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『モーリス・ルイス 秘密の色層』 川村記念美術館 

 

モーリス・ルイスの《ヴェール絵画》をながいあいだ見たいとおもっていた。上田高弘が『モダニストの物言い』の中でルイスについて書いた言葉を読んだからだ。ちょっと長いけれど引用させてもらう。

 モーリス・ルイスのいわゆるヴェールの絵画(たとえば《ダレット・ペー》[一九五八年作、滋賀県立近代美術館蔵]を前にすると、ぼくはいつも、それを言葉にしようとする努力の空しさを感じる    あまりに感性的なものに慣れすぎている目の前に開けているヴェールの、その内部の不均質な暗さ、その奥にある精妙な色彩、ヴェールの背後からやってくるかの光    
 その色彩の秘密に近づこうとして画布に接近してゆけばその物質としての様態、すなわちロウ・カンヴァスにステイニングという材料と技法の内実は了解もされようが、その色彩そのものにはたとえ手を伸ばしてもどうにも到達できないように感じられる。
 たどり着こうとしても遙けき、このヴェールの絵画での体験を、自然にたいするときのそれとの類縁で語ることもできるだろう。ぼくはたしかに自然のごときものに対峙する。ごときものというのは、自然界にもそのような色彩は(ありそうで)ないだろうと信じるからなのだが、いずれにしてもこのとき、ぼくが見るヴェールは、たんにそれを見る対象ではなく、逆にぼくがそれに包まれてあるというような、すなわち対象以上のものである。(『モダニストの物言い』p278) 

上田氏自身も言っているように、少し大げさな表現とも思えるのだが、じっさい川村美術館でルイスの作品を見れば、決して商業誌で読むような誇張したレトリックではないことは判るだろう。ただ、上田氏の感動には共感もし理解もできるのだが、東京都現代美術館でみた『ロスコ展』のときのようには、いまひとつ「没入」することはできなかった。

あいにくロスコの《シーグラム壁画》は貸出中ということで、常設展示のニューマンやステラを見てから、ルイスの展示室に入った。最初の左側の壁に《金色と緑色》1958年が掛かっていた。下塗りのしていない綿布に薄く溶いたアクリル絵具をしみこませたというステイニングの技法や、半透明の色層を確かめようとしたけれど、左右の余白にヘラでこすったような黒っぽい色面あり、それがちょうどヴェールをかさねて作ったカーテンが後ろの壁につくった影のように見えるのに気がついた。

その影は、ヴェールのリアリティを強め、あたかもボリュームのあるカーテンのようなイリュージョンを生んでいる。これはルイスが《ヴェール絵画》で意図したものではないかもしれない。しかし、この《金色と緑色》を最初に見たせいか、他のヴェール画もどうしてカーテンに見えてしまうし、そうでなくても鍾乳洞や地層や有機体のようなものに見えるのは、(じっさいには綿棒や板でコントロールしているらしいのだが)、基本的には偶然や物理法則にまかせて出来た染み込みや文様やにじみだからだ。

もちろんヴェール画が具象画だと言っているわけではないが、その自然の対象に似たイリュージョンが邪魔になって、上田氏のいうような「そこに包まれてある」という感覚に身を任せるのが難しい。

上田氏の「そこに包まれてある」という感覚は、「自然のごときものに対峙する」とも「対象以上のもの」とも表現しているのだから、おそらくはカントが「崇高なもの」と名付けた感覚ではないか。この「崇高」という概念は、アメリカの抽象画についてしきりに使われる美学的概念であることから分かるように、自然のなかに自然を超えたものを感じることだ。

美は目に見えるが、崇高は目に見えるものを超えたものだ。われわれは数学的に大きなものや力学的に強大なものに崇高性を感じる。それは自然を見ることではではなく、物自体を感得することだ。ニューマンは自分の絵を近づいて見てほしいという。川村美術館にある《アンナの光》を初めて見たときは、そのハードエッジな赤い色面の強度に圧倒され感動した。近づけば赤い空間がわれわれの身体を包み込み、焦点が定まらず、身体感覚が麻痺したようなめまいを感じる。これを崇高な感情だと言えなくはない。

一度目は、《アンナの光》は圧倒的な強度をもって崇高である。しかし、二度目は、アウラを失って、リテラルな赤い壁が眼前に立ちふさがるばかりだ。また、ルイスの半透明のヴェール絵画は色と光が交差して美しい。しかし、その自然的形象の暗示と反物質的透明性のために完全に没入することはできない。両者には、逆の意味で、マイケル・フリードのいう「抽象性」が欠けているのだ。ニューマンはイリュージョンの完全な抹殺によって、ルイスは具象性への譲歩によって、ともに「抽象性」の強度を弱めていると思われる。

「抽象性」を強めるためにニューマンはジップを描き入れたが成功しなかったと思われる。また、ルイスが《アンファールド》や《ストライプ》の絵画へと移行したのは、抽象性の問題を解決するためなのかどうかは判らないが、ヴェール絵画の美しさやイリュージョンを失ってしまい、むしろ抽象性が減少したようなきがする。

抽象の強度を高めることによって、具象性を止揚(アウフヘーベンです)したのはロスコである。ロスコの絵画は抽象画に見えるがじつは具象画でもある。ロスコの矩形は、抽象的な図形ではない。左右二本の垂直線と、上下二本の水平線に囲まれた矩形は、キャンバスの矩形の中に描かれることによって、円でも三角でも四角でもなく、この世で最も中立的な絶対的な図形になる。

ロスコの矩形を見つめれば、光がかすかに射した広がりのイリュージョンが我々を包み込む。ロスコの四角形は天地創造であり、すべての存在者をささえる大地なのだ。グリーンバーグは絵画の空間を目で見るだけのイリュージョンと歩いて入れるイリュージョンを分けたが、ロスコの空間は我々をのみこむ、没入のイリュージョンを生む。

「没入」するには特別の構えと能力が必要だと、上田氏は『モダニストの物言い』の《暗い部屋》の章で述べている。だとするなら、私がルイスの《ヴェール》画に没入出来ないのはわたしの能力不足かもしれない。いずれにしろ、絵画に「没入」するということは、鑑賞者の主観的態度ばかりではなく、絵画の構造の問題にも深く関わっているようなので、いずれ考えてみたい。

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2008.11.16[Sun] Post 21:36  CO:1  TB:0  -モーリス・ルイス  Top▲

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