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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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会田誠の美少女


    文字と絵画

 「アートで候。」展で、会田のこれまでのビデオ作品を編集したものが上映されていた。コタツに入ったビン・ラディン、縄文式怪獣の雲古、女装した会田を犯す会田など、あまり上等とはいえないギャグの中で、唯一笑えたのが、〈美少女〉という文字を見ながら会田が全裸で自慰行為をしているビデオだ。
  マシュー・バーニーとアート・リンゼイは、自分たちの「オナニー・ショー」を自然再生のメタファーだなんて主張していたらしいが、会田のパフォーマンスは、名辞を実物の代わりにするという定番のギャグだ。レストランでビフテキを注文したら、ビフテキと書いた紙が皿にのせて出て、客がそれをナイフとフォークで美味しそうに食べたという話だ。
  文字(言葉)を見て興奮するということは分からないではない。中学生の頃に辞書をめくりながら興奮した憶えがあるだろう。アダルト・ビデオはそういう文字を使ってタイトルを付けている。しかし、文字を大きくするとよけいに興奮するのだろうか。
  絵ならそういうこともあるだろう。ピンナップは、見開きでは満足せずに、三つ折りの綴じ込みにしたり、等身大のポスターにしたりする。大きいほうが興奮する(らしい)。
  しかし、文字は大きく書こうが小さく書こうが同じ意味だ。明朝体で書こうがゴシック体で書こうが美少女は美少女だ。絵だってほんとうは文字と同じだ。《大山椒魚》の大きい美少女でも《滝の絵》の小さい美少女でも、美少女は美少女だ。現象学的に言えば、図像客観が大きくても小さくても、図像主題は指示対象の現実の大きさに見えるということだ(HP『絵画の現象学』参照)。
  ところが、実際は、大きい美少女の絵が好まれるは、絵は言葉と異なり、類似によって対象をあらわすアナログ記号だからだ。線や色の違い、あるいは全体と部分の関係などが対象の現れ方に影響する。大きさの違いは、我々の絵を見る視線の動きを変えるし、そもそも、等身大の美少女の絵は身体感覚(触覚)を刺激して美少女のイリュージョンを強める。
  アナログ記号の絵では、美少女とそうではない少女との違いは連続的だが、デジタル記号の言葉では離散的だ。言葉は差異のシステムに基づいて約定的に概念を示す。もちろん文字も差異に基づいている。〈大〉と〈犬〉と〈太〉は、点の有無と位置が弁別的である。二項対立ではないが、差異のシステムを作っている。しかし、差異のシステムは大と犬と太が別の言葉をあらわす記号として使用できるというだけで、差異自体が意味を生み出すわけではない。言葉と概念の結びつきは恣意的なのだ。(といっても、差異のシステムと概念があらかじめ別々にあって、それがあとから組み合わされるわけではない。また文字言語と音声言語の関係についてはここでは述べない。文字は必ずしも音声を通して意味に到達するわけではない)。
  文字はシステムあるいは構造だから、〈犬〉の点の位置を変えると意味が変わる。しかし大きさを変えても、意味はかわらない。大きさは弁別的ではない。もちろん、色も字体も運筆も大きさと同じように弁別的ではない。
 しかし、文字はすべてが言葉(の意味)に回収されてしまうわけではない。文字は依然として図形であり、象徴機能を持っている。
  会田は、そのことを文字を大きくすることで見せてくれた。以前に描かれた《桑田》と今回の『アートで候。』展の最後を飾っていた《書道教室》だ。二つの作品は文字を大きくするという点では、同じ方法なのだが、その表現するところはまったく違っている。
  桑田は多義的な言葉である。十ポイントの活字ならば、「クワタ」と読むのか、「ソウデン」と読むのか判らない。通常、文字は文章の中で言葉(読み)と結びつく。「桑田、メッタ打ち」とあれば、クワタと読み、「桑田変じて滄海となる」とあれば、ソウデンと読む。ところが、会田の《桑田》は、文脈ではなく、大きさと色で読み(意味)と結びつく。赤い縁取りした活字体で大きく「桑田」とあれば、スポーツ紙の一面の見出し文字だ。だからこの文字は、クワタと読んで桑田真澄のことなのだ。そして、もちろん赤い色は敗戦投手の色だろう。
  《桑田》では、大きさや色という絵画的なものが、文字の言語的なものを方向付け(投錨:バルト)る。しかし、《書道教室》では、文字の図形的絵画的なものが、文字の言語的なものを抑圧し、文字と言葉の結びつきを壊している。
  《書道教室》は巨大である。《桑田》は、まだ、全体が見える。しかし、《書道教室》は大きすぎて読めない。一階に降りる階段の横の壁いっぱいに掛けてある。ひょいっと見ると、この看板が目に飛び込む。あんまり近くて何がなんだか判らない。目が図像意識から文字意識に切り替わらない。少し、離れて全体を見渡したが、絵だか文字だか判らない。
 正方形の白い板に、正方形の文字が、たてよこ、同じ間隔で二つずつならんでいるので、四つの文字がバラバラになって、読む順番がわからない。「教書室道」とも読めるし、「書室教道」とも読める。あるいは「教道室書」とも「書道教室」とも読める。意味が一瞬、解らない。目がまわる。アクリル板をカットした文字は、本物の看板のようみえる。レディ・メイドかもしれない。 「道」の字の「しんにゅう」を見ていると、なんだか不愉快になってくる。これは習字のお手本なのだ。〈書〉〈道〉〈教〉〈室〉の文字は、習字の教則本の「正しい」運筆を示して、曰く「汝、斯くの如く書くべし」と。文字は法であり、掟である(バルト『エルテ または 文字通りに』)。しかし、その法を述べる文字が看板屋のレタリングなのである。たしかに大きい文字は暴力である。しかし、大きな声で、むなしく叫ぶだけである。
  文字は弁別的な特徴によって言葉あり、図形的な特徴によって象徴となる。《美少女》は赤い大きな漢字である。漢字はもともと絵だったのだから、記号の背後に図像がある。たぶん、会田は美少女の文字にフェティッシュな欲望を感じているのかもしれない。あるいはまた美少女の文字を高く掲げて、見上げているのだから、美少女教の信者かもしれない。しかし、フェティシズムを持ち出せば、何だって説明できるのだから、面白くない。《美少女》のビデオは、絵ではなく等身大の文字を見ながら全裸で自慰行為をする間抜けな会田誠ですと、すなおに受け取るのが、つまらないギャグにたいする礼儀だろう。そうすれば、《書道教室》の面白さも分かるというものだ。
  ニョウボは《書道教室》を見て、いささか興奮して、「素晴らしい!すばらしい!」と繰り返し、階段を途中まで降りて、また、戻って《書道教室》を見ていた。彼女は習字のお手本の文字が小学校のころから大嫌いで、とくにしんにょうの尻尾のところが少しかすれていたりするとイライラしたのだが、それが会田のこの作品を見て、五十年の胸のつかえがおりたそうだ。《浅田批判》よりも《書道教室》のほうが良いだって。いつからアート好きになったんだ。

  会田は《滝の絵》で千住のパロディを、《浅田批判》で岡崎乾二郎のパロディを、そして《ヴィトン》で村上隆のパロディを作っているのだが、《書道教室》は大竹伸朗の《宇和島駅》のパロディではないか。会田にそのつもりがなかったのかもしれないが、期せずして大竹の看板批判になっていることはまちがいない。

つづく: 大竹伸朗の《宇和島駅》批判へ(近日アップ 乞御期待)

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2007.06.24[Sun] Post 01:25  CO:3  TB:0  -会田誠  Top▲

マルレーネ・デュマス

「マルレーネ・デュマス   ブロークン・ホワイト」展(東京都現代美術館)

 五月二十三日の産経新聞の文化欄にヘンリー・ダーガー展といっしょにマルレーネ・デュマス展の展評が黒沢綾子署名で載っているのを見て驚いた。カットの写真が展覧会のタイトルにもなっている《ブロークン・ホワイト》なのだが、これはどう見たって、女のエクスタシーの表情だろう。もっと正確に言えば、男が女を凌辱している場面にしか見えない。おそらく黒沢綾子はジェンダーとかセクシュアリティーの視点から、カットにこの作品を選んだのだろうが、新聞にふさわしいものとは思えない。こんなことを言うと、おまえこそ差別意識があるからだと言われそうだが、こんな図像はすでに巷に溢れていて誰もが見飽きてしまったもので、たとえばマネのヌードが当時持っていたような挑発的なものはどこにもないように思えるが、それはともかく、マルレーネ・デュマスの面白さはジェンダーやPCというよりも、絵画による写真的なるものの模倣盗用にあるのではないか。
 写真が誕生したときから、画家は写真の再現描写を利用してきた。アングルはデッサンの補助にモデルの写真を使っていたし、ドラクロアやドガも写真を利用していたことはよくしられている。他方で、その写真的な再現性から離れていくモダニズム(グリーンバーグ)の流れが生まれた。彼等は、明暗描写から色彩へ、彫刻的なイリュージョンから平面性へと変わっていき、自然の再現をすべて捨てたあと、その反動としてポストモダンが生まれ、再び写真を利用するようになる。しかし、モダニズムを経たあと、絵画は再び写真的な明暗描写や彫刻的なイリュージョンにもどることはできない。写真をデッサンの補助手段にするのではなく、写真が写真であるところのものを絵画というメデュウムをとおして探求したのだ。フォト・リアリズムも、一見して写真的再現描写を利用しているように見えるが、けっしてそうではなく、階調性ばかりで輪郭線がないという写真の「アンリアル」な描写のパロディを作ったのだ。
 たぶん現代的な意味で写真を利用した最初の画家はフランシス・ベーコンだろう。かれは写真の瞬間性をブレや歪みや擦れを使って表現主義的な絵を描いた。また、ゲルハルト・リヒターはボケの手法を使って写真的リアリズムを追究し、ホックニーは写真的な瞬間のポートレイトを明暗ではなく線で描き、大竹伸朗もモノクロ写真の白黒の階調をそのまま模写したり、あるいは輪郭線をなぞって素描を描く。
 それならマルレーネ・デュマスは、写真の何をパスティッシュしたのだろう。
 マルレーネ・デュマス展の会場に入った瞬間、写真へのオマージュだと判る。WAKO WORKS OF ARTで見たリュック・タイマンスを思い出すが、かれよりずっと写真的である。ポートレイトは一瞬の表情をスナップしている。モノクロのイタズラ描きのような顔もあるが、どれも魅力的な一瞬だ。大胆な筆使いのように見えるが、よく見れば繊細なタッチである。しかし、写真的な明暗の描写がない。陰影もモデリングも写真的ではない。ただ、不意をおそわれたような一瞬の表情がスナップ写真なのだ。
 写真のリアリズムには、描写的リアリズムだけではなく、スナップ的リアリズムというべきものがある。たとえば、フェルメールの《青いターバンを巻いた少女》はスナップ的リアリズムで少女の一瞬の表情を捕らえている。
 デュマスの絵が写真に見えるのは、モデルがカメラの被写体になっているからだ。カメラを向けられ、巫山戯たり、気取ったり、睨んだりと、みんな写真で見たことがある表情なのだ。デュマスの絵はスーパー・リアリズムでもないし、ブレでもボケでもないけれど、表情が写真に撮られるときの一瞬の表情だから、写真に見えるのだ。(墨絵のような白黒のにじんだドローイングがあるけれど、これは写真のブレやボケには見えない)
 と言う具合になんとなく自分勝手な理屈を付けたのだが、近頃の写真を利用した絵画の氾濫には、なんとなく納得できない気持ちがあったので、展評を書かないでほっておいた。ところが、『美術手帖6月号』に載っていた長谷川繁の「マルレーネ・デュマスとオランダ絵画」を読んで展評を書く気になった。
 長谷川は、いま流行のジェンダーや人種問題ではなく、絵画的見地(筆触や色彩、構図、絵具遣い、絵肌)や美術史の視点からデュマスの技法を解明しているのだが、オランダの「集団肖像画」がデュマスに影響を与えたと言い、それを説明するために、フランス・ハルスの警備隊の集団肖像画とデュマスの《教師》の写真をならべて載せている。長谷川は、この担任と生徒22人のクラス写真を集団肖像画の影響だというのだが、たしかに、画家らしい鋭い指摘だが、正確にいうと、《教師》は集団肖像画ではなくて集合写真なのだ。同じだと言うかもしれないが、そうではない。集団肖像画は一人々々の肖像画を集めたものだが、集合写真は、ある時ある場所にみんなが集まった記念として、いっしょに並んで写真機の方を見て撮ったものだ。肖像画のようにいろいろなポーズをとってはいない。みんな正面を見なければならない。手は重ねて、足首は組んでいる。目だけ余所見をしている生徒もいる。女教師はすこし左を向いて、目だけカメラを盗み見ている。
 集合写真は集団肖像画ではない、一瞬を切り取ったスナップ写真だ。もちろんすべての写真はスナップ写真なのだが、ようするに、写真機が発明されてはじめて集合写真という習慣がうまれたのだ。デュマスはこの集合写真の儀式性を見抜き、それを記号化することにより、写真のリアリズムと絵画の表現主義を結びつけた。フランシス・ベーコンには写真のリアリズムはない、ゲルハルト・リヒターには表現主義的なところがない。ただ、デュマスだけが写真のリアリズムと絵画の表現主義の総合に成功したというわけだ。
 だからといって、デュマスがベーコンやリヒターよりも優れているといっているわけではない。デュマスのリアリズムと表現主義の総合は、ただ絵画の表層的なところでやっているだけで、絵画の内在的な問題(絵画の三層構造や形式のこと)に迫っているわけではない。写真のリアリズムは被写体のリアリズムであり、被写体は図像の外に存在する。また、表現主義が表現するという作者の内面も、言うまでもないが、作品の外部にあるものだ。そういう意味では、写実主義も表現主義も誇張されれば、どちらも皮相で退屈なものにならざるを得ない。
 デュマスの絵は、リアリズムよりも表現主義が誇張されている。ムンクの通俗性の一歩手前だが、かろうじて写真のリアリズムで救われている。また、デュマスが有名な写真家や音楽家とコラボレーションをするのは、自分の作品が単なる主観的な感情の吐露ではないことをアピールするためだ。荒木経惟は女性蔑視的なポルノグラフィーを美的女性崇拝だと言い張って、まんまとフェミニストの追求を逃れた写真家だし、坂本龍一も昔風に言えばアンガジェしている知識人だから、この展覧はインスタレーションというよりも、サロンなのだ。ムンクの《叫び》がサロンに「世紀末の不安」の話題を提供したように、デュマスはジェンダーや人種、セクシュアリティーなどの現代的話題を提供する。
 そんな中で《教師》は、誇張という欠点を免れている。表現主義的要素と写真のスナップ的リアリズムに節度があって、見ていて実に気持ちが良い。実物は見ていないがたぶんこの絵には絵画を見ることの本来の楽しみがあるのではないか。
 それから、これを書いている途中、たまたま新日曜美術館のアートシーンを見たら、またもデュマスの《ブロークン・ホワイト》のエクスタシーの表情をアップで映し、アナウンサーが「どう見るかは、見る人それぞれにゆだねられている」といっていたが、これじゃ、そのうち荒木経惟の女性性器のクローズ・アップ写真を映して、「どうみるかは、見る人それぞれにゆだねられています」とか言い出すのではないかと心配だ。視聴料支払いを拒否するぞ。 
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2007.06.12[Tue] Post 20:43  CO:0  TB:0  -Marlene Dumas  Top▲

松田正平


     松田正平のマチエール

 アートフェア東京の瞬生画廊のブースで松田正平の絵を二枚見た。一つは《周防灘》で十号、もう一点はそれより小さい作品で、煙草を持った手を描いたものだ。隣に展示してあった香月泰男や、別の画廊の熊谷守一は、松田正平と比べると、ずいぶんとみすぼらしく見えた。
 松田正平をはじめて見たのは、二年前の国展だった。知人の絵を探しながら順番に展示室を覗いていくと、先を歩いていた女房がめずらしく昂奮して手で合図をする。指さす方を見ると、赤い上着を着て腕を枕に寝ている男を描いた小さな絵があった。物故作家の松田正平の《眠る人》だった。
 松田正平については、洲之内徹がが褒めているので、いまさら付け加えることはない。本当の絵描きが描いた本物の絵ということだろう。そうはいっても、松田のライフスタイルと作品のスタイルとは別のことで、アトリエが乱雑だから彼の絵が自由奔放で面白いわけではもちろんない。
 洲之内徹は、松田の絵は文人画ではないと、わざわざ断っているが、たしかに松田には文人画に誤解されるようなところがある。松田のデッサンは上手いのかヘタなのか判らない。線だけではない、マチエールというのか、塗ったり削ったりした絵具の表面の処理もヘタなのか上手いのか判らない。ところが、色と線の二つ合わせて見ると、合わせるといっても、もともとが一つのものなのだから、ただ絵を絵として当たり前に見ればということだが、そうすれば、そこには歪んだ線や擦られた絵具ではなく、水平線に区切られた海と空にたしかに雲と船が浮かんでいる。アルフレッド・ウォリスの港の絵のような稚拙なところはすこしもない。
 薄塗りでキャンバスの織り目が見えるところもある。絵具が削られているところもある。いったい松田のマチエールはマチエールと言えるのだろうか。そうは言っても、そもそもわたしはマチエールというものの正体がわからない。フッサールに従って、絵画を物理的図像、図像客観、図像主題と三つに分ければ、当然物理的絵画に属するものだろうが、物理的絵画といっても、支持体・絵具・筆触・肌理といろいろあるし、そもそも絵画の三層構造といっても、そんなに簡単にすっぱりと分けることはできないだろう。
 「これがマチエールだ」と思ったことが一度ある。世田谷美術館で吹田文明展を見たときのことだ。版画(凸)というのは印刷物なのだから、絵の具が盛り上がっているわけでもなく、表面はなめらかである。それなのに版木の木目やベニヤの模様が露骨にそこにあるので、見ていて疲れてしまった。ピクトリアリズムの写真をみるとき、被写体ではなく、プリントの具合をみるような感覚に似ている。やっとのことで、文明展も見おわり、見るつもりのなかった第1回収蔵品展『詩に触れた作家たち』を見るために二階に上がった。最初に展示してあったのは須田寿の油絵だった。それを見た途端、それまでの息苦しい気分がなくなって、文字通り呼吸が楽になった。油を抜かれた絵具のマットな絵肌が気持ちよかった。わたしはその感覚をたしかめるように須田の絵を何枚か見ていった。ところが三作目ぐらいですぐに飽きてしまった。たしかに、ベージュ色のマットな色調が実に微妙に描かれている。しかし、単調なのである。マチエールが確かに心地よい感覚を与えてくれる。しかし、それは表面的なもので、決して絵画の面白さではない。須田の絵は大家の凡庸な大作にしか見えなかった。
 なぜ、須田のマチエールはすぐに飽きてしまうのだろう。その訳は絵画の三層構造にある。マチエールは一番下層の物質的な絵画の層である。物理的な層というのは支持体と絵具の二層になっている。それは、知覚されている事物であり、ハイデッガーのいうように、絵(Bild)とは猟銃や帽子と同じように壁に掛けられるものだ。事物(Ding)は知覚できるものだ。支持体も絵具も知覚できる。しかし、支持体はふつうは絵具に覆われている。この絵の具の層がマチエールなのだろうか。クレーのような薄塗りや塗り残しがあれば、支持体が見えるけれど、こいうのもマチエールというのだろうか。
 あるいは、タピエスの土壁のようなザラザラした厚塗りの表面もマチエールといえるのだろうか。ただの事物(Ding)ではないのか。そのことで思い出すのは、原美術館の「タピエス―スペインの巨人 熱き絵画の挑戦展」(2005年3月)を見にいったときのことだ。最初の展示室に、まるで土壁に文字を彫ったような絵が展示してあった。まだブログを書く前のことで、あのころは記号(sign)と図像(icon)の違いに関心があって、クレーの絵などを面白がっていたのだが、タピエスの古代遺跡の壁に象形や楔形の文字を書いたようなような絵は、面白いことは面白いのだが、どうも納得できないところがあった。次の部屋にいこうとすると、女房がキョロキョロしている。何をしているのかと訊くと、彼女曰く「これって、タイトルが無いのかしら」といって、煉瓦作りの暖炉跡を指差した。わたしは、またニョウボの悪ふざけかと思ったが、どうもそうではなく、本当に<潰した暖炉>をタピエスの作品と思ったらしい。それにしても良くできたギャグだ。タピエスの絵画はまったく潰した暖炉なのだ。砂や土で固められた壁がただそこにあって、絵画のイルージョンはなにもない。タピエスの作品は絵画ではなく、文字通り剥ぎ取られた壁なのだ。
 美術評論家はマチエールという言葉をどういう意味で使っているのだろう。もともとは材料とか質料とか物質のことだから、タピエスの絵はマチエールそのもののはずだが、そう見えないのは、おそらく、絵画のマチエール(絵肌)というのは、直接的な知覚の対象である事物ではなく、むしろイリュージョンに近いのではないか。
 とは言っても、イリュージョンと言う言葉はひじょうに曖昧に使われており、正確に、絵画(図像)における知覚とイリュージョンを区別するのはそう簡単なことではない。わたしは、物理的図像、図像客観、図像主題の三層構造を区別して、イリュージョンという言葉は使わないようにしているのだが、どうしても使わなければならないときは、出来る限りグリーンバーグのイリュージョンの意味で使うようにしている。
 というのも、三層構造の中で、何処までが知覚意識で、どこからが図像意識なのか明確に区分できないからだ。物理的図像は知覚の対象であり、図像主題は図像意識の対象である。この図像意識というのは通常の絵を見る意識のことで、グリーンバーグの空間のイルージョンに近い意識だ。しかし、物理的図像と図像主題を媒介している図像客観は知覚の対象なのか、図像意識の対象なのか、入り交じってハッキリしない。たとえば、白い紙に二つの三角形が接して描かれている。そしてそれが三次元の四角錐に見える。さらにそれが巨大なエジプトのピラミッドに見える。二つの三角形は知覚されている。ピラミッドは図像主題である。それなら四角錐の立体にみえるのは、知覚だろうか図像意識だろうか。二次元に描かれた物が三次元に見えるのだからイリュージョンのようにも思える。しかし、これは知覚でないものを知覚と思いこむ幻覚ではなく、錯視という正常な現象で、オップ・アートの運動視だって、ヴィトゲンシュタインのアスペクトだって、地と図の交替だって、普通の事物の知覚でもないし、図像意識ではもちろんない。
 絵を見るということのすべての根拠は、物理的図像(支持体に塗られた色素)を知覚するということにある。しかし、通常の鑑賞的態度で絵画を見るとき、われわれは物理的図像や図像客体を見るのではない。支持体や絵具でもなく、形や色彩でもなく、人物や林檎や風景を見ている。しかし、無理矢理注意を向ければ、図像客体や物理的図像を見ることもできる。だからといって、絵画のこの三つの層が明確に分離されているわけではない。相互に浸透し合っているといったほうが良いだろう。マチエールは質料だから、なによりも物理的図像であるが、それだけではなく、図像客観でもあるし図像主題にだって侵入する。藤田嗣治の乳白色のマチエールは絵肌はでもあるし女の肌でもあるのだ。
 それぞれの層は、互いに浸透しているだけではなく、互いが矛盾対立してもいるのだ。下の層は上の層を基礎づけ、上の層はしたの層に反響する。グリーンバーグは「モダニズムの絵画」のなかで、この弁証法的緊張について述べている。古大家たちはイリュージョンによって絵画のメディアムである平面的表面、支持体の形体、顔料の特性を隠してきたが、他方では、絵画の平面性を示す必要も感じていた。その明らかな矛盾・弁証法的緊張をモダニストは隠蔽することをやめて絵画の平面性を強調することによって、絵画の独自のメディアムにむかったのである。
 したがって、絵画のおもしろさは絵画の主題のおもしろさではなく、絵画のメディアムとイリュージョンの間の矛盾、現象学的に言えば、絵画の三層構造のあいだの弁証法的緊張の中にあるのだ。写真がつまらないのはこの三層が密着しているからだ。われわれの視線は写真の三層を直線的に貫いて主題(Bildsujet)到達し、さらに主題を超えて指示対象(被写体)に到達するのだ。
 この写真の直接性を壊そうと、いろいろなことが試みられる。ピクトリアリズム、アウトフォーカス、ブレ・ボケ、階調性の誇張、色相の変換、モンタージュ、広角レンズの使用など、いろいろあるが、成功したものは何もない。三層構造をこわしただけでは、弁証法的緊張は生まれないのだ。
 ここまで来れば、なぜ須田寿のマチエールがつまらなくて、松田正平のが面白いか理解できただろう。須田のマチエールは他の層との緊張がないのだ。たしかに物理的な層を露出させてはいるが、それは全体を覆って装飾的であり、ピクトリアリズムの写真のマットな表面のように、ただ趣味的な雰囲気を伝えているだけの大家の大作なのだ。
 それに比べ松田正平のマチエールは、すでに述べたように、三層のあいだに弁証法的緊張があるのだ。松田の絵が、見ていて飽きないのはたぶんそのせいだと思う。

  PS:絵画の三層構造については私の「絵画の現象学」を参照。まだ、未完です。絵画の面白さは三層相互の弁証法的緊張にある。美とは、カントのいうように構想力と悟性の自由な戯れではなく、知覚意識と図像意識のあいだの「弁証法的戯れ」だというのが、暫定的なわたしの美学です。にほんブログ村 美術ブログへ
2007.06.06[Wed] Post 23:04  CO:0  TB:2  美術展評  Top▲

会田誠の浅田批判

   「アートで候。会田誠 山口晃展」 

 「アートで候」展の二階、「山愚痴屋・澱エンナーレ2007」 のコーナーにあった会田誠の浅田彰批判の作品が面白かった。その絵には以下のキャプションが付いている。

 
    会田 誠
   
    美術に限っていえば、浅田彰は
    下らないものを褒めそやし、大
    切なものを貶め、日本の美術界
    をさんざん停滞させた責任を、
    いつ、どうのようなかたちで取る
    のだろうか。
   

  (以下、この作品を《浅田批判》と名付ける)

  キャプションを読めば、この作品が岡崎乾二郎のパロディだということはすぐに判る。浅田は椹木との対談で、岡崎がスーパーフラットを単純なジャポニスムではなく、世界の美術史の文脈なかで考えることができる画家だと絶賛しているのだが、その岡崎の絵とそっくりなのだ。そっくりなのは絵だけではなく、タイトルも長いところがパロディになっている。ネットで見られる岡崎の作品のタイトル(キャプション)の一つを面倒だけれど、作品理解に役立つので引用する。
 
 《平面ばかりつづいて家のひとつもない真一文字の道を猛スピードで 走っていれば、なおさら気分も座ってくる。この道や行く人なしに秋の暮。日除けの陰で顔は緑に蔽われ、そのくせ眼の輝きはまっすぐ向こうを見つめている。 野菜が少なかろうと海で魚がなかろうと恐れるにたりない。米を一粒播くとかならず三百粒の実をつける。》

 たぶん、デュシャンの反再現=表象的なタイトルの向こうを張ったのだろうが、それにしても、ポストモダンどころか、昔、詩の投稿欄で読んだことがあるような思わせぶりなキャプションではないか。絵も同じように思わせぶりなのだが、その思わせぶりなところを会田は誇張してパロディにしている。まず、思わせぶりな余白を竜安寺症候群的な間抜けな余白にして、色も岡崎の中間色よりもさらに曖昧する。また、会田は絵の具を指に付いた雲古のようにキャンバスに擦りつけているが、これも岡崎の思わせぶりなタッチのパロディなのだろう。
 会田の絵をパロディではなく、オリジナルの抽象画として見ると、絵の具がこびり付いているキャンバスというだけのリテラルな事物にしか見えない。絵の具は、ただの絵の具であり、余白はただの生のキャンバス地に見えるということは、それがイリュージョンを持った絵画平面ではなく、汚れた平たい物体だということになる。会田は、岡崎の抽象画が、まったくイリュージョンの欠いたリテラルな事物だと揶揄しているのだ。
 たぶん、会田がいうとおりなのだろう。しかし、絵画のイリュージョンというのは、美少女や飛行機やウンコのような自然のイリュージョンばかりではない。抽象画には、歩いて入っていけるようなリアルなイリュージョンでなくとも、目で見ることができる視覚的イリュージョはあるのだ。そして、モダニズムはこの目で見るだけのイリュージョンさえ抑圧し、「絵画が絵画であることをやめて任意の物体になってしまう手前ぎりぎりまで際限なくこれらの制限条件を押し退け得ることに気づいてきた(「グリーンバーグ批評選集」藤枝晃雄編訳p69)」のだが、グリーンバーグ自身が言うように、絵画がイリュージョンを持つためには、
ただの白いキャンバスでありさえすれば十分なのだから、ミニマル・アートがイリュージョンのない完全な知覚の対象(任意の物体)を作るためにはキャンバスを捨て、立体に向かわなければならなかったのである。(平面/絵画は観者の身体空間とは切断されているが、立体/彫刻は観者の身体空間と同一の空間に存在している。物を知覚すると言うことは、知覚している人の身体(眼球)とその知覚している物とが連続した空間に所属しているということなのだ。)
 おそらく、ミニマル・アートが立体でしかやれなかったことを、岡崎は絵画平面でやることに成功したのだろう。浅田は岡崎が平面性を追求するフォーマリストだといっているのだから、グリーンバーグが不可能だといった、イリュージョンの全くない作品を、立体ではなく、絵画平面で作ることにきっと成功したにちがいない。わたしは岡崎の作品をネットでしか見ていないので、彼の作品が視覚的イリュージョンをもっているのか、それともリテラルな事物なのかはっきりしたことは判らない。いずれ、浅田彰のキューレーションで岡崎乾二郎の回顧展があるだろうから楽しみに待つことにしよう。
 会田の浅田批判に関しては、浅田がモダニズムの図式を語るばかりで、いったい浅田自身の立場がどうなのか一向に要領をえないので、なんともいいようがないが、ただ、会田によれば、浅田は「下らないものを褒めそやし、大切なものを貶め」る奴だというのだから、たぶん、浅田は岡崎のようなリテラルな抽象画を褒め、会田のようなポップなイラストは貶しているのだろう。
 会田の浅田批判には「抽象/具象」や「モダン/ポストモダン」といった二項対立(?)があるのだろうが、そんなことよりモダニズムに内在する平面性や視覚的イリュージョンといった『モダニズムのハードコア』として考えたほうがおもしろいのではないか。岡崎も浅田も無視して、《浅田批判》を抽象画としてもう一度見てみよう。
 ネットなどを見ると、《浅田批判》は、たんなる楽屋落ちではなく、アートとしてもなかなかおもしろいと評判のようだ。女房も、この作品が「アートで候。」で一番おもしろい、この展覧会で会田がいったい何をやりたいのか判らなかったが、この絵を見たとたんに嬉しくなって「わーぃ!」と叫びたくなった、キャプションを読まなくても抽象画のギャグだとすぐにわかったそうだ。岡崎のパロディとしてででなくとも、一般的なモダニズムのギャグとしても良くできているということだろう。
 たとえば、余白がなぜキャンバスの生地に見えてしまうのか、モーリス・ルイスの《Gamma Zeta》(川村美術館蔵)の余白と比べれば明らかだろう。ルイスの余白は色が塗られた部分と同じ厚みをもってそんざいしている。充実したひろがりなのだが、それはもちろん色の対比が鮮明であること、余白と色帯がバランスよく、リズミカルにならんでいること、そして余白は白い色帯にもなっているからだ。また、色(絵具)は薄くキャンバスの表面からことさらに盛り上がってはいない。
 これに対して、《浅田批判》はことごとくルイスの反対をやっている。余白のバランスが悪いし、色面は面というより、絵の具の塊で、擦りつけた絵具の周縁が盛り上がっていて、とても筆のタッチには見えないし、アクション・ペインティングというより、文字通り雲古を擦り付けただけにみえる。色も濁って、色相差もあいまいで、余白の白とは調和も対立もしていない。ただの汚れたキャンバスに見える。もちろんここには美もないし崇高もない。そして、何よりもないものは、凡庸な抽象画にありがちな「思わせぶり」がないのだ。今年のVOCA展に出展されていた抽象画はそれなりにみんな頑張っているのだが、モダニズムの行きつく果て、そんなに斬新なアイディアが浮かんでくるはずもなく、ただリテラルにもイリュージョニズムにもならないように、表面や線や色彩やキャンバスと格闘したり妥協したり、結局は思わせぶりな作品が出来上がってしまうのだが、会田は、おもいっきりリテラルなもの(純粋な外的視知覚の対象物のこと)を作って、抽象画の
思わせぶりを揶揄したのだ。
 この《思わせぶり》ということでは、わたしはむしろ李禹煥の余白を思い出す。李禹煥は余白をキャンバスの生地と白い空間のイリュージョンのどっちつかずの状態にする。白いキャンバス生地をさらに白く塗って、物質的な生地の織り目をかくす。黒い小さな四角をバランスとアンバランスのどっちつかずのぎりぎりのところに配置する。いろは白と黒である。そして、最後の展示室では、白い壁に直接黒い四角を描く。どれもが、知覚とイリュージョンの思わせぶりな駆け引きなのだ。
 李禹煥はもの派の理論的指導者だったそうだが、「もの」というのはもちろんリテラルな事物のことなのだ。それから思い出したが、《浅田批判》は小さい作品だと言うところがなかなかよいのだ。もし、大きかったら、まさに李禹煥の最後の部屋の巨大なキャンバスのように、余白と絵画表面が曖昧になって悪しき《思わせぶり》のイリュージョンが生まれてしまっただろう。抽象画が巨大化するのは、たぶん、キャンバスの物質性を顕わにするというよりも、むしろ隠すためなのだ。 (岡崎は好んで小さい作品を描くらしい)
 会田のこの作品が岡崎や浅田の批判になっているかどうかは、残念ながらわたしには判らないが、近頃の思わせぶりな抽象画の批判になっていることはまちがいない。そして会田は「おまえたちは、モダニズムだとかフォーマリズムとかミニマリズムとか大騒ぎしているけれど、ご覧なさいこれがモダニズムの行き着く果ての姿なんですよ。」と言っている。しかし、これがグリーンバーグが擁護した抽象表現主義の批判になっているかどうかは疑問であるし、いわんや、「アートで候。」で展示されている再現表象の絵画が、日本の現代美術のなかで是非とも守らなければならない「大切なもの」だと断言する自信は私にはない。

ps:以上の議論はグリーンバーグなどのモダニズムの用語を使っていますが、これはどれも現象学的な観点から自己流に使っているのであしからず。一番注意してほしいことは、絵画(芸術)というのはすべて知覚に基づいていること、そして、その知覚した物理的絵画が中和変容されることによって絵が現前するということです。HP『絵画の現象学』へ

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2007.06.06[Wed] Post 00:28  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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