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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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会田誠の政治学改め文芸学(政治学後編):「村上春樹は私小説を書くべきである」(小谷野敦)

iPadでブログを編集して、上書きしたら、半分消えた。以下、思い出しながら書いたTwitterの下書をコピペしたものだ。あまりよくはおもいだせなかったので、繋がらない箇所もある。

①【会田家の《檄》】今日朝方目を覚まし、iPadで書き終えた 『会田誠の政治学改め文芸学(政治学後編) : 「村上春樹は私小説を書くべきである」(小谷野敦)』 のテニヲハを寝床で直して、上書きしたら半分以上消えてしまった。もう一度書く気力なし。思い出してメモしておく。

②【会田家の《檄》】:《檄》は、今回の修正撤去問題がなければ、《美少女》や《書道教室》と同じように、会田誠の《文字》シリーズの一つとして、これほどの騒ぎにはならなかったと思う。

③【会田家の《檄》】:ところが、《ビデオ作品》の会田誠が安倍首相そっくりだったので、ことがややこしくなった。そのころ世界中の左派勢力が安倍首相は極右政治家だとネガティブ・キャンペーンをしていた。それで《檄》の文科省批判が安倍内閣の反動的な教育改革の批判と受け取られたわけだ。

④【会田家の《檄》】:岡田裕子と会田誠の二人は、《檄》は「政治的なものではない」と言っている。二人は夫婦だが、「会田家」としては、親子三人の家族なのだ。とすれば、《檄》は彼らのいうとおり政治的なものではなく、教育をめぐるスラップスティックな家庭劇なのだ。

⑤【会田家の《檄》】:佐々木と会田の対談『スキャンダルからの足の洗い方』から。
佐々木豊: 「・・・太宰治が「家庭の幸福は諸悪の根源だ」と言った、小市民のモラルを憎んでどんどんいけるのか」
会田誠: 「・・・だんだん尖った表現はやらなくなってくると思います。でもそれは、家庭の幸福とかのためじゃなくて、ぼくの個人的な変化としてですけど。」

⑥【会田家の《檄》】:檄文は決起を促すもの、どちらかと言えば、「尖った表現」である。三島由紀夫の「檄」も自衛隊員に決起を促すものだった。しかし、会田家の《檄》は決起ではない。子供の教育問題でドタバタして、ただ、「文部科学省に物申す」と家族三人で不平不満を述べているだけだ。

⑦【会田家の《檄》】:三島由紀夫は家族を切り捨て、天皇陛下万歳と叫んで自決する。会田家の《檄》は決起を促すのではない。家族が家庭の幸せを願って、息子寅次郎に「檄を飛ばしている」のだ。

⑧【会田家の《檄》】:学校教育に対する家族の矛盾した不平不満を、国家のことでもないのに《檄》と称したところが「ギャグ」である。これが、《檄》はユーモアであって、政治的なものではないと会田さんがいう根拠なのだ。

⑨【会田家の《檄》】:しかし、そうはうまくいかない。檄文は主義主張を訴える文章である。そうであれば、どこの家庭にもある学校教育に対する不平不満であっても、サヨクの常套句をを避けることは出来ない。そこをサヨクは見逃さない。朝日の『若者、ママたち、SNS』のコラムを見よ。

⑩【会田家の《檄》】:会田誠は確信犯ではないかという疑いは残る。それほど劇的だった。しかし、修正撤去要請された二作品は、「ギャグ」であり、政治的なものではなかった。ところが、「安倍右翼政権打倒」の政治的雰囲気の中でリベラルが利用するのに好都合だったのではないか。

⑪【会田家の《檄》】:誤解されたにもかかわらず、会田誠はこの状況を楽しんでいるように見える。寅次郎を先に帰して、居酒屋で一人で飲んでいた父親が、親子でデモに参加している。もちろんこれは「社会を考える」ことなんだろうが。

⑫【会田家の《檄》】:会田さんは、家庭の幸福ではなく、個人的な変化として、だんだん尖った表現をやらなくなるといっている。年をとれば、ポテンツが減少する。「自家製自家用ポルノ」の画家としての出自をまっとうすることは出来なくなる。そこで会田さんの「隠遁癖」がでてくる。

⑬【会田家の《檄》】:《檄》はドタバタしているが、寅次郎くんに檄を飛ばして、家族三人結束して、「家庭の幸せ」だ。

⑭【会田家の《檄》】:《檄》の「会田家」と「新潟の会田家」は重なっている。中学生のときの自分の父親と、中学生寅次郎の父親である自分と重なっている。会田さんは『青春と変態』の次の小説を書きたいと思いながら果たせないでいると嘆いていた。それなら『会田家の人々』を書けばいい。

⑮【会田家の《檄》】:会田誠は『青春と変態』を書くことで、リアルの美少女を終えて、二次元の美少女に転換する切っ掛けにしたと言っている。

⑯【会田家の《檄》】:それと同じように、『会田家の人々』は、「家庭の幸福」から「隠遁生活」への覚悟を決める小説になる。会田誠は佐々木豊に言う。「ある意味でバルチュスのように長生きして、田舎のほうに引っ込んで、地元の美少女でも描きながら、幸せな晩年を過ごしたいとも思っています」と。

スレッド:絵画・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

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2015.10.13[Tue] Post 00:01  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

長谷川祐子 VS 藪前知子 : 《檄》のもう一つの解釈

《檄》も《首相演説》も、会田誠自身が政治的なものではないと言っているにもかかわらず、安倍政権批判だという意見があとをたたない。もちろん、作者が作品解釈の独占権を持っているわけではないのだから、作者の制作意図がどうであれ、観者の解釈だって述べてみる価値はある。それなら、会田誠に、おまえは古い、もう終わっていると宣告された身だけれど、長い間、会田ウォッチをしてきた私の解釈も述べておきたい。もちろんこれは作品のフォーマリスティックな分析ではなく、主題を巡る与太話である。

二つの作品は、会田誠自身をして画家になってよかったと言わしめた作品である。たしかに、《檄》は「文字シリーズ」として、《国際会議で演説する日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》は「ビデオ・アート」として会田誠の傑作といえる。

もちろん、これは本来の絵画作品ではない。それなのに、わたしが《檄》に感動したのは「私小説」としてだった。はじめに頭に浮かんだのは、言うまでもなく、三島由紀夫の『檄』だ。それから、「新潟の会田家」のこと、エッセイの『カレー事件』など、最後に、「佐々木豊のインタビュー」()を思い出した。佐々木豊は10年前にこの《檄》にピッタリのことをインタビューのなかで言っている。そして、会田誠は10年後に、この作品《檄》で佐々木豊の問に答えているということもできる。

以下は第11回“Round About”からの引用だ。エロについて話している(下線太字は安積)。

佐々木:「いい加減にしなさい」とか奥さんは言わない?
会田:妻も美術家で、破廉恥なビデオ作品とかも作っています。
佐々木:もう一代も含め、三人で破廉恥をやることもありそう?
会田:でも息子が両親を嫌って、すごく道徳的な人間になるかもしれない。両親がかなり潔癖な方だったので、ぼくはこうなっちゃったんで。
佐々木:教育者でしたね。厳格な。それに対する反動が…。
会田:すごくあった。自分で言うのもなんですけど、根は上品なのに、頑張って下品にならないといけないという強迫観念があった。
佐々木:ただ、芸術家といえども、社会の中で生きてる。だんだん子供が育って、どこか有名校に入れたいとか、これから奥さんもそういう風に変わらないとも限らない。そうす ると、太宰治が「家庭の幸福は諸悪の根源だ」と言ったように、会田さんも小市民のモラルを憎んで今のままどんどんいけるのかどうか。
会田どうでしょうねえ。周りは「もっと破廉恥な絵を描け」と期待して、それに応えていれば、絵は売れるんでしょうけれど、ぼくはだんだん尖った表現はやらなくなってくると思います。でもそれは、家庭の幸福とかのためじゃなくて、ぼくの個人的な変化としてですけど。


これを読めば、《檄》が政権批判ではないことは分かるだろう。アーティストの家庭のしつけのことを話しているのだ。それにしても、佐々木さんは、エロのことを話していて、いきなり「親子三人で破廉恥をやる」とは大胆なことをいう。

学校教育に対する不平不満は、アーティストの家庭とサラリーマンの家庭ではそんなに違いはないだろう。あるとすれば家庭教育の方だけれど、三島由紀夫が言ったように、銀行員のように規則正しく小説を書くことだってできるのだ。

芸術家論はさておいて、《檄》が「子どもにふさわしくない」のかどうか問題になるのは、佐々木豊が予想したように、「三人で破廉恥をやっている」のではないかという疑いがあるからだ。

破廉恥といってもエロとはかぎらない。美術も権力と結びつけば破廉恥になる。会田誠は、自分には金と権力がないとかねがね言っている。しかし、すでにそうは言えないだけの権力の持主ではないのか。《檄》が「三人で破廉恥をやっている」と感じるとしたら、それは美術権力の介入があるからだ。

会田誠はこれらの作品が政治を扱ったものではないと主張している。しかし、会田誠の声明文の正論ぶりを読むと疑問が湧いてくる。美術評論家たちもこぞって長谷川祐子の背後にいる政治権力の存在を仄めかしている。しかし、長谷川祐子はそんな「破廉恥なこと」を言っているのだろうか。これはもともと公共の美術館の夏休みの子供のための企画なのだろう。「子どもに難しい」とか「過激である」ということは、至極まっとうな感覚ではないのか。長谷川祐子が「過激だ」と感じて「都」に相談したのは、「表現の自由」の問題や企画の権限の問題があるからだ。もちろん、そこで都の側から修正撤去を要請された可能性はある。

抗議電話が一回だけだということを問題にしているが、なにも長谷川祐子は抗議電話があったから問題だと思ったわけではない。電話の前に、自分の目で見て疑問に思ったのだ。墨で書いた文字が、会田誠の意図と違って、長谷川祐子は「生の感情の表出」と受け取ったのだ。もしそう受け取られるとすれば、その文字が伝えるメッセージは子どもにとってだけではなく、大人にとっても危険なものとなるだろう。

長谷川祐子は都の意向に配慮したかもしれないが、それより前に、公立の現代美術館のキュレーターとしての良心にしたがって判断したのだ。だから、修正を拒否されたとき、撤去すべきだと強く要求できたのだ。長谷川祐子はめずらしく気骨のあるキュレーターだが、なにぶん《檄》を見たのが内覧会の三日前だというのだ。既に遅し。都をもちだしたことで、美術権力は政治権力に変わってしまったのだ。

話はここで終わらない。会田家の三人は『子供展』の担当学芸員である藪前知子氏とチェ・キョンファ氏と去年からこまめに連絡を取り合い、準備を進めてきたと会田誠はいう。長谷川祐子の知らないところで、実は別の二つの美術権力のあいだで密かに談合が行われていたのだ。長谷川祐子の要求が権力の横暴で、自分たちの話し合いは民主主義の理想と言ってしまうところが、権力がときに猥褻になる理由なのだ。

藪前知子の『子供展』の企画書かと思われるポストモダン風の文章を見かけたのだが、検索しても出てこない。藪前知子がこんな重要な役回りをしているとは思わなかったのでうかつだった。ちなみに、椹木野衣は藪前知子が権力の介入に抗してよく戦っていると褒めている。

こうやって、公立の文化施設がサヨクに乗っ取られていくのだ。その腐敗した組織と戦っている橋下市長の文化行政の支持を公言しているアーティストは村上隆一人である。村上隆をバッシングしているのはオタクたちではなく、おそらく、サヨクの美術業界人だと思われる。

つづく

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2015.08.10[Mon] Post 14:08  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠の《檄》と三島由紀夫の《檄》

会田家の《檄》は三島由紀夫の《檄》のパロディだろうか。もちろん会田誠自身が三島を愛読し、影響を受けたと言っているのだから、「文字」に鋭敏な感覚を持つ会田誠が《檄》の制作中に三島由起夫のことが頭になかったはずはない。

とは言っても、会田家は檄を飛ばすわけでも、決起をうながすわけでもない。子どもの教育の問題で、会田家の三人が文科省にあれこれ抗議をしているのだが、檄文の最後に、「アーチストだから社会常識がない。真面目に子育てにやってないと言(以上)」と愚痴っている。どこが、檄なのか一向にわからない。それに対して、三島由起夫の方は家庭を切り捨て、男たちに決起を呼びかけている。

それなら、会田誠は三島由紀夫から何も学ばなかったのだろうか。そんなことはない。本当のことを言うと、「檄」に対応するのは「デモ」なのだ。三島由紀夫の「檄」の背後には昭和44年10月21日の「国際反戦デー」の暴徒化したデモがある。鎮圧のための自衛隊の治安出動がなかったために永遠に「憲法改正」のチャンスを失うということがあった。また、会田家の「檄」は文部科学省に物申しているのだから、《檄》自身が三人のデモと言えなくはない。会田誠には他にも《一人デモマシーン》や《ユア・プロナンシエイション・イズ・ロング》など、ジョークまがいの作品はあるけれど、政治的な目的を実現するための示威行為としてのデモ・パフォーマンスはない。

しかし、《檄》が、会田誠自身がいうように、「子どもの問題」と考えるなら、三島の「国際反戦デー」のデモに対応するデモが、会田家の「檄」にもある。それが「子どもを守れ」デモだ。「子どもを守れ」はおそらく「九条守れ」から派生したのだろうが、「反核」と「反戦」を兼ねて、便利な言葉である。

「九条守れ」はサヨク色が強いので、ソフトなイメージの「子どもを守れ」が逆に過激派には好都合だった。原発事故が起こると、狂ったように「子どもを守れ」キャンペーンが始まった。最初は二本松市の山下俊一長崎大教授の講演会だった。袈裟を着た男が山下教授に、「安全だというなら自分の子どもを住まわせろ」と言っていた。いろいろ怪しげな大学教師、ジャーナリスト、開業医が現れて、子どもが最大の犠牲者だと言っていたけれど、「子どもを守れ」デモの最大のスターは山本太郎だった。そして、つい先日、朝日新聞デジタルが「若者、ママたち、SNS」の三題噺でコラムを書いていた。

東京都現代美術館のチーフキュレーターの長谷川祐子が「檄」という文字が過激だからという理由で、修正を要求したことに、批判する向きもあるが、その批判する美術評論家たちも過激とは言わないまでも、《檄》を政治的メッセージと受け取っていることにかんしては長谷川祐子と同罪といわねばならない。しかし、政治的に過激なのは、会田の《檄》ではなく、過激派が背後にいる「子どもを守れデモ」の方だ。どちらにしろ、サヨクもウヨクも《檄》をポリティカル・プロテストとして理解していることにはかわりない。

実はこの拙文は数日前に前半部を書いたのだが、どうしても三島由紀夫の『檄とデモと憲法改正』の問題を会田家の場合と比較したかったので、というのも会田の《檄》が政治的なものではなく、「ギャグ」だということを示すためにはデモとの比較が必要だったのだ。

正確にいえば、「ギャグ」ではなく、スラップスティック・コメディなのだが、会田にはスラップスティック・コメディの才能がある。ドタバタといえば貶したように思えるだろうが、あのカフカの『変身』だってスラップスティック・コメディの要素があると言われている。そう考えれば、エッセイの『カレー事件』も、小説の『青春と変態』もスラップスティック・コメディといえる。

ひとまずアップする。まごまごしていると、会田誠にみんな先に言われてしまう。ツィッターと合わせて読んで欲しい。

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2015.08.02[Sun] Post 00:56  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

会田誠のための記号論入門[1]:《文字と絵画》

会田誠のストーカーのようになってきたけれど、決してそうではありません。

初めは「画家のための記号論」を書くつもりだったが、それでは誰も読んでくれないだろうから、いっそのこと画家の代表として会田誠の名前を借りることにした。幸いというか、会田は現在の日本の美術家の中でもっとも文字と絵画の違いに自覚的な絵描きである。

会田には文字を使った主な作品が四つある。《美少女》のパフォーマンス、《桑田》のレタリング、《1+1=2》の抽象画、そして《書道教室》の看板だ。あとはイタズラ書きやポスターや文章などのための文字で、これほど《文字と絵画》の問題を探究した画家は会田の他にはクレーぐらいしかいないことは以前にも書いた。(注1)

都合のいいことに、会田には《美少女の絵》と《美少女の文字》の両方の作品がある。《犬》シリーズの美少女と自慰パフォーマンスの《美少女》だ。絵の方は、中学生のときに大場久美子の水着姿を裸にして自家製ポルノを描いたのが始まりだ。会田の絵画の原点だと言う。上手く描ければ一度ならず二度三度と使えたそうだ。文字の方は「美少女」だけではなく、おそらく「大場久美子」の名前や「美少女」の文字を見ながら自慰を試みたこともあるだろう。「名前」はその人を思い浮かべるとはかぎらないし、「美少女」の文字を見ても意味を志向するだけで、絵のように具体的なイメージを見るわけではない。ただ文字から注意を逸らして自由な想像・連想をするだけだ。絵の美少女も文字の美少女も自慰という会田にとっては究極の判定基準があったわけだから、「文字」と「絵」の違いについては十分に思索を重ねたに違いない。

文字も絵画も記号である。文字はデジタル記号で絵画はアナログ記号だと俗に言う。これは間違いではない。しかし、「絵画の記号論」というと話がおかしくなる。もともと言語学から生まれた記号論を絵画に適用するには無理がある。世にある「絵画の記号論」と称するものはたいていは強引な辻褄合わせなので、絵をちゃんと見る人にはひどく難解なシロモノになる。

必要なのは「記号の現象学」なのだ。普通の人は文字(言葉)が記号であることは理解しても、絵が記号かどうかはなかなか確信が持てない。文字と絵画の現象の仕方が異なるのはだれでも知っている。しかし、いざそれが何か問われると、知っていると思っていたことが実は何も知らないことに気付く。

記号を定義して理論を構築してもかえって迷路に嵌り込む。まず、美少女の絵や文字がどういう風に現象するか見てみよう。《犬》シリーズの美少女五人はそれぞれ個性のある美少女に見える。《月》の美少女は眼窩が凹んで白人とのハーフのように見える。《野分》の少女が一番わたしの好みに合う。風に向かって吠え、向こうを見る白目が美しい。最後の《陰影礼賛》の少女は田舎娘のようで美少女の基準に合わないような気がするが、会田の好みなのかもしれない。

それに対して文字の《美少女》は会田も言っているように概念を示すので、大きい字でも小さい字でも、あるいは上手な字でも下手な字でも概念が変わることはない。もちろん言葉の意味から注意をそらして誰の筆跡かとか、自分が好きな美少女を想像したりすれば違った意味が表れるだろう。そのときは文字を見ているのではなく、文字から意識をそらし、周辺部に意識を向けているのだ。

以上のことは、図像や文字に意識を向けている客観的態度なのだが、上に述べた「注意をそらす」とか、「周辺部に意識を向ける」などは、言わば意識を客観的態度から主観的態度に転換していると言える。これが「現象学的還元」というものだが、あまり深入りすると返って分からなくなる。事は大雑把が一番なのだ。

図像がどう見えているか文字はどう見えているか、絵と文字を比較してみよう。するとすぐに分かることは、図像を見たり、文字を読んだりすることの根底に知覚があるということだ。絵はキャンバス上の絵具を見ているし、文字は紙の上のインクのシミを見ている。基層にある知覚は絵と文字は同じだが、その知覚を超えた意識のあり方(志向性)が図像(絵)と文字(言葉)では異なっている。どう違っているか会田はもちろんよく知っている。ただ、言葉にできるかどうかは判らない。

これまでブログで繰り返し書いてきたように絵を見ることは「知覚に基づいて想像する」ことだ。自由な想像とは異なる「知覚と想像」が融合した不思議な意識が絵を見ることなのだ。

つづく

注1:キュビスムの文字は平面性の問題だ。

2013.12.13[Fri] Post 22:51  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

《上野パンタロン日記》 : 会田誠の失禁パフォーマンス

会田誠がフェミニストと論争をした。男性器は健全な感じがするけれど、女性器は不健全な感じがするという会田の発言が発端だ。以下、会田の弁解を2ちゃんねるから抜き書きしたものだが、孫引きなので正確かどうかはわからない。

『たとえば、男性器を神輿に担いであがめるのは"健全"な感じがする。しかし女性器を神輿に担いであがめるのは”不健全"な感じがする。』

『自分は性器の判断価値についてなど語っていない。』

『自分は女性を差別する意味で話をしていたのではない。』『誤解されたくない。』

『そちらの”過剰反応”だ。』

『悲しい気持ちになった』『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』

『自分は「○○イスト」の教条的な言語の使用法、思想と断固対決するために芸術家をやっている。』


どうだろう。何かちょっと引っかかるところがある。そもそも会田には議論する気がない。ただ、自分の感じていることを話している。会田が書いたものやYoutubeを見ても、会田はフェミニストのように論争に勝つための議論はしていない。表現は作品にまかせる。無防備なのだ。『悲しい気持ちになった』という表現は確かにこのフェミニストが言うように弁論術ではある。フェミニストに言ってはいけないセリフだろう。

会田は悲しんだ。それは『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』という苦し紛れとしか思えない言葉からも分かる。フェミニストには、「著名な現代美術家」と「素人同然の小娘」が同じ立ち位置であるはずがないと一蹴されてしまう。しかし、それは「誤解」だ。 会田はただ女性の立場で発言していると言っている。会田はゲイではないが、多分に女性化愛好症的なところがある。あるいは、そう演じているのかもしれない。

卒業式の前日に頭をオカッパにして下半身を裸で男根を白い布で巻いて記念写真を撮っている。結婚式では自分もウェディングドレスを着ている。それどころか『青春と変態』では湯山さんや久保さんの替りに自分が藤田くんに抱かれる想像をしながらオナニーをすると書いている。もちろんこういうことは精神分析を知っている会田のことだ、あまり真っ正直に受けとらない方がよいが、《犬》シリーズの四肢の切断はペニスの切断のメタファーだという事は言える。この四肢の切断を女性差別的な性的暴力と受けとる人がいるけれど、四肢を切断された少女を見て性的に興奮するのだろうか。日本人なら、たぶん「可哀想」と「可愛い」の対立する感情に引き裂かれるだろう。

それより自己女性化愛好症で重要なのは中学生まで続いたという寝小便のことだ。会田には《上野パンタロン日記》というビデオ作品がある。上野公園で修学旅行の中学生の団体の前で知的障害者を演じて「失禁」するというものだ。 ここで会田は重要な事を曖昧にしている。夜尿症が治った時期をあるときは中2と言いあるときは中3 と言っていることだ。わざわざ上野公園まで行って(もちろん芸大の隣すぐ側ということもあるが)、修学旅行中の中学生の前で失禁のパフォーマンスをしたのは何故か。中学生で寝小便が問題になるのは、宿泊をともなう修学旅行があるからだ。当然治った時期は正確に憶えているはずだ。

会田は修学旅行については触れていない(と思う)。そのかわりというか、カタログの解説で「今でも失禁がもたらす深い“子宮内的法悦”をよく憶えています。」と言っている。会田はこの子宮の記憶を三島由紀夫の産湯の記憶に重ねているのかもしれないが、寝小便の最中の快感だけではなく目覚めた時の冷たい不快な 感覚を憶えていないはずはない。

寝小便と立小便は対立するもので、寝小便はおちんちんがなくとも出来るけれれど、立小便はおちんちんがなければ遠くに飛ばすことができない男の子のあかしだ。会田にとって寝小便(失禁)がもたらす「子宮内的法悦」とは胎児退行ではなく女性になるということであり、失禁はいわば破水なのだ。

以上はまじめに言っているわけではなく、会田が寝小便を子宮内的法悦と言ったのを真似しているだけなのだが、おそらく会田がそのことで言いたかったのは、おちんちんが必要のない失禁のパフォーマンスによって、自分にはペニスがないことをあらためて確認して、そのことで性的快感を感じるのだろう。それを会田は「子宮内的法悦」と言い、女性器は不健全だと言った理由ではないだろうか。

精神分析というのはほとんどがトートロジーなので、何も言ったことにはならないのだけれど、これで会田がフェミニストに『悲しい気持ちになった』『僕は君たちと同じ立場、立ち位置で発言をしている。』と言った意味が、屁理屈ではあるが少しは理解できるのではないか。

《犬》シリーズの美少女は会田誠の自画像である。


スレッド:art・芸術・美術 / ジャンル:学問・文化・芸術

2013.12.04[Wed] Post 18:23  CO:0  TB:0  -会田誠  Top▲

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