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「『爆心地』の芸術」椹木野衣


椹木野衣氏は『日本・現代・美術』で日本という「悪い場所」や現代という「閉じられた円環」を批判し、日本の現代美術をリセットするために、自ら企画して水戸芸術館で『日本ゼロ年』を開催した。その論考を中心にまとめたものがこの「『爆心地の芸術』」である。

この〈ゼロ〉で思い出すのは、ロザリンド・クラウスがアヴァンギャルドについて述べた「零地点(ground zero)」(注1)のことである。アヴァンギャルド(ここでは未来主義のこと)は、「過去に対する拒絶や精算以上」のものであり、文字通りの起源、ゼロからの出発、誕生だというのだ。

クラウスは、アバンギャルドの無垢の起源として、「その向こうにいかなるより深いモデルも指示対象もテクストも存在しない、争う余地のない零の場(zero-ground)」、すなわちグリッドをあげて論じるのだが、椹木のゼロは、否定すべき、既成の枠組みたる「現代美術」がいったい何か、いっこうにはっきりしないので、何をリセットするのか、リセットしたしたあと、いったい初期画面に何が現れるのか分からない。

椹木が「現代美術」の枠組みは冷戦イデオロギーだというのだが、それは、修正主義者がグリーンバーグをおとしめていう言葉だから、抽象画も俎上にのるのかと思いきや、抽象表現主義は「現代美術」はもちろん、近代美術の枠組みにも入らないらしい。「暗黙の前提」とくり返しいうが、その前提が具体的になにかを言わないまま、冷戦のイデオロギーの話はベルリンの壁の崩壊でどこかへ消えてしまい、それにともなって、「美術を語る道具立てや作品をめぐる風景もまた大きく変化して」いると言う。しかし、いったい何がどう変化しているのか教えてくれないだけか、「そうした変化をなお、『現代美術』の一動向ないしは歴史的段階として括ることはしません」という。でも、時代や社会的背景で括っているのは椹木氏自身ではないか。

『日本ゼロ年』の出品作家はほぼ具象作家であり、さらに、「ジャンル固有の歴史的発展や現代美術の純粋性を絶対条件としない」とわざわざ断って、抽象画をはじめとしたモダニズムの芸術を排除したのは、アヴァンギャルドを標榜する者として当然だろうが、それにしても、何よりもまずリセットされるべき岡本太郎や横尾忠則を、とりたての再評価の術もなく、グラウンド・ゼロに召喚するとは不可解である。

いずれにしろ、椹木氏は現代美術をリセットすることも、新たなる批評原理も提案することもなく、例によって、連想ゲームを始める。水戸の「日本ゼロ年」(GROUND ZERO JAPAN)から、なんという幸運か、ニューヨークのWTCのグランド・ゼロになり、そして、もともとの爆心地(GROUND ZERO)である広島長崎に至る。椹木氏は勝ち誇ったように言う。

こうして、筆者の中の「グラウンド・ゼロ」は、一九九九年から二〇〇〇年を経て二〇〇一年に至る世紀末越えの数年を経て、たんなる一展覧会の主題から、次第に「ヒロシマ・ナガサキ=一九四五年」「水戸=一九九九年」「マンハッタン=二〇〇一年」を結びつける不気味な符号へと成長していくことになったのだ。

そして、『日本ゼロ年』で取り上げた会田誠の《紐育空爆之図》や村上隆のキノコ雲を描いた《タイムボカン》などをたどりながら、日本の現代美術の零地点である戦争画にたどり着く。椹木は「『戦争画』こそ、われわれの美術批評の実体である」と言い、戦争画を「近代美術史」の内部だけでとらえるのではなく、あくまで「今日の芸術」としてとらえなければならないと、連想妄想がどんどん肥大化して、とうとう、世界はまるごと「第三次世界大戦」に飲み込まれつつあるかに見えるとまで言い出すのだ。

これはもうトンデモ本の域にたっしている。そんことは判っていたのだが、図書館の棚でみつけて、パラパラめくったら、どうやら『日本ゼロ年』のことが書いてある。美術評論を書いていて、しきりに目にする「ゼロ年」のことを何もしらないのも困ると思い、借りてきたのだ。でも、何の役にも立たなかった。読んだあとも、「日本ゼロ年」がいったいなんなのかやっぱり理解できない。

アマゾンにchu-poppoさんの五つ星の書評があるけれど、とても素人とは思えないすばらしい書評なので引用させていただく。

とにかく面白い。本書の位置付けは「日本・現代・美術」の続編的性格を持っていると思うのだが、その解かりやすさから、特に専門外の方には本書をお勧めしたい。
本書の価値は美術書としての価値に限定されない。戦後の日本を考える時、優れた日本論として必読の書である。
あるいは、「悪い場所」「閉じられた円環」からの脱出の書である。

この書評を読むとなんか私の方が間違っているような気がしてくるけれど、私がこの「『爆心地』の芸術」が分からないのは、作品の美的価値についてほとんどなにも触れていないからだ。chu-poppoさんが脱出の書というのは、たぶん戦争画を美術批評の実体(?意味不明)にすることで「悪い場所」「閉じられた円環」から脱出できるということだろうが、そこに美的な価値がなければ、戦争画もただの挿絵である。椹木氏は本画も挿絵も、美術もデザインもサブカルチャーもあらゆるもの等価とするとくり返しいうが、それはただ美的価値をネグレクトしているだけで、もし美的価値があるならばそこにはジャンルの差異は厳然とある。

椹木氏は描かれた主題を見て美的価値を見ない。だから、非対象絵画である抽象画を無視するのだ。前回の記事「グリーンバーグの『抽象と具象』」で引用したグリーンバーグの言葉をもう一度引用しておく。

The explicit comment on a historical event offered in Picasso's Guernica does not make it necessarily a better or richer work than an utterly "nonobjective" painting by Mondrian.

もちろんフォーマリズムが美術批評のすべてではない。しかし、フォーマリズムを欠いた批評は美術批評ではない。


注1:藤枝晃雄『アヴァンギャルド』(『現代芸術の彼岸』)
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2009.01.05[Mon] Post 02:00  CO:2  TB:0  -椹木野衣  Top▲

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