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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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平塚市美術館の『新収蔵品展』:鴫剛のフォトリアリズム《SHONAN2》について

『長谷川潾二郎展』を見たあと、隣の特集展示『平塚市美術館新収蔵品展』を見た。作家紹介に神奈川県出身や平塚在住という経歴が散見される。作家は、賞をもらったり、公募団体で偉かったり、どこかの大学の教授だったりするのだろう、作品はどれも大作で、何人かの名前はきいたことがある。

日本画と洋画、具象と抽象、それと現代美術にも配慮しているのが判るのだが、どれもつまらないのはどういうわけか。海老原喜之助の《曲馬》を除けば比較的新しい作品が多いれど、どれも魅力がない。これならVOCAのほうがましだとおもえるが、VOCAの作品も新奇というだけで、新しいものはすぐに古びるだろう。

一番古びて見えたのは鴫剛の《SHONAN2》だ。新収蔵品のリストには「表現の意味を問いかける作品」と説明があるのだが、たしかに、写真をそのまま引き伸ばしたような絵をなぜワザワザ描く必要があるのかと誰でもが疑問に思うだろう。

わたしが《SHONAN2》を見ていると、となりに、たぶん『潾二郎展』の流れだろう、年配の女性が「なに、これ!なんで」と騒いでいる。あきらかに、写真が美術館の壁に掛かっていることが理解できない様子なので、「アクリルで描いた絵ですよ」と教えてあげると、「へぇー」といって、隣に掛けてある、おなじ鴫剛のモノクロ絵画《過ぎし日々》を見て、「これもそうねぇ」と言っていた。

わたしは、入り口を入って最初に目に入る《SHONAN2》を見て、写真だということを疑わなかった。現今、写真が美術館に収蔵されるのは別に珍しいことではない。郷倉和子と益井三重子の日本画などを見たあと《SHONAN2》をあらためて近くで見たが相変わらず写真である。キャプションに「アクリル・キャンバス」と書いてあるのを見ても写真にしか見えない。写真にしか見えないのは鴫剛の技術が完璧だということよりも、構図が写真的だということにある。アングルが海面すれすれに海水浴の客をアップで撮っているからだ。アマチュアの投稿写真によくある撮り方で、こう言う構図は絵画のものではなく、もっぱら写真の構図なのだ。

《SHONAN2》は、ゲルハルト・リヒターの「素人写真はセザンヌより美しい」という素人写真ではなく、素人が撮った芸術写真なのだ。これは《過ぎし日々》のアングルにも言える。そもそも、モノクロはカラーよりいっそう芸術なのだ。

この作品も制作された80年代ならアートとしても通用したかもしれない。ゲルハルト・リヒターはフォトリアリズムの絵画を描くということは、自分をまったくの機械にすることだといっているけれど、その意味では鴫剛は主観性を排除して、自分をまったくのインクジェットプリンターに化したことは、ある意味で反芸術的アートといえるのだが、アングル(構図)が芸術的(キッチ)であるところが批評性を弱めている。

潾二郎は日曜画家として描いているけれど、新収蔵品の作家たちはだれもが芸術家を目指してえがいている。地方の美術館が郷土作家の作品を収蔵することはけっこうなことだが、税金を使うのだから、10年たったらガラクタになるような作品よりも、高くても良い作品を収蔵して欲しいものだ。













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2010.04.26[Mon] Post 00:12  CO:0  TB:0  -鴫剛  Top▲

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