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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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高村薫の「ロスコ論」

NHKの『日曜美術館』で「ロスコ」の再放送をやっていた。テーマはロスコというより高村薫だった。高村の小説『太陽を曳く馬』にはロスコやニューマンの作品が言及されている。

高村薫のロスコ論は文学的哲学的修辞なのだが、近頃の美術評論によく見られる手法なので批判しておく。以下、引用は日曜美術館のHP『この人が語る 私の愛する画家 村薫 私とマーク・ロスコ』からである。

高村はまずロスコの抽象画にはいっさいの意味が剥ぎとられているという。ここでいう「絵画の意味」とは差し当たって具象的な主題のことで、非対象絵画である抽象画には「意味」がないという。「意味が剥奪されている」とは大げさだけれど、ようするにリンゴやヌードが描かれていないということだ。

巨大な画面に赤や褐色などの少数の色が塗られただけの「ロスコ・スタイル」と呼ばれる作品たち。一切の「意味」がはぎとられ、一目みただけでは「何だこれは」と言うしかない不思議な世界である。・・・・・省略・・・・・「何も意味せず、何かの図形でもない純粋抽象」であるロスコの絵画に寄せる村の深い共感は作家としての創作のモチーフと重なってくる。「意味」から自由になること。


たしかに抽象画に具象的対象は描かれていない。しかし、抽象画にも象徴性や表現主義的な内容はある。たとえばイヴ・クラインのブルーにも象徴的意味がある。もちろん従来の図像学をそのまま適用することはできない。それは解釈されるのではなく、直感される。こういった感覚はカントの崇高からはじまっている。美が形式的な調和なのにたいして、崇高は形式を超えた数学的な大きさや力学的な強度なので、具象画より も抽象画に親和性がある。フリードリヒの風景画の崇高がニューマンのジップ絵画の崇高さになる。遠近法を失った代わりにキャンバスが大きくなる。

もちろんカントの崇高の美学が宗教的なものと結びついていたように、抽象画の崇高が宗教的な経験と解釈され、超越や神秘、さらに瞑想や悟りとなる。ニューマンも作品に宗教的なタイトルをつけ、ロスコのシーグラム壁画は、そのデザインの類似によって曼荼羅にくらべる批評家もあらわれる。

絵画鑑賞を宗教体験風に語ることは、絵画が絵画であることと何の関係もないただの言葉遊びにすぎない。カンサンジュンさんが「絵の前にたつと自分がなくなるようだ」と言うけれど、同じことが高島野十郎の『蝋燭』を見てもいえるだろう。ちかごろ、西田哲学の主客未分化の純粋経験を持ち出す哲学的な評論を目にするが、彼らは大抵は知覚と想像の区別ができていないので、絵画が「知覚に基づいた想像」であることを理解していない。絵を見ていないのだ。

高村薫は抽象画の意味を作家の深層心理に求める。作品は作家の主観の表現なのだ。

村の最新作「太陽を曳く馬」に登場する画家はみずからの住まいの壁を赤一色に塗り込める。そして彼はその作業の中で不可解な殺人を犯す。人はなぜ描き、なぜ殺すのか。難解で答えのない問いに挑む村薫。

というわけで、見ることで絵画の真理を問うべき批評が、作家の深層心理の分析になってしまう。ロスコはシーグラム壁画をテート・ギャラリーに寄贈することを決めたあと自殺する。なぜ自殺したのか。高村氏は川村美術館のシーグラム壁画を前にうろたえる。ロスコの自死の謎を解こうと言葉を探すのだが、無駄である。結局のところ高村氏は「生命の手ざわり」といい、カンさんは「安らぎや懐かしさ」(ja.wikipediaから)といい、ともにありきたりの癒し系の印象批評を述べることしかできない。

いつも繰り返していることをまたここで繰り返しておく。絵画の真理は物理的図像(Das physische Bild)→図像客体(Das Bildobjekt)→図像主体(Das Bildsujet)の三層構造のなかにある。三者のあいだの弁証法的緊張の中に現れる。高村薫氏やカンサンジュン氏の述べている表現主義的価値は絵画の真理とはなんの関係もない。このことは、同じ言葉が音楽についてもいえることで判るだろう。もちろんロスコの作品に「生命の手ざわり」や「安らぎや懐かしさ」を感じるのは間違っていると言うわけではない。そうではなく、そんな批評は絵画の面白さを理解するのに役にたたないと言いたいだけだ。

絵画の面白さを理解するには、絵画の三層構造に注意を向けてくれるような幾分かのフォーマリズム批評がひつようなのだ。スーザン・ソンタグが『反解釈』(ちくま学芸文庫)のなかで言っている。

最良の批評とは(まことに希少なものだが)、内容への考察を形式への考察のなかに溶解せしめる種類の批評である。


これがまさにグリーンバーグがフォーマリズム批評でやろうとしたことである。(注)


注:記事『グリーンバーグの抽象と具象』を参照
http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-430.html
グリーンバーグは『フォーマリズムの必要性』の追記でいっているようにフォーマリストではない。
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2010.01.19[Tue] Post 23:32  CO:0  TB:0  -マーク・ロスコ  Top▲

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