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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「岡崎乾二郎の《ポンチ絵》はウンコですな」 (山形浩生の訳本『ウンコな議論』に拠る)

岡崎乾二郎が『ポンチ絵』の展示即売会をやっている。(*)

これも岡崎乾二郎の得意な『図画工作』だ。今度は、抽象画ではなく具象画なので、箱に入れて並べてあると、なおさら小学生の図画工作に見える。

Twitterを見るとこのポンチ絵展が「素晴らしい」と言う人がたくさんいることが分かる。なかには、岡崎乾二郎の作品がこれまで良いと思ったことはないけれど、この《ポンチ絵》は素晴らしいとわざわざ付け加えるひともいるし、買って帰る人さえいる。それはそれでいいだろう。しかし、一時間半掛けて堪能したというツィートに至ってはもはや趣味や美学の問題を超えて、ほとんど〈事件〉である。

ご存知のとおり、岡崎乾二郎の父親は建築家で、本人は多摩美の建築科を中退して、「Bゼミ」を修了している。「Bゼミ」()というのは変わったスクールで、デッサンなどやらずに(注2)、現代アートの技法や理論を学ぶ塾のようなものだったらしい。岡崎乾二郎はその後「Bゼミ」の講師になり、『批評空間』で浅田彰に取り立てられ、コーリン・ロウなどの「実と虚の透明性」について建築家の磯崎新と議論している。ポストモダンというのは絵画ではなく、はじめにモダン建築に対する批判として生じた傾向である。岡崎氏は建築の空間と絵画の空間を同じように論じられる稀有な美術評論家だ。

こんなどうでもいいような事をくどくどと言っても仕方ない気がするが、岡崎乾二郎は日本の現代アートシーンの象徴なのだから、彼のアーティストとしての履歴を述べておくことも無駄ではないだろう。

今、美大の勢力図の中心は多摩美術大学から京都造形芸術大学へと動いているように見える。最近、千住博が学長を辞めて、替りに浅田彰が大学院長に就任した。千住博は去年から東京で「ザ・スーパー・アートスクール」を始め、その第一回修了生が、これも今年から審査委員に就任した『上野の森美術館大賞展』の大賞を受賞した。王青の大賞受賞作《玄牝》は先生同様エア・ブラシを使った(としか思えない)作品だ。さらに、忘れてはいけないアーティストがいる。ポストスーパーフラット・アートスクールを開校した黒瀬陽平も京都造形を卒業して、現在、芸大の先端芸術表現専攻博士課程に在籍している。岡崎乾二郎と同じように作家と評論家を兼ねているけれど、理論と実践ともに中途半端な現代美術家である。そんな美術大で岡崎乾二郎は公開講座を開いたことになる。公開講座には黒瀬陽平も聴講して、質問をしたという。

勢力図なのか思想地図なのか、それとも相関図なのか分からないが、黒瀬陽平は評論家としては京都造形芸術大学の浅田彰大学院長ではなく東浩紀に近いわけだが、その黒瀬陽平が荻上チキのインタビュー『ハッキングされる美術批評』の中で、岡崎乾二郎について述べている。

ブログでもちょっと書きましたけど、岡崎乾二郎の読者と椹木野衣の読者が分裂状態にあることは事実だと思うし、お互いがお互いのことを知らないで、なんとなく避けたり、バカにしたりという状態が、ここ数年の美術評論が活気づかない原因のひとつだと思います。あっているかあっていないか、というより、本当はそうではないのに、現時点ではまだ「(いわば)モダニズム派」と「(いわば)日本ゼロ年派」は分離しているように思われているし、その分離は非常につまらないところで起きている、それが問題なんです。


「日本ゼロ年派」は椹木野衣が水戸芸術館でキュレーションした展覧会のタイトルから来ているのだから、椹木氏が「日本ゼロ年派」ということは当然だけれど、だからと言って岡崎氏が対立する「モダニズム派」ということにはならない。岡崎氏はモダニストとポストモダニストの二つの顔を持っているし、そもそも『日本ゼロ年展』は椹木氏が『日本・現代・美術』を展覧会形式にしたもので、日本の現代美術をリセットするというのだから、展覧会が新しい傾向を網羅したものになるのは仕方ない。

椹木野衣は浅田彰との対談『新世紀への出発点』で「岡崎乾二郎はスーパーフラットである」と浅田を喜ばすような発言している。椹木は、《あかさかみつけ》はスーパーフラットだといい、浅田の方も、村上隆は岡崎乾二郎のポップ化だという。さらに浅田は、アニメやゲーム、あるいはそれらを再流用した「スーパーフラット・アート」よりも、世界の 美術史を踏まえて考え抜きながら真の意味でスーパーフラットな表現を模索している岡崎乾二郎を応援したいと言っている。

ところが、このスーパーフラットというのがフラットとどう違うのかわからない(黒瀬陽平はさらにポストスーパーフラットという概念を提案する)。スーパーとネオとポストばかりだが、モダニズムの言うフラットの意味は分かっている。「支持体の平面性」と「描かれた平面性」だ。支持体の平面性は絵画のイリュージョンを生み出す物理的条件だ。平面だからこそ「知覚に基づいた想像」が働く。描かれた平面性とは浅い奥行きのことだ。モダニズムの奥行きはどんどん浅くなり、支持体の物理的平面に重なるところまで浅くなる。それと事物の陰影描写を省略し、平塗りで平面的に描くことで、事物が占領している空間もまた浅くなる。

岡崎乾二郎の批判(注1)は何度か試みたけれど、上手くいかない。彼は一種の「天才」で、フォーマリズムをもとに次から次に新しいアイディアが浮かんでくるらしい。しかし、これまでは騙しやすいオブジェ(イリュージョンのない抽象画も含む)を使っていたが、今回は難しい絵画をテーマにした。天才の驕りがあったのだろうか。驕りというより油断だろう。何しろ浅田彰と椹木野衣を同時に手玉に取ったのだ。二人とも絵を見る目がないので、岡崎乾二郎は理論と実践を兼ね備えた美術家だと思っている。二人はスーパーフラットは村上ではなく岡崎だといった。そこまで言われたら、岡崎氏は絵を描かないわけにはいかない。ところが、岡崎乾二郎はそんなに自由自在に絵が描けるわけではない。そこで『ポンチ絵』を使ってちょっとした仕掛けをほどこした。

まず、『A-things』の展覧会の様子を見て欲しい。http://athings.exblog.jp/21859593/

『ポンチ絵展』の岡崎の名前が「おかざき乾じろ」となっている。理論派の岡崎氏のことだ、どんなタクラミが隠されているのか知る由もないけれど、普段使っている本名の「岡崎乾二郎」の展覧会とは違いますよということだろう。さらに展覧会の説明に「絵画の紋切り型に向き合い、描きためたポンチ絵を多数展示」とあるのだから、これらの絵は展覧会のために描いたわけではなく、漫ろに気ままに、そんなときに人が何となく描くイタズラ書きのようなものがたまったので展示するということだ。もちろん、これは『北斎漫画』を意識してのことだ。

これは心理分析のための作画テストの絵に似ている。心理学の教科書に出てきそうな絵もある。あるいは精神分析のオートマティスムの稚拙な絵のようにも見える。「絵画の紋切り型」という言葉で、岡崎はこの絵が自分の深層心理を表現しているわけではないと仄めかしながら、自分の絵が下手なのではなく、「紋切り型」なのだと言い訳をしている。

ポンチ絵は英国の《Punch》が語源で風刺画や風俗画を意味する。日本語では建築家がお客に概略や構想を説明するための簡単な絵の意味もある。京都造形の岡崎氏の公開講座の表題は「ポンチ絵としての芸術の物語」(下線安積)というのだから、「日本の芸術の歴史はポンチ絵のように滑稽だ」という意味もあるだろうし、あるいは、「芸術の歴史をポンチ絵のように簡単にまとめてみる」という意味にもなるだろう。いずれにしろ、岡崎氏は慎重に北斎の名を《ポンチ絵》の歴史から消している。(注0)

一度だけ建築家のポンチ絵を見たことがある。『国立新美術館』のオープン記念のとき、設計者の黒川紀章の展示があり、そこで写真だったかビデオだったか忘れたが、設計前の『国立新美術館』のカーテンのような波型のファサードのイメージをスラスラと描いた絵があった。あれがポンチ絵というものだろう。

辞書の意味から考えれば、そうなるだろう。しかし、子供の頃、大人が私の下手な絵を見て、「何だ、そのポンチ絵みたいのは」と言ったのを憶えている。ポンチ絵は「下手な絵」という俗語的意味もあったのだろう。私にはこの俗語的な意味が岡崎の《ポンチ絵》にふさわしいと思う。岡崎乾二郎は自分の《ポンチ絵》を単なる稚拙な絵ではないように見せている。もともと絵が下手なのではなく、ワザと下手に描いたように見せている。岡崎は言葉の多義性を巧みに使う芸術家だ。

しかし、「お絵かき」はそこまでだ。制作の順番通りに話しているわけではないけれど、岡崎乾二郎はいわば(突然)図像破壊者になる。絵画の平面性を壊すことによって、図像主題を図像客体に退化させる。絵(図像主題)は「知覚に基づいた想像」の対象である。ところが平面性が壊されると想像作用が作動しなくなり、図像は想像の対象(ピクトリアル・イリュージョン)から知覚の対象(物質)に頽落(Verfallenheit)する。

紙を不定形に切ったり破ったり、部分的に貼り付けたり、さらに、その上から絵を描いたりする。貼り残した箇所を丸めたり捩ったりして、台紙からぶら下げるなり、折り込むなりする。そのため、物理的な絵(図像客体)も部分的に隠されたり、破れたりしているので、逆に、壊された平面性が強く意識されることにもなるけれど、これは壁に掛けたら「紙くず」だ。

これでは、いくら岡崎乾二郎でもアートだと言い張ることはできない。多少でもイリュージョンを回復しなければならない。そうでなければ、見て面白くはない。しかし絵画の表面がデコボコではイリュージョンは生まれない。立体は射影を通じて現出するので、想像ではなく知覚の対象(事物)になる。多くの彫刻が退屈なのはそのためだ。

事物のコラージュなどで、失ったイリュージョンを回復するために支持体を枠で囲うという手法が良く見られる。シュヴィッタースの《メルツ絵画》が有名だが、日本では、野田裕示や大竹伸朗がいる。作品が大きいと効果が薄れるけれど、岡崎の《ポンチ絵》は小さいし、枠ではなく箱に入れたのは、岡崎乾二郎ならではの天才的なアイディアと言える。

あらためて、『A-things』の展示風景を見た。http://athings.exblog.jp/21859593/

ところが一つひとつの《ポンチ絵》ではなく、壁に陳列した縦六列横四列の《ポンチ絵》を見て驚いた。初めに見たときは、《あかさかみつけ》や《ゼロサムネイル》と同様に、岡崎乾二郎お得意の小学生の図画工作の展示だと思ったのだが、これは図画工作の展示ではない。《ポンチ絵》の箱が縦横並べてグリッドになっているではないか。グリッドは平面を作る。一つでも、四角形は平面になる。それが格子状になればなおさら平面になる。さらに箱が並んで、立体格子になっている。その一つひとつの空間を、冒頭で述べたコーリン・ロウの「虚の透明性」が満たしている。もはや、《ポンチ絵》は一つずつ見た時のようなボロボロな紙くずではなく、24枚のポンチ絵がグリッドによって結び付けられ、一枚の大きな抽象画になっている。

小さな《ポンチ絵》を買った人は大きな抽象画を見て欲しくなったのだろう。家に帰って箱のフタを開けたら、自分が買ったのはゴミだと気づいて、驚いたに違いない。でも、騙されたと怒る人はたぶんいないだろう。芸術的エリート化した大衆(藤枝)とはそういうものだ。岡崎自身も騙したつもりはない。これこそ真の「フラットネス」だと思っているにちがいない。確かに岡崎ほど平面性の問題に理論と実践の両面から肉薄した美術家はいない。そういう意味では、浅田彰や椹木野衣が「スーパーフラットなものに可能性があるとしたら村上隆ではなく岡崎乾二郎だ」ということもあながち間違っているとはいえない。

しかし、浅田や岡崎には致命的な間違いがある。それは、絵画は「知覚に基づいた想像」だということを理解していないことだ。平面性がイリュージョンと密接な関係があること、したがって、ピックトリアル・イリュージョンとオプティカル・イリュージョンを区別しなければならない。コーリン・ロウの「虚の透明性」というのは、カニッツァの三角形の主観的輪郭と類似の空間の錯視(オプティカル・イリュージョン)だ。錯視とは知覚の変異体であり、正常な知覚か変異した知覚(錯視)か、どちらか択一的しか作動しない。それに対して、ピクトリアル・イリュージョンは、「知覚に基づいた想像」であり、大抵の場合は、かなり自由に知覚に注意を向けたり、想像に注意を向けたりすることができる。もちろん絵画の楽しみは知覚とピクトリアル・イリュージョンの間の「弁証法的戯れ」にある。オプ・アートのような、観者が自由にならないオプティカル・イリュージョンに絵画の官能性はない。

いったい、これだけのトリックを岡崎は一人で考えだしたのかという疑問がどうしても残る。まるで、進化論に反するように、美的価値も芸術的価値も減少するような変化の段階をかさね、そして最後に「グリッド」によって一挙に抽象画の「傑作」になる。「グリッド」と言えば当然ロザリンド・クラウスを思い出す。さっそく、『オリジナリティと反復』(小西信之訳)所収の『グリッド』を見た。冒頭に以下のようにあった。

今世紀初頭、視覚芸術の領域において、一つの構造が現れ始める。それは、最初にフランスで、続いてロシアとオランダで現れる。すなわち、戦前のキュビスムの絵画において姿を現わし、後によりいっそう厳格、明白になるグリッドは、とりわけ、近代芸術が持つ沈黙への意志と、文学や物語や言説に対する敵意を告知している。グリッドは、そのようなものとして目覚ましい効果をあげてきた。それが視覚の芸術と言語の芸術の間に設けた障壁は、視覚芸術を、排他的な視覚性の領域の中に囲い込み、語りの侵入から守ることに、ほぼ完璧に成功してきた。


我々はすでに、グリッドが平面性や空間に関わることを見てきたけれど、クラウスはグリッドが文学や物語を抑圧すると述べている。すなわち時間の抑圧だ。ここで、岡崎乾二郎が《ポンチ絵》で物語を暗示した理由がわかる。展覧会の説明に「絵画の紋切り型に向き合い、描きためたポンチ絵を多数展示」と書いたのも、弁解じみている。後で否定するために一度は語らなければならない。そのことで岡崎はモダニズムの勝利を誇示するのだ。

24枚の《ポンチ絵》をグリッドに嵌め込んだ抽象画は決して本来の「絵画」ではない。「擬似コンセプトを図解(イラスト)したオブジェ」であり、詐欺師が囮につかった絵画もどきだ。もし《ポンチ絵》が一枚売れたら、すぐに箱のフタをして渡す。空いたところに別の《ポンチ絵》を掛ける。そのためのストックが棚に重ねて置いてある。

手品師がタネも仕掛けも見せている。







注0: 日本の近代絵画の歴史は「北斎殺し」の歴史である。北斎は西欧に学んだし、西欧も北斎に学んだ。北斎とマチスの二人こそモダニズムの要諦である。画狂老人北斎は“fou de dessin”であり、マチスは“fou de peinture”だ。
注1: ① 会田誠の浅田批判 ()  ② 『ゼロサムネイル』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)(
注2: デッサンは学ぶことが出来ないので、学ばないのは正解である。「Bゼミ」は絵が下手でも、手っ取り早くアーティストになる方法を教えるアートスクールの走りだったのではないか。「Bゼミ」で学んだという丸山直文はステイニングの技法を独自に改良して佳作を描いたが、それ以上の発展はなかった。肖像画(顔)や山の風景はとても褒められたものではない。自分で独自に戦略を立てて、「黒地に白い滝」で成功したのは千住博だ。デザインの勝利である。千住博もまた白い滝以外のカラーの滝や芸大時代の作品は「下手くそ」と言う他ないけれど、技法をふくめて、それを隠そうともしないところが大物たる由縁だろう。

スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2014.06.27[Fri] Post 14:29  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

『ゼロサムネイル』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)③

サムネイルは画像などを縮小して元画像の代わりに目録やファイリングに使うアナログ(類似)記号のことだ。岡崎乾二郎の『ゼロサムネイル』は、小さいゼロ号のキャンバスに描かれた抽象画の原画であり、ほかに代わり(stand for)をする大きなオリジナルの作品があるわけではない。そういう意味ではこれはサムネイルではない。去年の川村記念美術館のロスコ展には『テート・ギャラリーのシーグラム壁画展示のための模型』が展示されていたが、その模型の壁には展示する予定のシーグラム壁画の縮小絵画が掛けてあった。これが縮減模型すなわちアナログ記号としての「サムネイル」である。

それにしても、『ゼロサムネイル』はタイトルの勝利である。タイトルを見るとなにかデジタル時代の新しい芸術におもえる。サムネイルは弁別的差異のシステムによるデジタルな記号ではないが、類似によるアナログ的な目印徴表としての記号性がある。小さいから近くで見る。作品の間隔が離れているので一つずつ見る。パ レットナイフで擦りつけた絵の具の盛り上がりが見える。小さくても図像(picture)なら実物大のイリュージョンが現れるだろうが、絵の具を擦りつけた、「死んだ余白」のあるゼロ 号の抽象画はゼロ号の汚れたキャンバスに見えるだけだ。(注1) 彩度、色相、 明度などの色彩対比は弱く、中心も周辺もない。評論家たちはそれを開かれた構造というけれど、むしろ、おおきなオールオーバーな抽象画の一部を切り取った「生地の見本」のようにも見える。一つ一つはつまらない抽象画だけれど、たくさん並べれば、いろいろな抽象画の見本を並べたカタログとしての面白さがうまれる。このあたりが岡崎乾二郎の図画工作の工夫があるところだ。

大きな二連三連の「組絵画」にも工夫はある。『ゼロサムネイル』にはアナログ記号の差異があった。擦りつけた絵具の色や形でそれぞれのサムネイルが識別できたけれど、組絵画のほうは似たような色や形で、アクションでもなくドリッピングでもなく、ブラッシュ・ストロークでも線描でもなく、ただパレット・ナイフ(?)で塗りつけたようで、どれも同じような「絵具で汚したキャンバス」にしか見えない。イリュージョンのない退屈な四角い事物である。そういう意味ではモノクローム絵画よりもはるかにポスト・モダンのミニマル・アートに近いといえる。

ところが、岡崎は同じような抽象画を二枚並べることで、失った絵画の諸関係を回復しようとする。てっきり別々の制作した絵を組み合わせたのかと思ったのだが、じつは二つの絵ははじめから関係性をもって描かれているらしい。祭壇画の二連三連の絵画は宗教的物語(ヒストリー)を語っているのだが、抽象画には物語はない。だから岡崎の二連の抽象画は物語でつながっているのではなく、色や形の形式の関係があるというのだが、それならそうと、その関係がどんな効果やイリュージョンを生み出しているのかネットで検索したブログから引用してみよう。(古谷利裕も岡崎論をたくさん書いているけれど相変わらず難解なので失礼)


物質の抑揚、垂れをともなう描かれた場における具体的なノイジーな表情に一方で捕らえられつつも、二つの画面を行き交いながら、激しく我々の知覚は揺れは じめ、安定した受容は不能となろう。果てし無い不確定の知覚の中、それは1対1の対応に終始する二枚の絵ではなく、果して自在なイマジネーションの渦中で 輝く仮想の面を見てしまう。関係性と決定的な断裂を持ちながら、単体としても存在しつづける絵画。(artscape『動揺する知覚の中でみる官能』天野一夫)(ママ)


柔らかく閉じたブロック状の筆致のディプティックが美しく、あるいはより初期の、色彩や形態、マチエールといった諸要素が一対の作品間で対位法のようなネットワークを つくりだす2002年の作品にもクラクラさせされる。つまり2002年の段階で目も眩むような構造的な対応関係が頂点に達し、次の段階で柔らかな筆致が内 側に巻き込むようにして色彩が個別の単位性を強め、さらに近作に至っては、こうして個別の単位性を強めていた色面が鋭いエッジを持ちながらねじれ、多方向 に開かれていく。色彩も同様に、これまでの岡崎作品にみられるような諸力の均衡状態とは異なる、突き抜けるような彩度の高さを持つことで、作品の裏側に あって絵画の諸パラメータを結びつけていた構造の編目を内破するかのようにも見える。(童話日記『MOTコレクションの岡崎乾二郎』kosuke ikeda)


知覚が激しく揺れるとかクラクラするとか、オップ・アートならそういうこともあるだろうが、そもそもオップ・アートの運動感覚は、隣接した連続模様から生じる錯視であって、岡崎の二連絵画にそんな運動感覚は生じないが、造形も構図も構成もない不定形の似たような抽象画を交替に見れば、たしかに眩暈ぐらいはするだろう。あるいは、色相対比や彩度・明暗対比などを利用すれば視覚的な効果を強めることもできるかもしれないが、それも同じ視野に隣接した場合だろうし、そもそも岡崎の作品は色彩対比も弱く、反幾何学的な抽象画なので、とても対位法や多声楽的空間など持ち出す余地はないだろう。もちろん絶対音感があるように絶対色感というものがあって、同じ視野領域ではなく、別の離れた絵画の中にある二つの色彩や形態が記憶や残像を介して響きあう可能性が絶無とは言えないけれど、もしそういうものがあったとしても、それは知覚心理学的な錯視現象であって、絵画的なイリュージョンではないだろう。

たしかに岡崎乾二郎は浅田彰の言うように世界の美術史の文脈の中で仕事をしようとしていることは認めなければならない。ジャッドは絵画でも彫刻でもないステンレス製の箱で絵画的イリュージョンを抹殺したけれど、岡崎はキャンバスに絵具を塗るという絵画を絵画の本質に還元することで、めでたく絵画からイリュージョンを排除したのだが、あとに残ったものは「絵具で汚れた平たいな事物」というリテラルなものだったのだ。

それを会田誠は山口晃とのふたり展『アートで候。』(上野の森美術館)に出展した『浅田批判』(岡崎作品のパロディ)で揶揄したのだが、そんなことにお構いなく、岡崎はさまざまな細工を引き続き施している。まず、抽象画を二枚組にするだけではなく、二枚の間隔を狭くしたり広くしたり、あるいは壁のコーナーに90度向かい合わせたりして、あたかも観者の視線の動きが重要な意味を持つと思わせている。また、三連の組絵画のキャンバス・サイズが異なるのは、三作品は内容(物語)の関係ではなく、支持体の形式(大きさ)の関係だといっているわけだが、キャンバスの間隔の違いも、キャンバスの大きさの違いも、作品の外部にあるもので、いわくあり気な反芸術であって、結局のところ作品が「絵具で汚れた平たい事物」であることを露呈するのに役立つだけだ。

もうひとつ付け加えると、タイトルの問題がある。抽象画には自然的対象が描かれているわけではないので、タイトルを付けるのは難しい。番号をつけたり記号を付けたり日付を付けたりする作家もいる。イメージをあらわすタイトルをつける作家もいる。制作意図をあらわすタイトルもある。岡崎のタイトルは文章や句になっている。『ゼロサムネイル』には日めくりカレンダーや禅問答のような短いものがついている。「組絵画」には現代詩のような長い文章がついている。

これらのタイトルは表題というよりキャプションだろう。三連の「組絵画」には、死者、天の光、肉体もなく翼も必要ない魂、言葉ではなく眩しい光が地上へとどく、空の国は地上より美しい等々、宗教的神話的な言葉を使っているが、ただの連想ゲームのようにおもえるし、あるいは作者が作品を眺めながら自動速記をしたのかもしれないけれど、そんなことは岡崎乾二郎の勝手で、三つのキャプションは、ただキャプション同士がなにやら関係ありそうに見せているだけで、作品の説明にはなっていないし、上述した抽象画のタイトルの類型のどれにも当てはまらない。

おそらく岡崎は祭壇画と聖書物語の親密な関係を脱構築(?)するために、抽象画に現代詩もどきのキャプションをつけただけで、キャンバスの大きさが異なるのが作品の外部であるのと同じように、キャプションもまた本来は作品の外部にあるのだ。もし、タイトルやキャプションが意味を持つとしたら、それは一枚のタブローではなくインスタレーションの類と言うことになる。岡崎は絵画をキャンバスと絵具に還元しながら、キャプションという作家の詩もどきの告白によって、ありもしない作品の深層の意味を裏口から密輸入している。

同じことは表題やキャプションばかりではなく、作家の理論についてもいえるのだろうが、あいにく岡崎理論には不案内で、そのうえ美学に疎いときているので、これ以上のことはわからない。作品を見ての感想は以上のとおりだ。岡崎理論についてはおいおい勉強するが、上で引用した二人の評論は岡崎理論に基づいたものだろうから、彼らの理論にはあまり期待はできない。

ひとまずこれで、おわり


注1:「会田誠の浅田批判」
2010.02.09[Tue] Post 00:58  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

『あかさかみつけ』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)②

『あかさかみつけ』は絵画と彫刻の合いの子だ。オブジェでありながら、台の上に置かれるのではなく、絵画のように壁に掛けてある。レリーフ・コンストラクションや立体絵画というのはピカソのコラージュ以来たくさんある。ピカソの『バイオリン』やタトリンの『レリーフ』それからシュヴィッタースの『メルツ絵画』など壁に掛けられた作品は基本的には正面から見るように出来ている。ステラの『アカハラシキチョウ』や『モスポート』も同様に絵画の平面性を保っている。さまざまの形に切り抜いた板が彩色されて、壁の面に並行して重ねられている。(注1)

ところが『あかさかみつけ』は、「切り起こし」風の技法を使い、たとえば板に半円の切り込みを入れて、それを起こして、面が壁と垂直、あるいは斜めになるようにするなどの加工を組み合わせて、切り抜いた実の面と、切り抜かれた虚の面を組み合わせて、正面性のない立体を作る。そして角度の異なる面の裏表を別の色に塗っている。

そして、この立体は小さくて、しかも壁に掛けてあるので、体を移動させずに、頭を動かすだけで、見る角度を大きく変化させることができる。すると上に述べた平面的な立体絵画と違って、実の面と虚の面、裏面と表面、面と面の縁(ふち)の線の関係がさまざまに変化して現れる。

モダニズムはキャンバス平面から穴を穿つイリュージョン空間がどんどん浅くなり、ついには奥行きはキャンバスの平面に重なる。そしてさらに絵の具が盛り上がり、事物が張り付けられ、事物が飛び出してきて、上記の立体絵画になる。立体絵画はたとえ正面性があろうとも、立体であるかぎり塑像彫像とおなじようにイリュージョンは持ちにくい。抽象的なコンストラクション であればなおさらそうであり、その究極的な反イリュージョニスティックな絵画がジャッドのステンレス製の箱を壁に設置したミニマル・アートである。

このイリュージョンを持ちにくいというレリーフ・コンストラクションに「切り起こし」を思わせる技法を使って、岡崎は擬似的なイリュージョンを生んでいる。平面の板を切り起こすと、切り抜かれた面が透明な平面としてあらわれる。ボリュームもマスもない彩色された面と切り抜かれた透明の面との組み合わせ、それと、さらに視点の移動によって擬似的なイリュージョンを生み出してい る。切り起こしが、もとの一枚の板にもどろうとして、実と虚の面がズレていたり、表面のはずが裏面の色になっていたりして、ちぐはぐなイリュージョンに似た錯覚が生じているということだ。

岡崎乾二郎はたしかに欧米の美術史の文脈のなかで仕事をしようとしていることはみとめないわけにはいかない。しかし、絵画がついに壁に据え付けられた四角い箱になって、いっさいのイリュージョンを捨ててしまった今、絵画と立体のキメラをつくることにどれほどの意味があるのかは疑問ではある。岡崎理論と言うものがあるらしいが、それがどんなものであっても、展示された作品をすなおに見れば、けっきょくはちょっと面白い図画工作なのである。

注1:ピカソは『巨匠PICASSO』展(国立新美術館)、 ステラは川村記念美術館、 タトリン、シュヴィッタースは『20世紀美術探検』(国立新美術館)

『ゼロサムネイル』につづく
2010.02.02[Tue] Post 17:49  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

『あかさかみつけ』は図画工作である-- 特集展示・岡崎乾二郎(MOT)①

東京都現代美術館に『特集展示岡崎乾二郎』を見に行った。岡崎乾二郎については、以前会田誠の『浅田批判』を論じたとき、浅田彰と椹木野衣の対談『新世紀への出発点』での「岡崎乾二郎はスーパーフラットである」という発言に触れたが、そこの部分を引用する。

 

椹木―しかし岡崎さんにしても、なかなかそういう構図に治まりにくい感じもありますよね。「あかさかみつけ」なんて、ある意味ではスーパーフラットじゃないですか。

浅田―逆に言えば、村上隆というのは岡崎乾二郎のポップ化なんですよ。

椹木―センスの違いがあるとはいえ、スーパーフラットなものに可能性があるとしたら、それは案外、岡崎乾二郎だったりするのだと思う。

浅田―まさにそう思いますよ。しかしそれがまったく国際的に評価されない。日本人の分際であいつは物を考えている、けしからん、と。

だから、そういう段階では、世界市場に勝手に勝利しているアニメやゲーム、あるいはそれらを再流用した「スーパーフラット・アート」よりも、世界の 美術史を踏まえて考え抜きながら真の意味でスーパーフラットな表現を模索している岡崎乾二郎みたいな存在を応援したくなるわけです。

この対談を読んで意味がわかる人がいるだろうか。ふたりとも岡崎が「スーパーフラット」だということでは一致しているけれど、このスーパーフラットという語でお互いに何を意味しているのか曖昧である。

スーパーフラットは村上隆のキャッチコピーであって、昔の浮世絵の平面性ではなく、漫画やアニメの平面性のことだろうが、実際にはオタクのフィギュアまで含めたポップ・ジャポニカのことであり、フジヤマ・ゲイシャの焼き直しだ。平面性といってもグリーンバーグとは関係がなく、ただエキゾチシズムとしてもてはやされているのではないか。岡崎の国際評価が低いのは、ジャポニカ風の味付けがないからで、なにも絵画の平面性を考えぬいているのが日本人の分際で生意気だと思われているからではない。

浅田彰と椹木野衣のふったりは、ポップだとかフラットとかの言葉を交換して、あたかも高級な芸術論をかわしているつもりになっている。彼らが作品を見ているとは思えない。そもそも芸術論というのは作品を見ずに作品を論じる無駄話のことで、そんなものを読んでも時間の無駄だ。作品を見てみよう。

小さな『あかさがみつけ』や『ゼロサムネイル』が壁にずらりと並べてあるのを見て最初に浮かぶ感想は小学生の図画工作の展示だ。図工の先生が、あらかじめ製作方法を説明して生徒に作らせ、面白いのとつまらないのを捨てて、平凡な作品を選んで並べれば、こんな展示になるだろう。並べてみると、それなりにおもしろい展示になっているは、その平凡さの背後に反美術的態度がうかがわれるからだ。

 『岡崎乾二郎②』へつづく
2010.01.31[Sun] Post 21:41  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

2ちゃんねるの美術評論

2ちゃんねるの『岡崎乾二郎スレッド』に以下の書き込み。

165 名前: (~∀~) 投稿日: 01/11/15 16:43
何でみんな言わないの?
フランク・ステラやアンソニー・カロのパクリだろ
壁に描くドローイングみたいのはソル・ルウィットだろ
アクリル絵の具のシミみたいなのはサム・フランシスだろ
いかにも思わせぶりなことやってるだけだろ
日本の現代美術ってこんなもんだろ

166 名前: わたしはダリ?名無しさん? 投稿日: 01/11/15 16:59
>何でみんな言わないの?
それを言ったら岡崎の思う壺なので、みんなで黙殺しているのです 

パクリかどうかわからないけれど、岡崎氏の《あかさかみつけ》はステラのレリーフのパクリと言われないように作っているような気はする。作品だけではなく、岡崎氏の理論も思わせぶりだ。

同じように、『批評空間【critical space】統一スレ』に以下の書き込み。

64 名前: 考える名無しさん 投稿日: 02/01/29 21:46
古谷の批評、少しも新しいことは言ってないと思うが。
村上とセザンヌを併置した時点で、もう先は読めた。
わざわざコーリン・ロウなんて用意する必要はない。
ましてや多義性や決定不可能性に言及する必要もない。
反ポエジカル? よく言うよ。
んなことしなくてもゲシュタルトで十分説明できる。

古谷氏は絵画鑑賞を知覚心理学の実験と間違っている。コーリン・ロウは建築の話だ。ロウが具体的に何を意味しているか曖昧だが、虚の透明性(主観的な透明性)は、コーネリア・パーカーの作品のように立体だけではなく、カニッツアの三角形のように平面にもある。しかし、これは絵画の問題ではない。多義性や決定不可能性なんて言ってるが、ポモはとっくに終わっているのを知らないらしい。だれか教えてあげてください。

しかし今、まともな美術批評は2ちゃんねるにしかないのか。
 
 
岡崎乾二郎に関する記事は
       『セザンヌの異様さ』
       『白髪氏死去』 
2009.02.07[Sat] Post 14:05  CO:0  TB:0  -岡崎乾二郎  Top▲

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