津上みゆき(2)
津上みゆき(1)からつづく
津上みゆきは自分の作品は風景画だという。あらためてカタログの写真を眺めてみれば、たしかに、風景画に見えなくはない。空や雲や木や山や海があるようにも見える。 ニョウボが津上みゆきの作品を見て、山本直文やモーリス・ルイスを思い出したのは、彼らが同じように下塗りのしていない綿布に薄く溶いた絵の具を染みこませて描く「soak stain」の技法を使っているからだ。同じように、soak stainの技法を使った画家にヘレン・フランケンサーラがいる。風景のスケッチをもとに描く津上の作品は、自然からインスピレーションをえて描いたヘレン・フランケンサーラのカラー・フィールド・ペインティングに似ているのは頷ける。 カラー・フィールド・ペインティングの説明を英語のWikipediaから引用する。 カラー・フィールド・ペインティングは、抽象表現主義にあった情緒的神話的宗教的な内容を排除し、絵具の塗り方も、あまり個性的ではなく、タッチもストロークもめだたないように、そして絵画的(painterly)描写にならないようにした。そのためには、soak stainの技法が効果的だったと思われる。 それで、津上みゆきの作品を見ると、染み込みの技法ばかりではなく、色を塗り重ね擦ったようなストロークのあとがあり、どちらかと言えば、ペインタリーな開放性のある絵画表面になっている。その意味では、津上はカラー・フィールド・ペインティングとは言えないだろう。 さらに、津上は、風景との類似を残すことで、カラフルな画面に象徴性を与え、情緒的精神的な内容を生みだそうとしているのかもしれない。もちろんそんなことが成功するわけはなく、ただ、津上の制作上の哲学めいた饒舌によって台無しになっている。 津上はスケッチを見せ、実作との「関係性」を示す。そして言う。
そして、出来上がった作品には、《View - "Cycle"26Feb.-10Apr.,05〈Way〉》2005年や、《View - at 2:30a.m.,15 Mar.,08》2008年など、時間の経過や瞬間を示すタイトルがつけられている。だからといって、われわれは滲みや擦りつけられたよなストロークに時間を読み取る義務はない。 津上はタイトルの解説をする。 画家がいくら深遠なことを言っても、作品のほうがスカスカ(2ちゃんねる)だったらなにもならない。(もちろんスカスカだと断定しているわけではない。作品と作家の言うことは区別しなければならないと言いたいだけだ。) たぶん、津上はsoak stainの技法のスカスカな絵画表面の欠点を克服するために、綿布をパネル貼りにして、油彩やアクリルを薄く溶いたものばかりではなく、顔料、膠、水彩、油彩、鉛筆、パステルなど、染み込み以外の方法も使って、絵画の物理的表面を多層多様にしようとしている。また、風景を一種の「ホームレス・リプレゼンテーション」として利用することで、画面に空間のイリュージョンを与えようともしている。しかし、それでも「soak stain」のスカスカ感を克服することができず、そのかわり芸術論でごまかそうとしているのではないか。優れた作品というものは、観者ばかりではなく、作者もまた沈黙させるものだ。 おそらくフランケンサーラを支持するグリーンバーグは堕落したフォーマリストなのだ。グリーバーグの優れたモダニズム論は、かれの『セザンヌ』に展開されている。それは浅い奥行きのイリュージョンと物理的絵画の間の弁証法的緊張として見事に分析されている。セザンヌの技法は、染み込みではなく、薄塗りと筆触のモザイクと塗り残しなのだ。津上氏はセザンヌに影響を受けているという。ならば、お節介だが、もういちど、グリーンバーグの『セザンヌ』を読み直すことを薦める。 津上みゆき(1)
津上みゆきについての批評文を二つ引用する。(強調安積)
ふたりとも、共感覚のつもりか「五感」を持ち出しているが、その中に視知覚がはいっていないようだ。麻薬でも飲んで目をつぶって書いたにちがいない。 それにくらべて、2ちゃんねるの『山田正亮問題』の津上みゆきに関するコメントはちゃんとしている。以下、スレッドの抜粋。 山田正亮問題 大谷有花より津上みゆきのほうが格上になっちゃったかな。 絵は津上のほうがマシだね http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2007/07/miyuki-tsugami-tagboat-article.html 繰り返しになるが以前は画家津上みゆきをルネッサンス期ヴェネツィア派の画家から プッサン、ドラクロア、マティス、ロスコ、ウォーホルと連なるコロリスト(色彩画家)の 系譜に位置づけていた。しかし画家本人が主張するようにセザンヌを目指す風景画家 として位置づけるべきかもしれない。描かれた風景は色彩に溢れ、我々の風景を眺める 視覚の働きそのものに変化を与えてくれる。それは人工的な色彩の氾濫する都市に 生活するものにとっては、新鮮な空気のように必要とされるものだ。 こまったもんだな コンポジションの継承について一番良く分かっていない本江が "継承"を語っている点についてw こまったもんだ ほんとにな こまったもんだ ・・・について 色彩派(画家)というのはそうであるものとそうでないものの2種が存在する。 しかし構成派(画家)というものは言葉そのものの存在が必要無いくらい画家として必須の 条件である。津上とやらも大谷とやらもそれを評価する評論家もその部分の理解と実践ができていない。 しかし画家本人が主張するようにセザンヌを目指す風景画家として位置づけるべきかもしれない。描かれた風景 は色彩に溢れ、我々の風景を眺める視覚の働きそのものに変化を与えてくれる。 全体的に馬鹿馬鹿しい評価なのは笑いをこらえた上で、よく読んであげると全くの支離滅裂な文章であることに気づく。 一節すらもまともな言葉が使えていない。 一体何を学んできたのか。 まぁ恐らくは"抽象"という意味も理解していないのだろう。 というような心情が(こまったもんだには)込められています。 マティス、ロスコ、ウォーホルと連なっちゃいかんわな 3人とも"各世界"の巨匠あるいはお騒がせ者といったところだろうに 誰も教えてくれなかったんだろうな。 学術員ってのは年号とかしか知らんのだろう。 それにしても文化の発展は世の中そのものも変えるほど 影響力があると思うのだが こういったシーンを見るにつけ聞くにつけ本当に厳しくなってると思う。 色彩派のゴッホは貧苦にあえぎながらなんと言ったか 「自分の絵は売れなくても良い 後進の画家の助けになれば良い」 こころせよ! 1円の重みと純血を! 673 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 2008/09/23(火) 01:52:27 津上の絵は説得力あるだろ、 華のない絵を描いてる有花はただの下手糞だが、 しかし、広本の文章って酷いな、 読む相手をバカにしてるんだろうな。 津上の絵は出来不出来の差が激しすぎる 3割程がいい絵だと思う 津上に対するコメントをあちこちで拾い読みしたが ロスコだのステラだのニューマンだの 馬鹿な評論ばかりだな。 抽象表現主義に間違いは無いが、ロスコやステラやニューマンが表現したのは 心に広がりゆく"永続性"だろ。 むしろデクーニング、マザーウェル、ホフマンあたりのフィールドで勝負しているわけだから それらと比較し、未熟さを指摘した上で支援するべきだな。 津上さんは僅かだが良いものは持っている。しかしいっぱいいっぱいかな。伸びしろは疑問。 時代を担うとか、そういった表現は や め て く れ 津上さんのは必要とされる"コンポジション"が無いのだよ。 単色であろうが何色使おうがね。 だからスカスカ こころに響かない。 http://www.gaden.jp/yamaguchi/2003/031117.htm 良作に入るこの作品も煮え切らない。前に進みたいなら偉大な先輩たちが何を表現したのかを 評論家の言葉でもなく、タイミングの悪いインタビューでもなく、作品から学ぶことだ。 例えば、カンバス一番右下の半円の内側に黒い輪郭線を加え 中央の黒玉の左下部分に指先ほどの濃いめの赤くややつぶれた円状のものを配置する(重ねる)。 そうしてはじめて(例えば)"萌芽"というようなタイトルも正しいコンポジションのうちに 冠することができよう。"View"じゃ寂しいよ。 以下の作品(あくまで一例)は作家の可能性を開く道しるべになるだろう。 magnum opus / hans hofmann http://www.artrepublic.com/prints/9468-magnum-opus.html Elegy to the Spanish Republic No. 110, / robert motherwell http://www.guggenheimcollection.org/site/artist_work_md_116_1.html gotham news / willem de kooning http://arthistory.about.com/od/from_exhibitions/ig/action_abstraction/jm-aa_08_09.htm マザーウェルはあえて実験段階の作品が分かりやすいだろう。 マザウェルとでは教養が違いすぎる 比べるのもかわいそうだ |
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Author: 安積 桂 カテゴリー
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