絵師山口晃はアーティストをめざす。
今の日本でスラスラと人物を描けるのは山口晃だけだと、会田誠が言っている。その力量のほどは都市鳥瞰図で誰もが良くしっている。その山口晃が銀座のメゾンエルメスの個展『望郷-TOKIORE(I)MIX』でアートに挑戦している。
産経の美術展評(篠原知存3/28)によれば、「リミックス(流用)やミックス(混合)」という文脈だそうだ。《忘れじの電柱》は懐かしい昭和の電信柱を屋内に展示したところが手柄である。電柱は木製ではなく、写真でははっきりと分からないが、SF風に仕立てて「未来に過去が書き換えられる」と言っている。作者が自分の作品の能書きをいうのもどうかと思うけれど、近頃では作者の言葉も作品の一部だ。 《電柱》の芸術評価はともかく、ここで私が言いたいのは山口晃の戦略のことだ。山口晃は、たしか上野の森美術館で開催された会田誠との二人展でイラストレーターで何処が悪いというようなことを言っていた。他方で、山口晃はミズマの《Lagrange Point》展やVOCA展で府中市美術館賞を受賞した《木のもゆる》など、大和絵風の都市鳥瞰図とは違った絵画に挑戦し、さらに二人展の《山愚痴屋澱エンナーレ》では、「記号と絵画」の問題を探求した。 東京新聞と産経新聞を交代に購読していた時期があって、偶然、東京新聞の『親鸞』の挿絵と産経新聞の『竜馬を慕う』のイラストを見ていた。日本画の線とは違って、とても、山口晃が描いたとは思えない挿絵だった。率直に言えば、何の魅力もない「ヘタクソ」な挿絵なのだが、たぶん《木のもゆる》と同じように、自分のスタイルを壊して芸術的な作品をめざしたのだろう。 ここまでは、ともかく絵画の範疇に入る作品であった。ところが今回の《忘れじの電柱》は絵画ではなく、オブジェである。「過去が未来に書き換えられる」というが、そんな大げさなものではなく、山口晃がデザインしたSF風新作電柱と言うところで、いわば、立体イラストなのだ。そういう意味では、レディ・メイドでもファウンド・オブジェでもなく、実物大の模型であり、オートバイに跨がった武者絵と同じように図解なのである。 山口晃は依然としてイラストレーターである。 『山口晃』についてのブログ記事はここ 山口晃(4)『アートで候。』の山口晃の作品《山愚痴屋澱エンナーレ》について 記号と絵画 《澱エンナーレ》はトリエンナーレのもじりで、国際展にたいする憧憬と嫌悪のアンビヴァレントな心持ちや、言説にたいする不信感を表していると、山口は言うが、わたしが見た国際展は2005年の『第二回横浜トリエンナーレ』ぐらいで、そこに展示されていた作品は、差別とか環境破壊とか貧困とかを告発しているらしい作品以外は、奈良美智のインスタレーションも含めて、何も理解できなかった。したがって、国際展のパロディだという《澱エンナーレ》の面白さも同じように私には理解できなかった。 ただ、同じコーナーに展示されていた、これも《澱エンナーレ》の展示品なのか判らないが、標識やアイコンを利用したパロディ作品がおもしろかった。パソコンの電源スイッチのアイコンを、人が井戸に落ちるところに見立てたり、男の標識(便所/歩道?)を横に寝かせて、ギロチンで首を切られる場面にしたりと、たわいないものなのだが、そのなかでテニスコートの標識のパロディ作品は、記号と絵の違いがハッキリと判って、おもしろい作品になっている。標識は誰でも知っているように、ラケットを持った人を図案化したもので、この標識がテニスコートを示すのは、絵としての類似性だけではなく、記号としての約定性(取り決め)によってもいる。 そのことを山口は、標識に《ナルシスト》というタイトルをつけることで示す。その絵がどんな絵だったのか忘れてしまったけれど、《ギロチン》や《井戸に落ちる》は、どう見たってこじつけだけど、《ナルシスト》はタイトルを付けただけで、ラケットが手鏡に見えてくる。説明的な絵はジャマなだけで必要ない。ただ、標識の記号性を変えてやればいい。しかも、手鏡という言葉は使わずに、手鏡とはメトミニーの関係にあるナルシストというタイトルを付けている。なるほど、見れば見るほど手鏡に見えてくる。これをそのまま昇りのエスカレーターの近くに貼れば「ミラー・マンに注意!」の標識になる。 と言うわけで、記号というのは、類似性によって、文字から図形、象徴から写真へと、いくつかの段階に分けられる。フッサールは、絵画が類似性を減少させる過程を象徴化(symbolizieren)と名付けている。類似性が減少すれば、われわれの意識は図像意識から記号意識に変わっていく。フッサールは象徴化の例として、絵画の目録用の図録をあげている。図録は正確な複製から簡単なアイコンまでさまざまな段階がある。あるいは子供の絵をあげている。子供の描く絵は、ラスコーの洞窟画の狩人の絵と同じように省略され記号化されている。 注意しなければいけないことは、これらの意識はそれぞれが固有の意識作用であり、一つの作用が働いているときは、ほかの作用は背景に退いている。たとえば、象形文字は、普段は絵の意識が背景に退いていて、文字の意味に影響を及ぼすことはない。いわば、スイッチが切られているのだが、われわれが注意をむければ、いつでも、それは絵として顕在化する。 このような記号と図形と図像のあいだの問題を探求した画家にクレーがいる。クレーは、それだけではなく、色と線と形の問題も探求しているが、それぞれの要素が対立し宥和し、相互に移行浸透する様はユーモアあふれた作品になっている。しかし、山口の《ナルシスト》にはクレーのような弁証法的戯れがない。たしかに記号と絵画の違いを見せてはくれるが、それは図像の外部にある言葉(タイトル)にたよっているのであり、逆に言えば、絵がタイトル(主題)のイラストになっているということだ。記号と絵画の関係を絵画に内在するものとして捉えたクレーにしても、成功した作品はわずかであり、たいていは両者をただ並列したり折衷したりしただけに終わっている。 絵画と記号、あるいは象徴化の問題を、図像客観と図像主題の関係として捉えたのはマチスである。マチスは図像の象徴化(Symbolizieren:Husserl)を抽象化単純化の過程としてではなく、事物の存在論的な本質の把握と考えていたように思われるが、いまここで存在論的美学について述べる余裕はない。 『芸術/批評』の3号に、ちょうど大久保恭子が「〈シーニュ〉から解くマチス---記号学的解釈の問題点」という論文を書いているのだが、肝心の記号と図像に関する理解があやふやなので、せっかくのマチスの〈signe〉に関する当時の資料をもとにした調査研究も中途半端なものになっている。マチスの〈signe〉の研究なのか、絵画の記号論的解釈の批判なのか、どちらか一つにしたほうがよかったのではないか。どちらにしろ記号と図像に関する理解が前提になるけれど。 山口晃にもどる。結局のところ、《ナルシスト》や《ギロチン》のおもしろさは、空耳アワーの絵画バージョンみたいなもので、笑って済ませばいいものだろう。山口は、ちかごろ、《ラグランジュポイント》や《木のもゆる》など、大和絵とはことなる世界に挑戦しているが、これらは山口のなかにもともとあった世界のようなきがするし、山口自身はイラストで何が悪いと開き直っているらしいが、前途多難である。「誰でもピカソ」でふざけている場合かなぁ。 山口晃(3)VOCA展に行った。去年のVOCA展は図像をいじくり回すような作品が多かったが、今年はそんなこともなく、分かりやすい作品が多く楽しめた。 また府中市美術館賞の山口晃の《木のもゆる》(坂元暁美推薦)は、たくましい生命力を発散させる梅樹の姿を力強く華麗に描き出して見るものを圧倒する。すでに多彩な活躍を見せているこの作者にとっても、新しい展開を予告するような力作である。 無難な評価で、ケチのつけようがないが、「力強く華麗に」という表現は、新しい展開を予告する作品の評価としては曖昧すぎないか。少なくとも、どこに新しい展開の兆しがあるのか具体的に指摘してくれなければ美術評論とはいえないだろう。『日本近代美術史論』を書いた高階がこの山口の《木のもゆる》に何も感じなかったとは考えにくい。 山口晃(4)へ 山口晃(2)
山口晃が『Lagrange Point』展でやろうとしている「絵画を見るのではなく体験する」という考えについて補足しておきたい。
絵画を「体験する」ということは、絵を漫然と美的に鑑賞することではなく、その絵に没入し、その絵画空間を生きる(erleben)ということだ。その絵画空間をグリーンバーグは、『モダニズムの絵画』の中で二つに分けている。 「古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり、眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである」(『グリーバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳) 体験するというのは、歩いてその絵の中に入ることなのだろうが、それは知覚身体ではなく、想像身体が絵の中に入ることなのだ。これは、なにも絵画の世界だけではなく、窓の下に見える歩道を散歩するのも、未来の世界に遊ぶのも、同じ想像的身体なのだ。 山口晃(1)
山口晃展:Lagrange Point(ミズマアートギャラリー)★★★☆
今回の展覧会は、これまでの大和絵風イラストとはまったく異なる展覧会になっている。図像を読み解く楽しみだけではなく、「絵を体験する」というテーマに挑戦したというのだ。 確かに、現代のペーター・ブリューゲルと言われる山口の卓越した人物描写をルーペで見るような楽しみは、今回の作品にはない。そのかわり、線描の達人と言われる技術で描かれた四天王像などが展示されている。 絵を見るのではなく、「体験する」ということはどういう意味だろう。今回の展覧会は、人物がモノクロの線描で、かつ等身大に描かれていること、展示がインスタレーションになっていることが特徴である。 |
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Author: 安積 桂 カテゴリー
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