ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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大納会と茂木健一郎

 今年の東京株式市場の大納会のゲストとして脳科学者の茂木健一郎が招かれたという記事(産経新聞)を読んで笑ってしまった。茂木は怪しいベンチャー企業の目論見書みたいな論文「クオリア宣言」を書いた人物だから、これはもちろん東証のジョークにちがいない。 茂木のスピーチは「株価は先を見通すことはできなが、未来をつくる、来年を明るくするという意志を持って前に進むことが大事」だそうだ。茂木のお粗末なレトリックの垂れ流しは何とかならないものか。アートでもビジネスでも株でもいつも同じようなことを言っている。 それより小島よしおを呼んで、「サブプライムローンが先行き不透明だって、でも、ソンナノカンケーネー、ソンナノカンケーネー・・・・・・・・オッパッピー」とやってもらえばよかったのに。

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2007.12.29[Sat] Post 12:12  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「神世界」の書

 霊感商法の神世界が、「力」と大書した紙入りのお守り袋を10万5000円で売っていたと世間は騒いでいる。写真で「力」という文字を見ると、こういうのは美術界ではヘタウマと言うのではないかと、おもわず笑ってしまった。霊験あらたかなんて言わずにアートだと言っておけば強制捜査なんかされなかったのに。ドジなこった。
 しかし、書をアートだというのはそろそろ終わりにしたらどうだ。NHKなどでは何年かおきにいま注目の新人とか称して若手の書家を紹介するが、たいていは太い筆を持って紙の上を走り回っているだけだ。
 書というのはどうもう霊感商法くさいくてやりきれない。相田みつを読めばたちどころに良い人になれそうだし、いま産経新聞に連載している「きょうの言葉」なんてやたら文字がかすれていて、すぐにでも教養が身に付きそうだ。そして究極の書と言えば、李禹煥の「余白の芸術」だろう。眺めているだけで悟りが得られる。
 李禹煥の記事へ 
2007.12.27[Thu] Post 01:09  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「クィーン」

「クィーン」★★☆

 映画の作りとしてはテレビドラマ的である。ブレア首相がダイアナ妃の死に弔意を表すようにエリザベス女王を説得するまでを、いろいろなエピソードを交えて描く。その製作意図はわれわれ日本人にもわかるが、どうもエピソード自体がトレンディ・ドラマ風で特別面白いわけではない。それでも最後まで飽きずに見た。2007年アカデミー賞で主演女優賞を受賞したヘレン・ミレンの演技はうまいのか下手なのかよくわからない。しかし、後ろ姿を映して、脚が太いところを強調していたのは余計ではないか。
 下世話に言えば、女王よりダイアナ妃の方が人気が出てしまったということだろう。イギリスの王室がどんな歴史的現代的意義を持つのか知らないが、ダイアナ妃が王室のメンバーとして敬われるのではなく、パリス・ヒルトンのようなセレブになってしまったということだ。
 女王が王室の領地で夫の鹿狩りから大鹿を逃がしてやったけれど、結局、捕獲され血抜きをされている大鹿を小屋に見に行くエピソードが出てくる。これはダイアナ妃が王室の狐狩りの伝統に反対したという話を思い出す。女王はダイアナ妃とは違って、動物愛護ではなく、英王室の主人としての務めを果たした。動物愛護なんて天皇が田植えに反対するようなもんだろう。どうなんだろう。
 そうは言っても、日本の皇室もちょっとおかしなことになっていないか。皇太子の例の「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」という発言は、人格とかキャリアとか、どう考えたって、いずれ天皇になる方の発言とは思えない。こんなことでは、そのうち人権とか民主主義とか言い出すのではないかと心配になる。
 もし、皇太子がそのようにお考えなら、すぐに皇籍を離脱し、雅子様は外務省に復帰するのが最良の方法だろう。
 ブレア首相を演じたマイケル・シーンがミスター・ビーンのように目玉をギョロつかせる演技は、ヘレン・ミレンの大根足とともにどうもしっくりしなかったので★二つ半
2007.12.22[Sat] Post 00:40  CO:0  TB:0  映画  Top▲

年金不信

 昨日、新聞を読みながら、朝のワイドショーを見ていたら、コメンテーターの寺島実郎が、年金のことで、公約かどうかはもういいから、誰が入力したのか、データがどう合わないのか具体的に精査して責任を明らかにしなければならないと、しごくあたりまえの意見を言ったら、隣に座っていた江川紹子が、すぐに寺島の言ったことを否定するように、首相の言葉は軽い、公約は公約だから、それがいい加減では、私たちは何を信じていいのか分からなくなるとお茶の間の正義を振り回したのには驚いた。ジャーナリストの言葉はかくも軽いものらしい。
 わたしは年金の名寄せの話を聞くたびに、いったいデータ・ベースのシステムはどうなっているのか誰も説明してくれないので、イライラが募った。開発を請け負った会社にちゃんと説明させたらいいじゃないか。あるいはジャーナリストが調べればよい。
 データ・ベースを構築するときは、あらゆることを想定して作るのだろう。作った後も試用しながらチェックするのだろう。たとえば、名前はカタカナで入力するようになっていて、漢字の読み方を間違えると名寄せができなくなるというが、これはおかしな話で、名前だけで名寄せをするなら、同姓同名の人間なんてごまんといるのだから、たとえ読み方が正しくても名寄せなんかできっこないだろう。それに戸籍は漢字だけで読みがないのだから、住民票とも突き合わせることも出来なくなる。どうやって身分証明をするのだ。
 昔の運転免許書は姓名がカタカナのデータで書かれていたが、正しい読みではなく、漢字が判るような読みで入力されていた。いまは漢字のデータになっているだろうが、変換は簡単に出来たろう。それで面白い話があって、10年ほど前にスピード違反で捕まったことがある。そのとき運悪く、免許書も携帯していなかった。それで、新米の婦人警官が無線電話で確認してくれたのだが、見つからないという。免許は何処でとったのか、というので東京の鮫洲だといっても、おかしいなと言いながら、名前や生年月日をなんども確認していたが、年配の警官に地方に住んでいたことがないかと聞かれたので、ないと答えて、いったいどうしたのかと聞くと、同じ名前でおなじ生年月日のひとが福島県にいるというのだ。名前の読みはありふれたものだが、同じ旧漢字をつかった名前はこれまで見たことがないので、くだらないことだが、ちょっと感動した。
 免許は結局わたしが海外にいたため失効し、再度外国の免許書から日本国の運転免許書を取得したことになっていたので、コンピュータで確認できなかったというのだ。ちょっと納得できない話だけれど、番号がわかればすぐに確認できただろうに。それはともかく、私と福島のひとはどうやって区別するのだろう。
 ここまで書いて放って置いたら、きょう(12/17)の「産経ニュース」に以下の記事が載った。

なぜ特定困難?
 社会保険庁が発表した5000万件の内訳によると、照合プログラムで基礎年金番号と統合可能な記録は全体の2割の1100万件だ。これに対して、4割にあたる1975万件は手作業で手書き台帳などにさかのぼらなければならず、そのうち945万件は、手書き台帳と照合したとしても統合が困難であることが分かった。
 どうして、多くの記録の統合困難となったのだろうか。社保庁によると945万件の大半は、(1)社保庁職員のオンラインシステムへの入力ミス(2)加入者が就職条件をクリアするために氏名や年齢を虚偽申請(3)企業が節税対策で架空の人物を届け出ていた(4)海外に移住したり、かつて日本で働いていた外国人の記録-とみられるという。
 (1)の場合、データのどの部分が間違っているのかが分からず、無理に類推すれば別人の記録と混同する可能性も高まる。(2)と(4)は、本人や企業からの申し出がない限り手がかりをつかむのは難しい。(3)は、持ち主が現れるはずもない。
 945万件以外も統合作業が簡単だとは言い難い。社保庁は照合プログラムの一致条件を広げるなどして、さらに調査を行うが、最後は手書き台帳との照合が必要だ。ところが、手書き台帳には戦災で焼失したり、劣化で判読不能になっているものもあるためだ。
 死亡とみられる280万件や結婚で姓が変った510万件は、記録確認を促す「ねんきん特別便」の送りようがない。社保庁は自治体の広報などで呼びかけるが、遺族年金などの仕組みを詳しく知らない人は少なくなく実効性は未知数だ。


これも社会保険庁の言い訳を一方的に書いているだけではないか。
そもそも、データがデタラメなのに(1)、どうして(2)や(3)や(4)だと分かるのか。推量しているだけだけだろう。死亡や結婚だって推量だろう。戸籍あるいは住民票と照合できなければ死んだか結婚したかわからないではないか。たとえば、150歳だから死んでるはずだといっても、その生年月日が正しいかどうか判らないのだ。それに(2)(3)(4)と推定しているものに、入力ミス(デタラメ入力のこと)がないとどうして判るのか。
 ようするに国民背番号制に反対したからこうなったのだ。どうして反対するのかわからない。レンタル・ビデオ店ではこんなデタラメはやっていない。免許書を身分証明書にしている。そうしなければ損をするからだ。近頃、損をしない金融機関も、口座を開くときにも身分証明を要求する。本当はしたくないのだが、税務署や監督官庁がうるさいから仕方ない。しかし、金を貸すときは昔から身分証明がにうるさかった。レンタル・ビデオ店と同じで、貸すときは損しないように注意する。ところが、社会保険庁は誰も損はしないのだ。かっての郵便局の口座開設と同じだ。
 とまで書いたら、夜にNHKスペシャルで「取り戻せるか年金記録」という番組をやっていて、デタラメはコンピュータ記録以前の紙台帳のときからで、年金番号は、ちゃんと身元を確認して、一人に一つではなく、適当にやっていたらしい。それが名前なしで社会保険庁に送られて、番号でデータを合わせをしていたらしい。それでうまく合わないと、確認のために社会保険事務所に戻されるが、驚くことに、確認が面倒だと言って放り出してあったといのだ。元の上役が(たぶん自治労を怖がって)「確認作業をしろといえなかった、ひとがいやがることは無理にやれとは言えないでしょう」だって、これって福田総理の靖国参拝拒否の言い訳と同じだ。
 もう細かいことは面倒だから言わない。でも、だれも言わないけれど、自治労と出向と天下り、そして政治家の腐敗だけではなく、ソフト開発会社の腐敗が必ずあると言うことを忘れてはいけない。こんなデタラメなコンピュータシステムを納入した会社はかならず汚職をしていると考えなければならない。 以上、もう年金のことは考えるのもいやだ。社会保険庁の解体は必ずやってもらいたい。でも、福田じゃだめだろうな。











2007.12.17[Mon] Post 02:34  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

松井冬子はタブーか

ブログのメール・フォームを通して、私の記事「松井冬子『日本×画展』(横浜美術館)」が、個人に対する誹謗中傷だから、削除しろというメールが入った。もともとこの記事は、私の言いたいことではないので、これを機会に記事を削除する。
 これが、誹謗中傷なら「松井冬子と自画像」はもっと誹謗中傷になるだろう。
 でも、松井冬子は画家として公立の美術館に展示している公的な存在だし、容貌や知性に関しても彼女はこれを積極的に利用しているわけだから、とてもプライベートなこととは言えない。美人をブスといい、博士を無知と言うのは誹謗中傷にあたらないと思うんだが。
 それと、繰り返し述べているように、この記事は日本の美術界を批判しているのであって、松井冬子を個人的に批判するものではない。
 メールは私信ということなので、公開できません。できれば、次回はみんなが読めるコメント欄に書いてください。

   私の松井冬子論は
       『松井冬子と自画像』と
       『松井冬子と上野千鶴子』
                にあります。
2007.12.15[Sat] Post 16:38  CO:10  TB:0  -松井冬子  Top▲

『007カジノ・ロワイヤル』

『007カジノ・ロワイヤル』★★★★

 シネマ・コンプレクスで見た。老夫婦がいた。きっとショーンコネリーの007を見た世代なのだろう。
 冒頭の追跡シーンが、久しぶりにみる素晴らしいアクションである。十分以上続いたろう。インディ・ジョーンズ『魔宮の伝説』の冒頭のアクション・シーンの連続に匹敵すると言えば、褒めすぎか。近頃、ワイヤー・ワークとCGばかりのアクションに失望されてばかりいるので、この映画のアクションを漫画的だといって貶す気にはならない。
 この映画のもう一つの山場であるポーカーの場面が頂けない。ちっとも緊張感がない。ポーカーの場面は多くの映画にあるが、一番印象に残っているのは、『シンシナティ・キッド』(ノーマン・ジェイソン監督)のエドワード・G・ロビンソンとスティーヴ・マックィーンの勝負だろう。アクションではなく、ポーカーのような心理戦は人間を描かなければならないから、結局は監督の腕次第だ。それにしてもカジノ・ロワイヤルは酷すぎる。色仕掛けや裏切りがあって、しまいに、主人公が毒まで盛られるというテイタラク。とてもじゃないが、こんなだらけた勝負は見ていられない。
 それと、特別仕立てたというタキシードがダニエル・クレイグに全然似合わないのだ。あそこは、主人公がアクションからカジノのプレーヤーに変身する大切なところだろう。タキシードに着替えたボンドが自分の姿を鏡に写すのだが、ちっとも変わりばえしないで、失笑してしまう。ショーン・コネリーが海から上がって来て、ウェット・スーツを脱ぐとタキシードを着ており、そのまま敵のパーティに潜入するシーンがあったではないか。
 これから洗練されていくらしいのだが、いまのままではマッチョな裸が一番魅力的ということになりかねない。次回作に期待しよう。ついでに言っておくと、どっちにしろ殺されてしまう拷問って意味があるのかな。自白しなければ殺されないという保証はないのだ。自白した場合と自白しない場合の結果が違っていなければ、拷問の意味がないだろう。はやく殺してくれということなのだろうが、それではただの残酷映画だ。
 それに、金を貸した方が、借りた方を殺したのはなぜだろう。そのうえ、ボンドをそのまま逃がすとは変である。あとで、女の裏切りがあったと辻褄をあわせているが、最後のところは綻びが目立つ。どっちにしろ、きっちりとした「ジレンマ」のない拷問は見ていて不愉快なだけだ。新ボンド役のダニエル・クレイグがお披露目のために裸になってあいさつしたのだろうか。
 冒頭の追跡シーンが素晴らしいので、それだけで、星4ッツ

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2007.12.14[Fri] Post 20:36  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『空中庭園』

『空中庭園』★

 結構評判の映画らしいので、借りてきたのだが、ちょっとこういう映画は見るのが辛い。二度見て、二度やめた。何となく古くさい感じがする。どういう訳か「ドレミファ娘の血が騒ぐ」を思い出した。独りよがりの感じが似ているのだ。「ドレミファ」は、映画マニアが絶賛した映画で、わたしもつられて、見に行ったのだが、どこが面白いのか皆目わからなかった。
 原作のある映画はとかく意味不明になりがちだが、この映画の脚本は分かりやすい。というより、バレバレの脚本なのだ。
 出だしからしてそうだ。朝の食卓のシーンで家族を紹介するのは教科書通りで特段の文句はない。しかし、この家族の信条がお互い嘘はつかないことだと説明的するシーンが、念を押すように繰り返されて、『パッチギ!』のときのように、僕は映画を見に来たのであって、説教を聞きに来たのではないと、言いたくなる。世の中説教されるのが好きな人種というのがいるらしい。
 それはともかく、家族を送り出した母親の小泉今日子が、玄関のドアを開いたまま、カメラに向かってわざとらしく笑うのだ。普通は俳優がカメラを見るのはこちらにいる別の俳優を見ていることなのだが、この場合、家族はみんな母親に背を向けているのだから、母親のカメラを見る視線は、観客に向かう視線になってしまう。見られた観客はギョッとする。
 観客を見る視線はよくあることで、たとえば、『大人は分かってくれない』や『戦場のメリー・クリスマス』では、主人公が映画の最後でカメラを見るのだが、これは映像世界の虚構性だとか物語の非完結性だとかを暗示しているのにくらべ、小泉今日子の視線は観客を共犯者にする視線なのだ。『ニューヨークの王様』で、チャップリンがカメラの方に振り返って、露骨に観客に同意を求めるカットがあるが、小泉今日子の笑顔は、この映画は喜劇であること、自分は嘘つきで家族に隠し事をしていると宣言するカットになっている。実際は映画がどう展開するのか、最後までみていないので分からないのだが、その後の家族のエピソードの積み重ねは、いくら大袈裟に演じられても、白けるばかりである。娘が母親の後をつけるシーンも、遠くに母親がいて、それを娘の肩越しに写すというアングルはどう見たったテレビカメラの技法だろう。こういう撮り方を何というのか知らないが、それでは母を覗いている娘を、さらにカメラが覗いていることになり、どうもわざとらしい構図になって、鑑賞の妨げになる。映画のカメラが「神の視線」になってはいけないと、意図的にそうしているのかも知れないが、つまらない技法である。
 喫茶店にいる母親を、娘が植え込みに隠れて覗いていると、そのさらに後ろから男が、携帯を持った右手で娘の肩を叩くという念の入れ方だ。ちょっと見るのがつらくなる映画だ。
 それに、これが人生の実相だ、直視しなさいと、不愉快なシーンを連ねる権利がいったい監督にあるのだろうか。映画は娯楽である。人生の真実なんて教えて貰いたくはない。
 娘が刺青だらけの高校生と「自分が種付けされた」というラブホテルで性交渉に及ぶ場面はとてもじゃないが見ていられない。こんなものに人生の真実があるとはとてもおもえない。
 ここで、DVDのスイッチを切った。

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2007.12.14[Fri] Post 20:17  CO:0  TB:0  映画  Top▲

「硫黄島からの手紙」

 「硫黄島からの手紙」★★★★

 まったく普通の戦争映画である。前半のアメリカの戦闘機が島を爆撃する場面は、さすがに迫力があったが、他は英雄と下僕の話が、むしろたんたんとした描写で、綴られていくだけの映画である。もし、DVDで見ていたら、途中で見るのをやめていただろう。
 栗林や西の最後は型どおりなのだが、最後の最後でクリント・イーストウッド監督は、この物語を復讐劇にする。
 、妻に必ず帰ってくると約束して硫黄島にやってきた西郷(二宮和也)は、敵前逃亡まで企てるが、三度まで栗林に助けられ、最後に、瀕死の栗林に深く埋めてくれと頼まれたが、米兵に発見される。投降するつもりが、米兵が栗林の大切にしていた拳銃をベルトに挟んでいるのを見て、スコップを振り回して、米兵に襲いかかる。この場面が、この映画の唯一のドラマチックな場面で、このシーンのために、他の退屈なシーンがあるのだとなっとくするかどうかは人によるだろう。どちらにしろ、西郷は国のためではなく、栗林のために玉砕するのだということには誰でもが感動するだろう。公平に見れば★三つ、西郷(二宮和也)の最後に★一つプラスして、合計★四つ


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2007.12.14[Fri] Post 20:09  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

「バッチギ!」論争

 どうやら、バッチギ論争というべきものがあったらしい。そんなことも知らずに、ブログに『バッチギ!』は映画ではないと書いたら、touという人物からアンタ呼ばわりのコメントが入った。以下全文を引用する。

 「アンタの批評の方こそクドクドしていて読むのに飽きるよ。
まぁアンタの批評よりも、昨年、実際に各映画賞を総ナメしたのが
『パッチギ!』だという事実の方が、アンタの全く人知れないブログ
でのクドクドした書き込みよりも、無限大に信頼できるということは
確かということさ。
>これは映画ではない
だって?笑わせるんじゃないよ。」

 まあ、この手のコメントとしては、かなり冷静 に書いてあるので、そのまま削除もしないでほおっておいたのだが、ほかの事で2ちゃんねるを見たついでに、『バッチギ!』を検索してみたら、出てくるは出てくるは、『バッチギ!』と井筒和幸のスレがたくさんある。それも、どれもこれも在日と反日と植民地支配のことばかりで、映画としてつまらないと言う声はあるにはあるのだが、罵詈雑言にかき消されている。それに、具体的にダメなところを分析したものは皆無である。蓮見一派はこんなのははなっから相手にしないのだろう。でも、やっぱりちゃんと分析しほしい。(わたしは蓮見一派は映画をダメにしたとおもっているのだが)
 そんなことは露知らず、映画としてナッテいない映画をナッテいないといったまでなのだが、それがどうも気に障ったらしい。さすがに、わたしが歴史問題に触れていないので、tou氏も歴史問題に立ち入ることができずに、上に引用したような、賞の権威を持ち出して、私の意見など信頼できないと言ったのだろう。こういう論争の仕方は良くあることで、あるていどの知識があるけれど、本当の意味で知性があるとはいえない者の論争の仕方だ。それにしても、このtou氏は2ちゃんねるの水準から見れば、ごリッパといえる。
 この映画について、もっと緻密な分析をすることは、蓮見一派の手を借りずに私にでも出来るのだが、もう二度とあんな映画は見たくないので、やめておく。私が、DVDのスイッチを切ったのは、公園の宴会の場面で、あそこでは、ロメオがジュリエットの一族郎党と出会う場面なのだが、あそこの反日感情の揺れ動きが、じつに下手なのにはうんざりする。例によっていったい何を言いたいのかわからない。ロメオの感情、ジュリエットの感情、家族の感情がうまく映像で表現できていないのだ。歴史問題は家同士の遺恨とかいう単純なものではないのだというのかもしれない。そうだろう。しかし、映画は映画でなければならない。私はここで見るのをやめたからわからないが、このあと、おじさんが一方的なプロパガンダの演説をするらしい。
 本当に途中でやめて良かった。『GO』が面白かったので、つい、借りてきたのだが、私がこれまで見た映画の中で一番つまらない映画である。tou氏が言う「アンタの誰も知らないブログ」の主として、このことは譲れない。
 それにしても、tou氏が言うように、『パッチギ!』が去年の賞を総ナメにしたというのは本当だろうか。
[movie touchから転載]

PS:この記事はmovie touchから転載したものです。そこに「ベロ」という名前で、07/10/02に以下のコメントが入っていたので、転載しておきます。


>DVDのスイッチを切ったのは、公園の宴会の場面で、

この後からが凄いんだよ。。私は、ここまでつまらなかったケド
ここの10分後くらいから、30分、ラストまで、涙が止まりませんでした。

 


2007.12.14[Fri] Post 19:07  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『武士の一分』

『武士の一分』★★★

 山田洋次だから大丈夫だろうと思っていたが、いきなりキムタクのテレビドラマが始まったのには驚かされた。山田洋次も惚けたかと思ったが、これは、盲目になったときとの違いを際だたせるための演出と判るまでにだいぶ時間が掛かった。
 それにしても、食事のあとにお膳に手をついて(たしかそうしたと思う)ヒョイと両足でいっぺん立つのは如何なものか。剣の達人が正坐からキチッと立ち上がらないで、敵に襲われたときどうする。時代劇は時代劇の立ち振る舞いというものがあるだろう。過剰な演出というべきである。
 というわけで、どうしても『たそがれ清兵衛』と比較してしまう。結論をいえば、木村拓哉が真田に劣るのはしかたないにしろ、壇れいはとてもじゃないが宮沢りえにかなわない。もちろんシナリオのせいおあるのだが、宮沢りえの愛はまことに美しい愛だが、壇れいとキムタクの愛はテレビ的で、なによりも仕草の美しさに欠ける。映画として致命的な欠点である。
 といっても、キムタクが頑張っているのは間違いない。盲目になってからの立ち振る舞いは美しいとまでは言わないがそれなりにギャグの一歩手前で踏みとどまっている。特に剣術がよい。最近の中国製チャンバラに辟易していたので、一層楽しめた。黒川礼人の殺陣が素晴らしい。妻を離縁したあと、木刀を持って庭で素振りをするところは感動的ですらある。僕の大好きな復活復讐の物語である。CGではなくコマ落としの編集が昔の映画みたいで久しぶりに涙が出た。
 こう見えても、僕は東映映画のチャンバラで育った世代で、時代劇にはうるさいのだ。ちなみに私が最初に感動した映画は、小学生のときに見た『血槍冨士』で、片岡千恵蔵が槍を振り回して主人の仇を討つ場面だった。それまで、そんなチャンバラを見たことがなかった。槍が酒樽に刺さって、穴から酒が吹き出すしシーンは目に焼き付いている。ひとこと言わせてもらうと、木村が刀の手入れをするところは、まったくなっていない。木村は剣道をやっているそうだが、真剣を扱ったことがないのではないか。刀が真剣にみえないのは興ざめだ。
 シナリオの欠点を二つ。
 一つは果たし合いの場面で、中間の徳平が何もしないのはシナリオとしてどうだろう。果たし合いが始まる前に、躓かないように石ころを拾い、終わったあとに島田に羽織を掛けてやるのはいいとして、なんかちょっとした木村に悟られないような助太刀をしたかったような気がする。たとえば、島田が屋根に現れたとき、音で島田の居場所をしらせるとかしたほうが、観客は唐突な感じがしないで、よかったのではないか。それは、やってみなければわからないし、むしろ、そんな露骨なことをしなくても、二人の情愛がよくあらわれていたし、徳平の「トドメをなさいますか」の一言が効果的になったのかもしれない。まともな観客なら、島田が小屋の屋根に現れたとき、危ないぞと、はらはらどきどきするだろう。そして剣の達人にも悖る島田の卑怯なやり方に腹をたてるだろう。そこで、中間が助ければ、拍手喝采請け合いだ。映画は娯楽だぞ。そうしないで、木村があっけなく勝ちを収めれば、やっぱりなぁ、くだらないと、はらはらした自分に腹を立てて、これじゃ『座頭市』と同じジャン、そうならそうと、始めから、スーパーマンに描けよと、文句を言いたくなるなるだろう。そこが映画の難しいところだ。
 それに加えて、島田がぜんぜんかっこよくないことが、この映画の最大の欠点である。島田役は板東三津五郎なのだが、その立ち振る舞いはとても歌舞伎役者には見えない。第一太りすぎではないか。これでは『必殺仕置き人』に出てくる悪党の越後屋みたいだ。敵役が魅力的でなければ主役の木村の魅力も半減するというものだ。これも、『たそがれ清兵衛』の敵役田中泯の鍛えられた肉体には遠く及ばない。
 それともう一つ。最後の場面はちょっとメロドラマになって、よくない。名乗りあって抱き合うとは何事か。お涙頂戴のドラマでどうする。今、わざわざ時代劇映画を作る必要がなくなるではないか。宮沢りえと真田広之の愛情表現を少しは参考にしてほしい。
 まあ、こういったハンディがありながら、木村拓哉はよく頑張ったと褒めるのが妥当だろう。おまけで星三つ
[movie touchから転載]
2007.12.14[Fri] Post 19:00  CO:0  TB:0  映画  Top▲

「パッチギ!」☆

 途中で見るのをやめた。これは映画ではない。井筒和幸監督は随分とテレビで大きなことを言っているが、彼自身映画作りに関して何も知らない。ピンク出身らしいが、それなら、もう少しマシな映画が作れないのか。ロマン・ポルノの相米慎二や中原俊は素晴らしい青春映画を作っているではないか。ピンクとロマンでは違うと言うかも知れないが、ピンクこそ、チャンとした映画作りをしなかったら、お客は退屈するだろうに、この「パッチギ」まさに退屈する映画なのだ。

その最大の理由は、無駄なカットの繰り返しや説明的なシーンが多いからだ。
 冒頭のシーンからもう我慢できなくなる。女にもてたくて、マッシュルーム・カットにした高校生が、登校途中、川べりでたむろしてしている。そこを女子高生がくすくす笑いながら通りすぎる。一度でもうんざりなのに、このクスクスを二度三度繰り返す。それだけではない、マッシュルームカットが似合わないことを示すため、高校生の間抜け面を何度もアップで見せる。あるいは、バス転覆のシーンでは、折角の転覆シーンまでの流れが、よけいなカットで中断されて、また、はじめからやり直す。間が抜けているったらありゃしない。バスの中の殴り合いも、起承転結がなく、これで終わりかと思うと、まだ続いていたりと、見ていてイライラするのだ。
 「パッチギ」は乱闘シーンが売りらしいのだが、ボーリング場のシーンなんて、ただ残酷なだけで、起承転結がなく、どうみたって、だらだら続く八百長試合にしか見えない。
 いちいち挙げるのは面倒だから、あとは自分で見て下さい。でも、もう一つだけ言わしてもらう。朝鮮高校にサッカーを申し込みに行く場面もチグハグだ。そこで、康介がはじめてキョンジャを見初める場面でも、繰り返しと説明的なカットばかりで、うんざりさせられる。キョンジャのショットが繰り返し挿入されるのだが、他のカットとチグハグで、とてもラブシーには思えない。どだい、職員室に行くつもりが音楽に誘われて音楽室に来たというのだが、わざとらしい、とても、そんな風には見えない。脚本が杜撰なのだ。
 それだけで、終わらない。帰るときに友達の紀男が、主人公の康介に、その女の子が番長アンソンの妹だと、わざわざ康介に説明するカットが入るというご丁寧さだ。
 文句の言いたいところはまだまだ続くのだが、これでやめる。各自ご覧あれ。
 とにかく、映画評を始めて、途中で見るのをやめたのは「バッチギ」が初めてである。あの「亡国のイージス」だって最後まで見たんだけれど、これはダメでした。
[movie touchから転載]
2007.12.14[Fri] Post 18:30  CO:0  TB:0  映画  Top▲

『メルキアデスの三度の埋葬』★★★★

『メルキアデス・エストラーダの三度の埋葬』★★★★

 映画が始まれば、どうしたってストーリーを追う。ストーリーが分からなくても、そのうち分かるだろうと、我慢して見る。我慢できなくなれば、見るのをやめる。
 この映画も、はじめは何が起こっていてるのか分からない。三つの時間が語られていることもわからない。ただ、退屈な日常が映し出されていく。
 新任の国境警備隊員のマイクがあやまってメルキアデスを射殺し、死体を隠す。その死体をハンターが発見する。マイクが犯人だと知った保安官は面倒になるのを嫌がり、もみ消すことにする。ここまで見ても、まだ、ストーリーが判らない。

 ところが、殺されたメルキアデスの友達のピートが、マイクを逮捕しない警察に怒りぶつける。この怒りが、この映画にはじめて出てくる物語である。メルキアデスとピートの友情の物語だ。ところが、二人が強い友情で結ばれるような出来事は何も語られない。メルキアデスは自分の大切な馬をピートにプレゼントする。二人は、町に一緒に女を抱きにいく。メルキアデスの相手は、あとで、メルキアデスを殺すことになるマイクの妻である。だからといって、なにも起きない。偶然は偶然のままである。そして、メルキアデスは自分が死んだら妻子の待つ故郷ヒメネスに埋葬して欲しいと、ピートにいう。ピートは約束する。ただ、それだけのことだ。この町では、愛情も友情も退屈なのだ。
 その約束を果たすために、ピートはマイクを誘拐し、メルキアデスの死体を共同墓地から掘り起こし、四頭の馬でヒメネスへ向かう。結局、二人の友情については何も判らないまま、われわれは、ロードムーヴィーにつきあわされることになる。ヒメネスに行けば謎が解けるのかも知れないと少し期待しながら。
 旅の途中、マニアなら、きっと蘊蓄を傾けたくなるような、カットやシーンがたくさんあるのだろうが、わたしは、ピートに感情移入ができず、すこし退屈しはじめた。
 しかし、ピートがメキシコから電話して、情事の相手だったレストランの女に、結婚を申し込み、いっしょに逃げよう(正確な言葉は覚えていない)と言うところで、この映画を誤解していたことに気付いた。ピートは友達との約束を果たすためにヒメネスに行くのではなく、それを口実に、町を出たのだ。『真夜中のカウボーイ』は、夢を実現させるために、退屈な生まれ故郷を捨てて、ニュウヨークに行く。しかし、ピートに夢はない。代わりに、死んだ友達の夢を実現するために、理想郷ヒメネスに向かう。
 女に電話するために、立ち上がったピートは酔っている。千鳥足になりそうなのを我慢して、真っ直ぐに歩こうとしている。このシーンはとても美しい。彼が見せたはじめての人間的な顔だ。
 それでも、次第にわたしは、ピートではなく、マイクに感情移入しはじめる。マイクの方が人間的な顔を見せるからだ。それに、ピートは、ひげ面なので表情がわからない。ロードムービーなら、いろいろなエピソードを脈絡もなくつなげていくのだから、旅する者の心の変化を知りたいと思うのはしかたない。だからこそ、監督はピートの心の変化を描写しないのだろう。
ピートが気が狂っていると悪態をついていたマイクも次第にピートを理解し始める。彼はいつもマイクの側にいる。マイクとメキシコ人のスペイン語の会話を理解しようと聞いている。そして、ものを食べている。食べる姿は美しい。
 最後はどうなるかはいわない。ただ、わたしがこの映画で最も美しいと思ったのは、壊れた家を直すシーンだ。マイクがサドル・バッグに入れて運んできた泥土を、石壁の隙間に詰める。マイクはいずれピートに殺されると思っているのだが、理想郷ヒメネスの話は嘘だと思いながらも、マイクのために家を直すのだ。
 と言う具合に、素晴らしい映画なのだが、どうも、冒頭の三つの時間を繋げていく技法がわかりにくく、友情や復讐の物語に思えてしまうのだ。最後まで見れば、前半部の意味も判ってくるのだが。
 これは、わたしが俳優の識別が出来ないということに大きな理由があるのだ。若い頃はすぐに区別ができたのに、近頃は相当な特徴がないと、みな同じに見えてしまう。特に外国人はそうで、ひげを生やしていると、しばらくは誰が誰だかわからなくなる。だから、芝居や劇のように、登場人物の紹介をかねたようなシーンを入れてくれるとありがたいんですけれど、これも近頃は短いカットがいろいろごたまぜに、しかも、一遍に出てくるので、それだけでお手上げである。しかたないので、近頃は、DVDを一人で見るときは、冒頭部分を何度か繰り返して、登場人物の確認をすることにしている。
[movie touchから転載]
 
  
2007.12.14[Fri] Post 18:25  CO:0  TB:0  映画  Top▲

「メゾン・ド・ヒミコ」犬童一心監督★★★★☆

「メゾン・ド・ヒミコ」★★★★☆ 

柴崎コウは偉大なる喜劇俳優である。

 柴崎コウは「GO」で見たはずなのだが、あまり印象にのこっていない。この映画の柴咲コウは、演技は下手だし、声も悪い。映画の中で、バニーガールが似合わないとアルバイトを断られたエピソードが語られていたが、まったく、その通りで、柴崎が似合うのは、最後の方で掛けていた木綿のマスクで、それをずらして、塗装屋の専務にキスをさせ、ブツブツ言いながら、自分の席に戻るところは、ブスの名演技である。

 柴崎は、驚いたときに目を丸くするのだから、まるで児童劇団の発表会である。下手な芝居はワザとであって、それが渡辺あやの脚本と相まって、なかなか面白いのだ。
 社長と寝るときは「おはぎ、甘いからなめてもいいよ」といい、オダギリ・ジョーが柴崎の胸に手を入れてごそごそやるけど、結局駄目だったとき、「触りたいとこないんでしょ」という。渡辺あやの書く台詞は、キメゼリフにもギャグにもなっているのだが、それが間抜けにならないのは、柴崎の芝居がヘタウマだからだ。もちろん、これは監督の才能でもあるのだが。
 このことは、卑弥呼(田中泯)と春彦(オダギリジョー)と沙織(柴咲コウ)を比べてみれば、よく分かる。田中泯は舞踏家ということで、監督がその立ち振る舞いの素晴らしさに惚れての起用だそうだが、たしかに、その肉体は、存在感があり、美しいのだが、残念ながら、それは舞台でこそ栄える、鍛えられた肉体の魅力であって、映画のリアリズムに耐えるものではない。春彦とのキス・シーンにしろ、ブランチでの娘に対する拒絶の宣言にしろ、そして、自分たち母娘を捨てたことをなじる沙織に対して「あなたが好きよ」と唐突にいうのも、キメゼルフとしては決まらず、そうかといってギャグにもならず、しらけるが、田中泯の素晴らしさは、たぶん、脇役としての素晴らしさで、喜劇役者としての柴崎コウを巧みに引き立てたことである。
 オダギリジョーはどうだろう。下手をすれば、ゲイ自体がギャグになる虞があるのだけれど、そこは、うまく柴崎のツッコミを受けたといえる。ジョーが沙織に「愛なんかいらない、欲望が欲しいんだ」と言うところでは、一瞬、笑いそうになったが、沙織が一向に突っ込まないので、どうしてなんだと不思議に思ったが、この台詞が、母と卑弥呼と春彦と沙織の四角関係を逆説的に暗示していることはあとになるまで気付かなかった。この後だったか、春彦が、寝ている卑弥呼にキスする場面があるのだが、もうちょっと真面目にやって欲しかった。といっても、「ブロークバック・マウンテン」のキス・シーンのようにギャグになっても困るから、これはこれで、いいのかもしれない。しかし、カメラが移動して、二人の唇が重なるところを写さないのは、それ自体がギャグになっちゃうですけど、犬堂監督。
 〈沙織と母〉と〈卑弥呼と春彦〉の二つの安定した関係が組み合わさって、不安定な四角関係ができあがり、物語の主軸が、沙織と卑弥呼の関係から、沙織と春彦の関係へと移る。そこでもって、母が父を愛し続けていたことが明らかになり、沙織と春彦の性交が失敗する。塗装屋の細川や、パトロンの「エロじじぃ」が加わわったりして、物語の構造は様々に変換されるのだが、それも、コラージュのように貼り重ねられるだけで、物語が時間軸にそって展開するわけではない。
 と言う具合に、この物語はタイトル通りに神話的な構造を持っており、表面的には、ポストモダンの記号論者が喜びそうなデタラメな展開をする。となれば、柴崎コウはトリックスターということになるのだが、その一番の場面は、みずからが、ハトバスの添乗員になって、メゾン・ド・ヒミコの連中を引き連れてキャバレーに繰り出す場面だ。
 つづく 一人女装する住人の名前がわからないので。
[movie touchから転載]
2007.12.14[Fri] Post 18:18  CO:0  TB:1  映画  Top▲

「ブロークバック・マウンテン」

「ブロークバック・マウンテン」★★★

 おすぎがこの映画をあまり評価しなかったということで、ネットのゲイ世界では、ちょっとした話題になっていた。おすぎは、見て不幸になるような映画は嫌いだということらしいが、わたしは、この映画を見て、特に不幸にならなかったし、幸せにもならなかった。ただ、ラスト・シーンの主人公の愛に生きる絶望的な孤独にはいささかの感動は憶えたけれど。
 でも、ゲイ同士と思わなければ、なんの変哲もないラブ・ストーリーだとおもうが。
 近頃、ゲイにしか純愛はないみたいな風潮はいかがなものか。映画作家のだらくだろう。

  ゲイの世界では、随分と話題になり、ほとんど神学的な議論がされているようなのだが、わたしには、ごく普通の不倫物語にしか思えなかった。
 この映画を見ながら、なによりも思い出したのは「マディソン郡の橋」である。片方が愛を全うするために、駆け落ちしようと言い、もう一方は、そんなことは出来ないと言う。
 ただ、違うところは、「マディソン郡の橋」は欲求不満の女が、流れ者の甘い言葉に夢中になった話で、「ブロークバック・マウンテン」はホモ・セクシャルというちょっと今風の趣向になっていることだろう。
 しかし、どちらも恋の成就に障害があるわけで、両者に違いがあるわけではないが、時代背景から見れば、ゲイの方が反社会的と一応はいえるだろう。
 シェークスピアじゃあるまいし、いまどき何処を探したって、愛の障害などない時代、どうしたって、ホモ・セクシャルに頼るほかないというわけで、猫も杓子もホモばかり。映画作りが安易なのだ。その見本がこの「ブロークバック・マウンテン」だ。いったい、ホモにしか愛はないのか。いい気になるなホモ映画。
 たとえば、ペドロ・アルモドバルを見てごらん。ゲイが偉いなんていう主張は何処にもない。ヘテロもホモも関係ない。ただ純粋な愛があるだけだ。
 もちろん、「ブロークバック・マウンテン」が愚作だというわけではない。ただ、普通のラブ・ストーリーだといいたいだけだ。
[movie touchから転載]
2007.12.14[Fri] Post 16:40  CO:0  TB:0  映画  Top▲

「父親たちの星条旗」

「父親たちの星条旗」★★★

 クリント・イーストウッドのファンである。ダーティ・ハリーのシリーズは大好きである。「ミスティック・リバー」は紛れもなく傑作である。だから、クリント・イーストウッドの映画は映画館で見ることにしている。さいわい、近くのシネコンで上映していたので、缶ビールとポップコーンを持って見に行った。最近では、ここの映画館でしか映画を見なくなった。単館上映の映画はめんどうなので、DVDでみることにしている。
 結論からいうと、イーストウッドにしては凡作である。彼の作品のなかにいつもある復活・復讐のテーマがない。「許されざる者」にも「スペース・カウボーイ」にも「ミリオンダラー・ベイビー」にも復活復讐の劇があった。
 「ミスティック・リバー」は、ショーン・ペンが娘の復讐をするというつまらないメロドラマにみえるが、実は、そうではない。この映画の主人公はショーン・ペンではなく、ティム・ロビンスであり、復活のドラマなのだ。ただ、順番が逆になっている。ティム・ロビンスは子供のときに受けた虐待の復讐を無意識のうちにするが、その記憶がない。ショーン・ペンは娘を殺したのはティム・ロビンスだと疑って、白状しろと脅迫する。ロビンスは記憶を取り戻し、彼の娘を殺してはいないことを思い出す。そして、虐待のことも。自分が誰なのかも知る。自分が自分になる。復活するのだ。そのとき、かれは、はじめて生きていきたいと思う。
 ペンは「娘を殺したと本当のことを言えば許してやる」という。娘を殺したのは自分ではない。しかし、生きていくために、殺したのは自分だと、嘘をつく。ところが、約束をやぶって、ペンはロビンスを殺す。ドラマはショーン・ペンの凡庸なる復讐劇のように見えるが、そうではない。この映画の主人公はティム・ロビンスで、テーマは彼の魂の復活なのだ。
 「父親たちの星条旗」には、残念ながら復活も復讐もない。ハード・ボイルドどころか、軟弱なドラマである。ネイティブ・アメリカンの英雄が、死んだ戦友の母親の肩でぐずぐずと泣き、酒場に入店を断られたといって、酔って暴れたり、どうも見ていて楽しめない。勿論、復讐も復活もないのが戦争で、まさに、そのないことがテーマなのだと言われれば、そうかもしれないと引き下がるほかないけれど、「スペース・カーボーイ」では国家に復讐したし、マーティン・スコセッシの「タクシー・ドライバー」は狂気をもって復讐をしたではないか。
 落ちぶれた英雄が、記念写真のモデルになって、小銭を恵んでもらう場面が終わりの方にあるのだが、なんとも、やりきれないリアリズムで、そういえば、クリント・イーストウッドが監督した「マディソン郡の橋」のラスト・シーンも、ずいぶんとベタな雨の中の別れだったのを思い出した。
 イースト・ウッドは、普通の監督になってしまったのだろうか。「ミリオンダラー・ベイビー」でも、ラストの安楽死の場面はハード・ボイルドというより、ちょっとセンチメンタルになっていたような気がするけれど、ひょっとして、ボケが始まったのかもしれない。
 まあ、スピルバーグの影響で、ちょっとヒューマニズムっぽい戦争映画になっているけれど、それなりの佳作ではあります。
 とにかく「硫黄島からの手紙」を見るのが楽しみです。
[movie touchから転載]
2007.12.14[Fri] Post 16:24  CO:0  TB:0  映画  Top▲

「亡国のイージス」

 「亡国のイージス」★★☆は「シベ超」を超えたか。

 田舎に引っ込んで以来、映画館で映画を見ることはなくなった。たまに東京に出ても、美術館・ギャラリーを見るのが精一杯で、映画館で映画を見ることは滅多にない。
 私が住んでいる町では、TSUTAYAが独占していたところに、GEOが10円レンタルで殴り込みをかけて、レンタル戦争になっている。TSUTAYAの陳列のほうが、監督別や単館上映の作品コーナーなどがあって、私には見たい映画を探しやすいように思えるのだが、駐車場が広くて便利なので、GEOを利用することがもっぱらになった。
 そのせいかどうか、どうも、ちかごろ同じビデオを借りることが多くなったような気がする。週末はもっぱらアクションものを借りてくるのだが、CGを使ったものばかりで、途中で見るのをやめてしまう。それで、見たことを忘れて、また借りるということになる。
 そんなこんなで、派手な宣伝をしていた「亡国のイージス」を借りてきた。見始めてすぐに駄作だとわかった。出だしが、まったく理解できないのだ。二度戻して見たけれど、分からない。しかたない。わからないまま、我慢してみた。カット・バックというのか、映画の出だしから、何の説明もなく、カットをつなげていって、それが一つに繋がるというのは、昔からあった技法だが、それが、最近の映画では、いっこうに繋がらない。
 何故、繋がらないか。理由はっきりしている。原作があるからだ。シナリオ・ライターがヘボだからだ。監督もシナリオ作家も俳優も、みんな原作を読んでいる。読んでいなくてもストーリーを知っている。そして、なぜ、こんな酷い映画を見せられて観客が怒らないか、観客も原作を知っているからだ。だから、だれも、こんなちんぷんかんぷんな出だしに文句をいわない。原作を知らない観客には迷惑な話だ。
 ともかく、何か起こりそうな気配はするのだから、そのうちジレンマのゲームが始まると、我慢して見た。俳優は二代目ばっかりだけど、まあ、それなりの存在感があるし、一代目と比較しながら見るのも映画の楽しみ方のひとつと割り切って見ていたが、だんだん我慢が出来なくなってきた。すべてがチャッチイのである。見るのをやめて風呂に入ろうとおもった。
 しかし、悪口を言いながら我慢して、見ていたら、これは、けっこう良くできたギャグ映画だとわかって来たのだ。笑えるのだ。一番最初に笑ったのは、安全保障会議の議長である首相(原田芳雄)が、ネクタイを緩める格好である。まったく似合っていない。日本人は、もともとワイシャツが似合わないのだから、ネクタイを緩めても様にならない。第一緩めすぎで、ネクタイの剣先が股間まで伸びて、どう見たって、ギャグとしか思えない。
 とにかくチャッチイところをあげておく。
 
 女間諜みたいのが出てきて、少林寺拳法をする。
 
 武器が玩具っぽい。

 安全保障会議が児童会みたい。ちっともゲーム理論による戦略思考が出来ていない。

 ××ピット・プラスとかいう兵器の名前が精力剤みたいでおかしい。

 先任伍長というのは海自の階級にあるらしいのだが、センニンゴチョウという音が間抜けである。本当にセンニンゴチョウなんて、呼びかけているのだろうか。

 発射された魚雷が、海中に落ちた瞬間よろよろとしていた。鉄製に見えない。

 「あなたは実践を理解していない」
 「おまえは人間を理解していない」
 という、会話が笑える。そんなこと言ってる場合か。

 同じように、やたら「人の命は大切だ」が出てくる。やれやれ。

 自衛隊機が格好悪い。ひょろひょろ飛んでる。自衛隊が協力してくれたのに、カメラマンは腰が引けてる。

 絵が小道具としてチャッチイ。真田が照れてる。酷い下手な水彩画。死んだ部下に筆を握らせる。母が絵を送ってくる。そこまで使い回すな。

 死にながら手旗信号するところは感動させるつもりかも知れないけれど、つい、笑ってしまった。ごめんなさい。

 母親の墓参りがよけい。母は死んだ夫と息子を誉めるが、夫はただ間抜けなことをしただけではないか。その辺の副艦長の葛藤がえがかれていないので、最後に、艦長として艦とともに自爆するも、一向に感動できない。
 
 以上、もっと面白いところがいろいろあるだろうが、ふだん、バカにしていたハリウッド映画を見直しました。すくなくとも、戦闘機の離着陸でも、安全保障会議でも、あるいは、ネクタイを緩めても、みんな本物らしく見えるのだから。
 とにかく、最後まで見たのだから、ギャグ映画として星二つ半です。おまけです。
[movie touchから転載]  

 
2007.12.14[Fri] Post 16:12  CO:0  TB:0  映画  Top▲

年金と公約違反

ヤフーに「年金記録の統合が困難だと認めた舛添厚労相に対し、「公約違反」ではないかとの指摘が出ています。あなたは、どう思いますか?」というアンケートが出ていた。そして、驚くことに八割が公約違反だと答えている。テレビや新聞がそう言っているから、口まねしているだけだ。
  確かに桝添厚労相は甘かった。彼が今年中に一円までハッキリさせるといったのは、ちょっと保険庁のデタラメを甘くみすぎたのだ。名寄せが出来ないデータが これほどだくさん出てくるとは予想もしなかったのだろう。かれは確かにやってみなければ判らないと言っていたが、こうなるとマスコミも、知識人きどりの大衆も聞く耳をもたない。しかし、これは桝添厚生労働大臣の責任ではないだろう。自治労のデタラメは、想像を絶する デタラメだったのだ。 
 結婚したとか、転職したとか、名前の入力をまちがったとか、そんなことはデータベースを設計をするときの基本だろう。住 民登録ともつながっていないらしい。国民背番号制にどうして反対したのだ。年金制度をきちっとすると言うことは、実質的に国民背番号制をつくるということ じゃないか。それがきちっとなっていないことは、個人データが守られているということだから、新聞は喜んで良いはずだ。それを非難するとはどういうわけ か。
 それから、例によって分からないことがある。宙に浮いたデータが4000万件あるというが、いったい、宙に浮いていないデータはどのくらい あるのか。そのことに誰も触れないのは可笑しくはないか。いずれにしろ膨大な数だ。単純な入力ミスでは説明がつかないだろう。たぶん発見された事件の数十 倍数百倍の詐取があったのだろう。あるいは、面白半分の誤データの入力の可能性だって否定できないだろう。
 最近、保険会社の詐欺的行為が明るみにでたけれど、保険庁は職員が個人的に横領しているのだから、おそらくもっと深い闇があるのだろう。
 そんなことはともかく、4000万件のデタラメなデータがあることより、国民の八割、すなわち一億人のバカがいることに驚かなければならない。
2007.12.14[Fri] Post 02:54  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

松井冬子の自画像

芸大とNHKとフェミニズム

 前回、youtubeの松井について書いた。
 美人画家云々の冗談ごとで済まされないものを感じたが、フェミ二スト(らしい)は相手にしたくないので、冗談半分に誤魔化しておいた。しかし、放っておくわけにはいかない。これは、日本の美術界が崩壊する予兆、いや、既に崩壊してしまった証拠ではないか。以下述べることは松井冬子の作品批判ではない。芸大のアカデミズムとテレビの美術番組の批判である。
 松井の卒業自画像を見ると、ついにデッサンが分からない芸大の教授が現れたということがわかる。しかも、いくら独立行政法人化だといっても、その自画像を客寄せのために展示するとは、日本のアカデミズムが完全に崩壊したということだ。
 松井の自画像は、日本画の描線としてはデタラメで、かつ、洋画のデッサンとしては下手くその極みである。それを日本画と洋画のボーダレスと称している。たしかに日本画はフェノロサ以来、折衷主義的なものであったが、それはそれとして、なんとか日本画を日本画のなかにに閉じこめておいたが、きがつけば、絵の描けないの画家たちが、ボーダレスとかスーパーフラットとかジャパニーズ・ポップとか、日本画を利用しての売り込みがおおはやりで、それが海外向けばかりではなく、日本の市場にも蔓延して美術界をむちゃくちゃにしている。VOCA展には、まともな油絵はなく、岩絵の具やアクリルを使ったミックスメディアが大流行である。
 You Tubeの松井の映像がどんなものか書いておく。
 映像は、なんの番組からアップしたか判らないが、プロモーション・ビデオとしては、とんでもない代物だ。冒頭は、まず東京タワーを見上げるカット、つぎに水子地蔵、そして地蔵の頭にとまったカラスのアップになる。地蔵のあたまに留まったカラスとなれば、日本的風景の定番だけれど、太ったカラスが餌を啄んでいるのは、松井お得意のグロテスクの美学のつもりか。それにしても地蔵に被せた毛糸の頭巾は貧乏くさくてやりきれない。
 そのあと、自画像の画面になるのだが、全体をいっぺんに見せないで、下から上へカメラが移動していって、顔の部分がアップになり、それからやっと全体を見せる。こんな馬鹿げた絵の見せ方があるものか。壁画じゃあるまいし、ふつうに絵を見るときは、まず全体を見てから、視線を動かしながら部分を見る。場合によっては近づいて細部を見る。だれがいったい部分を見てから全体を見るというのか。下手な絵を誤魔化すときによく使う手だ。
 自画像を見せた後、松井が蝋燭を持って、水子地蔵の後ろを歩くのだが、なんだか素人女優がすかしたつもりの笑える演技(モデルウォークしてない?)だ。水子に灯明に美人の三題噺で、よからぬことを想像した御仁もいるようだが、じつはわたしもその一人で、これはてっきりポルノ映画(わたしのこの方面の知識は日活ロマンポルノとピンク映画です)の冒頭シーンだとおもった。東京タワー、水子地蔵、カラス、蝋燭、そして「美人」の素人演技とくれば、次はてっきりベッドシーンだろう。松井の裸なんか見たくないと、停止ボタンをクリックしようとしたら、裸どころか松井が例の悪声で、アイデンティティーとかトラウマとかナルシシズムとか、やっと憶えたカタカナ語を舌足らずに振り回す。ナルシシズムが言いにくかったら、ナルシズムと言えばいいじゃないか。
 この映像がポルノ映画に見えてしまうのは、たぶん番組の製作会社のスタッフがアダルトビデオのカメラマン程度のセンスだからだ。増上寺の水子地蔵で冒頭シーンを撮るなんていかにも三流のディレクターが考えそうなことだ。カラスを餌で釣って地蔵の頭にとまらせたのが得意で、そのカットを捨てることが出来ない。苦労して撮ったカットでも、つまらないものは編集段階で捨てなければ映像が汚れる。あのカラスは、ごみためをあさっている老鴉にしか見みえません。(もっとも松井冬子にぴったりのイメージだとディレクターが思ったのかもしれない)
 なにより一番だめなのはカメラだ。近頃のビデオカメラにはモニターが付いているので、ファインダーを覗かずに撮れる。その結果、安易なローアングルの映像が増える。下手なカメラマンほどいろいろなアングルで撮りたがる。松井の写真は左からの横顔ばかりだが、ここではローアングルでとっている。えらが張ってほっぺたが膨らんで鼻の穴がまるみえで、美人がだいなしじゃないか。
 松井が自作について一通り解説したあと、スタッフの男が突然「苦労した?」とため口をきく。シナリオになかったのだろう、松井は「えっ!」と聞き返すと、男は再度「描くのに苦労した?」の友達口調。わたしは正直驚いた。「おい、おい、おまえたち出来てるのかよぉー」とおもた。こんな楽屋裏を公共の電波にのせるなと思ったら、松井が破顔一笑、歯をむき出し、のけぞって笑ったのにはまた驚いた。美人がけらけら笑うのは必ずしも悪くない。ところが松井のはおぞましいだけだ。そのあとの苦労話も、ぜんぜん答えになっていない。あきれたよ。写真はごまかせても動画はごまかせない。
 ともかく、松井の喋っていることを聞いてみよう。以前に松井のキャプションが分からないと書いたら抗議非難のコメントをたくさん頂いたが、幸いというか今回のは、それほどチンプンカンプンではない。言いたいことはともかく分かる。でも、それだけいっそう絵画に対する無知が透けて見える。
 のっけから「他者から与えられたお題」なんていうが、これは課題のことだろう、それにしても他者とかお題とかこの人の言語感覚はどうなっているのだ。まあ、意味がわからないではないから我慢しよう。でも次の「自己のアイデンティティーを、いかにモチーフを使って、引用をうまく詰め込んで、操作する」はかなりむずかしい。「自己のアイデンティティー」というのは、自分の特徴ということだろうか。それともナルシズムと関係があるのかもしれない。「モチーフ」というのはなんだろう。自画像かしらそれとも自己愛かしら。「引用」は他人の自画像から頂戴したものを自分の自画像に利用するということかな。そして「操作」は引用したものをいろいろ組み合わせて工夫することと理解できる。それにしても難しい。もっとわかりやすく言ってくれるといいんだけれど。
 次に松井は具体的にどう「操作」したかを説明する。屋久杉の模様は自分が反復思考の持ち主であることを、白髪はトラウマや自分の消失状態を、そして、目の下にある青い血管は自分が神経質だということを表しているそうだ。これってなんだろう。たとえば宗教画で百合は純潔をあらわすみたいな図像学のつもりかしら。勝手に図像学辞典を編纂されても困るけれど、どっちにしろ、図像学は絵そのものとあんまり関係ないですよ。ユリは絵に描いても、本物でも、言葉でも、純潔を表すことが出来るんだから。挿絵やイラスト(宗教画や歴史画を含む)の主題を理解するためなら、図像学も少しは役立つだろうが、セザンヌの静物画を見るのに、リンゴの図像学は関係ないでしょう。
 そもそも、作者が自作について解説するというのはいつから始まったのか。もちろん画家の思索をあらわすエッセイもあるのだが、松井冬子の解説は芸談あるいは能書きであって、絵についての思索ではない。白髪がトラウマをあらわしているというのは、恐怖で一夜にして白髪になるという俗諺の「引用」つもりなのか、あるいはゴッホの包帯を巻いた自画像の引用のつもりなのか分からないが、肝心の自画像のほうは白髪に見えない。なんでもいいけど、しかし、ひでぇ絵だなぁ。布団をかぶったみたいだ。造形的にはいちばん難しいけれどいちばん面白い顎から頬、首から耳への線を隠している。自画像で顔の輪郭を隠すなんて、どういう魂胆だろう。難しいからごまかしたんだろうけれど、これじゃ、ドラえもんじゃないか。手を隠して、その代わりのサービスのつもりか、下着をちょっとだけよって、あんたもすきねぇー。ばかばかしくなってきたけれど、日本美術界のためだ。もう少し我慢してください。下着のところを引用する。
  「下着がちょっと見えています。下着が表しているのは、ナルシシズムをあらわしています。下着というのは誰に見せるでもなく、たとえ男性とセックスしたとしても、男性は基本的には女性の下着なんてほとんど見ていない。では、何故女性は美しい下着を買って、身につけるかというと、それはナルシシズム以外の何ものでもない。」
 松井冬子はバカ以外の何ものでもないと言いたくなる。賢いつもりで言ったのかもしれないが、これじゃ叶姉妹の記者会見だ。
 松井はナルシズムを論じたいようだから、そこの部分を引用する。
 「自画像の課題として、提出しなければならなかったので、一番、最初に教授が研究会といって、ジャッジを下すんですよ。もともと、ナルシシズムにおいて、こう、自分の愛を注いできたものに対して、他人が割り込んできてジャッジを下す。それはもう、ナルシストにとっては、悲痛、恐怖、強迫観念以外の何ものでもない訳ですね。大変つらかったです。」
 松井がナルシズムをどういう意味で使っているか必ずしも明らかではない。前段では、美しい下着を着るのは、自分で見てうっとりするためだと言い、後段でも、自画像はひとに見せるためではなく、自分が愛を注ぐためだと言っているのだから、ナルシズムを通俗的な自己愛の意味で使っているのだろう、しかし松井の自画像には、ロリコン的な媚びがあるけれど、画家のナルシズムはみつからない。
 自画像にはナルシズムがある。それは鏡を見て描くからである。写真を見て描いても本当の自画像とは言えない。写真は、本当の自分かどうかわからない。自分にそっくりな他人かもしれない。しかし、鏡は違う。鏡に映った自分を自分だと思うのは、自分に似ているからではない。たとえ、仮面を被っても自分だと判る。それは自分の体と鏡像の動きがシンクロしているからだ。直接この目でみることができない顔も運動感覚が鏡像と連動している。たしかに鏡の中の私は私なのだ。だから画家は、写真ではなく鏡を見て自画像を描く。
 そういうわけで、自画像には常にナルシズムがまとわりつく。このナルシズムは自分の美しい姿に惚れ込むというギリシア神話のナルシズムではなく、顔のない自分が顔を持つという自己回復のナルシズムであり、自分の美しさに惚れるわけではない。鏡像に必ずともなう対自即自の弁証法的ナルシズムだ。松井には自惚れのナルシズムがあるが、この存在論的ナルシズムがない。弁証法的ナルシズムとは、視線のナルシズムであり、私が鏡の中の私の目を見ると、鏡の中の私もこちらの私の目を見るということだ。画家は自画像の目を描くとき、鏡の中の目を見て描く。だから、鏡を使った自画像の視線は必ず観者の方を見ている。ところが、松井の自画像はこちらを見ていない。松井は写真を使って自画像を描いたのかもしれない。それなら自分に似ていなければ自画像にならない。しかし、松井にぜんぜん似てない。似ていないところを見れば、想像で描いたのかもしれない。あるいはただデッサンが下手なだけかもしれない。
 ナルシズムもないし、似てもいなければ、自画像とはいえない。松井は、目の下の青い血管が自分の顔のなかで、もっとも絵画的に使える要素だと言っているが、これはいわばアトリビュートであって、自画像ではなく神話画や寓意画の架空の人物のアイデンティティだろう。松井はそのほかにも屋久杉や白髪の象徴的意味を説明しているが、そんなことは自画像が表す(という)性格や内面とは関係のない自分勝手な解説だ。こんなことをするのは自分に似た自画像が描けないからだろう。小学生が夏休みの宿題にお母さんの絵を描いてきて、「おでこの青い筋はお母さんが怒りん坊だからです」と先生に説明しているようなものだ。松井の絵はいつだってごまかしなのだ。
 自画像であろうが肖像画であろうが、その人物にいかほどかの魅力があれば、それはそれでかまわないのだが、松井の自画像は、視線を曖昧にし、口を半開き(?)にした表情はとても正視にたえるものではない。それと、なんどもいうようだが、日本画のような描線の美しさもなく、洋画のようなデッサンの魅力もなく、屋久杉の模様と座布団のような白髪とホッカムリした顔とチラリズムの下着と裸の肩を別々に描いて、それを重ねて貼り付けたように見え、ひどく落ち着かない気持ちになる。
 わたしは松井冬子を批評したいのではない。松井をダシに芸大とNHKを批判しているのだ。芸大の腐敗についてはすでに述べた。それから、この映像は2ちゃんねるによればNHKのETV特集「第192回 8月19日(日)日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」からアップしたものらしいが、それにしてもNHKは末期的症状だ。ポルノまがいの台本、ディレクターのため口、絵のデタラメな見せ方、低俗番組と言って済まされるものではない。テレビは視聴率を気にしないとよけいに腐敗する。こんな節度も清潔感もない番組が全国に流れていると思うと憂鬱になってくる。
 松井は芸大とNHKという形骸化した権威と結託し、フェミニズム風の図像学で武装して真っ当な美術批評を封殺している。美人画家などとふざけているばあいではない。YouTubeをよく見てください。松井冬子はアカデミズムとジャーナリズムとフェミニズムの三種の神器を授かった美神とでもいうのだろうか。そうではなくブスで、無知で、絵が下手な画家なのではないだろうか。

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2007.12.09[Sun] Post 01:55  CO:26  TB:0  -松井冬子  Top▲

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