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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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Alfred Wallis

   「アルフレッド・ウォリス展」(東京都庭園美術館)
 去年、世田谷美術館で開催された『ルソーの見た夢、ルソーに見る夢』展で、世田谷美術館が所蔵している素朴派の作品を見た。アンドレ・ボーシャン、カミーユ・ボンボワ、ルイ・ヴィヴァンなど沢山展示されていたが、どれもつまらなかった。ルソーの作品もすべてが良かったわけではなく、《工場のある町》など丁寧に自信をもって描いた絵は素晴らしいのだが、晩年の雑に描かれた絵はまさに素朴派の絵そのもので、まったく別の絵になっていた。
 そんなわけで、ウォリス展はあまり気乗りがしなかったのだが、チラシの写真が美しいので、だまされたと思って行ってみた。第一室に入ると、くすんだ色の絵が目に入る。小さな絵なのだが、なんと言ってもこのくすんだ色が美しい。ボール紙に船舶用のペンキで描いたというのだが、どうやってこの色を出したのだろう。塗り残しがあったり、薄塗りがあったり、塗りムラがあったりして、透けて見えるボール紙のオレンジ色が実に美しい。しかも、船体や屋根、それに樹木や石の黒が巧みに配置され、画面を引き締めている。おそらく、ニコルソンとウッドの二人の画家がウォリスの絵に目をとめたのは、この配色の美しさのためだったのだろう。
 いわゆる素朴派あるいはアウトサイダーの絵は、たいていはつまらない。最初見るとおもしろいのだが、見ているうちにたいてはつまらなくなる。ところがウォリスの絵は見ていてあきない。もちろん小学生のお絵かきのようなものもある。そこのところは微妙だが、たぶん、ウォリスは色の配分のセンスが良かったのだが、遠近法を知的に処理する能力に欠けていたのだろう。その遠近法のゆがみが配色の巧みさとうまい具合に調和したとき、予期しない効果が生まれたのだ。だから、失敗すれば当然小学生の絵のようになってしまう。
 それにしても、ウォリスを発見したニコルソンとウッドが、ウォリスの影響を受けて素朴派風に描いた絵が面白くないのは、色彩はもちろんだが、遠近法の歪みがどうしてもだらけて緊張感がないからだ。この遠近法の歪みというのは、素朴派の絵にとって重要なことで、たとえば、ルソーの遠近法の稚拙さが、空間の奥行きや広がりを見事に表現していることでも良くわかる。
  素朴派の絵をどう評価するかは、原美術館の『ヘンリー・ダーガー』展を見てからもう一度考えることにしたい。
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2007.04.21[Sat] Post 16:28  CO:0  TB:0  -Alfred Wallis  Top▲

山口藍

山口藍「山、はるる」(ミズマアートギャラリー)


 化粧品会社のパッケージのデザインに採用されたというのだから上品な絵ということなのだろう。たしかに可愛くてきれいな絵だが、僕はどうもこの手のロリコンの絵が苦手だ。胸も尻もぺちゃんこで手足は細くて目がおおきい。PARCOのタカノ綾展もこんな風な絵だったが、口唇性技やソープランド、それに渋谷のセンター街などがあって、いちおうはポップな現代風俗画になっていたが、山口藍の絵は、江戸時代の茶屋を舞台にした、ちょっと、山口晃に似たジャポニスムのイラストだ。扇子にプリントすれば浅草の仲見世で売れるだろう。
 しかし、日本髪を結った裸の遊女たちは、あまりに幼くて、ロリコンというよりも、幼児性愛のような気もするが、アメリカでは法律に違反しないのだろか。そんなふうに考えるのは僕が邪な考えを持っているからかもしれない。何しろ、僕はルノアールの少女にさえロリコン趣味を感じて好きになれないくらいだから、大人の日本髪を結った裸の幼女にはなおさら性的倒錯を感じる。タカノ綾とちがって表向きは無邪気な子供なので、そういう趣味の人に好まれるのかもしれない。
 ともかく、この絵がきれいで可愛いと思う人が壁にかけるのはいっこうにかまわない。悪趣味だとは思うけれど。


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2007.04.17[Tue] Post 13:43  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

田口和奈

田口和奈《その悲しいしらせ》(上野の森美術館VOCA展)

 二階に上がったちょうど正面にこの写真が展示してあった。こういう軟調の暗い写真は昔、流行ったことがある。それにしても、気味の悪い写真だ。アンバランスな顔で、女性だと思うが、ロリコンぽいところもあり年齢が判らない。口を半開きにし眉間が極端に引っ込んで目がチグハグである。見れば見るほど気味が悪いおとなこどもだ。こんなものが佳作賞とは狂気の沙汰である。
 VOCA展は平面作品ということで毎年写真作品が推薦されている。去年のVOCA展でも蜷川実花が花の写真で大原美術館賞をとっていた。そのときの選考委員長の高階秀爾の講評から蜷川の箇所を抜粋する。

 「燃えるような赤を基調とするパネルの上に配置された40点の写真は、まずその鮮烈で濃密な色彩によって見る者を圧倒する。撮し出されているのは、強烈な太陽の熱と光に曝された南の島の墓地に、土地の住民たちが捧げたという造花である。思い切ったクローズアップや原色を故意に強調した手法によって捉えられたこれら人工の花たちは、互いに共鳴し合い、高め合って、壮大な色彩の交響曲を響かせる。他の誰も真似することのできない見事な達成であろう。」

 ほとんど常套句を並べた美文調というにはあまりに拙い褒め言葉であるが、高階はいったいこのつまらない凡庸な写真にほんとうに感動したのだろうか。「壮大な色彩の交響曲」だなんて嘘もいいところだ。
 去年のことはともかく、ことしも数人の写真作品が推薦されており、どれもがつまらないのだが、その中から一番つまらない、しかも気味の悪い肖像写真が選ばれて賞をもらったということらしい。今年は高階秀爾がどんな講評を述べているかカタログを読んでみたが、「遠い日の思い出のような叙情性」といった言葉があって、引用するのもくだらないから、田口を推薦した飯田志保子(東京オペラシティアートギャラリー)の文章から引用する。飯田の推薦文は十数年前に流行った記号論風写真論になっているところは高階の講評より新しい衣装をまとっているといえるが、最後のところで、「どこか虚ろで寂しげな表情」と表現するあたりは、イイカゲンだという点では高階と同じことだ。長くなるけれど、記号論風の箇所を引用する。

 写真というメディアはプリントされた時点で被写体を過去時制へと移行させ、存在証明として我々にそれが実在していたと自動的に思い込ませる。田口の作品が合成写真と異なるのは、肖像画という「形式」に対して我々がリアルさを感じることを突いている点だ。下絵が作品として提示されることはないが、描かれることでそのイメージは実在/不在の境界線を越えて一度物質化される。そして写真になるプロセスにおいて表面の密度が変化しディテールがぼかされ、「彼女」はリアリティを、印画紙の中で生を獲得する。しかし同時にそれは文字どおり実存を欠いた究極の表面でもある。

 カタログを読んで初めて知ったのだが、田口の作品は、実はモンタージュ写真で作り上げた女性をもとに絵を描き、それをまた写真に撮って印画紙にプリントするという方法で制作したものだというのだ。といことは、これは写真と絵画のキメラのようなもので、田口自身飯田(訂正7/8)の大袈裟な言葉を借りれば、「実在/不在の境界を越える」とか「絵画と写真を横断する」メディアということになるのだが、だからといって、僕はこの作品の評価を変える気はまったくない。
 たしか写真は、絵画に比べて、図像主題が実在するという強い信念が伴うけれど、それは写真がインデックス記号だからではない。アイコン記号としての類似性が写真の歴史の中で習慣になっただけなのだ。現象学的還元すれば、ということは実在を括弧に入れてしまえば、写真と絵画の違いは記号論的な差異ではなく、たんに様式のちがいでしかないことがわかる。ゲルハルト・リヒターが示したように、真正の写真と写真様式で描いた絵画を区別する根拠は何もない。(注)
 もともと実在性などない写真をカットアップして合成写真を作ったからと言って、初めから無い実在性がさらに減少するなんてことはないのだ。それを、推薦者の飯田はあたかもインデックス記号とアイコン記号の二項対立がモンタージュによってさらに深化したかのような、ポモ風のレトリックを展開する。
 高階秀爾のすごく古い文学的なレトリックも、飯田志保子のもう古くなった記号論的レトリックも、田口和奈の気味の悪い写真を面白くすることはできないのだ。
 VOCA展よ!いい加減に平面だからと言ってつまらない写真を推薦するのはやめましょう。
注:写真のindex性については私のHP『絵画の現象学』に掲載した『写真はインデックス記号か?』を参照してください。 にほんブログ村 美術ブログへ
2007.04.16[Mon] Post 01:49  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

田中功起

いま、田中功起ブームが起きている。といっても、ひそかなブームなのだが、それにしても、今年に入ってほとんど同時に五カ所で田中功起のビデオ・アートが展示されるという盛況ぶりだ。以下田中が出展した展覧会を並べてみる。

1.水戸芸術館「マイクロポップの時代」:《each and every》2/3~5/6
2.国立新美術館「20世紀美術探検(第Ⅲ部マテリアル・ワールドに生きる)」:《あたりまえのこと、あたりまえでないこと、そしてたぶんそのほかのこと》1/21~3/19
3.上野の森美術館ギャラリー「第一回田中功起ショー」:《いままでのこと、さいきんのこと、これからのこと》3/16~3/30
4.森美術館「笑い展(4.逸脱する笑い)」:《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》1/27~5/6
5.青山|目黒「田中功起展」

 僕がはじめて田中功起を見たのは、art@agnesのギャラリー「青山|目黒」の部屋だった。ベッドに蛍光灯が二本寝かせてあった。それと、ガムテープを丸く団子のように大きく丸めたものが床に転がしてあった。このガムテープの塊はちょっと面白いとおもったが、結局は近頃ありがちなアートだと片付けた。
 そのあと続けて、水戸芸術館と国立新美術館で田中功起を見たのだが、水戸芸術館では泉太郎のギャグが、国立新美術館では高柳恵里のレディメイドが強い印象を残したのにくらべ、田中功起の作品は中途半端なパフォーマンスのビデオのように思えた。そのあと、ネットのインタービューなどを読んで、田中が単純な反芸術家ではないことは判るのだが、どうも、その芸術観と作品が上手くつながらない。
 上野の森美術館でVOCA展を見たあと、隣接のギャラリーで「田中功起ショー」をみた。閑散としていて、老人が椅子に座って休んでいた。初めから順番に見ていった。見ているうちにだんだんおもしろくなってきた。なんか単調なジャズのような心地よいリズムを感じながらも、ふと我に返って照れてしまうような、そのくせ次は何をやるのか期待してしまうような、ようするに退屈と夢中が入り交じったような快感が身内に広がっていくの感じた。
 なんだこれは、誰もが子供の頃やったことじゃないか。飽きずに眺めたことじゃないか。田中功起のパフォーマンスは、子供の頃、夢中になって繰り返して、そのうち飽きてほっぽり出したりしたことだ。そう思ってみれば、どれもこれもバカバカしくって面白い。わたしはこれまでのもやもやしていたものが突然消えてスッキリした。
 料理は誰だって見るのが好きだ。むかし土用丑の日に魚屋の前でウナギを捌くのを見て飽きることがなかった。川や滝にボールを流す、モップを指に引っ掛けてくるくる回す、バケツを帽子のように杭に被せる、電熱器で水が撥ねる、化粧瓶の口から泡が膨れて出てくる。靴が階段から落ちる。段ボールを蹴飛ばす、ヘッドフォンを頭以外のものに被せる。トイレットペーパーを転がす、ビニール傘を風に飛ばす、コースターをはじいて空中で掴む。
 田中にはインスタレーションもある。白木のテーブルにサッカーボールやコーヒーカップが一つだけ置いてある。美術館に展示してあるのだから、アートだろうと誰でも思う。でも、デュシャン的挑発もないし、「解剖台の上の蝙蝠傘とミシンの偶然の出会い」の美しさもない。だからといって、反美学でもないし、美術館への挑発でもない。誰もが眺めたことのある、片づけるにはちょっともったいないような気がする情景だ。
 田中はループを作ることから美術家の仕事を始めた。ループで反物語的な非日常性(日常性でも同じことだ)を表現するというのは、アートの常套なのだけれど、インタービューで田中は、原因が結果だ、意味と無意味、予定調和を避ける、瑣末な思いつきを崇高なものに編集する、到達するはずのところに到達しない、始めも終わりもない、現実に非現実が侵入する、アートってのは見たことのないものをつくることなどなど、どうも要領を得ないけれど、ともかく、非日常を繰り返すことがアーティストの日常という現代美術の滑稽な状況からなんとか抜け出そうとしているように見える。
 この現代美術のメタ状況(芸術についての芸術と言えば聞こえが良いが、ようするに屁理屈のこと)からの脱出が田中功起のパフォーマンスであり、インスタレーションなのだ。田中功起のパフォーマンスは反芸術ではなく、コンセプトも異化も脱文脈も非日常も身体性もない。周辺もなければ中心もない。大きな物語も小さい物語もない。それなのに、僕たちは夢中になる。繰り返したり眺めたり、退屈したりほっぽり出したりする。美しくもない崇高でもない。法則もないし目的もない。宮島達男みたいに誕生も死も輪廻もない。高柳恵里のようにデザインの美もない。それでも、やっぱり面白いのは、どこかに日常と非日常の感覚を超えたものを感じるからだ。
 田中功起はインタービューの中で以下のように述べている。

 そもそもぼくの制作のテーマは日常や非日常ということではありません。ただ、日常と非日常という枠組みでもって作品を見るとわかりやすいという側面もたしかにあります。その伝わり方が悪いとも今まではあまり思ってはいませんでした。なので去年、アメリカにいた時などは意識的にその言葉を使ってもいました(禅的だなどと勘違いされるよりもよっぽどよかった)。どちらかというと「日常」というキーワードよりも、もう少し大きくて漠然としている「世界」という言葉のほうがしっくりきます。「日常」はどうしても個人的なものですよね。誰にとっての日常かといった時にそれはその作者にとっての、ということにもなってしまう。ぼくにはそれはすごく閉じられていることのように感じられます。「世界」と言った時、それはもう少し開かれたものとしてありますよね。(近藤ヒデノリのインタビューTOKYO SOURCE)

 田中功起は、美術評論家が大好きな日常と非日常という枠組みを否定して、「個人的な日常」に対して「開かれた世界」を持ち出しているのだけれど、両者を対立させているわけではなく、むしろ日常と非日常が出現する場所である世界を開いてやるのがアートだと言っているのだ。この日常と非日常という枠組みは、ポストモダンの隆盛のなかで、社会批判的なものと結びついて行くのだが、田中はアートの社会的効用など信じていないし、むしろこの日常非日常という陳腐化した二項対立を無効にするのがかれのパフォーマンスであり、そのために、田中はパフォーマンスをループにするのではなく、短いパフォーマンスを繋げてリズムを生み出し、そのリズムでパフォーマンスの象徴的意味を消す。そして、そこに現実と非現実を超えた開かれた世界が開示される。
 と、大袈裟なことを書いたあと中断して、『笑い展』(森美術館)に行ってきた。展示場の最後に田中の《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》があった。積み重ねた金盥が滑り落ちるというハプニングで、面白いことは面白いのだが、これは、ハリウッド製のコメディに良くあるシーンで、スーパー・マーケットで積み重ねた商品が崩れ落ちるギャグそのままではないか。オレンジを階段から転がすという田中のパフォーマンスには、面白さとつまらなさの微妙な共存があったが、《そうして森美術館にたくさんのたらいが落ちる》には、ただの誇張された面白さがあるだけではないか。
 それにしても、『笑い展』の反芸術的屁理屈を見せられたあと、田中の盥の落下にはなんとなくほっとしたよう気分になる。小さな兄弟が田中功起のビデオの前で巫山戯あっている。弟は母親といっしょに帰ろうとしているのだが、兄のほうはもう一度田中の盥の落下を見ようと弟を離さない。弟はやっとのことで売店にいる母親のほうに逃げるのだが、また、兄が無理矢理引っぱってくると言うことを何度も繰り返していた。 女房は兄弟のパフォーマンスを見て喜んでいる。
 『笑い展』でみたフルクサスやハイレッドセンターのアーティストたちの反芸術家気取りにはうんざりさせられるが、田中はたぶんアンチ反芸術家なのだろう、ポストモダンにもマイクロポップにもネオ・ポップにも、そのほかいろいろな芸術運動に今のところほどよい距離をとるのに成功しているように見える。
 田中には古い反芸術家たちのハプニングやパフォーマンスに見られるようなこれ見よがしのハッタリが無い。それは、もちろん田中がパフォーマンスの象徴的な意味を拒否しているからだが、技術的に見れば、短いハプニングを次から次へとビデオで見せることでリズムが生まれているからだ。また田中は鮮やかな色の小道具を使っているけれど、これもパフォーマンスに軽さを与えて気持ちがよい。《たらいが落ちる》で田中功起がロープ切ったあと、コソコソ逃げるところも、パフォーマンスの大袈裟な身振り(身体性?)とちがってアートになっている。
 以上田中功起の面白さについてあれこれ考えて見たのだけれど、どうも上手い具合に表現できない。このところ、デュシャンのレディメイドの肯定的な面を受け継いだアートをいくつか見た。中村ケンゴの「図像のレディメイド」(ワンルームマンションの図面)と高柳恵里の「アレンジメント/コーディネイトのレディメイド」(生花と古着)は反芸術ではないアートの可能性を見せてくれた。そう考えると、田中功起のパフォーマンスも一種のレディメイドといえるのではないか。非日常と言えば大袈裟だけれど日常というにはちょっと面白いこと、そして誰もがひそかにやったことがあるけれど、ちょと誰にも言えなかったこと、それを田中はわれわれに代わってやってくれているのではないか。これは反芸術的なパフォーマンスではなく、この世界を開示するオマジナイの身振りなのだ。
 しかし、そうは言っても、田中のオマジナイは、一方に反芸術かたちの大袈裟な身振りや哲学ぶったコンセプトがあるからこそのオマジナイであって、反芸術が芸術を必要とするように、田中もまたアンチ反芸術としてもともとの反芸術を必要とするのではないか。
 『笑い展』は、最後に田中を持ってくると言う巧みな展示で、この笑えない『笑い展』を見事に笑い飛ばしていた。
PS:ところで、盥を積んだシーソウが上がらないように引っぱっていた紐を切ると、紐の方にシーソウが落ちてくるのは何故なのか教えて下さい。兄弟の兄の方が5・6才でした。
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2007.04.14[Sat] Post 17:52  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

Man Ray

《解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》Man Rayの写真                    ー「20世紀美術探検」(国立新美術館)ー

  この写真は、アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』に引用したロートレアモンの詩句をそのまま写真にしたものである。わたしはかねがねこの詩句を絵にしたものを見たいとおもっていたので、しばらく眺めて、そして満足した。満足したのは写真が面白かったからではなく、予想通り言葉と図像の面白さは別物だと納得したからだ。
 こんな当たり前のことをなぜ考えたかというと、言葉と絵は別の種類の記号だが、ともに美しいイメージを喚起する力があるからだ。わたしはある小説の一節を読むといつも思い出す絵がある。ぎゃくに、その絵を見るといつもその小説を思い出す。その小説は、梶井基次郎の『檸檬』で、主人公が檸檬を買う果物店の夜の風景を描写するところである。ちょっと長いけれど引用する。

  また其處の家の美しいのは夜だつた。寺町通は一體に賑かな通りで――と云つて感じは東京や大阪よりはずつと澄んでゐるが――飾窓の光がおびただしく街路へ流れ出てゐる。それがどうした譯かその店頭の周圍だけが妙に暗いのだ。もともと片方は暗い二條通に接してゐる街角になつてゐるので、暗いのは當然であつたが、その隣家が寺町通りにある家にも拘らず暗かつたのが瞭然しない。然し其家が暗くなかつたらあんなにも私を誘惑するには至らなかつたと思ふ。もう一つは其の家の打ち出した廂なのだが、その廂が眼深に冠つた帽子の廂のやうに――これは形容といふよりも、「おや、あそこの店は帽子の廂をやけに下げてゐるぞ」と思はせるほどなので、廂の上はこれも眞暗なのだ。さう周圍が眞暗なため、店頭に點けられた幾つもの電燈が驟雨のやうに浴せかける絢爛は、周圍の何者にも奪はれることなく、肆にも美しい眺めが照し出されてゐるのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んで來る往來に立つてまた近所にある鎰屋の二階の硝子窓をすかして眺めた此の果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だつた。(梶井基次郎『檸檬』)

 そして、この一節を読んだとき、思い出したのはゴッホの《夜のカフェテリア》だ。そのとき以来、梶井基次郎の『檸檬』とゴッホの《夜のカフェテリア》は、わたしの中でペアになって記憶されている。廂のしたの溢れんばかりの黄色い光と、廂のうえの真っ暗な闇の対比が美しい。それは梶井の文章でも、ゴッホの絵でも同じように美しい。
 それなら言葉の美しさと絵画の美しさは同じものなのだろうか。もちろん同じはずはない。それぞれのジャンル特有の形式的な美しさがある。ロートレアモンの詩句を考えてみよう。「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」という詩句は美しい。具体的なイメージを思い浮かべることも容易に出来る。しかし、そのイメージには『檸檬』を読んだときのような絵画的な美しさはない。この詩句の美しさは言葉の美しさなのだ。まさに蝙蝠傘や解剖台や縫合機の「偶然の出会い」という絵に描くことのできないイメージ以前の、そして、フランス語を日本語に訳しても変わらない概念の美しさなのだ。
 梶井基次郎の果物店の描写の美しさはイメージの美しさだが、ロートレアモンの詩句の美しさは、イメージの美しさではない。といっても、わたしが言葉の美しさを理解したとか、イメージの美しさを理解したとか言いたいわけではない。ただ、詩句のイメージを思い浮かべるだけではなく、実際に絵に描いたらどうなるだろう、比較してみたいと思っていたところ、絵ではないけれど、マン・レイの写真を見たというわけだ。この写真は、ブルトンの『シュルレアリスム宣言』を知らなければ、ただの天井裏に片づけられた古道具にしか見えないだろう。もちろんこれも「偶然の出会い」には違いないが、そこからなにか物語が始まるような出会いではないし、偶然は偶然のまま、それぞれは勝手にそこにあるだけなのだ。
 それは写真だからかもしれない。写真はすべての出来事から「偶然」を奪い取って、残った抜け殻を写すだけだ。それなら絵はどうだろう。絵だって同じことだ。キリコの絵にも「偶然の出会い」らしきものがあるが、そこには画家の露骨な意図が見えるだけで、不思議な出来事はなにもない。
 結局のところ、われわれは言葉と絵の美しさについて何も理解していないことになる。マン・レイの写真《解剖台の上のミシンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい》を見て、美を理解したように思ったのは一瞬の錯覚だったのだ。

  肝心のマン・レイのことを書くのを忘れていた。彼はいったい何故このロートレアモンの詩句を主題に写真を撮ったのだろう。もちろんブルトンが『シュルレアリスム宣言』に引用し、シュルレアリスムの精神を象徴する言葉だったからだ。しかし、だからといってこんなつまらない写真を平気で撮るマン・レイの気持ちを理解するのは難しい。いったい、彼は、ロートレアモンの詩句の美しさは映像では表せないと思わなかったのだろうか。マン・レイは、時代を読むにさといだけの凡庸な写真家だったのではないだろうか。


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2007.04.02[Mon] Post 00:18  CO:0  TB:0  -Man Ray  Top▲

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