼が実際に経験したNHKや朝日新聞や記者クラブの話は、笑って済ませる問題ではないだろう。上杉氏が胡散臭く見えたのは、たぶん彼がまっとうなジャーナリストとして怒りを抑えているからだろう。
2008.10.17[Fri] Post 18:37  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

上杉隆「麻生官邸の崩壊」

週刊新潮の今週号に上杉隆の「秘書官の暴走『麻生官邸の崩壊』が始まった」の記事が掲載されている。安倍首相退陣で有名になった上杉隆の「官邸崩壊」シリーズだ。今度は麻生内閣官邸の崩壊を予想して二匹目のドジョウをねらっている。

しかし、この記事を読んでも言いたいことがよく分からない。昨日も国会で野党が『文藝春秋』麻生論文について執拗に質問していたけれど、冒頭解散を明言したという麻生論文は、じつは代筆した秘書官村松一郎の暴走だというのだ。しかし、解散時期に触れたことは麻生首相の自信過剰で、戦術としては問題があるが、暴走とまではいえないだろう。いわんや、村上が「十月二十六日総選挙」の誤報をした朝日新聞と通じているという永田町の噂に触れているのは情報操作としか思えない。

上杉氏はこれで麻生首相は「『解散権』は『使わない』のではなく『使えない』ことになってしまった。」と意味不明なことを言う。どうも上杉氏には胡散臭いところがあって、安倍内閣の『官邸崩壊』を書いたときも、マスコミにひっぱりだこだったが、メディアごとに微妙に言うことを変えて、結局何を言いたいのかわからないままだった。

安倍官邸が崩壊したのは、もちろん官邸が無能だったのだが、それは安倍首相が官僚とマスコミに挟撃されたからであり、それに秘書官たちが対処できなかったからだ。もちろん参議院で過半数をうしなったことや病気などもあったが、選挙で負けたのは明らかにマスコミの反安倍キャンペーンの結果だ。上杉の『官邸崩壊』は、安倍の『美しい国へ』の背後にあるイデオロギーの問題を秘書官たちの管理能力の問題にしてしまったのだ。このときほど官僚とマスコミの癒着があからさまになったことはない。

 そもそも冒頭解散は自民党総裁選のときから選択肢のひとつだったではないか。麻生が総裁選で勝ったのはなにも政策論争のせいではなく、麻生ならご祝儀相場で支持率が上がる、そこで解散すれば勝てるかもしれないと思われたからだ。だから、麻生は、「文藝春秋」の論文で冒頭解散を明言したのだ。麻生氏は自分の役割を理解していた。ところが、世論調査があまり芳しくなかった。だから解散時期を先延ばしにした。わざわざ再議決のできる三分の二の議席を放棄することはない。そんなことは権力闘争の常識ではないか。

朝日新聞だって同じことだ。いま、民主党は勢いがある。さいわい世論調査は民主党有利である。二人の首相が政権を投げ出している。これをネタにネガティブ・キャンペーンを張れば麻生なんて簡単につぶせるとぐらいにおもっていたのだ。どっちもどっちだ。

しかし、朝日新聞はなぜそんなにコトをせいたのだろう。ご祝儀相場がすぎれば、内閣支持率は例外なく下降する。それまで待てばいいではないか。急ぐ理由はただ一つ。それは麻生が中国に頭を下げないからだ。朝貢外交をしないからだ。たぶん中共からの指令が朝日の中枢に届いているにちがいない。もちろんいわれなくたって、朝日はあうんの呼吸でがってんしょうちのすけだろう。

上杉氏の言うことや書いていることが明晰ではなくどこか怪しいのは、朝日や記者クラブを批判しながら、じつは朝日新聞のコラボではないかと邪推したくなるところがあるからだ。麻生は、論文に書いたとおり、所信表明で逆質問をして、小沢と麻生のどちらを選ぶかと国民に問いかけたのだ。麻生が冒頭解散を明言したことは、軽率ではあったが、やましいところは一つもない。上杉氏は独自の取材や永田町の噂をもとに新潮の記事を書いたらしいが、安倍内閣の『官邸崩壊』と同じように朝日のネガティブ・キャンペーンに協力しているようになっているのは、かれのジャーナリストとしてのモラルが問われるのではないか。

テレビで国会論議をたまに覗くが、麻生首相は、安倍氏とちがって、明らかに朝日新聞を意識して答弁している。麻生内閣は反朝日内閣なのだ。くれぐれも注意してください。敵には一億の愚民どもがついています。

というわけで、「麻生>>>小沢」です。





2008.10.16[Thu] Post 02:18  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

麻生と小沢のバラマキ政策(麻生>小沢)

麻生のバラマキがケインズの財政政策で、小沢のバラマキが社会主義の所得の再配分であることが次第に明らかになってきた。

財政政策も金融政策と組み合わせれば、一時的な効果だけではなく、それなりに長期的にも景気回復の効果もあるだろう。しかし、投資先の選別を市場原理にゆだねなければ、霞ヶ関の既得権益や退出すべき企業を温存することになる。必要のない道路や新東京タワーに投資したりすれば、それこそ日本は破滅するほかない。

小沢はバラマキの財源を霞ヶ関の解体によって生み出すと言っている。そのことは期待できる。しかし、社会主義政策というのは、必ず新しい官僚組織と利権構造を生み出すものだ。

ケインズ主義は不景気だけで済むが、社会主義は国を滅ぼす。

 

2008.10.13[Mon] Post 15:23  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

ゴワサンで願います。[麻生=小沢]

麻生vs小沢の対決は、どちらに投票したいのか判らなくなった。所信表明や代表質問などがあったけれど、マニフェストの比較と同じようにあまり意味がない。マスコミは民主党に政権をとらせようと、早期解散のキャンペーンをしているようだが、それなら麻生の支持率が高くでるように操作すればよかったではないか。自民党の独自調査というのもでまわっている。世論調査の支持率なんか嘘っぱちなことぐらい誰でもしっている。マスコミにだまされないようにするには、ネットの情報に頼るしかないのだろうか。

麻生と小沢のどちらか、霞ヶ関をぶっ壊してくれるほうに投票するつもりだ。しかし、ことはそう簡単にはいかない。霞ヶ関の利権は天下りだけではない。官僚出身の政治家、法規制、検察の国策操作、OED、外交官の特権などなど、それだけなら麻生がいみじくもいったように、民主党に一度まかせてもいい。しかし、そうは簡単にはいかない。民主党も、日教組や自治労などの出身者が国会議員になっている。かれらは利権より特権を手にいれようと画策している。高級官僚のノーパンしゃぶしゃぶより、下級役人の人権思想のほうがずっと危険だろう。

すくなくとも政権を担当する者は憂国の士でなければならない。麻生と小沢のどちらが国士かなんて悪い冗談かもしれないが、どちらか一人を選ばなければならない。今一度50と50でふりだしにもどすことにして、これからは等号(=)と不等号(<>)でどちらに投票するか表すことにする。マスコミの偏向報道が気になるが、ひとまず「麻生=小沢」から始めることにする。

2008.10.10[Fri] Post 14:48  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

『ノーカントリー』★★★★☆

 アカデミー賞4部門を受賞したコーエン兄弟監督の新作である。コーエン兄弟の作品は他に『バートン・フィンク』と『ファーゴ』と『バーバー』を見ている。『オー・ブラザー!』も見たが、映画マニア向きの仕掛けがいっぱいあって私には疲れるばかりでおもしろくはなかった。しかし、『ノーカントリー』は『バーバー』にひけをとらない秀作である。

Googleで検索したら、前田有一の「超映画評」町山智浩の「アメリカ日記」をみつけた。町山智浩は柳下毅一郎との対談本『映画欠席裁判3』をアマゾンで買って読んだ。B級っぽい映画の雑学蘊蓄裏話をするのだが、映画への愛はとても淀川長治にかなわない。

原題は”No Country for Old Man"なのだが、町山智浩はこれがイェーツ(1865~1939年)の詩「ビザンチウムへの船出」の冒頭の引用だという。「そして、タイトルがイェイツの詩だとすれば、結末のトミー・リー・ジョーンズ(老保安官)の夢も、生と死を象徴した有名な詩を暗示していると思えてくる。」と言い、コーマック・マッカーシーの「血と暴力の国」から引用する。さらに、それだけじゃすまない。夢のなかにでてくる「雪の山道を馬で進む情景からアメリカ人が真っ先に連想するのは、アメリカ人に最も愛された詩人ロバート・フロスト(1874~1963年)の最も有名な詩『雪の夕べ、森のそばに佇みて Stopping by Woods on a Snowy Evening』なのだ」そうだ。教養のあること。

たしかに近頃の不条理な犯罪についていけなくなった老保安官の心境を描いているには違いないのだが、それを詩や小説の引用によって説明解釈するのは、映画の面白さを台無しにしてしまわないか。それに、映画の最後で保安官が引退の決意を妻に伝えるところで、夢の話をするのだが、そこが何ともこの映画の最大の欠陥になっている。夢が出てくる映画はたくさんあるけれど、夢が言葉で伝えられようが映像で示されようが、たいていはうまくいかない。たとえば『田舎の日曜日』や『野いちご』のように主人公が自分の死の夢をみるのは、とくに解釈の必要もないけれど、そうではなく、なにか象徴的な夢の話をされると、それがたとえありきたりの夢であっても、解釈しなければならなくなり、むりやりなぞなぞを出されてようで困惑する。

町山氏が書いていることは、たぶん監督や脚本家が意図したことなのだろう。たしかに、老保安官がこの映画の主人公ではあるのだが、それは、一種の枠物語であり、この映画の主人公は殺人者のシガーである。その視点からこの映画の面白さを伝えてくれるのは、もう一人の評論家前田有一だ。前田氏がコーエン監督の映画が初めての人には、この映画の面白さは分からないかもしれないというが、前田氏の「超映画評」を読んでおけば、きっとコーエン初心者にも楽しめると思う。

最初はシガーの異常な振る舞いに嫌悪を感じていたが、しだいにその不気味さに惹きつけられていった。ガソリンスタンドで亭主にいちゃもんをつけて、相手にコインの裏表を選ばせて、殺すかどうか決めるのだが、このあたりのふたりのやりとりはヒチコックを超えている。殺人者は店を何時に閉めるか、何時に寝るかを亭主に尋ねて、殺意を示すのだ。亭主の恐怖感が迫ってくる。

この不気味な恐怖感が、最後の殺人で浄化される。金を横取りした男の女房を殺しに来たシガーは、いつものように、コイン投げで決めようと提案するが、女房は拒絶する。ひょっとしたら助かる可能性があるのに、 女は「殺すか殺さないか決めるのはあなただわ」というのだ。この瞬間、それまで私の心を押さえつけていた恐怖が消えて、あとは落ち着いた気持ちで、最後までみた。

『ノーカントリー』は、主人公が同じトミー・リー・ジョーンズということもあるが『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』を思い出させる。いろいろ比較すると面白いと思うのだが、一つだけいうと、『ノーカントリー』も『メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬』も西部劇のオマージュだということだ。、『ノーカントリー』でいえば、モスが狩りにいって、丘の上から下に車が数台散らばって見えるところは、だれだってインディアンに襲われた駅馬車のシーンを思い出す。また、保安官の親子が馬にのって、車のタイヤの跡を見つけるところも、もちろん西部劇だ。

もう一度見直せば、書くことはたくさんありそうだが、そんな暇はない。どうぞ、二つの映画を見てください。それにしても、いつから西部劇というジャンルがなくなったのだろう。たぶん人種問題のせいだろう。小学生のころ、西部劇が好きなクラスメイトがいて、封切りの映画の話を休時間にみんなで囲んで聞いたっけ。あれからすでに半世紀がたった。「西部劇」ということばを聞くだけでなつかしい。

 


2008.10.07[Tue] Post 21:24  CO:0  TB:0  映画  Top▲

村山談話の継承と家族会との面会:麻生(55%)vs小沢(45%)

村山談話とその後の謝罪外交には疑問もあるが、麻生が朝日新聞の姉妹紙であるNYTimesに極右と言われているなかで、村上談話を継承するという発言は仕方ないことだろう。しかし他方では、国連演説で北朝鮮の拉致問題に触れ、拉致被害者の家族会と面会したことは、なかなかのバランス感覚といえる。

しかし、サヨクは家族会を憎悪している。拉致被害者の救出よりも、北朝鮮で飢えている人を救えといっている。仕舞いに、「戦前の植民地支配」を謝罪しないから拉致したんだと、ポストモダン風な屁理屈をいう。でもこれは身代金目当ての営利誘拐ゲームであり、プレーヤはそれぞれの国を代表する金正日と麻生首相だということを忘れてはいけない。

といういうわけで、人質ゲームのプレーヤーとして小沢より麻生のほうがマシだということで、麻生にプラス5ポイント。人質ゲームとしての拉致問題については私の記事『なぜ、サヨクは横田早紀江を憎むのか』参照

2008.10.03[Fri] Post 15:17  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

リチャード・クー:麻生自民(50)vs小沢民主(50)

産経新聞(10/2)にリチャード・クーの新著「二つの波」(徳間書店)の全面広告がでていた。キャッチコピーは「麻生新首相の経済政策の理論的支柱」にして、「日本のバルブ崩壊に対して最も的確な処方箋をしめしたリチャード・クー」だそうだ。

クーはケインジアンで、バブルがはじけたときにテレビで「真水々々」と叫んでいたのを記憶している。ともかく、小淵内閣のときの円高はマンデル・フレミングの法則通りだったし、赤字国債が、経済学の教科書に反して長期金利の上昇を生まなかったのは、日本人の貯蓄性向や郵貯簡保が国債を大量に引き受けていたからだ。また、ミスター円の榊原が円売りドル買いをして、日銀が非不胎化政策をとったので、金融緩和の効果があり、景気がやや回復した。ところが日銀が経済指標を読み間違えて、デフレにもかかわらずゼロ金利解除してしまったというのが、おおかたの経済学者の見方だろう。クーが的確な処方箋を示したという話は聞いたことがない。

こんなクーを経済政策の理論的支柱にしている麻生にはとても期待できない。政治家が金融政策よりも財政政策を好むのは、特定の業界に金を渡すことで票になるからだと高橋洋一は言う。麻生も結局は利権政治家なのだ。というわけで麻生自民にマイナス10ポイント。

2008.10.02[Thu] Post 14:30  CO:0  TB:0  名称未設  Top▲

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