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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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池田亮司と名和晃平のキューブ

池田亮司(東京都現代美術館)にも名和晃平(原美術館)にも、靴を脱いで入る展示(インスタレーション)があった。ひとまず、床を汚さないためだということでは、伊東豊雄の曲面の模型や横尾忠則の滝のインスタレーションなどと同じである。

インスタレーションというのは作品の空間と観者の空間が連続した同一の空間だということだ。名和晃平のキューブはインスタレーションではなくオブジェであり、外側から内部を覗くことができる。池田のキューブはインスタレーションというよりインテリアであり、その内部で観者は四方から身体を取り囲まれる。ニューマンの大きな作品は、近づいて見ることによって、観者の身体を包み込むような感覚が生まれるというが、池田のキューブはリテラルに観者を包む。

名和晃平の白い壁や床、そして間接照明は無影の空間を作るためだ。そのなかに置かれたキューブ『Air Cell』は中を覗くことで、観者の身体が切り離され、キューブ内部のイリュージョン空間が現れる。そこのところを私のブログ記事『名和晃平』から引用。

 しかし、この作品で、意外に面白いのは、陰影のない等質なデカルト空間とおもえるキューブに、ノイズがあるからだ。接着剤の粒の形や大きさが微妙に違うのである。付着している位置もずれているので、単純な機械的な繰り返しになっていない。そのためコンピュータで作図したような平板さを免れ、キューブの三次元空間が錯視ではなく、どうにか知覚的現実性を保っている。

これに対して、池田亮司のキューブの空間は、観者がその内部にいるので観者の空間から切り離すことは難しい。また、乱数はノイズと違って知覚することはできない。ということは、知覚に基づいた想像的空間のイリュージョンは現れにくい。そこに現れるイリュージョンはせいぜいのところ擬似的知覚(錯視optical illusion)にすぎない。

どちらにしろ、いくら哲学的な言説で飾り立てようとも、オブジェはオブジェ、インテリアはインテリアである。どとらもイリュージョンではなくデザインが問題になる。

『図像に還れ』へ

『伊東豊雄』
『横尾忠則』
『名和晃平』
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2009.06.16[Tue] Post 20:38  CO:0  TB:0  -池田亮司  Top▲

『池田亮司 +/-』東京都現代美術館

グリッドと数字と音のインスタレーションである。

数字には宮島達男のLED作品にあるような象徴性はない。もちろん意図的にそうしているのだ。そういう意味ではミニマル・アートではなくミニマリズムの一種といえる。

長尺の35ミリフィルム(たぶん)にレーザー光線(たぶん)で乱数(たぶん)を焼き付けた作品もある。プロジェクターで壁にグリッド(格子模様)が映し出されて、下から上へ動いているのも、ディズニーの『ファンタジア』の「トッカータとフーガ ニ短調」(9:22) - J.S.バッハのミニマリズム版なのかもしれない。

これはあくまでもギャグ(『アキレスと亀』w)としてなのだが、ロザリンド・クラウスのエッセイ『グリッド』から引用する。

グリッドが、近代芸術の近代性を宣言する仕方には二つある。一つは空間的なもので、もう一つは時間的なものである。空間的な意味においては、グリッドは芸術という領域の自律性を示す。平面化され、幾何学化され、秩序付けられたグリッドは、反自然的、反模倣的、反芸術的である。・・・・・・・・途中省略・・・・・・・・・
 時間的次元においては、グリッドは、ただグリッドであるということによってモダニティの一つの標識である。(『オリジナリティと反復』小西訳p18)

なお、クラウスはエッセイの中でジャスパー・ジョーンズの『グレイ・ナンバーズ』の図版を収録している。グリッドの四角のなかに数字を描いた油絵具の作品である。

カタログを購入しなかったので、池田亮司の芸術論は知らないが、クラウスなどのポストモダン理論のつぎはぎだろうぐらいの想像はつく。ネットを検索したら、この展覧会のキューレーター長谷川裕子のYoutube動画にヒットした。

どうですか。とても「明晰で」池田亮司の芸術が良く理解できたようなきがしませんか。ところが、注意して聞くといったい何を言っているのかわからない言い回しがたくさんある。彼女の他の池田亮司についての文章から(注)書き抜いてみると、「非科学的抽象絵画を見るような凄まじい密度」、「新しい言語の発表」、「カオティックな情報世界」、「マレーヴィチへの参照」、「膨大なデータを扱うことで、現代に生きる私たちがいま直面しているリアリティをみごとに融合しているすばらしいインスタレーション」等々、彼女が言うデータとかリアリティというのは、現代的な雰囲気があると言っているだけではないか。

これは空間デザインということで、インテリアとしては、昔よくSFの雰囲気を出すために穿孔テープが使われていたけれど、あれと同じではないか。テープが床に溢れていたり、リールがくるくる回っていたっけ。それをもうちょっと斬新でアートっぽいデザインににしたものが池田のインテリアだ。でも、なぜ0/1ではなく、十進法なんだろう。そのほうがデザインとしては洒落ているからか。

それはともかく、池田亮司の作品より長谷川裕子の批評の方がはるかにアートになっている。彼女の喋りには、古舘伊知郎のプロレス中継や、ねじめ正一の朗読に負けない芸がある。ただ、批評としては、池田の作品と同じように雰囲気だけで無内容である。芸術論は美術とデザインを区別しない。

注:どこのサイトが判らなくなってしまった。コピーしておいた自分のファイルから引用しました。
2009.06.09[Tue] Post 23:09  CO:0  TB:0  -池田亮司  Top▲

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