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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ヘンリー・ダーガー

     

     アウトサイダー画家 ヘンリー・ダーガー(原美術館)


 「美術手帖」で特集したせいだろう美大生らしき若者が沢山来ていた。
 アウトサイダー画家の展覧会は、世田谷美術館のルソー展と庭園美術館のアルフレッド・ウォリス展を見ているので、これで、三つ目である。三人ともアカデミックな教育を受けていない点ではおなじだが、ルソーにはまったくart brutなところはなく、独学で絵画の技法を身につけていたし、ピカソと交流があり、一応はパリの美術界のインサイダーであった。また、ウォリスも画家や美術評論家に認められ、色彩感覚に優れ、その黒の美しさは際立っているが、知的に劣ったものに特有の退屈さがあり、ひとまず、アウトサイダー画家といえる。
 このウォリスに比べると、ダーガーは知的に劣ったところはすこしもない。少女の世界を描いて幼稚に見えるが、それは、彼の性的妄想であって、知性が劣っているわけではない。そのことは、挿絵としてのアイディアや構図を見ればわかるだろう。なにより、アウトサイダー絵画に特有な単調な繰り返しがない。少女たちが絨毯にくるまって隠れたり、紐に繋がって逃げたり、並んだ木の陰に隠れたりする絵は、ダーガーが一流の挿絵画家だったことを示している。
 しかし、ダーガーが優れた芸術家かといわれると、答えは否だろう。たしかに一寸見には、面白い絵だが、すぐに、他の大方のアウトサイダー絵画(世田谷美術館で見たアンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ルイ・ヴィヴァンなど)と同じように飽きてしまう。所詮はイラストなのだ。
 それにも拘わらず、美術手帖が大騒ぎしているのは、ダーガーが統合失調症であり、この絵がダーガー自身が書いた物語の挿絵で、精神分析にもってこいの資料だからだ。しかし、そんなことをしてなんになるというのだろう。ただ、論じやすいというだけで、ダーガーの絵の良し悪しには何の関係もないことではないか。このことは、例えばピカソの絵を彼の「女性恐怖症」で説明するのと同じように、ダーガーの絵の理解には役立たないだろう。
 もちろん、絵の楽しみ方はいろいろあっていいのだから、ヘンリー・ダーガーの孤独な内面世界を絵や物語や伝記を使って分析するのを妨げるものは何もない。勝手にしてくれ。
 そうはいっても、フロイトはミケランジェロの精神分析を、夢や自由連想ではなく、作品を通してやったのであって、なにもミケランジェロの芸術そのものを評価したわけではないだろう。近頃、精神分析や脳や知覚心理学や社会的背景で、絵画を好き勝手に論じる評者ばかりで、どうも美術評論を読んでも退屈である。
 斉藤環、茂木健一郎、布施英利、椹木野衣は美術評論界のドンキー・カルテットではないか。 にほんブログ村 美術ブログへ
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2007.05.12[Sat] Post 00:37  CO:7  TB:2  美術展評  Top▲

椹木野衣(1)

椹木野衣のナカグロ的思考

 だいぶ前に椹木野衣の『日本・現代・美術』の感想文を書くと約束したことをすっかり忘れていた。しかし、藤枝晃雄の「批評家としての芸術家」(芸術/批評3号)を読んで、そのことを思い出した。といっても、その約束を果たそうというのではない。
 そうではなく、そのときじつは感想文を書きかけていて、その中で、本のタイトル『日本・現代・美術』の「・」(ナカグロ)をちょっと揶揄したのだが、このナカグロのことで、なるほどと思えることが、藤枝の「批評家としての芸術家」にあったので、それを忘れないうちに書いておこうと思ったのだ。
 以下は、そのとき書きかけた『日本・現代・美術』の感想文である。 

椹木野衣の『日本・現代・美術』を読む
 読んだといっても、図書館で借りて読んだのだが、それというのも、だいぶ前に椹木野衣の「シミュレーショニズム」を読んで、その内容のお粗末なことに驚いた経験があるからだ。なにしろ、新しいアートであるらしい「シミュレーショニズム」の技法と実例をポストモダン風(?)語彙と時代背景というより風俗世相を挟みながら、えんえんと解説しているだけで、だからどうしたのかサッパリと要領を得ない書物なのだ。 
 それ以来、椹木の書いたものは避けて読まずに来たのだが、上田高弘が『モダニストの物言い』で椹木野衣の『日本・現代・美術』について触れていたので、読む気になったのだ。もちろん上田は『日本・現代・美術』を褒めているわけではなく、日本の現代美術史を扱っていながら、藤枝晃雄を無視しているのは怪しからんといっているのだが、それなら椹木が藤枝をどうやって無視しているのか、読んでみようと思ったのだ。
 読んだけれど、今度もさっぱり分からなかった。出だしからして分からない。椹木は、いきなり『日本現代美術』を三つの要素に還元すると宣言するのだが、じっさいにやっていることは、ただ「日本現代美術」という複合語を「日本」と「現代」と「美術」の三つの単語に分けているだけで、還元とは何んの関係もない。
 そして、あとは、そんなこととは関係なく、時代背景で説明したり、美術評論家や作家の言葉を引用したりしながら、キャッチフレーズをちりばめて、「逆に言えば、逆に見れば」と、全然逆になっていないレトリック振り回す。ところどころ、ウガチ(あるいはウガチ過ぎ)などがあって、ディレッタントには楽しめるのかもしれない。
 上田高弘は椹木のレトリックを褒めているが、本当にそう思っているのだろうか。それとも、美術ジャーナリズムの権威(?)におもねっているだけなのだろうか。
 さて、そういうわけで、私の日本現代美術史に対する無知と相まって、あまりはっきりしたことは言えないが、『日本・現代・美術』は藤枝晃雄というよりクレメント・グリーンバーグ以降のアメリカの抽象画を無視しているのだ。
 グリーンバーグ、あるいは、抽象表現主義は美術(fine art)の領域にとどまっていた。しかし、グリーンバーグのそれを否定することから始まったポップ・アートを擁護する椹木は、当然グリーバーグや藤枝を無視することになる。

 というところまで書いたのだが、何の分析にも感想にもなっていない。最後の方はしどろもどろになっていて、僕自身がグリーンバーグもフォーマリズムも理解していないのが見え見えで、結局なぜ椹木が藤枝を無視したのか分からずに、途中で、ほっぽり出してしまったのだ。
 その理由が、藤枝の「批評家としての芸術家」を読んで判ったというなら、面白いのだが、そうではなく、ただ、藤枝が椹木の岡本太郎論『黒い太陽と赤いカニ』の中にあるナカグロ的思考を批判しているところがあって、それがわたしには痛快だったということだけなんだ。(大騒ぎしてすみません)
 藤枝は岡本太郎の対極主義について書いている。対極主義というのは、合理性と非合理性の二つの極の対立のことで、当時、岡本が滞在していたパリの美術界に「抽象とシュルレアリスムの愛憎関係」があったため、合理性は抽象、非合理はシュルレアリスムに当てはめて考えるという困った芸術の見方が生まれてしまった。
 そして、この誤った対極主義の図式で椹木は抽象表現主義を解釈する。まず、抽象表現主義を抽象と表現の二つに分断(還元?)して、抽象を幾何学的抽象に、表現をシュルレアリスムに置き換えて、二元論的に解釈する。そして、この二元論的「抽象・表現」主義は、抽象芸術とシュルレアリスムを統合してヨーロッパに対抗しようという、文化的後進国のアメリカの戦略だったというのだ。なんでもかんでも東西冷戦や湾岸戦争、それから五十五年体制を持ち出すのは椹木の十八番なのだが、この「『抽象・表現』主義」というナカグロで区切った表記が椹木自身のものかどうかは判らない。藤枝が抽象表現主義をAbstract Expressionismではなく、Abstraction Expressionismとする間違った二元論的見方を示すために、後者の日本語訳として、藤枝自身が「抽象・表現」主義とナカグロを入れて表記したのかもしれない。それならそれで返って興味深いし、どちらにしろ、藤枝が椹木のナカグロ的思考を指摘し、批判していることに変わりはない。
 この二元論的な図式に対する藤枝の批判はここで詳しくは述べない(ポストモダンが非難している抽象は幾何学的抽象であって、抽象表現主義にはあてはまらないと、いつものように藤枝はくりかえし述べている)。そのかわり、椹木のナカグロ的思考について面白ことが書いてあるので、それについて書く。以下、藤枝の「批評家としての芸術家」の注(12)からの引用。

 「椹木が抽象=抽象、表現=シュルレアリスムとするのは誤りであって、この対立する語を結びつけた名称に矛盾があると見なすのは無意味である。」

 文中の「矛盾があると見なす」の主語はもちろん椹木だろうが、それを藤枝は無意味だと喝破している。無意味なのはあたりまえだ。椹木は還元するなんていうが、ただ前の名詞が後の名詞を形容しているだけの複合語を勝手にナカグロを付けて二つに分けて、それを矛盾だとか、逆に言えばとか、一人で勝手に騒いでいるだけで、そこには二項対立も弁証法ももちろんありはしない。
 椹木の『日本・現代・美術』の書評をいくつか読んだ中に、表題の「・」ナカグロを、日本が「悪い場所」であることを的確に表していると言って、賞賛していたものがあったけれど、ホントかいなと疑ったが、自信はなかった。しかし、藤枝晃雄の「無意味である」という言葉を聞いてすっきりした。この断言は「抽象・表現」のナカグロだけではなく、『日本・現代・美術』のナカグロを含めて、椹木のナカグロ的思考は全部無意味であると勝手に拡大して受け取ることにする。
 それにしても、藤枝の罵詈雑言が出てこないので少し寂しい気がしたのだが、同じ注(12)を注意して読むと、罵詈雑言どころかもっと酷いことが書いてある。

 「椹木は、ニューヨーク近代美術館の当の動向の展示室にいっても抽象芸術とシュルレアリスムが一つの画面のなかに「統合」された作品は見当たらないという。当然である。」
 
 「無意味である」の次が「当然である」とは、藤枝晃雄も厳しいなぁ。とにかく、これは椹木が自分の美術評論家としての鋭さを自慢するつもりで書いたのだろうが、あに図らんや、藤枝が「抽象・表現」の誤りをさんざん指摘したのを読んだあとでは、鋭さどころか椹木の間抜けな姿が彷彿として、    滑稽を通り過ぎて悲惨な感じがする。絵がちっともわかっていないことがばれちゃったのだから、ふつうなら評論家生命が絶たれるところだが、まあ、例によって例のごとくなのだろう。それにしても、椹木は、「抽象・表現」というナカグロ以前は、抽象表現主義の絵をどんな風に見ていたのだろう。たぶん椹木は抽象表現主義だけではなく、絵というものをまったく理解できないのではないか。理解できないから、あるいは楽しめないから、むしろ自由自在に、生半可な知識を駆使したレトリックが展開できるのではないか。
 なんとなく、椹木が藤枝を無視した理由が判ってきたようなきがする。

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2007.05.11[Fri] Post 00:53  CO:0  TB:0  和田盗作事件  Top▲

黒田アキ(2)

art@agnesで見て、ちょっと気に入っていた黒田アキの同じ絵が「アートフェア東京2007」のmori yu galleryに展示してあった。フェアのカタログに載っている"sans titre"2006という作品である。art@agnesでは床に置いてあったが、こんどはちゃんと目の高さに掛けてあり、正面から見ることができた。絵の下部に、お絵かきソフトのツールのように、白と黒の絵具を擦りつけたあとが四つ五つ並んでいると、前回書いたのは、年月日で、「2006.09.**」と読める。
 art@agnesの展評とき、黒田アキの評価は、他の作品を見てからと書いたのだが、"sans titre"を再度見て、ちょっとオシャレなポスターにしか見えなかった。はじめて見たときは、drawingとpaintingの緊張が関係が素晴らしいと思ったのだが、今回は、なんか気取ったテクニックだけが透けて見えて、あまり感心しなかった。
 随分といい加減な鑑賞眼だが、たぶんいい加減なのはわたしの目だけではなく、黒田の絵のほうもいい加減なのだとひとまず弁解しておくが、それにしても、近頃自分の絵を見る目に自信が持てない。しょっちゅう評価が変わってしまう。もちろん変わらないものもある。例えば、ジャコメッティやロスコやクレーの評価はあまり変わらない。彼等の作品の傑作と駄作を自分なりに区別することもできる。あるいは千住博の滝やシュヴィッタースのコラージュは誰がなんと言ってもつまらないと思う。ところが、黒田アキの"sans titre"のような絵になると、とたんに判らなくなる。オシャレだから人目を惹くし、ノンシャランに描いて、その遊び心が好感が持てる。少なくとも、村上隆のドブくんよりもキャラクターとして気が利いている。(尤もキャラクター商品としては図案化が足りないけれど)
 ということで、"sans titre"の評価を変えたのだが、それは、黒田の他の作品をみたからでもある。見たといっても、ネットで見ただけなのだが、なにかアール・デコ風(?)のデザイン画のようで、昔の日活映画で石原裕次郎が暴れたりするキャバレーのインテリアがこんな感じだった。それから、前回、黒田の絵をマチスの切り絵風と言ったけれど、それは間違いだ。マチスの切り絵には、色や形、平面と空間などにモダニスムの格闘があるが、黒田の絵には平面的な装飾デザインがあるだけだ。
 というぐあいに、どうも自分の鑑識眼に自信がなくなったけれど、それでも、この「ART TOUCH 美術展評」は、面白かツマラナイかまず絵を見て自分で判断するという方針には変わりない。"sans titre"は可愛くてオシャレな絵だと思います。
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2007.05.08[Tue] Post 23:56  CO:2  TB:0  -黒田アキ  Top▲

島袋道浩(1)

 「有馬かおる」からつづく

 作品とは直接関係のない言説で飾り立てる手法の最たるものは、おなじマイクロポップの時代展に出展している島袋道浩だろう。松井みどりの解説は「島袋道浩は、シチュエーショニスト風のパブリック・スペースへの介入と、ランドアートのサイトスペシフィック性を受け 継ぎながら、それに軽やかに遊戯性を加えて発展させている。」(「マイクロポップの時代」P88)と、ほとんどパリ・コレの前口上になっているのは笑えるが、作品自体はとて も笑ってすませるものではない。とりわけ《拾った絵の展覧会》は不愉快である。何よりも不愉快なのは、そこに展示してある絵を特権化していることである。 その絵は、島袋の近所のゴミ捨て場で、二百枚束になっているのを拾ったというのだ。小学生の絵のような気もするが判らない。名前はどこにも書いてない。一 人が描いたのかも知れない、百人かも知れない。絵を見れば、と言っても、全部は見せてくれないのだが、絵心のある大人が小学生風にいろいろ描き分けている ようにみえる。水彩・クレヨン・版画がある。人物や風景や抽象画がある。バライティーが有りすぎだ。女房が小学生は自分の名前をでっかく書くんじゃないと 学芸員に訊くと、学芸員は、名前は裏に書いてあるかもしれない、あるいは貼り付けた名札を切り取ったのかもしれないと言い、さらに、画用紙の四隅に画鋲の 跡があるだろうと私たちの注意を向けた。女房は「画鋲の跡なんて教室に貼ってあった証拠になんかならない。作者(島袋)が付けたかも知れないじゃない」と いうと、くだんの学芸員が笑いながら「そこが作者の思う壺なんです」という。女房はプリプリ怒って「ひとの絵を勝手に展示していいのかしら」と言うも、学 芸員は「自分のだと名乗って来たら、作者(島袋)は返すつもりです」と応えて、どうやら女房の完敗。そもそも、この拾った絵は作品ではなく、むかしむかし あるところで誰かさんが絵を描きました、という出来事であって、作者も作品も関係のないアートだと言いたいのかもしれない、腹を立てても仕方ない。
 そ れにしても、つまらぬアートだ。阪神で発見した二百枚の絵の束を、どういうワケかわざわざ巡礼地広島の路上で展示して、それを見ている車椅子の障害者の写 真を撮り、それを大きく引き伸ばして美術館の壁に貼り、壁の前の床に拾った絵の一部をならべている。ということは、作品(壁)と観者(床)の本来の位置が 入れ替わっており、われわれは、単純に子供の絵を見るのではなく、子供の絵を見ている障害者を見るというメタな状況に無理矢理置かれてしまうのだ。
  ここでは、捨てる/拾うというミニマムな贈与行為(ちょっとポモ風)が、子供と障害者と路上展示によって聖性を与えられており、その表向き周縁的な道具立 てにも拘わらず、島袋(と松井みどり)は、結局のところ美術館という権力の中心で、インスタレーションという祭ごとをプロデュースしているのだ。
  以上述べたことで、わたしはマイクロ・ポップ理論が間違っているとか、島袋のインスタレーションは無意味だとかいいたいのではない。松井みどりを読んでも マイクロ・ポップ理論が美術とどう関係するのか一向に理解できないのだから、否定するも肯定するもない。そうではなく、島袋がゴミ捨て場で見つけたという 二百枚の絵をちゃんと見せてくれないことが、反動的図像主義者のわたしは気に入らないのだ。作者が作品をちゃんと展示し、観者がその作品をちゃんと見るこ とで、はじめて作品は作品になり、そして観者が作者と対等になる。それをインスタレーションと称して、思わせぶりにチラチラみせたり、通俗的な物語で飾り 立てて、これでは観者の自由を奪っているとしか思えない。まさか、これが絵画の終焉を示すアートだなんて言わないでしょうね。
 東京に帰ってから も、女房は《拾った絵の展覧会》が不愉快だと繰り返し、絵を拾ったなんて百パーセント嘘だ、だいいち小さい方の学芸員が膝をちょこっと曲げて「それは作者 の思う壺です」と言ってニヤッと笑ったのに腹が立つ、スネを蹴飛ばしてやれば良かったという。僕は、拾った絵のインスタレーションというアートもあってい いかなとは思うのだが、絵を見ているのが車椅子の障害者なのが押しつけがましくていやな感じがしたと、おそるおそる言うと、女房はあっさりと「そうでしょ う」と同意した。おそるおそる言ったのは、女房が水戸から帰ってから、僕に騙されて水戸芸術館に連れて行かれた、何を見に行くか何度も聞いたのに教えてく れなかった。もう、金輪際現代アートは見に行かない、あなた一人で行きなさいと、繰り返し言っていたからだ。ひとりで現代アートなんか見ても面白くない し、機嫌を損ねてへそを曲げられても困ると思ったのだ。
 じつは、これと同じインスタレーションが、今は知らないが、かって日本各地にあった。地方を旅行すると、伝統工芸館などがあって、その地方の工芸品が展示してある。そして壁に天皇皇后両陛下あるいは宮家のひとが工芸家に説明を聞いている写真 が飾ってある。これは、《拾った絵の展覧会》と同じ図像学的意味を持つインスタレーションだろう。もちろん、天皇は中心的存在で、障害者が周縁的存在な のだが、これは本質的な差異ではなく、片方は伝統的な工芸品を、もう片方は純真な子供の絵を、それぞれ神聖化していることでは同じことなのだ。島袋が、伝統工芸を純真な子供の絵に、公立の美術館を路上に、そして天皇を障害者に入れ替えることで、美術制度を脱構築したつもりだろうが、そうではなく、ただ、権力の入 れ替え遊びをしているだけではないか。
 島袋のインスタレーションはどうも紋切り型の言説をなぞるようなところがあり、面白くない。たとえば、 《南半球のクリスマス》はどう見たって地球温暖化や環境破壊の問題だろうし、《人間性回復のチャンス》は「人類はみな兄弟」の看板を思い出させる。ついで に言えば、有馬かおるの《ムンクはさけべ オレはがまんする》は相田みつをとまでは言わないが、似たような処世訓のニオイがしないだろうか。
 以上述べたことは、なかば冗談 であって、決して美術評論ではない。というのも、マイクロポップという芸術理論があって、それがまったく新しい芸術運動らしいのだが、第三世代とか後期ポストモダンと言われてもいまのところわたしにはわからない。ただ、『マイクロポップの時代』展を見て、泉太郎と田中功起は面白かったが、有馬かおると島袋道浩はつまらなかったということだけで、マイクロポップとはさしあたって何の関係もない。
 「美術手帖」の五月号に椹木野衣と松井みどりの対談が載っているので、読んでみるがたぶんわからないだろう。

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2007.05.02[Wed] Post 00:21  CO:1  TB:0  -島袋道浩  Top▲

-有馬かおる

    有馬かおる『マイクロポップの時代:夏の扉』水戸芸術館

 有馬かおるの新聞紙に描いた絵は便所の落書きである。
  と言っても、褒めているのではなく、けなしているのだ。有馬かおる自身が芸術の本質は落書きだと言っているのだから、便所の落書きこそ落書きの王道だと、間違って喜ぶといけないから、あらかじめ言っておく。
 近頃の落書きは壁や塀にスプレーで描くが、昔は便所のかべに鉛筆で描くのが普通だった。有馬の描いた性器むき出しの絵を見たら、汲み取り便所の臭いがして、一瞬懐かしい感じがした。それに新聞紙は便所の落とし紙として使っていたのだ。
 こんな絵についてわざわざ触れなくてもいいのだが、便所の落書きまでアートだと言い出すのを黙って見過ごすわけにはいかない。以前、森村泰昌のポルノグラフィーをジェンダーだ、多文化主義だ、美術史の脱構築だといってアートに仕立てあげた美術評論家がいたが、こんどは便所の落書きをアートにしようというのだろうか。
 その美術評論家の一人が、マイクロポップという聞き慣れない言葉を作った松井みどりだ。正直言うと、松井みどりの言っていることはよくわからない。椹木野衣の『日本・現代・美術』も分からなかったが、それに輪を掛けて分からない。ポストモダンのキーワードというよりも現代用語辞典の流行語を寄せ集めて連想妄想逞しく作り上げたしろもの、とてもじゃないが手に負えない。それでも、周縁文化とかマイナーとか、十分な道具がない者が手近なもので間に合わせる姿勢(これってレヴィ・ストロースのブリコラージュじゃないのか)というところは、便所の落書きに近いかもしれない。
 ちり紙がないから新聞紙で尻を拭くのとおなじように、画用紙ではなく新聞紙に描くのは、それはそれで間に合わせにちがいない。手早く鉛筆で描かれた落書きが油絵とは違って周縁的であるということも分からないではない。しかし、それがいったいどうしたというのだろう。周縁であろうが中心であろうが、つまらない作品はつまらないのであり、千住博の滝の絵も便所の落書きも、つまらないものはつまらないのだ。
 もちろんつまらないと言っても、千住の滝の絵はそれなりに洗練されているので、逆に、文学的思想的な言説を適用しにくいのに比べ、有馬かおるの落書きは、落書き特有のメッセージ性があり、そのうえ詞書きもあって、いろいろ理屈がつけやすい。たとえば、《ムンクはさけべ オレはがまんする》は、股間の一物を勃起させた裸の男が腰をおろし、その左の足首が鎖に繋がれている。詞書きも含めて便所の落書きそのままの絵なのだが、こういった絵が、松井みどりの手にかかると、「内面世界の神話を媒介するドローイング」だとか、「外界の圧力に対して内面の自由を守る庵のような絵画空間」だとか「しりあがり寿のような、哲学的なアンダーグラウンドの系譜」(「マイクロポップの時代」PARCO出版P148)ということになる。
 アウト・サイダーのつまらぬ絵画を精神科医が業界用語で解説する美術評論があるのだから、便所の落書きを現代用語で解説したってかまわないし、社会病理として分析することだってできるだろう。しかし、それがいったい作品の良し悪しとどう関係するというのだろうか。
 「島袋道浩」につづく 



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2007.05.02[Wed] Post 00:18  CO:0  TB:0  有馬かおる  Top▲

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