ART TOUCH 絵画と映画と小説と

もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.--[--] Post --:--  CO:-  TB:-  スポンサー広告  Top▲

Anselm Kiefer

「みんなのなかにいる私」展(MOT特集展示)★★★★

 大竹伸朗全景展を見たついでに常設展示を見た。「大竹伸朗全景」展は三度目なのだが、これまでは「全景」を見るだけで疲れてしまい、まだ、常設展を見ていなかった。それで、今回は、先に常設展を見ることにした。
 面白かったことを箇条書きにしておく。

★ゲルハルト・リヒター《エリザベート》:モノクロ写真を模写して、ボカしたもの。大竹伸朗にもホックニーにもモノクロ写真を模写したものがあるが、ゲルハルト・リヒターが圧倒的にすばらしい。川村美術館のリヒター展では、むしろ理屈っぽく感じたが、他の具象抽象の現代美術の中においてみると不思議なオーラを発している。リヒターはラスコーの洞窟画を描いた人間とまったく同じ意味で画家なのだ。野牛が洞窟の壁に確かに存在するように、エリザベートも美術館の壁のそこで笑っている。

★ロバート・ライマン 《君主》:これが有名なミニマリズムの白いキャンバスかと眺めた。白い壁と、白いキャンバスと、白い絵の具と、白い図形と、そして白いイメージが浮かび上がって来るはずだが、なにも起きない。ただの白いキャンバスがあるだけだ。
 なぜか大竹伸朗の《網膜》と李禹煥の《余白の芸術》をおもいだした。とくに李禹煥の横浜美術館の「余白の芸術」はライマンの俗な盗用と思えた。でも、ライマンには余白なんかないところが素晴らしい。ロバート・ライマンの画集を買って、眺めてみよう。でも、画集で彼の面白さがわかるかしら。

★エンリコ・カステッラーニ《拡散する表面》:こういう平面的作品は好きである。ここの現代美術館にある宮島達男の《それは変化し続ける それはあらゆるものと関係を結ぶ それは永遠に続く》は電気仕掛けの平面だから、見ていて飽きない。私がアートに開眼したのは、子供頃見た高階秀爾監修の『世界の美術』(偕成社)のフォンタナの切り裂かれたキャンバスだった。

★河原 温《日付絵画》:コスースの《椅子》がコンセプチャルだというのは解らないではない。しかし、この《日付絵画》の何処がコンセプチャルなのか分からない。横着な絵手紙としか思えない。でも、コンセプチャルでないところがコンセプチャルだと言われそう。

★アンゼルム・キーファー《イカルス・辺境の砂》:こんなものに世の美術評論家がだまされとはとても信じられない。イカルスの羽にパレットがくっついているけれど、これがボランティアの案内人によると「絵画の終焉」を意味しているそうだ。展示室に置いてある解説カードを読むと、まあ、あることないこと、これでもかこれでもかと、並べ立てている。どうしても、ここに引用したいのだけれど、ながいので止めておく。
 とおもったけれど、やっぱり、少しだけ引用する。「二元論的な精神と物質の相克」 「鉛、藁、石など元素的な存在そのものを暗示する物質」「ギリシャ神話とドイツの歴史が重なり合う主題」「砂や写真を画面に付着させる技法」「象徴的に燃える火」「作者のライトモチーフとも言えるパレット」と言う具合に続くのだ。この作品の制作年は1981年だけど、当時の美術界の状況がしのばれる。

★ジム・ダイン《晩冬のロマンス》:これはキーファーに輪をかけてひどい。カードの解説は武士の情けで引用するのはやめておく。黒い血を流している汚い緑色のハートはともかくとして、タイトルが《暖冬のロマンス》(Romancing in Late Winter)とは何事か。吉本どころかこれじゃエンタの神様のネタだ。

★横尾忠則《意志の彷徨》:これは夜の都会の風景で横断歩道が光っているところは、千住博のビルのシリーズに似ている。感想はそれだけです。

★マーク・ロスコ《赤の中の黒》:川村美術館のシーグラム壁画にちょっと満足できないところがあるのだが、これはそれほど大きくなく、照明があかるくて、なんとなくそれらしいロスコで、ちょっぴり安心した。

★ナム=ジュン・パイク《TV時計》:まったくつまらない。考え方によっては、当時はまったく新しい映像感覚だったのだろう。ただそれだけのことだ。わたしが、面白かった唯一のヴィデオ・アートは1960年代に見たもので、十台ぐらいのテレビを並べて、ビデオで数秒ずつ時間をずらしてテレビ番組を流す作品で、これは次から次へと同じ映像音声がくりかえされるように見えて、現実がコピーのコピーになっていく様はまことに今という時間の虚構性を暴露するような愉快な作品で、見ていて飽きることがなかった。あれはいったいだれの作品だったのだろう。ひょっとしてパイクだったのかもしれない。

 以上思いついたことを書きました。これまでのMOTコレクション展で一番楽しい展示でした。
にほんブログ村 美術ブログへ
スポンサーサイト
2006.12.30[Sat] Post 13:28  CO:0  TB:1  -Anselm Kiefer  Top▲

伊東豊雄

伊東豊雄『建築|新しいリアル』展(東京オペラシティ)★★☆

 建築は芸術ではなく、せいぜいのところ車や便器と同じ実用品のデザインである。
 ポストモダンの空騒ぎはもともと建築から始まったものだ。モダンという概念は、建築でははっきりしている。ガラスと鉄とコンクリートで合理的に設計された建築で、それがつまらないから、もっと装飾や無駄なものをくっつけて面白くしようというのがポストモダンだろう。
 それなら建築に止めておけばいいものを、なにを勘違いしたのか、建築が芸術だと思いこんでいるものたちが、ちょうどモダン建築と表面的に似ている(幾何学的)抽象画やミニマリズムを巻き込んで大騒ぎをしたというのが真相だろう。
 この展示場にはポストモダンの怪しげな理論が皆無であるのは気持ちが良い。理論は実に明快である。ポストモダンというよりモダンである。「規則的で無機質な空間から複雑で有機的な空間へ」とチラシにある。たしかに曲線はある。しかし、その曲線はフンデルトヴァッサーのような装飾的な曲線ではない。力学的に計算可能な曲線である。
 曲線は必ずしもポストモダンとはいえない。アーチは古代からある合理的に計算された(モダンな)建築術である。ただ、構造を複雑にして、石や煉瓦の代わりに鉄とガラスとコンクリートで、グリッド(直線)構造が使えるようになったのが近代建築だ。
 わたしには、これを芸術として評価することはできないし、建築として論じる知識もない。ただ、会場にあった「エマージング・グリッド」を体感させるという曲面の床を歩いて見た。たしかに、これまでにない奇妙な身体感覚を味わうことができる。遊園地に作って鬼ごっこでもしたら楽しかろう。
 白い曲面はスキー場の凹凸のように見え、視覚的には寒いのだが、体感的には暖かいので、そのちぐはぐな感覚が面白い。
 こんな床(実際は斎場の屋根だそうです)が実用になるのかどうか、雨水が溜まらないのか心配だが、デザインとしてはとてもシンプルで美しくモダンに感じました。
にほんブログ村 美術ブログへ 
 
2006.12.26[Tue] Post 23:26  CO:1  TB:0  -伊東豊雄  Top▲

河井美咲

  ボロボロ ドロドロ展(ワタリウム)☆

 「帰ってきた日本のサブ・カルチャー」という副題で、河井美咲とテイラー・マッキメンスの二人が開いた展覧会。
 河井美咲のほうはヘタウマだというのだが、ノートの切れ端に描いたイタズラ描きは、たしかに、ごく普通の小学生のイタズラ描きにしかみえない。「スペース・ハウス」はインスタレーションというのだが、カルティエ現代美術財団展で見たママゴト遊びを思いっきりヘタにしたものだ。
 それにくらべれば、テイラー・マッキメンスは、ウンチとかゲロとか、よくある汚物をテーマにしているのだが、上質とはいわないが、ユーモアがある。紙に描いた水滴や波紋、バケツや電気コードを壁や床に貼り付けた作品は、幼稚だが、なかなか味がある。
 でも、いくらサブ・カルチャーと言われても、サブ・カルチャーをサブ・カルチャーのまんま展示されてもなぁ。小学校の卒業制作か、あるいは幼稚園の保護者参観日の飾り付けに千円の入場料はたかすぎる。受付の女子は、期間中何度でも入れるパスになっていると説明してくれたが、二度入る物好きがいるだろうか。
 テイラー・マッキメンスはそれなりに自分の商標を作り出しているとは思うが、河井美咲は自分の商標となるような「おりじなりてぃー」がないので、このままでは苦戦は避けられない。
「古いもの、ボロボロなもの、溶けるもの、今にも崩れそうなもの、つぶれちゃったもの、私たちのまわりには、ステキなもんがたくさんある。」と、河井のキャッチフレーズは松井冬子なんかより、ずっと分かりやすくて、おもしろいのだから、もう少し的を絞って、戦略を練り直せば、売り出しのチャンスはあるだろう。
 しかし、こんな古くさいアート戦略が生き残っているとは、驚きである。
にほんブログ村 美術ブログへ 
2006.12.26[Tue] Post 19:23  CO:2  TB:0  -河井美咲  Top▲

山口晃(2)

 山口晃が『Lagrange Point』展でやろうとしている「絵画を見るのではなく体験する」という考えについて補足しておきたい。
 絵画を「体験する」ということは、絵を漫然と美的に鑑賞することではなく、その絵に没入し、その絵画空間を生きる(erleben)ということだ。その絵画空間をグリーンバーグは、『モダニズムの絵画』の中で二つに分けている。

 「古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである」(『グリーバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳)

 体験するというのは、歩いてその絵の中に入ることなのだろうが、それは知覚身体ではなく、想像身体が絵の中に入ることなのだ。これは、なにも絵画の世界だけではなく、窓の下に見える歩道を散歩するのも、未来の世界に遊ぶのも、同じ想像的身体なのだ。

▽この記事の続きを読む?

2006.12.22[Fri] Post 23:50  CO:0  TB:0  -山口晃  Top▲

山口晃(1)

山口晃展:Lagrange Point(ミズマアートギャラリー)★★★☆

 今回の展覧会は、これまでの大和絵風イラストとはまったく異なる展覧会になっている。図像を読み解く楽しみだけではなく、「絵を体験する」というテーマに挑戦したというのだ。
 確かに、現代のペーター・ブリューゲルと言われる山口の卓越した人物描写をルーペで見るような楽しみは、今回の作品にはない。そのかわり、線描の達人と言われる技術で描かれた四天王像などが展示されている。
 絵を見るのではなく、「体験する」ということはどういう意味だろう。今回の展覧会は、人物がモノクロの線描で、かつ等身大に描かれていること、展示がインスタレーションになっていることが特徴である。

▽この記事の続きを読む?

2006.12.21[Thu] Post 23:34  CO:0  TB:0  -山口晃  Top▲

M.C. Escher

スーパーエッシャー展(Bunkamura)★★☆  エッシャーは、だまし絵(トロンプ=ルイユ)ではないと、谷川渥が『だまし絵』(河出書房新社)の巻頭で書いている。  初期のころの作品には、木版画とは思えない大胆な空間表現もあるのだが、イタリアの風景を描く頃からおかしくなり、「平面の正則分割」の時期になると、アイデアだけの凡庸なイラストレーターになってしまう。  錯視を利用したり、自然法則を歪めた図像は人を驚かせはするのだが、見ることの本来の楽しみとは違うような気がする。 だまし絵的な絵もあるにはある。たとえば、『球面鏡のある静物』は、ガラス瓶がブロンズ、新聞紙、書物という触覚的質感の異なるものと一緒に置かれている。瓶に映った室内の歪みが、瓶の球面のイルージョンを強め、その下に敷かれた新聞紙がだまし絵のようなリアリティーを獲得している。  また、『三つの世界』は池の空間が三つに分かれている。一つは、落ち葉が浮かぶ池の水面、二つは、枯れ木が映っている池の鏡面、そして三つは、鯉が泳いでいる半透明な水の中。この鏡面と水面と水中の三つが重なって描かれている。これも、谷川渥がいう、空間的トリックを使った「だまし絵」とは言えないまでも、もともと存在しない空気と水の境界を現出(erscheinen)させて面白い。  注:空間的トリックとは、絵画のイルージョン平面と絵画の物理的平面の二重性を利用したトリックのことである。たとえば、絵の中に額縁を描き、その額縁に実物大の蠅と影を描けば、蠅は絵画のイルージョン空間ではなく、もう一つ手前のより実在的な空間に描かれた存在するように見えるというトリックのことだ。エッシャーの絵は、絵画の物理的空間への言及がないので、あくまでも、イラストの域をでることがない。 にほんブログ村 美術ブログへ
2006.12.20[Wed] Post 01:04  CO:0  TB:2  -M.C.Esher  Top▲

Ingrid Weber

  イングリット・ヴェーバー展(タグチファインアート)★★★

 展覧会のタイトルは「シーファー」である。Schieferというのは、頁岩から作った灰色の顔料のことで、その絵の具で描いたモノクロームの抽象画展である。
 こういう現代の抽象画を評価するのは難しい。いつものように、最初の印象で判断すれば、なかなか面白いというのが第一印象だ。何とも微妙な灰色の絵の具が美しい。こびり付いた絵の具の凹凸が作り出す濃淡で、雲のようなイルージョンを作り出す気配もあるのだが、それは微かであって、圧倒的に絵の具のマチエールが勝っている。それは模様でも具象でもなく、ナイフで擦りつけつけられた物質的な絵の具なのだ。それに、厚いキャンバス・フレームをつかっているので、なおさらキャンバスの平面が誇張され、その平面にこ擦りつけられている絵の具が際立つのだ。だからといって支持体と絵の具が喧嘩をしているわけではない。絵の具をなすりつけた跡や、その凹凸が作り出す微妙な陰影と、そして透けて見えるキャンバス地の編み目などが一緒になって生むだす視覚と触覚の微妙な響き合いが我々を楽しませてくれる。
 しかし、どうしても不満がのこる。絵画表面に緊張感がないのだ。抽象表現主義のようなイルージョンもないし、モノクローム絵画のようなコンセプチャルなものもない、ただのマチエールだけの絵ではないかという疑問が残るのだ。もちろん、作品数は少ないし、ヴェーバーの絵は今回見るのが初めてなのだから、拙速な判断は出来ないのはもちろんだ。
 ドイツのサイトを検索したが、2001年にデュッセルドルフのGalerie Thomas Taubertの個展にヒットしただけで、あとはもっぱらタグチ・ファイン・アートなど日本での展覧会が多いようだ。そういえば、彼女の絵は日本人の感性にぴったりしているように思える。
にほんブログ村 美術ブログへ
2006.12.19[Tue] Post 14:29  CO:0  TB:1  -Ingrid Weber  Top▲

Jason Teraoka

  ジェイソン・テラオカ:隣人たち(原美術館)★★☆

 なかなか味があって面白いとしか言いようがない。漫画あるいは挿絵風刺画風俗画であって、そのつもりなら十分に楽しめる展覧会だ。しかし、奈良美智とのコラボレーション企画に参加したということでわかるように、わざわざいかなくても、画集で見れば足りるだろう。目がみんな狂気に溢れているのにはちょっと飽きてきます。
にほんブログ村 美術ブログへ
2006.12.19[Tue] Post 00:11  CO:0  TB:0  -Jason Teraoka  Top▲

千住博

  千住博展(山種美術館)★★

 雨が降っていた。ビルの駐車場に止められないので、雨の中を随分と歩いた。美術館の中に入ると、正面の滝の絵の前に若い女性が立っていた。どうも泣いているらしい。まさかと思ったが、感動のあまり身動きが出来ないようなのである。わたしは、あらためてその滝の絵を眺めたが、何の変哲もない、見方によっては滝に見えなくもない、ただの白い模様の襖絵にしかみえない。水が膜のようになって落ちる滝は実際にあるし、飛沫も霧のように舞い上がることもあるだろう。しかし、何か不自然なのである。絵の具が垂れた跡があるのだが、滝の落下の速度と違うのである。水の幕が捩れる動きに流れがない。もちろん物質的な絵の具の流れと描かれた水の流れとはちがうだろう。しかし何か嘘くさいのである。偽物クサイのである。
 我々はだれでも、滝を見るのが好きである。それは、落下する水の流れに身をまかせながら、一瞬止まったかに思えてはまた流れる水の形に魅せられるからだ。しかし、千住の滝にはその水の形がないのだ。
 千住は、自分の絵は「技法的には絵の具による滝、内容は滝の絵。これこそが紀貫之の『花実相兼』ということではないか・・・。」と自画自賛しているが、いったい千住のどこに現代美術家たちが格闘した「支持体と絵の具とイルージョン」の問題があるというのだろう。
 千住博という作家はちょっと松井冬子と似ているのではないか。展示空間の途中に飾ってあったポートレイト写真は、自作の前で腕を組んでちょっと滝を見上げるようにしているのだが、偽画家がベレー帽を被ったみたいで恥ずかしい。
 第二室には若い頃の「ビルの作品群」があって、「長い時間」を描いたものだという。ちょっと見にはなかなか面白い絵なのだが、しばらく見ていると、構図や遠近法の歪みがなにかわざとらしいものに見えてくるのだ。たとえば、『街・校舎・空』の中の校庭に引かれたテニスコートの線は校庭の四辺とずらして描いてあるのだが、これはあきらかに、屋上の手すりなどの線と関係づけられて、絵画のイルージョン空間から絵画表面にはみ出すような効果を狙っているのだ。だから千住の絵は見ていてすぐ飽きるのである。
 言い忘れたが、滝の絵のわざとらしい余白を見て、わたしは李禹煥やサム・フランシスの余白を思い出した。竜安寺症候群である。
にほんブログ村 美術ブログへ 
2006.12.18[Mon] Post 17:49  CO:0  TB:0  美術展評  Top▲

大竹伸朗(3)

大竹伸朗インタビューby永江朗(『ユリイカ』11月号)

 この大竹のインタービュー記事は、将来、大竹を理解するための貴重な資料になるだろう。しかし、ここでは大竹のことではなく、聞き手の永江朗のことを書く。いかに、美術ジャーナリズムがイイカゲンかの証左になる。
 要点だけ書く。
 大竹がダ・ヴィンチの画集をスクラップ帳にしたことに関して、永江が「なぜまっさらなスクラップ帳じゃなくて人の画集なんですか?」と訊く。大竹は、コンセプトとかじゃなくて、すでにあるから一層得するじゃん、それがいいなと思っただけだと答えているにもかかわらず、永江は言う。

 永江 すごく暴力的な感じがしますよね。ダ・ヴィンチの上に自分のザーメンぶちまけて穢してやるぜ!みたいな。
 大竹 穢すなんて気持ちは全くないけどね。ダ・ヴィンチの絵は昔から好きだし、単純にダ・ヴィンチを貼らなくてももうすでにあるというところがいい。

▽この記事の続きを読む?

2006.12.04[Mon] Post 12:50  CO:0  TB:0  -大竹伸朗  Top▲

大竹伸朗(2)

浅田彰の大竹伸朗評(『美術手帖』12月号)

 大竹はロックだから解説は書けないという「卑怯な逃げ口上」で、『大竹伸朗全景』展のカタログ・エッセイを断ったと、浅田自身が『美術手帖』で書いていたことは、前回書いた。
 あらためて、浅田の大竹伸朗評を読んだら、なんとタイトルが『誰が大竹伸朗を語れるか』となっている。これは、大竹の〈凄さ〉を賞賛するレトリックだと承知してはいるが、じつは、巧みな自己弁解ではないのか。書けないのは俺だけではない、誰も大竹については書けない、それは大竹が巨大すぎるからだ、というわけだ。逃げ口上というより、開き直りだ。
 それなら、こんなレトリック満載の文を綴っているのでなく、大竹の巨大さについて、少しでも鑑賞に役立つ具体的な分析をしてくれればいいと思うのだが、そうはしない。浅田のレトリックは続く。「・・・この小文は、私の率直な敗北宣言以外の何ものでもない」と。
 浅田彰が芸術を理解しているかどうかわからないが、頭が良いことは確かだ。「卑怯な逃げ口上」「誰が大竹伸朗を語れるか」「敗北宣言以外の何ものでもない」、これらはどれも使い古された文句だが、浅田が使うと、なんか真実味のあるレトリックに思えてくることは認めないわけにはいかない。(こんな浅田に正面から突っかかっていった上田高弘はえらい)
 そんなことより、浅田の大竹評の中味をみてみよう。浅田自身が認めているように大したことはいっていないのだが、一つだけ、私に理解できない点がある。それは、大竹が画家でも彫刻家でもなくジャンク・アーティストだという主張だ。実際にジャンクやスクラップを利用しているのだから、ジャンク・アーティストには違いない。そこまではいい。しかし、そのあとが分からない。浅田は言う「アーティスト(大竹)が絵画としての完成度や彫刻としての完成度などといった些細な問題にほとんど関心を持っていないことは明らかだ」と。さらに言う「何でもうまくフレーム(額縁という具体的フレームから美術館という制度的フレームにいたるまで)に入れて提示すれば芸術作品として流通させられるという、アーティストを装ったデザイナーや戦略家のシニカルな手口が、そこに皆無なのである」と。大竹がデザイナーでも戦略家でもないことは認めよう。しかし、大竹には船の廃材で作ったフレームだけの作品もあるのだけれど、もちろん、こんなリテラルなことを浅田が言うはずもないから、おそらく、この主張は、絵画と彫刻のジャンル分けの無効性とか美術史や美術館制度を脱構築するというポストモダン風の決まり文句を使っただけなのだろう。しかし、どちらにしろ、大竹はそんなものとは関わりのない、正統的なモダニストの後継者ではないか。「モダニズム」という言葉が適当なのかどうかは判らないが、かれは、つねに絵画の真理を探究しているように私には思える。
 わたしは、最初はポップとかダダとか、あるいはコンセプチャル・アートといったキーワードで『全景』展を見始めたのだが、次第に、これはまっとうな美術だと思い始めた。たとえば、かれの作品はどれも線や構図や色に注意深い配慮がなされている。それだけではない。かれは、四角い平面に執着しているように思える。立体作品を作っても、それが平面のイルージョンに見えるようにしているふしがある。キャンバスに船の廃材をくっつけた作品は、まるでその廃材がキャンバスに描かれた図像のように見える。これは、立体が平面に見えるという逆さのイルージョニズムではないのか。
 フレームかどうかわからないが、大竹が作品の最終的な形にこだわりをもっていることは、スクラップ・ブックを見ればわかる。スクラップしたものを袋に入れていてはダメだ。それを四角い平面を綴ったスクラップ・ブックにどうしても貼り付けなけれ気が済まない。そしてそれを絵画にするために、その上から何かを描きくわえるのだ。大竹は、切り抜いた紫電改を紙に貼り、そこに回転するプロペラを描きくわえたときの感動を「ものすごい衝撃波」と表現している。それ以来、大竹は〈図像〉というものに取り憑かれているのではないか。
 これは、前回、まったくの予備知識なく『全景』展を見たときの漠然とした印象であり、本当のところは判らない。もう一度、見に行くつもりだが、大竹伸朗が図像破壊者でないことだけは、確かなことと思われる。
 このような誤解は浅田だけではなく、私が読んだ大竹評にほぼ共通しているのだが、もっとも酷いのは、ユリイカのインタビュー記事『世界を貼り倒せ!』の聞き手永江朗である。次回はそのことについて。
にほんブログ村 美術ブログへ 
 
 
2006.12.03[Sun] Post 21:29  CO:0  TB:0  -大竹伸朗  Top▲

Log in*/RSS*】  Design 「AZ+」Plugin Template...  Page Top▲
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。