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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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島袋道浩(2)


     島袋道浩「これまでの話2」 シュウゴアーツ

 これも古い話題です。長くならないように簡単にかきます。
 前回の島袋の記事に無名氏からコメントをいただいた。ずいぶんと丁寧なコメントだったが、ちゃんとした返事は書かなかった。「アートとは何か」の問題が提起されていたからだ。無名氏がいうには、マイクロ・ポップ展での島袋の展示は、拾った絵や障害者の写真が作品本体ではなく、「お話」が作品だということだった。そして美術を美術の文脈からしか見ないのはダメだということが主旨だったようなきがするが、これは以前からある論争で、あいにくわたしは無名氏のいうとおり古くさい美術観の持ち主で、芸術作品は物質からできていると思っている。
 そんなこんなで、清澄白河でまた偶然に島袋道浩展を見た。無名氏のコメントのことがあったので、いやがるニョウボを説得して、私としては結構ゆっくりと見てまわった。繰り返すが、理屈を聞いて初めてわかる芸術は芸術ではないと思っているので、普段はあまりキャプションを読まない。しかし、今回は読んで見た。もちろん作品を見た後に読んだ。たしかに面白いアイディア(無名氏のいう『お話』か?)がいくつかあったので、その展示を見直したが、キャプションを読むまえと同じように、やっぱりつまらなかった。
 帰ってからシュウゴアーツのHPを見ると、美術館員という肩書きの光田由里の「島袋道浩 言葉でもって立ち上げること」というエッセイがあった。美術評論というより、本人がいうように感想文なのだが、学芸員にありがちな難解さもなく、好感が持てる文章で、島袋は、マイクロ・ポップ展で感じたような政治的な人間ではなく、純真な心をもつ童話的な人間であることがよくわかる感想文になっている。
 わたしの島袋の記事にコメントをくれた無名氏はこの光田のエッセイを読んでいるのかもしれない(あるいは無名氏は光田本人かもしれない)。光田の感想文によれば、島袋は冒険と美術は似ており、植村直己は芸術家だと言っている。しかし、美術家は、もはや未踏峰がなくなった登山家のようなもので、実験はすべてやり尽くされ、制作すべきものは何も残っていないが、島袋は未踏峰ではなく、旅やもっと日常的な出来事のなかに冒険を求めているというのだ。
 ということは、島袋の「冒険」はハプニングとかパフォーマンスの類で、その記録ビデオや記念品が展示してあるのだ。しかし、この記念品を見ていったい私にどうしろというのだ。たとえば、堀江謙一の太平洋単独横断は芸術だというレトリックは理解できる。でもあくまでもレトリックだ。作品はない。航海日誌をもとにした「太平洋ひとりぼっち」を読んだがつまらなかった。マーメイド号を見に行ったが、「へー、こんなちっぽけなヨットで、ひとりで太平洋を横断したのか、すごいなぁー」と平凡な感想を持っただけで、とくに芸術的な感動をうけたわけではない。
 そこで、島袋は植村直己や堀江謙一のような大冒険ではなく、「日常生活の冒険」をする。うまくいけば、反冒険的パフォーマンスができるかもしれない。しかし、いまのところ展示されているものはつまらない記録や記念品だ。たとえば、《空が海だったとき》は、童話のように美しい言葉だ。でも、凧をあげる記録ビデオまったく間抜けなつまらない家庭ビデオだ。だからといって、この退屈さはアンディ・ウォーホルの退屈さになるわけではない。
 あるいは、観光地の猿と人間が餌ではなく、絵でコミュニケーションをしてみるというアイディアは確かに面白い。しかし、実際にやって見た結果が、どうなったのかわからない。写真も拡大して壁に貼ってあるのだが、猿がどう反応したかは正確にはわからない。曖昧にしておけば芸術になるのか。思いつきの行為は芸術なんぞではなく、だたの自己満足だろう。ケーラーの「類人猿の知恵試験」では道具の使い方があるだけで、絵画や鏡を理解するかどうかの実験はなかったとおもうが、いずれにしろ、島袋の実験は「類人猿の知恵試験」ではなく、「島袋の知恵試験」になっている。ギャラリーの床には、島袋が実験に使った道具類が散らばっているが、いったいこれは記録なのか記念なのかわからない。また、それが床にオマジナイのようにならべられているけれど、インスタレーションなのだろうか。たぶん観者を猿の立場におこうとしているのかもしれない。これもキャプションを読んで推測するだけで、見ることの快楽がどこにもないのだ。
 ここまで書いていて、何故、島袋道浩がつまらないのか、似たようなことをしている田中功起と比較して分かってきた。田中功起の面白さについてはすでにブログに書いた。そして、つまらない島袋については、無名氏は次のようにいう

「『一般人』から見て、彼の作品はとても分かり易いと思います。
 美術をみるためのルールは必要ないからです。」

 この言葉を読み直して、突然、島袋を理解した。島袋はテレビのバラエティ番組なのだ。「猿岩石のイギリスまでヒッチハイクで行く」や「ファミレスのメニューを全部たべる」、「田舎に泊まろう」などの企画をちょっとアートっぽくしたのだ。「かって海だった空に魚の凧をあげる」、「隅田川をカヌーで渡ってアサヒビールをもらいに行く」、「片方の眉を剃ってヨーロッパ鉄道で旅をする」などなど、たしかにわかりやすい。そのまま「すすめ電波少年」で使えそうなアイディアだ。
 バラエティ番組と島袋道浩の「お話」に差はない。ただ、島袋は自分が芸術家だというから芸術家なのだ。そして松井みどりが「島袋道浩は、シチュエーショニスト風のパブリック・スペースへの介入と、ランドアートのサイトスペシフィック性を受け 継ぎながら、それに軽やかに遊戯性を加えて発展させている。」(「マイクロポップの時代」P88)といえば、島袋は芸術になる。だからバラエティ番組だって、自分で芸術だと言えば芸術になるのだ。あるいはだれか美術評論家が猿岩石はポストモダンであるといえば猿岩石はめでたくポストモダン芸術になる。理屈はあとからどうにでもなる。ヤラセは冒険の記号であり、若者たちは植村直己のモダンで鈍重な冒険ではなく、シミュレーショニズムとしての軽やかなる猿岩石の冒険と戯れたのだ。
 おそらくわたしは無名氏および光田由里さんに感謝しなければならない。これは皮肉ではない。こんなわかりやすい評論を読んだことがない。だんだんとアートのことがわかってきたような気がする。美術をみるためにルールは必要ないけれど、どうやら屁理屈は必要なようだ。

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2007.10.07[Sun] Post 02:50  CO:2  TB:0  -島袋道浩  Top▲

島袋道浩(1)

 「有馬かおる」からつづく

 作品とは直接関係のない言説で飾り立てる手法の最たるものは、おなじマイクロポップの時代展に出展している島袋道浩だろう。松井みどりの解説は「島袋道浩は、シチュエーショニスト風のパブリック・スペースへの介入と、ランドアートのサイトスペシフィック性を受け 継ぎながら、それに軽やかに遊戯性を加えて発展させている。」(「マイクロポップの時代」P88)と、ほとんどパリ・コレの前口上になっているのは笑えるが、作品自体はとて も笑ってすませるものではない。とりわけ《拾った絵の展覧会》は不愉快である。何よりも不愉快なのは、そこに展示してある絵を特権化していることである。 その絵は、島袋の近所のゴミ捨て場で、二百枚束になっているのを拾ったというのだ。小学生の絵のような気もするが判らない。名前はどこにも書いてない。一 人が描いたのかも知れない、百人かも知れない。絵を見れば、と言っても、全部は見せてくれないのだが、絵心のある大人が小学生風にいろいろ描き分けている ようにみえる。水彩・クレヨン・版画がある。人物や風景や抽象画がある。バライティーが有りすぎだ。女房が小学生は自分の名前をでっかく書くんじゃないと 学芸員に訊くと、学芸員は、名前は裏に書いてあるかもしれない、あるいは貼り付けた名札を切り取ったのかもしれないと言い、さらに、画用紙の四隅に画鋲の 跡があるだろうと私たちの注意を向けた。女房は「画鋲の跡なんて教室に貼ってあった証拠になんかならない。作者(島袋)が付けたかも知れないじゃない」と いうと、くだんの学芸員が笑いながら「そこが作者の思う壺なんです」という。女房はプリプリ怒って「ひとの絵を勝手に展示していいのかしら」と言うも、学 芸員は「自分のだと名乗って来たら、作者(島袋)は返すつもりです」と応えて、どうやら女房の完敗。そもそも、この拾った絵は作品ではなく、むかしむかし あるところで誰かさんが絵を描きました、という出来事であって、作者も作品も関係のないアートだと言いたいのかもしれない、腹を立てても仕方ない。
 そ れにしても、つまらぬアートだ。阪神で発見した二百枚の絵の束を、どういうワケかわざわざ巡礼地広島の路上で展示して、それを見ている車椅子の障害者の写 真を撮り、それを大きく引き伸ばして美術館の壁に貼り、壁の前の床に拾った絵の一部をならべている。ということは、作品(壁)と観者(床)の本来の位置が 入れ替わっており、われわれは、単純に子供の絵を見るのではなく、子供の絵を見ている障害者を見るというメタな状況に無理矢理置かれてしまうのだ。
  ここでは、捨てる/拾うというミニマムな贈与行為(ちょっとポモ風)が、子供と障害者と路上展示によって聖性を与えられており、その表向き周縁的な道具立 てにも拘わらず、島袋(と松井みどり)は、結局のところ美術館という権力の中心で、インスタレーションという祭ごとをプロデュースしているのだ。
  以上述べたことで、わたしはマイクロ・ポップ理論が間違っているとか、島袋のインスタレーションは無意味だとかいいたいのではない。松井みどりを読んでも マイクロ・ポップ理論が美術とどう関係するのか一向に理解できないのだから、否定するも肯定するもない。そうではなく、島袋がゴミ捨て場で見つけたという 二百枚の絵をちゃんと見せてくれないことが、反動的図像主義者のわたしは気に入らないのだ。作者が作品をちゃんと展示し、観者がその作品をちゃんと見るこ とで、はじめて作品は作品になり、そして観者が作者と対等になる。それをインスタレーションと称して、思わせぶりにチラチラみせたり、通俗的な物語で飾り 立てて、これでは観者の自由を奪っているとしか思えない。まさか、これが絵画の終焉を示すアートだなんて言わないでしょうね。
 東京に帰ってから も、女房は《拾った絵の展覧会》が不愉快だと繰り返し、絵を拾ったなんて百パーセント嘘だ、だいいち小さい方の学芸員が膝をちょこっと曲げて「それは作者 の思う壺です」と言ってニヤッと笑ったのに腹が立つ、スネを蹴飛ばしてやれば良かったという。僕は、拾った絵のインスタレーションというアートもあってい いかなとは思うのだが、絵を見ているのが車椅子の障害者なのが押しつけがましくていやな感じがしたと、おそるおそる言うと、女房はあっさりと「そうでしょ う」と同意した。おそるおそる言ったのは、女房が水戸から帰ってから、僕に騙されて水戸芸術館に連れて行かれた、何を見に行くか何度も聞いたのに教えてく れなかった。もう、金輪際現代アートは見に行かない、あなた一人で行きなさいと、繰り返し言っていたからだ。ひとりで現代アートなんか見ても面白くない し、機嫌を損ねてへそを曲げられても困ると思ったのだ。
 じつは、これと同じインスタレーションが、今は知らないが、かって日本各地にあった。地方を旅行すると、伝統工芸館などがあって、その地方の工芸品が展示してある。そして壁に天皇皇后両陛下あるいは宮家のひとが工芸家に説明を聞いている写真 が飾ってある。これは、《拾った絵の展覧会》と同じ図像学的意味を持つインスタレーションだろう。もちろん、天皇は中心的存在で、障害者が周縁的存在な のだが、これは本質的な差異ではなく、片方は伝統的な工芸品を、もう片方は純真な子供の絵を、それぞれ神聖化していることでは同じことなのだ。島袋が、伝統工芸を純真な子供の絵に、公立の美術館を路上に、そして天皇を障害者に入れ替えることで、美術制度を脱構築したつもりだろうが、そうではなく、ただ、権力の入 れ替え遊びをしているだけではないか。
 島袋のインスタレーションはどうも紋切り型の言説をなぞるようなところがあり、面白くない。たとえば、 《南半球のクリスマス》はどう見たって地球温暖化や環境破壊の問題だろうし、《人間性回復のチャンス》は「人類はみな兄弟」の看板を思い出させる。ついで に言えば、有馬かおるの《ムンクはさけべ オレはがまんする》は相田みつをとまでは言わないが、似たような処世訓のニオイがしないだろうか。
 以上述べたことは、なかば冗談 であって、決して美術評論ではない。というのも、マイクロポップという芸術理論があって、それがまったく新しい芸術運動らしいのだが、第三世代とか後期ポストモダンと言われてもいまのところわたしにはわからない。ただ、『マイクロポップの時代』展を見て、泉太郎と田中功起は面白かったが、有馬かおると島袋道浩はつまらなかったということだけで、マイクロポップとはさしあたって何の関係もない。
 「美術手帖」の五月号に椹木野衣と松井みどりの対談が載っているので、読んでみるがたぶんわからないだろう。

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2007.05.02[Wed] Post 00:21  CO:1  TB:0  -島袋道浩  Top▲

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