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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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マネ論④ 『ボストン美術館展』のマネ

マネはもちろん凡庸な画家ではない。

三菱一号館美術館の『マネとモダン・パリ展』には、《扇を持つ女》の広角レンズの遠近法や、《街の歌い手》の衣装の布地や、《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》の白と黒など、面白い作品もあったけれど、感動するというにはどこか物足りなさが残った。上手だけれど、モダニズムの絵画としてはごく普通に見えてしまうのだ。たぶん、モダニズムの祖といわれているぐらいだから、マネの新しさは現代絵画では絵画が絵画であるための常識みたいなものになっているのだ。

もちろん写真の影響がある。マネの目はカメラのレンズになって対象を見る。人物たちのこちらを振り向いたような視線はスナップ写真のカメラ目線だろうし、明るいところは飛んで暗いところは潰れているのは硬調のプリントだし、日常的な背景の中のヌードは、現代の芸術写真の紋切り型になっている。

今回、いちばん感動したマネの作品は、『マネとモダン・パリ展』ではなく、『ボストン美術館』で見た《ヴィクトリーヌ・ムーラン》だった。会場に入った正面に《ヴィクトリーヌ・ムーラン》とベラスケスの《ルイス・デ・ゴンゴラ・イ・アルゴテ》の肖像画が並べてあった。その前を通りすぎて、はじめに、ティントレット、ヴァン・ダイク、レンブラントの肖像画を見た。それからもどって、正面のマネとベラスケスの肖像画をみた。

二枚の肖像画の視線が私を捉えた。二人は同じように顔をやや左側を向けて、観者の方を見ている。男は不機嫌そうにこちらをにらみ、女の方も打ち解けた視線ではなく、防御的な放心したような視線を観者にむけている。しかし、われわれが見るのはそんなモデルの内面的なものではなく、顔の明暗と筆触の面の作り方なのだ。レンブラントはマネのように大胆であり、マネはレンブラントのように繊細なのだ。マネの顔は平面的に思えるが、よく見れば、光の部分と影の部分の境界線がかすれたような筆触によって巧みにモデリングがされている。

ベラスケスは近くから見ると絵画であり、遠くから見ると写真に見える。『プラド美術館展』の記事で、「ヴェラスケスは写真のように退屈である」と書いた。《エル・プリモ》が持っている本のページは細かい文字がぎっしりと印刷されているように見えるけれど、近づいてみると、ただ灰色の絵具が薄く塗ってあるだけだ。今回の『マネ展』に展示されている《エミール・ゾラ》が持っている本のページも灰色の絵具がベラスケスより大胆に濃淡をつけて塗られている。たぶん、図像が印刷されているのだろう。ベラスケスとマネの差はこの本のページの描き方の差なのだ。

フランス・ハリスの《男の肖像》を見たはずだけれど注意を引かなかった。ところが、いまカタログで《男の肖像》をみたら、なんと、まるでマネのまねをしたような大胆でストロークの長い素早い筆さばきなのだ。カタログの解説から引用する。

ハルスの作品は19世紀後半から20世紀前半にかけてのモダニズム芸術の運動とのあいだに、いくつかの共通点が認められることを鑑みれば、近年になってこの画家が美術の歩みを予告した存在として見なされていることは何らの不思議ではない。(『ボストン美術館展』カタログp44)


たしかにそうだろう。当時も高い評価を得ていたという。しかし、わたしにはまったくつまらない肖像画にしか見えない。このハルスのつまらなさは、かっては斬新であったものが陳腐になった時のつまらなさだ。これと同じ陳腐さが、私が今現在マネの絵に感じる不満なのである。

もちろんわたしの目が節穴だという可能性のほうが大きいのだけれど。






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2010.08.23[Mon] Post 01:53  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

マネ論③ ミシェル・フーコーの『マネの絵画』

《フォリー・ベルジェールのバー》の後姿のメイドは鏡像なのか、それとも別のメイドなのか、絵を見ただけでは判らない。しかし、美術史家には鏡像だと言うことが当たり前のようになっている。何年か前に『コートールド・コレクション展』でこの絵を見たときは、後姿のメイドが鏡像なのか、絵画なのか、それとも別人のメイドなのか判らない曖昧な感覚だけが残ったことを憶えている。もう一度、『芸術新潮5月号』の写真を見ながら分析してみよう。

まず、鏡を括弧に入れて、絵を見てみよう。後姿のメイドは、正面のメイドの後姿のようにように見える。それというのも、視線の角度が違うけれど、髪や衣服が同じだから、同じ人物の正面姿と後姿に見える。そうなれば、後姿は鏡像ということになる。しかし、どこにも鏡らしきものはない。しかも、メイドの後姿以外は実像と鏡像(虚像)の対応関係を示す事物は描かれていない。それでもメイドの後姿が鏡像にみえるのは、類似が同一性の感覚を生むからだ。

このことは、マグリットの《複製禁止》という作品を見れば分かる。《複製禁止》は鏡を見ている男の後姿が描かれている。ところが、鏡に写っている男も後姿なのだ。ということは、男が見ているのは鏡ではなく男の絵(写真)ということになる。それでも鏡に見えるのは、同じ図像がコッピーされているからだ。でも、すぐにおかしいと気づく。鏡の光学に反しているからだ。暖炉の上に置いてある本が「鏡」に映っているように見えるが、これはもちろん鏡ではなく絵だ。ただ、鏡像のように、本の反転した図が描かれているだけだ。(注1)

《複製禁止》の額縁にはめられた後姿の男は、光学理論から見て鏡(像)ではなく、絵(写真)である。それに対して、《フォリー・ベルジェールのバー》の、一見して、鏡像のように見える後姿のメイドはどうだろう。どこかチグハグな感じがする。さいしょに違和感を感じるのは、メイドが話している男の位置だ。後姿のメイドが正面姿のメイドの鏡像ならば、その近くに立ってメイドに話しかけている男の後姿の実像が、描かれていなければならないのに、そこには誰もいない。

もちろん、後姿のメイドが鏡像だとすれば、二人のメイドの間に斜めに鏡があるはずだが、鏡らしきものはない。それならば、マグリットの《複製禁止》のように後姿のメイドは鏡像ではなく図像(絵)ということになる。しかし、無理やり、メイドの背後に見える桟敷席は大きな鏡に映っているのだと思えば、そういう風に見えなくもない。観者の視線は宙に浮いたまま漂っている。

ミシェル・フーコーが『マネの絵画』で《フォリー・ベルジェールのバー》を「鑑賞者の位置」という視点から分析している。彼はメイドの背後に鏡があるという前提から始める。フーコーはメイドの尻の高さに描かれている金色の帯が鏡の縁だという。鏡はメイドの背後のほとんどを占めており、しかも、キャンバス面と平行で、観者は中央のメイドの正面に立ったいる。

そうであるならば、メイドの後姿は、メイドの後ろに映ってみえるはずなのに、実際にはずっと右側にずれて映っている。しかも、酒瓶や果物の実像と鏡像の対応関係がないので、それがすぐには鏡像だとは判らない。後姿が右のほうに見えるためには、画家の視点は正面ではなく、右の方にズレていなければならないとフーコーは言う。しかし、画家(鑑賞者)の視線はそこにはない。

また、画家の視点を移動させないで右のほうに鏡像が見えるためには、鏡を斜めにすればよいのだが、鏡はカウンターと平行である。したがって、鏡像のメイドにが捩れていることになる。また、鏡に映っている男はメイドのすぐ近くにいるのだから、実像の男が正面のメイドの前に描かれていなければならないが、男はそこにいない。また、鏡に映っている男はメイドを見下ろしているけれど、正面のメイドを見る視線は見下ろしてはいない等々。

フーコーは鏡の光学と遠近法の視点に基づいて「鑑賞者の位置」を分析する。そして以下の三つの両立不可能性を見つける。

【1】画家はここにいると同時にあちらにいなければならない。
【2】ここに誰かがおり、まただれもいないのでなければならない。
【3】見下ろす視線と見上げる視線がある。
われわれが今見ているような光景をみるためにどこにいればよいのか知ることができない、というわれわれが直面している三重の不可能性、そしていうなれば、鑑賞者が占めるべき安定した確固たる場所が排除されていること。もちろんそれが、この絵の根本的な特徴のひとつなのです。(『マネの絵画』阿部崇訳)


マネの《フォリー・ベルジェールのバー》によって、ひとつの視点から見る遠近法的な空間のイリュージョンが破綻し、〈オブジェとしてのタブロー〉、〈オブジェとしての絵画〉が発見されたと、フーコーは言う。結局、フーコーはマネをグリーンバーグ流のモダニズムの始まりだと言っていることになる。

フーコーは鏡を前提にして、《フォリー・ベルジェールのバー》の視線や空間を分析する。そして、〈オブジェとしての絵画〉を発見する。もういちど作品を見ることから初めて見よう。

つづく









複製禁止 マグリット
2010.06.29[Tue] Post 01:09  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

マネ論② NHK日曜美術館 『マネは見た 都市生活者の秘密』 

最近、日曜美術館をときどき見ている。ネタの宝庫だからだ。

今週の特集はマネだというので、ちょっと覗いてみた。というのも、『マネとモダン・パリ』(三菱一号館美術館)を見て、マネがちっとも面白くなかったからだ。

「芸術新潮5月号『マネ特集号』」の記事で約束したように「素直にマネを見た」。確かに、その大胆な筆触による繊細でモデリングのない平面的な描写は、当時のアカデミーと比べれば、一種の「アヴァンギャルド」だと言えなくはないのだろうが、今から見れば私にはごく普通の具象画にしか見えない。

《草上の昼食》や《オランピア》のヌードも当時としてはスキャンダラスだったろうが、今では普通の裸体画である。番組の出演者三浦篤はパリという都会生活の背景を強調するが、「都会」とは写真の図像学によって繰り返し論じられたキーワードであり、事実マネの絵画について論じたものは、ほとんどが写真の図像学(表象文化論)と重なっている。服を着た男と裸の女を絡ませるヌード写真はだれもが飽き飽きしている。

番組の後半に《フォリー・ベルジェールのバー》の有名なバーメイドと鏡像のズレの分析があり、フランス人の画家が、マネが絵を描いているときの視線と、休憩中にモデルと談笑しているときの視線がひとつになっていると解説していた。多視点の絵画といえばセザンヌだが、彼の静物画は、多視点が空間の歪みを生み、図像客体の知覚と図像主題の想像が弁証法的戯れとなって、絵画的イリュージョンを豊かにしている。

そういう意味では《フォリー・ベルジェールのバー》はセザンヌのような多視点ではないし、空間の歪みもない。それは一つ視点が鏡によって擬似的に二つの視点に分離したように見えるだけで、鏡は視点そのものを二重化することはない。鏡はリアルな空間にヴァーチャルな虚の空間をはめ込むだけなのだ。

そもそもこの絵の中には鏡は描かれていない。鏡の縁はない。それなのに何故バーメイドの背後に鏡があるとおもうのだろう。もちろんバー・カウンターの背後に鏡があるのがキャバレーのインテリアということもあるけれど、それより大抵の日本人は解説書を読んで、この奇妙なマネの「傑作」の秘密を知ったのだ。しかし、なんの知識もなく、この絵を見たら、こちらを見ているバーメイドの後ろ姿が鏡に写っているようには見えない。カウンターの中に別のお仕着せを着たバーメイドが背中を見せて客と話しているようにも見える。もしこれが鏡像なら、バーメイドとバーメイドの間に鏡が斜めに置かれていなければならないが、そんな斜めの鏡はないし、斜めでなくても、そもそも何処にも鏡は見えないのだ。

いずれにしろ、鏡は後ろの壁に大理石のカウンターに平行にかつ垂直に設置されているということなのだが、鏡の縁は見えないし、鏡のこちら側にあるものが鏡の向こう側にあるものと鏡像の関係にあるようにも見えない。メイドの背後の見える光景が鏡に写った鏡像だと言われなければ、ただちょっと遠近法(例えば後ろ姿のメイドと男の距離など)がチグハグな感じのする絵というだけではないのか。

絵画としてはひとまずこれ以上付け加えることはない。それにしても依然としてマネの奇妙さは残る。なぜこれほどまでに批評家や美術史家はマネに関心を持つのか。次回は、彼らがいったい何を論じているのか考えてみたい。

つづく 



2010.06.15[Tue] Post 21:36  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

マネ論① 芸術新潮5月号「マネ特集号」

 『ふしぎなマネ』というタイトルで三浦篤という美術史家がマネについて書いている。なんの役にもたたなかった。

マネがモダニズムの父だということは、たとえばアングルとくらべればすぐにわかる。しかし、その平面性や筆触分割やモデルの日常性は、私にはむしろ退屈なものに感じる。これまでマネの作品は幾つも見ているが感動したことがあまりない。いつも、ああ、これがあの有名なマネの作品かという感想で終わってしまう。たぶん、それはわたしの鑑賞力のせいだろうとおもう。それにしても、美術史は絵画を見るのに何の役にも立たないとあらためて思った。

そもそも、この芸術新潮と言う雑誌はどんな雑誌なのか。木下直之が男性裸体彫刻について『股間若衆』という文章を書いているけれど、猥褻の変遷みたいなことばかりでちっとも面白くない。プロならば、記号論など駆使して表象文化論の芸でも展開してほしいものだ。

1400円は高かった。ともかく三菱美術館の『マネとモダン・パリ』へ行って素直にマネの作品を見てきます。
2010.05.28[Fri] Post 01:39  CO:0  TB:0  -マネ  Top▲

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