ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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山口晃(3)

VOCA展に行った。去年のVOCA展は図像をいじくり回すような作品が多かったが、今年はそんなこともなく、分かりやすい作品が多く楽しめた。  
  VOCA賞を受賞した山本太郎の《白梅点字ブロック図屏風》はコンピュータで部品を組み合わせたようなチグハグな構図で、余白もバラバラで緊張感がない。たしかにパロディとして分かりやすい絵だが、評者が絶賛するほどの作品でもない。むしろ「悪達者な芸」以前のイラスト風日本画だと思う。この構図が素晴らしいという人はたぶんお人好しで騙されやすいひとだ。パロディだからってこんな散漫な構図でどうするんだ。 
  山口晃が《木のもゆる》で府中市美術館賞を受賞している。山口は、この上野の森美術館で五月に会田誠と二人展をすることになっているのだが、当の上野の森美術館の学芸員がVOCA展にも推薦したらしい。そんなことはともかく、山口は、すでにブログに書いたように、去年のミズマの《Lagrange Point》展で絵画を見るのではなく、体験させるということで、それまでのイラスト風の絵とはことなるインスタレーションの試みをしていた。そんなことがあったので、この《木のもゆる》にもなにか新しい試みがあるのかと思ったが、よく分からない。梅の枝が絡まって、ごちゃごちゃした印象の絵で、観者の身体を取り囲むような錯覚を呼び起こそうとしているのではなく、むしろ絵画の中へ観者を誘うような空間を生み出そうとしているような気もするが、それにしても遠近法がスッキリとしない。選考委員の評もあまりこの作品には触れていない。ただ、委員長の高階秀爾が総花的な評のなかで山口に触れているので、そこを引用する。


 また府中市美術館賞の山口晃の《木のもゆる》(坂元暁美推薦)は、たくましい生命力を発散させる梅樹の姿を力強く華麗に描き出して見るものを圧倒する。すでに多彩な活躍を見せているこの作者にとっても、新しい展開を予告するような力作である。


  無難な評価で、ケチのつけようがないが、「力強く華麗に」という表現は、新しい展開を予告する作品の評価としては曖昧すぎないか。少なくとも、どこに新しい展開の兆しがあるのか具体的に指摘してくれなければ美術評論とはいえないだろう。『日本近代美術史論』を書いた高階がこの山口の《木のもゆる》に何も感じなかったとは考えにくい。
 山口の《木のもゆる》は山本太郎の《白梅点字ブロック図屏風》のような凡庸な絵では決してない、とは言うものの、わたしはこの絵が傑作だと言っているわけではない。前作の《Lagrange Point》で失敗したインスタレーションではなく、絵画本来のイリュージョン空間で「絵画の体験」を成功させようとしているのではないかと、勝手に想像しているのだが、それも判らない。画面が上からピンクみどり黄色そして余白の白と四つに分割され、そこに梅の老樹が枝を伸ばして絡み合っている。ミクロとマクロの視点が融合しているように見えるし、自然の中に兵器などのメカニックなものが隠されている。水墨画のような箇所もある。
 推薦者の坂元暁美は「はじめてこの絵をみたとき、予想していなかったものが目に飛び込んできた驚きがあった」というのだが、坂元はどんなつもりで山口晃を推薦したのだろう。従来の大和絵風鳥瞰図が頭にあったのだろうか、それとも絵画によるインスタレーションが頭にあったのだろうか。どちらにしろ、《木のもゆる》はこれまでの絵とはまったく違うものだから、それは、驚いたにちがいない。坂元も高階と同じように、新しい展開に期待すると言っているのだが、五月の会田との二人展ではどんな作品が展示されるのか、それによって、この作品が山口の新しい展開を予告するものなのか、あるいは単なる失敗作なのかハッキリするだろう。
 いずれにしろ、山口晃はもとのイラストレーターにもどる気はないのかもしれない。そうだとしたら、なおのこと五月の二人展は見逃せない。(まさか回顧展じゃないでしょうね)


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山口晃(4)へ
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2007.03.30[Fri] Post 13:44  CO:0  TB:0  -山口晃  Top▲

浅田彰(1)

 千住博・浅田彰・黒川紀章の鼎談「美の王道」


 黒川紀章展-機械の時代から生命の時代へ-(国立新美術館2007年)に際して行われた千住・浅田・黒川の鼎談「美の王道」をネットで見たので、その感想を書こうと、もう一度ページを検索したら、すでに閉鎖されていた。2ちゃんねるの崇拝者の間で、その場を仕切る達人と評判の高い浅田が、千住と黒川を相手にどんな活躍をするのかもう一度確かめたいと思ったが、しかたない、いい加減なメモをたよりに書くことにする。


 浅田は、「建築文化」の古いバックナンバーを取り出し、そこに載った「現代建築の変容」という黒川との対談のことから話をきりだした。そこで浅田は、黒川が西洋の土木中心主義を批判するのに対して、自分は、たんなるアジア回帰でいいのか、新しい美術館はモノをためこむんじゃなく、半透明なインターフェースをもち、いろんな情報が行き来する開かれた美術館が必要だといっていて、それが、奇しくも今回、この「国立新美術館」として実現したわけでと、自分の先見の明を自慢することから始める。黒川は千住と浅田の背後から観客席のほうをカメラで撮っている。千住が黒川の「花数寄」について、本能的なものと概念的なものの融合だと説明しているうちに、いつの間にか千住の滝の絵の話になって、浅田がアンドレ・マルローは那智の滝(?)を見て、アパリシオン、出現であると言ったと、自分がマルローを那智の滝に案内したことに触れながら、そこには東洋的な時間の概念があるというと、千住は千住で滝はサブライムだと浅田とエールの交換をし、日本の庭園はその中を歩くということが大切で、線対称でも面対称でもなく、XとYの二つの変数が色と形の中間領域の利休鼠がエロティックな建築なのであるとだんだん話がおかしくなってきたところで、浅田が岡倉天心の「茶の本」は1907年に出たと突然言いだして、これはきっとフェノロサなんかを持ち出して、東洋と西洋の文化について蘊蓄を傾け、千住の混乱を整理してやるのかと思ったら、浅田は1907年とういう発行年に自信がなくなったのか、確か,そうだったと思います。あとで見ればわかりますというようなこといって、たぶん「建築文化」のことだろう、机の下を手のひらで示している。なぜ発行年を忘れたぐらいでそんなにあわてるのかわからないが、たぶんクラインの壺と同じに、西暦年は自分の議論をもっともらしくする小道具なのだろう。そんなこんなで浅田はemptyと数寄がどうしたこうしたと天心はそこそこに話は利休に飛んで、利休の侘び数寄はやりすぎのところがあって、茶室は暗くて相手の顔さえ見えないが、そのあとの誰かさんの茶室は窓が沢山あって明るいと、やっとのことで黒川の「花数寄」の話になったのに、千住がまた、花数寄にはお茶のコンセプトあって、異質なモノがぶつかって、コンクリートとガラス、直線と曲線が非常に絶妙に調和していると、まるで料理評論家のような物言い。


 こんな具合にかみ合わないままに二人の話がつづくのだが、一向に浅田の素晴らしい仕切が見られない。ところが、どこから話がそうなったのか思い出せないのだが、浅田が突然「永徳から千住へが王道である」と帯作家の面目を施す。誰のことか判らないが、マーケティングやいろいろと仕掛けるような覇道は十年経てば消えていく、そこへ行くと千住さんは王道、いずれ残るんですといって、これは仲間褒めじゃなくて言うんですけどと付け加えたけれど、さすがに心にも無いことを言ったので恥ずかしかったのだろう、ちょっと褒めすぎですけれどとしきりに弁解しているのだけれど、千住はそんなことにお構いなく、有り難うございます、自分が非難されるのは王道の宿命だと思っていますと応える破廉恥ぶり、何しろ千住は自分の滝の絵を紀貫之の花実相兼の美学を具現化したモノだと言っちゃうぐらいだから、浅田の褒め言葉なんかまだ足りないと思っているのだろう、ルノワールが王道だ、世間は本物が分かっていないとロリコン画家を褒め始め、肝心の黒川のことなんかそっちのけで盛り上がる。そこは、さすがに浅田、我に返って、黒川に話題を向け、商業的に成功したっていいじゃないか、売れたら売れたで何がわるいかというのが私の考えでと、ご都合主義もいいところ、とにかく、永徳を受け継ぐのが千住なら、黒川紀章は丹下健三を受け継ぐ王道だとまとめて一件落着。


 このあと、黒川が座談に加わって、自分のキーワードの共生とかメタボリズムとか花数寄とかの説明をする。すこし滑舌がわるいが、日本文化はミニマリズムではないと、ポストモダン風なことも付け加えてなんとか鼎談の格好をつけた。 千住は宗教のかわりに人類を救えるのは美術だというし、浅田はカント以降は真善美が切り離されたが、これからは黒川のように真善美を合わせて考えていくような発想がひつようだ、と随分と古くさいことをいったりしているうちに鼎談は終わった。 見終わった後の感想だが、浅田はそんな仕切の名人とはみえなかった。細木数子と加藤周一を足して二で割ったような非常に古めかしい感じの知識人で、颯爽としたところもなく、その場を仕切るなんてことにほど遠くて、三人が三人とも、勝手に自慢話をしているだけの奇妙な鼎談でした。 千住博展(山種美術館)へ


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2007.03.24[Sat] Post 13:46  CO:1  TB:0  美術展評  Top▲

高柳恵里

 「20世紀美術探検」(国立新美術館)★★★★OR☆

 最初の展示作品《生花》を見たとき、また下らぬアートかと思った。生花をインスタレーションもどきに仰々しく飾って、反美術とか言うんだろうと呆れかえった。それでも、一応は、遠くの台にのせてある生花のところまで行って、周りをぐるりとまわってから、次の《古着coordinate》の展示室にいった。これも《生花》と同工異曲の、ごく普通のブティックのディスプレイに見えるが、何か引っかかるものがある。かって展覧会で感じたことのない不思議な感覚だ。
 「レディメイド」という言葉が浮かんだ。デュシャンのレディメイドもディスプレイだし、古着と言っても既製品なのだから、これもレディメイドにちがいない。しかし、どうも高柳の作品の勘どころがわからない。なによりわからないのは、タイトルが《古着coordinate》なのにちっとも古着のようにみえないことだ。
 と思ったところで、オノデラユキの「古着のポートレイト」や石内都の「mather's」の母の古着を思い出した。二人の古着は高柳の古着とちがって分かりやすいのだが、その分かりやすさは、グリーンバーグが定義した意味でのキッチュの分かり易さである。美しい階調のモノクロ写真で、オノデラは透明人間が着ているように人物不在のポートレイトを撮っているし、石内は、確執のあったという母親の遺品の下着を撮っているのだが、両者とも非常にわかりやすい、ありきたりの古着の物語をものがたっている。
 高柳は古着から物語を排除している。少しよれているけれど、シミもシワもない新品同様の古着を、なんの芸もなく、ただハンガーに掛けて吊してある。白と灰色と黒のモノトーンでまとめているが、上品でもないし地味でもない、野暮でもないし粋でもない。ただ、普通にマトモで、ネッカチーフやネックレスの小物類は、ちょっと野暮ったいけれど、これも教科書どおり、アイテムがレディメイドなら、コーディネイトもレディメイドということらしい。
 高柳は《古着のコーディネイト》から物語を取り除くだけではなく、個性とかオリジナリティも排除する。ただ、美しいもの面白いものを、なによりも自分がそう思うものを、レディメイドのデザインを手本に自分の手で見つけていく。
 というわけで、僕はあわてて、《生花》の部屋に戻って、菊と松の生花を見た。菊と松を生けるのは華道の定番なのだろうが、それにしても平凡な生け方だ。丸い花瓶に丸い大輪の菊を生けてるのは気になるが、それでも三角形の構図を作り出そうとしていることは判る。華道の美しい形があるわけではないが、ジャポニスム風のフラワー・アレンジメントと考えればそこそこに面白い。
 他に、インテリアの写真とライティングのインスタレーションがあるのだが、これらはどちらかというと、商業デザインのパロディになっていて、前二者ほどの面白さはない。写真は洗面台と坪庭と作りつけ家具を撮っているが、これらはどれもたとえば「BRUTUS」のような高級めかした大衆誌でおなじみのテーマだが、高柳は明らかに広告写真の技法を無視し、悪意のない素人のふりをして、撮りたいものを真ん中に、すこし斜めの構図で撮っている。ライティングのデザインもバブルの頃に、盛んにインテリア雑誌をにぎわしたものだが、高柳のライティングは、エクステリアのライトアップなのかインテリアの照明なのか、どっちつかずの中途半端なライティングで、赤青黄の投光器は遊園地のライトアップに見えて、ギャグとしては力が弱い。
 高柳の作品は、デュシャンのように、レディメイドの実用品をそのままディスプレイするのではなく、生花、ファッション、インテリア、照明などのデザイン商品をアレンジしたりコーディネイトすることだから、オリジナリティーが出せないわけではないが、どちらにしても流行に左右される。とりわけファッションは流行そのものだから、定番商品で個人的な趣味を最小にして、しかも、古着が古着に見えないように、シミといっしょに物語を取り除き、ハンガーに掛ければ、古着は美術品ではなく実用品になってしまう。
 というわけで《古着のcoordinate》は、高柳があしたデートに着ていくためのコーディネイトなら、相手が誰だかしらないが、どうみたって野暮、遠い親戚のおばさんが釣り書き配ってくれた見合じゃないんだから、いくらなんでもそんな格好はやめなさいと忠告したくなるようなコーディネイトだ。とは、言うものの、反対に「BRUTUS」が高柳恵里特集を組んで、あたらしいデザイナーとして紹介してもちっともおかしくないだろう。
 高柳は本来パロディやアイロニーの作家ではなく、正座のパフォーマンスでもわかるように、美の形というものを大切にする工作の人なのが、今回の作品は、アレンジメントとかコーディネイトとかの組み合わせの作品なので、素材を直接扱うこともできずに、どうしても批評的な視点が前面に出る。
 しかし、たとえば高柳の《雑巾》シリーズは、雑巾という日常的な材料に形を与え、反芸術ではない、まっとうなオブジェをつくっているのだから、今回の古着もコーディネイトをするだけではなく、素材として切ったり縫ったり丸めたりしたら面白ものができたのかもしれない。しかし、それでは《古着のcoordinate》の反キッチュとしての現代アートの面白さがなくなってしまうだろう。
 これまで多くの美術家がデュシャンのレディメイドのパロディに挑戦し、失敗してきたのは、デュシャンのレディメイドの否定的な面しか見ていないからだが、そんななかで、高柳の「レディメイド」はデュシャンの肯定的な面にもっとも迫った作品と言えるのではないだろうか。
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2007.03.22[Thu] Post 02:06  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

コーネリア・パーカー

 「20世紀美術探検」(国立新美術館)★★★★   

 絵画の起源は「ぺっちゃんこ」である。(泉太郎からつづく)
 もう一度、カタログからパーカーの作品《ロールシャッハ》の解説を引用する。

 かろうじて原形をとどめてはいるものの、平坦に潰され、厚みと本来の機能を失った銀の燭台、器、スプーン、フォークや管楽器が、床から10センチ程度の空間に細い針金で水平に吊られ、繊細さと神聖さを湛え幻想的に浮いている。(本橋弥生解説から)

 《ロールシャッハ》が幻想的に見えるのは、針金で吊され、浮いているように見えることもあるが、それだけではない。この展覧会にも椅子を天井から吊したミロスワフ・バウカの作品があるけれど、特に幻想的に見えるわけではない。《ロールシャッハ》が幻想的に見えるのは、ぺちゃんこに潰された銀器が、同じ高さに水平に吊されて、まるで一枚の透明なキャンバスに描かれた絵のように見えるからだ。
 絵画の〈重さ〉は、図像の三層構造にしたがって三つに分かれる。林檎の絵を考えてみよう。まずキャンバスや絵具の物理的重さがある。それから図像客観(林檎の図)は無重力で、図像主題(描かれた林檎)には重量感がある。絵画にはこの三つの重さが働いている。(『絵画の現象学』参照)
 彫刻も絵画と同じように重さは三重になっている。ただ、彫刻は絵画よりイルージョンを持ちにくいので、どうしても、金属や大理石の物質的重さが剥き出しになる。その重さをなくすには、像主題(イリュージョン)がハッキリと見えるようにすればいいのだが、これがなかなか難しい。等身大にしても像(Bildsujet)になるとはかぎらない。色を塗ったり、服を着せたりすれば、死んだ人形になるだけだ。ロダンは彫刻を絵画的にしたり、トルソにしたり、モデルに不自然なポーズをとらせたりと、いろいろ工夫をしているが、結局は、ブロンズの重さから自由にならない。彫刻は事物性が強いので、どうしても材料の重さに支配されてしまう。(抽象彫刻を除けば、成功しているのは、僕の知る限り、ジャコメッティだけだ。)
 さて、この《ロールシャッハ》は、彫刻(立体)と絵画(平面)のハイブリッド作品なのだ。ペッチャンコになった銀製の楽器や食器はレディメイドだが、正面から見れば絵になっている。針金で吊して、重さ(事物性)を取り除いてやれば、そこに透明なキャンバスが現れ、《ロールシャッハ》はまことに幻想的に浮かんで見える。(注)
 このあたりの図像分析はもう少し詳しくしなければならないが、ともかく、《ロールシャッハ》の面白さは、三次元のものが潰されて二次元になり、その二次元のものが、もとの三次元のものの絵になっているところにある。潰れたトロンボーンが、トロンボーンでもあるし、トロンボーンの絵でもあるという矛盾しているところが幻想的に見える。絵画の起源は影をなぞることだと言われるが、ぺっちゃんここそ絵画の起源だと思う。というより、人類(大袈裟)が絵の面白さを知ったのは、ぺっちゃんこが先なのだが、正確な再現ができるのはなぞる方だと、いつの間にか、なぞり起源説が支配的になった。初めは壁に映じた影をなぞり、次にモデルを見てなぞり、それからカメラ・オブスキュラの映像をなぞり、最後に写真が生まれて、やっとのことで「なぞる」なんてつまらないと、ペッチャンコの美学を再発見したのがモダニズムだ。
 なぞったものよりペッチャンコが面白いのは、歪んでいるからだ。裏と表と横が混じり、伸びたり縮んだり曲がったりしているからだ。セザンヌの風景はペッチャンコである。林檎もペッチャンコだ。キュビスムは分析も総合もペッチャンコである。ジャコメッティの《ディエゴの胸像》はペッチャンコである。そして、マチスの切り絵が面白いのはヌードが潰されてペッチャンコだからだ。
 以上、絵画のペッチャンコ起源説は《トンデモ美学》です。あんまり信用しないように。

注:《ロールシャッハ》の幻想性は、ペッチャンコの彫刻的なものと絵画的なものの対立だけではなく、もっと知覚心理的な錯視現象が作用しているのかもしれない。しかし、それを解明するのは認知科学の仕事である。
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2007.03.17[Sat] Post 22:00  CO:0  TB:0  -Cornelia Parker  Top▲

中村宏

「中村宏|図画事件1953-2007」東京都現代美術館★★  久しぶりに「ART TOUCH式五段階評価」を復活させることにする。

 
アート度{1}:〈ルポルタージュ絵画〉〈絵画的事件〉〈黄色法則〉〈観念から観光へ〉〈タブロオ機械〉〈絵図連鎖〉〈図画蜂起〉など、キャッチ・フレーズを作る才はあったが、モダンからポストモダンへの現代アートの流れからは外れていた。55年体制の生き残り。
  目立つ度{3}:蒸気機関車や女子高生など目印はあるのだが、どれも商標までには至っていない。DOBを商標にしてしまう村上隆の図々しさが欲しい。
  アウラ度{0}:イラストであり、ポスターや挿絵など印刷物にふさわしい。
  美 術 度{2}:グラフィックなものはけっこう技巧的で上手い。
  おしゃれ度{3}:蒸気機関車や女子高生ものはマニアにとってオシャレかも知れない。 
 絵描き度{1}
:ちょっと判らない。絵が嫌いだ下手だといいながら一生懸命工夫しているところは、ひょっとしたら本物の絵描きになれたかもしれない。イラストレーターの才能が絵描きの才能を駄目にした。
 恍惚度{2}:自分の絵の模倣にならないように気をつけていたので、表面的には呆けてはいないようにみえる。大家でもないし。

  一言でいうと中村宏は面白くなかった。初期のルポルタージュ絵画を見てがっかりした。映画から学んだという、モンタージュやクローズアップの技法は、下手な漫画にしか思えなかった。映画にはカットがあり、漫画にはコマわりがあるのだが、絵は一枚の中にモンタージュしなければならないので、どうしても無理が生じる。そこを遠近法を歪めたり、シュールレアリスムの技法を取り入れたりと、いろいろ工夫を凝らしている。《四世同堂》は真ん中に祖母の顔がクローズアップで描かれ、後ろには集合写真や人物の影絵、それから上のほうには額縁に入った葬式会場などの写真が描かれているのだが、これはもちろん、宗教画のパロディで、〈絵〉ではなく、〈写真〉を描いたところが斬新だったのだろうが、今見れば、ただの思いつきにしか思えない。
  展示作品の中で、目にとまったのは《絵図連鎖・5》である。《絵図連鎖》シリーズは1から7まであるのだが、この《絵図連鎖・5》が面白い。コラージュのように上に重ねるのではなく、パピエ・コレを横に並べて「連鎖」にしている。コラージュというのは、構図が工夫されていたり、文字と図像の偶然の面白さをねらったり、あるいは空間がどうのこうのというものだが、この《絵図連鎖・5》にはそんな思わせぶりなところはない。新聞や雑誌の切れ端に白い絵具を塗って、かれのトレードマークの蒸気機関車や女学生のほか、戦闘機や新聞の広告や見出しなどを貼ったり塗り残したりしている。自分が描いた絵の白黒写真のコピーもある。ストリッパーの切り抜きもある。上から絵具が塗られて半分消されているものや、絵具が薄くて下の文字や写真が透き通って見えるのもある。  コラージュというものは大抵つまらない。『20世紀美術探検』(国立新美術館)で見たクルト・シュヴィッタースのコラージュは、見ていて腹が立つぐらいつまらない。いくら紙が平たいからといって、貼り付けただけでは絵画にならず、ただ、紙という平たい事物がみえるだけで、タピエスの「敷布」やキーファーの「藁」と変わらない。
  中村の《絵図連鎖・5》はコラージュではない。貼ったり破ったり切り取ったり塗りつぶしたり、あるいは透かして見せたりして、たしかに面白いデモンタージュになっている。しかも、自分の作品のイコンを壊しているところが、ポモ風に無理矢理言えば、自分のアイデンティティーの「脱構築」と言えなくもない。
  それから、最後に付け加えておくと、中原祐介がカタログの巻頭に描いている中村宏論『不滅のタブロオ機械』は、蒸気機関車についての表象文化論(?)を述べるばかりのとても美術評論とはいえない文で、むかし写真論でさんざん読まされた書き方だ。こういう文章を読むと途端に拒否反応が起こる。絵画について何も書いていないからだ。以前、写真論を読んだときの苛立ちを思い出す。

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2007.03.08[Thu] Post 21:29  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

邱黯雄

 東京都現代美術館に『中村宏|図画事件』を見に行ったついでに、上海在住の中国人邱黯雄(チウ・アンション)のアニメーション『新山海経』を見た。東京都現代美術館のHPから引用する。

 中国古代神話の礎を成す「山海経」は、各地の産物や動植物、さらには珍獣や妖怪のような想像上の生き物や神々の類いが記されています。一方、邱の現代版「山海経」では、ステルス戦闘機を連想させる頭のない怪鳥や、ガソリンスタンドで給油する自動車を模した、亀のようなどこか愛らしい怪獣たちが次々と登場し、中国をはじめ世界各地で私たちにさまざまな価値観の変換を余儀なく迫る都市化や情報化の波、軍事問題や政治対立などが、彼の卓越した描写力と洞察力によってユーモラスに綴られています。邱の寓話的な眼差しは、政治的メッセージを声高に主張する旧世代のアプローチとは一線を画し、私たちの心に静かに力強く語りかけてきます。

 この引用に付け加えることは何もない。ただ、分からないのは、なぜアニメが美術館で上映されているかである。強いて探せば、このアニメーションが墨絵で描かれていることだろうが、それでアニメが芸術になるとは思えない。それなら政治的メッセージがあるからだろうか。それだって、紋切り型の風刺だし、中国では政治的意味もあるだろうが、わたしには束芋の一ひねりしたつもりの文明批評と同じように退屈なものだった。
 これは、21世紀のシノワズリ(chinoiserie)であり、多文化主義を標榜しながら実はアフリカや日本を文化的植民地にしようとしていた『カルティエ現代美術財団コレクション展』(MOT2006年)と同じ意図がかいま見えるのだが、おそらく、これは買いかぶりで、ただ、学芸員が芸術がわからないだけなのかもしれない。
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2007.03.06[Tue] Post 21:43  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

黒川紀章

これは黒川紀章が都知事に立候補するという話ではない。
   かねがね、建築は芸術ではない、車や便器と同じようにデザインだと言って来たのだが、近頃の(と言ってもポストモダンは随分と古いことなのだが)建築家の芸術家気取りは目に余る。これはもちろん現代美術の方が、パブリック・アートだとかサイトスペシフィックだとか称して、建築化・土木化したことに責任があるのだが、そのことは別の話、ひとまずは建築家の代表として黒川紀章の悪口を言う。  なにも黒川でなくても良いのだが、たまたま、黒川が設計したという「国立新美術館」へ行ったからだ。行って、呆れかえったからだ。何が呆れたかというと、もちろん芸術の話でもポストモダンの話でもない。デザインの話だ。行った日はあいにく天気が崩れるというので傘を持って出かけた。入場券売り場から玄関の方へ歩いていくと、誘導員が傘立てはあちらだという。そのあちらを見ると、小さな円形の建物がある。円形なら便所か交番だろうと半信半疑で行ってドアを開けると確かに傘置き場だ。円形の傘置き場なんてシャレのつもりか。それよりもドアの取っ手を握ったはいいが、円形なのでどの角度に引けばいいのかこんぐらかる。とにかく傘は一本、女房が中に入って、僕は外で待った。これがそもそも間違いの元だったが、それはあとあとの話、ひとまず玄関からホールに入ると何やら古めかしい印象、アトリウムの逆円錐形の建造物(柱ではないらしい)は昔のブラジリアみたいだし、下部が細くなっているから、広々と感じると黒川が自慢しているが嘘だろう。たしかにフロアの面積は広くなるが、そのぶん大きな上部がのしかかってくるようで息苦しい。しかし、こんなことはどうでも良い。ただ黒川にセンスがないだけの話、ポモの理屈で何とでも言い訳できるだろう。(黒川のHPを見たら、この人はポストモダンではなく、折衷主義者だった3/4)
  アトリウム全体が田舎のショッピングセンター風なのは仕方ないが、不便なのはエスカレータだ。「20世紀美術探検」を見終わって2階のフロアに出た(このあたり記憶がさだかではない)。さて、地下のミュージアム・ショップへ行こうとエスカレータで一階に下りたけれど、地階へのエスカレータがない。よくみると遠くの方にエスカレータがある。しかし、そこまで歩く元気がない。近頃のエスカレーターは連続して乗れない。一つのエスカレータを降りると、乗り継ぎのエスカレータがない。うろうろとエスカレータを探す羽目になる。まるで「ロード・ランナー」のゲームをやらされている気分だ。  見れば近くにエレベータ・ダクトらしきものがある。ガラス(アクリル?)張りの中で機械が動いている。近づいて見ると何となくエレベーター風、上の方にB1の数字が見えるが、確信が持てない。年配の女性がこれはエレベーターかと訊く。訊かれた女房は、そうらしいですよと曖昧に返事して、しきりにボタンを押している。壁にはボタンのような円いものがたくさんあって、構造物のボルトの頭も円いのだが、文字や記号はどこにもない。静電スイッチはストロークがないので、点灯しなければ、手応えがない。女房は、乗り場は反対側かしらと言いながら、あっちこっち円いものを押している。まるで「モダンタイムス」のチャップリン状態である(女房は腹を立ててワザとやってる)。そのうちエレベータが二台同時にやってきた。例の女性は、どっちが上に行くのか判らないとぶつぶつ言いながら、乗ってる客にたずねていた。  とにかく無事エレベータに乗って地階に降り、カタログとついでにマティスの「画家のノート」を買って、キャフェテリアで高くて不味いカレーを食べて、「異邦人たちのパリ」を見て、勿論「黒川紀章展」は見ないで(能書きはゴメンだ)、やっとのことで外に出た。
  ここで振り出しに戻って、傘置き場だ。今度は一緒に中に入った。女房はつかつかと傘を置いたはずの所に行ったが傘がない。あわてて向きを変えると、反対の方へ行ったがやっぱり見つからない。あっちこっちと迷路のネズミのように行ったり来たりしている。傘置きは外側と内側の二重の円になっているけれど、どっちに置いたか憶えていない。頭陀袋を掻き回して、やっとの事で鍵を見つけて、番号を見たら七百番台、ぐるぐる回って、外側の円が七百番台でおわり、内側の円が続きの七百番台から始まるということがようやく判って、無事われわれのビニール傘を発見した。
  初めは女房がアルツハイマーを発症したかと心配したが、一緒に傘を探して見れば、たしかに円形は初めと終わりがないのだから、見当識が働きにくい。アルツハイマーではなく、加齢によるボケと診断して一安心。それにしても、都知事に立候補するという黒川紀章のボケの方が心配だ。         つづく(千住・浅田・黒川よる鼎談へ) 

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2007.03.02[Fri] Post 01:54  CO:0  TB:2  美術展評  Top▲

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