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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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「お題」 村上隆と松井冬子の日本画

昨日、松井冬子の記事にアクセスが増えた。松井がテレビ出演をするとアクセスが増える。でも、今回は違うらしい。参照元は、Google検索からではなく、空白になっている。

それで思い出したことがあるので書いておく。

ブログ記事『松井冬子の自画像』で、「他者」とか「お題」とか松井の言語感覚はおかしいと言いがかりをつけたことがある。ところが、『美術手帖(11月号)村上隆特集』に『芸術新潮』連載の辻惟雄と村上隆のコラボレーション企画『ニッポン絵合わせ』の記事が出ている。辻が出した「お題」に村上が絵で答えるという企画だ。

どうやら、日本画の世界では課題のことを「お題」と言うらしい。お題と言えば、宮中歌会始の「お題」で判るとおり、短歌俳句などで使う言葉だ。

歌は、第二芸術論を持ち出すまでもなく、芸術ではなく芸事だろう。そうであれば「お題」を出して「絵合わせ」をして遊ぶ日本画もまた第二芸術ということになる。

そうであれば、日本画に対する大方の疑問も解決する。彦坂尚嘉がブログで日本画に関して身も蓋もないことを言っている。

ついこの間までは、日本画と言うと東山魁夷とか、平山郁夫が有名であったが、
今日では松井冬子が日本画を代表するようになるだろう。
もちろんもう一人、村上隆がいるが、この二人の時代になったと言うことだ。

もっとも東山魁夷・平山郁夫から、
松井冬子・村上隆に、代替わりしたと言っても、
それほどに彼らの絵画の本質が、激変したわけではないのである。

東山魁夷の絵も《6流》で、ローアートで、グリーティング・カードの様なひどいものであったから、特に時代の変化を嘆く必要は無いと言える。



鶴太郎画伯も絵手紙(グリーティングカード)だろう。

お題があるのは日本画だけではない。ちかごろ、「洋画」にもコンセプトというお題があって、それに従って作品をつくる。コンセプトと言えば、聞こえが良いが、それは自己言及的なものや、PCやジェンダーやポストコロニアリズムなどのスローガンである。さらに、それらの理論についての理論があったりと、どちらにしろ、作家が自分で自分に「お題」を出すところが、日本画とは違う。

美術展があると、必ずと言っていいほど、作家がトーク・ショウや対談をする。日本画家も同じようにトークショウをするようになった。お題も自分で出している。そういう意味では、日本画と洋画はボーダーレスになったと言うのは正しい

因みに、村上隆の絵合わせの作品図版が美術手帖に転載されているが、彦坂尚嘉はとうぶん村上の評価をあらためる必要はなさそうだ。








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2010.12.26[Sun] Post 01:56  CO:0  TB:0  -松井冬子  Top▲

トップランナー松井冬子

「松井冬子」のアクセスが二三日まえから増えている。検索したら、NHKの「トップランナー」に松井冬子が出演することがわかった。以前、ちょっと松井冬子のことを批判的に書いたことがあって、あれはまだ美術展評を書き始めた頃で、ずいぶんとムキになって書いたものだと、アクセスが増えるたびに、ひやひやしていた。

そういうことがあったので、あれから4年経っているし、松井がどんなふうに変わったか、ちょっと番組を覗いてみた。

さすがに、容色の衰えは隠せないけれど、以前ほどのぎこちなさはなくなっている。とくに、しゃべりが良くなった。フェミニズムもそれなりに身についてきたようだ。ただ、出席番号が男が先なのに疑問を感じたとか、男が女性ヌードを描くのはおかしいとか、ちょっと言うことが陳腐すぎる。上野千鶴子が難しいので田嶋陽子に鞍替したのかな。

パリで個展を開いたそうだが、女性評論家が日本画だけれど普遍的なテーマがあると褒めていた。これを聞いたらドメステックな会田誠は悔しがるだろう。

松井冬子は芸大日本画科の伝統と権威の上にフェミニズムやPCをのせて、ジャポニスムによる世界進出の戦略を立てている。それに対して、会田誠は、廃れてしまった芸大伝統の裸踊り《よかちん》を芸大の女子学生にやってもらったビデオ作品《よかまん》を作った。こちらのほうがはるかに脱ジェンダー的だと思うのだが、それはあくまで日本村での話だろう。

テレビで紹介された作品は新しいものはなかったけれど、作品の「コンセプト」の説明は随分と上達したようで、四年間の修練がうかがえる。ただ、ひとつ気になったのは、内臓が見える絵の説明で、「お前たちの見たいのはこれだろうという気持ちだ」と言ったのは、「特出し」ストリップ嬢が助平な観客をバカにするセリフのようで、あまり上品とは言えない。もっともこれは上野千鶴子直伝のキメ台詞なのかもしれないけれど。

とにかく、松井冬子の成長を見ることは喜ばしいことだ。

他の松井冬子の記事は松井冬子のカテゴリーを御覧ください。



2010.08.29[Sun] Post 14:39  CO:0  TB:0  -松井冬子  Top▲

松井冬子と上野千鶴子

あんまりだからメモだけしておく。
ほかでもない、NHK ETV特集"醜いもの 美しいこと~日本画家 松井冬子の試み~"のことだ。おくればせながら、YouTubeで見たが、予想以上に酷いできだ。いったいNHKのディレクターはどうしたというのだ。自暴自棄になったのか。

対談相手は上野千鶴子氏(東京大学大学院社会学部教授)、山下裕二氏(明治学院大学文学部教授)、布施英利氏(東京芸術大学准教授)で、三人とも、松井芸術の神髄を聞き出そうとするのだが、そのとってつけたような質問と、とんちんかんな応答で、お気の毒に三人はバカ丸出し状態だ。

圧巻は上野千鶴子氏との対談だろう。なんでこんな人選をしたのか不明だが、たぶんジェンダー理論でマッチョたちをバッサバッサ斬ってもらうためだろう。ジェンダー理論というのは文化相対主義のヴァリエーションで、それを絵画や映像に応用したのが表象文化論だ。簡単に言えば深読みして、何でもかんでも性差別に結びつけるというのだから、屁理屈とレトリックのさえが大切だ。でも、上野先生、ぜんぜんさえていない。

オーディヤンス、オーディヤンスというのでなんか関西弁でいってるのかと思ったら、どうもaudienceのことらしい(たんなる推測)。もっとほかのフランス直輸入のキーワードをちりばめた方がいいのに、これじゃ松井冬子のナルシシズムと似たようなものだ。それより、ジェンダーと言ったあとに、脱ジェンダーと言ってみたり、いったいどっちなんだといいたいが、たぶん文化相対主義だから、どっちでもかまわないのだろう。

松井氏の美貌にたいして上野氏の知性と言いたいのだろうが、そうは問屋がおろさない。二人の知性は似たり寄ったり、スピーカーのそばにマイクロフォンを置いたように、お互いの**が増幅して困った事態に陥ってる。いつのまにか上野氏はカウンセラーになって、自分の理論どおりに松井氏に答えさせようと、「その答えじゃ満足できない」と言い出す始末。上野氏はメモをみながら質問しているのだから、あらかじめ打ち合わせをしているはずだが、松井氏そんなことはすっかり忘れている風で、上野氏の質問が理解できないのか意味不明の答、二人の会話はいっこうにかみ合わない。上野氏も臨機応変に質問すればいいのだが、ジェンダー理論は敵をののしるには便利でも、味方を理解するのは不得意のようだ。

とにかく上野氏の出した診断は「自傷系アート」だ。近頃のアートにはそういうジャンルがあるらしい。この言葉を聞いて、『GOTH-ゴス-』(横浜美術館)展で見たピュ~ぴるの作品を思い出した。これは性同一性障害者のピュ~ぴるのSRS手術や自傷行為風の変装化粧などを写した写真作品で、自分のアイデンティティを回復する物語なのだろうが、同じ意味で、松井氏の内臓絵画にも自傷的なナルシズムの側面があるのだろう。

そう思うのは、記事にコメントをくれた人のなかに、松井氏の絵を見て癒されたという女性が多くいたからだ。たぶんある種の人々にとって、松井氏の絵は「癒し系」なのだ。クリスチャン・ラッセンのイルカの絵を見て癒される人がいるように、松井氏の内臓むき出しの自傷系アートを見て癒される人もいる。そういう目的で絵を見るひともいるだろうが、私には気持ち悪いだけだ。

自傷系が癒し系の変種であることは、手近の精神分析の本をよんでください。
それから、語りの吉行和子(女優)の声は岸田今日子の声みたいでやりすぎではないか。

『松井冬子の自画像』へ
2008.04.28[Mon] Post 18:40  CO:6  TB:0  -松井冬子  Top▲

松井冬子はタブーか

ブログのメール・フォームを通して、私の記事「松井冬子『日本×画展』(横浜美術館)」が、個人に対する誹謗中傷だから、削除しろというメールが入った。もともとこの記事は、私の言いたいことではないので、これを機会に記事を削除する。
 これが、誹謗中傷なら「松井冬子と自画像」はもっと誹謗中傷になるだろう。
 でも、松井冬子は画家として公立の美術館に展示している公的な存在だし、容貌や知性に関しても彼女はこれを積極的に利用しているわけだから、とてもプライベートなこととは言えない。美人をブスといい、博士を無知と言うのは誹謗中傷にあたらないと思うんだが。
 それと、繰り返し述べているように、この記事は日本の美術界を批判しているのであって、松井冬子を個人的に批判するものではない。
 メールは私信ということなので、公開できません。できれば、次回はみんなが読めるコメント欄に書いてください。

   私の松井冬子論は
       『松井冬子と自画像』と
       『松井冬子と上野千鶴子』
                にあります。
2007.12.15[Sat] Post 16:38  CO:10  TB:0  -松井冬子  Top▲

松井冬子の自画像

芸大とNHKとフェミニズム

 前回、youtubeの松井について書いた。
 美人画家云々の冗談ごとで済まされないものを感じたが、フェミ二スト(らしい)は相手にしたくないので、冗談半分に誤魔化しておいた。しかし、放っておくわけにはいかない。これは、日本の美術界が崩壊する予兆、いや、既に崩壊してしまった証拠ではないか。以下述べることは松井冬子の作品批判ではない。芸大のアカデミズムとテレビの美術番組の批判である。
 松井の卒業自画像を見ると、ついにデッサンが分からない芸大の教授が現れたということがわかる。しかも、いくら独立行政法人化だといっても、その自画像を客寄せのために展示するとは、日本のアカデミズムが完全に崩壊したということだ。
 松井の自画像は、日本画の描線としてはデタラメで、かつ、洋画のデッサンとしては下手くその極みである。それを日本画と洋画のボーダレスと称している。たしかに日本画はフェノロサ以来、折衷主義的なものであったが、それはそれとして、なんとか日本画を日本画のなかにに閉じこめておいたが、きがつけば、絵の描けないの画家たちが、ボーダレスとかスーパーフラットとかジャパニーズ・ポップとか、日本画を利用しての売り込みがおおはやりで、それが海外向けばかりではなく、日本の市場にも蔓延して美術界をむちゃくちゃにしている。VOCA展には、まともな油絵はなく、岩絵の具やアクリルを使ったミックスメディアが大流行である。
 You Tubeの松井の映像がどんなものか書いておく。
 映像は、なんの番組からアップしたか判らないが、プロモーション・ビデオとしては、とんでもない代物だ。冒頭は、まず東京タワーを見上げるカット、つぎに水子地蔵、そして地蔵の頭にとまったカラスのアップになる。地蔵のあたまに留まったカラスとなれば、日本的風景の定番だけれど、太ったカラスが餌を啄んでいるのは、松井お得意のグロテスクの美学のつもりか。それにしても地蔵に被せた毛糸の頭巾は貧乏くさくてやりきれない。
 そのあと、自画像の画面になるのだが、全体をいっぺんに見せないで、下から上へカメラが移動していって、顔の部分がアップになり、それからやっと全体を見せる。こんな馬鹿げた絵の見せ方があるものか。壁画じゃあるまいし、ふつうに絵を見るときは、まず全体を見てから、視線を動かしながら部分を見る。場合によっては近づいて細部を見る。だれがいったい部分を見てから全体を見るというのか。下手な絵を誤魔化すときによく使う手だ。
 自画像を見せた後、松井が蝋燭を持って、水子地蔵の後ろを歩くのだが、なんだか素人女優がすかしたつもりの笑える演技(モデルウォークしてない?)だ。水子に灯明に美人の三題噺で、よからぬことを想像した御仁もいるようだが、じつはわたしもその一人で、これはてっきりポルノ映画(わたしのこの方面の知識は日活ロマンポルノとピンク映画です)の冒頭シーンだとおもった。東京タワー、水子地蔵、カラス、蝋燭、そして「美人」の素人演技とくれば、次はてっきりベッドシーンだろう。松井の裸なんか見たくないと、停止ボタンをクリックしようとしたら、裸どころか松井が例の悪声で、アイデンティティーとかトラウマとかナルシシズムとか、やっと憶えたカタカナ語を舌足らずに振り回す。ナルシシズムが言いにくかったら、ナルシズムと言えばいいじゃないか。
 この映像がポルノ映画に見えてしまうのは、たぶん番組の製作会社のスタッフがアダルトビデオのカメラマン程度のセンスだからだ。増上寺の水子地蔵で冒頭シーンを撮るなんていかにも三流のディレクターが考えそうなことだ。カラスを餌で釣って地蔵の頭にとまらせたのが得意で、そのカットを捨てることが出来ない。苦労して撮ったカットでも、つまらないものは編集段階で捨てなければ映像が汚れる。あのカラスは、ごみためをあさっている老鴉にしか見みえません。(もっとも松井冬子にぴったりのイメージだとディレクターが思ったのかもしれない)
 なにより一番だめなのはカメラだ。近頃のビデオカメラにはモニターが付いているので、ファインダーを覗かずに撮れる。その結果、安易なローアングルの映像が増える。下手なカメラマンほどいろいろなアングルで撮りたがる。松井の写真は左からの横顔ばかりだが、ここではローアングルでとっている。えらが張ってほっぺたが膨らんで鼻の穴がまるみえで、美人がだいなしじゃないか。
 松井が自作について一通り解説したあと、スタッフの男が突然「苦労した?」とため口をきく。シナリオになかったのだろう、松井は「えっ!」と聞き返すと、男は再度「描くのに苦労した?」の友達口調。わたしは正直驚いた。「おい、おい、おまえたち出来てるのかよぉー」とおもた。こんな楽屋裏を公共の電波にのせるなと思ったら、松井が破顔一笑、歯をむき出し、のけぞって笑ったのにはまた驚いた。美人がけらけら笑うのは必ずしも悪くない。ところが松井のはおぞましいだけだ。そのあとの苦労話も、ぜんぜん答えになっていない。あきれたよ。写真はごまかせても動画はごまかせない。
 ともかく、松井の喋っていることを聞いてみよう。以前に松井のキャプションが分からないと書いたら抗議非難のコメントをたくさん頂いたが、幸いというか今回のは、それほどチンプンカンプンではない。言いたいことはともかく分かる。でも、それだけいっそう絵画に対する無知が透けて見える。
 のっけから「他者から与えられたお題」なんていうが、これは課題のことだろう、それにしても他者とかお題とかこの人の言語感覚はどうなっているのだ。まあ、意味がわからないではないから我慢しよう。でも次の「自己のアイデンティティーを、いかにモチーフを使って、引用をうまく詰め込んで、操作する」はかなりむずかしい。「自己のアイデンティティー」というのは、自分の特徴ということだろうか。それともナルシズムと関係があるのかもしれない。「モチーフ」というのはなんだろう。自画像かしらそれとも自己愛かしら。「引用」は他人の自画像から頂戴したものを自分の自画像に利用するということかな。そして「操作」は引用したものをいろいろ組み合わせて工夫することと理解できる。それにしても難しい。もっとわかりやすく言ってくれるといいんだけれど。
 次に松井は具体的にどう「操作」したかを説明する。屋久杉の模様は自分が反復思考の持ち主であることを、白髪はトラウマや自分の消失状態を、そして、目の下にある青い血管は自分が神経質だということを表しているそうだ。これってなんだろう。たとえば宗教画で百合は純潔をあらわすみたいな図像学のつもりかしら。勝手に図像学辞典を編纂されても困るけれど、どっちにしろ、図像学は絵そのものとあんまり関係ないですよ。ユリは絵に描いても、本物でも、言葉でも、純潔を表すことが出来るんだから。挿絵やイラスト(宗教画や歴史画を含む)の主題を理解するためなら、図像学も少しは役立つだろうが、セザンヌの静物画を見るのに、リンゴの図像学は関係ないでしょう。
 そもそも、作者が自作について解説するというのはいつから始まったのか。もちろん画家の思索をあらわすエッセイもあるのだが、松井冬子の解説は芸談あるいは能書きであって、絵についての思索ではない。白髪がトラウマをあらわしているというのは、恐怖で一夜にして白髪になるという俗諺の「引用」つもりなのか、あるいはゴッホの包帯を巻いた自画像の引用のつもりなのか分からないが、肝心の自画像のほうは白髪に見えない。なんでもいいけど、しかし、ひでぇ絵だなぁ。布団をかぶったみたいだ。造形的にはいちばん難しいけれどいちばん面白い顎から頬、首から耳への線を隠している。自画像で顔の輪郭を隠すなんて、どういう魂胆だろう。難しいからごまかしたんだろうけれど、これじゃ、ドラえもんじゃないか。手を隠して、その代わりのサービスのつもりか、下着をちょっとだけよって、あんたもすきねぇー。ばかばかしくなってきたけれど、日本美術界のためだ。もう少し我慢してください。下着のところを引用する。
  「下着がちょっと見えています。下着が表しているのは、ナルシシズムをあらわしています。下着というのは誰に見せるでもなく、たとえ男性とセックスしたとしても、男性は基本的には女性の下着なんてほとんど見ていない。では、何故女性は美しい下着を買って、身につけるかというと、それはナルシシズム以外の何ものでもない。」
 松井冬子はバカ以外の何ものでもないと言いたくなる。賢いつもりで言ったのかもしれないが、これじゃ叶姉妹の記者会見だ。
 松井はナルシズムを論じたいようだから、そこの部分を引用する。
 「自画像の課題として、提出しなければならなかったので、一番、最初に教授が研究会といって、ジャッジを下すんですよ。もともと、ナルシシズムにおいて、こう、自分の愛を注いできたものに対して、他人が割り込んできてジャッジを下す。それはもう、ナルシストにとっては、悲痛、恐怖、強迫観念以外の何ものでもない訳ですね。大変つらかったです。」
 松井がナルシズムをどういう意味で使っているか必ずしも明らかではない。前段では、美しい下着を着るのは、自分で見てうっとりするためだと言い、後段でも、自画像はひとに見せるためではなく、自分が愛を注ぐためだと言っているのだから、ナルシズムを通俗的な自己愛の意味で使っているのだろう、しかし松井の自画像には、ロリコン的な媚びがあるけれど、画家のナルシズムはみつからない。
 自画像にはナルシズムがある。それは鏡を見て描くからである。写真を見て描いても本当の自画像とは言えない。写真は、本当の自分かどうかわからない。自分にそっくりな他人かもしれない。しかし、鏡は違う。鏡に映った自分を自分だと思うのは、自分に似ているからではない。たとえ、仮面を被っても自分だと判る。それは自分の体と鏡像の動きがシンクロしているからだ。直接この目でみることができない顔も運動感覚が鏡像と連動している。たしかに鏡の中の私は私なのだ。だから画家は、写真ではなく鏡を見て自画像を描く。
 そういうわけで、自画像には常にナルシズムがまとわりつく。このナルシズムは自分の美しい姿に惚れ込むというギリシア神話のナルシズムではなく、顔のない自分が顔を持つという自己回復のナルシズムであり、自分の美しさに惚れるわけではない。鏡像に必ずともなう対自即自の弁証法的ナルシズムだ。松井には自惚れのナルシズムがあるが、この存在論的ナルシズムがない。弁証法的ナルシズムとは、視線のナルシズムであり、私が鏡の中の私の目を見ると、鏡の中の私もこちらの私の目を見るということだ。画家は自画像の目を描くとき、鏡の中の目を見て描く。だから、鏡を使った自画像の視線は必ず観者の方を見ている。ところが、松井の自画像はこちらを見ていない。松井は写真を使って自画像を描いたのかもしれない。それなら自分に似ていなければ自画像にならない。しかし、松井にぜんぜん似てない。似ていないところを見れば、想像で描いたのかもしれない。あるいはただデッサンが下手なだけかもしれない。
 ナルシズムもないし、似てもいなければ、自画像とはいえない。松井は、目の下の青い血管が自分の顔のなかで、もっとも絵画的に使える要素だと言っているが、これはいわばアトリビュートであって、自画像ではなく神話画や寓意画の架空の人物のアイデンティティだろう。松井はそのほかにも屋久杉や白髪の象徴的意味を説明しているが、そんなことは自画像が表す(という)性格や内面とは関係のない自分勝手な解説だ。こんなことをするのは自分に似た自画像が描けないからだろう。小学生が夏休みの宿題にお母さんの絵を描いてきて、「おでこの青い筋はお母さんが怒りん坊だからです」と先生に説明しているようなものだ。松井の絵はいつだってごまかしなのだ。
 自画像であろうが肖像画であろうが、その人物にいかほどかの魅力があれば、それはそれでかまわないのだが、松井の自画像は、視線を曖昧にし、口を半開き(?)にした表情はとても正視にたえるものではない。それと、なんどもいうようだが、日本画のような描線の美しさもなく、洋画のようなデッサンの魅力もなく、屋久杉の模様と座布団のような白髪とホッカムリした顔とチラリズムの下着と裸の肩を別々に描いて、それを重ねて貼り付けたように見え、ひどく落ち着かない気持ちになる。
 わたしは松井冬子を批評したいのではない。松井をダシに芸大とNHKを批判しているのだ。芸大の腐敗についてはすでに述べた。それから、この映像は2ちゃんねるによればNHKのETV特集「第192回 8月19日(日)日本人と自画像~東京芸術大学 4800枚の証言~」からアップしたものらしいが、それにしてもNHKは末期的症状だ。ポルノまがいの台本、ディレクターのため口、絵のデタラメな見せ方、低俗番組と言って済まされるものではない。テレビは視聴率を気にしないとよけいに腐敗する。こんな節度も清潔感もない番組が全国に流れていると思うと憂鬱になってくる。
 松井は芸大とNHKという形骸化した権威と結託し、フェミニズム風の図像学で武装して真っ当な美術批評を封殺している。美人画家などとふざけているばあいではない。YouTubeをよく見てください。松井冬子はアカデミズムとジャーナリズムとフェミニズムの三種の神器を授かった美神とでもいうのだろうか。そうではなくブスで、無知で、絵が下手な画家なのではないだろうか。

最新エントリー『松井冬子と上野千鶴子』へ
2007.12.09[Sun] Post 01:55  CO:26  TB:0  -松井冬子  Top▲

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