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Philip PearlsteinとLucian FreudとDe Kooning

NYTimesにPhillip Pearlsteinの展覧会のレヴィユー“It Is What It Is: Portraits of the Human Figure”(by KEN JOHNSON)が出ていた。

リアリズムが1960年代に甦った。フィリップ・パールシュタインはリアリズムを復活させた立役者の一人である。モンクレール美術館で開催されている小規模だが驚くほど変化に富んだ展覧会“Philip Pearlstein: Objectifications,”は彼の七十年の画業に焦点をあてている。
パールシュタイン氏は三十代後半の1961年頃から日常的なヌードを描き始めた。これまでもあった古めかしいアイディアだったが、彼の手にかかるとヌードもひどくモダンなものになった。かれは裸体画から連想されるありきたりな観念をすべて排除した。裸体画を描く言い訳に使われてきた美、エロティスム、神話、寓意などを捨て、裸の身体というありのままの事実だけを残したのだ。

「裸の人体というありのままの事実」という点では、パールシュタインのヌードは、イギリスのルシアン・フロイトのヌードに似ている。両者とも、モデルが床やベッドに無防備に寝転がっているところなどは同じだ。しかし、それは表面的な図像の類似であって、両者の技法も表現もまったく異なる。

バールシュタインはポップを捨てて、リアリズムに方向転換し、そして、再び、ミッキーマウスや模型飛行機や風向計などの小物を使って
ポップに回帰したといわれているが、パールシュタインのヌードは、はじめからポップであり、リアリズム風に描かれたイラストだったと思われる。

たしかに、うつろな視線、萎びた貧乏くさい乳房、漫画のようにゆがんだ短縮法、キャンバスの縁に切り取られた頭、ミッキーマウスのネオンサイン、羽の曲がった風向計などは、たとえば、ブグローの裸体画にあるキッチュなものを排除したように思われるが、それは錯覚であり、パールシュタインの使った手法はとうの昔にキッチュになっている。これは、
ピクトリアリズムのヌード写真に飽きた写真家がなんとかヌードを芸術にしようとあれこれ工夫した手法であり、いまでも繰り返されている陳腐な手法だ。

ケン・ジョンソンはパールシュタインのヌードはモダーン(modern)だという。たしかに、図像はフラットである。しかし、これが、グリーンバーグ流のモダニズムを意味するなら、ジョンソン氏は間違っている。パールシュタインの手法はキッチュであっても、アヴァンギャルドではない。彼の工夫はそこに何が描かれているか、それは何を意味するかの図像学上の工夫である。アヴァンギャルドとは絵画の自己批判、すなわち、平面性と矩形の形態と絵具の質に関わる革新のことだ。言い換えれば、「絵画の三層構造」、すなわち物理的絵画、絵画客観、絵画主題相互の弁証法の緊張のことであり、表現主義や象徴主義の美的価値は、第四の層ではなく、それぞれ、三つの階層に付随的に付け加わるのだ。

この意味で、ルシアン・フロイトこそがモダニストなのだ。フロイトの絵具はキャンバスの平面に擦りつけられて、その物質性を露わにしている。古大家はイリュージョンによって絵具の物質性を隠していたが、フロイトは
絵具の層とイリュージョンの層を統合(synthesis)している。ヴェラスケスの布地は、観者と作品までの距離によって、物質的絵具に見えたり、あるいは、光沢のある絹の布地に見えたりするのだが、ルシアンの絵肌は絵具であるとともに、同時に、布地であり、皮膚なのだ。

フロイトは、デ・クーニングが失敗したリニアとペインタリーの総合を成し遂げたのではないか。フロイトはセザンヌに学んでいると思う。フロイトの筆のストロークはセザンヌよりも長く大胆で、かつストロークとストロークの重なりに生まれる繊細な線や隙間や、
いま、左の画集をみながら書いている。本物は森美術館の『アートは心のためにある:USBアートコレクションより』で《ダブル・ポートレイト》を見ただけだ。それで、『ルシアン・フロイト』の記事を書いたのだけれど、フロイトがおもしろい理由をはっきりと言葉にすることができなかった。もちろん「絵画の三層構造」の間の弁証法的緊張にあるにはちがいないのだが。
しかし、NYTimesのパールシュタインのレヴューを読んで、少しフロイトが理解できたような気がしてきた。それと、上野の森美術館で見たデ・クーニングの《無題(女)》について批評を書こうと、 グリーンバーグのエッセイをいくつか読み返したら、フロイトのおもしろさはフォーマリズムのおもしろさだとやっとの事で自覚した。

ちょと言わせてもらうと、セザンヌの問題に対して、ピカソとマチスがそれぞれのやり方で それなりに解決法を見つけた。そして、その両者を総合しようとしてデ・クーニングは失敗した(と僕は思っている)。それをフロイトはセザンヌに戻ることによって、抽象ではなく、再現具象の中で解決しようとした。という図式を妄想しているのだけれど、妄想は妄想ですから気にしないでください。

それから、ついでに言っておくと、パールシュタインとフロイトのモデルの《自然な》ポーズは、両者では全く意味が違っていることに注意しなければならない。パールシュタインのヌードモデルは性器が見えないようにポーズしているが、フロイトのモデルは性器を隠しているわけでも、見せびらかしているわけでもない。ただ顔がそこにあるように性器がそこのある。そのポーズにはピカソ的なキュビスムが隠されているようにみえる。このことは、かれの鼻梁の非対称的な描写にもあらわれている。

もし、まともな学芸員が日本のどこかにいるならば、かならずや、フロイトの回顧展を企画しているにちがいない。世界文化賞委員会はもし自分の賞に価値があると思っているなら、はやくフロイトに授賞してくれ。彼は今86歳、早くしないとまにあわない。

それから上にアフィリエイトとしたフロイトの画集は、美術愛好家なら必ず備えておくべき本だ。


浮いた身体の下にできる細い黒い影は、きっちりと描写された造形に開放性を与えている。
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2009.01.20[Tue] Post 02:10  CO:0  TB:0  Philip Pearlstein  Top▲

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