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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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山口晃(4)



『アートで候。』の山口晃の作品《山愚痴屋澱エンナーレ》について

            記号と絵画

 《澱エンナーレ》はトリエンナーレのもじりで、国際展にたいする憧憬と嫌悪のアンビヴァレントな心持ちや、言説にたいする不信感を表していると、山口は言うが、わたしが見た国際展は2005年の『第二回横浜トリエンナーレ』ぐらいで、そこに展示されていた作品は、差別とか環境破壊とか貧困とかを告発しているらしい作品以外は、奈良美智のインスタレーションも含めて、何も理解できなかった。したがって、国際展のパロディだという《澱エンナーレ》の面白さも同じように私には理解できなかった。
 ただ、同じコーナーに展示されていた、これも《澱エンナーレ》の展示品なのか判らないが、標識やアイコンを利用したパロディ作品がおもしろかった。パソコンの電源スイッチのアイコンを、人が井戸に落ちるところに見立てたり、男の標識(便所/歩道?)を横に寝かせて、ギロチンで首を切られる場面にしたりと、たわいないものなのだが、そのなかでテニスコートの標識のパロディ作品は、記号と絵の違いがハッキリと判って、おもしろい作品になっている。標識は誰でも知っているように、ラケットを持った人を図案化したもので、この標識がテニスコートを示すのは、絵としての類似性だけではなく、記号としての約定性(取り決め)によってもいる。
 そのことを山口は、標識に《ナルシスト》というタイトルをつけることで示す。その絵がどんな絵だったのか忘れてしまったけれど、《ギロチン》や《井戸に落ちる》は、どう見たってこじつけだけど、《ナルシスト》はタイトルを付けただけで、ラケットが手鏡に見えてくる。説明的な絵はジャマなだけで必要ない。ただ、標識の記号性を変えてやればいい。しかも、手鏡という言葉は使わずに、手鏡とはメトミニーの関係にあるナルシストというタイトルを付けている。なるほど、見れば見るほど手鏡に見えてくる。これをそのまま昇りのエスカレーターの近くに貼れば「ミラー・マンに注意!」の標識になる。
 と言うわけで、記号というのは、類似性によって、文字から図形、象徴から写真へと、いくつかの段階に分けられる。フッサールは、絵画が類似性を減少させる過程を象徴化(symbolizieren)と名付けている。類似性が減少すれば、われわれの意識は図像意識から記号意識に変わっていく。フッサールは象徴化の例として、絵画の目録用の図録をあげている。図録は正確な複製から簡単なアイコンまでさまざまな段階がある。あるいは子供の絵をあげている。子供の描く絵は、ラスコーの洞窟画の狩人の絵と同じように省略され記号化されている。
 注意しなければいけないことは、これらの意識はそれぞれが固有の意識作用であり、一つの作用が働いているときは、ほかの作用は背景に退いている。たとえば、象形文字は、普段は絵の意識が背景に退いていて、文字の意味に影響を及ぼすことはない。いわば、スイッチが切られているのだが、われわれが注意をむければ、いつでも、それは絵として顕在化する。
 このような記号と図形と図像のあいだの問題を探求した画家にクレーがいる。クレーは、それだけではなく、色と線と形の問題も探求しているが、それぞれの要素が対立し宥和し、相互に移行浸透する様はユーモアあふれた作品になっている。しかし、山口の《ナルシスト》にはクレーのような弁証法的戯れがない。たしかに記号と絵画の違いを見せてはくれるが、それは図像の外部にある言葉(タイトル)にたよっているのであり、逆に言えば、絵がタイトル(主題)のイラストになっているということだ。記号と絵画の関係を絵画に内在するものとして捉えたクレーにしても、成功した作品はわずかであり、たいていは両者をただ並列したり折衷したりしただけに終わっている。
 絵画と記号、あるいは象徴化の問題を、図像客観と図像主題の関係として捉えたのはマチスである。マチスは図像の象徴化(Symbolizieren:Husserl)を抽象化単純化の過程としてではなく、事物の存在論的な本質の把握と考えていたように思われるが、いまここで存在論的美学について述べる余裕はない。
 『芸術/批評』の3号に、ちょうど大久保恭子が「〈シーニュ〉から解くマチス---記号学的解釈の問題点」という論文を書いているのだが、肝心の記号と図像に関する理解があやふやなので、せっかくのマチスの〈signe〉に関する当時の資料をもとにした調査研究も中途半端なものになっている。マチスの〈signe〉の研究なのか、絵画の記号論的解釈の批判なのか、どちらか一つにしたほうがよかったのではないか。どちらにしろ記号と図像に関する理解が前提になるけれど。

 山口晃にもどる。結局のところ、《ナルシスト》や《ギロチン》のおもしろさは、空耳アワーの絵画バージョンみたいなもので、笑って済ませばいいものだろう。山口は、ちかごろ、《ラグランジュポイント》や《木のもゆる》など、大和絵とはことなる世界に挑戦しているが、これらは山口のなかにもともとあった世界のようなきがするし、山口自身はイラストで何が悪いと開き直っているらしいが、前途多難である。「誰でもピカソ」でふざけている場合かなぁ。

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2007.07.22[Sun] Post 02:00  CO:0  TB:1  -山口晃  Top▲

養老孟司の〈脳タリン〉

 


    養老孟司の『バカの壁』

 茂木のクオリアを批判する前に、養老孟司のバカらしさに触れておきたい。布施英利は養老の弟子だというのだから、あながち美術評論に関係ないわけではないし、なんにでも「脳を持ち出す脳タリン」とイロハカルタ風に憶えておけば、近頃はやりのトンデモ心脳論にだまされずにすむだろう。
 養老の『バカの壁』は読んでいない。『唯脳論』は読んだけれど、「意識なんて中枢神経の肥大化だ」と言ってたことぐらいしか憶えていないので、彼の講演のことを書く。在職中に養老孟司が勤め先に講演にやってきた。わたしは、社内報に載せる写真をとる係を仰せつかって、ついでに講演も聞いた。養老孟司はもぞもぞと聞き取れない声で自己紹介めいたことを言っていたが、ちょっと声を高くして、「『バカの壁』がバカ売れしちゃって」といった。私はカメラのファインダーを覗いていたのだが、もちろん笑った。礼儀だからだ。ところが、聴衆からは何の反応もない。講演は芸だから、聴衆から反応がないと調子がでない。ダジャレでも良いから笑ってあげなくてはいけない。養老は講演慣れしたすれっからしではないのだろう、少しあわてている。きっとこれまで、「バカの壁がバカ売れ」のダジャレはウケていたのだろう。だから何回も使っている。何回使っても、笑ってもらえるのが芸である。ところが養老孟司は素人の悲しさ、ちょっとためらったのだ。聴衆も聞こえなかったわけではない、やっぱりちょっとためらったのだ。
 あわてた養老があわてて持ち出したのが、サルがタイプライターでシェークスピア(聖書だったかもしれない)を打つ話である。個性とか独創性なんてないことの例え話だ(やれやれ、やっと本題にたどり着いた)。シェークスピアの作品は、アルファベットの組み合わせだから、サルが適当にタイプライターを打っていれば、いずれハムレットと同じ文字の連なりが打てるというのだ。もちろんサルには有機体としての偏りがあるし、タイプライターのキーの位置もそうだ。しかし、サルがまったくランダムにキーを打てると仮定することは許される。思考実験だ。実際に、コンピュータを使えば、まったくランダムにキーを打つことは出来る。そのぐらいのことは分かるのだろう、聴衆の受けは良かったが、この話にはおかしなところがある。
 もし乱数を使うなら、はじめからそう言えばいいのであって、わざわざサルを持ち出す必要はない。人間でも良かったのだ。もちろん、私が打ってもサルと同じようにシェークスピアは出てこない。デタラメに打つというのは有意味な綴りにならないように打つことだからだ。デタラメとランダムは意味が違う。それを「サルがデタラメにタイプライターを打つ」なんて表現はまやかしである。乱数を使うと言えば、それが確率の問題だと言うことが判ってしまうからだ。
 それは、ともかく乱数を使えば、いずれハムレットと同じ文字列が出てくる。その確率も計算できる。だから、「サルがデタラメにタイプライターを打ってもシェークスピアが書ける」ということは、ひとまず認めていい。しかし、どうして、ここから、シェークスピアに独創性はないといえるのか分からない。養老はただ、何処かで聞きかじった話でウケを狙っただけのことだろう。それにしても、解剖学者がよくもこんなデタラメが言えたものだ。
 実は、このゲームはただ文字の組み合わせを操作しているだけで、言葉の意味が介在していない。このことは、シェークスピアではなく、まったく無意味な文字列、たとえばコンピュータで作り出したランダムな文字列を使っても、同様な一致不一致のゲームが出来ることから容易に推察できるだろう。
 養老はおそらく遺伝子のランダムな変異とカットアップの手法の話をごたまぜにしているのだ。しかし、遺伝子のランダムな変異は表現形として適応不適応の意味を持っているし、カットアップもそれ自身は機械的な操作だが、できあがったものは、文字列の一致不一致ではなく(どだい、何に一致するのだ。切り刻む前の文章なら創作の方法としては意味がない)、作者自身や読者の意味無意味の判定にさらされるのだ。(わからない人は山形浩生の『たかがバロウズ本。』を読んでください。決して椹木野衣を読まないこと)(注1)
 文字列の一致不一致はコンピュータに判断できても、その文字列が有意味か無意味かは人が読んで判断しなければならない。そもそも、統語論よりも意味論のほうが先にあるのであって、意味に導かれて言語の構造が発見されるのだ。ただ、ソシュールはシニフィアン(聴覚映像)とシニフィエ(概念)が恣意的でありながら引き離せないという言語のアポリアにぶつかって、意味論を書くことができなくなったのだ。
 言語のシステム(構造でも統語論でも音韻論でも文法でもいいですよ)によって言語の意味を理解することは出来ないにもかかわらず、それがあたかも出来るように言う。それだけでは満足出来ずに、言語学を記号学に一般化して、言葉だけではなく、あらゆる記号現象に拡張する。もちろん絵画も図像客体(Bildobjekt)が図像主体(Bildsujet)を意味するのだから記号の仲間である。だからと言って記号学で絵画の意味を理解することなんかできないことは、言葉の意味と同じである。どだい、絵画には、言語にあるような弁別的差異のシステムがないのだから、言語学(ソシュール)から作られた記号学を適用するには無理がある。それを、もっともらしいレトリックを駆使して、支離滅裂なのに、深遠だから難解なのだと思わせている。バルトなんか映像の修辞学とかいって、古くさい図像学を開陳してる。そんな類比や連想や妄想をごたまぜにした記号論風ゴッタ煮がポストモダンだ。その最も洗練されたものがロザリンド・クラウスであり、その最も雑なのが椹木野衣である。(これは褒めすぎ。椹木の言っていることは闇鍋みたいで、私にはほとんど理解できない)
 ちょっと、話が脱線したが、以上で『バカの壁』の著者がバカなことを言ってることは、ひとまず判って頂けたと思う。
 それでは、言葉の意味が言葉のシステム(綴りや文法など)では理解できないということと脳がどんな関係があるというのか。ないじゃないか。それがあるのだ。言葉の意味を言語の構造で説明できないように、言葉の意味を言語中枢のニューロンの発火パターンで説明することも同じようにできないのだ。このことは、次回に述べる。(近頃話題の図像検索も以上のことに関係しているんです)
 茂木健一郎の「クオリア・マニフェスト」批判へ
 

(注1)ただし、山形の「アルゴリズム」には注意、かなり怪しいぞ。
   

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2007.07.17[Tue] Post 01:20  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

大竹伸朗《宇和島駅》

会田誠《書道教室》からのつづき 

会田誠の《書道教室》が面白くて、大竹伸朗の《宇和島駅》がつまらないのはなぜだろう。 
まず、前回の「会田と《書道教室》」の記事で途中から大竹と会田の比較をやめたため、大竹の部分を削除した。その削除した部分から始める。

 大竹には拾ってきた看板のファウンド・オブジェがいくつかある。パチンコ屋の自由の女神の看板を拾ってきて、《女神の自由》とタイトルをつけたもの、それから《宇和島駅》のネオンサインと、あとは忘れたけれど、たぶん酒場やCoca-Colaのネオンサイン、それから、廃業したスナック《ニューシャネルの扉》が東京都現代美術館の『全景』展に展示してあった。中でも《宇和島駅》が絶賛につぐ絶賛で、宇和島駅のロゴ入りのTシャツまで作ってしまったらしい。
 同じ看板でも、会田の看板には自己言及の契機があるのだが、大竹の看板はどれも美的趣味的なもので、コンセプチャルなものがない。太った自由の女神像は、パチンコ屋から美術館に運んで、《女神の自由》というタイトルを付けたからアートになったのではない。もともと立派なアートだったのだ。ハイ・アートなんかになりたくない、よけいなお世話だと、女神さまはおっしゃてる。
 大竹のファウンド・オブジェは、どれもアマチュア・カメラマンが写真を撮りたくなるようなものだ。《ニューシャネルの扉》は、ニューという文字が古いというのが、古くさいギャグになっているけれど、森山大道が喜びそうなローカルな雰囲気があるし、直島の《旧歯科医院》は、いろいろと立体コラージュしているのが、老婆の厚化粧のようで、たしかに、フォトジェニックだ。
 《宇和島駅》のネオンサインがMOTの屋上に設置されたのを、大竹が現代美術の殿堂をローカル線の宇和島駅舎に変えてしまったなんて、大袈裟なことを言う。いったい、貧乏学生がラーメン屋の看板を盗んできて下宿に飾るのとどこか違うのか。
 『美術手帖』に楠見清という美術評論家が記号論風に《宇和島駅》を分析しているが、これが、トンデモない評論なのだ。まず、楠見氏はネオン看板《宇和島駅》が宇和島駅ではない美術館の屋上に取り付けられているから、デュシャンの《泉》に付けられた偽の署名「R.MUTT」と同じ役割をしていると言う(すげえ!)。そこまでは良いとしよう(よくないが)、しかし、美術館がレディメイドの巨大な便器だというのは、いくらなんでも飛躍しすぎだ。そもそも看板と署名は別のものだ。看板は建物の名称で署名は本人の証明だ。デュシャンの便器の看板(タイトル)はR.MUTTではなく《泉》だし、反対に美術館をレディメイドにしたいなら壁にS.OHTAKEと署名しなければならない。さらに欲張って美術館を便器に見立てたいならS.OHTAKEのかわりにR.MUTTと署名すればよい。そうすれば、現代美術の愛好家なら、楠見の望むように、中にある美術品を糞尿だと思ってくれるだろう(ホントだろうか)。
 ここまでは良いとしよう(メタファーには終わりがない)。しかし、デュシャンの次はマグリットなのだ。

 ここまで書いたのだが、とてもわたしの手におえない。楠見のトンデモぶりに恐れをなして、途中で削除した。それで、ネットで楠見清を検索したら、『美術手帖』の元編集長だったという経歴が書いてあった。そんなことはどうでもいい。かれのトンデモぶりをいくつか書いておく。

1.《女神の自由》が「美術史上最大の巨大レディメイド」だそうだ。もちろんファウンド・オブジェがレディメイドであることはある。しかし、美術評論でレディ・メイドという言葉を使うなら、デュシャンのレディ・メイドが基本で、大量生産された実用的な規格品が作家によってアートの文脈のなかに置かれたもののことだろう。ところが、この自由の女神はもともとアートの文脈のなかで制作された美術品だ。デュシャンがレディ・メイドの概念を拡張したからといって、いくらなんでも《女神の自由》とタイトルを付けたぐらいで、レディメイドにはならない。たぶん、ほかのポップアートの手法とこんらんしているのだろう。デュシャンのレディメイドは、非常に明確な反芸術の概念だ。いったい《女神の自由》のどこがレディメイドなのだろう。デュシャンは、一見して実用品だと判るものを使っている。しかし、この自由の女神は実用品ではなく美術品だ。だれだって、これは自由の女神を太らせたコピーだと思うだろう。ニョウボは、「女神の自由」というタイトルを見て、「ソフトクリームを食べながらビデオを見て、太るのはわたしの勝手でしょう」だと思ったという。もっともである。大竹の「既にそこにあるもの」はデュシャンのレディ・メイドとは似ても似つかぬ気の抜けたポップの手法(シミュレーショニズムかな?)になっているのだ。

2.作家の署名と作品のタイトルをゴッチャニしている。署名と駅名に〈サイン〉というカタカナのルビをふっている。それと署名と駅名と「名」の語呂合わせもしているらしい。そこからどんな結論がでてくるのか不明。どっちにしろ、作品のタイトルと作者の署名は別物だ。ポモにはこういうレトリック(?)が、多くて理解するのが難しい。

3.宇和島でもない、駅でもない美術館に《宇和島駅》の看板を設置したのは、「あえて重大な誤記をしている」のだそうだ。そんな大袈裟な。ただ、拾ってきた看板を別の建物に掛けたという、しょぼい悪戯じゃないか。それに誤記ってなんだろう。ひょっとしてシニフィアンが好きなフランス人がシニフィエ優位を誤記によって脱構築するとかいったのかなぁ。フロイトの〈言い間違い〉も混じっているみたいだし。記号論と精神分析をゴッタ煮にしたロザリンド・クラウスの影響なのかもしれない。わかりません。

4.ともかくこの人の文のつながりが容易にわからない。3.の「重大な誤記」の文の後、「その意味で」とつながるのだが、「その意味」がどの意味なのかわからない。たぶん「『あえて重大な誤記をしている』という意味で」という意味なのだろうが、それがどうしてマグリットの《イメージの裏切り》の現代的な変奏になるのかわからない。たぶん、宇和島駅でないものを宇和島駅というのが、パイプをパイプでないというマグリットのレトリックと似ていると言いたいらしいが、いくらなんでもこの理屈は無理だろう。
 美術館はpresentしているけれど、パイプはrepresent している。要するに絵なんだから、例の絵画の三層構造があって、指示代名詞のceciはこの三つのうちのどれを指しているか一義的には決まらない。額縁にいれたキャンバスを指すこともできるし、図像主題のパイプを指すこともできる。さらに"Ceci n'est pas une pipe."という文章自身を指すことだって可能だ。谷川渥が言うように、マグリットはあくまでも表象それ自体によって表象を問題にしている。看板と建物の関係とはまったくことなるのだ。楠見はこのことを理解していないことは次の〈5.〉を読めば判る。ついでに言っておくと、うえに引用したフランス語は通常の否定文である"Ceci n'est pas de pipe." ではなく”Ceci n'est pas une pipe.”となっていることに注意。もちろん両者では否定のニュアンスがことなっている。(このことについて書いていた人の名前を忘れた。探しても本が見つからない。見つけたら報告します)

5.楠見氏は、「《宇和島駅》は物と名前のシニフィカシオンを破壊する・・・」と書いているのだが、看板と建物の関係は指標目印の関係であって、シニフィアンとシニフィエの関係ではない。だから、看板を掛け違ったからといって、シニフィカシオンが破壊されることはない。看板はまぁレッテルと考えてもいいのだが、言葉は、ソシュールも言うように、レッテルではない。ところが、固有名詞は指標の性格を強くもっているのでレッテルとまちがえやすい(ラッセル等参照)。これは、普通名詞で考えればわかる。たとえば、リンゴというレッテルをバナナに貼り付けたとしても、リンゴのシニフィカシオンが壊れるわけではない。リンゴ(signifiant)は相変わらずリンゴ(signié)なのだ。それと同じように、宇和島駅という看板を東京都現代美術館に掲げても、宇和島駅は宇和島駅なのだ。看板と建物の関係はシニフィカシオンではない、隣接の関係だ。ただ、宇和島駅の看板が宇和島駅ではない別の建物のうえにのってるというだけで、ベンツのマークをトヨタのくるまに付けたようなものだ(ちょっと違うか)。もちろん「駅」は普通名詞だし、地名の「宇和島」にはデノテーションだけではなくコノテーションもあるし、さらに自分たちで作り上げた大竹のさまざまな神話を加えて、おまけに美術館の上にのせたからと反芸術の言説も織り交ぜて、キーワード満載、好き勝手なことをいっている。

6.さらに楠見氏は、「それは『宇和島』でも『駅』でもない建物に強引にボルトで固定されることによって、逆にその建物を固有の意味から切り離し、解放して見せる」と言うのだが、これは看板と建物の関係がシニフィアンとシニフィエの志向性ではなく、両者の空間的隣接性にあることの証左なのだ。シニフィアンとシニフィエをボルトで固定することはできないが、看板と建物はボルトで固定することも針金て留めることも、比喩ではなくできるし、そのことが看板の象徴的意味にももちろん影響する。しかし、そのあとの文がわからない。どうしてこれが「逆に」なるのか。駅という看板が掲げられたんだから、その建物は当然、肯定的(あるいは否定的)に駅という命名作用に曝される。逆ではない、順当なのだ。ヒュームは、隣接が推論の根拠になると言っていたぞ。
 「固定」という言葉が「切り離す・解放する」という言葉と意味が逆になっているだけで、事態が逆になっているわけではない。だいち、それがなぜ宇和島駅による美術館の支配ではなく、解放なのか分からない。おそらく、全共闘が安田講堂を占拠して解放というのと同じコトなのだろう。ここにはあるのは弁証法ではなく、単なるレトリックなのだ。

 さて、そんなことはともかく、看板と建物には弁証法的対立がある。《宇和島駅》の看板は自分の名をもって建物に命名し、建物の固有の名を否定する。すなわち看板(駅)は建物(美術館)を占拠し支配しする。ところが、逆に、建物は自分の固有の名《美術館》によって看板を美術品に変え、看板の命名権を否定する。美術館は看板を無力な展示品に変えてしまうのだ。これが、看板と美術館のあいだにある真正の弁証法的対立なのだ。
 弁証法的対立があるのに、なぜ、大竹の看板はつまらないのだろう。それは看板と建物が互いに外部にあるからだ。いくら対立していても、それは自己矛盾ではない。自己言及性も自己否定の契機もない。互いに相手を替わりばんこに否定しているだけだからだ。会田の《書道教室》にある自己言及性が、大竹の《宇和島駅》にはないのだ。
 そもそも大竹のファウンド・オブジェにはコンセプチャルなものがあるわけではなく、ただ、ちょっと面白いものを拾ってきただけなのだ。こどもがきれいな石を見つけると拾ってくるようなものだ。大竹のスクラップブックだってそうだ。面白いと思ったから拾ってはりつけただけなのだ。それが困じて、でっかいものまで見境なく拾ってくる。《宇和島駅》のネオンサインだってそうだ。ローカル駅のネオンサインの看板なんてちょっとレトロで面白じゃないか。ただそれだけのことだ。福助足袋や金鳥蚊取り線香の看板を集めるのと変わりない。少しゴミの方に偏っているけれど、大竹が自分で思っているほどオリジナルなコレクションではない。そのぶん手を加えているけれど、やっぱりありきたりのコラージュのような気がする。大竹の作品は、美術館より秘宝館に似合っている。和尚さんの趣味なのだ。
 
 以上、大竹の看板作品《宇和島駅》について述べました。
 会田誠の《書道教室》の記事と併せて読んでください。

『楠見清の「誤読」』

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2007.07.04[Wed] Post 23:29  CO:1  TB:0  -大竹伸朗  Top▲

会田誠《書道教室》

《宇和島駅》VS《書道教室》
                         「会田誠の美少女」からのつづき

 同じ看板でも、会田の《書道教室》が面白くて、大竹の《宇和島駅》がつまらないのはなぜだろう。まず、二つを比較してみる。
 
(ということで、比較して一覧表にしたのだけれど、WYSIWYGテキストエディターがうまく機能しなくて、一覧表が下の方に行ってしまった。どうしてもうまくいかない。スクロールして見てください)
 
 あまり良く整理されているとはいえないけれど、二つの看板の違いがおぼろげにでも理解できたろう。
 〈大きさ〉の視点から、《宇和島駅》と《書道教室》の違いをもう少しくわしく見てみよう。
 
 《宇和島駅》《桑田》《書道教室》の文字は三つとも大きい。
 《宇和島駅》は駅名の看板だから、遠くから見えるように大きい。
 《桑田》はスポーツ紙の見出し文字だと判るように大きい活字をさらに大きく誇張している。
 《書道教室》の文字が大きいのは、もちろん《宇和島駅》と同じように看板だからだ。
 しかし、書道教室の看板は街角に掲示するもので、そんな大きい必要がない。
 それなら、これは藤枝晃雄のいう「日常品の巨大化」という面白主義のアートなのだろうか。日常品の巨大化というのは、たとえば電話機を大きくして、それに押しつぶされるといったギャグのことだが、看板を大きくしても、ふつうはギャグにはならない。137mのHOLLYWOODの看板はギャグではない。飛行機から見ればちょうどいい。しかし、書道教室のような、今どきはやらない、ちっぽけな塾が、大きな看板を掲げたら、ギャグになる。
 しかし、《書道教室》の面白さは看板の巨大化だけににあるのではない。《書道教室》がアクリル板で作った本物の看板だと、はじめからは、判らない。ただ、書かれている文字が〈教室〉だから看板のような気がするだけだ。しかし、看板だったら四つの文字をそんな風には並べない。これは半紙に書いた習字の文字だ。だから、これは、看板ではなく、半紙の文字を巨大化した「面白主義」の作品なのだ。
 書は手で書く、あるいはせいぜい腕を使って書くのだから、大きさには限界がある。手書きの文字には自然な大きさがあるのだ。だから、巨大な電話機で電話が掛けられないように、巨大な楷書体を筆で書くのは不可能だ。百畳敷きの畳の上で、太い筆を振り回して、アクション・ペインティングのつもりか、勢いが良いだけの、ぐじゃぐじゃな文字を書いてアートだなんていうが、くだらない。くやしかったら、手本どおりの楷書体で書いてみろ。
 じつは、《書道教室》には二つの自己否定の契機がある。一つは上に書いたように、手書きの文字が巨大すぎて、手書きが不可能なことだ。それから、もう一つは、手書きの書を教える塾の看板が手書きではなく、コンピュータのフォントで切り抜かれていることだ。
 《書道教室》がデジタル・フォントだとは、はじめからは判らない。しかし、近づいて、それがアクリル板を切り抜いて貼り付けた正真正銘の看板だと判ったとき、文字はコンピュータで書いたとわかるのだ。
 リキテンスタインの大きな筆触(ふであと)を描いた《Brushstroke》という作品は、どこにも筆のタッチがなく、印刷した漫画のような作品なのだが、筆触は黒い輪郭線で立体的に描かれていて、実際のbrushstrokeとは似てもにつかない。したがって、《Brushstroke》にbrushstrokeがないという一種のジョークになっている。
  しかし、書(しょ)というのは、文字の一画々々が一つのブラッシュ・ストローク(ふであと)になっている。毛筆に墨を付けて紙に書くのだから、にじむこともかすれることもあるだろう。ところが、楷書体は、ニジミやカスレを排除して、「ふであと」を純化する。確かにシンプルで美しい。実用的な読み書きが書道になって、美しい文字が正しい文字になり、お手本になった。懸腕直筆明窓浄机、書道が堕落して習字になった。
 書がレタリングになって毛筆の良さはなくなった。そして、いちいち手書きの文字をスキャナーしなくても、デジタル・フォントで、どんなに大きな文字でも手書き風に自由自在にかけるようになる。毛筆の文字をコンピュータで書いたというだけなら、小さい文字でもいいのだが、それではアイロニーがわからない。毛筆を教える書道教室の看板文字を、毛筆では書けないぐらい巨大な楷書体で書いたのだ。これが、玄関に掛ける看板なら、杉の板かなんかに師範が揮毫すればたりるだろうが、これだけ大きいと楷書体は不可能だ。
 これは特注品だが、規格品であり、その意味ではレディ・メイドなのだが、背後から照明をつければ白い乳白色のアクリル板は美しく輝いてなかなかポップで面白い。この面白さはたぶんアメリカ人には理解できないだろう。かれらは、漢字をTシャツのロゴにしてよろこんでいるが、それはジャポニスムであって、《書道教室》のようなアイロニーがあるわけではない。書道はカリグラフィーとは別物だし、いわんや習字の持つキッチュな感覚を欧米人が理解するのはとうてい無理だ。そんなことは会田は先刻承知のうえなのだろう。
 それでも、《書道教室》のポップ感覚は、リキテンスタインに似ている。リキテンスタインは聖書ではなく漫画の登場人物を印刷技術の描法を模して手で丁寧に描いたのだが、会田は書というキッチュな手書きの文字をコンピュータのデジタル・フォントでまるで手書きのように描いたのだ。方法は全く逆だが、両者には同じように反美術のアイロニーが隠されている。
 以上、あらためて大竹の《宇和島駅》のつまらなさを説明する必要はないだろう。《宇和島駅》は自己否定の契機がないのだ。楠見清は美術手帖(2006/12)で《宇和島駅》がMOTの屋上に設置されているのをシニフィカシオンの破壊のようにいっているが、そうではない。あれはたんなる看板の掛け違いだ。
PS:藤枝の面白主義は、たんなる日常品の巨大化のことではない。
        



   《宇和島駅》 《書道教室》
メディウム ネオン管 アクリル板
制作方法 ガラス細工            職人仕事(工芸)        
デジタルフォント コンピュー制御
規格品
文字大きさ 駅舎に設置されていた実用品
遠くからも見える大きさ
実用品ではない。誇張
近くからだと全体が見えない。
文字 色  ネオンの赤   注意色
 象徴的意味なし 装飾的
 墨の黒(写実的)
 白と黒は書道の象徴 
文字 配列  横書き 読みやすい   横書きか縦書きか不明 
 読みにくい
文字 字体        看板文字
 デザイン  レタリング
習字の手本 楷書体
カリグラフィー 
文字規範性  なし 美しい文字 正しい運筆
キッチュ なし サブ・カルチャー oldポップ あり ミドル・ブロー アカデミズム
 レディメイド  ファウンド・オブジェ  注文生産品 工業規格品
自己言及性  なし 書道教室の文字が書道の手本になっている。
自己否定性  なし 手書きの手本がコンピュータフォントを使って切り抜かれている。
 図形性 あり 強くあり


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2007.07.04[Wed] Post 22:40  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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