ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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松井冬子と上野千鶴子

あんまりだからメモだけしておく。
ほかでもない、NHK ETV特集"醜いもの 美しいこと~日本画家 松井冬子の試み~"のことだ。おくればせながら、YouTubeで見たが、予想以上に酷いできだ。いったいNHKのディレクターはどうしたというのだ。自暴自棄になったのか。

対談相手は上野千鶴子氏(東京大学大学院社会学部教授)、山下裕二氏(明治学院大学文学部教授)、布施英利氏(東京芸術大学准教授)で、三人とも、松井芸術の神髄を聞き出そうとするのだが、そのとってつけたような質問と、とんちんかんな応答で、お気の毒に三人はバカ丸出し状態だ。

圧巻は上野千鶴子氏との対談だろう。なんでこんな人選をしたのか不明だが、たぶんジェンダー理論でマッチョたちをバッサバッサ斬ってもらうためだろう。ジェンダー理論というのは文化相対主義のヴァリエーションで、それを絵画や映像に応用したのが表象文化論だ。簡単に言えば深読みして、何でもかんでも性差別に結びつけるというのだから、屁理屈とレトリックのさえが大切だ。でも、上野先生、ぜんぜんさえていない。

オーディヤンス、オーディヤンスというのでなんか関西弁でいってるのかと思ったら、どうもaudienceのことらしい(たんなる推測)。もっとほかのフランス直輸入のキーワードをちりばめた方がいいのに、これじゃ松井冬子のナルシシズムと似たようなものだ。それより、ジェンダーと言ったあとに、脱ジェンダーと言ってみたり、いったいどっちなんだといいたいが、たぶん文化相対主義だから、どっちでもかまわないのだろう。

松井氏の美貌にたいして上野氏の知性と言いたいのだろうが、そうは問屋がおろさない。二人の知性は似たり寄ったり、スピーカーのそばにマイクロフォンを置いたように、お互いの**が増幅して困った事態に陥ってる。いつのまにか上野氏はカウンセラーになって、自分の理論どおりに松井氏に答えさせようと、「その答えじゃ満足できない」と言い出す始末。上野氏はメモをみながら質問しているのだから、あらかじめ打ち合わせをしているはずだが、松井氏そんなことはすっかり忘れている風で、上野氏の質問が理解できないのか意味不明の答、二人の会話はいっこうにかみ合わない。上野氏も臨機応変に質問すればいいのだが、ジェンダー理論は敵をののしるには便利でも、味方を理解するのは不得意のようだ。

とにかく上野氏の出した診断は「自傷系アート」だ。近頃のアートにはそういうジャンルがあるらしい。この言葉を聞いて、『GOTH-ゴス-』(横浜美術館)展で見たピュ~ぴるの作品を思い出した。これは性同一性障害者のピュ~ぴるのSRS手術や自傷行為風の変装化粧などを写した写真作品で、自分のアイデンティティを回復する物語なのだろうが、同じ意味で、松井氏の内臓絵画にも自傷的なナルシズムの側面があるのだろう。

そう思うのは、記事にコメントをくれた人のなかに、松井氏の絵を見て癒されたという女性が多くいたからだ。たぶんある種の人々にとって、松井氏の絵は「癒し系」なのだ。クリスチャン・ラッセンのイルカの絵を見て癒される人がいるように、松井氏の内臓むき出しの自傷系アートを見て癒される人もいる。そういう目的で絵を見るひともいるだろうが、私には気持ち悪いだけだ。

自傷系が癒し系の変種であることは、手近の精神分析の本をよんでください。
それから、語りの吉行和子(女優)の声は岸田今日子の声みたいでやりすぎではないか。

『松井冬子の自画像』へ
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2008.04.28[Mon] Post 18:40  CO:6  TB:0  -松井冬子  Top▲

Free Tibet

 北京オリンピックの聖火リレーが長野で大騒ぎだったらしい。赤旗を振り回している連中は、文化大革命で毛語録を振りかざしていた紅衛兵ほど狂ってはいないようだが、あれは自国の中での出来事だったけれど、今回の騒ぎは外国でやっているだけにどうも不気味である。

そうはいっても、従軍慰安婦問題で日本人を虐めた欧米人が、おなじように人権問題を持ち出して中国に難癖をつけたはいいが、思わぬ反撃にあっているのは、いい気味だと思わないわけにはいかない。とくにオーストラリアは親中反日らしいから、日本人を調査のために銛で殺すだけではなく、中国系の移民をどんどん増やして、国を活性化したらよい。

そんなことより、日本人はいつからこんなにチベットの人権問題に関心を持つようになったのだ。
ブラッド・ピットの「Seven Years in Tibet」が公開されたときもチベットの弾圧はそんなに話題にならなかった。青蔵鉄道の開通のときもチベットの発展という話ばかりだったし、NHKの激流中国『チベット 聖地に富を求めて』はチベット文化の弾圧ではなく観光ビジネスが焦点だった。

デモに行ったのは、ふだん組合に動員される人種とちがうようだが、いったいどんな人たちなのか。名古屋のデモはネットで呼びかけられた「素人デモ」(朝日新聞)だということだから、それなら長野もネットウヨたちの仲間なのだろう。もちろんネットウヨだからといってデモをしていけないということはないし、ベトナムに平和を望むのもチベットに自由を望むのもかわりはない。

街宣右翼ではなく、ネット右翼が、ナショナリズムの叫びをあげる中国人に対抗して、日本ではなくチベットの自由のためにデモをすることは、結構なことだ。ただ、わたしたちはチベットについてあまりにも知らなさすぎる。ダライ・ラマは宗教的指導者だったのだから、中共が、自分たちのチベット侵略を「解放」だと言い張るのはぜんぶが嘘だとは言えないだろう。






2008.04.28[Mon] Post 11:44  CO:2  TB:0  テレビ  Top▲

ETV特集と新日曜美術館

昨日、松井のページにアクセスが増え、夜の10時になったら、アクセス数が突然四桁の数字になった。松井で検索したらNHKのETVで松井の番組を放映中とわかった。ひとはテレビを見ながらウェブ検索をすることもわかった。炎上するのではないかと心配したが、コメントはあまりなく安心した。NHKのプロデューサーも今度は知的美人に撮ってあげたのかしら。

夕方新日曜美術館でモディリアニをやっていたが、ゲストは岸恵子だった。でも、岸恵子って壇ふみとキャラがかぶっていて、なんかふたりで張り合っているような気がして、笑えた。ついでに茂木健一郎をまぜて三人でやったら、もっと笑えたろうに。

そうそう忘れていました。NHK ETV特集のタイトルは"醜いもの 美しいこと~日本画家 松井冬子の試み~"だそうです。
〈もの〉と〈こと〉ってプレ・モダンのパラダイムみたいで、なんか腰がひけてないかぁ。
2008.04.21[Mon] Post 18:00  CO:1  TB:0  美術評論  Top▲

『ルオーとマティス』

『ルオーとマティス』展(松下電工汐留ミュージアム)★★★★☆

マティスについては、川村記念美術館の『マティスとボナール』展の感想といっしょにニョウボに書いてもらうことにして、ルオーについての印象を忘れないうちに書いておく。

若い頃は、ルオーはどちらかといえば好きな画家だった。もちろん後期の太い黒の線と厚塗りのフォーヴ的なところが好きだった。ブリジストン美術館に見に行ったし、中国地方に旅行したときもわざわざ大原美術館に見にいった。ルオーというカレーライスを食べさせる喫茶店もあった。ルノワールと同じように喫茶店の名前になるぐらいだから、日本では人気があったのだろう。

その後ルオーにはあまり関心はなくなった。白樺派的なものやキリスト教的なものが影響したのかもしれない。ルオーの展覧会や雑誌の特集があっても気にとめなかった。今回の展覧会もマティスとの二人展でなければ、行く気にはならなかったろう。

でも、行ってみたら、面白かった。初期のデッサンはマティスよりおもしろいし、ヌードはあきらかにルオーのほうが優れている。水彩の《娼婦ー赤いガーターの裸婦》は解説に「醜い中の美」と書いてあったが、醜いところなんかひとつもない。傑作だ。

ところが、後期の厚塗りの作品がちっとも面白くないのだ。線も色も死んでいる。大小の遠近法も何の効果も上げていない。表現主義なところもせいぜい漫画的な手法にしか見えない。少しがっかりした。

帰宅してからも、なぜルオーがこんなにもつまらなく見えたのか理由が分からなかった。松下電工がだまされて駄作をつかまされたのではないかとも考えたが、パリ市近代美術館やルオー財団から借りうけた作品も多数あるから、だまされたというのは当たらない。

いずれにしても、若い頃はマティスより優れていたルオーが、年をとるうちに次第にマティスに追い抜かれていったと考えざるをえない。ルオーは絵を描く技術はマティスより優れていたのだが、絵を見る目が劣っていたのだ。それで、表現主義的な主題になるにしたがって、絵に形式的な緊張がなくなっていったのではないか。反対にマティスは技術的な修練を積み重ねる中で、線とか面とか色というものの本質を掴んでいったのではないか。二人を年代順に見ていくとそうとしか思えない。

ルオーの後期の絵が緊張に欠けて見えたのは、マティスと比較したからではないか。マティスも黒い線を使っているのだが、ルオーのような輪郭線ではなく、素描の線になっている。マチスの《黄色のドレスとチェックのドレスの娘》を見ると、黄色の椅子に座った黄色のドレスの娘は、黒い線描で描かれているし、赤い壁紙を背景にした赤いブラスを着た娘も黒い線で描かれいる。しかし、娘の桃色の腕が赤い壁紙を背景にしているところは、同じ色ではないので境界がハッキリしているからだろう、黒い線はない。また、《赤い室内の緑衣の娘》では、テーブルの脚や観葉植物の茎が、クロッキーのような素早い黒い線でデッサンされている。それに対してルオーの黒い線は色面を囲む輪郭線であり、よく言われるようにステンドグラスのような装飾的な平面になっていて、マティスのような線と色彩の面白さはない。

もちろん、これはカタログを見てのわたしの思いつきで、展覧会場で感じた失望の本当の理由なのか自信がない。そんなことより、モダニズムの一つの達成であるマティスと比べれば、大抵の画家は凡庸ということになるのだろうから、これでルオーを二流の画家だと言うことはもちろんできない。

近頃、企画不足のせいか、たとえば『ジャコメッティと矢内原』のような気の抜けた二人展が多いが、この『ルオーとマティス』展は、モダニズムを理解するのに大いに役立つし、なによりも見ていて楽しい展覧会になっている。とりわけマティスが分からないと嘆いている人には必見である。
そういうわけで星四つ半★★★★☆の大盤振舞です。




2008.04.20[Sun] Post 13:38  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

白髪一雄氏死去

日本の抽象画

白髪一雄が83歳で逝去した。白髪の作品はいろいろな場所で見た。なぜ、こんな絵の具の固まりをこすりつけたような絵を珍重するのかわからなかった。たまたま埼玉県立美術館の常設展示で学芸員が、白髪はロープにぶら下がって足で絵を描いたと解説しているのを聞いた、なんだ、手じゃなくて足で書いたから芸術なのか、それじゃ、象が手じゃなくて鼻で描いた絵も芸術だとあきれかえった憶えがある。

白髪の絵ばかりではなく、日本人の描いた抽象画のおおくはつまらない。なぜ、つまらないのか分からなかったが、先日、川村美術館でニューマンの《アンナの光》を見て、突然理解した。日本人の抽象画がつまらないのは、要するにイリュージョンがないからだ。もっと正確に言えば、反イリュージョンがないからだ。

絵画のイリュージョンは、錯視 (optical illusion)ではない。知覚に基礎づけられた想像なのだ。あるものを知覚するということは、その知覚しているものと同じ空間に観者が属しているということで、これは対象がリンゴでも絵画でも人間でもおなじことだ。ところが絵画は知覚されるだけではなく、知覚されたものを通して(中和変容して)イリュージョン(image,Bildsujet)が現出する。

《アンナの光》が知覚されるだけの事物(キャンバス、絵の具)で、イリュージョンがなければ、それは赤く塗られたただの壁である。赤い壁はわたしをさえぎり、わたしの身体を取り囲む。知覚された平面は平たい立体なのだ。ところが、この赤い物理的平面(壁)が赤い空間のイリュージョンを生めば、その空間は想像された空間であり、われわれの身体が属する空間から切断される。さらに、赤い平面は事物として知覚されるのではなく、焦点の定まらないぼんやりとした赤い広がりにみえることがある。これは知覚のひろがりでもイリュージョンのひろがりでもなく、錯視に似た空間であり、われわれの身体とは両義的な関係にある広がりなのだ。(この擬似的な錯視をロスコは部屋を暗くし、明暗差や色相差を少なくすることで実現している)

《アンナの光》は、この三つの空間が絵画の三層構造のなかで戯れており、絵画の空間とインスタレーションの空間が対立し宥和して独自の空間意識を生んでいる。

ところが、白髪の抽象画にはこのような反抽象性が欠けている。白髪の抽象画はロスコやニューマンよりもポロックに近い。ポロックの抽象画も同じように反抽象性が欠けている。イリュージョンへの誘惑も拒絶もなく、ただの模様図形パターンになっているのではないか。そのことはともかく、白髪は抽象画のイリュージョンの問題を理解せず、ただ、画家の主体性を消去するとか、描くのではなく絵の具をこすりつけるとか、キャンバスを床に置くとか、ロープにぶら下がってアクションをするとか、ポロックから派生したと思われる手法で制作したのだ。それでつまらない抽象画ができたのではないか。

他の日本人の抽象画はたいてい海外作家の手法や理論のバリエーションを考え出したり、あるいはもっと直接的にいえば、表面的な図形やパターンや色彩の模倣をしたり、さらに日本的な味付けをしたりして制作するのではないか。だから、かれらの抽象画には表現主義的な象徴性があっても、反抽象的なイリュージョンがないので見ていて退屈なのだ。

白髪以外でも、これまでブログで取り上げた李禹煥、吉原治郎、大竹伸朗など、中村一美を除いてみんな面白くなかったのはたぶんそんな理由ではないか。会田誠の《浅田批判》は岡崎乾二郎のパロディなのだが、その岡崎の作品を『わたしいまめまいしたわ』展(東京国立近代美術館)で見たけれど、案の定つまらん絵なのはいいとして、たぶん本人が書いたのだろうページの下に、世界の最先端をいくらしい絵画の理論・手法が書かれている。それを引用する。


「ディプティック(二幅対)の絵画作品。右と左のキャンパス間には、複雑かつ厳密な呼応関係が見出される。たとえば色彩やマティエールの異なる同一形態の反復。あるいは一方のキャンバスに「図」として現れた筆触が、もう一方では、おなじかたちの「地」としてあらわれるなど。左右のキャンバス間の呼応関係を追い求めるように視線の往還を繰り返すうち、観者は、個々の筆触が置かれた位置、物理的な枠組みとしてのキャンバスといった「場所の固有性」を、識別することが困難になるようなめまいに見舞われる。」

いったいわたしにどうしろというのだ。いわれたとおりにしてめまいを感じてみろというのか。そんなことしなくても、この文章を読んだだけでめまいがしてきたぞ。どうしてくれるんだ。

これだけではない。それぞれの絵には詩みたいなキャプションがついているし、ページの上のほうには、自分が書いた『ルネサンス 経験の条件』のあとがきからの引用を掲げているのだが、ヴィトゲンシュタインのクオリアに関する言葉を引用して、逆説(?)と同語反復と偽の問題をまぶしたような文章で、わたしにはいっこうに意味が分からない。岡崎氏は美術評論家としても活躍しているらしいが、作家が自分の作品を批評する特権を持っているとは思えない。

会田氏がパロディで岡崎氏を批判しなければならなかった理由がよく分かる。

会田誠の《浅田批判》へ
2008.04.11[Fri] Post 13:50  CO:4  TB:0  -白髪一雄  Top▲

吹田文明(2)

かわせみさんという人からからコメントをもらった。返事が少し長くなったので、コメント欄から転載しておく。

かわせみさんのコメント
「私は吹田さんの展覧会を見ましたが、彼の版画には衝撃を受けました。
いまだに現役で、あそこまでのものを生み出す人はそうそういないでしょう。
今ならまだしも、作品を作り続けて何十年になるのですから時代の先をいった作品だと思います。
少し、この評価は低すぎるのではないでしょうか?
私は、皆さんに見てほしいですね。」


わたしの返事
「かわせみさん たしかに不当な評価かもしれません。でも、ブログに書いたように、わたしには木版画の面白さがわからないということなのです。詳しく書くと長くなるので、また、べつの機会にしますが、他の人が吹田氏の美点だというところが、わたしはそのまま木版画の欠点だと思っているのです。これは、小学生のころ木版画に感じたことです。あのころ新聞に小中学生の版画がよく掲載されていました。わたしはいつもそのつまらなさに腹を立てていました。そのことを吹田氏の作品を見て思い出したのです。だから余計厳しい評価なのです。ごめんなさい。

去年の東京アートフェアで吹田氏を見かけました。松田正平を展示している瞬生画廊で記帳していたので判ったのです。背の高い、画家ぶったところのない人でした。声をかけようと思ったのですが、ブログできびしい評価をしていたのでやめました。ちやほやされている芸術家ではないことは作品を見れば判りますが、やっぱり低い評価は悪口だと思うでしょう。

吹田氏が奉職していた品川区の小学校は、わたしが通っていた小学校のすぐ近くでした。わたしは、図工クラブに属しており、顧問のS先生はいつもわたしの作品を褒めてくれました。それと、図工準備室の掃除当番のとき先生のヌード作品を見ましたが、つまらない絵だったので、あーぁ、先生は才能がないんだと、ちょっとがっかりしたことを憶えています。それで、わたしのならったS先生のことを知っているかどうか吹田氏に聞いてみたかったのです。

かわせみさんは吹田氏のファンなんですね。残念ながらわたしは木版画が好きになれませんが、吹田氏が好きなひとがいるということは、なんかうれしくなりますね。でも評価を変えることはできません。この美術展評は少しだけれどココロザシがあるのです。」



2008.04.10[Thu] Post 15:44  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

長井健司さんは英雄か?

ピュリツァー賞の速報写真部門で、ミャンマー(ビルマ)の反政府デモを取材中に射殺された長井健司さん(当時50)の写真を撮影したアドリース・ラティーフさん(34)が受賞した。(asahi.comより)

わたしはこの授賞に反対である。理由は二つ。一つは、『白豪主義者たちの偽善』に書いたように今年のもっとも優れた報道写真は「ラッド首相とアボリジニの記念写真」だということ。二つは、『サフラン革命』でかいたように長井健司さんを英雄にしてはいけないということだ。

授賞理由は何だろう。まさか間抜けなジャーナリストの間抜けな死にざまを天下に知らしめたからではないだろう。長井健司さんは危険を冒していったいどんな真実を伝えたかったのだろう。かれはイラク戦争でフセインの銅像が引きずり倒されるところを撮ったという。しかし、あの写真はアメリカの侵略を正当化するに役立っただけではないか。アメリカがお膳立てしたヤラセだったという噂もある。

それなら、長井さんはミャンマーでどんな真実を求めていたのだろう。MI6とCIAの情報操作の中でなんの疑問なく、デモ隊の尻を追っかけていて殺されたのだ。政府側が破棄したというデモ隊の映像にはおそらく真実は何も写ってはいない。ただイラクと同じようにCIAに好都合な映像ばかりだろう。そして、CIAの思惑どおり長井さんはカメラの前で銃殺され、その写真が今回ピュリツァー賞を受賞したというわけだ。撮るつもりが撮られる側になったのだ。

長井さんは英雄なんかではない。あるブログに「ロバート・キャパによろしくお伝えください。」という言葉があった。とてもいい言葉だと思うけれど、キャパの《ある兵士の死》はヤラセだったのだ。でも、写真界はいまだそれを認めようとはしない。

(長井さんが殺される前日に撮ったビデオにはとても貴重な映像が映っている。これは長井さんの名誉のために付け加えておく)
2008.04.09[Wed] Post 20:53  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

『ロスコ・ルーム』

『ロスコ・ルーム』のリニューアルは失敗か?

川村記念美術館に『マチスとボナール』展を見に行った。『ロスコ・ルーム』がリニューアルされ、『ニューマン・ルーム』があたらしくできていた。まず、『ロスコ・ルーム』の感想を述べる。

部屋に入ったとたん、以前とはまったく別の展示になっていたのに驚いた。これでは、学芸員がロスコの解釈を変えたとしか思えない。わたしは、新しい方が良いと思うのだが、ロスコ自身がこの『ロスコ・ルーム』をみたら、たぶん、怒りだすと思う。

『ロスコ・ルーム』の照明については以前書いたが、ロスコ自身が照明を暗くしてほしいと言っていたのは有名なはなしだ。そのことはともかく、Wikipediaにロスコの言葉が載っていたので、その一部を訳しておく。(訳はごまかしてあります。)


「 わたしは抽象画家ではない。形と色のあいだの関係に興味があるわけでもない。私に関心があるのは、悲劇や恍惚や運命などの人間の根元的な感情を表現することだ。」
「芸術家の役目は、もちろん、これまでずーっとイメージを作ることだったが、時代によって求められるイメージは異なっていた。こんにち、われわれの情熱は色あせ、ただ悪から逃げようと絶望的に試みるだけの狂った時代では、強迫的で、地底の標識のようなイメージ(our obsessive, subterranean and pictographic images)が、われわれの神経症的時代のまさにリアルな表現なのだ。わたしにとって、いわゆる抽象画と言われるものは、まったく抽象的(あいまい)なものではなく、その反対に、抽象とはわれわれの時代のリアリズムなのだ。」
「わたしの絵は大きくて色彩豊かで額縁がない、それに美術館の壁はたいていとてつもなく巨大なので、私の絵がその広い壁の中におかれると装飾的なものになってしまう。これは私の絵の意味を歪める。というのも、私の絵はintimate and intense(訳せない)であり、装飾的なものとは反対のものだからだ。」
「人々が私の絵を見て泣き崩れるのは、わたしが人間の根元的な感情をつたえているということであり、また、わたしの絵のまえで感動し涙を流す人たちはわたしがその絵を描いているときと同じ宗教的経験をしているということだ。もし、その感動が色彩の関係から生まれる(造形的抽象画のように:安積注)と言う人がいたら、それは思い違いというものだ。」


自分の絵がobsessive, subterranean and pictographicだとか、intimate and intenseだとかよくわからないことをいっているが、ようするにロスコは自分の絵がリンゴとか女神とか色と形の関係とかそういうものを表すようなふつうの絵ではないといってるのだ。そうは言っても、絵というのは知覚されるものだ。その知覚された物質的なものに基礎づけられて、像あるいはイリュージョンが生まれるのだ。ところがロスコはこの知覚される色や形や物質的なものを自分の絵画から閉め出そうとしている。

表現主義というのは作家の内面を目に見える形にする。ムンクは人物の表情で現代人の不安を表現した。カンディンスキーは色や形で生のリズムや喜びを表現した。そして、ロスコはより根元的な宗教的感情をあらわすために、目に見える図像や色や形をキャンバスから追放する。神が目に見えないように、ロスコの絵は目に見えない。

ロスコは明度差や色相差の少ない暗い色を塗る。それを暗い部屋に展示する。四角いキャンバスに四角い枠(グリッド)を描く。枠の輪郭はかすれ、ぼやけ、にじんでいる。枠はゆがみ、キャンバスの重心からはずれている。それは不安定であり、かすかな動きをはらんでいる。視線はただ薄暗がりの中を曖昧に揺れる。そのうち、明度差も色相差もぼんやりとあらわれて、わたしたちの身体は部屋の暗がりに溶けていく。

ところが、あたらしいロスコ・ルームにはそんな曖昧さは消えている。部屋は以前より大きく、天井もいくぶん高くなったような気がする。絵と絵のあいだの白い壁が広くなり、ロスコがおそれたように、絵が壁の装飾になっている。照明はやや明るくなった気がするが、天井から壁に向かって下方に照らしているので、絵が下にいくほど暗くなり、キャンバスの影が絵の下にくっきりとできている。この黒い影は、ロスコの絵を壁画ではなく、イーゼル画にしてしまっている。

絵が額縁に納められていないので余計に、影が絵画の物理的層をあからさまにして、キャンバスは厚みのある四角い物体に見える。絵画の物質的表面を知覚するのは相変わらず難しいが、さらに、前後左右に動きながら絵を見ると、すこし光沢のある表面が照明を反射し、反対にマットな部分は光沢のある表面よりも沈み、あるいは浮かんで、知覚することができない。

あるいは、四角いキャンバスの中に四角いグリッドを描いて、図と地の関係を壊し、ついでに進出色と後退色の関係を曖昧にする。もちろんすでに述べたように明度差や色相差を小さくしたり、そのほかいろいろな知覚心理学の錯視やらを利用しているように思える。ロスコは絵画の物理的層をまともに知覚できないような手品を使って壁画を描いたのだ。(表面色と平面色についてはカタログの鈴木尊志の解説参照)

露骨に錯視を使った現代絵画はある。有名なのはオップ・アートだろうが、シーグラム壁画は単純な錯視ではない。いろいろな視覚現象を利用しているらしいが、その手品の仕掛けを、リニューアルされた『ロスコ・ルーム』は、一部だけれど、種明かししてくれる。

それなら、『ロスコ・ルーム』のリニューアルは失敗なのか。たしかに、聖なるものを世俗化したといえるかもしれないが、わたしにはこっちのロスコのほうが面白い。新旧両方の展示とも感動には少したりないが、リニューアルの部屋は、少しだけだが、手品の種明かしがされているぶん、感動とは言えないまでも、絵画の楽しみは増えている。良くできた手品は種明かしされてもやっぱり面白いものは面白いのだ。

もし、《シーグラム壁画》が人間の根元的な感情や宗教的体験を表しているとしたら、それは象徴作用によるのであり、絵画の三層構造によるのではない。象徴作用は、物理的層や図像客観や図像主題のそれぞれから生まれるのであって、絵画本来の三層構造の緊張関係からうまれるのではない。たとえば崇高という感情は、ニューマンのカラー・フィールドにも、マレーヴィッチのシュプレマティズムにも、フリードリッヒの風景画にも、在ると言えばある。しかし、それが絵画として面白いかどうかはまた別のことだ。

ロスコの《シーグラム壁画》はニューマンの《アンナの光》とは異なった方法で、絵画の知覚構造を解体し、絵具と色彩と形を媒介に宗教的体験を表現し得たといえるのかもしれない。しかし、それは絵画の知覚を犠牲にした一種の神秘的体験ではないのか。吾見る故に吾在り、知覚が解体したとき、われわれの主観は解体し、世界が崩壊してしまうのではないか。

一言で言うならば、《シーグラム壁画》には具象性が欠けている。東京都現代美術館(『マーク・ロスコ展』96年[注1])の明るいギャラリーで見たロスコは、はっきりと知覚できた。四角いキャンバスに描かれた四角い平面は、われわれが歩いて入っていける(グリーンバーグ)具体的な空間の広がりとなり、まるで天地創造によって誕生した広大な大地のように見えるのだ。

『ロスコ・ルーム』のリニューアルは失敗だったのか、それとも成功だったのか。もし、ロスコに宗教的体験を求めるなら、以前の狭く間接照明のロスコ・ルームが良かった。でも、ロスコ芸術の秘密をしるには、あたらしロスコ・ルームが役に立つはずだ。そして『ロスコ・ルーム』だけではなく、『ニューマン・ルーム』も併せて見れば、たぶん抽象表現主義からミニマル・アートへの現代芸術のキーワードである平面性や身体性や演劇性を理解するのにおおいに役立つだろう。

そういう意味で、川村美術館の今回の『ロスコ・ルーム』のリニューアルは成功だったといえるのではないか。

注1:カタログによるとシーグラム壁画も展示されていたらしいが記憶に残っていない。







2008.04.02[Wed] Post 23:02  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

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