篤姫・横田早紀江・小和田雅子
『篤姫』を約束通りみた。なんだか雲行きがあやしくなってきた。大奥は嫁と姑との争いになって、家定は冬彦さん状態だ。それはお約束だからいいとして、困ったのは、篤姫である。姑に家定のお渡りが邪魔されたといって、目に涙を浮かべ、妻としてだけではなく、女として会いたいなんてくちばしる。少女漫画みたいに目に星が光っていた。
まぁ、それは、しょうがない。でも、篤姫が弱くなってはおもしろくない。島津家か徳川家かなんてことではなく、この日本という国の将来のことを考えてほしい。夫の手が自分に触れたからといって喜んでいてどうする。 篤姫とちがって、横田早紀江さんは強い。当時拉致家族の会の会長だった夫の滋さんが、めぐみさんが死亡したと伝えられたあとの記者会見で、悲しみのあまり嗚咽してしゃべれなくなった。そのとき後ろに立っていた早紀江さんが、滋さんの方に手をのばした。わたしは一瞬、早紀江さんが滋さんをひっぱたくのではないかと思った。いや、ひっぱたいて欲しかった。ところが早紀江さんは、滋さんの背中をさすった。 それでも嗚咽が止まらない滋さんからマイクを奪って、早紀江さんは、「めぐみは必ず生きています。国の仕事をしているひとは返せないということだと思います。めぐみはいつか必ず帰ってくると信じて待ちます」と言った。娘の死を認めるようなことを口走ったふがいない夫を叱りつけるような毅然とした態度だった。 早紀江さんの強さは母の強さだろうか。そうではない。早紀江さんは娘の命が余計に危険にさらされるかもしれないとおもいながら、経済制裁の継続を望んでいるのだ。それは、娘を取り返すには、対話と圧力をどう組み合わせたら有効かという卑小な戦術の問題ではない。そうではなく、北朝鮮という国家に対して、日本も一つの国家として毅然と対応しなければならないということなのだ。彼女はこの30年間、金正日と人質ゲームを何度も繰り返してきた。そして、金正日相手の最良の手は強硬策だと確信したのだ。このゲームの賭金は自分の娘なんていう個人的なものではない、国の名誉国家そのものがかかっていると覚悟したのだ。 さて、最後の雅子さんである。皇太子については映画『クイーン』の記事で書いた。雅子さんに関しては次第に事実が明らかになってきた。依然として皇太子を廃太子し、秋篠宮を立太子するのが 良いと思うが、これは女系天皇に反対ということではなく、ただ、皇太子および皇太子妃が次の天皇皇后にふさわしいと思えないからだ。 それじゃ、あんまりだというなら、小谷野敦氏が『俺も女を泣かせてみたい』のなかの『天皇家は一夫多妻制を復活せよ』で提案している側室制度復活を皇太子夫妻が受け入れるなら、廃嫡しないという妥協案はどうだろう。小谷野氏のエッセイの最後のところを引用する。 「女子が皇位継承できるようにするには皇室典範の改正が必要だが、どうせ改正するなら、この天皇家一夫一妻制を改めればいいのである。これこそ『伝統』に叶うことではないか。皇族には『人権』などというものはない。そんなところへ『男女平等』を持ち込むのが、どだいおかしいのである。」 すばらしい。大賛成だ。できれば、雅子さんが皇太子に直言してほしい。毅然と。でも、皇太子は「雅子や私の人格を否定するものだ」とかいうだろうな。そうなれば廃太子にすればいい。 (一言断っておくが、小谷野敦氏は天皇制反対であり、わたしは今のところ天皇制はあってもいいと思っている。ただ、目下の皇太子夫妻の問題などをかんがえると、共和制も一つの選択肢かなとも思う。) 沖縄全戦没者追悼式
昼飯を作りながらテレビを見ていたら、NHKで「沖縄全戦没者追悼式」の」中継をしていた。当選した公募の詩を本人の小学生が朗読していた。ニョウボが居れば、すぐにテレビを消しただろうに、あいにくニョウボは孫の面倒を見るために東京に行っている。ついつい見てしまった。
もちろん詩と呼べるようなものではない。明日の新聞に載るだろうから読んだらいい。ギャグだと思って笑いながら聞いていたら、その小学生が「真実をみつめる目を持ちたい 韓国デモの不思議
韓国デモは不思議だ。他の国の北京五輪反対デモは、フリー・チベットがスローガンだった。長野でも日本人はチベットの国旗を振って、フリー・チベットを叫んでいた。ところがソウルではチベットの旗は目立たなかった。そのかわり多かったのは脱北者強制送還反対のプラカードだった。プラカードが規格化されているのだから、動員されたデモだということはわかる。べつに、世の流行にあわせろとは言わないが、少し韓国の若者はズレていないか。
そのあとすぐに米国産牛肉輸入反対のデモだった。それが、大統領選挙で圧倒的に支持されたはずの李明博の反対デモになった。そして朝鮮日報に次の記事が載った。 「大運河の建設反対」をテーマとするキャンドル集会が17日午後、ソウル広場で行われた。同集会は「狂牛病牛肉全面輸入に反対する国民対策会議」(以下対策会議)によって主催された。 同日の集会への参加者は、これまで開かれたキャンドル集会の中で最も少ない500人(警察推定、主催者側の主張は3000人)だった。対策会議が「米国産牛肉」をめぐる問題だけでなく、現政権の主要政策に対してすべて反対し、「政権退陣」を主張し始めて以来、市民たちの参加が急減している。(6/18) これでデモも沈静化とおもったが、今日の新聞には李明博が国民に謝ったという以下の記事が出ていた。 韓国の李明博大統領は19日、米国産牛肉輸入再開問題で記者会見し、1カ月半にわたるデモの原因となった米国との牛肉交渉の拙速さを認めて「痛切に反省している」などと国民に謝罪した。一方、大統領選の公約で反対論の強い「大運河構想」について「国民が反対なら推進しない」と撤回も明言。今後の国政を民意に基づき転換するとの決意を訴えた。 李大統領の牛肉問題をめぐる謝罪会見は先月22日に続いて2度目。今週末と来週に予定される青瓦台(大統領府)再編と内閣改造で求心力回復を期す李大統領が国民の理解を求めた形だが、世論の動向は依然、不透明だ。(産経6/20) 大統領がこんな簡単に公約を引っ込めていいのだろうか。そもそも米国産牛肉輸入は韓米のFTA締結の一環ではないか。停滞している韓国経済が元気になるには、韓米FTAはどうしても必要だろう。韓国は日本と比較するのが好きなようだが、日本の米国産輸入牛肉の月齢条件が20ヶ月以下だと、つまらない比較をしないで、日本よりさきに米国とFTAの協定を結んだほうが、日本を追い越すチャンスがずっと大きくなる。韓国は、日本と同じように米国から農産物を輸入して、工業製品を輸出しているけれど、自動車などはどうしても日本にはかなわない。電化製品は低廉な中国製品に追い越されそうだ。そうなら、にっくき日本よりできるだけはやく、韓米FTAを締結したほうがよい。米国産牛肉が危ないと思うなら、輸入しても食べなければいいのだから。 と思ったら、追加交渉で、30ヶ月の月齢条件を段階的に撤廃しないことを米政府が保証しろとか、あるいは米韓の業者が30ヶ月以上の牛肉を自主規制すべきだとか、いろいろ交渉をしている。たぶんこれは誤魔化しだろう。米国は月齢条件を最終的に撤廃しなければFTAを破棄するにちがいない。この協定は韓国に有利なもので、保護主義的な民主党のオバマ大統領候補はこの韓米FTAに反対しているぐらいだ。日本と中国に挟まれた韓国はできるだけはやく韓米FTAを締結すべきだ。そして日本を出し抜いてほしい。そうすれば日本も目を覚ますだろう。 話が脱線した。デモの話にもどる。もう一つの韓国デモの不思議は、このところ反日デモがないことだ。盧武鉉のときは激しい反日デモがあった。竹島や靖国で大騒ぎしていた。でも、李明博が大統領になってから竹島も教科書もあったけれど、ネットが少しもりあがった程度でそれほど大きなデモは報じられていない。李明博を親日だと言いがかりをつけることは簡単なのに、どうも反日がもりあがらない。最近も李明博独島放棄説がネットに流れたが、これも盛り上がらなかった。左翼が反李大統領運動をするなら、狂牛病より反日のほうが有効だと思うのだが、その作戦は今のところない。狂牛病で李明博は泣いて国民に謝ったぐらいだから、親日カードを使えば李大統領を追いつめることなど簡単なのに、どうしたんだろう。 『篤姫』
テレビドラマはほとんど見ない。NHKの大河ドラマと連続テレビ小説は、自慢じゃないが、見たことがない。それがどういう訳か『篤姫』を何回か続けて見た。幕末のことを知っておくのも悪くないと思って、ちかごろつまらない『新日曜美術館』のかわりにみた。これがなかなかおもしろいのだ。何がって、篤姫(宮崎あおい)が強いところがいい。それと家定役の俳優堺雅人のうつけの演技がなかなかよろしい。
ところが、ニョウボは「うつけ」とは何だと訊く。ニョウボはわたしと一つ違いだ。それなら「うつけ」ばかりか「たわけ」も「しれもの」もしっているはずだが、しらないという。たぶん、女の子と男の子は遊びが違うし、読む本などもちがったからだろう。たぶん東映映画も見ていないのだ。チャンバラをしていれば、この言葉は使ったことがあるはずだ。 それはともかく、まずいことに、『篤姫』の脚本が田淵久美子で、それを知ったニョウボが『篤姫』なんか見ないというのだ。なんでも、田淵久美子のシナリオ講座に出席したときのこと、「わたしはNHKとしか仕事をしないの」といって、自慢話をえんえんと聞かされたらしい。それに、かきなおしでホテルに缶詰だといって、講座に欠席ばかりする。出てくると大きなルイ・ヴィトンのバッグを事務員に運ばせて、あごで「そこにおいて」と言ったという。まるでテレビドラマだ。そのとき書いていたシナリオが小泉今日子が主演した『夫についての情報・病に倒れ意識不明の夫の生還を待つ妻が知った夫の真実』(芸術祭参加)だったのではないか。 そのころNHKのインタービュー番組に田淵久美子氏が出ていたが、ずいぶんと肌を見せた薄もののドレスを着て、きゃぴきゃぴと若い娘のように振る舞っていたが、ついに大河ドラマの脚本を書くまでに出世したのは喜ばしいことだ。ニョウボは見なくたってわたしはしばらく『篤姫』見るつもりだ。 家定がハリスとの接見で、歌舞伎の見得を切ったのを、小谷野敦が将軍が能ならわかるが、庶民の芸能である歌舞伎はおかしいと指摘しているのはもっともである。NHKがもちろんチェックしているのだろうから、時代考証よりも視聴率を重視するNHKの方針のためだろう。薩摩時代の幼なじみとの初恋は見ていて恥ずかしくなったが、江戸に来ての家定とのやりとりはなかなかよくできたトレンディ・ドラマだ。しかし、家定亡きあとの篤姫の魅力がどうなるやら、田淵久美子のお手並み拝見である。期待しています。 「先生、僕に『絵画』を教えてください!」
以下、ニョウボが書いたものです。前回の池田満寿夫とちがって、今回は好きな会田誠についてです。
会田誠の作品は楽しい。理解ができるように思えるし、絵がしっかりしていて安心してみることができる。複雑に見える理論もなさそうだし、そのときの気分という無責任さもないし、なにかを他人に訴えようとするつもりもなさそうだし、正直そうだし。子供の時の絵だといって展示してある絵は、実はすでに中年の自分が描いているのに、まるで疑わせないからすごい。大人が子供の絵のまねをしてもできないのが普通なのに、それができてしまう。と言うことは、そのまんまなのかなー、とも思う。小学校時代にわたしの一番きらいだった教科書の表紙、それが「書道教室」だったから、あの作品を見たとき、悲鳴をあげて喜んだ。作者がなにを思ってあの作品を描いたかは知らないが、それは私には関係ない。そして、あのどうしようもない会田誠氏の ”抽象画”を見たときはまさかと思い目が丸くなった。横にあるキャプションを読んでホッとした。そして、今回、「美術手帳」五月号「先生、僕に『絵画』を教えてください」 を読んだのだ。 ほんとうは岡崎乾二郎に先生になってほしかったがことわられ、中村一美、松浦寿夫さんと断られたと言っているのだが、、、、ほんとかなー。あんだけからかった後に、まともに面と向かってお話ができる? それだけ度胸がある? 彦坂氏は会田氏を「謙虚な人」と言っているから楽ちんかなーと読んでいくと、ところがどっこい、彦坂氏の言うことは納得できずに冷や汗をかき、話を続けられずに、そこにボケの古谷氏のさらにピントはずれに当惑して、それでも辰野氏に危うく救われて、結局はなーんにも求めるものは得られないまま講義は終わったような感じですね。 なおも苦しく四人でお絵かきをして、はいごくろうさまでした。 で、いったい会田氏はなにをしたかったのかなー。やっぱり人間は生きていくためにその世界の人々のご機嫌をとる必要性を感じたのかしら。そのへんになると会田氏はわからない。でも、「セザンヌは結局、何者なんですか?」の一言でやっぱりと思うのだ。「なぜあんなに(批評の)言葉がついてくるのかがわからない」のです。 やはり会田誠は誠実な人なのかなー。 『エコノミスト ミシュラン』田中秀臣・野口旭・若田部昌澄 バブルがはじけデフレ不況になったとき、財政政策が効果なく、そこで構造改革が出てきたようなきがするが、その構造改革も駄目だと否定する派が現れる。僕は漠然とした市場原理主義者なので、小泉の改革なくして成長なしという考えには賛成だった。 ところが、この本によると、構造改革派はマクロ経済主義に対立するミクロ経済主義であり、デフレ不況の解決にはならないというのだ。しかも、ここでいう構造改革とは規制緩和とか民営化ということではなく、日本的特殊性とかグローバル経済による中国からの安い商品の流入とか、あるいは資本主義の当然の帰結だ、貸しはがしだ、リストラだ、創造的破壊だなど、テレビで経済学者がさんざん言っていたことで、このような日本の特殊性の論争は、戦前の講座派と労農派の争いまでさかのぼると聞いて、ちょと懐かしくて笑ってしまった。 この日本的システムは素晴らしい派とダメだ派があるらしいが、どちらにしろ構造改革ではなくマクロ経済政策が必要であり、しかも、財政政策ではなく、金融政策を優先しなければならないという。そして、その金融政策も、金利や量的緩和だけではダメで、インフレターゲットを導入しなくては、デフレは脱却できないというのが、リフレ派の主張なのだ。 たしかに、構造改革も財政政策も金利政策も効果がなかった。財務省のドル買い円売りの為替介入に対する非不胎化介入で、実質的な量的緩和政策がおこなわれ、その効果なのか株価回復なども見られたが、デフレ脱却までには至らなかった。 いくらマネーサプライが増えても、インフレ期待がなく、実質金利が高いままなので、流動性の罠にはまり、投資も消費も増えない状態がつづいたというのだ。これは、インフレになると現金はババ抜き状態になって、できるだけ相手にとらせようとするけれど、デフレでは、その反対に現金で持っていた方が有利になるからだ。 日銀は量的緩和をしても、MV=PYのV、貨幣の流通速度が低下するので、デフレ対策にならないと言っているらしいが、このVは心理的なもので、物価の実際の上昇ではなく、インフレ予想だけでも人々の行動に影響を与えることが出来るということらしい。インフレ・ターゲットというのは心理的なものなのだ。 もちろん日銀はバブルやハイパー・インフレーションをおそれているのだが、リフレ政策というのは、公定歩合とマネーサプライで穏やかなインフレーションを保つことが出来るということであり、財務省の財政施策や為替政策と協調して、金融政策を行うなら、ハイパー・インフレーションをおそれることはない。 実際にはリフレ政策は採られていないので、これがうまくいくかどうかはもちろんわからない。しかし、リフレ派の主張によれば、失われた10年の問題を少なくとも頭の中ではよく理解できる。金子勝や榊原英資や森永卓郎や植草一秀などの、それから忘れてはいけないリチャード・クーや大前研一のテレビ・タレントの言うことで、頭の中がごちゃごちゃになっているが、これで少しスッキリした。 ひとつ、この本の欠点は、経済学者の考えをリフレ派と非リフレ派にわけて、非リフレ派をインフレ・ターゲットを理解していないからといって、すべて否定しているように見えることだ。インフレターゲットだって心理的なものだというのだから、とうぜんミクロの視点を無視してはどんな経済施策もなりたたないだろう。 とにかく、マクロの金融政策の重要性は理解した。日銀の役割も少しだけ理解した。新聞の読み方もかわった。先日、民主党は国民新党の反対によって、池尾和人の日銀審議委員の国会同意人事に反対すると報じられた。国民新党が反対するのには、池尾氏が郵政民営化を支持して居たからだが、民主党がこれまで池尾人事に賛成していたと言うことは、民主党が構造改革派で、インフレターゲットはもちろん、日銀の役割をあまり理解していないということではないか。(というより経済学をしっている人材が居ないのだ) この本には池尾氏の『銀行はなぜ変われないか』の評を高橋洋一氏が書いているが、その中で高橋氏は池尾氏を批判している。インフレ・ターゲッティングはなんとしてもインフレにしようとするのではないことは、そのインフレ目標政策を日本に提言したバーナキンやクルーグマンを読めば明らかなのに、池尾氏は、あたかもそういう俗流的な解釈(インフレターゲットはハイパーインフレが目標だ)があるかのように、インフレ・ターゲッティング批判をしている。しかし、池尾氏が明らかにしなければならないことは、本来の意味でのインフレターゲッティングに賛成なのか、反対なのか明確にすることだと高橋氏はいう。 そして、池尾氏が複雑系を持ち出しているのは、本来単純なインフレ・ターゲッティングの問題を、ごまかそうとしているとしかおもえない。たぶん日銀にすり寄っているのだろう。それにしても、なぜ、数少ないインフレ・ターゲッティング支持者の伊藤隆敏の日銀副総裁の同意人事が参院で否決されたのだろうか。日銀にリフレ派はひとりもいない。ここでも、日本の常識は世界の非常識ということか。
『われらの時代に』 宮台真司・宮崎哲弥東京から静岡県に住民票を移したついでに、御殿場市の図書館で貸出カードを作った。住民票を移したのは、東京の駐車場を借りておくのが負担になったからだが、図書館もこちらのほうが便利である。蔵書の数は少ないのだが、すいているし、駐車場もあるし、だいいち雑誌のバック・ナンバーが月遅れで借りられる。品川の図書館も同じシステムなのだが、月遅れの『美術手帖』が借りられたためしがない。ところがこっちではすぐに借りることができた。『美術手帖』の会田誠特集号が借りられたので、そのうち感想文を書く。 今回は宮台・宮崎の『われらの時代に』の感想を述べる。宮崎はテレビのコメンテーターとしてそこら中に顔を出しているが、宮台のことは援助交際評論家だと言うことぐらいしかしらなかったので、借りて読んでみた。 あまりおもしろくなかった。たとえば、援助交際はじつは自意識というかっこわるい問題で、そのカッコ悪いということがバレちゃって、だから若者が援交から離れていったというけれど、小林秀雄じゃあるまいしこんなところに自意識持ち出されてもこまるし、若者を理解しているという身振りがおじさん的日常まるだしではないか。 サブカルばかりではなく、天皇、国家、官僚、政治なども論じるのだが、宮崎も宮台も社会学者だから、基本的には学説類型パターンを当てはめてあれこれ品定めしているだけのように思える。たとえば、ふたりとも右翼でも左翼でもないスタンスを保とうとしているのはいいとして、西部邁や小林よしのりを自然共同体と国家を区別できないバカだとののしるのだが、その区別が西部や小林の考えの中で、あるいは宮台の思想の中でどう位置づけられるのか、いっこうにわからないのだ。そもそも、わたしには社会学や政治学というものがちっとも理解できない。こういう風に論争相手の議論を社会類型や心理パターンに当てはめて、だからおまえらはバカだというような議論を得意とするサヨク学者に、とおくには丸山真男ちかくには姜尚中がいる。 わたしがよく憶えているのは、中根千枝のタテ社会とヨコ社会で、こんな粗雑な枠組みで何でもかんでも都合よく説明するのに呆気にとられたことがある。文化人類学というが、あれはカルチュラル・スタディのハシリではなかったのか。でも「タテ社会とヨコ社会」は中根のオリジナル・ブランドだけれど、宮台のオリジナル・ブランドは何だろう。 ともかく『M2われらの時代に』がどんな本か、「『an・an』的セックスの彼岸」と「スワッパーの憂鬱」のセックスに関する二つの章を読むと良い。レヴィ・ストロースの財の交換とか吉本隆明の対幻想論とか、そのほかオージーは欲情志向でスワップは関係志向だとか二人オナニーとか、いろいろ理屈は言っているが、中味はおやじの自慢話とかわりない。オナニーの蘊蓄なら野坂 昭如の『エロトピア』にとどめをさす。 たぶんほかの対談の中味も同じようなものなのだろう。2ちゃんねるなどでは、ずいぶんと崇拝者がいるようだけれど、そんなひとは是非この二つの章を読んだらいい。マインド・コントロールがとけるでしょう。
オリンピック東京招致に賛成する(1)これまでオリンピック東京招致には反対だった。といっても反対する積極的な理由があったわけではなく、開催できるなら開催しても良いと思っていた。ただ、北京の次の次に二度目の東京に招致するのはむりだし、そんなことに膨大なお金をつぎ込むのはやめて、新東京銀行を整理することが先だろうと思った。ところが、東京が一次選考を最高点で通過したと言うニュースを聞いて、それなら招致運動をするのも無駄ではないかもしれないと思ったのだ。 |
人名索引プロフィール
Author: 安積 桂 カテゴリー最 近 の 記 事
月別アーカイブ
最近のトラックバックコメントブログ内検索RSSフィード |