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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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山口洋一の嘘

スーチー女史と山口洋一

 ネットサヨクたちは人権と民主主義という言葉を繰り返して恍惚となっている。
 わたしは落合信彦ではないから、CIAに友達はいない。ただ、自宅軟禁を解かれたスーチー女史の映像に違和感を持ったことからすべては始まっている。その違和感を山口氏は説明してくれた。だから山口氏の言っていることは全部が嘘だとはおもわない。
 結論を先に言う。今度のミャンマーのデモ騒ぎは、「希望の星」作戦に失敗したCIAが、こんどは「サフラン革命」という作戦を立て、再度失敗したということだ。ようするにCIAはスーチー女史の利用価値がなくなったので、こんどは、坊主たちを利用したのだ。そう考えると、すべての謎は解ける。
 ノーベル賞まで授与させたのに、なぜCIAはスーチー女史を見捨てたのか。日本のマスコミにはスーチー女史を希望の星にしようと焦っていたが、ミャンマーではあまり盛り上がらなかったようだ。たぶんイギリス諜報部とCIAのあいだに意見の違いがあったのだろう。イギリスは相変わらず希望の星作戦を続けたいのにたいし、アメリカはウクライナで成功したオレンジ革命の二番煎じをねらったのだ。CIAにとってウクライナのオレンジ色のカラー革命は強烈な成功体験だった。そこで目に付けたのが法衣のサフラン色である。宗教ではなく色を利用したかったのだ。
 朝日新聞は、こんどのデモ騒ぎでスーチー女史が活躍できなかったのは、軍事政権側の弾圧が成功したからだといっているが嘘だろう。軍事政権側は弾圧なんかする必要はなかったのだ。軟禁なんか解いてもよかった。その証拠に国連特使が来ても、ちっとも盛り上がらなかったではないか。
 おそらく山口氏の言うように、スーチー女史はもはや人気がなくなっている(あるいは温存しているのかもしれない)。だからCIAは彼女から僧侶に乗り換えたのだ。もともと彼女の人気は欧米の情報機関の工作の結果なのだが、山口氏の言うように、それを生かすだけの「国家ビジョン」が、スーチー氏にはなかったのだ。あるいは生活が以前よりましになっているのだろう。
 CIAと通じることは必ずしも悪いことではない。岸信介はCIAはもちろん暴力団とも通じていた。しかし、彼には憂国の情があった。スーチー女史に憂国の情があるのだろうか。憂国の情なくして外国の情報機関と通じる者を売国奴という。
  山口氏のいっていることは半分本当だと思う。しかし、かれは半分の本当を言うことで、あとの半分の本当を隠しているのだ。週刊新潮の特別記事で山口氏は中国の華僑植民地主義について一言も触れていない。山口氏が中国の工作員かどうかは判らない。しかし、彼が偏った情報を流していることはまちがいない。
 アメリカは軍事独裁でも親米なら認めるし、中国のように一党独裁でもアメリカの企業が利権を得られれば黙認するのだ。
 かってヨーロッパの植民地主義者は宣教師を先頭に侵略をした。そしていまは民主主義を言い立てるジャーナリストを先頭にグローバリズムという名で、アジアの植民地化を目指しているようにおもえるが、これは妄想なのだろうか。

サフラン革命へ
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2007.10.26[Fri] Post 20:15  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

サフラン革命

スーチー女史と山口洋一氏

 山口洋一元ミャンマー大使がサンプロにでたらしい。
 彼があやしい品のない人間であり、ODAを通して軍事政権と癒着しているだろうことは週刊新潮の彼自身が書いた文章を読めばわかる。しかし、かれがチャイナスクールだとはうかつにも知らなかった。もしそうだとすれば、これは民主主義と軍事独裁の争いではなく、ミャンマーのマーケットと資源をめぐるアメリカの植民主義(グローバリズム)と中国の覇権主義(?)の対立ということになる。スーチー女史がCIAのスパイなら、山口洋一氏は中国の工作員ということなのか。

 この前の記事「スーチー女史と自宅前」には書かなかったが、気になる映像があった。それは僧たちが新品の僧衣を着て、整然とデモしている映像だ。わたしは思わず笑ってしまった。ハリウッド映画のまんまじゃないか。これほどCIAが演出したことが判る映像は見たことがない。この映像は一度見たきりで、あまり繰り返し流されていないような気がするが、私が見ていないだけかもしれない。それよりも、このシーンが流れたとき(だったと思うが)、「これはオレンジ革命ではなくサフラン革命だとヨーロッパのジャーナリストが言っている」というようなナレーションが入った。そういえば、どこかの選挙で毒を盛られて痘痕面になった野党の大統領候補がオレンジのマフラーをして盛り上がっていたけれど、あれもうさんくさいなぁと思ったけれど、ともかく何処の国だったかと「オレンジ革命」でググッてみたらウクライナだった。wikipediaによれば「オレンジ革命」は予想どおり、CIAを中心にした欧米の工作員の仕業だったらしい。
 長いけれどwikipediaにリンクしている田中 宇(たなか・さかい)の国際ニュース解説「ウクライナ民主主義の戦いのウソ」 から引用する。

  選挙戦(2004年ウクライナ大統領選挙のこと)が始まると、アメリカの共和党系のIRI、民主党系のNDI、欧州系のOSCE、米政府系の援助団体であるUSAID、人権団体の「フリーダム・ハウス」、ジョージ・ソロスのNGO「オープン・ソサエティ」などが選挙活動の監視にあたる。政府系の候補が勝ち、野党系が負けた時点で、それらの団体がこぞって「選挙不正があった」と主張し始める。英米のマスコミは、選挙前から「選挙不正がありそうだ」と報じ、選挙後は「やっぱり不正があった」と大々的に報道を開始する。

 野党陣営は、前もって計画していた手法に従って首都を席巻する大規模な政治集会を組織する。今回のウクライナでは、野党支持者はオレンジ色の衣類(セーターやマフラー、帽子など)を何か着用することを呼びかけ、野党支持の経営者がいる店のウインドウにもオレンジ色の飾りが置かれ、誰が支持者かすぐにわかるような工夫が凝らされるなど、4回目ともなると、継承された政治運動の技術がかなり高くなっていることが感じられる。

 国内マスコミの中では、比較的反政府なテレビ局などが不正を報じ始め、国営報道機関のジャーナリストの中にも野党側に寝返る者が相次ぎ、そのころになると警察や官僚の中からも鞍替えを表明する者が増え、議会や行政府が野党のデモ隊によって占拠され、混乱の中で本当は野党の候補が勝っていたと宣言される。

 欧米諸国はそれを承認し、最後には政府系候補を支援していたロシアも野党勝利を承認せざるを得なくなり、欧米から圧力をかけられた政府系候補が敗北を認め、政権転覆が実現する。こうしたシナリオが、ユーゴスラビア、グルジアと繰り返され、今回またウクライナでそのシナリオに沿って事態が動いている。
 引用は以上です。

 もう一つ気になる映像が、長井さんが死の前日に撮ったという映像で、デモに動員された僧たちがバスから降りてくるシーンと、デモの行列を市民たち(?)が両側から手をつないで守っているシーンだ。「守っている」というのは長井さんの言葉だった。これはあからさまにCIAの演出だろう。われわれわは安保闘争のとき全国からバスでデモ隊要員が動員されたことを知っているし、僧のデモを市民が手をつないで守るなんてクサイ演出はCIAの考えそうなことだ。もちろん、事の真相はわからない。しかし、これらの映像の胡散臭さはデモがCIAなど欧米の情報機関とジャーナリズムやNPOとの協力がなければできないことを示していないか。
 わからないのは「燃料費の値上げをきっかけのデモ」である。そもそも燃料費というのはなんのことか。そのことを新聞もテレビも説明しない。ふだん政治家の政治資金収支報告書の費目には大騒ぎするくせに、燃料費なんていう曖昧な言葉を平気で使う。ミャンマーでは何を燃料にして生活しているのか。ガスなのか木炭なのか薪なのか。車はどのくらい普及しているのか。値上げは二倍だとか三倍だというが、そもそも値上げ前の価格はいくらなのか。家計にしめる割合は何%なのか。エンゲル係数(懐かしいなぁ)はいくつなのか。経済制裁は石油の輸入にどのぐらい影響を与えたのか。だれもおしえてくれない。燃料不足はないのか。そもそも公定価格は需給関係を調整するわけではない。もともと価格はゆがんでいれば、三倍も値上げされたといわれてもそれが家計の中でどうな意味を持つかわからない。新聞記者はなぜそのことをきちっと報告しないのだろう。このことは長井さんも同罪である。彼を英雄視するのはやめよう。
 それから僧がデモに参加したと、しきりに強調しているが、これも朝日新聞とかNHKが子供をだしに使う広報宣伝戦略と同じで、もちろんCIAの十八番だ。いまもチベットで工作している。わたしは僧が特別に正義とは思わない。かって宗教が聖であったこは一度もない。宗教は常に世俗的な権力であり、無知と欲望と汚辱の塊だった。そんなものを持ち出してもわたしは信じない。このことはいずれ詳しく述べなければならないと思っている。
 いま、webで朝日新聞の記事を読んだけれど、デモが拡大して革命にならなかったのは残念だと書いてある。デモが起こるのは軍事政権がわるいし、デモが拡大しないのも軍事政権が悪いからだと、なんでも軍事政権が悪いと書いてある。これじゃ情報はゼロじゃないか。長い間朝日新聞を読んでいなかったが、安保闘争のころと変わっていない。いや、いっそう酷くなっている。わたしは軍事政権もスーチー女史も腐敗していると思う。もちろん山口洋一氏も。しかし、一番腐敗しているのは朝日新聞ではないか。
 つづく
2007.10.25[Thu] Post 03:43  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

島袋道浩(2)


     島袋道浩「これまでの話2」 シュウゴアーツ

 これも古い話題です。長くならないように簡単にかきます。
 前回の島袋の記事に無名氏からコメントをいただいた。ずいぶんと丁寧なコメントだったが、ちゃんとした返事は書かなかった。「アートとは何か」の問題が提起されていたからだ。無名氏がいうには、マイクロ・ポップ展での島袋の展示は、拾った絵や障害者の写真が作品本体ではなく、「お話」が作品だということだった。そして美術を美術の文脈からしか見ないのはダメだということが主旨だったようなきがするが、これは以前からある論争で、あいにくわたしは無名氏のいうとおり古くさい美術観の持ち主で、芸術作品は物質からできていると思っている。
 そんなこんなで、清澄白河でまた偶然に島袋道浩展を見た。無名氏のコメントのことがあったので、いやがるニョウボを説得して、私としては結構ゆっくりと見てまわった。繰り返すが、理屈を聞いて初めてわかる芸術は芸術ではないと思っているので、普段はあまりキャプションを読まない。しかし、今回は読んで見た。もちろん作品を見た後に読んだ。たしかに面白いアイディア(無名氏のいう『お話』か?)がいくつかあったので、その展示を見直したが、キャプションを読むまえと同じように、やっぱりつまらなかった。
 帰ってからシュウゴアーツのHPを見ると、美術館員という肩書きの光田由里の「島袋道浩 言葉でもって立ち上げること」というエッセイがあった。美術評論というより、本人がいうように感想文なのだが、学芸員にありがちな難解さもなく、好感が持てる文章で、島袋は、マイクロ・ポップ展で感じたような政治的な人間ではなく、純真な心をもつ童話的な人間であることがよくわかる感想文になっている。
 わたしの島袋の記事にコメントをくれた無名氏はこの光田のエッセイを読んでいるのかもしれない(あるいは無名氏は光田本人かもしれない)。光田の感想文によれば、島袋は冒険と美術は似ており、植村直己は芸術家だと言っている。しかし、美術家は、もはや未踏峰がなくなった登山家のようなもので、実験はすべてやり尽くされ、制作すべきものは何も残っていないが、島袋は未踏峰ではなく、旅やもっと日常的な出来事のなかに冒険を求めているというのだ。
 ということは、島袋の「冒険」はハプニングとかパフォーマンスの類で、その記録ビデオや記念品が展示してあるのだ。しかし、この記念品を見ていったい私にどうしろというのだ。たとえば、堀江謙一の太平洋単独横断は芸術だというレトリックは理解できる。でもあくまでもレトリックだ。作品はない。航海日誌をもとにした「太平洋ひとりぼっち」を読んだがつまらなかった。マーメイド号を見に行ったが、「へー、こんなちっぽけなヨットで、ひとりで太平洋を横断したのか、すごいなぁー」と平凡な感想を持っただけで、とくに芸術的な感動をうけたわけではない。
 そこで、島袋は植村直己や堀江謙一のような大冒険ではなく、「日常生活の冒険」をする。うまくいけば、反冒険的パフォーマンスができるかもしれない。しかし、いまのところ展示されているものはつまらない記録や記念品だ。たとえば、《空が海だったとき》は、童話のように美しい言葉だ。でも、凧をあげる記録ビデオまったく間抜けなつまらない家庭ビデオだ。だからといって、この退屈さはアンディ・ウォーホルの退屈さになるわけではない。
 あるいは、観光地の猿と人間が餌ではなく、絵でコミュニケーションをしてみるというアイディアは確かに面白い。しかし、実際にやって見た結果が、どうなったのかわからない。写真も拡大して壁に貼ってあるのだが、猿がどう反応したかは正確にはわからない。曖昧にしておけば芸術になるのか。思いつきの行為は芸術なんぞではなく、だたの自己満足だろう。ケーラーの「類人猿の知恵試験」では道具の使い方があるだけで、絵画や鏡を理解するかどうかの実験はなかったとおもうが、いずれにしろ、島袋の実験は「類人猿の知恵試験」ではなく、「島袋の知恵試験」になっている。ギャラリーの床には、島袋が実験に使った道具類が散らばっているが、いったいこれは記録なのか記念なのかわからない。また、それが床にオマジナイのようにならべられているけれど、インスタレーションなのだろうか。たぶん観者を猿の立場におこうとしているのかもしれない。これもキャプションを読んで推測するだけで、見ることの快楽がどこにもないのだ。
 ここまで書いていて、何故、島袋道浩がつまらないのか、似たようなことをしている田中功起と比較して分かってきた。田中功起の面白さについてはすでにブログに書いた。そして、つまらない島袋については、無名氏は次のようにいう

「『一般人』から見て、彼の作品はとても分かり易いと思います。
 美術をみるためのルールは必要ないからです。」

 この言葉を読み直して、突然、島袋を理解した。島袋はテレビのバラエティ番組なのだ。「猿岩石のイギリスまでヒッチハイクで行く」や「ファミレスのメニューを全部たべる」、「田舎に泊まろう」などの企画をちょっとアートっぽくしたのだ。「かって海だった空に魚の凧をあげる」、「隅田川をカヌーで渡ってアサヒビールをもらいに行く」、「片方の眉を剃ってヨーロッパ鉄道で旅をする」などなど、たしかにわかりやすい。そのまま「すすめ電波少年」で使えそうなアイディアだ。
 バラエティ番組と島袋道浩の「お話」に差はない。ただ、島袋は自分が芸術家だというから芸術家なのだ。そして松井みどりが「島袋道浩は、シチュエーショニスト風のパブリック・スペースへの介入と、ランドアートのサイトスペシフィック性を受け 継ぎながら、それに軽やかに遊戯性を加えて発展させている。」(「マイクロポップの時代」P88)といえば、島袋は芸術になる。だからバラエティ番組だって、自分で芸術だと言えば芸術になるのだ。あるいはだれか美術評論家が猿岩石はポストモダンであるといえば猿岩石はめでたくポストモダン芸術になる。理屈はあとからどうにでもなる。ヤラセは冒険の記号であり、若者たちは植村直己のモダンで鈍重な冒険ではなく、シミュレーショニズムとしての軽やかなる猿岩石の冒険と戯れたのだ。
 おそらくわたしは無名氏および光田由里さんに感謝しなければならない。これは皮肉ではない。こんなわかりやすい評論を読んだことがない。だんだんとアートのことがわかってきたような気がする。美術をみるためにルールは必要ないけれど、どうやら屁理屈は必要なようだ。

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2007.10.07[Sun] Post 02:50  CO:2  TB:0  -島袋道浩  Top▲

スー・チー女史と自宅


 写真が真実だというのは嘘だ。写真よりも動画の方が真実を伝えるように思える。
 というより、写真は常に嘘だが、テレビはその映像の提供者の意図に反して、ときに真実を見せることがある。そのことを「小沢一郎がお冷やを飲むテレビニュース」と「週刊朝日の安倍逃亡の表紙」と比べて見たのが前回の記事だった。

 元ミャンマー大使の山口洋一が「スー・チー女史が『希望の星』という『ミャンマー報道』は間違っている」という特別手記を週刊新潮(10月11日号)書いている。元ミャンマー大使なのだから政府の立場を代弁しているのだろうが、それにしても驚くべき内容だ。日本のマスコミとはまったく逆のことが書いてある。スー・チー・女史はアメリカの援助を受けているので、国民に愛されていないし、デモの参加者は金で雇われた与太者で、人数も誇張されているというのだ。山口氏はスー・チー・女史がアメリカの国務長官のオルブライトと連絡を取っていたというが、ようするにスー・チー氏がCIAのスパイだとにおわせているのだ。このことは山口氏が、アメリカからスー・チー・女史に送った通信機器を国境で差し押さえたとミャンマー政府が発表したと書いていることでもわかる。たぶん、これは政権側の「謀略」でもあるのだろう。それと例によって軍事政権を支持するときは、必ず援助がらみの腐敗があると思わなくてはならない。
 それでも、わたしは山口氏の言っていることは正しいのではないかと思う。というのは、長い間、気になっていたスー・チー女史の映像の疑問が解けたからだ。1995年のときだったと思うが(はっきり覚えていない)、スー・チー・女史が自宅軟禁を解かれ、自宅の前で演説をしたことがあった。そのときの映像が繰り返しテレビで放映された。わたしはその映像にひどく違和感を持ったのだ。なによりおかしいのは彼女が英語で話していることだ。彼女は歓呼で迎える市民たちに向かって演説しているのではないか。ビルマの国語は英語なのだろうか。そうではないだろう。それなら彼女はなぜ英語で演説するのだろう。映像の違和感はそれだけではない。カメラが熱狂する市民を映さないことだ。だれだってこういう場合は群衆の熱狂を見たいと思うだろう。それがないのだ。カメラは正面からスー・チー女史を映している。カメラは揺れていない。歓呼の声なんか聞こえない。スー・チー女史はカメラを見て話している。自宅前だというが、後ろに映っている潜り戸みたいのがなんかしっくりとこない、自宅のまわりがどんな状況なのかわからない。女史が美人でセンスが良いのも違和感をさらに強めた。女史はいったい英語でだれに向かって話したのか。(時間が経っているので記憶違いがあると思います)
 その疑問が、この山口洋一氏の記事を読んですべてなかば解消した。彼女は欧米のジャーナリスト(CIAやNPO)に向かって話していたのだ。
 試しに「スー・チー女史 自宅軟禁」で検索したら、スー・チー女史とCIAの関係は話題になっている。彼女は広大な荘園の領主で特権階級だというのだ。自宅が広大だということがバレないように自宅前で演説していたわけだ。そしてカメラマンもそれに協力していたわけだ。
 わたしは、政治の話をしているのではない。映像のはなしをしているのだ。写真は常に嘘だけれど、動画はときには撮影者の意図に反して真実を伝えることがある。スー・チー女史の演説のニュースは、撮影者が隠そうとした真実を明らかにした。それは隠そうとしたからこそ、今になって露見したのだ。
 ヒットラーのプロパガンダをはじめ映像の政治的利用についてはたくさんの研究がある。近くは表象文化論と称して、政治を超えたより広い文化現象を記号論で解明するなんて偉そうにいっているが、マスコミのプロパガンダを見抜けない表象文化論っていったいなんだろう。
2007.10.06[Sat] Post 17:58  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

週刊朝日と安倍逃亡

「小沢と『お冷や』」

 この文は「小沢と『お冷や」』」のタイトルで動画と静止画(写真)について書き始めたものだが、例によって脱線してしまったので、ひとまず「週刊朝日と安倍逃亡」と改題して、途中だけれどアップする。

 テレビで何度も繰り返し放映されている小沢とシーファー駐日大使の会談の映像の事で気になっていることがある。
 この会談についてはすでにみなさん御存知のとおり、小沢が一国の大使に失敬な態度をとったということだが、しかし、わたしが気になったのは、会談の時の小沢がコップの水を飲む映像が繰り返し放映されていたことだ。緊張した面持ちのシーファー大使のとなりで、小沢が笑いながら「お冷や」をごくんごっくんと飲んでいる。シーファー大使に同情した。彼は米下院での従軍慰安婦決議案に関する韓国元売春婦の証言を尊重すると言ったそうだが、まぁ、シーファーにはシーファーの事情があるのだろう。そのことはさしあってどうでもよい。小沢のことだ。テレビは何故小沢のこの「お冷や」のシーンを繰り返し放映したのだろう。
 ネガティヴ・キャンペーンなのだろうか、それとも小沢の豪腕とやらを印象づけようとしているのだろうか。どちらにもとれる映像だ。あの勝ち誇ったような笑い、そしてゴックンゴックンの「お冷や」のシーンは、どちらにしても視聴者につよい情緒的反応を起こすだろう。
 たぶん(いや、たぶんたぶんではない)、放送局は露骨に反安倍キャンペーンを展開しており、その文脈の中で見れば、「お冷や」のシーンはあきらかに小沢応援のシーンだったと思われる。テロ特措法延長の賛否よりも、ただ安倍が窮地に陥るのが嬉しくてたまらなかったのだろう。
 わたしは、この小沢の姿にいやなものを感じたが、それはテロ特措法延長や安倍続投に賛成だからではない。たぶん小沢が嫌いだからだ。もっと正確に言うと、小沢が嫌いだからあのシーンを見て嫌悪を感じたのではなく、あのシーンを見て、小沢という政治家が嫌いになったのだ。もともとわたしは小沢支持だった。リベラルとか保守とか、どちらがどうなのか政治音痴の私にはわからない。でも、小沢は国会議員の定数を減らしたのだ。もちろん小選挙区制などいろいろな党利党略があったのだろう、しかし、自分たちの利権を手放した政治家なんてこれまでいただろうか。それだけでも小沢という政治家は信頼するに足るとおもっていた。ところがどうだろう。気がついたら小沢がとんでもないことになっていた。横路と合意文書にサインしたとか、連合と手を結んだとか、共産党と統一候補を推薦したとか、わたしは新聞の熱心な読者ではないので、その間の事情はよくわからないが、とりたて驚きはしなかった。ところが、小沢が「個別所得補償制度」を創設すると知ったときは文字通りたまげた。たとえ小沢が悪魔と手を結んでも驚かない。しかし、補償制度なんて気が狂ったとしか思えない、小沢はまた食管制度まがいを復活させるつもりか。せっかく自民党の農政改革が少しずつ成果を上げ始めているときに、またばらまきをするなんてとんでもない。いや、ばらまくのはかまわない。小渕元首相は一億円をばらまいたけれど、たいした害はなかった。補償制度はばらまきではない。制度だから役人が管理するのだ。食管制度に逆戻りだ。
 それに農産物の完全自由化をしても食料自給率100%なんて支離滅裂なことをいう。経済の素人だけど比較優位の事ぐらい知っている。だいいち保証制度なんて非関税障壁になるじゃないか。それから、食料安保なんていうが、自給率0%だって、もし自由な競争の結果なら、べつに困ることは何もない。シンガポールなんか0%に近いし、反対に北朝鮮は援助や密輸のブラックマーケットがなければ、食料自給率100%だろう。外貨獲得のために食料の輸出もしているらしいから100%超えているかもしれない。餓死者で自給率を100パーセントに保っているともいえる。
 それはともかく、わたしが一番腹が立つことは、食管制度のためにまずい米を数十年間たべさせられてきたことだ。遠くは黄変米近くは古米古々米、これはみんな食管制度のためだ。それが、ちかごろお米が少しずつ美味しくなってきた。食管制度が少しずつ改善されてきた証拠にちがいない。農水大臣を非難してばかりいるが少なくとも米の味から日本の農政をうかがえば悪いことばかりではないはずだ。それに、農家の人たちもようやく覚悟し始めたというのに、小沢は格差是正なんて奇妙なことをいいだして、ことを振り出しに戻すつもりか。小沢はたしか自由化さんせいで、やる気のある百姓は分かってくれると言っていたはずだ。
 わたしにとって先の参院選挙の関心事は年金だった。この騒ぎが起きる前に五反田の社会保険庁に行ったが、けんもほろろの応対に腹をたてたことがあったので、社会保険庁の解体には賛成だし、もちろん個別所得補償制度には大反対だったから、民主党に入れる気はなかったが、それでも、これは小沢の戦略で、政権をとったら日本を官僚支配から救ってくれるのではないかという未練があって、どうしても「たよりない」安倍の自民党に投票できなかった。それで当選しそうもない泡沫候補に入れた。
 自民党が参院選に負けると、朝日をはじめとしたマスコミは勝ち誇ったように反安倍キャンペーンの調子を高めた。同じような言葉とおなじような映像を繰り返し流して、ほとんどファシズムのプロパガンダである。しかし、安倍に対する根拠のないネガティヴ・キャンペーンが強まるほど、朝日がたんに捏造事件の私怨だけではなく、安倍の戦後レジームからの脱却を憎悪していることがなんとなくわかってきた。
  わたしは、こんな姑息なプロパガンダに影響されないと自惚れていたのだが、知らず知らずに影響を受けて、小沢にくらべ安倍は頼りないと思っていた。それがまちがっていることに気づいたのは小沢のお冷やのゴックンごっくんを見たときだ。その臆病な姿を見て小沢に対する幻想は完全になくなった。しかし、それでも安倍が頼りないという思いは完全には払拭できずにいた。
 そして民意というスローガンを掲げた反安倍の熱狂のなかで安倍首相は辞任した。やっぱりかと思いながらも何か釈然としない気持ちがしたが、そんなことは忘れて久しぶりに「美術手帖」でも読むかと本屋に行って、週刊朝日の「安倍逃亡」の表紙を見て愕然とした。なぜ自民党に投票しなかったのかと悔やんだ。参院選のあと「安倍惨敗」の文字で安倍首相の顔を消した表紙もあったのだが、リアルタイムでは見ていない。これらは一種コラージュ作品として見ることもできるだろうが、その低劣さはマッド・アマノにおとらない。写真は一瞬を切り取るので、それがどんな状況で撮られたのかわからない。それを自分の都合の良いようにコラージュするなんて、いったいジャーナリズムのすることだろうか。KY事件よりも悪質なでっち上げではないか。
 朝日の捏造体質のことはさしあたってどうでもよい。ここで言いたいのは、写真を使ったコラージュのつまらなさだ。うえにあげたマッド・アマノは自分が芸術家だとおもっているらしいが、通俗的な社会政治的意見を駄洒落もどきのコラージュで表現しただけのしろもの、風刺だなんて片腹いたい。そして、なにより閉口するのは、首のすげ替えで、写真のホントらしさを自分の意見のホントらしさにすり替える素人手品を執拗に見せられることだ。
 首のすげ替えならまだよい。週刊朝日は文字をコラージュするのだ。雑誌名の上に「安倍逃亡」と言う文字を貼り付ける。「安倍惨敗」という文字を安倍の顔に重ねる。表紙はたぶんデザイナーがPhotoshopで作るのだろう。「安倍惨敗」号のときは首相の顔の上に文字をペーストしたことで読者からクレームがあったはずだ。それならとデザイナーが腕に縒りをかけて作ったのが「安倍逃亡」号だ。良くできていることを認めないわけにはいかない。歴史の資料としてのこるだろう。表紙はすっきりして、左下の赤丸の中に「本誌がつかんだ全情報総力40P」とあるだけで、普段はある小さな活字の「ゲロ」はなく、真ん中に安倍首相の醜くゆがんだ顔写真が大きく印刷されている。それだけではない。辞任のかわりに逃亡ということばを使ったのは、まぁ良しとしよう。文字を大きくして、ヒビが入っているのもかまわない。こんなレタリングはスポーツ紙やタブロイド紙には良くあるこだし、もはや高級紙とはいえないアサヒにふさわしいデザインだ。(会田の《美少女》参照)
 わたしが言いたいのは、そのことではない。この「安倍逃亡」の文字を「週刊朝日」の雑誌名の上に置いたことだ。これなら文句ないだろう、お望みどおり安倍の顔の上にペーストしなかったぞというわけだ。そして、じつは安倍首相のとっておきの醜い顔写真をハッキリと見えるようにしたのだ。デザイナーの高笑いが聞こえるようだ。きっと、石原壮一郎が捏造した「アベする」という言葉を口にしていたのだろう。朝日は一国の首相の顔に文字をペーストし侮辱を加え、そのことを恥じずに、薄ら笑いを浮かべて、さらなる侮辱を加えたのだ。こんなものがいったい言論の自由だろうか。ただ卑しいだけだ。朝日新聞に災いアレ。

途中です。「小沢と『お冷や』」はつづきます。

2007.10.02[Tue] Post 00:03  CO:0  TB:0  テレビ  Top▲

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