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もとは美術展評のブログ 絵画と映画と小説と、そして哲学を少々

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茂木健一郎

「養老孟司の脳タリン」からつづく

 というわけで、茂木のクオリアを批判しようと思ったのだが、ネットの世界では、すでに茂木がトンデモだということは常識になっているらしく、論点もでつくした感じで、いまさら、批判してもしょうがない気がする。
 ところが、このクオリアに騙される人が結構いる。茂木はこの疑似科学を人に信用させるために「アハ体験」という小道具を利用する。少しずつ変化するものは、気付きにくいのはあたりまえで、気付きにくいけれど、あとで教えられると、ビックリするほど大きな変化に見える、そんなトリックを認知科学と称して、自分があたかもクオリアの問題を解決できるかのごとく思いこませる。これって、おじいさんおばあさんを集めてやる催眠商法じゃないか。
 茂木の「クオリア・マニフェスト」は、怪しい会社の目論見書みたいで面白い。このあと出資を募りそうだ。
 茂木が意味の問題は情報理論でも自然科学でも理解できない指向性の問題だと言ってるのは正しい。しかし、心は物理的に説明できないといっているのに、いきなり、クオリアとニューロンの時空的発火パターンの間の相互関係の解明こそ心脳問題の解決だと宣言する。この人よっぽど宣言が好きなようだけれど、自然科学者としての問題設定が出来ていない。観察測定できるファクターがなければ、仮説を立て検証することができないではないか。ただ、あれでもない、これでもないと否定的な定義を繰り返すだけで、だからといって、現象学的還元をして、意味の志向作用を記述するわけでもない。
 もともと心身問題とは、意志や自由の問題で、思惟と延長という別の属性を持つ二つの実体の相互関係の問題だったのだ。我々は物体であるはずの身体を自分の意志通りに動かすことができる。しかし、目の前のリンゴは念力で動かすことは出来ない。精神と物体という別の実体がどうやって関係することができるのかということだ。これに関してはいろいろ哲学的議論があって、そのうちに、心理学や生理学という心と身体の両方に関わる学問が発達してきた。そして関心が自由意志の問題から認識などもっと広い精神活動の問題に移り、そして心身問題は心脳問題に変わったのだ。
 かって脳(松果腺)が精神と物質が連絡する場所だという考えがあったが、それは何の根拠もない話で、実際に心脳問題が科学的なテーマになったのは、大脳局在説からである。知覚や運動や言語機能に疾患がある人が死んだあと、脳を解剖すると、同じ疾患のある人は同じ脳の部位に腫瘍や損傷があることが発見された。そして、そのあと、腫瘍ばかりではなく、銃創などによる症例のデータが増えてくる。さらに、CTスキャンによる脳の断面像や微小電極法によるニューロン発火の観察によって、死体だけではなく、生きた患者の観察や動物実験が可能になり、さらにMRIやPETによる脳の解析が進み、大脳局在論はより精緻になった。
 それに伴って、心の方も言語や運動の機能ばかりではなく、より広い認知領域が研究されるようになり、脳機能の地図も細かくなってきたが、だからといって、心を物理的過程で説明出来るようになったかというと、そんなことは全然ないのであって、心身問題はデカルト以来の心身平行論からなにも変わっていないのだ。ただ、錯視や記憶などの複雑で面白い心の現象が明らかになり、脳のほうもそれに対応して細かく観察されるようになり、あたかも心と脳が物理的因果関係で繋がっているような誤解が生まれたのだ。
 意識を物理的過程で説明できないのは、まだ研究が進んでいないからではなく、原理的に出来ないのだ。脳の研究が精緻なものになって、心と脳の対応関係が解ってきたとしても、それはあくまで心脳平行論であって、「赤の赤さ」を知るには赤い色を見るほかない。
 意味とは意識の志向性であって、物理的過程ではない。物理的過程でないものを、物理的過程で説明することはできない。赤は波長 630-760nm近辺の光の色だということは一応はいえる。しかし、これは赤のクオリアを説明理解したことにはならないし、物理学上も主観的な感覚である色を物理的なデータに還元しても無意味である。たとえば、赤方偏移は物理的には波長が長くなるということであって赤という色とは本質的に関係がない。プリズムの光の屈折も同じように波長の問題で色とは関係がない。そういうわけで、クオリアは自然科学的に見れば無意味な現象といえるのだ。
 だからといって、クオリアがナンセンスというわけではない。心理学・生理学のレベルでは、色は観察可能な意味のある現象である。残像も錯覚もある。もちろんこれは原因結果の物理学のレベルではなく、刺激反応の生理学のレベルの話である。だから、光の波長の違いがどういう生理学的メカニズムによって色として感じるのか研究することは出来る。光の波長が錐体で電気信号に変換され、神経を伝わって、脳に至り、ニューロンの発火パターンになる(らしい)。その間もちろんいろんな酵素も作用するだろう。しかし、これは、すでに述べたように並行論であって、クオリアそのものの理解ではもちろんない。
 ところが茂木は奇妙なことをいう。「赤の赤さ」は光の波長で説明することはできないが、ニューロンの発火パターンで解明できるというのだ。そんなバカなことはない。どこまで行ったって心身並行論は心身並行論だ。たぶん、茂木はクオリアを理解していないのではないか。茂木は、赤のクオリアをニュートンのスペクトルの赤の赤さではなく、ゲーテがニュートンの光学に反対して持ち出したさまざまな色彩現象のことをクオリアと考えていたのではないか。補色とか残像とか、あるいは赤は情熱を表すといったような色の象徴的意味を含めたゲーテの「色相環」のことだ。もちろんこれもクオリアであることはクオリアなのだが、こういった拡張されたクオリア現象はもちろんダイレクトには光の波長では説明できない。たとえば、緑の残像で赤が見えるとき、波長630-760nmの光が目に入ってきたわけではないし、赤を想像しているときだってそうだ。あるいは緑の平面を見ながら赤を想像するコトも出来る。こういったことをクオリアというならば、確かに茂木のいうとおり「赤の赤さ」は光の波長で説明できないけれど、脳のニューロンの発火パターンなら説明出来るかもしれない。といっても、それはただ色彩現象と脳の対応が細かくなったというだけで、おなじように心身並行論であることには変わりない。知覚の赤と、残像の赤と、想像の赤を理解するには、それぞれの赤をそれぞれの意識の対象として記述しなければならない。
 茂木は、色彩現象をニュートンのスペクトルではなく、ゲーテの色相環で考えたから、光の波長で説明できないものが、ニューロンの発火パターンで説明できると主張するのだが、これは、ただ、赤と緑は違う色だということ、赤は赤く緑は緑に見みえるという主観的な感覚(基礎的な色のクオリア)の問題を、知覚した赤と残像の赤と想像の赤との違い、あるいは、赤は暖かく青は冷たく感じる(拡張されたクオリア)といった問題にすり替えているだけなのだ。
 もちろん錯視や想像や記憶の問題をニューロンの発火パターンで説明しようということは、自然科学的に無意味なことではない。それは色を光の波長で説明することとが無意味でなかったことと同様である。しかし、どちらもクオリアの問題を解決することはできない。同じ波長の光が目に入っているからといって、わたしの見ている赤と他人が見ている赤が同じ赤なのかどうか判らないことと同じように、発火パターンが一致したからといって同じ赤をみている証拠にならないのだ。
 茂木健一郎の詐欺性は、クオリアの哲学上の問題と自然科学上の問題を、(たぶん意図的にだと思うが)曖昧にしているだけではなく、いまのところ仮説実験観察に基づく検証可能性がない明確ではないニューロンの発火パターンという心身平行論的現象を持ち出して、無知な人々を騙していることだ。
 ちょっと言うのが恥ずかしいけれど、じつは、この文を書いているとき、どういう具合に終わらせようか分からなくて、茂木健一郎・他著「ペンローズの『量子脳』理論」を読んだ。宇宙論というのがドンデモの巣窟であることは近頃常識になってきたが、よりによってその代表者であるペンローズの「超天才的理論」でニューロンの発火パターンが解明できると茂木はいうのだ。まだ、なんにも分かっていないニューロンの発火パターンを、同じように矛盾だらけの予想でしかない量子論的宇宙論で解明できると言う。
 この「量子脳宣言」は、上に述べた「クオリア宣言」とおなじように、詐欺師が出資を募る目論見書同然の中身なのである。
 茂木はホームページで養老猛司のことを弁護しているが、二人は「何にでも、脳を持ち出すノータリン」ということでは同じ仲間なのだが、タイプはまったく異なる。養老には詐欺師的なところはない。ただの無知なおじさんなのだ。それに比べ、茂木は詐欺師の雰囲気やテクニックを身につけている。むかしの大道芸の蛇屋にそっくりなのだ。何にでも効く軟膏を売るのだが、毒のないアオダイショウかなんかに自分の腕を噛ませて軟膏で治療する。噛ませるといっても、歯でひっかき傷を作るだけなのだが、それでも腕に傷跡がたくさんあって、けっこう見ていて迫力ある。まあ、それはともかく、猛毒を持つハブに噛ませて軟膏で治してみせると繰り返し、そのたびに、ハブが入っているという麻袋を持ち上げて見せるのだが、結局、ハブなんか見せずに終わってしまうのだ。(たぶん、わたしの想像では、蛇屋は沖縄では営業しなかったと思う)
 ともかく、茂木はどう言いくるめたのかSONYの出井氏を騙してクオリアブランドを立ち上げたけれど、あれって霊感商法の壺と同じじゃないか。NHKも騙されたくちだ。クオリアだから芸術の質が分かると思ったのか、思わせたのか、たぶん後者だろう、芸術番組の案内人として起用し、おそろしく貧しいレトリックを全国に流している。もっともNHKはSONYと違って、もともと茂木的なものをもっているのだから、騙されたとはいちがいに言えないのかもしれない。(「大竹伸朗(1)」参照)
 というわけで、きりがないので、茂木の『クオリア宣言』の批判はおわりにします。
 「脳を持ち出すノータリン」を忘れないように。
 それから、茂木の「クオリア・マニフェスト」にアクセスできなくなっている。おもしろかったのになぁ。(アクセスできるようになっている。改訂版かどうか読んでいないのでわかりません10月13日)

PS:クオリアの哲学上の問題は、「わたしの見ている赤とあなたが見ている赤と異なるのではないか」という方法的懐疑ではなく、「自分の見ている赤とあなたの見ている赤は同じ赤である」という原始信念(Urglaube)の問題なのだ。これは他者、歴史性、言語(コミュニケーション)、身体性の問いであり、ひいては相互主観性の問題なのである。

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2007.09.18[Tue] Post 23:58  CO:5  TB:0  和田盗作事件  Top▲

椹木野衣(1)

椹木野衣のナカグロ的思考

 だいぶ前に椹木野衣の『日本・現代・美術』の感想文を書くと約束したことをすっかり忘れていた。しかし、藤枝晃雄の「批評家としての芸術家」(芸術/批評3号)を読んで、そのことを思い出した。といっても、その約束を果たそうというのではない。
 そうではなく、そのときじつは感想文を書きかけていて、その中で、本のタイトル『日本・現代・美術』の「・」(ナカグロ)をちょっと揶揄したのだが、このナカグロのことで、なるほどと思えることが、藤枝の「批評家としての芸術家」にあったので、それを忘れないうちに書いておこうと思ったのだ。
 以下は、そのとき書きかけた『日本・現代・美術』の感想文である。 

椹木野衣の『日本・現代・美術』を読む
 読んだといっても、図書館で借りて読んだのだが、それというのも、だいぶ前に椹木野衣の「シミュレーショニズム」を読んで、その内容のお粗末なことに驚いた経験があるからだ。なにしろ、新しいアートであるらしい「シミュレーショニズム」の技法と実例をポストモダン風(?)語彙と時代背景というより風俗世相を挟みながら、えんえんと解説しているだけで、だからどうしたのかサッパリと要領を得ない書物なのだ。 
 それ以来、椹木の書いたものは避けて読まずに来たのだが、上田高弘が『モダニストの物言い』で椹木野衣の『日本・現代・美術』について触れていたので、読む気になったのだ。もちろん上田は『日本・現代・美術』を褒めているわけではなく、日本の現代美術史を扱っていながら、藤枝晃雄を無視しているのは怪しからんといっているのだが、それなら椹木が藤枝をどうやって無視しているのか、読んでみようと思ったのだ。
 読んだけれど、今度もさっぱり分からなかった。出だしからして分からない。椹木は、いきなり『日本現代美術』を三つの要素に還元すると宣言するのだが、じっさいにやっていることは、ただ「日本現代美術」という複合語を「日本」と「現代」と「美術」の三つの単語に分けているだけで、還元とは何んの関係もない。
 そして、あとは、そんなこととは関係なく、時代背景で説明したり、美術評論家や作家の言葉を引用したりしながら、キャッチフレーズをちりばめて、「逆に言えば、逆に見れば」と、全然逆になっていないレトリック振り回す。ところどころ、ウガチ(あるいはウガチ過ぎ)などがあって、ディレッタントには楽しめるのかもしれない。
 上田高弘は椹木のレトリックを褒めているが、本当にそう思っているのだろうか。それとも、美術ジャーナリズムの権威(?)におもねっているだけなのだろうか。
 さて、そういうわけで、私の日本現代美術史に対する無知と相まって、あまりはっきりしたことは言えないが、『日本・現代・美術』は藤枝晃雄というよりクレメント・グリーンバーグ以降のアメリカの抽象画を無視しているのだ。
 グリーンバーグ、あるいは、抽象表現主義は美術(fine art)の領域にとどまっていた。しかし、グリーンバーグのそれを否定することから始まったポップ・アートを擁護する椹木は、当然グリーバーグや藤枝を無視することになる。

 というところまで書いたのだが、何の分析にも感想にもなっていない。最後の方はしどろもどろになっていて、僕自身がグリーンバーグもフォーマリズムも理解していないのが見え見えで、結局なぜ椹木が藤枝を無視したのか分からずに、途中で、ほっぽり出してしまったのだ。
 その理由が、藤枝の「批評家としての芸術家」を読んで判ったというなら、面白いのだが、そうではなく、ただ、藤枝が椹木の岡本太郎論『黒い太陽と赤いカニ』の中にあるナカグロ的思考を批判しているところがあって、それがわたしには痛快だったということだけなんだ。(大騒ぎしてすみません)
 藤枝は岡本太郎の対極主義について書いている。対極主義というのは、合理性と非合理性の二つの極の対立のことで、当時、岡本が滞在していたパリの美術界に「抽象とシュルレアリスムの愛憎関係」があったため、合理性は抽象、非合理はシュルレアリスムに当てはめて考えるという困った芸術の見方が生まれてしまった。
 そして、この誤った対極主義の図式で椹木は抽象表現主義を解釈する。まず、抽象表現主義を抽象と表現の二つに分断(還元?)して、抽象を幾何学的抽象に、表現をシュルレアリスムに置き換えて、二元論的に解釈する。そして、この二元論的「抽象・表現」主義は、抽象芸術とシュルレアリスムを統合してヨーロッパに対抗しようという、文化的後進国のアメリカの戦略だったというのだ。なんでもかんでも東西冷戦や湾岸戦争、それから五十五年体制を持ち出すのは椹木の十八番なのだが、この「『抽象・表現』主義」というナカグロで区切った表記が椹木自身のものかどうかは判らない。藤枝が抽象表現主義をAbstract Expressionismではなく、Abstraction Expressionismとする間違った二元論的見方を示すために、後者の日本語訳として、藤枝自身が「抽象・表現」主義とナカグロを入れて表記したのかもしれない。それならそれで返って興味深いし、どちらにしろ、藤枝が椹木のナカグロ的思考を指摘し、批判していることに変わりはない。
 この二元論的な図式に対する藤枝の批判はここで詳しくは述べない(ポストモダンが非難している抽象は幾何学的抽象であって、抽象表現主義にはあてはまらないと、いつものように藤枝はくりかえし述べている)。そのかわり、椹木のナカグロ的思考について面白ことが書いてあるので、それについて書く。以下、藤枝の「批評家としての芸術家」の注(12)からの引用。

 「椹木が抽象=抽象、表現=シュルレアリスムとするのは誤りであって、この対立する語を結びつけた名称に矛盾があると見なすのは無意味である。」

 文中の「矛盾があると見なす」の主語はもちろん椹木だろうが、それを藤枝は無意味だと喝破している。無意味なのはあたりまえだ。椹木は還元するなんていうが、ただ前の名詞が後の名詞を形容しているだけの複合語を勝手にナカグロを付けて二つに分けて、それを矛盾だとか、逆に言えばとか、一人で勝手に騒いでいるだけで、そこには二項対立も弁証法ももちろんありはしない。
 椹木の『日本・現代・美術』の書評をいくつか読んだ中に、表題の「・」ナカグロを、日本が「悪い場所」であることを的確に表していると言って、賞賛していたものがあったけれど、ホントかいなと疑ったが、自信はなかった。しかし、藤枝晃雄の「無意味である」という言葉を聞いてすっきりした。この断言は「抽象・表現」のナカグロだけではなく、『日本・現代・美術』のナカグロを含めて、椹木のナカグロ的思考は全部無意味であると勝手に拡大して受け取ることにする。
 それにしても、藤枝の罵詈雑言が出てこないので少し寂しい気がしたのだが、同じ注(12)を注意して読むと、罵詈雑言どころかもっと酷いことが書いてある。

 「椹木は、ニューヨーク近代美術館の当の動向の展示室にいっても抽象芸術とシュルレアリスムが一つの画面のなかに「統合」された作品は見当たらないという。当然である。」
 
 「無意味である」の次が「当然である」とは、藤枝晃雄も厳しいなぁ。とにかく、これは椹木が自分の美術評論家としての鋭さを自慢するつもりで書いたのだろうが、あに図らんや、藤枝が「抽象・表現」の誤りをさんざん指摘したのを読んだあとでは、鋭さどころか椹木の間抜けな姿が彷彿として、    滑稽を通り過ぎて悲惨な感じがする。絵がちっともわかっていないことがばれちゃったのだから、ふつうなら評論家生命が絶たれるところだが、まあ、例によって例のごとくなのだろう。それにしても、椹木は、「抽象・表現」というナカグロ以前は、抽象表現主義の絵をどんな風に見ていたのだろう。たぶん椹木は抽象表現主義だけではなく、絵というものをまったく理解できないのではないか。理解できないから、あるいは楽しめないから、むしろ自由自在に、生半可な知識を駆使したレトリックが展開できるのではないか。
 なんとなく、椹木が藤枝を無視した理由が判ってきたようなきがする。

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2007.05.11[Fri] Post 00:53  CO:0  TB:0  和田盗作事件  Top▲

「LR Returns」

エルアールからの依頼
 ひと月ほど前に、エルアールという雑誌の編集長から、和田事件の顛末特集をするから「ART TOUCH」の記事を転載させて欲しいという依頼がコメント欄を通してあった。エルアールは初めて聞く名前だし、第一、《Elle Art》なんて女性誌みたいな名前が怪しいと、ひとまず、予約購読の申し込みページにアクセスして、バックナンバーの目次を見ると、名前を知っている人も寄稿していて、そんな怪しい雑誌ではないことは判ったが、そんなことより、私のブログを転載したいというその魂胆がわからない。わたしのブログは美術界の悪口ばかり書いてある。なにか企みがあるに違いないとおもいながら、エルアールがローマ字でLRと書くことを知って、確かどこかで見たことがあるのだが、思い出せない。そういえば、上田高弘が商業誌に書かせてもらえなくなって、マイナーな雑誌ばかりに書いていると言っていたっけと「モダニストの物言い」を探したら、ありました。だいぶ以前(「LRreturns」ではなく「LR」の時代)にLR誌上でジェンダー論争があって、それに上田が例によってモダニストとして物言いをつけたのだが、その経緯を書いた「美術史の娘(たち)へ」が収録されていた。その中味はともかく、わたしは美術展評を始めるにあたって、ポモ(山形浩生氏の用語)とジェンダー(これもポモ?)には関わらないと決めていたので、ジェンダー論争で盛り上がっているLRには好感がもてない。そもそもLRの編集方針がわからない。ただ論争をあおって面白がっているだけではないか。そんなところに素人の議論を載せて、また、高見の見物をするつもりではないかと疑えばきりがない。
 ともかく、ふだん「素人は黙れ」とか「2ちゃんねるに行け」(もう行っています)と罵られている身からすれば、マイナーな業界誌といえども、一度ぐらい活字(ネットより活字が高級とは思っていません)になっておくのも悪くない。それに「ART TOUCH」の宣伝になれば、こんなありがたいことはない。
 ただ、以前、カメラ雑誌に一年間写真集の批評を書いたことがあり、そのときは「書かせてやる」「書かせて頂く」の関係で、あまりよい印象を受けなかったので、今回、もしいやなことがあれば、すぐにやめるつもりで、転載を承諾した。
 それから一ヶ月、特輯での私の位置づけは何かとか、たんなる和田ウォッチャーに思われたくないとか、和田事件に直接関係ないけれど、あれも載せたいこれも載せたいと無理難題を快く受け入れてもらい、いやなこともなく無事最終稿ができあがった。
 ブログから転載したもののほか、後書きとして「和田事件始末(最終回)」も書いた。和田事件がどうもよく分からないという方はどうぞ「LR Returns」10号を読んで下さい。LR編集部がまとめた「ドキュメント・和田義彦氏盗作疑惑事件」を読めばきっと頭がすっきりします。3月発売予定です。購読の申し込みはここに!
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2007.02.22[Thu] Post 01:29  CO:0  TB:0  和田盗作事件  Top▲

和田事件始末4

和田事件始末4(美術手帖8月号)

美術手帖8月号に「和田盗作問題を考える」の記事
少し遅いが、月刊誌の編集上しかたないのだろう。そのかわり、この問題を一画家のモラルの問題とせず、美術評価システムが機能不全に陥った責任を、美術界や国に問うている。
 執筆者は椹木野衣東谷隆司である。

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2006.07.23[Sun] Post 00:09  CO:1  TB:0  和田盗作事件  Top▲

和田事件始末3

和田事件始末3(美術商から美術界を覗く)

 これはYAHOOブログから写したものです。

ヤフーブログに美術商の「丁稚小僧の独り言」という面白いブログがある。
面白いと言っても、書いてある内容が面白いということではなく、そこから美術界をが窺えて面白いということだ。
 丁稚の日記だが、ウブなわけではない。騙されてはいけない。http://blogs.yahoo.co.jp/detchi_dong

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2006.07.08[Sat] Post 02:42  CO:0  TB:0  和田盗作事件  Top▲

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