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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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ポロックと桑久保徹の「近視と遠視」

前回のポロックの記事で、藤枝晃雄の『現代美術の〈不安〉』から「近視と遠視」のところを引用した。そのことで、桑久保徹のことを思い出した。はじめに、藤枝晃雄の該当箇所をもう一度引用する。

ポロックにおける緊張は、焦点のあるようなないような、遠視と近視の状態の間におけるそれである。
ポロックの絵画は、近視と遠視の間に立って焦点を求め、縮小したり拡張したりする。それはキャンバスという決定的な焦点のなかにはじめから描かれるのではなくて、描かれているものが絵画になるのである。ポロックの作品から芸術表現が失われているのではないが、画面に近づけば、それは不規則な網目でしかないし、遠ざかれば壁になってしまうといわれるのはそのためである。(p27)


それから、「『桑久保徹』②補遺:絵画の解体」の冒頭の部分を引用する。

『桑久保徹』①で気付かなかったことがある。大きな壺の絵に小さな人物が描かれているので、いったい壺が巨大なのか、人物が妖精なのか、視線がまごつくと書いたけれど、これは観者と作品の距離をコントロールするための桑久保の仕掛けたトリックだ。壺は大きく描かれているので観者は離れて見る。すると人物は小さいので良く見えないので、近寄って細部を見ようとする。そうなると、今度は知覚が作動し物質的な絵具が現れて、かわりに絵画的なイリュージョンが後退する。


同じように「近視と遠視」の問題が書かれている。観者と作品の距離が遠近の二つに分離している絵画がある。スーラの点描画、会田誠の《灰色の山》などもそうだといえる。それに対してポロックのポード絵画は遠近が分離しているのではなく、遠近の間のどこに立っても、そこから見える範囲が絵画であると藤枝晃雄は言っているように思える。

明日、ポロック展に行く。そこで作品を見てから考える。『桑久保徹論』の①と②を読んでおいて下さい。


『桑久保徹』①ARTIST FILE 2010(国立新美術館)【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-688.html
『桑久保徹』②補遺:絵画の解体 【http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-694.html

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2011.11.15[Tue] Post 00:02  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

ジャクソン・ポロックの問題(2)

『ジャクソン・ポロックの問題(1)』からつづく

抽象画を批判する言葉に「壁紙」というのがある。壁紙というのは左右上下のない連続模様ということなら、このポロックの作品《無題》は壁紙ではない。

《無題》を眺めて思い浮かぶのは、小学生の「図画工作」だ。図工の先生が自分でまずやってみせる。画用紙に色をいろいろ塗って、そのあと黒いエナメルペイントを垂らして作る。気の利いた小学生ならそれなりに面白い作品ができあがる。

小学生の絵とポロックを比べることは無知もはなはだしいと言われそうだ。たしかに、この《無題》にもモダニズムの平面性や奥行きのイリュージョンとの格闘がある。ドリッピングは、キャンバスの物理的表面を顕在化する。

しかし、ドリッピングの技法は偶然を利用した手法なので、筆で描く手法とちがって、だれがやってもそこそこには支持体の物理的表面が露呈する。そういう意味では、小学生の作品にだって物理的表面と奥行きのイリュージョンはそこそこに生まれる。そういう意味では、小学生とポロックに違いはない。

違いがあるとすれば、それは、この《無題》がポロックの絵画の深層心理的な表現主義から表層的な抽象表現主義への移行、ひいてはアメリカの抽象画の文脈に収まっていることを示す作品だということだ。

ポロックの50年代のオールオーバーなポード絵画は、この《無題》よりも技法的に洗練され大きなキャンバスを使っているので、小学生にはとても無理だろう。それに、《無題》では色面とドリッピングされた絵具の表面が分離しているが、50年代の作品は絵画平面と浅い奥行きの空間は融合している。そういう意味では小学生に限らず、他の画家が模倣しようとしてもなかなか難しいといえる。

確かに難しいけれど、それはどちらかといえば職人の手業にちかい技巧的な難しさで、だからといって、わたしにはそれほど感動をともなったイリュージョンを呼び起こすわけではない。

とは言ってもポロックを理解するのをあきらめたわけではない。セザンヌの面白さだって理解するのに50年かかった。ポロックだって、そのうち分かるかもしれない。ただ、残念なことに日本ではポロックの主要な作品を見ることができない。ポロックは動かすと絵の具がはがれるおそれがあって、運搬が難しいそうだ。
2009.08.16[Sun] Post 19:55  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

ジャクソン・ポロックの問題(1)

村上春樹の『1Q84』の影響もあって、しばらく絵画について書いていない。芸術の秋も近いことだし、すこしずつ絵画についても書いていくつもりだ。



  『日本の美術館名品展』(東京都美術館)4:ジャクソン・ポロック

Jackson Pollock《無題》
Jackson Pollock 《無題》(1946年) 富山県立近代美術館



ポロック問題と名付けるべき問題がある(わたしが勝手にいっているだけだが)。ポロックを理解できる人間と出来ない人間がいる。セザンヌに関しても同じ事が言われる。会田誠はセザンヌが分からないという。セザンヌのどこがすごいのか、なぜ、そんなにいろんな言葉がくっついてくるのか分からないと会田は言う。私にはポロックがそういう画家だ。

グリーンバーグは評論「『アメリカ型』絵画」のなかで、デ・クーニングの分かりやすさは、ポロックを理解できない人々を安心させると言っている。これはもちろん「浅い空間のイリュージョン」にかかわることなのだが、技法から見れば、具象性の処理の仕方と筆のタッチの問題だろう。

デ・クーニングが分かりやすいのは、抽象画の成立の流れのなかで、古い絵画制度を残しているからだ。それに対してポロックのオールオーバーな絵画は、全くといっていいほど、それが具象画の制度であろうが抽象画の制度であろうが、それまでの古い絵画制度と縁を切っている。

川村美術館にポロックの《緑、黒、貴褐色、のコンポジション》(1951年)がある。これはドリッピングあるいはポード絵画なのだが、どこがおもしろいのか私にはわからない。左上に馬のような形がみえるのだが、デ・クーニングの「女」とちがって、壁のシミが偶然にそう見えるのと同じで、なんの感動もない。

おなじように浅い奥行きのイリュージョンも見えるのだが、それは「知覚心理学的な立体視」であって、ロスコやニューマンの具体的な図像主題のイリュージョンではない。

ポロックの革新性は頭では理解できるのだが、どうしても描かれた絵画としての訴えるもの、すなわち、わたしがいつも言っている《物理的絵画、絵画客観、絵画主題のあいだの弁証法的戯れ》が、ロスコやニューマンのようには無いような気がする。

それで、この富山県立近代美術館所蔵のこのポロックの絵をみた。まだ、オールオーバーなポード絵画以前の習作的な作品である。下層の絵画は構成的であるし、なにか動物のようなものも描かれている。その上からエナメルがドリッピングされている。ドリッピングとペインティングの混交重層のように見える。ここから上層のドリッピングだけがキャンバスの全面を覆って行き、ポード絵画が生まれた。芸術の純粋化というモダニズムの流れだ。

ポロックがこの絵からポード絵画に至ったことを思えば、岡崎乾二郎や津上みゆきなどの試みも意味のあることなのかもしれない。

『ジャクソン・ポロックの問題(2)』へ
2009.08.15[Sat] Post 00:51  CO:0  TB:0  -ジャクソン・ポロック  Top▲

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